意識を取り戻したスーラは驚いた。スーがDの針を急所に受けて失神状態にあった自分から逃げようとしなかったばかりか、その針を抜き取り傷の応急手当てをしてくれたらしいからだ。この行為をどう取ったらいいものか、彼は判断に苦しみ、しばらくの間、かたわらに立つスーを見つめるしかなかったのであった。
「何とか大丈夫そうね。待ってて、いま、お水汲んでくる」
こう言って、返事を待たず、スーは身を翻した。水は近い。何しろ、ついさっきまで、それに乗っていたのだ。スーラの巨大な長靴の底から、巨大な亀裂の傾斜を五メートルばかり下ったところで銀色の流れが音をたてている。水筒も何もない。草に滑らないよう注意しつつ、スーは水辺へ下りると、もう乾いていたスカートの端を流れにつけた。たっぷりと含ませてから、水面に自分の顔を映す。その辺は身だしなみだ。顔がゆれている。さしてやつれも見えず、スーは安堵の息を吐いた。顔が笑った。水面の顔が。自分は笑っていない。
水面に映った異常を見てスーに水妖ルシアンの名と姿が脳裡に去来した瞬間、水中の自分がこちらに両手をのばした。それにつられるように、スーもまた手をのばして、手首まで水に浸けた。その身体がぐい、と引かれて、声もなく彼女は水中に━━落ちはしなかった。巨大な手がその両足首を空中で握りしめたのである。ふり向いて、
「あなたは!?」
とスーは叫んだ。驚きと喜びと感激の声で。巨人は這いつくばった姿勢のまま、スーを引き戻そうと力をこめた。ずい、と三〇センチほど上がった。スーの手首を掴んだ何かが持ち上がってきた。それは陽光の下で妖しいガラス細工のようなきらめきを放っていた。スーラは引っ張りつづけた。やがて、それの顔が出た。それはスーの形をしていなかった。光の加減で、ある場所は消え、ある部分はかがやき、眼も鼻も口も揃っているとも否とも見える奇怪な存在であった。川に巣食う妖物の一種であろう。肩が現われ、胸が出た。この場合、スーラの腕力を讃えるべきか。水妖の巨体に驚嘆すべきか。スーラはすでに亀裂の頂きまでスーを引き上げ、しかし、半透明の巨体は、まだ肩までしか抜け出ていないのだ。スーが苦鳴を洩らさぬのは、巨大な割に質量が小さいためだろう。スーラの右手がガウンの内側に入ると、手当てしていたスーも気がつかなかった長剣が現われた。切尖から柄まで縞模様が走っている。スーラはそれでスーを放さぬ水巨人の両手をひと薙ぎした。飛沫が上がったが、手は離れなかった。どうやらこの水妖は同じ水妖のルシアンと同じ特性を持っていて与えられた損傷を水の如く無効化してしまうのであった。
「痛い」
ついにスーが叫んだ。水から遠ざかる分だけ、水巨人の重さは増すのである。敵はどうあっても獲物を水中に引き込む気だ。スーラはもう一度、長剣をふるった。無益としか思えぬ一撃であった。スーが眼を見張った。水妖の巨体が忽然と消滅したのである。同時に彼女は空中を飛び、丈高い草むらに軟着陸を成功させた。スーラが放ったのである。夢中で起き上がったスーが見たものは、三度長剣をふり下ろしたスーラと、消失した位置でその一撃を頭部に受け、声もなく水流へと落下していくかがやく巨体であった。よほど自信があるのか、スーラは川面を確かめもせず、長剣を片手にスーのもとへと近づいてきた。はじめて、身も凍る恐怖がスーを捉えた。巨人は、もはや彼女の救った負傷者ではなく、その生命を狙う貴族の配下であった。立とうとしたが、腰が動かなかった。軟着陸とはいえ、かなりのショックが与えられていたのである。恐怖に見開いた眼の前に、巨大な手が五指を開きつつ近づいてきた。猛烈な力が腰に加わり、身体が上昇していく。革製らしい胸当てをつけた分厚い胸部が眼に入った。その上に顔があった。
それを見てスーは昔、村の学校で見た土偶を憶い出した。無表情なそれらの中にひとつ、何処か哀しげな表情をしたものがあった。どう見ても他と同じ顔立ちなのに、何故それだけが例外だったのかスーにはわからない。ただ、眼の前の巨人が記憶を甦らせたのである。恐怖の塊が氷解していくのをスーは感じた。
「あなたは━━」
言いかけたとき、巨人は別人に変わった。凄まじい殺気が全身にふくれ上がり、炎のようなその波動に、スーの頬は現実の熱さえ味わった。あらゆる物音が絶えた。水の音さえ熄んだのである。Dの美しさに万物が息を呑むように、スーラの殺気に震撼して。何が生じたかもわからず、しかし、スーはすぐに理解し、首と身体を動かせるだけふって、周囲を見渡そうと努めた。
スーラが動いた。スーを掴んだまま、棍棒を取り出し、その丸い先端を地面に当てると、ゆるやかな曲線を描きはじめた。出来上がったのは、直径一〇メートルにも及ぶ円であった。ただ、端と端とが結ばれず、最後に引いた線は、わずかに円自体の内側に入り込んでいた。そこから出て、五メートルばかり離れたところに、こちらは二メートルほどの、やはり不完全な円を描くと、彼はその中にスーを置いた。最初の巨円にスーラが入り込むのを見届けたとき、スーは左方の森の奥から音もなく現われた人影を見た。
「D━━さん」
喜んだ。当然だ。だが、想像していたより、胸は弾まなかった。ちらりとDは視線を送った。それで彼女の状態を見切ったか、無事かの問いもなく、スーラの方へ近づいていく。守るものの安否を確かめれば、後は敵を斃すのみ。燃える殺気の炎に挑む美しき狩人であった。
「━━D」
スーは呼びかけた。何を言いたいのかはわからない。DからDが分離した。あまりのスピードのせいで、網膜に残った残像だとの知識はスーにはない。びゅっと風を切る一刀。スーラが両断されても当然な、両者と刀身の位置であった。だが、スーは眼を見張った。スーラに触れたはずの刀身は、忽然と消滅したのである。返す刃は━━なく、間髪入れずに襲いくる棍棒の一撃を避けて、Dは大きく跳びのいた。空中で白木の針を放ちざま着地する。針は空中で消えた。あっ、とスーは自分の声を聞いた。Dの右手の刀身はもとに戻っていた。
「円を見て」
とスーは叫んだ。
「その人、円を描いてたわ。その円に何か秘密があるのよ!」
スーラが、ちらとこちらを見て、すぐDへ視線を戻した。スーに言われるまでもなくすでにDは、スーラの秘技を見抜いていたかも知れない。Dはどのように地面とスーラの体の二重に施された円による守りを突破するのだろうか?
「あ、あのねえ」
とスーはスーラに呼びかけた。
「それ、卑怯よ。正々堂々と勝負しなさいよ」
まさか、効果があるとは思わなかった。驚くべき事態が生じた。スーラが素直に円で作った結界の外へ出たのである。勿論、それは彼の意志による行動であったろうが、あまりのタイミングの良さに、スーは有頂天になった。
「――どっちも頑張って」
無邪気で無責任な声援は、その刹那に凍結した。新たに対峙した二人から放たれ、その中間でせめぎ合う殺気の波の凄まじさ。すでに時刻は昼に近く、一面に緑が溢れ、風が吹くたびに陽光がそれを浮動させる森の一角で、ここだけは殺気のために凍結したようであった。だが、戦いは短かった。何故かDは仕掛けず、巨人の一撃が叩きつけられた刹那、一跳躍してスーのかたわらに立ったのである。
「━━D!?」
スーの叫びは、踏み下ろしたDの右足が、自分を囲む円――スーラが描いた二つめの輪の中に入ったと直感したからであった。Dの右足から右肩までが消えたとき、駆け寄ったスーラが棍棒をふるった。よける暇もなく、左胸に爆発に等しい衝撃を受けて、Dは数メートルを飛び、先刻、水妖を葬った亀裂の底の流れへと真っ逆さまに落ちていった。
それを見たスーは自分でも想像だにしなかった激情に背を押されて、走り出そうとした。だがその時、奇怪な現象がその身に生じた。一瞬、三六〇度回転したような感覚が全身に生じ、視界が白く染まった。あらゆる物音が絶え、スーは自分が別の場所にいることを知った。このままいれば、自分は誰に知られることなくもとの世界から消滅するのだろう。
だが、帰還はすぐに成し遂げられた。
円内に茫として立つスーの前で巨体が身を屈め、ずれた線を消して、真円を完成させたのである。よろめくスーを抱きかかえ、スーラはDを呑んだ銀色の流れに眼をそそいだ。巨体を覆うのは、勝ち誇った満足よりも、長い間追いかけてきた獲物を失った猟師のような孤独だった。
気絶していたマシューが眼を開くと、知っている顔が上から覗き込んでいた。
「気がついた?」
火傷してない女性の方に向かってマシューはスー。と口にしたつもりだが、声にはならなかったようだ。
「動いては駄目」
と言われる前に動かした両手に激痛が走った。
「身体中、火傷しているのと同じよ。よく助かったものだわ」
ようやく、マシューは貴族メル・ゼナと一緒にベッドらしきものの上に横たわっており、全身に包帯が巻かれたミイラ状態なのに気がついた。そして正気に戻った眼で目の前にいる娘が妹とは別人だと気がついた。
「あなた達は三時間ばかり前に、村の入口に倒れてたの。『熱射道』を通ったのね。誰かに聞いてなかったの?」
そこには貴族特有の雰囲気どころか美貌も感じさせない人間みたいな雰囲気を纏っているミイラ状態のメル・ゼナが答えた。
「すみません。わたくし達はそこまで知らない無知な人間でして━━」
「辺境の危険な場所を知らないなんて命が幾つもあっても足りないよ。外を出る時は、これからはよく知って気をつけたほうがいいね」
メル・ゼナの返事にスーに似た娘はそう返した。
「こ・・・こ・・・は・・・何処・・・だ?」
マシューは人間みたいになっているメル・ゼナに何故そんな姿になっている等の疑問をぶつけたい欲求に駆られたが貴族は神のような人間には出来ない御業を起こすことを知識として知っていたためそういうモノと受け入れて、スーにそっくりな人間にここはどこだ?と疑問をぶつけた。意外にも声は楽に出た。
「中央辺境区ってのがあったのを知ってる?」
とスーに似た娘は訊いた。
「あ、ああ」
「そこの北の端に近いわ。ラシャルの村」
「北の端・・・?」
砦から北部辺境区までは、馬をとばしても丸一週間はかかると、砦でブロージュ伯爵から聞いている。いつの間に?マシューの疑問を感じ取ったのか、
「『熱射道』の秘密は空間の歪みにあるっていうのが、以前調査した学者の先生方の定説よ」
と娘はつづけた。
「太陽光を和らげる大気層の部分が何カ所か歪んでて、直射日光が届いちまうのね。それと同じ現象が地上でも時々起きるらしいわ。あたし、あんた達みたいな人を何人も助けたことあるもの」
「本当に世界は不思議な場所がたくさんありますわね。全部解明できるのはいつになりますやら」
とメル・ゼナが娘の説明に嘆くようなポーズをして喋った。
「そうね。ただ言えるのは自分達が生きている間は絶対に解明出来ないことかしら」
束の間、マシューは気が遠くなった。北の端━━それこそ、自分とスーが最も恐れている場所ではないか。メル・ゼナが近くにいるとはいえ、よりによって、地獄へ辿り着いてしまうとは。胸中に哀怨ともいうべき炎が燃え上がり、マシューは呻いた。炎はスーの顔を備えていた。
「泣かないで」
眼の縁を白い指がそっと撫でた。
「あんた達がどこの誰かは知らないけど、歩けるようになるまでは面倒見てあげるわよ。塗ってある薬、よく効くわ。全治まで三日ってところね」
「・・・ありが・・・とう・・・」
「いいわよ。困っているときはお互いさま。あたし、スーっての。そちらの女性の名前はメル・ゼナと聞いているわ。あなたはどういう名前をしているの?━━ん、どした?」
「・・・マシュー・・・だよ」
ようよう口にしてから、マシューは眼を閉じた。メル・ゼナだけではなくもうひとりのスーの優しさに触れたマシューは泣きながら声なき祈りを神に捧げつづけた。
いきなり泣いたマシューを見て心配になったメル・ゼナともう一人のスー撫でてあやそうとしたのをマシューがなんとか拒否しようとしたのは別の話。
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