姫榊 花奏side
「……姫榊さん、あなたは……耳が聞こえていないですよね?」
思考が全て停止した。
後藤さんは……何と言った?
「練習曲作品10第3番ホ長調『別れの曲』。
……あの日、姫榊さんが演奏していた曲です」
これに入っているのは、と後藤さんはポータブルオーディオプレイヤーを指差す。
「思い返したら、何もかもがおかしいんです。
最初に会った時、私を無視する気があったのなら……『どうだった?』なんて聞かない。
私たちを無視するつもりだったら『げろっぱ』なんて茶化したりしない」
そして……
「私たちと音を合わせる時、リズムが合わないのは……私たちの手元を目視で確認しながら演奏しているから……そうですよね……?」
返す言葉が見つからない。
後藤さんの言っている事は……正しい。
そうだ、私は言葉を話せないだけじゃない。
『最初から気付いてたんだ』
「あっ、いえ……違和感を覚えたのは、最初にスタ練で私たちの演奏を見せた時で……。
……なんで、音を聞くよりも、私たちの手元を見ることに集中してるのかな……って……」
他人の視線には敏感な方なので……と苦笑いを浮かべる。
『後藤さんの言う通りだよ。私は音を発せられないし音を聞き取れない』
もう、隠し通せはしない。
『失望した?』
「……そんな事で、あなたを拒んだりしません。他の人たちも……喜多ちゃんや虹夏ちゃんやリョウさんだって、同じはずです。
あなたが音楽に直向きになのは……演奏を聞いていれば、分かります……から……」
やっぱり後藤さんは優しい。
他人の痛みを分かってあげられる……そんな人だ。
……それに甘えていいのだろうか?
『でも迷惑をかけてる』
「迷惑なんかじゃ、ありません……!」
後藤さんが力強い眼差しで、こっちの視線を捉える。
「私たち……とっ、友達じゃないですか……私は、姫榊さんと……もっと、一緒にいたいんです……みんなで、一緒に……いたい、から……」
後藤さんはそう言って視線を外して俯く。
私は……私も……
『あなた達と一緒にいたい』
それが私の、心からの気持ち。
後藤さんのお母様に呼ばれ、昼食を頂いた。
後藤さんの両親も、後藤さんと同じように優しそうな人たち……って印象を受けた。
『少し羨ましいな』
えっ? と素っ頓狂な表情になる後藤さん。
今は昼食を摂った後で、二人で寛いでいるところだ。
『両親と一緒にご飯食べたことってなかったから』
気不味そうに言葉を濁す様が、ちょっとだけ面白い。
「姫榊さんの、両親って……その……」
『お父様もお母様も、お仕事で海外にいる』
別に死別してるわけではない。
お父様もお母様も、私の事を愛してくれているのは知っている。
それでも、寂しくない……って言ったら嘘になるけど、私にはピアノがあったから辛くはなかった。
それに、カスミという────も居たから。
自分の置かれている環境が、一般家庭から大きく乖離しているのは幼い時から理解していた。
だからと言って、それを恨んだり妬んだ事はなかった。
年に1、2回しか会えなくても……両親には感謝している。
お父様とお母様がいなければ、私も……カスミも、どうなっていたか。
チェーンを通して、ネックレスに仕立て上げた指輪を手のひらに乗せて想いを馳せる。
唯一の、思い出の品。
学校では流石に身につけられないから、鞄の中に仕舞ってあるけど……休日の時は、こうして身につけてる。
「あの……そのネックレスって、親からもらった物ですか……?」
『カスミからもらった物』
驚いた表情を浮かべる後藤さん。
この人、本当に表情豊かだな。
『8歳の誕生日にくれたの。もうサイズが合わなくて指にはめられないから、こうしてネックレスにして身につけてる』
ネックレスを外して、差し出す。
後藤さんは古ぼけた指輪を手に取り、眺める。
「子供用にしたって、指輪にしては……小さくない、ですか……?」
『ピンキーリングだからね』
「ぴっ、ピンキーリング……?」
『小指用の指輪』
「なっ、なるほど……」
ネックレスを返してもらい、再び首にかける。
安物でも、私にとってはかけがえのない品物。
「……白雪さんは、姫榊さんにとって本当に大切な人……なんですね」
私は何も言わずに、後藤さんに視線を向けた。
「……やっぱり、良くない……と思います。大切に思っているなら……ちゃんと、仲直りしないと……」
後藤さんの気持ちは、分かる。
それでも……
『いいの、私の側にあの子の幸せはないから』
後藤さんは黙って俯いた。
沈黙が二人の間を支配する。
静寂を破ったのは、後藤さんの方からだった。
「……姫榊さんと、行きたいところがあるんです」
後藤さんに連れられてやってきたのは金沢八景駅の近くだった。
買い物でもしたいのだろうか?
まあ、駅前や駅中はお店がいっぱいあるし……。
そんな風に巡っていた思考は、1つの光景を目の当たりにした瞬間、一気に吹き飛んだ。
簡易的だが……ライブの機材がそこに設置してあった。
誰かがここで路上ライブでもやるのだろうか?
後藤さんは、それを見せたくて私を連れて来たのだろうか?
「おー、来たねぼっちちゃん!」
簡易ステージの前で女性がこちらに向けて大きく手を振っているのが見えた。
ぼっち……後藤さんのあだ名だ。
という事は、後藤さんの知り合い?
「こっ、こんにちは、お姉さん……今日は無茶なお願いに協力していただいて、ありがとうございますっ……」
後藤さんが頭を下げた。
この状況は、後藤さんが用意したもの?
何の為に?
……後藤さんが、これからここでライブをするのか?
それにしては、違和感がある。
だって……
「キミがぼっちちゃんの言ってた子だねー、準備は出来てるから」
酒くさっ。
……この人、どこかで見たことある。
……ああ、文化祭の時にこんな人、居たな……。
いや、今はそんな事はどうでもいい。
『後藤さん、どういうこと?』
何故、キーボードがそこに設置してあるのか。
「わ、私と……姫榊さんの、二人で……路上ライブ、しましょう……!」
正気なのか、この人は……?
「……………………」
「……………………」
二つの視線がぶつかり合う。
後藤さんの目は、真剣そのものだ。
なら、私が取る行動は1つしかない。
『最高のライブにしよう』
ここまでお膳立てされて引き下がるようじゃ、前に進めない。
人が疎らに集まってくる。
こんなの、いやでも目立つ。
横目で後藤さんを伺う。
「私の手元は見ないで、したいように演奏して」
後藤さんの唇がそう動いた。
本気なのか?
そんな事をしたら、めちゃくちゃなリズムになる。
「大丈夫、私がサポートするから」
この人は、本気だ。
なら……この「賭け」に乗ってやろう。
あとはどうにでもなれ、ケ・セラ・セラ。
鍵盤に指先が触れる。
いつものように……実感の湧かない旋律を奏でる。
額に伝わる汗なんて、気にしない。
今はただ、この音をみんなに届けよう。
ふと、あの時の……1年前に見た光景が脳裏に浮かぶ。
結束バンド。
あの時……聞こえないはずなのに、私には確かに聞こえた。
彼女たちの音が……聞こえたんだ。
刹那、意識がクリアになる。
思考は真っ白なのに……指先が滑らかに動く。
あの時と同じだ。
あの時感じた熱と重さが、私に触れてきた。
聞こえる。
後藤さんの奏でるギターの音色が……はっきりと聞こえてくる。
胸の鼓動が高まる。
楽しい。
誰かと演奏するのって……こんなにも楽しかったんだ。
合わせてもらってばっかりじゃあ、つまらない。
今度は……こっちが引っ張る番。
演奏が終わる。
心の中にあるのは、充実感だけ。
送られてくる拍手の音が心地よい。
次第に、音の世界が閉じていく。
あの時の……あの音と熱と重さが、一時の……泡沫の夢だったとしても、構わない。
私たちの音は、そこに確かにあったのだから。
『ありがとう、後藤さん。楽しかった』
片付けが終わり、後藤さんと並んでベンチに座る。
「い、いえ……そんな……でも、私も……たっ、楽しかった……です」
汗を拭い、深く息をする。
『こんな風に人前で演奏するなら、ドレス持って来ればよかった』
「えっ……?」
「お疲れ様!」
お酒を持った女性が私たちの肩を叩いてきた。
この人、めっちゃお酒飲むな。
「あ……お姉さん、今日は本当にありがとうございました……」
私も後藤さんにつられて頭を下げる。
よくわからないが、この人が準備をしてくれていたのは確かなのだろう。
「いいっていいって、可愛い後輩の為だからね。それに、いいもんを聞かせてもらったし」
なんだかんだ、いい人なんだろう。
酒くさいけど。
「キーボードのキミ!」
私……?
なにかやらかしたか……?
「……自分の音を見つけなよ! きっとキミならできる!」
この人……気付いてる?
「あの!」
思考の海を泳いでいると、二人組の女性が話しかけてきた。
多分……大学生ぐらい?
「ひとりちゃんと一緒に演奏してた、ってことは結束バンドに新しく入る人ですか?」
えっ……?
いや、違うけど……?
「あ、はい……今度のライブから、加わる事になってます……」
否定しようとするより先に、隣に座っていた後藤さんがそう口走る。
待って、私ただ一緒に練習してるだけの部外者だからね?
「そうなんだ〜、今度のライブ楽しみにしてるね!」
待って、違うの。
「なんだ、それならそうと言ってよぼっちちゃん!」
酒くさい人も勘違いしてるじゃんか。
「……そういうわけですので、これから……よっ、よろしくお願いしますね……?」
……やっぱりこの人、ヤバイ人だって。