C102にて頒布された、chloeさん主宰の合同誌「クールアーカイブ」へ、錠前サオリの小説を寄稿しました。主催者から許可が出ましたので、横書き閲覧用に調整をかけた本文を公開します。

テーマは「職業体験と進路選択」。将来へほんの半歩だけ踏み出したサオリが「先生」の立場を体験してみるお話です。怒ると怖いけど子どもからは慕われる先生って、いましたよね。

pixivでも読めます
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=20630091

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先に生きた者

 

 錠前サオリは、キャップを目深にかぶり、マスクで頬まで覆い隠し、地下鉄のプラットフォームを歩いていた。電車に乗るというだけでも、彼女は警戒を解かない。

 

 D.U.は平日の午後にあっても人通りが多い。女子生徒の香水の匂いや、柴犬族の男性から漂う煙草の匂いに紛れて、自分の匂いがサオリは気になった。火薬の匂い、埃の匂い。微かな血の匂いもした。だがそれよりも、約束した時刻に遅れてしまいそうなことが心配で、サオリは階段を上る人波の間を抜けて、改札へ急いだ。

 

 

 * * * * *

 

 

 庇ってきた鞄の中身を確かめる。そうして、息が上がるのも構わず、サオリは執務室のドアノブを握り締めた。

 

 先生は、自分のデスクでキーボードを叩いていた。机の上は栄養ドリンクの空き瓶だらけだ。その乱雑にもサオリは慣れていた。今日の先生は、睡眠時間をある程度確保できたのか、目元のクマが無いようだ。

 

「先生」

 

 サオリが呼びかけると、先生はにこやかな笑みを作ったが、すぐにぎゅっと唇を結んだ。

 

「サオリ、ちょっとおいで」

 

 平坦な口調で、先生が手招きした。

 

「す、すまない。定刻には間に合ったが、来るのが遅かっただろうか」

「そうじゃないよ、ほら、早く」

 

 先生の隣のデスクから、コロコロと椅子が引きずり出され、サオリを誘った。空き瓶を押しのけて、救急箱が置かれた。

 

「ここに来る前、何かあったの?」

「……あぁ。賞金稼ぎの襲撃に遭った。だが心配は無用だ。深刻な傷は負っていない」

「……コートを脱いでごらん」

「…………っ」

 

 先生の目つきに気圧されて、サオリは言われた通りにした。先生はすぐ、肩や前腕の擦過傷を目に留めた。

 

「手当もしないで来るなんて」

 

 消毒用脱脂綿のアルコールがツンと香った。「それぐらいなら自分でもできる」という口答えも、強引に押し切られてしまう。覚悟の決まらないタイミングで傷口に触れる消毒液は一際沁みる。サオリは唇を噛んだ。脱脂綿に付着した血は、酸化して黒ずんでいた。

 

 大きく厚ぼったい掌が、長い黒髪の内側へ入り込み、うなじを掠めて、ひどくくすぐったい。だが、目視できない肩の背面には、自力で絆創膏を貼るのが難しいのも確かであった。

 

「はい、いいよ。自分の体は大事にしようね」

「この程度、放っておいても治る」

「そうは言われてもね。会った生徒が傷を負っていたら、心配になるよ」

「傷……」

 

 重苦しい罪悪感がフラッシュバックした。

 

「あ、私の傷なら、もう大丈夫だからね」

「そ……そうか」

 

 サオリの動揺を読んだかのようだった。

 

 どうして、自らに重傷を負わせた者の懇願を聞き入れて、先生は協力を申し出たのか。サオリはまだ、その答えを実感できていなかった。

 

「そうだ先生、これを見てくれ」

 

 鞄には埃が残っていたが、中身は無事だ。何冊かの本を取り出し、サオリは先生へ差し出した。キヴォトスの一般教養のテキストだった。

 

「夜襲に遭っても、こいつらは守り抜いた。先生に指示されたミッションはこなした」

 

 所々に折り目が付き、爆風で何冊かは背表紙が焦げ、垂れた血が黒い斑点になったページもある。先生が一冊を開くと、砂粒が落ちた。

 

「とことん真面目だね、サオリは。よし、早速チェックしようか」

 

 提出したテキストが積み上がり、付箋をつけたページに先生が目を通していく。優しい眼差しなのに、訳もなくサオリは緊張した。

 

「字が綺麗になったね。読みやすいよ」

「ああ」

 

 生返事をしつつも、サオリは頬が熱くなった。アルバイトの報酬でペン字の練習帳を買ったのは正解だった。先生の字と比較して、のたうち回るような自分の手書き文字が情けなく思えたのも、今は懐かしく感じられる。

 

 やりたいことが見つかった時のために――それが先生の助言だった。

 

 アリウス分校の教育は大きく歪んでいた。エデン条約事変の一件で、サオリはそのアリウスも事実上退学になっていた。お尋ね者の身では職を探すにも不自由する挙句、雇用主に騙されて不利な条件で仕事をさせられたことも数知れず。

 

 憎悪を刷り込まれて育ったサオリの人生がこれ以上搾取されないためにシャーレの先生から提示された選択肢の一つが、高卒資格検定だった。テロの実行犯という大変な懸念事項はあるが、その気になれば大学へ進学して専門的な学問を修められるし、安定した職に就く上でも不利になることは少なくなる。

 

 アリウスを出て、それまで生きてきた世界の狭さを思い知りつつも、一方的に施しを受けることをサオリは嫌った。アリウス分校では、市販の学習教材が使用されておらず、代用品としてトリニティ自治区のテキストを使うのも、癒えない傷あとをヤスリがけされるようだった。だが、スクワッドの三人も同じプログラムに各々参加しているという事実が、サオリの背中を押した。

 

「うん、指定した範囲は全部できてるね。映像授業は受けられた?」

「ああ……これのおかげで」

 

 コートから小型のアクセスポイントを取り出し、サオリは先生へ見せた。これのおかげで、サオリはスマートフォンのバッテリーが残っていればどこでも授業を受けることができた。

 

「それで……今回はどうだ? 空白をできる限り作らないようにしたのだが」

「ああ、変な解答欄はそのせいなんだね。こういう時は、無理に埋めなくていい。調べたり質問したりする必要があるってマークをつけておくんだ。無根拠な解答は合っていたとしても、得られるものが少ないから」

「了解した。……ちなみに、よく分からなかったのは、ここと、ここと……」

「分かった。解説するね」

 

 課題は小学校内容の段階からのスタートだったそうだ。映像授業は中学内容からだったが、サオリにとってはもう未知の事柄だった。作戦行動に必要な知識との重複も多く、理系科目はすんなり頭に入る。だが、文系科目、特に社会科がサオリは苦手だった。それが世の中の仕組みを知るのに役立つと分かっていても。

 

「これで全部かな。サインを残しておくよ」

 

 テキストの隅に署名と赤マルが記されていく。

 

「今のは何だ? 他のマークと違っているが」

「ハナマルかい? 特に出来が良かったからね。ネコちゃんスタンプの方が良かったかな?」

 

 先生のハナマルは、サオリの目から見ても子供だましに思えた。だが、出来が良かった印なのだと分かれば、悪い気はしなかった。

 

 次回までの課題一覧に、サオリは視線を落とした。

「評論文 先生の存在意義」――。

 

「……先生、聞きたいことがある」

 

 

『そっか……それなら、サオリは今後……』

『いい先生になれるかもしれないね』

 

 

 カタコンベの最奥で言われた一言が蘇る。

 

 今日を生き抜くことが精一杯で、「今後」なんて考える余裕もなかったサオリは、何が好きで、何がしたくて、将来何をするつもりなのか、考えたこともなくて、あの時はただ狼狽えるばかりだった。

 

「……先生って、どうやってなるんだ」

 

 素朴な質問に、先生は目を丸くした。

 

「なかなか難しい質問だね」

 

 先生は机上のマグカップを持って立ち上がり、綺麗なカップを二つ持って戻ってきた。

 

「温かいものでも飲みながら話そうか」

 

 サオリはカップを受け取ることに一瞬躊躇したが、香ばしいココアの香りに手を伸ばした。

 

「もしかしたらサオリも知っているかもしれないけれど、学校での教科学習はほぼ映像授業だし、実技科目を担当する講師も、自律型のAIで制御されたロボットだ」

「すると、私が読んできた物語に出てくる『教師』というのは」

「……うん。学校において、教科指導や生活指導を行う人間の教師は、もうキヴォトスでは絶滅した存在だと言えるだろうね。実際私も、教室の中で勉強を教えることはない」

「……そうか」

 

 先生はココアを啜り、サオリへ向き直った。

 

「でも、先生というのは何も教師だけを指す言葉じゃない。弁護士、医者、作家、インストラクター、色んな人が先生と呼ばれる」

「……あなたは、いずれかに該当するのか?」

「うーん、どれにも当てはまらないかな」

「ではなぜ、あなたは先生と呼ばれるんだ? あなたは何の先生なんだ……?」

 

 サオリの問い掛けに、先生はしばし考え込んだ。

 サオリは慎重に彼の言葉を待った。

 

「先を生きると書いて、先生。年齢や経験といった意味で、誰かの先を生きる人、あるいは、先に生きた人――だからかもしれない。大人だしね、私は」

 

 リアルタイムで、考えながら、先生は言葉を紡いでいる。ココアを掻き混ぜるサオリに、先生は一言ずつ噛み締めるように語り続けた。

 

 困った時に手を差し伸べてくれる頼みの綱。

 道を誤りそうな子が踏みとどまる歯止め。

 道を誤った子が立ち直る希望の灯火。

 そんな大人を、先生と呼ぶんじゃないかな。

 

 マグカップをそっと揺らす先生の声色は穏やかだった。サオリは、瞬きを忘れていた。

 

「ちょ……ちょっとカッコつけちゃったかな。恥ずかしいから、今のは内緒にしてね」

「え? あ、あぁ……」

 

 先生は耳をほのかに赤らめてはにかみ、また一口、ココアを口にした。

 

「まぁ、そういう風に在りたいな、って思ってるのは事実だよ。……サオリは、先生になりたいの?」

「『いい先生になれるかもしれない』と言われて気になっていたんだが……私には難しすぎるようだ」

 

 

 ――あなたのようにはなれない……。

 

 

 サオリのココアは、生ぬるかった。口当たりは甘いのに、ほろ苦さがそれを塗り潰す。

 

「自ら可能性に蓋をすることもないと思うよ」

「本気でそう思っているのか?」

「思ってるよ。その気になれば、実現できる」

「そう……なのか……」

 

 サオリは、マグカップの(ふち)を唇で噛んだ。

 

「色んな形があるけれど、私は、サオリがいい先生になれると思っているよ。なんなら、今からでも、ちょっとだけ、先生をやってみない?」

「……どういうことだ?」

 

 先生が「よっこいしょ」と言いながら席を立ち、壁のガンラックに向かっていった。

 

「サオリにこれの使い方を教わりたいんだ」

「なっ……まさか、戦場に出るつもりなのか! 何を考えている!」

 

 思わずサオリは怒声を浴びせた。

 

「ちっ、違うよ。身の程は分かってる。私は戦えない。けど、生徒みんなが使うものだし、自分も扱い方ぐらい学んでおきたいんだ」

「なら引き鉄から指を離せ! 暴発するぞ!」

 

 一瞬見ただけで分かった。先生は銃器の素人だ。あれほど優れた戦術指揮ができるのに。

 銃を手に取り携帯すれば、戦いの用意が出来ていると公言するに等しい。そういう相手への攻撃は躊躇しないのはキヴォトスの常識だ。

 

 ――ああ、そうか。

 

 彼は、先生のロールプレイをさせようとしているのだ。

 深呼吸して、サオリは頭の火照りを逃がす。

 

「怒鳴ってすまなかった」

「いや、危険なことは、今ぐらい激しく言われた方が身に沁みるよ。ありがとう」

「それで、本当に銃の扱い方を知りたいのか?」

「興味があるのは本当だよ。男の子(・・・)だからね」

「……?」

 

 サオリは首を傾げたが、彼の申し出は有難く受けることにした。

 

 

 * * * * *

 

 

「もっと脇を締めろ」

「こ……こう?」

「もっとだ。右肘は隙間を作るな」

 

 シャーレの射撃場で、サオリはインカム越しに先生へ指示を出していた。

 

「ストックはしっかり肩の付け根に当てろ」

 

 スクワッドを指導していた時のピリピリした緊迫感が自然と声に出ていた。ロクに動いていないのに、先生の頬に緊張が走りっぱなしだ。

 

「そのまま、ストックに頬を当てろ。首はなるべく傾けるなよ」

「これで……オーケー?」

「そのまま、『よし』と言うまで姿勢を維持しろ」

「け、結構きつくない?」

「喋るな」

 

 先生の呼吸は落ち着きを失っていた。

 

 ――高圧的過ぎるだろうか。

 

「教えてくれる時のリーダーは怖い」とヒヨリが口にしていたのを、サオリは思い出していた。サオリはいつも必死だった。その思いは言葉に表れた。感情的な物言いをしてミサキと衝突したことも、アツコに投げかけた不用意な言葉を後悔したことも、何度あっただろうか。今は袂を分かったアズサも――。

 

「……あっ」

 

 昔を思い起こしていたら、合図を出すのをすっかり忘れていた。

 

「よし、一旦楽にしていい。銃口は逸らせ」

「……ふ~……!」

「『構え』と言われたら、すぐさっきの体勢を取れるようにしておけよ」

「はは、できるかな……」

「できるかどうかじゃない。やるんだ」

「……了解……」

「よし……構え!」

 

 サオリは声を張った。モタついて何秒もかかっていたが、先生は先程とほぼ同じ射撃姿勢を取れていた。初めてにしては悪くなかった。

 

「サイトを覗き込む時は両目とも開けろ」

「……中心の光点が照準になっているの?」

「そうだ。光学サイトは狙いがつけやすいが、覗き込む角度が悪いと視差が生じる。しっかり正面から覗くんだ」

 

 サオリは先生が狙いをつけるのを待った。

 

「……ターゲットを捉えたたトリガーを引いてみろ。静かに、真っ直ぐ」

 

 距離を置いて見守ること数秒。マズルフラッシュと発砲音がした直後、先生はリコイルに流されてよろめいた。着弾箇所は、円形のターゲットの外側だ。

 

「すぐに構えろ!」

「……りょ、了解」

「姿勢を崩せば目線が外れる。そうなれば自分が格好の的になるぞ。気を抜くな!」

「いやはや……サオリは厳しいね」

「当たり前だろう。戦いの場では一瞬の気の緩みが命取りになるんだ――」

 

 先生の銃撃戦はありえない。

 スクワッドを叱咤していた頃の調子に戻っていたサオリは、そのことに気づくのが遅れたが、訂正は控えた。

 

「思った以上に当たらないね。ちゃんと的と光点が重なってから引き鉄を引いてるんだけど」

「フリンチだ。発射炎、発砲音、反動を恐れて銃口がブレている」

 

 フリンチ、と復唱した顎から、汗が落ちた。

 

「余計な力が入ると発射時に体が揺れる。トリガーは指の腹で静かに絞るイメージだ。観念的な言葉だが、『寒夜に霜の降る如く』――」

「寒夜……霜……」

「アリウスの教本にある古い言葉だ。照準を合わせる際は心を研ぎ澄まし、霜のかかる音を聞く胸中に達せよ、という意味だ」

「……やってみるよ」

 

 詰め込み過ぎだろうか、とサオリは思案したが、先生は呼吸を整え、再び射撃姿勢に入った。

 

 それから、セミオートのアサルトライフルから一発撃つ度に、先生は姿勢を正し、次に備えた。的の縁を掠めていた弾が、徐々に中心目掛けて収束していく。サオリの口数も減っていき、空気の破裂する音、薬莢の転がる音だけが、イヤーマフ越しに微かに聞こえるのみ。

 

 やがて、マガジンの三十発を撃ち切った所で、サオリは「撃ち方止め」の合図を出した。

 

「……ハァ、ハァ……」

 

 膝から崩れ落ち、先生は床にうずくまった。射撃姿勢のまま発砲の反動を受け止めるのに、苦労したことだろう。サオリはコンソールを操作して、着弾データを打ち出した。

 

「……!」

 

 予想外だった。最後の一発が、円の中心を綺麗に射抜いていた。

 

「おい!」

 

 サオリは思わず大きく一歩を踏み出した。先生は右胸を押さえて青ざめていたが、駆け寄る彼女と目が合うと、微かに唇の端が上がった。

 

「この結果を見ろ!」

 

 先生の弱々しい笑みに、サオリはヒヨリを思い出していた。苦しいだの辛いだの言っていても甘え上手で、時にはサオリの承認を目で求めてきたものだった。ヒヨリにしたことを、サオリはそのまま投影した。

 

「最後には中心に当たっている。上出来じゃないか。よくやったぞ」

「えっ、あ……その、サオリ……」

「どうした?」

 

 バンバン背中を叩いた後、サオリの左手は先生の頭頂部にあった。先生は苦笑している。

 

「頭を撫でられるなんて、子どもの頃以来だ」

「……まずかったか?」

「照れるっていうか、恥ずかしいっていうか」

 

 先生は紅潮する顔を手で隠そうとしていた。大人が見せる子どもっぽい仕草は、サオリの胸を不思議とくすぐった。だがこのまま手を触れていたら、取り返しのつかない何かに心を囚われそうな予感がして、サオリは手を離した。

 

「ともかく上々だ。安全装置をかけるんだ」

「ま……待って」

 

 マガジンを交換して、先生が立ち上がった。

 

「もう一ラウンドやってもいい?」

「無理はするな」

先生(・・)褒めてくれた(・・・・・・)から、もう少し頑張りたくなったんだ。いいよね?」

「……いいだろう。今度は口を挟まんから、弾切れまで通してやってみろ」

 

 ――大人でも、こんな顔をするのか。

 

 彼の言葉を反芻しながら、サオリは先生の射撃を静かに見守った。

 

 深刻さの欠片もない、射撃場での一幕。だが、大人が見せた無邪気な喜びは、凍える寒さの中で見つけた使いかけのカイロみたいに、ぽかぽかとサオリの心を温めてくれた。

 

 

 * * * * * 

 

 

「んぎいぃぃぃっ! 痛いいぃぃ」

「情けない声をあげるな!」

 

 慣れない姿勢は、筋肉に疲労を残す。そう伝えてストレッチを手伝ったはいいものの、先生の体ときたら、まるで錆びて歪んだドアだ。

 

「先生、いくらなんでも硬すぎるぞ」

「そ、そうは言われても、柔軟体操をする時間はなかなかね……あいっ、あぐぅ~~!」

「言い訳無用! いいか、体が硬ければそれだけ怪我もしやすくなるんだ。静的ストレッチを適切に行えば、疲労の回復も早まる。独力でできる体のケアは怠るな」

「……返す言葉もございません……」

 

 リロードしてからは活力を取り戻していた先生だったが、今度こそ限界のようだ。うつ伏せで大の字の彼を立ち上がらせ、サオリは執務室まで先生の手を引いてやった。

 

 * * * * *

 

 アルバイトの時間が近づいていた。ブラックマーケット外縁部が、今日の現場だ。

 

「お疲れ様、サオリ」

 

 先生が眼鏡を拭いている間にも、机上のプリンタからはドキュメントが出力され続けていた。紙を受け止めるトレーが折れてしまいそうだ。

 

「当番で来たのに、手伝いらしい手伝いはできなかったな。先生の仕事は大丈夫なのか?」

「うん、何とかなるから、こっちは大丈夫だよ。それより、どうだった?」

「どうだった、とは?」

「先生をやってみた感想」

「…………」

 

 サオリの内心に起こったさざ波を言語化するのは難しかった。適切な言葉に迷っていると、先生は椅子を勧めてきた。

 

「私の感想の方から先に話そうか。ちょっと怖くて厳しいけど……私が生徒だったら、きっとサオリ先生についていきたくなると思う」

「それは……何故だ?」

「厳しい指導の最後で、あんな褒め方をされたらね。ちょっと恥ずかしかったけど、あれは効いたよ。ヘトヘトだったのに、一気にやる気が出てきたもの」

「……そうか」

 

 そう語る先生はにこやかだった。言葉遣いが乱暴だったかと振り返るサオリとは裏腹に。

 

「遊びだと思われそうなのに、サオリは真面目に銃の扱いを教えてくれた。自分に真剣に向き合ってくれるのは、やっぱり嬉しいよ。サオリはクールだけど熱い所もあるし、その接し方を一貫できるなら、きっと教え子からの信頼を勝ち取れると思う」

「……優しい先生でなくてもいいのか?」

 

 ――あなたのように。

 

「厳しくて怖い先生にだって、生徒はついてくるよ。そこに愛があれば」

「……愛……?」

「アガペーって言えば分かる?」

「あぁ、倫理のテキストに載っていた」

「サオリの教え方に、そういうものを感じたんだ。無償で、利他的で、きっと時には自己犠牲的ですらあると思う。身に覚えはない?」

「……そう考えたことはなかった」

「多分、スクワッドのみんなも、サオリからのそういう愛情を感じ取っていたと思うよ」

「そうか」

 

 先生の言葉をどう受け止めればいいか、戸惑いを覚えたサオリは、飲みかけのまま放置されていたマグカップに手を伸ばした。ココアは冷え切っていた。しかし、スッキリした甘さが喉を潤し、体の深部に染み渡るようだった。そのまま一気に残りを飲み干してしまうと、サオリは空のカップに一種の快さを覚えていた。

 

「先生に、なってみたくなった?」

「――どうだろうな」

「もし先生になるなら、まずは高卒の資格を取っておかないとね」

「まだなると決めたわけではない。ただ、ほんの少し興味が湧いただけだ」

 

 興味――サオリの生にはついぞ関係の無いことだとばかり思っていた。しかし、奇妙な存在感が胸の襞の間に滲み出て、何となく前に踏み出したいような心地を、サオリは感じていた。

 

「興味が湧いたなら、大きな進歩だね」

「大袈裟だ。取るに足らん」

「いやいや、あのサオリが未来のことを考え始めたんだ。これは記念すべき一日になるかもしれないよ」

 

 先生が、セルフレームの眼鏡をかけ直した。

 

「『全ては虚しい』って、今日は口にしてないね」

「――……!」

 

 それから先生は、マグカップで冷え切ったココアを一気に飲み干した。そこにはいつもの、少し疲れて気の抜けた顔があった。

 

 次回までにやってくるんだよ、と先生は積み上がったテキストをトントンと机の上で揃え、サオリに差し出してきた。

 

「サオリの深い所にかかった錠前が開く時も、案外近いかもしれないね」

「せ、先生」

 

 夕暮れ時の茜色の光が、サオリの顔を優しく照らした。

 渡されたテキストはほのかに温かい。

 確かな重みが腕にかかる。

 爪先から登ってくるむず痒さが、サオリはまだ怖かった。

 

「……バイトの時間だ。行かなければ」

「うん、行ってらっしゃい」

 

 サオリは床を踏みしめて席を立った。

 テキストを何冊も詰めた鞄の尊い重さが肩にかかる。

 

「一つ、教えてくれ、先生」

「なに?」

「その……ハナマルの条件は何だ。どのぐらいの達成率が目安なんだ?」

 

 先生は目を丸くしてから、すぐに頬を緩めた。

 

「そうだね……明確には決めてなかったけど、うーん……正答率九五パーセント」

「なかなかシビアだな」

「高いハードルの方がサオリは嬉しいでしょ?」

「いいだろう。次を楽しみに待っているがいい」

「次……ふふっ、そうだね。楽しみに待ってるよ。その時は、また射撃を教えてほしいな」

「柔軟体操を欠かさずやっていたなら、考えてやる。技術の安売りはしない」

「それが私の宿題ってことだね。分かった。どれぐらいできていたらいい?」

「……直立したまま爪先を触れるようになっておけ。膝は曲げるなよ」

「結構キツくない? ……いや、やっておくよ」

「仕事を理由に怠けるなよ?」

 

 サオリは意地悪く問いかけたつもりだったが、先生は素直に頷いた。

 

「ちゃんと爪先を触れるようになってたら、褒めてくれるよね?」

「ああ」

「頭は撫でてくれる? サオリ先生に、いっぱい褒められたいな」

「は……?」

 

 思わぬ不意打ちに、サオリの頭は急に冷めてから、急に熱くなった。

 

「知るか! ハナマルだったらくれてやる!」

 

 サオリは振り返らずに執務室を後にした。

 余裕を浮かべた先生の顔を、それ以上見ていられなかった。

 

 一刻も早くシャーレを出ていきたくなってホールを駆けると、エレベーターは一階に向けて出てしまった所だった。

 高鳴った鼓動が落ち着くまで、サオリは深呼吸を繰り返した。エレベーターを待つ間、鞄を開いて、宿題の一冊をサオリは見つめ直した。テキストの隅に、「応援してるよ」のコメントが残っている。

 

「……先生、か……」

 

 サオリはキャップを目深に被り直し、与えられた承認を鞄にしまった。到着したエレベーターは、サオリが入ってくるまで待っていてくれた。

 

 

 

 終わり

 




感想などいただけたら嬉しいです。

誤字があったはずなんですが、何度見返しても発見できないので、見つけた人はご指摘お願いします。その場で直せなかった上に時間が空いてしまったのがよくなかった。

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