自分の事を兄だと慕ってくれる無口系箱入り娘(物理)を、闇の沼底から救い出せ! ~留年、回避、ゼッタイ!~   作:true177

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014 離れたくないんだ

 室内でこのワードを耳にしたのは何年ぶりだろう。精神的に成長した女子高生の口から飛びだしたのだから、筋肉が硬直して動かなくもなる。世界に名を轟かせるマッサージ師でもほぐせやしない。

 

 ……この家で鬼ごっこ……!?

 

 頭へ回る血流が不足してくる時間帯、頓珍漢な発想をしてしまうことはよくある。精査する内に馬鹿げた考えだと見抜くケースが多く、世には出回らない。

 

 漫画に出てくる大富豪の庭があるならまだしも、久慈家の庭は木も植えられない狭さ。家庭菜園のレンガ造りの囲いに生えるのは、雨水で育つ雑草だけ。とても逃げ回る広さは持ち合わせていない。

 

 冗談の採点マシーンを起動させると、そこには『0点』の文字。猿でもキジでも笑わない。笑顔になってくれるのは接客中のファストフード店員くらいのものだ。

 

 音速の鞭を、彩が再び振り上げた。心理戦で優勢でも、近接戦に持ち込まれると一気に覆される。油断ならない少女だ。

 

「……もちろん……、私が……」

 

 名詞の代用として、しなる鞭が壁を叩く。塗装に傷が付き、ピンクの壁紙の下から無地の壁が出現した。ピンクの色紙を上から貼ったという予想は、ある意味正解だったわけだ。

 

 どうやら彩は、本気で鬼ごっこを実施するつもりのようである。追いかける側も逃げる側も戦闘モードに入り、圧力で地盤沈下する未来はそう遠くない。

 

 勝手にカウントダウンを始めた彩を、陽介は手で制止した。双方の合意なく契約を交わすのは、法律違反である。

 

「待て待て……。もっと冷静になれよ、彩。何をどう間違えたら、家の中で鬼ごっこをしようと思うんだ?」

「……それじゃあ……、かくれんぼ……?」

「どっちも同じだ。……まだマシにはなったけど」

 

 忍者屋敷ではないのだ、壁紙に変装してドロンは期待できない。バリエーションが少なく、長時間もたせることは至難の業。土地勘のない陽介には、家の間取りが絶望的なハードルとなって押しよせる。

 

 仮に彩が上手で見つからなかった時、陽介は帰るかもしれない。大声でその旨を勧告しておいて、返事が無ければバッグを片手にこの家から撤収される。そういった危険を孕む競技なのだ。

 

 唐突に立候補した、二つの子供遊び。『鬼ごっこ』と『かくれんぼ』に、深い意味が混ざっているのではないと考える。平常時でもたまに歴史上の人物を誤認する彩が、網をめぐらす策を完成できるはずがない。

 

 ……そうなると、何だろう……? 俺をいじめ

たいなら、さっきの形勢逆転は起こらないし……。

 

 妹としての待遇に不満を募らせてデモを起こしたのなら、条件なしジャンケンのような融和政策を採らない。陽介なら、スタンガンを砲弾にした自作銃で無理やり主張を受け入れさせる。

 

 時計を気にする仕草と言い、実現不可能な遊びを提言してくることと言い……。重要な因子が、裏で絡まっているような気がしてならない。アイスの売り上げが増えたから海難事故も増加するのではなく、気温が上がるから両者が起こるのだ。

 

 陽介は、一つの突破口に辿り着いた。外界からの光はか細く、ダイナマイトの爆発でこじ開けられそうな隙間。外からコンクリートで埋められたら、ひとたまりも無い。

 

 地上には、陽介の命運を持つ彩がいる。彼女の気分次第で、陽介は生き埋めにされるのだ。基本的人権は、地底人に適応されない。

 

「……彩、もしかしたらだけどさ……」

「……な……、何かな……?」

 

 目の渦の奥行が、動揺で遠ざかったり近づいたりしている。理論が的中しているかはさておき、肋骨が守りたいものが背後にあるのは確定だ。鉄壁かと思われた砦の正門を、鉈と言論で突破したのである。

 

 ……こんなこと言うのは、野暮すぎると言うか、ダサいと言うか……。

 

 導火線に着火し、それが失敗に終わった時。一時的な社会的死が、大口を開けて待ち構えている。少なくとも、拡散されて近所の笑いものになる。

 

 人付き合いが広くない陽介だが、人からの評価を気にしない人種ではない。陰口をたたかれると心を病み、称賛されているとやる気が湧き出てくる。気持ちが身体に伝染する仕組みは、交友能力を半分切り落とした陽介でも同じだ。

 

 石橋をたたいて渡ってきた、今までの道。声にして伝えようとしている言葉は、腐った橋を駆け足で通過することになる。初めての挑戦であり、木が負荷に耐えられなければどぶ川に落下してしまう。

 

 それでも、良かった。何せ、陽介にはエベレストなど比にならない困難な課題が待ち受けているのだから。『彩の救出』という未解決問題が。

 

 意を決して、彩に一歩接近した。理性を受け持つ脳の部位は昼飯のおにぎりを吐き出そうとするが、根性で喉を封鎖して通さない。

 

「……もしかして、俺から離れたくないから?」

 

 ああ、あなぐらに入って戸を閉めてしまいたい。文字に起こして手紙にしたためてみると、何と気取って力の無い文章なのだろう。絶世の美女が思い込みでこのような発言をしてしまえば、百年の恋も冷めきってしまう。

 

 息を殺して、彩の顔色を窺う。彼女は何と伝えられたか信じられないようで、時空が停止していた。未来人なら、再起動の方法を知っているかもしれないが、現代人に概念を修復するのは不可能だ。自然回復を待つしかない。

 

 ネタのダシにされてもリスペクトはされない陽介を、彩は慕ってくれていた。過去形になっているのは、今が不明瞭だからである。不登校の回数が増えてから自らの殻に閉じこもる傾向が加速してしまい、仮の雪女になってしまった。

 

 ……彩に嫌われるなら、それまでってことだから……。

 

 ひょんな発言から砕け散る仲など、最初から無かった方がいい。最後に幸福を取り立てられるなら、平坦な道を選びたい。

 

 ポンコツ型コンピュータ彩の再起動が、数秒の時を隔てて完了した。瞳に、無彩色以外の色味は付かなかった。彼女の目は、いつでもモノクロである。

 

 ゆっくりと、亀が歩くペースで口が開いた。

 

「……う……、ん……」

 

 小さく、頷いた。陽介を見ていられなくなり、視線を他へ逸らしていた。陽介の賭けは、大当たりを引き当てたのだ。

 

 鬼ごっこでもかくれんぼでも、彩には関係なかった。陽介を家に引き止めたい一心で、部屋からの脱走も禁じていたのである。警察が到着するまでの時間稼ぎではなかったようだ。

 

 口数の少ない彩が、珍しく立て続けにしゃべった。

 

「……留年したら……会えないから……、せめて……遊べるうちに……!」

 

 単語数の最多記録を更新した。これは、彩研究学を進展させる大きな材料になりそうだ。

 

 彩は、留年のことなど片時も忘れていなかったのだ。Gやハチが乱入して頭を乱しただろうが、肝となるワードは忘れられなかった。

 

 平均台を進んでいて、両脇には針の山。足を踏み外すと、まち針に全身を串刺しにされる。家庭科の授業をあまり熱心に取り組んでいなかった罰だ。

 

 道を間違えると死ぬ環境で、誰が死を忘れられようか。安全地帯に身を潜めていたとして、手放しで喜べるわけが無い。一度そのエリアを出てしまえば、結局命を天秤に吊り下げて移動することになるのだから。

 

 陽介の目標は、最初から存在などしなかった。『留年』を一日だけでも記憶から薄れさせるのは、余計なお節介だった。所詮他者からの『重い槍』で、持たされている方は重圧にしかならない。

 

 ……結局、俺のエゴか……。

 

 独りよがりの視界で作られた、幻想の少女。陽介を全て受け入れる、理想の少女。甘い夢を見るのは、深夜アニメだけにしておくべきだった。現実と妄想ととっ違えて、底なし沼に嵌まったのである。

 

 彩に、手を握られた。小学校期以来の、懐かしいにおいがする情景だ。おんぼろフィルムで写真を撮ったかのような、画質の悪い絵である。

 

「……陽介……、今日……楽しかった」

 

 丸と書いてバツと言う彩の顔は、慈愛の天使に包まれて穏やかだった。インターホンでの塩対応は、いったい何だったのだろう。

 

 労いの言葉が、筋肉各地に溜まった乳酸を排出していく。店頭に並んだサーモンの切り身が復活し、川の上流へ泳いでいくようだった。

 

 ……この顔を、絶やして欲しくない……。

 

 顔面筋を故意に使うゼロ円スマイルは、健康に良くないと言われている。感情に連動しない表情は、故障の原因になるのだ。

 

 彩のややたるんだ目尻に、業務色は感じられない。純粋な彼女の本心で、星が輝いている。今夜見つけた一番星よりも、何倍も明るいことだろう。

 

 陽介は、彩の肩に手をかけた。ここから二週間、協力して這い上がるパートナーに。

 

『バシン!』

 

 競馬で負けた中年男性の怒号かと思ったが、皮膚がヒリヒリ痛んでいる。

 

 彩の反射神経が発動して、陽介は退けられた。幸福ムードはぶち壊し、醸成された雰囲気も一からの再スタートだ。

 

「……気軽に……触らない……」

 

 レディに軽々しく触れることは、未だに彩の中で禁忌なようだった。

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