濁る世界を「アレ」と見つめる   作:古魚

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《「彼女」の思考の欠片》

《思い出した》

 

 イシャームラは失敗した。「アレ」は大群の判決を冷静に受け入れたものの、戦うためだけに生まれた自分が、どうして生きる屍も同然の小枝などに敗北したのか理解ができなかった。

 

 いずれにせよ、あの戦いのあと、イシャームラの行く道はもはや大群が求める方向ではなくなった。

 

 必要とされなくなった「アレ」は、自らを封印して再び長い眠りに落ち、そこに私、スカジという意識が浮かび上がる余地が生まれた。

 

 私は夢を見た。

 

 その夢の中で、私は高潮を操り、陸地を横切って、何かを見つけ出そうとしていた。しかし私が旅立つ前に、その夢はひっそりと幕を閉じてしまった。

 そして目が覚めれば、夢と共に記憶も消えてしまう。私は懸命に何かを思い出そうとするものの、頭の中には大群から伝わってくる思いやり以外何もなかった。

 

 違う。

 

 違うの。

 

 私の居場所は、こんなところではない。私の居場所は、もっと浅くて狭いバスタブでよかった。

 

 私は、なぜ同胞に対してそんなことを思ってしまうのかが、自分でもわからなかった。同胞たちはいつも親切で、必要とあらば喜んで命さえも捧げてくれるというのに。その行動は狂信や支配から来るものではなく、ただ平等と無私の心ゆえのもの。

 

 それでも、大群と共に泳ぐことと、大群から遠ざかることの間で、私は後者を選択した。

 心の奥深くから、一種の嫌悪感が湧き出てきた。たとえ死を迎えても、シーボーンの仲間にはなりたくないと、私は思った。

 その理由については、私自身にもわからない。シーボーンが自らの同胞を嫌悪することなどありえるのだろうか? 自分で問うが、私には答えられなかった。

 

 とにかく、陸へ……陸へと……。

 

 ハッキリとしない意識で、ただ「スカジ」という人物の本能が、私を陸へと泳がせた。

そこには、会いたい人がいる。あの人が、いる。

 

 どうしてシーボーンが人間に会いたいなどと思うのだろうか? 私にはわからない。

きっと今の私の意識は、あらゆる面でシーボーンの本能と衝突している。

 

 シーボーンの「私」と人間である「スカジ」とで揺れている。

 

 けれどもついには海岸までたどり着き、水面へと浮上して、果てしなく広い浜辺を見渡すに至った。

 

 ふと、フードを被った誰かの後ろ姿が視界に入る。

 

 私は喜び、思わずその人の顔立ちを、その人と共に暮らした日々を思い出そうとした。

 

 そして続けてアビサルハンターのことを、エーギルのことを、そして海のことを──

記憶は潮の如く満ちて、私の心を、大岩に当たった波の如く、打ち砕いた。

 

 父のこと、母のこと、そして兄弟姉妹のこと。ウルピアヌス、ローレンティーナ、グレイディーアのこと。過去、現在、未来に至るまで、私は、スカジはすべてを思い出した。

 

 私は、すべてを失っていた。

 

 人類にはなれない怪物で、シーボーンにもなりきれない人間。

 

 私は潮に身を隠したまま、美の象徴を恐る恐る眺めている。姿を見せたいと思う反面、姿を現すのは怖かった。

 

 たとえドクターが許してくれても、私は、自分を決して許せない。

 

 今できるのは、ただ遠くから眺めて心の隙間をほんの少し埋めることだけだったが、そうしているとまた、大きな罪悪感に襲われてしまう。

 生きることは重荷になったというのに、死はこんなにも遠くにある。

 

 私は空虚の化身となっていた。

 

 私は、もうスカジとしての身体を持ってはいない。海に溶け、イシャームラから分離されたこの器は、もう空っぽ。私はスカジでありイシャームラの器だったが、イシャームラが海に溶けた時、同時に私も、海に溶けてしまった。

 

 このスカジの意識も、きっと一時期の高潮に過ぎず、潮が引けば、きっと途絶える。

 

 だけどまた高潮が起これば? 私は、またこうして意識を獲得してしまうの? 

 

 だとしたら、これは私への罰なのね。全てを自らで破壊してしまった、海と言う監獄にとらわれた囚人への、永遠と続く罰。ああ、囚人でもないわね。だって私は―――

                           ―――もう人にはなれない。

 

 私の喉へと、一つの歌が湧き上がってくる。

 

 それは幾度となく口ずさんできた歌で、その音節や発声の一つ一つに至るまで、すべて完璧に仕上げられているはずだった。けれども今聞いてみると、それはまるで地面に落ちたガラスのように感じた。いくつもの破片に砕かれて、二度と元には戻らない。

 

 それでも、私は歌い続ける。歌うことだけが、私に残された唯一のできること。

 その歌は罪をあがなえず、悲しみを和らげることもできない。けれども彼女は涙を流して歌っていた。

 

 心の震えが、歌声から音程を奪う。涙が舌先に落ち、苦渋が心に流れ込む。次第に喉は枯れてきて、歌は嗚咽でとぎれとぎれになっていく。

 

 だが、それでもなお、私は歌い続けていた。

 

 聴衆はいらない。そこまでの高望みはしない。

 

 歌うことこそが、私の人生に残されたたった一つの意義ならば、ただ歌い続けるだけ。

 

 

《ただ歌声が響く》

 

 ミヅキを見送った私は、静まり返って行く海を見つめていた。やがて帰還を望む声が受信機に届き、踵を返す。

 

 一歩目を踏みだそうとしたその時、何か聴こえたような気がして振り返り、海を見た。

そこには波の音だけがあり──

                       ―――そのほかには、何もなかった。

 

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