額の下の畳を小さな足が揺らした。
「水木、水木!お客さん通していい?!」
来客を対応してくれた鬼太郎が、いつになく慌てて居間に飛び込んできて開口一番に、そう言った。
「ん、まぁ、構わないよ…親父さん、垢嘗め、震々、悪いんだが…寝室の方に移動してくれないか?」
「構わんよ」「べるるん」「…はぃ…」
文句一つ言わずに、足早に移動を終えてくれた三人を見届けて俺は台所へ向かう。
「鬼太郎、俺は茶を淹れてくるから…少し、頼めるか?」
「え、あ、うん、はい。もちろん」
「悪いな…」
……しかし……誰が来たのだろうか?
お盆に幾つかの茶碗に温めの茶を淹れた急須、そして近所の妖怪と野郎二人で切り盛りしている菓子屋の目玉商品である冷えた羊羹を載せて、居間へと舞い戻る。
「……おや…」
居間に戻ってみれば、卓袱台を挟んで…鬼太郎と…可愛らしい少女が歓談していた。
我が家に人間のお客さんが来るなんて随分と久しぶりである。
本当に、随分と。
「どうも、いらっしゃい」
なるべく、優しげな響きになる様に小さなお客さんに声をかけた。
「あ、どうも。お邪魔いたしております……水木さん…ですね?」
少女は深くお辞儀をしながら挨拶をし、俺の名を呼んだ。
なんとも礼儀正しい少女だ。
「ええ、そうです」
返答をしながら卓袱台の上へと茶を広げる。
「本日、お邪魔させていただいたのは伝言の為でございます」
「ほぅ…ほぅ?………失礼ながら…お嬢さんは」
「私、寝子といいます」
「あぁ、寝子さん。寝子さんは、その、いや、寝子さんのお婆様は…鼠と
少しねずさんの話とは違うが、今この瞬間の伝言ならば…それしかないのだろう。
「?鼠ですか…?うぅん…まぁ…嫌いではないと思いますけど…あのぅ…それがどうしたのでしょうか?」
あ。こりゃ、違うな。違う。
少なくとも…この子は何一つ不可思議を知らないのだろう。
「……あ、アハハハ。ほんの冗談だ。アハハ」
何を言っているんだ。俺は。誤魔化すにしても。
「はぁ…そうですか……?」
「水木はね、冗談が下手なんだ。寝子さん。気にしないで」
「そうなの、鬼太郎君」
「そうなの、寝子さん」
ありがたい援護だよ。鬼太郎!
……それにしても仲を深めるのが早いな。
「…あー、いやぁ失礼した、寝子さん。それで、伝言を伺っても宜しいかな?」
「いえいえ、失礼なんてとんでもないです……はい。お婆様からの伝言なのですが、とても簡素な物でして……
何故。
何だ。何を。何故。
一体何なんだ。この話は。三文芝居の脚本でもあるまい。
こんなに繋がるなんて、ありえねぇだろうが。
「あの、水木さん…この伝言は何を意味為すのでしょうか?」
「…………………」
「水木さん…?」
「……………」
「水木ぃ?」
「……あ…すまん…鬼太郎…親父とちょっと話してくるから…寝子さんとお茶をしててくれないか」「喜んで。さ、寝子さん。このお菓子は美味しいよぉ」「あ、えぇ、いただきます」
寝室の親父を手に乗せて、俺は外のベンチへ。
「どう思うよ」
今回の手掛かりである伝言の内容を伝え、親父の考えを聞く。
「どうもこうも。なんじゃそりゃ」
「俺もそう思う。
「……こんな、とは何じゃ」
………昨日から…抽象的な会話ばかり。
あれそれ、これどれ…何遍言えば良いのだ。
はっきりしねぇ状況に対して、酷く苛ついていた。
「ま、どうどう。煙草でも吸って落ち着け」
「あぁ…親父さんは?」
「儂はいいわ」
「そうか」
脳の清涼剤を深く吸い込んで、喉につっかえた言い様の無い不快感を掻き消す様に努めた。
そんな簡単に消える物ではなかったが。
「行けば逢える、その理解でいいのか…」
「そうじゃろうな。それ以外の解釈も出来なかろう」
「漸く掴んだ情報。その提供者の自宅にかよ」
「手間が省けて良いではないか」
「都合が良すぎて…あぁ、言葉を選ばないぜ。ムカつくんだよ」
「フ、ハハハハ!気持ちは分かる。まるで誰かが操作している様な流れではあるな。だが、水木。水木さんや。今一度思い出せ」
「何をだ」
「貴方が追っているモノは何ぞや。人間ではあるまい。動物ではあるまい。生物ではあるまい。妖怪じゃぞ?」
「そんな事は分かっているよ」
「分かっているならば、分からない事も呑み込んで然るべきじゃよ。常識の埒外が連続し続けて生きるモノ。あり得ないから起こり得るモノ。妖怪。目の前の事実に対して…深く気にした所で答えなんてものはなくて当たり前なんじゃから」
「………んん…っんん……なぁんか、まどろっこしいなぁ」
「ありのまま。そのまま事を成せ。コツコツとな」
……………………そう……するしか…ない、のか。
「……はいよ。よく分かった。全く…出来の悪い頭を使い過ぎたのかも知れねぇな……吹っ切るよ。行動あるのみ。さっさと人面犬の面を拝むとしよう。親父さん」
「うん。それがよかろう。鼠と仲の良い婆様にもお会いしたいしのぅ」
間違いなく俺以上に頭を回している親父に諭され、違和感をドブに捨てる事にした俺は、もう一本煙草を吸い切ってからお客人の元へと戻る事にした。
なんとも和やかにお茶を楽しんでいる小さな二人を邪魔するのだけは気が引けたが…頃合いを見て居間へと入った。
「やぁ、失礼した……寝子さん。早速で悪いのですが、お婆様の家まで案内をお願い出来ますか?」
気の利かない朴念仁を演じる。
「それは勿論です。それに、ですね。お婆様とは同居しております故、私の家でもあります。ですので、お気になさらず」
「そう、でしたか。それでも助かります」
「あの、それで…あの、是非お聞きしたいのですが……家に今夜…何が来ると言うのでしょう?」
当然の質問だ。
……………どう、する。
僅かな怯えの見える瞳に覗かれてしまえば、正直に答えるのも…。
「えぇとねぇ、迷い犬を探しているんだよ。僕達」
またまた鬼太郎が助け船を出してくれた。
…………もう、俺より、立派なお人です。鬼太郎。
「犬?わんちゃんが如何して私の家に?如何して今夜来るのが分かるのかしら?」
また当然の質問。
そりゃ、今は午後三時を過ぎたばかり。伝言の内容はどうしたって、未来予知だ。
「一等美味しい餌を置いた……確かそんな作戦だったよねぇ、水木」
鬼太郎さん。
「そ、そう。そうなのです。お婆様に協力していただいて……寝子さんにもご相談しなかったのは自分の不得の致すところであります」
「まぁ、そう、なのですね……一言欲しかったのは正直なところですけど…この不満は、おばあちゃんにちゃあんと言いますので!水木さんが謝る事はないですよ」
寝子さんは気遣いの言葉と共に、年相応の弾ける笑顔を見せてくれた。
寝子さんのご自宅は同じ蛙町。その一等地においても特に目立つ趣のある日本家屋であった。
通りに面した総二階の家屋の玄関先には“ねこや”と記された大きな洋燈があり、曇った硝子が暮れつつある陽を反射していた。中の蝋燭は、まだ火は灯ってはいない……いや、鉄製の傘の下に蜘蛛の巣がかかっているところを見れば…長らく使用されてはいないのだろう。
ねこや、と言う名前。
俺は…店名を…そして何処にあるのかさえ知っていた。
両親も俺も、この店には縁がなかった為、世話になる事はなかったが。
それでも、この小さな町では有名な店であった。
格別の三味線を取り扱う店、として。
……三味線を触れる機会すらない俺ですら、この店の一品が特に上等である事を知っていたし、また
真偽の程は分からないが、稀に余りにも精巧な猫のお面が店頭に並んでいる……そんな話もガキの頃に何度か耳にした。
子供には衝撃の強い事実と噂を耳にタコが出来るまで聞いてしまっていたので…何年経とうとも…この付近には自然と足が向かなかった。
風の噂では…ねこやの一家は…不幸があり、離散した…と聞いていた。
てっきり廃墟と化していると思い込んでいたのだが、どうやら真相は違った様だ。
しかし……。
一体何を考えて、ねこや、なんて名乗ったのだろうか。
そして、娘の名を…。
……やめよう。
踏み込み過ぎだ。
「どうぞ、お上りください」
「…失礼します」
初めて…噂の屋敷に足を踏み入れた。
「失礼します」
余計な情報を知らない鬼太郎は平時と変わらぬ礼儀さで、続いた。
………立派な日本家屋の中は隅々まで掃除がされていた、が……それが却って家中の寂しさを強調している様に思えた。
寝子さんに案内され長く暗い廊下を進んで……二人だけで過ごすには広すぎる広間へ通される。甘く見積もっても三十畳はある大広間に。
「少し、お婆さんの様子を見てきますので、お待ち下さい」
寝子さんの表情が僅かに哀しみを帯びていたので……思わず、声が出る。
「……お加減が…よろしくないのでしょうか……?」
「あ、そんな、深刻な訳ではありません……歳が歳ですので…身支度が出来次第、会えますよ」
「…そうですか。もしも、ご無理なされる様でありましたら…事は自分達だけで運びますので…」
何がどうであれ、その腹積りではある。
可能ならば、避難しておいて欲しい気持ちも…ある。
「いえ、是非お会いになって下さい」
寝子さんのお茶のもてなしは丁重にお断りをさせていただき…広間にて、その時を待った。
「お待たせしました。どうぞ、此方に」
居間の奥。開かれた襖の向こうで正座をした寝子さんが俺達を呼んだ。
其処に件のお婆様がいるのだろう。
「寝子や。ねぇこぉやぁ。今日は暑いねぇ」
酷く響く声が聴こえた。
「そぉ?」
寝子さんが答える。
つまりは、この声の主はお婆様か。
「今日は暑いねぇ」
「そうね」
「暑いからねぇ…氷を買ってきてくれないかねぇ」
「なんで、氷を?」
「買ってきぃてくれないかねぇ」
「…?」
「買ってきてくれるねぇえ」
「はいはい、わかりました。お婆ちゃん!わかったから!お客さんに会って下さい」
「買ってきなさぁあいよぉ」
「もう!すぅぐ、これなんだから。失礼をしないでよ!お婆ちゃん!」
「いってらぁしゃい」
………変な調子の方だな。
「ごめんなさい。水木さん。お婆ちゃん、こう…言い出すと聞かないものですから…私、直ぐに戻ってきますので、お婆様とお話しなさって下さい。それで、その…要領を得ないと思いましたら、無視しても結構ですから」
「分かりました。お相手させていただきます。どうか、お気になさらずに…寝子さん」
「助かります」
もう、もう、と、可愛らしい牛の様に呟きながら寝子さんは外へと出て行った。
「失礼しております。伝言を受け取った水木、という者です」
居室の外から屋敷の主人へと声をかける。
「どぉうぞぉ」
延々と響く声を聞き終えてから、居室に入った。
部屋は六畳の和室。
四方を襖に囲まれているのだが、その襖には墨で…猫が、猫ばかりが、何匹も何十匹も描かれていた。
襖の猫の表情は全て気味の悪い薄笑い。
とても猫のする貌とは思えないもので……人間の様な。
………………。
……………………。
…………………………そんな部屋に。
そんな部屋の中に布団が一枚に行燈が一つあり。
布団の上にいる
お婆様。そう呼ばれている方。だが、寝子さんの実の祖母ではない様だ。
義理……俺と同じ様に。そして、真逆でもある。
………それとも…あの、いたいけな少女を化かしているのだろうか。
「おぉうぅ、よぉくぅきたぁねぇ」
ふかふかの布団の上に
四つ足を畳んでじっとしたままに、尖った鼻と色が抜けつつある眼球を向け、毛に埋もれた口をフガフガ、と動かした。
「いまぁ、寝子がぁ、うちのぉこぉがぁ、うちのべっぴんさあんが、冷たいのを用意してますからぁねぇ、氷をぉ買いにいってくれましたからぁねぇ、お待ちになっとくれぇ。すぐに、すぅぐ用意してくれまぁすのでぇ」
冗長な言葉ではあったが薄っぺらな口先には聴こえず、お婆様も寝子さんを大事に思っている事は理解出来た。
それはそれで疑問も増える。
「あー…と、その…失礼ですが、お婆様は…」
鬼太郎と共に大鼠のお婆様の前に正座をしながら、話しかける。
「そぉなのです…足を悪ぅしとりまして…布団の上でぇ申し訳ありまぁせん」
「それはそれは、どうかどうかお気になさらず…」
やはりお会いするのは止めた方がよかったか…恥を掻かせる気なんて、これっぽっちも…………で、はなく…いや、それもあるが…。
……ふむ……ならば。
「……改めて自己紹介をさせていただきます」
単刀直入、それが一番の近道であろう。
「私の名は水木。これといった取り柄のない人間の男であります。しかしながら合縁奇縁に巡り逢いまして、今は…ある一族の男の友であり、その息子の義父であります。ここ一年、様々な妖怪の方々にもよくしてもらっています。お婆様、その上で、お聞きしたい義があります」
「貴方の
「ほぅほぅほぅ、そぅーかえ。そうかえ。い、ひっひっひっ、なんとも綺麗な顔の人だねぇ」
なにを言ってんだろう、このお婆様。
「うん、うん。水木さぁん、わかった。解ったよ。私の、婆の名は」
「『旧鼠』。あの
お婆様、『旧鼠』の貌を照らす灯が、今、燃え尽きて、薄ぼんやりとした会話は終了した。
「あぁ…あぁーー!スッキリしたぁ!いい加減にしなくちゃあ、いけなかったねぇ!!あん
名乗った所で、急にお婆様の弁舌の切れ味が増した。
中々に元気の良い婆様なことだ。
「まさか、あんの八九三な小僧の頼みが己を救うとは……人生は分からないものだ。ねぇ、水木さぁん!」
小僧が誰とは、答えは分かっている。
「調子が良くなってきましたね。旧鼠さん」
「お陰様でね。さて、さて、さぁて、ほれ!坊やにその目玉!私が何年振りかに名乗ったのだからねぇ、アンタ達の名も聞きたい所だよぉ!」
隣で正座をしている鬼太郎に漸く注目した、旧鼠さん。
部屋に入ってから、ずっと目を輝かせていた鬼太郎が元気よく挨拶をする。
「鬼太郎です。もう一歳になりました!」
もう、ではないぞ。
「…鬼太郎の父親の一人。目玉の親父じゃ。宜しくな、旧鼠さん!」
鬼太郎の顔面から這いずり出ながら、手を上げて挨拶する目玉。
「……本当に目玉が生きているよ、こっわ」
分かってて、そう言わないで下さい。旧鼠さん。
「『旧鼠』。語り通りの在り方を、通すとは。見上げた妖怪じゃなぁ、貴方は」
「そうかえ!……いや、目玉に成り果てている父親に言われても嫌味にしか聴こえぇん!」
「なぁにを!そんな事はありゃせんよ!実の子じゃもん。当たり前じゃもん」
この親父は時折、巫山戯た言葉を吐く。
……なんの影響受けてんだ、この人。
「ねぇねぇ、お婆さん、ちょっとだけ撫でていいかな?」
あの豆狸とは違うと思うのだが、鬼太郎さんや。
「ダメだよ!鬼太郎坊や、この目玉のおっ父に教えてられてないのかね?淑女は簡単に触れれるものじゃあないって事を」
「ううん」
「ナニ!?これ、目玉殿!いかんじゃないか!最近のまなーを教えておらんのかいな!」
「恋や愛は臆するな、としか伝えておらん」
「ちゃんと教えなさいや!一から!」
「いや、まだ早いですよ」
なんの会話にぶっ飛んでんだ。
「旧鼠さん」
「分かってるよ。分かってるからそんな目で見ないでとくれ…照れちまうよ」
なんでだ。
「事の次第を明かす、その前に…忘れていた宿題を終えなくちゃあいけなくてねぇ……ちょいと、お三人。良いと言うまで目を瞑ってくれないかね」
「?はい」
「はぁい」
「うむ」
俺達は疑問を口にする事無く、即座に視界を閉じた。
「ひ、ひひひひひひひひひひひひひひひひきひゃひゃひゃひゃっひゃっ」
旧鼠さんが怪しく恐ろしく嗤った、と思えば……ぐちゃぐちゃめきゃめきゃぐちゅぐちゅぐきゅぐきゅつぷり……等という音が…何か、とても、愉快ではない…音だけが、部屋中に巻き起こった。
「も、いいよぉ」
目を開く。
旧鼠さんの姿には何も変わりは無かった。
「……早食いじゃなぁ」
親父がさらり、と一言呟く。
食う…って……。
「あら」
鬼太郎の視線を辿った先には……
「ひひひ、ご馳走様」