私は信じていた、アビサルハンターの彼女たちが、何事もなくイベリアでの問題を解決し、ロドスへと帰還することを。しかし同時に、最悪の事態も予測していた。狂人号を取り巻く一件、シーボーン、深海司教、そして、スカジ。杞憂であって欲しいと、いや、なくてはならなかったのだ。これが現実となれば、世界が終焉を迎えることぐらい簡単に想像がつく。
しかし、現実は残酷だ。私の最悪の予測は、見事に、いや想像をはるかに超える形で的中してしまった。慌てることもなく、ミヅキは私に告げた。
「イシャームラが、目覚めるよ」
私はすぐに支度を整え、ミヅキと共に海へと向かった。海は、怪しげな沈黙を貫いている。
海へと入って行き、海の洞窟を進む道中、名もなき騎士の亡骸、シーボーンとなり果てた騎士と出会った。今は亡きはずのカジミエージュの騎士に、その風貌はよく似ていた。私から漂う潮の香を嗅いだのか、その騎士は何も言わず、私たちの前をゆっくりと歩き続けた。幾度となく繰り広げられる恐魚との戦闘で、騎士はその身を気にすることなく槍を振り続けた。抵抗に犠牲はつきものだ。騎士はとうに満身創痍だったが、そんなことを気にしている様子はなかった。たとえその身が砕けようとも、彼は最後まで抗い続けるのだろう。
深く深く、海の洞窟を下って行った後、突如として騎士は言葉を発した。
「オ前、から、潮ノ臭イ、ソレ、ガ、同族ヲ、引キ、寄セ、る」
その直後、槍をミヅキへ振りかざした。ミヅキは、海の魔物と完全に同化したシーボーンだ。ミヅキの思いの強さで、人の形を保っているに過ぎない。それに感づいたのか、騎士はミヅキを海神と同様と扱った。
ミヅキと私は、急いでその騎士から逃げるように海岸へと戻って来た。騎士は、海岸まで私たちを追いかけ、ミヅキへ一太刀入れると、ひとり言を呟いた。
「お前ハ、波ヲ、引き寄セ、る」
それに相槌を打つかのように、騎士が連れていた天馬のような羽獣が、低くいななく。
「否。同類と、違ウ、土ノ香、リ……」
「種ガ、海、に落チ、紺碧ノ、花が開ク……」
「コレ、は……波、デは……なイ……」
羽獣が、警戒するように耳を澄ますと、騎士のひとり言は、そこで止まった。
「大、波は―――」
押し寄せる波音が、羽獣の鳴き声が、吹き荒れる風の音が……すべてが、この瞬間に消え去っていた。
一瞬の沈黙の後、波が立ち、災厄が再び降臨した。
イシャームラが、大群を率いて潮の中から姿を現したのだ。この時私は全てを悟った。イベリアはもはや唯一の被害者ではなく、この大地のすべてが『大いなる静謐』に沈んでいくことになると。
騎士は高揚感に震えているのか、それともシーボーン同士、無意味な殺し合いに抵抗しようとしているのか分からなかった。だが、聞けばきっと、騎士はこう答えただろう。
「これは己の心がもたらした、抑えきれない高揚感」
だと。何故ならこの騎士は、目の前に現れた怪物こそが、長年追い求めて来た獲物なはずだからだ。一度目の『大いなる静謐』の時、彼が仕留められなかった大波の根源の根源。
「Ishar……mla……」
彼は今なお、その名を覚えていた。
狂人が笑狂いながら、槍を波へと向けるさまを――波に打ち負け、海中へと没していく姿を、私は見つめていた。騎士を仕留めたイシャームラは、私とミヅキの方へと視線を向けた。
《ミヅキの思考の欠片、深海を漂う》
海の小島にて、触手を使って僕は、押し寄せる恐魚の群れを押し返し懸命にドクターを守る。イシャームラがこちらに意識を向けた以上、ここにドクターを置いて行くのは、その命を絶つことに等しい。
だけど、イシャームラのフェロモンが、僕に直接命令を下す。
「その人をここへ置いて行け」と。
僕は人類の存亡とかはどうでもいいけど、ドクターのことだけはずっと気になっている。僕の知る限り、ドクターは人類の滅亡を見届けることなど決して望まない。だから、僕はドクターを生かすと決めた。海神を、大群を拒絶して、ドクターを陸地に返すと決めた。
本来同胞であるシーボーンの封鎖線を突破して、ドクターを浜辺へと下ろすと、出来る限りの笑顔で僕は告げた。
「僕がシーボーンの進軍を遅らせるから、仲間たちにもそう伝えてあげて。僕もシーボーンだから、向こうも信じてくれるはずだよ」
ありがたいことに、ドクターは僕の言葉を信じてくれた。
僕は、走り去っていくドクターの背中に、笑顔で手を振る。
「これで、ドクターのための……ロドスのための時間を、少しは稼げるかな……」
バイバイドクター、また会えるといいな。
僕は大きく息を吐き、自らのフェロモンを操作した。
一瞬、シーボーンたちは明らかに混乱していた。それもそうだ、同族のはずの僕が、明確に敵意を向けてきているのだから。だけど、その混乱もすぐに終わる。どうやら大群は僕のことを、敵性個体と判断し、排除を優先することにしたようだった。
大群は僕目掛けて押し寄せて来た。そして、僕を飲み込んだ。
僕の敵意を持ったフェロモンは、大群の中でも鮮明に浮かび上がっていたと思う。でも、次第に「僕」は崩れて、同化して、消えた。
♦
一人のシーボーンの肉体が崩れた。人の形を留めず、大きなクラゲへと変貌し、それでも、最低限生命機能を維持する細胞だけが動き続ける。しかし、それもやがて動きを止め、また分解が始まる。
崩れていく体を囲うように、恐魚やシーボーンが渦を巻く。分解され、自分たちの栄養となることを待っているのだ。
しかし、そのうち待ちくたびれたのか、イシャームラの呼びかけに応じてのことか、それらは一つの個体への執着を止め、海面へと集まって行った。沈みゆく彼だけを残して。
沈みゆく中で、肉体が、触手が絶え間なく縮み、退行し続ける。そうしてついには小さな細胞へと変わり、海流に乗って深海を漂う。やがて枯れた大木、『蔓延の枝』の枝に止まった。
その大木は、全てのシーボーンの育ての親であり、稚魚たちが枝に止まる細胞を食らい、己の栄養とする。ミヅキの細胞の隣には「それ」のものも止まっていた。イシャームラにわが身を与えてしまった「それ」はすでに死と同義であり、今この瞬間も、シーボーンの餌となっていた。
一匹がミヅキを食らおうと口を近づけると、大樹の枝がミヅキを覆い隠した。
他にも養分はある、一匹は自分の大祖先と喧嘩をするつもりもなく、他の物を探しに行った。
ミヅキの細胞が乗った枝は、ひっそりと海中で輝く。きっとこれから先、何年も。