中立から内側へ 健全版 作:シオリスキー
「お? おおー!」
風呂に入るなり、アキラが声を上げる。
「い、如何されましたか!?」
それは大して親しくない者であろうと伝わるくらいに歓喜に満ちた声だったのだが、不安に駆られていたシオリは気付けない。
慌ててアキラの傍へ駆け寄り、状態を確認しようとする。
「何か凄い、何か凄いぞ!」
それが杞憂だと少し遅れて気付けたのは状態を確認するまでもなく、はしゃいだ様子のアキラの声が聞こえてきたからだ。
「お喜び頂けているようで、招待した側としては大変嬉しく思います」
シオリは、ほっと胸を撫で下ろし。
楽しんでくれているアキラの姿が本当に嬉しくて、無意識に笑顔を零す。
「ほら、シオリも確かめてくれ! 何かこう、本当に凄いぞ!」
既にシオリも湯の中に居るのだが、アキラは自分の喜びを分かち合いたいとばかりに声を張り上げる。
事実、確かに凄かったのだ。
お湯の温度は少し高いと感じてしまうくらいに熱く、それだけなら決して心地良いなんて、お世辞にも思えない筈。
それなのに熱さで感じる筈の苦痛が一切なく、お湯に溶けてしまいそうな心地良さだけがある。
これはお湯の中に溶かされた回復薬の成分が苦痛を和らげているから起きる現象であり、ただお湯の温度や水質を保つだけでは、この感覚は生み出せない。
他にも気分を落ち着かせる効能を持った香成分がお湯に含まれているのも入浴効果を更に高めているのだが――
アキラには、それ等を言語化して伝える能力はない。
とにかく感動して、凄い凄いと連呼する事しか出来なかった。
「ええ、凄いですね」
シオリは微笑んで、アキラの言葉を本心から肯定する。
温泉自体は、正直言えばシオリとしては特に何かを感じるようなものではない。
このくらいの風呂には慣れていて、今更、感動を覚えるような事なんてないからだ。
(こんなにお喜び頂けるとは、さすがお嬢様。私では、どう頑張ってもアキラ様をここまで喜ばせる提案は出来なかったでしょう)
シオリが感動したのは、想像もしてなかった程にアキラが喜んでくれている事。
それもレイナの発案で喜んでくれたという事が、シオリにとっては何よりも喜ばしい事であった。
「お嬢様からお聞きしていましたが、本当に入浴がお好きなのですね」
ちゃんとアキラを喜ばせる事が出来ている。
ようやく少し安心感を覚えたシオリは――
不安から来ていた極度の緊張状態から解かれ、今日初めてとなる使命感とは関係ない普通の会話をアキラに振る事が出来た。
「ああ。だから本当に感謝してる。こんな良い場所に連れて来てくれて」
それ以上、会話は続かない。
「……」
二人の間に沈黙が生まれるが、それでアキラは気にした様子はない。
むしろ入浴を最大限満喫出来ているようで、お湯の中に溶けてしまいたいとでもいった様子で寛いだ姿を見せている。
(感謝しているのは、こちらの方です。アキラ様が居なければお嬢様は今頃……)
けれど、アキラとは対照的にシオリの表情は再び曇りつつあった。
シオリがアキラの声に何も返せなかったのは失礼になるかもしれないと思っても、どんな言葉を返せばいいか解らなかったからだ。
ここでどれだけ感謝の言葉を並べても、アキラを喜ばせる事に繋がらない。
入浴の邪魔をしてしまうだけ。
それなら出来るだけ邪魔をしないようにと口を噤んだシオリだったが――
(待つ事しか出来ないというのは、あの時の事を思い出してあまり好きではないですね……)
何も出来ずに待つだけという状況が、ただ破滅に向かって時間稼ぎするしかなかった、レイナを人質に取られた日の事を思い出させていく。
あまりに情緒不安定であったが、そもそも今回のシオリは最初からおかしいのである。
旅館を貸し切っている時点で常軌を逸しているし、それに拍車を掛けるように従業員も身内に総入れ替え。
しかも全ての費用をシオリが身銭を切って賄っている。
その時点で真面であろう筈がない。
ただ、それでシオリだけがおかしいのかというと、そうとも言えない。
二度もレイナを助けてもらった恩。
積み重ねてきた無礼の数々。
ようやくそれを少しでも返せる機会が来たなんて、それこそ全身全霊で頑張ってみれば――
はっきり言って空回り。
拍子抜けする程に順調に進んでしまい、何があろうと対処してみせるという気合は消費される事無く、そのまま不安へと変わってしまったのだ。
きっと今のシオリの気持ちを理解出来るのは、シェリルくらいだろう。
もし仮にアキラがシェリルに何か少しでも恩を返せるものはありませんかと聞かれた時――
どこか落ち着ける良い感じの風呂とかないか?
出来るだけ良いヤツだと嬉しいんだけど。
なんて迂闊に答えていれば、今頃シェリルは遺物販売店でなくアキラ専用の風呂を建設するなり、スラムで唯一の温泉宿の経営者にでもなっていただろう。
要するに――
与えた恩に対して、あまりにもアキラが無頓着過ぎる事こそが最大の原因なのだ。
それこそ恩を受ける事を当然と考えるような傲慢な人間でなければ、与えられた側が押し潰されてしまう程に。
(どうしてアキラ様は、私達に良くして下さるだけで何も求めないのです?)
不安が生んだ緊張。
極度の緊張から解放された気の緩み。
見た事もない程に上機嫌なアキラの姿。
積み重なった恩の重み。
それ等が幾重にも連なった結果、必死でしまい込んでいた疑問がシオリの頭に過ってしまう。
(お嬢様が人質にされたあの時の事、本当はどう思っていらしたのですか?)
なかった事になった裏で。
本当はアキラを何を思っていたのか。
余計な問題の引き金になり兼ねないから、とレイナに御礼を言う事さえ止めこそしたが――
本当はシオリだって知りたくて堪らなかった事。
「どうかしたのか?」
その不安や恐れは隠しようもない程に表に漏れ出し、アキラに心配されてしまう。
「……申し訳ありません。私の事はお気になさらず、入浴をお楽しみ下さい」
邪魔にならないように黙っていたのに、それでも邪魔をしてしまった。
その事で更にシオリの表情は曇っていく。
「そう言われてもな。気になるから、何かあるなら言ってくれないか?」
さすがにアキラとしても、そんな不景気な顔が傍にあって、気にせず寛いでいられるような神経はしていない。
「ですが――」
「言うだけ言ってみてくれ。さすがに気になる」
「解りました」
恩人であるアキラから尋ねてきてくれたのだし、この場には当事者である自分達しかいない。
そして今のシオリは、かつてと違い必要以上にアキラを恐れていない。
その上、不安定な精神状態が普段のシオリなら自制出来ていた事でも抑え切れなかった。
「その、少し例え話をします。不快だと感じましたら、止めて頂ければ、もうこの話は決して致しません」
「ああ、解った。話してくれ」
そうして、様々な偶然が重なって消えてしまった。
あの日の答え合わせが始まる。