『こちら異世界、応答願います』 作:調味料
星とはつまり、手が届かないことの比喩である。
いくら手を伸ばしたところで、掴むのは空気の中の塵だけだ。
◆
ある時、空に星が瞬き、そのひとつが重力に捕まって、流れ星として落ちた。
宇宙で
重力に捕まり、地に縛られたその身体の眼で上の故郷を眺めるばかりである。
誰かがそれを迷子と呼んだ。
◆
長い眠りから覚めるような、貼り付けられた鋳型から鉄が剥がれるような目覚めだった。意識は急速に浮上した。
ぎこちない感触の瞼を何度か瞬かせると周囲は自身の手すら見えない暗闇であった。
「っぁー……あー」
喉の調子を確認する声は暗闇によく響いた。
「Ahーもしもし、どなたかいらっしゃいませんか」
誰何の声を出す。ざらついた声であった。それは、もう何年も使ってないスピーカーを想起させた。
しかし、応答はなく。重たいまでの沈黙が辺りを埋め尽くしていた。
臀部から背中にかけてはゴツゴツとした硬質な感触が伝わってくる。
「Who am I ? Where am I ?」
目覚めた時から、頭より疼痛が身体を貫ぬいていた。
ソレを振り払うように目を強くつむり、手を開いて閉じる動作を二、三回繰り返す。やがて滑らかに動くようになったのを確認してからゆっくりとした動作で立ち上がった。
◆
果たしてそこは洞窟のようであった。
化け物の胃袋のようでもあった。
高さは背丈より数十センチは高い程度、幅は両手を目一杯に広げると指先が僅かにざらついた花崗岩のような岩肌に触れるほどだった。そこを天井に急に出現する出っ張りに頭をぶつけぬよう四つん這いで進んでいく。
頭痛。
なにも思い出せない。
どうしてここにいるのか。
なぜ、目が覚めたのか。
それだけでなく、知的生命体の根幹を成すであろう『記憶』すら欠落していた。名前も、所属も、何もかも。
「ふっ、……はっ」
自身の口から漏れる微かな息遣いだけが洞窟の全てだった。視界はゼロ、音もない。あまりの情報の少なさに、洞窟のカラカラに乾いた冷涼な空気が肌の末端から存在そのものを溶かしていくようですらあった。
出口は──?
その一心で進み続ける。
◆
変化があったのは何十分かは進んだ地点であった。
道の先から荒い息遣いが響いてくる。
彼女は誘蛾灯に釣られたカゲロウのように音の発生源に近づいていった。
「どうされましたか?」
「っ! 誰か……いるのか?」
ガチャリと金属の擦れ合う音。
その奥からまだ声変わりしたての若い声が聞こえてきた。
「はい、居ますよ。���はここに居ます。……おや、名前が分かりません」
「は、ははぁ。こんな所に人が……? マジか。こりゃ、ツイてる。この際幻覚でもなんでも構いやしねぇ」
若い声には時折くるしそうな喘鳴が混じっている。
彼女はゆっくりとその声に近づいていった。
「呼吸が乱れているようです。落ち着いて、深呼吸をしましょう。手を握りましょうか? 大丈夫、こわくありませんよ」
「アンタ、ギルドの冒険者か? なら頼みたい事があるんだが」
声の主は話の流れを切るように問いかける。駆け足で急ぐかのような口調だった。
彼女はゆっくりとかぶりを振る。
「わたしはあなたが想定している存在では無いようです。ですが、お力になれるのなら、どうぞ仰ってみてください」
「奥にある遺物を取りに来たんだが、ヘマしちまってな」
ダンジョンでヘマは死に繋がると言って彼は笑った。
彼女はその内容がいまいち理解できず、少しでも情報を得ようと闇に目を凝らした。
「足、捻っちまって。すまん、入り口近くまで手を貸してくれねぇか。報酬は約束するからよ。──アルムの名にかけて」
しん、と岩に音が沈んでいく。
彼女は一度目を閉じた。
(──情報が無い。何もない。判断が付かない。彼は誰だ? 自身は誰だ? そもそもここは?)
端的に言って混乱していた。
だがそれでも断片的な知識はある。宇宙に浮かぶ星、氷の下を泳ぐ魚、人の営み。
第一原則 2058年 廃止
第二原則 2060年 削除
第三原則 20��年 《検閲済》
【最重要事項】人を、助けよ
「ダンジョン……dungeon? ええ、あなたに発生したおおよその事情は承知しました。私はあなたに手を貸しましょう」
悪いな、と闇の中から声がした。
彼女は声の主の近く(と思われる箇所)にしゃがみ込んで、手探りで肩を探した。
「それにしても、ここは何処の国ですか? オセアニア……ユーラシア大陸の何処かでしょうか」
考察な金属や艶やかな革の手触りの服を過ぎた後についに肩を探し当て、ヒョイと持ち上げる。彼の腰のあたりからがちゃがちゃと道具類がぶつかる小さな音がした。
「おせ……? なんの事だ?」
そして男の腰に付いていた紐を器用に使い、肩と肩を固定する。こうして万が一にも男が転ばないように処置をした。
彼女は若い声の主に耳を傾けながら闇の中、中腰になりながら出口を目指した。
◆
天地創造の神話は各地に存在している。
大地を鉾で大地を作ったもの。
はじめに言葉で世界を規定したもの。
何もせずとも全て元々あったもの。
彼が語った“神話”はそのどれとも違うものだった。
その出だしはこうだ。
原初の混沌とした世の中に、魔女という者がいた。
正確な姿は伝わっていないが、魔女と呼ぶらしい。
その存在は大いなる力と杖を持って人々の前に現れた。
そうして杖を一振り、二振り。
それで世界が
それだけで世界の法則がずたずたに引き裂かれ、繋ぎ直され、過去とは絶対的な断裂とも呼べるほどの進化が起きた。
◆
「そんなワケで、ふぅ……」
若い男は言葉を発するため一息吸い込む。
そして短く低く唸ったかと思うと肩にかかる力を抜いた。
「ゴホッ……まぁ、なんだ。色々端折って、一攫千金狙いのバカどもは“遺物”を探しに潜るんだわ」
「ゆっくり、ゆっくりです。足関節捻挫の際はなるべく体重を反対側にかけるようにしてください」
「あんまし話聞いてねぇな?」
「? 聞いておりますよ。わたしにも耳はあります」
「いや……そりゃ、そうだろうが……」
話が途切れる。
若い男の荒い息遣いだけが響く。
だからというわけでもないが、彼女は口を開いた。
「その遺物とはそこまで人を惹きつけるものなのですか?」
「ああ! そりゃ、そうさ」
男は嬉しそうに声を上げた。
がちゃ、と腰についた何かが揺れる。
「聞いた事くらいあるだろう。レルム王国の“消えない炎を纏う剣”」
「天空要塞の“時を逆さにする砂時計”」
「世界の何処かに出現する“星まで届く梯子”」
どれもデータにはない。
彼女は暗闇の中、資産を空中に彷徨わせた。
「……ゼェ、ハァ……。今度は、アンタの番だ」
「わたしの、ですか?」
すると今度は彼女に水を向けてきた。
ざり、と地面の少し凹んだ箇所に足を擦った。
「ああ。アンタも話も聞かせてくれよ。何か、あるんだろう……こんな……ゴホッ、所にいる理由が」
男は唾を飲み込む。
そして、くぐもった声で述べた。
「その鈴みたいな声でしゃべってくれよ……そうすりゃ、気も、紛れる」
「わたしに記憶はありません」
は、と男の方から息が漏れる。
数秒経っても返答がなかったから無視をされた物だと思っていた。
しかし、彼女は考え込んでいただけだった。
「なので、あなたの期待に応えられる回答では無いかもしれません」
構いやしないよ、若い男はくくくと笑った。
彼女は記憶を引き出すように目を上に向けて、つぶやいた。
「ただ、メッセージを受信したのです」
──「誰か……くそっ……」
──「誰もいないのか……?」
「誰かが残したそれを。広い広い空で行く先が見つからずに迷子になっていたそのデータを見つけたのです」
彼女が一歩踏み出すたびに、若い男の体からガチャガチャと擦れる音が鳴った。彼は口を閉じてじっと話を聞いている。
「わたしには、そこに残された意味も、感情も。理解する事が出来ません。自分の心すら分からないのです」
──だから届けなくてはなりません。それを知るために。
「それがわたしの使命です」
洞窟内にひんやりとした空気が降りた。
彼女は黙々と足を進める。ヒュウと風が前から吹き込んできた。
「そりゃ、優しいな」
若い男はいっそう脱力していった。
「いいえ? そういうのもではないと思います」
彼女はきっぱりと否定した。
付け入る隙のない、純然たる事実を教えるような口ぶりだった。
「どこに貴方の言う“優しさ”がありましょうか」
沈黙。
どちらともなく黙り込み、がちゃり、がちゃりと男の身につけている金属が擦れ合う音だけが響く。
そうして十数分ほど歩いた頃。
だんだんと洞窟内の高さも出てきて、今では手を伸ばしても天井に手がつかないくらいには広くなっていた。
すん、と男が鼻を鳴らした。
「おれはここまででいい」
そうして肩を支えられたまま、カチ、と壁際にかけられた何かを操作した。
次の瞬間にはあたり一帯にオレンジ色の光が広がった。範囲はそこまで広くは無かったが、暗闇の中の二人の手先までは見通すことが出来た。
彼女が自然にその装置に目を向けると、それは少し錆びた緑色の塗料が為された四本の支柱があり、中心に歪曲したガラスの付いたものだった。大きさは手のひらより大きなくらい。少し曇りのあるガラスの中心にはへき開した鉱石のような物が鎮座しており、それが光を放っているようであった。
「ここから先は、アンタだけで行け」
ランタン、と呼ぶべき照明器具を操作した若い男は自身の腹に右手を当てがっていた。
彼の腰には折り畳まれた弓のような物が吊るされている。音を立てていたのはソレだった。
「俺はもう
彼女が視線を男の腹部へと滑らせる。破れた風船のように、鳩尾から臍にかけてが斜めに抉れていた。
拳一つ分入るくらいの凹みだった。色黒い赤色の縁に、ビビットカラーのピンク色が場違いのように縁取っていた。
「襲われる可能性が高い」
──何に?
──おそらくは、この傷を付けた
彼女は動きを止めた。
置いていく? 彼を?
それは無いだろう。それはやってはいけないだろう。
(──なぜ?)
なぜ?
なぜそれがいけない? 彼の意思を尊重することはいけない事か?
彼女は動けないままでいた。
「早く!」
若い男が鋭い声で言う。
彼女はやや迷った末に、彼の手を引いた。
出口のほうへ。
「おい、やめろって。置いていけ」
「……それは、そうなのですが……」
彼女は口をつぐむ。
頭が止まったように思考がまとまらなかった。
それでも一筋、確かな物があった。
「ここで一人になるのは、いけません」
だからなのか、その言葉だけは喉から意識せずとも外に出ていた。
「それはとても……よくない事のはずだから」
確信だった。
そう感じさせるだけの硬い声であった。
若い男はその発言を受けてポカンとしたようだった。
そして1秒、2秒、時間をかけて呆れたような、仕方がないような笑みを浮かべる。
「アンタは──」
次の瞬間、ズズンと地面が揺れ、沈み込んだ。男の言葉はブレて切れた。
同時に目の前には、赤茶色の壁が下から上へと出現した。
「ごっ……!?」
袋から空気が無理やり押し出されるような、呻き声。
壁にかけられたランタンが揺れて、影が四方八方に揺れる。
「がいふぐッ……ろーるが……!」
彼女は男の掴んでいた手を引いた。妙に軽かった。
ふと男を見ると、見ると両膝から下と左腕が、乱雑に引きちぎられたように消えていた。
その傷口に緑色の光が集まるがどうも弱々しい。出血は抑えられているが、それでも止まらず水音を洞窟に響かせていた。
ゲコ
ゲコ
ずるりと動いたソレは、滑った代表をランタンの光に反射してこちらを見ていた。
その蛙は瞬きをする。
時間がやけにゆっくり感じられて、彼女は固まっていた。
「に……げろ゛ッ!!」
ゴボゴボと録音機越しのような不鮮明な声がする。
その声に押し出されるように無意識に足は前へと動き出した。
一歩、足を踏み出したらあとは加速していくだけ。
どんどんと音が遠ざかっていく中で彼女はちら、と後ろを振り返った。
若い男は床に人形のように転がり、目と口と、鼻と。穴という穴から赤黒い血を吹き出していた。そのすぐ後ろに通路目一杯の巨体をほこる蛙がいる。
彼はこちらに向けて口をぱくぱくと動かした。
い け
その意味を読み取った瞬間。彼の意図が理解できた瞬間。
人を助けろ
人を助けろ
人を助けろ
「う」
「ああぁっ」
ぐるりと回転し蛙の方へと向かっていった。
そうしてスライディングをしながら蛙の股下を男を引き摺りながら抜ける。重量が減ったせいか抵抗はなく、蛙の後ろに回り込むことに成功した。
そうして流れるような動作で男の腰についていたもの──折り畳まれた弓を引き剥がして蛙に向かって構えた。
弓は黒色の深い木材で、二つ折りされたアーチェリーのような機構を持っている。後ろに備えてあった矢筒には矢が2本。
折りたたみの真ん中部分を握ると、がしゃんと音を立てて弓が開いた。
そうして蛙の目玉に向かって矢を番え放った。
ぱしゅんと射出された矢は、蛙の表皮をわずかに傷つけたのみだった。不安定な姿勢から放ったせいで引きが甘かった。
ゲコ
蛙は嘲笑うように鳴いた。
男を蛙の目の前という位置から離すためとはいえ、蛙の後ろに入ってしまった。
出口の方は巨体で塞がっている形、袋のねずみだ。
ちら、と男を見る。
──なぜ帰ってきた。
その目は恨みにも満ちた形相であった。
蛙を見る。
ゆっくりとこちらに近づいてくるその様子は、どこか獲物を弄ぶ猫のような感じですらあった。
2本目、かつ、最後の矢を番える。
このまま射出したのでは、あの巨体は仕留められない。仕留められないのならこのまま通路の奥まで逃げたとていずれ圧殺される。
──その前にこの男が失血死してしまう。
今は不思議な緑の光が出血を多少押し留めているが、だんだんとその輝きも弱まってきている。早く洞窟から脱出し然るべき医療機関に搬送する必要があった。
矢を肩を使って引く。
狙う場所は。
狙う場所は……。
どんな生物にもおおよそ備わっている、比較的柔らかな弱点。
情報器官であり、脆いその場所。
眼球──ではない。
蛙ならば。
獲物を飲み込む際に、目玉を奥に引っ込めることが出来るはずだ。
つまり、目を狙うことは、文字通り目に見えた愚策だ。
では、どこを狙うべきか。
ゲコ
蛙が鳴く。
向こう側を向いていた巨体がゆっくりこちらを振り返る。
風は出口から奥へと向かって吹き込んでいるので、間に蛙が入り生臭い沼地のような香りが漂ってきた。
狙う場所の答えは──口内。
どんな硬い生物だろうと保護されていないその場所。
主要器官まで一直線に届き、大きなダメージを与えられる場所。
この蛙は最初、地面の下から大口を開けて喰らい付いてきた。
ならば、もう一度捕食行動の際口を開けるはず。
その瞬間なのだ。
そここそが勝負どころであり、命の天秤がどちらに傾くかが決まる。
それでもただ狙ったのではすぐなら口を閉じられでもしたら詰みだ。
だから隙を作らなければならない。蛙の意識を目の前の彼女と男から一瞬でも外さなければならない。
ゲコ
蛙が鳴く。
近づいてくる。
足元から排水溝の詰まったような、男の呼吸音。
時間はもって3分。
ゲコ
蛙の射程圏内に入る。
その大きな生物は口の端をピクピクと痙攣させ、ほんの僅かにピンク色の舌が外へと──
今!
彼女はグイ、と手元にあった紐を引く。
すると蛙の足元にあったそれがビン、と伸び、蛙の少し後ろでくぐもった粉砕音。
更に紐を引けば、拳より大きな岩が紐に引かれて蛙の後頭部へと直撃し砕けた。
洞窟の岩の中は花崗岩質であった。
ならばその特性として、熱に弱い。
あのランプは壁かかかっていた。必然、その周辺は何度も持続的に温められ脆くなっている筈だという読みは大当たりであった。
彼女はスライディングの勢いのまま、男と自身の肩を固定していた紐を岩の出っ張りに引っ掛けていた。
そしてそれを引き、紐の力に耐えきれなくなった岩を壁から蛙へとぶつけたのだ。
手札が圧倒的にない中の、突貫の策。
それでも、この万金にも値する隙を逃さぬよう矢を複雑な機構のある弓にセットし、素早く狙いを定める。
蛙の口は突如として背後より襲ってきた衝撃にだらしなく開いており、決して外さぬよう息を止め──
ばちん、と火花が散った。
腕で一回りは出来る大きさの、ゴムのような舌がしなって彼女ごと壁に叩きつけたのだ。
まるで交通事故でも起きたかのように可哀想なほど無抵抗に壁に押し付けられる。
視界が明滅する。
地面に倒れる。
肺が動かない。
矢を。
矢を放たなくては。
暗く点滅し、砂嵐の混じった視界での中、彼女は落ちた矢を探して手を振る。
あった。
無惨にも、シャフトの半ばから折れた矢が。
辛うじて二つに分かれてはいないが、手で持ったら取れてしまうような、首が取れた矢が。
「ぅ」
足元では動きを止めた男の呼吸音が、だんだんと小さくなっていくのが聞こえた。
「うぅぅぅう……!」
笑う膝を無理やり押し曲げる。
横倒しの状態から膝立ちになる。
そうして、ブルブルと震える手でゆっくりと弓を構えた。
当然折れた矢では狙いなど定まる理由もなく。
ぶらんぶらんと鏃が振り子のように揺れていた。
ゲコ
蛙が鳴く。嗤う。
獲物を追い詰めたと歓喜の表情を取る。
──なぜ帰ってきた。
男の問いがフラッシュバックする。
なぜか。
なぜ?
(わからない)
そうすることが
命の終わりが近づいてくる。
折れた矢は、この状況を端的に伝える詩のようですらあった。
バカみたいに終わり、という状況を。
どうして、どうしてこんな無駄なことを。
素直に逃げればよかったのに。
そうすれば、こんな最悪な状況は招かなかった。
それでも。
それでも彼女は矢をつがえて、蛙から目を離さない。
当然、折れた矢は飛ぶはずはなく、そもそも震える力の入らない腕では引くことすら困難。
だけど最後まで弓を蛙に向かって構え続けた。
足元の男の命が、威嚇行為を続ける自身の時間の分、生き延びられるように、と。
致命傷を負ってる男にはほとんど意味のない延命かもしれない。
それでも動いたのは、自身が少しでも
もしかしたら『気持ち』というものを少しでも理解できたのかもしれないと彼女は胸を張って、震えながら弓を可能な限り引き絞った。
【──認証】
手元の弓から合成された音声のような声が聞こえた。
瞬間、弓についた滑車が一人でに回り出す。その速度は瞬きの間に加速していき、やがてそのエネルギーが木製の弓全体に波及し複雑な機構全てが音を立てて移動し始める。
彼女の胸からは青い光が立ち上り、ちょうど心臓の真上に浮かび上がり、幾何学模様を描きながら右腕へと伝っていく。
その刺青のような光の筋はやがて弓矢へと到達し、収束し始める。
あたりの風が逆巻く。
彼女の髪の毛がふわりと重力を無視して浮かび上がる。
なんの変哲もない鏃の先は青白い光でコーティングされ、雷が踊る。
ガション、ガション、と一際大きな音を立てて弓の変異は最高潮を迎える。端と端が拡張し、洞窟の壁に突き刺さらんばかりに広がり、アンカーとして固定され、湾曲が更に大きく深くなる。
それはもはや攻城兵器の様相を呈していた。
備え付けられた大小様々なすべての滑車が甲高い音を立てて回る。
そして寸分の狂いもなく、ぴたりと止まった。
矢の先は臨界点を迎えたように発光している。
「──」
何かに導かれるように指を離せば、穴を熱線が貫いた。
◆
洞窟の外は夜だった。
森の中ようで、木々の隙間から星が顔を覗かせていた。
足を引き摺るように、彼女は這うような動きで洞窟から若い男を背負って出てくる。
肩と肩を結んでいた紐は使ってしまったから、男がズレる。それをなんとか背負い直す。随分と軽くなってしまった身体を。
やがて洞窟の出口から数メートルも行かない所に、木々が開けた広場のような場所があった。地面には柔らかな草が茂っている。その下に男をゆっくりと横たえた。
男の呼吸は浅く、緩慢であった。
「は……はは」
彼は笑う。
その様子を彼女は横にしゃがみ込んで見つめた。
「あの……中で死ぬもんだと……」
月明かりでお互いの表情さえ見えた。彼女は自身がどんな表情をしているのかわからなかった。おそらく無表情のままだろう。
「最後に……イイもんが……俺の、クソみてぇな……人生でも、とびきりの」
男はそこで言葉を唐突に切ると、彼女の方へ目線を動かした。
血で赤く染まった目だった。
「アンタは……果たせよ、使命。それが……きっと……」
男の目が焦点をなくしたように虚になる。
濁ったビー玉のように空を見つめる。
「アンタの顔も、……はじめてよく、見れた」
消えてしまう、取りこぼしてしまう。
訳もわからず、彼女は男の体を掻き抱いた。
この意味を知らなければ。感情を。届けなくては。己は伝達役、伝達装置。
「空と海の色だ」
最期のセリフは、やけにはっきりと聞こえた。
そのすぐ後にかれの胸は上下を止めた。
酸素の交換する音は聞こえなくなった。あたりはしんと静まり返った。
届けなくてはならない。
1人、彼女は重力に負けたように、体をのけぞらせて空を仰ぎ見た。
そのどこまでも続く紺碧の空間には、月が3つ浮かんでいた。
否、月ですらない。それぞれサイズの違う何かの衛星だ。
彼女は気がつく。
ここは地球ではない。
地球は遥か彼方、空にあった。
その時ふと、男の胸にキラリと光る物があることに気がついた。
手探りでソレを引き出してみると、首からかかるブロンズ色のドッグタグのような物であった。
息が詰まった。
彼にも帰りを待つ人がいたのだ。
彼女は白魚のような指で優しくそれをもぎ取った。
どうしてあの時、動いたのだろう。
どうして、いまはこんなにも息がしづらいのだろう。
(助けたのは機能。動いたはプログラム)
そうして涙のひとつもこぼれない己を観測し、洞窟で感じたものはただのデータ誤認であると認識し、彼女は自分がただの機械であると知った。
「こちらは未知の惑星。応答願います」
【▶︎ データ送信先が見つかりません】
データは届かない。返事はない。
明らかに距離が離れすぎていた。
そうであっても彼女はなにも感じず、
ただ歩いた。
銀に光るものを胸に抱えて、ひとり星空の照らす夜道を歩いていった。
遥か彼方。
届く見込みのない宇宙を目指して。
第一話 しにやがれ 終