中立から内側へ 健全版 作:シオリスキー
シオリの濃厚な口付け。
アキラは腰砕けになった。
シオリはもう、このまま襲っちゃおうかなと思った。
――姐さん。しっかり信用に応えるんっすよ。
そこで再び同僚の言葉が頭を過る。
(何を考えているのです、私は……)
口付けの最中、本気で逃げようと思えば、突き飛ばして逃げる事だってアキラには出来た。
それでも僅かに頭を動かしただけで、なすがままになって耐えてくれた。
それは別に自分の事を受け入れてくれた訳でなく――
告白の返事に対して不誠実とも思える返答をした事への贖罪のようなもの。
その証拠にアキラは必死で肉欲に抗い、無責任な事はしないと態度で示してくれている。
(アキラ様は身をもって、お言葉が真実であると見せてくれているではないですか)
決してシオリの事は嫌いじゃない。
――だから口付けを受け入れてくれた。
けど先約があるから応える事は出来ない。
――だから興奮していても手を出さなかった。
自分が傷付かない誤魔化しの言葉を並べた訳でなく、全て本心だったと証明してくれる対応が、これ以上あるというのだろうか?
「アキラ様」
これ以上は信用を裏切る事にしかならない。
シオリは情欲を必死で押し殺し、努めて冷静に想い人の名を呼ぶ。
「…………」
アキラは聞こえていないかのように反応しない。
無理もないだろう。
表向きにはアキラとシェリルは恋人同士だという話をシオリは知っている。
情報工作ならば周りに印象付ける為に口付けくらい定期的にしているだろうと考え――
それなら軽いものでは覚えてすらもらえないと、想いの全てを伝えるつもりで口付けをしたのだ。
(もしや全て私の杞憂で、口付けそのものが初めてだったのでしょうか?)
シオリは今のアキラの状態に、初めてその可能性に気付く。
慣れているどころか、もし口付け自体が初めてであるならば――
刺激が強過ぎたのではないだろうか、と。
「アキラ様!」
強く名前を呼ぶ。
今は身体に触るのもどうかと思い、あえて言葉だけでシオリは呼び掛けた。
「あ、ああ。悪い。ちょっと、ぼーっとしてた」
強い声が耳から入り脳を叩いた事で、ようやくアキラの意識が覚醒していく。
それでもまだ瞳の焦点はあっておらず、ぼんやりしていたが――
「申し訳ありません。恋人でもないのに卑怯だとは思いましたが、こうでもしないと想いを伝えられる自信がありませんでした」
それでも言葉が聞こえるくらいになっただろうと考え。
やり過ぎてしまったかもしれません、とシオリは頭を下げる。
「ああ、いや、うん。こっちも悪かった」
アキラもばつが悪そうに謝罪する。
確かに言葉で伝えられるより遥かにシオリの本気度を実感させられたし――
随分とシオリの気持ちを軽く見てしまっていた事に気付かされたからだ。
「それで、お返しになりましたか?」
「お返し?」
「ズルいアキラ様に、ズルいお返しをするという話だと思いましたが?」
何を言われているか解らないというアキラに、簡潔にシオリは元々の話を伝える。
言葉だけなら冷静さを取り戻したように見えるが――
あまりにも無防備過ぎるアキラの姿に、今にも冷静さを失いそうであった。
「あ、ああ。そうだ。そういう話だった!」
言われて思い出したと言わんばかりの態度でアキラが声を上げる。
実際、言われるまで何でこんな事になったのか、全く解っていなかった。
「けど、どこがズルいんだ? 俺が得しただけのような気がするんだけど……」
言われてもよく解ってなかった。
確かに恋人でもないのに口付けとかしないだろうとは思うものの、それは男からする場合だという印象がアキラにはある。
娼館や身売りなどをする者を女以外に見た事がないせいだろう。
アキラとしては金も払ってなければ恋人でもないのに、気持ち良くしてもらったようにしか思えなかったのだ。
(そういう事を無垢な顔で仰らないで下さい! 本当に我慢出来なくなりそうです!)
が、それは女というものを綺麗に見過ぎた勘違いだ。
女にだって性欲はあるし、男娼も居れば身売りする少年だって居る。
「そうですか。得と感じて頂けましたか」
だが、あえてシオリはその指摘をしない。
見栄というヤツだ。
アキラが自分の事を性欲を抱かない綺麗な存在のように思ってくれているなら、せめて気付かれるまでは隠したかった。
何より女として意識されてなかった身としては、本当に嬉しい反応であり――
それならせめて夢を見れる間くらい、夢を壊したくなかったのだ。
「悦んで頂けたのであれば、女として嬉しい限りです」
「あ、いや、その……」
女という単語を使われ、ようやく自分の言葉が男としては凄く気持ちよかったと伝えた事と同意味である事にアキラは気付く。
「あー、うー……」
恥ずかしさはあるものの、気持ち良くなかったなんて誤魔化す事もしたくなくて。
わざわざ指摘するなんて意地悪だとばかりに軽く睨む事しか出来ない。
(だから、そのように可愛いらしい姿を見せないで下さい!)
もうこれは誘われているのでは?
再び邪な気持ちが鎌首をもたげ始めるのを必死で抑え――
「その様子ですと、アキラ様。気付いておられないのですか?」
表面上だけは努めて冷静に。
自分の行為の何が本当にズルいのか。
シオリは説明を始めていく。
「気付くって何にだ?」
「まだ、口付けしかしていないのですよ? 気持ち良くなるのは、これからではないですか?」
「こ、これから?」
アキラの顔に不安が浮かぶ。
これ以上なんて自分がどうなってしまうのかという怯えはあれど、期待なんて出来る次元を既に超えてしまっていたからだ。
「はい。それとも口付け以上の行為は想像出来ませんか?」
「……」
シオリの問いにアキラは答えられない。
ただ導かれるようにシオリの身体に視線を映していた。
(そう、だよな。まだキスしかしてないんだよな……)
口付けを交わした相手として初めてシオリの事を見る。
(綺麗だ)
素直にそれだけをアキラは思う。
そんな相手と口付け以上の行為をすると自覚した瞬間、不安の中に期待や嬉しさが混じり始めたところで――
「今回は、ここまでですけれども」
あっさりとシオリは身を引いて、アキラから距離を取る。
「え!?」
期待させるだけさせて何で、とアキラの表情が百の言葉以上に気持ちを物語り――
「今回は、です」
内心では今すぐでもアキラを抱き締めたい気持ちを抑えて、シオリは静かに言葉を重ねていく。
「先約があるのでしょう? それとも先約を破棄してでも、私を選んで下さいますか?」
答えは解っていますので遠慮は無用です、と言いたげなシオリの問い掛けに。
未だ熱に侵されていたアキラの心が急速に冷えていく。
「……悪い。それは無理だ」
罪悪感を覚えつつ。
それでもアキラは僅かに迷う事すらせず、はっきりと今はシオリと共に行く事は出来ないと断った。
「ええ。アキラ様なら、そう仰ると思っておりました」
シオリも怒る事もせず。
僅かに残念そうにしつつも、予想通りでしかないと頷く。
「その、しお――」
「先約を終えたら、続きをしましょう」
謝ろうとするアキラを察し、シオリが被せるようにして言葉を封じる。
「勿論、その時に私を選んでお傍に置いて下さるのでしたら、の話ですが」
そうなってくれれば幸せですね。
なんて言葉が伝わってきそうな程にシオリは柔らかく微笑んで。
それは感情が読み難い表情が多いシオリにしては、妙に可愛らしくも艶やかで。
「……」
雰囲気に流されるままにシオリを見ていた時は、綺麗でどこか幻想的にさえ感じたのに。
今見た表情の方が不思議とアキラには魅力的に映り――
何だか急にシオリの裸を見るのが気恥ずかしく感じ始めて、目を逸らす。
「待ちぼうけさせられる者の気持ち、解って頂けましたか?」
そこに羞恥だけでなく興奮も覚えてくれている事を見て取り。
ズルいお返しだったでしょう、とシオリは告げる。
「期待させるだけさせておいて、お預けさせられると、そういう気持ちになるのですよ」
「……その、ごめんなさい」
ようやく自分がどういう事をしていたのかを理解して。
アキラは申し訳なさ過ぎて、それだけしか言えなくなる。
「お返しさせて頂いたのでお相子です。お気になさらず――」
その態度では、事情さえ許せば続きをしたかったと言ったも同然なのに。
全く気付いてないアキラの姿が妙に可愛くて。
「それとも。どうしても続きをお望みですか? 恩人としてアキラ様がしろと命じて下されば、抵抗もしませんし、好きな人と結ばれるのです。喜んで致しますよ?」
返答なんて予想出来ているのに。
つい誘惑するような事をシオリは口にしてしまう。
「……恩とか貸し借りで、そういう事しないって決めてるんだ」
返答は大体シオリの予想通りであったものの。
決めてるからしないであり、したくないとは言えなくなっているアキラの姿に更に愛しさを覚えつつ。
「ええ、貴方様のそういう誠実さも愛しております」
シオリは満足そうに微笑んで――
これでこの話は終わりです、と言いたげに温泉に浸かり始める。
――これ以上、話を続ければアキラを襲わずに居られなくなりそうだったからだ。
(何か、そっちは余裕そうなのが一番ズルい……)
シオリの方が遥かに限界が近い事に気付く事も出来ずに。
一人、敗北感のようなものを覚えて。
アキラは拗ねつつも、シオリに倣って温泉に浸かり直すのであった。