自分の事を兄だと慕ってくれる無口系箱入り娘(物理)を、闇の沼底から救い出せ! ~留年、回避、ゼッタイ!~   作:true177

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010 悪夢

 空席だった陽介の胸に収まった彩は、身寄りのない少女そのものだった。いくら言葉で呼びかけても震えでしか返してこず、体を起こそうとすると腕を掴んでくる。よく見知った人に、傍を離れて欲しくなさそうだ。

 

 頭から黄色の血を流して、陽介の服に貼りついている。顔をこすりつける拍子に頭も触れて、体液が染み込んでいく。新品も中古も気にしない性格で本当に良かった。

 

「……ゴキブリ、もう死んだから……。彩、顔上げて」

「……陽介ぇ……」

 

 強情で凛々しい引きこもり少女は、水でふやけていた。泣き顔を見せたくないのか、はたまた体温から離れたくないのか、胸に埋もれて出てこない。

 

 近所の子で心のざわめきが小さいとは言え、いい歳をした女子高生に泣きじゃくられているのだ。異性を意識しないわけがない。バタ足でカーペットを殴打する彼女に、どう言葉をかけていいか分からない。

 

 初夏の熱風が、気流に乗って部屋内へとなだれ込んだ。布団や毛で保温されていた室温が、ほんのり暖められていく。飛び跳ねて頬に付いた涙も、熱くなっていった。

 

 ……どう扱ったらいいんだよ……。

 

 取扱説明書を探すが、感情を剝き出しにした女子高生をなだめる術は記載されていない。マニュアル外の事態には自力で対処しろと言うことだ。何とも無責任な製造元である。

 

 頭を撫でて気持ちを落ち着かせたいのはやまやま。髪に沿ってほぐしていくのは、尖った茎を丸くする効果があるらしく、小さい子がしきりに頭を突き出すのはこれが原因だ。

 

 が、しかし。彩の頭には、先述したゴキブリの残骸が纏わりついている。まさか触覚が映えてくる緊急事態にはならないとしても、このままではいただけない。彼女も、一刻もや箔呪縛から解放されたい思いでいっぱいだろう。

 

「……それじゃあ、押しあてたままでいいから。適当に、シャワーで流すぞ」

「……うん……」

 

 どんな細かい要求も突っぱねていた彩が、従順な奴隷に成り下がっていた。精神がいたぶられて、情緒の紐が丸裸になってしまっている。

 

 見知らぬ異性から罵倒されるのは、変態がのみ成せる業。そのような中年男女が街中をほっつき歩いていると想像するだけでも吐き気がする。将来、陽介がこの仲間入りをしていないことを願うばかりだ。

 

 彩は、拒絶がスタンダード。三顧の礼で機嫌を戻してくれれば良い方で、運が悪いと三十分も待たされる。並大抵の精神力では、彼女と付き合いを持つことは不可能であろう。美少女に蔑まれる需要はあっても、無言の静寂で三十分待たされる性癖は無いと信じている。

 

 インターホンでの応答なしに玄関の鍵の音がして、最初に生える感情は何だろうか。恋人の家ならば、幸福感。顧客の家なら、緊張感だ。

 

 陽介の心にくっきり刻印されるのは、どうしようもない焦燥。親し気にドアを開ける行為そのものが、平常の彩でないことを物語っているのだ。集団に囲まれて何かを要求されたか、それとも……。彼女の心を傷つけた脅威が差し迫っていると考えた方が良い。

 

 ……さてと……、あんまり危ない所は避けるようにして……。

 

 Gの死体をてっぺんに乗っけた彩を抱きしめ、陽介は立ち上がった。万が一死骸が落下しようものなら、特殊清掃のスペシャリストを呼ばなくてはならなくなる。代金は、有効な解決策を見つけ出せなかった陽介持ちだ。

 

 彼女の両親が留守にしていた事が、ここまで都合よく働いた日はない。年頃の女の子を先導して風呂場に連れていく男子高生など、事情を知らない者が見かければ不純異性交遊だと警察に通報される。

 

 二人三脚で階段を降り、スムーズに洗面までたどり着いた二人。髪に引っ掛かっていたGの脚を振り払って、洗面台の上へと乗せておくことにした。風呂場の排水口にGが詰まりでもしたら、目を封じてトラウマを回避しようとした彩の努力が水泡に帰す。

 

 ここからは、彩一人でも出来る。着替えに巻き込まれる前に、陽介は洗面所を脱獄しようとした。

 

 奇妙なことに、駆け足で境界を踏み越えたはずの足が空回りして地面に降りてこない。床が蹴れないのでは、前への推進力も生まれない。摩擦がゼロの物理学者が歓喜する空間にでも降り立ったのだろうか。

 

 いや、そうではなかった。陽介を洗面所に留まらせたバネは、独りぼっちになった彩の右腕であった。左手で両目を覆って、極力ゲテモノを視界に入れないよう努めていた。

 

「……行っちゃ……だめ」

「そうは言っても、なぁ……。頭を洗うなら、どうしても……」

「……このままで……、いい……」

 

 砂糖が浮かぶお汁粉も腰を抜かす甘味が、陽介の舌を突き抜けた。まだ小学校に上がる前、男子にケンカで負けた彩がいつも大粒の涙を砂場に落としていたのを思い出す。

 

 あの頃も、彩はそうだった。陽介のやることなすこと、全て受け止めていた。あくどい知恵を持った大人に彼女が心を許さなかったのは、ファインプレーである。

 

 近所の女の子に服を引っ張られ、やむなく二人で風呂場に入ることになってしまった陽介。彩が何でもない同級生なら怪しい香りが充満していただろうが、妹分とあっては色仕掛けも通用しない。彩を詐欺の中軸に据えてデート商法を決行した犯罪集団は、データの収集不足である。

 

 自然と、彼女の前に足を出した。無防備な背中の後ろについていきたくなかったのだ。犯罪に手を染めているようで、罪悪感が拭えない。

 

 先に待ち構えているのは、地獄か天国か。思考をロックされ、陽介はコックを手前に引いた。

 

 瞬きをしたその一時に、事件は完結していた、

 

『パン!』

 

 手をこまねいていた暗殺屋に心臓を打ち抜かれたのか、と目線を下に向けた。が、陽介の生き生きとした細胞は一つたりとも欠けていない。赤い噴水も出ておらず、負傷者はいなかったようだ。

 

 何秒か遅れて、頭の頂点から忍び足で鈍痛が響いてきた。プラスチックの刀で思いっきり斬られた子供時代が懐かしい。

 

 続けざまに、洗面器が湯船へと落下した。衛生管理は良好で、腐った水は溜まっていない。上空から出現したのはおかしな話であるが。

 

 断片的なパーツが組み合わさって、真相解明のヒントになる。状況からして、陽介の頭部を狙撃したのは無生物の洗面器しか無い。

 

 この家の持ち主は、彩含めた久慈家。この家で発生した全ての事件の責任は、久慈家に帰する。

 

 陽介が身を翻すと、目を白黒させて前後にふらつく彩がいた。どっちつかずの歩みで、アリが背中を押せば空の湯船へ沈んでいきそうである。顔に出やすい人格に移った彼女は、犯人が自身であることを告白していた。

 

「……上から洗面器を吊り下げてたのは、どこの誰だ……? 泥棒が入ったなら、物音が聞こえるはずだし……?」

 

 容疑者から目を逸らして、風呂場の鏡や背後の小窓を見やる。下あごを支配して白状させても、面白くない。

 

 誘導尋問だと理解していても、彩は敷かれたレールの上を指示通りに脱線するしかなかった。法定速度すれすれで前輪が空を飛び、綺麗な放物線を描いてクッションへと激突する。

 

「……ドッキリ……忘れてた……」

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