ブラック会社の帰り道に異世界に迷い込んだら、ちょっとうるさいけど野菜くて明るい妖精さんに癒してもらえる話です。

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 久々に深い情熱をもって書けました。そして、こちらはそこそこ挑戦的な内容でもあります。ただ耳かきやって、マッサージされたりするだけでそんなに癒されるものか?もっと気味の悪い位欲望を全開にしなければ癒される作品にはならなのではないか。そのような熱量でこれを執筆しました……。

 その結果……ウウン、そこそこの内容どまりだな。そのような結論に至りました……。まあですが頑張って書いたので投稿します。そこそこ長いですがよろしければドウゾ。



リラクゼーションFAIRY ~明るい妖精さんが『癒し』を提供してくれる店~

 

『リラクゼーションFAIRY』

 

 その奇妙な看板を見つけたのは仕事帰りの事であった。夜の暗闇の中であるというのに、まるで昼間のようにその周囲だけが明るく、また涼やかな風が吹いていた。それは普通に考えれば異常な事であるが、残念なことに俺には酸素というものが絶望的に足りなかった。

 

 ややブラックな職場を後にして帰り、また働きに出るという生活を続けていると何か人生を生きるためのエネルギーが消失してくる。つまりは、そんな状況であった。

 

(リラクゼーション……癒し……?FAIRY……これなんて読むんだっけ……。)

 

 癒しという言葉につられる俺は、まさしく蟲のようであった。看板の文字だけ見れば怪しげな店なのか、マッサージ屋なのかすらわからない。しかしただ癒しという言葉につられて、そんな奇妙な店に引き込まれるように俺はドアを開けて入っていった。

 

 

 ドアを開けた途端、ブワアという音と共に何か良い香りの風が飛び込んでくるのがわかった。それは香水のような匂いではなく、天然百パーセントと謡いたくなるような木々の安らぐ香りであった。

 

「いらっしゃ~い!」

 

 そんな声が聞こえた。部屋の奥の方から羽を羽ばたかせながら、何か小さなものが飛んできていた。初めは遠近法の問題かと思っていたが、実際にはそうではなかった。彼女自身が小さいのである。さらにその存在は俺を見て怪訝な顔をした後、二、三度旋回して俺を観察した。

 

「……いや、誰よ!アンタ!」

 

 ビシッと指を俺に向けながらその存在は言う。俺はそこでようやく思い至った。ああ、妖精だ。コレ……いやこれっていう言い方は彼女に失礼だろうか?そのように思った。

 

 

…………。

 

 

……いや、妖精が何でいるんだろう?妖精って空想の生き物だよな?俺の疲れた頭はかなり遅れてその当然の結論をはじき出した。

 

 目の前の妖精は未だ不審な目をしながら、顎に手を当てて何かを考えている様子であった。

 

「うーん、この国の人間くらいは全員覚えてるつもりだし……しかもコイツ妙な格好してるし……。そうだ、アンタどっから来たのよ!」

 

「え、いやぁ、会社からですが……。」

 

「カイシャ?って何よ……。あ、まさか!」

 

 その妖精はドアの前まで飛んでいく。不思議な事であるが、向こう側の扉とこちら側の扉のデザインは大きく異なっていた。こちらは木の根が絡みついて出来たデザインのドアで、まるで自然にできたように見える。向こう側のやや人工物的な建物とは異なっているのである。

 

 そこまで考えた時、妖精がドアを開けて体を半分向こう側に出した。その途端、彼女の朗々と響く……これは怒声なのだろうか?それとも悲鳴なのだろうか?あまりにも美形なる声のせいでいまいち判別がつかないが、何かを叫んでいた。

 

「ぎゃー!!やっぱり!!誰か悪戯でアタシの店に魔法かけたわね!!変な世界と繋がってんじゃない!!」

 

「……。」

 

「しかも何よコレ!こっち側のデザインまで凝っちゃって!嫌がらせにどんだけ手間暇かけてんのよ~~~!」

 

 

 そんなぎゃあぎゃあと喚く声が聞こえた。……もしかしたら美形すぎる声は褒めすぎたかもしれない。

 

 

 

 

* * * * * * *

 

 

 

 その妖精と俺は席についてとりあえず茶を啜っていた。その妖精は人間用だとかいう湯呑を二つ出してくれて、自分もその一つを飲んでいた。彼女の──たぶん彼女であってると思うのだが──体は小さい。人間用の湯呑がひざ下あたりまで来るほどである。しかしそれを卑しくも勇ましく、ごくごくと飲んでいる。その大きな体積がどこに消えているのかは全くの謎である。

 

「さて、それで。」

 

「ええ。」

 

 彼女が話を切り出した。美味そうに茶を啜り、機嫌よさそうに風に身を任せている。……どうでも良い話であるが、こちらは昼のようだ。夜目に寄った目に心地よい日差しがやや毒だった。

 

「アタシは妖精族の長をやってるものよ、まあ一番古株ってだけだけどね。そういうわけで、そんなに敬わなくても良いけど、軽んじられすぎるのも嫌いだからそんな感じでヨロシク!」

 

 ビシッと彼女はポーズをとりながら指をこちらに向ける。先ほどもやっていたが癖なのだろうか。そう考えながらも……これは悲しき社畜の特性であろうか。訳の分からぬ状況であるというのに、俺は名乗られたからには名乗り返さねばならないという使命感にかられていた。

 

「はあ、ご丁寧にどうも……(*1)これ、名刺です。」

 

「名刺……?うーん、ありがとう……でも読めないから置いとくわ。」

 

 妖精長(*2)はポイっと明らかにそれを見ずに名刺を投げた。あれではほとんど捨てているようなものではないか。俺は半ば呆れた心持でそれを眺めていた。しかし妖精長はそれを少しも気にしない快活さで言葉を続ける。

 

「ここは『ルルイド』。騎士と妖精と湖の街よ。ちょっと前までは戦争してたんだけれど、今は平和で過ごしやすい良い国よ!(*3)うーん、他に何かあったかしら!」

 

「……質問良いですか、妖精さん。」

 

「ん、何かしら?」

 

「俺はどうやれば帰れるんですか?」

 

「……アンタねぇ、妖精が観光案内してあげてるって時に……まあその扉から出れば帰れるんじゃないかしら。」

 

「かしら、ですか。」

 

「だってアタシ、何の魔法かけられたか知らないもん。いや時間かければ勿論解析できるけどさ~、どうも変な術式が使われてるみたいでね~、あ、そうだ!アンタの世界の魔法も教えて……てあれ?」

 

 妖精長は帰り支度を始めた俺を見て、怪訝な顔を向けた。

 

「何してんのよ、荷物なんて纏めて。夜逃げの準備?」

 

「……夜逃げはしませんが、まあ帰ろうかと。」

 

「ちょっとちょっと、なんでよ!」

 

「なんで、と言われましても。あちらが僕の故郷なので。」

 

「そういうことじゃな~く!アンタ、癒されにここに来たんでしょ?」

 

 ああ……そういえば……そうであった。すっかり忘れていた。だが忘れていたというよりも、忘れるくらい薄れていたのだ。日常生活でのしかかるストレスというものが、この木の家の中にいることで、ここから見える草原が風に揺れるのを見ることで、騒がしいがどこか優しさを感じる妖精と茶を飲むことで……俺は今の今までそれを忘れてしまうくらい癒されていると感じていた。

 

 それを認めるのは、或いは気恥ずかしい事であるのかもしれない。しかし、繰り返すが俺の脳には絶望的に酸素が足りていなかった。俺はそれをそのまま伝えることにしたのだ。

 

「俺はもう結構、癒されたみたいなんですよ。森林浴……ですか? それとも自然セラピーでしょうかね。ともかく、もうなんか気力が湧いてきたようなんですよ。」

 

「ふんっ。」

 

 妖精長が鼻を鳴らす。それはそれほど行儀のよくない行動だというのにもかかわらず、どこか様になる品のある振る舞いなのであった。彼女はそのまま音もなく羽ばたくと、その軽く細い指で俺の額を軽く小突いた。

 

 体格も大きく違う。恐らく彼女の身長は五十センチと少し程度しかない。俺との身長差は優に一メートルを超える。それに多分、それほど力も込められていなかったろう。恐らく大した一撃では無かったはずであるが、俺はそれだけでバランスもとれずに後ろによろめいた。

 

 トスンという柔らかい音と共に、心地よい布地の椅子が俺を受け止めてくれた。妖精長がぐいと顔を近づけながら、俺の瞳をのぞき込んでくる。彼女の力強い色彩の柳緑の瞳が、その意志の強さを伝えてくるようであった。彼女はそのまま、いっそ睨むようにしながら口を開いた。

 

「気力が何だってのよ。心だけ回復した気持ちになったって、身体も休まらなきゃ碌に魔法だって撃てないのよ?」

 

「あれ……よろめくつもりなんて別になかったのに……。」

 

「つまりそれだけ疲れてんのよ、アンタは。日々たまった疲れが、ただ寝たり、自然の中でいるだけで全部取れるわけないでしょうが。」

 

「疲れてる……俺が……まだですか?」

 

「まだもまだ、『大まだ』よ!(*4) ……アタシの店にはそういう魔法が掛けられてるの。疲れてる人間を引き寄せる魔法ね!アンタもそれに惹きつけられてきたってわけよ……!」

 

「そうなんですか、じゃあ……。」

 

「少なくともそれに引っかかるほどクッタクタにアンタは疲れてるってことね!……まあ、つまりちゃんと施術するまで帰さないのでよろしく!」

 

 彼女はそのままビシッと指を向ける。……ああ、そうなのか。確かに俺は疲れているのかもしれない。こんな怪しい場所、状況にいるというのに碌に抵抗する言葉すら思い浮かばなかった。

 

 或いは彼女の人柄……いや妖精柄か? ともかくそういう、彼女の快活な雰囲気が知らぬうちに、俺という一人の現代人の強靭な警戒心を打ち砕いていたのやも知れない。少なくとも俺は疲れているという事実を認識させられると、先ほどまでの澄み切った清涼な感覚はどこへやら、蓮の眠りの中に落ち窪み、すっかり立ち上がる気力すら失われていた。

 

「施術ですか……?」

 

「そ、施術よ。アンタはこの国の人間じゃないみたいだけど……まあそんな細かいことどーでも良いわ! もう戦争なんて飽き飽きなのよね。これからはアタシはその真逆の事をやって生きるのよ。」

 

「……それは、素晴らしい……生き方ですね。」

 

「……なんだか眠そうね?」

 

「え……そうですか……?」

 

「そうよ。めっちゃ反応遅いじゃない!」

 

 彼女がそのように指摘する。俺はその言葉の後に思わず欠伸を噛み殺す。ああ、確かに……。俺は眠いようだ。妖精長が笑いながら言葉を続ける。

 

「まあ眠っちゃっても良いわ。その間にやっておくから。まあ勿体ないと思うなら起きてても良いけどね!」

 

「どんな……施術をするんですか?」

 

「え?聞きたい?それはね……気分よ!」

 

「……気分。」

 

 怪訝な声が思わず漏れた。気分、本当に大丈夫なのだろうか。

 

「まあ気分百パーセントってわけじゃないわ。患者ごとに症状が違うんだから、合わせないといけないのよ。まあ半分くらいは気分だけどね!」

 

「……。」

 

 半分……思っていた以上に気分の比重が大きい。大丈夫、だよな?

 

 しかし俺はもはや抵抗する気力もなく、またこのルルイドとかいう場所に、彼女の人柄に絆されていた。なんか……信用できそうだな。まあ……いいか。そんな不完全な信用の元、俺は体を預けることにしていたのであった。

 

 

* * * * * * *

 

 

「私の経験上……『癒し』ってのは生きる気力が満ち満ちている状態に戻ることだと思うわ。」

 

「そう……なんですか?」

 

「ええ、そうよ。なんか色々人間たちがやってる店があるけどね、結局のところ……栄養のある食事、十分な睡眠、健康的で規則正しい生活リズム、温かい風呂、快適な寝床……こういうのが一番『効く』のよ。」

 

「へえ……。(経験上って、何歳なんですか?という質問は流石に控えておいた。)」

 

「なんか変な顔してるわね。……ちなみに妖精は一々年齢なんて覚えてないわ。ていうか人間の社会ではそういうの聞くの駄目なんでしょ?アンタの世界は良く知らないけど。」

 

「……(勝手に喋ったくせに……しかし、なんでわかったんだろう?これは本当に不明だ。何かの魔法だろうか。)」

 

 

 妖精長は顎に手を当てて、眠そうな俺を眺めていたが、指をぱちりと弾いた。どうやら残り半分の気分とやらの腹が決まったようであった。

 

「うん、じゃあまずはこれね。清潔であるってのは健康の第一歩よ。アンタ、向こうの部屋にシャワーがあるから浴びてきなさいな。」

 

 ……いきなり想定外なものが来た。俺はてっきり先ほどの話は例え話だとばかり思っていた。リラクゼーション、何て名前なのだからマッサージとかされるのだろうと。シャワーとは想定外だ。ていうか浅い眠りに入り始めた体は、その命令に拒否反応を示していた。眠い体は温水で眠気を覚まされることを嫌がっていたのだ。

 

「……眠いですよ?」

 

「いいからいいから。」

 

 妖精長がぐいぐいと俺の背中を押しながら、扉で仕切られた奥に押し込める。俺の小さい抵抗の言葉はむなしくも黙殺され、その脱衣室に押し込められた。

 

 

 

「お、おお。」

 

 その中は神秘的な空間であった。まだ何もひねっていないというのに、木の洞で出来たシャワーからは温水が吐き出されはじめている。さらに木の枝の先のようなものが動き、俺の体からいそいそと衣服を剥ぎ取り始めた。

 

 何という手際の良さだろうか。俺はいつの間にかスーツを脱がされ、素っ裸にされていた。あれだな。昔映画で見た歩きながら服脱がせてくるあれだ。ああ、確かにこりゃ魔法だ。魔法使いってのは本当なんだな、あの人。……いいや人ではないか。

 

 俺は本当に馬鹿馬鹿しい事であるが、その時初めて魔法の存在を知覚したのである。

 

「わ、ぷっ……あったけぇ。」

 

 そのシャワー……であってるのだろうか。多分妖精長さんもその呼び方をしてたから良いのだと思うが……その木製のシャワー(腐らないのも魔法だろうか)から噴き出た温水を俺は全身で浴びながら、心地よさを感じていた。眠気にまみれたままの体だ。もしかしたらこの状態での入浴は危険なのかもしれないが、そのシャワーは勝手に足に、胴に、腕に頭にお湯をかけてくれるのだ。さらに耳や顔に湯がかからない様に、さりげなく枝の先を使って抑えてくれるのである。

 

 ああ、確かに……。これは……うん。『いいから、いいから。』……だな。心地いい。

 

「ん、冷たい……シャンプーか。」

 

 俺の頭に何か冷たいものが垂れた。するとお湯の噴出は停止し、俺の頭に何かが伸びてくる。枝なら痛そうだな……そう思っていたが伸びてきたのは柔らかそうな葉っぱであった。細かく水を弾く健気なそれが、良い香りのする頭の上の洗髪剤を押し広げてくれるのである。

 

 ワシャワシャ……ワシャワシャ……。

 

 強くない、弱くもない……そんな中間の力加減。それを適切に表現する語彙というものが、とろけた脳では出てこないのが口惜しかった。……それほどに。

 

 ワシャワシャ……ワシャワシャ……。

 

 そのシャワーというものは……あの妖精さんが言っていたように『癒し』をもたらしてくれるのであった。温いお湯が膝からかけられ、それがゆっくりと頭の上に昇って行く。泡にまみれた頭部を、再びその葉が柔らかくもみほぐし、洗い始めた。

 

 

 サアサア……シャカシャカシャカ……。

 

 サアサア……シャカシャカシャカ……。

 

 

 泡がすっかり洗い流されると、汚れと共に疲れやストレスもそのまま洗い落とされたかのようにスッキリとしていた。ああ、すごいな。……癒される。なんか、ずるい程だ。妖精ってのはシャワーだけでもこんなに便利なものなのだろうか。これが俺たちの世界に広まったなら、風呂嫌いは八割方風呂好きに転向するに違いない。それほどに心地良かった。

 

 

 そんなことを半分眠った頭で思っていると、今度は体に冷たい液体がかかった。ああ……体も洗ってくれるのか? ……ていうかなんか、シャンプーはともかく、身体は恥ずかしいのだが……。

 

 俺のそんな微妙な抵抗感も知らず、葉は俺の体に伸び続けた。

 

 

 

* * * * * * *

 

「ふう。」

 

 便利だ。体を拭くことまで自動でやってくれるとは。様々なものが自動化されている現代にだって、中々こんな施設はないだろう。

 

 俺たちの世界にも昔は魔法があったという俗説がある。しかし、機械技術の発展の果てに駆逐された技術だと。そうであるとするならば、俺たちの世界にあった魔術とはよほど大したことのない物だったのだろう。少なくとも、俺はこの不思議な技術が蒸気機関や電気に劣っているようには思えなかった。

 

「ん、あがったわね!それじゃ、そこに腰かけなさい!」

 

 シャワーから上がりホカホカと蒸されたシュウマイのようになってみると、多少目も覚めていた。彼女の若干やかましい声も、別に気にならなかった。……いや声量自体は大きいのだが、眠い時も別に邪魔には感じなかったな。不可思議な声質……なのだろう。

 

「ここ、ですかね。」

 

「うん……よーし!丁度いいわ!」

 

「……。」

 

 彼女は読みかけらしい本と眼鏡を机に置いて、こちらに羽ばたいてきていた。……本を読んでいたようだ。なんか……自由だな。現代の日本で店員が業務中にこんなことをしていたら、恐らくどこぞの面倒な輩がつけたクレームが嵐のように積み重なることだろう。少なくとも、俺の会社はそういう雰囲気だ。

 

 いやそりゃあ、シャワーの音をじっくり聞かれるよりはずっとましなのであるが……。

 

「どうだったかしら?」

 

「良かったです……。身綺麗になると心身がスッキリしますね。体が軽くなったようですよ。」

 

「ふふん!そうでしょ、そうでしょ……。あのシャワールームの魔法はアタシの自信作だからね!でもま、身綺麗ってのは、ちょ~と足りなんじゃないかしら。」

 

「……どういうことです?」

 

 妖精長が僕の耳にその手を当てた。茹で上げられた体に、その低めの体温の指がひんやりと柔らかく、微妙に沈んだ。

 

「耳の中、よ。ここはジャブジャブ洗うわけにもいかないからね。」

 

「耳……ですか?」

 

「そう、よ!見たところ結構汚れが溜まってるみたいね!やりがいがあるってもんだわ。」

 

「え……やりがいって何……何をするっていうんです?」

 

「ま、つまりはこうね。次の施術ってことよ!洗ってあげるわ!」

 

 彼女がそのまま手を合わせる。ゆらり、ゆらりと青い光が不可思議にその手から広がり始めた。彼女が力をこめる様に両手を開くと、そこには空に浮かぶ手のひら大の水玉が浮かんでいた。その微妙に伸縮を繰り返す水球に一瞬、困惑した顔の俺が映った。

 

「洗う……ですか。」

 

「ええ、洗浄、お掃除、ウォッシング♪ 言い方はどれでも良いわよ~♪」

 

「いや言い方が気にかかってるわけではなく……あ、ちょっと!」

 

 彼女の両手が俺の両耳の前で止まった。その両手の上には、ゆらゆらと蠢く水の塊がとぷり、とぷりとその体を揺らしている。重力のない宇宙空間では、表面張力により水はひと塊にまとまるという。つまりはそのような、清浄でゆらめく朝露の塊のような物が彼女の両手にはあったのだ。

 

 彼女は若干先ほどよりも声を抑えながら、しかしそれでもなお良く通る不可思議な声質のまま、ゆっくりと喋り始めた。

 

「拒否権ってのはあるわ。でもね、結構良いものよ。これって……どうかしら?」

 

「どうって……。」

 

「……。」

 

 しかしながら、俺の腹は既に決まっていたのだ。前述のとおり警戒心というものは、既に打ち砕かれてしまっていたのである。ただの数時間の間に、既に目の前の妖精が信用ならない悪戯好きな怪物としてではなく、一人の信頼のおける知人のように思い始めていたのである。

 

「お願い、します……。あの……優しく!優しくでお願いします……!」

 

  緊張の入り混じった声で俺はそのように注文を付けた。思い返してみると……何かこう……もっと言い方はなかったものであろうか。

 

「ふふ……。」

 

 彼女の顔が一瞬、にんまりと蠱惑的にほほ笑んだ。俺はそれを見て、一瞬だけその軽率であったかもしれない選択を後悔した。しかしまあ、それは杞憂であった。彼女は次の瞬間には、元の春風が吹きぬけるが如く清涼な表情に戻っていた。

 

「了解!いいわよ!ちゃんと優しく、やってあげるわ!」

 

「お、お願いします……あのホントにやさ……。」

 

「じゃ、入るわよ!」

 

 ……この妖精は時々俺の言葉のいい終わりを待たない。多分、せっかちなんだろう。そうして心の準備を終える前に施術は始まった。

 

「お、おお!?」

 

 思わず声が漏れた。多分の想像通りではあった。その水滴が耳にゆっくりと入ってきた。決して驚かせることなどない様に、やさしく。しかし驚いたのは、水であるとばかり思っていたのは実はそれは温水であったのだ。シャワーよりも温く、どちらかと言えば体温の方に近い位の温い湯……それが耳の中で緩やかにぐるぐると流れを作り始めていた。

 

「サプサプサプサプ……っとね!熱くはない?それとも丁度いいかしら!」

 

 そんな声が温水のフィルター越しに、若干のくぐもりを載せて聞こえた。……懐かしいようだ。久しく忘れていたが、学校に通っていた時分はこうして、水中から先生の呼びかける号令の声を聞いたものであった。俺はしばらく遅れて返答をした。

 

「……え……あ……丁度いい……です……。」

 

「ふふん、中々でしょう!……温度は良いみたいね!それじゃ、続けていくわよ!」

 

 その言葉と共に若干流れが変化する。今までは耳の表面を慣らすように撫でるだけであった、その水の流れが奥から手前へ、手前から奥へ……ぐるぐると長細い渦を描き始めた。その言葉と共に──ああ、確かに俺の耳は少し汚れていたようだ──耳の奥から強い痒みを感じ、思わず目をつむった。

 

「サアサア、ジャプジャプジャプ……。」

 

 そんな言葉が、目をつぶってやや敏感になった聴力の奥で聞こえた。ゴポゴポゴポ……水中にいるような泡の混じった水音……。耳の中の平衡感覚がやや狂うような感覚も続き、まるでゆるやかな滝壺の中でぐるぐると回るようであった。しかし、それはそれほど苦しいものではない。まるで水製のベッドで眠るような感覚であった。

 

「張り付いてみるみたいね……! ちょっと強くしようか……。」

 

 水流が再び変化する。やや水流が早く動き始める。緩やかな滝壺にいたはずの俺の身は、いつの間にか山を駆け下りる急流の中に潜り込み始めたようであった。しかし、ゆらり、ゆらり……と。岩を避ける葉の如く、その水に俺の耳が傷つけられることはなかった。むしろ心地良さがやや増したくらいであった。

 

 耳の奥の大きな垢が、一掻きでではない。ゆっくりと川辺の砂のように削り取られ始めていた。少しずつ、本当に少しずつだ。傷つけることもないように、自分で浮かび上がって海へ旅立つように……少しずつその垢が削り取られて行っていた。

 

「んじゃ、一回出すわよ。」

 

「ん……お……。」

 

 妖精長の言葉と共に、耳から水が抜け始めた。くぐもっていた音が復活し、水の代わりに耳の中がスッキリとした清涼な空気に包まれた。……こうして一度、水の中経験すると……こちらの世界の空気というのが澄み切っているのが分かった。大気汚染というのがろくにされていない世界なのであろう……。

 

「ン……こうして、こう……セェイッ!!」

 

 彼女は気合の掛け声とともに、取り出し浮かべた耳垢の混じっているであろう二つの水球を、指を力強く振って一纏めにし、さらに用意されていたらしい箱の中に振り回すようにしながら叩き込んだ。

 

 その箱の下に伸びた排水のためらしい網目状に組まれた木の枝から、じわり、じわりと水だけが排出されていく。恐らく中に汚れ取りのための紙か布かが入っているのだろう。……しかし水を抜かれてみると、耳が……いやさらに言うと頭が軽くなったようである。一体、どれほどの垢が溜まっていたかは詳しくはわからないが……感覚としてそれが分かるほどあったのだろう……。そしてそれがさらに、今は取れているのだろう……。

 

(ああ、何か……本当に……スッキリした。)

 

 俺は少し、放心していた。耳の中をまるで重機が地面を慣らしていくかのように、ごっそりと垢を取られたのだ。しかし決して乱暴にではなく、優しく……である。世界の音量のボリュームが二つまみほど上げられたかのように、はっきりと音が聞こえるようになっていた。

 

「……フフ、ちなみになんだけど、終わりじゃないわよ?」

 

 妖精長は俺の顔を見て、少しだけ歯を見せて笑いながら再び手を合わせていた。その両手からは再び、青い光と蒸気が立ち上り始めていた。彼女の手が、再び俺の両耳に当てられる。

 

「お……あ……。」

 

 先ほどと同じように水流が……いや先ほどよりもやや温かいお湯が、耳の浅い部分、中腹部分をやや強めにマッサージしていく。耳垢が取れられる、という痒みを取り除かれるのとは異質な気持ちよさ、心地よさ……。先ほどの風呂というのは良かった。しかし勿論、耳にお湯を入れるわけにはいかない。……耳の中の血行が良くなるのを感じる……。それがまた、何とも言えない体の内側から湧き出るような心地よさを与えてくるのであった。

 

 

 ゴポゴポゴポ……ジャボン……ジャブン……。

 

 

 グリグリグリ……ゴポ……ゴポ……。

 

 

 心地よい……本当に……。俺の意識は少しずつ、俺自身のコントロールを離れていった……。

 

 

* * * * * * *

 

 

「何寝てんのよ。まだ施術は途中なんだけど、っていうか次が一番重要なんだけどっ!」

 

「……ん?」

 

 その言葉と共に目が覚めた。俺の目の前では、妖精長が指をこちらに向けている……。ああ、眠っていたらしい……。

 

 ……少し勿体なかったろうか?あのマッサージは良かった。名残惜しく思うほどに。

 

 

 そんな事を考えていた俺の鼻を何かの香りがくすぐった。いつの間にか俺はあの布地の椅子から移動させられていたようだ。今は若干硬い木の椅子に座っていた。目の前には幾つかの皿と、鼻をくすぐる料理があった。……食欲を刺激する……というよりは……どちらかと言えば病院食に近いようなものを感じた。眠りを妨げる刺激的な食物の匂いではない……ただそこにあることを主張してくるのであった。

 

「これは……?」

 

「食べ物よ……いや、そんな目で見ることないでしょ。食べなさいってことよ。」

 

「……いいんですか?」

 

「良いも悪いも、これが一番重要なのよ! 良いもん食べて、良く寝て……健康的な生活してりゃあリラックスなんて自然と出来んのよ! これがアタシの究極リラクゼーション法よ!」

 

「お、おお!」

 

 彼女が腰に手を当てて、指をこちらに向ける。その自信満々な様子は、俺の口から出てくる反論など生み出さない程であった。……恐らく、俺たちの世界では……いや多分彼女の口ぶりではこちらの世界でも……彼女の施術とは珍しいものなのであろう。しかし……誰かととる食事……息の詰まらない食事……そういうのは久しぶりであるように感じた。

 

「本当に……食べても良いんですか?」

 

「勿論、ていうか私も昼飯まだだから一緒にいただくわ~!良いわよね?」

 

「ええ……そりゃあ……悪い理由なんて少しもありません。」

 

「そう、んじゃいただきまーす!」

 

 彼女がそう言って彼女の側の料理にかぶりつく……。俺が食べやすいように気を使ってくれたのだろうか……?いや、どうなのだろう。普通に素で腹が減っていただけかもしれない。しかしお茶の時も思ったが、彼女の小さな体の何処に人間サイズの食事が消えて言っているのかは本当に謎だ。小さな体でかぶりつくように、しかしどこか上品さを感じるように食べている……。

 

「美味いッ!イエスッ!」

 

 彼女が何かを噛みちぎりながらそれを言う。……見ていると俺も腹が減ってきた。とりえず食べてみることにしよう。

 

「おお……。」

 

 フォークを持つ。皿、スプーン、フォーク、ナイフに何か液体の入ったコップ……。食器の構成はこちらの世界と大して変わらぬようであった。食事の文化的には違いが無いようで助かる。

 

 しかし……目の前にあるのはなんでろうか?丸々とした湯気を立てる塊……。見慣れぬ形の草葉が飾り付けられたそれは肉のようにも見えた。しかし中々ボリューミーな感じである。眠りから覚めたばかりで食えるだろうか。そんな疑問と共にではあるが、フォークで突き刺し噛り付いてみた。(ナイフで切り分けるべきだったかもしれないが、眠気に浸った頭にとっては面倒で、少々行儀悪くなってしまった。彼女がテーブルマナーにうるさくないのは幸いであった。)

 

 

 じわり、とそのように湧き出てきたのは肉汁……だろうか。しかしあまり脂っこさというものを感じない。むしろどちらかと言えば水の比率の多い、味の染みた煮汁のような味わいであった。やや香辛料の香るそれが、半分眠っていた胃を優しく起こす。……肉にしてはずいぶん柔らかい。俺は一口目を飲み込んだ途端、すぐに二口目にかぶりついた。いつの間にか食欲というものがどっと湧き上がっていた。

 

(お……美味い……本当に……。)

 

 そんなことを思いながら、三口、四口……それを八割方食べたところで俺はようやく止まった。

 

(……水。)

 

 急いで食物を運ばされた食道が、若干の不満を異物感に変えて主張する。俺はコップに手を伸ばして、その中身をゆっくりと喉に運んだ……。

 

 ゴクリ……ゴクリ……。

 

(水……水だ。何の変哲もない冷たい水……。蒸された体に染み渡る清涼なる水……。そう、何の変哲もない水だ……。何も変わらないはずなのに……なぜだろう。本当になぜだろうか。涙の出そうになる水だ……。)

 

 俺は横に置いてあったパンに噛り付く。……ああ、これも柔らかいな。しかし少しばかり塩辛いのがいただけない。……それに視界がやや悪いのも良くないことだ。きっと先ほどの蒸気が残っているのだろう。視界がゆっくりと歪んでいくのがわかる。

 

 俺は思わず、スープの入った深い椀で顔を隠した……。これも美味い……。ああ、なんで……ただ食事してるだけで俺は……こんなに……。

 

「ぷはー!お、結構進んでるわね!これはアタシの自慢の料理だから……なんで泣いてんの?」

 

「泣いていないですよ……!」

 

「いや、泣いてるわよ?」

 

「泣いて、ないです……!」

 

「……。」

 

 妖精長がその羽を興味深そうに羽ばたかせながら、コップの水を少しだけ飲む。少ししてから彼女は窓の外を見てつぶやくように言った。

 

「そうね、アンタは泣いてないわ。見間違いだったみたい。」

 

「…………ッ!」

 

 俺は多分疲れていたのだ。食事の間、パンは塩辛いままだった。

 

 

* * * * * * *

 

 

「じゃ、次で最後ね!最後は……。」

 

 食事が終わり次第、そんな事を妖精さんが言い始める。食器が勝手に歩いてシンクに向かって行くのを見ると、あれにもどうやら魔法がかかっていたようである。……まあそんなことよりも。

 

「あー、そういうわけにもいかなんですよ……。」

 

「え?」

 

 俺は脱いでいた上着を着なおし──これもいつの間にか洗濯されていたようだ──扉の方に体を向けた。

 

「明日も仕事なんでね。そろそろ帰って眠らなきゃいけないんです。」

 

 今から帰れば、三、四時間程度は眠れるはずだ。そうすればきっと明日の始発にも間に合う事であろう。……今日のはいい体験であった。きっとこの思い出を胸に、明日からあの仄暗い会社でもやっていけるはずだ。……そう思えるほどに。

 

「ま、待ちなさぁいっ!」

 

 しかし扉の前に立ちふさがるようにして、妖精長さんが急いで回り込んできた。その目は細められ、こちらを睨んでいるようにも見える。俺はふと、忘れていた二つの事に思い至った。

 

「あ!すいません!……すっかり忘れていました!」

 

「……?」

 

「ありがとうございます……とてもいい施術を……。それと……ええと……事前に聞いておけばよかったんですが、一体料金は幾らくらい……。」

 

「いやちーがーうっ!!お礼とか、支払いとかそういう話じゃないわよ!」

 

「え?」

 

 妖精長の顔が微妙に呆れ顔に変わる。そして腕を組んで、忘れたのかとでもいわんばかりに口を開いた。

 

「施術、まだ終わってないわ。それまで帰らせないって言ったわよね。」

 

「しかし、俺も帰らないと……。」

 

「駄目よ。帰らせないっ!」

 

「しかし……帰らないと会社が……。」

 

「……ふうん、つまりは時間が問題ってわけね。」

 

 彼女はそう呟くと、扉に向かって振り返った。そのまま扉を軽く叩く、次に撫でている。若干その手が光っているのを見るに、何か魔術的な操作をしているようだ……。いやまあ魔術のことなど少しも知らないが……。

 

「うーん、ここがこうなってて……なーんか基本の成ってない無茶苦茶な術式ね……。この犯人、絶対妖精だわ!!妖精はなんとなくで魔法が結構できちゃうから、こういう読みづらい術式作るのよね~!!」

 

「…………。」

 

「出来た!!」

 

「え?早……。」

 

 思わず声が漏れた。彼女が作業をしていたのは多分一分にも満たない。魔術のことなど何も知らないが……恐らく彼女が凄腕であるというのはすぐにわかった。しかし彼女は何でもない様に口を開く。

 

「まあ別に大したことやってないからね。こっちと向こうの時間軸がずれてるみたいだから、それを正常に治す術式を追加しただけよ。向こうの世界とのつながりが補強されてないからあんまり無茶は出来ないけど、少しづつ緩やかに昼と夜の時間が擦り寄っていくはずよ。」

 

「時間が、擦り寄っていく?」

 

「まあつまり……。」

 

 妖精長が部屋の中に手招きでもするように手を向ける。その表情にはどこか慈しみというものが満ち溢れていた。

 

「眠る時間はたっぷりあるってことよ。あ、作業完了まで通っちゃだめだからね。……原理的にはゲートの世界との時間のつながりを一時的に緩めたから……。そうね。あと丸一日くらい此処に居てもらうわ。」

 

「……丸一日。」

 

「そうよ。」

 

「その時向こうに帰れば、何時になるんですか?」

 

「まあ大体、アンタが来てから三時間ほどだから……こっちの一日が一時間くらいになるとして、アンタが扉をくぐってから四時間くらいって事かしら。」

 

「……寝て起きても会社行かなくていいんですか?」

 

「良いわよ、ってか行かれたら困るわ。次元の狭間で永遠に迷っちゃうわよ。」

 

「…………そう、なんですか。」

 

 その言葉の意味することは……ああ、甘い。甘すぎる。甘さに限界があればきっとオーバードーズだ。……この言葉を聞きすぎるのは駄目だ。俺はきっと駄目になる。社会人として、あの世界を生きる人間として、それなりに酷い世の中の大海を泳ぐための小舟として……。

 

「眠りなさい。……睡眠不足、に見えるわ。施術の最中もこんなに眠る人、そんなにいないもの……。良く寝て、よく食べ、そして清潔に……。足りないわ。十分、とかアンタはよく言ってたけど……一日健康的に過ごして治るんなら、医者は全員廃業よ……。」

 

 彼女の言葉が続く。……駄目になる。そうだ……駄目に……。

 

 

 

 

 ダメ、とはなんだ。誰にとってダメなのだ。誰にとって不都合なのだ。少なくとも俺にではない。……眠い。強く纏わりつく、粘着質の眠気が俺の体を包み込み始めていた。

 

「なんで、こんなに貴方は優しくしてくれるんですか?」

 

 その言葉は自然と漏れていた。俺の口から出たとは思えず、まるで勝手に零れ落ちたかのような言葉であった。

 

「なんでって……ほっとけないじゃない。ただご飯を食べるだけで、泣くほど喜ぶって……そんなの放っておきたくないじゃない。」

 

「……そ……で…か。」

 

「辛いのかもね、生きるってのは。……幸せを奪い合わなくてもいい世の中ならいいのにね。……無理だけど、アタシの経験上。そんな時代は一度もなかったわ。」

 

 ああ、多分……俺は『癒されて』いるんだろう。幸せというのは失って初めて気づくという……。不幸せもまた、そのままではあまり気づけないものなのかもしれない。俺がこの店に迷い込んだのは……癒しを求めて?それとも本能的に救ってほしかったのだろうか。

 

「でも……時々ならただ休んでもいいんじゃないかしら。それを怠惰と他の誰かが呼んでも……アタシは肯定してあげるわ。自分じゃなく、皆の方が常にあってるなんて限らないのよ。」

 

 彼女はそんな言葉を続ける。ああ……なんと一体、みっともないのだろう。

 

 情けない、情けない。俺はなんと今、社会人として恥ずべきことに、情けないのだろう……。泣いて、幸せになり……なんと情けないことだろう。しかし人は元来幸せになるものなのだ。だが幸せというのはしばしば妬まれる。頑張っているものが素晴らしい、苦難の中足掻いている者は尊い……!

 

 ……本当にそうだろうか?彼らの心には、ただ幸せに対して睨みつける、おぞましいまでの緑色の感情が渦巻いているだけではなかったのか?

 

 少なくとも、俺の中にそれはあった。だからこそ恐れていた。幸福というものを。自分がかつてしたように、幸福になって妬まれ睨まれるという事が何よりも恐ろしかったのだ。しかし、今はただ……それも感じなかった。見知らぬ世界に迷い込み、嫉妬というものを知らないかのような彼女に出会い……俺はただ幸福を享受できるということが、どれだけ幸運な事かをかみしめていた。

 

「今はただ、眠りなさい……。貴方が責任感の強すぎる人だというのなら……私が許してあげましょう。」

 

「……ぁ。」

 

「たっぷり十時間ほど……眠りなさい。それが終わるころには、きっとこの国も夜になってるわ。きっといい目覚めになるわ……。」

 

 ああ、俺は……癒されているんだな。……俺の意識はゆっくりと微睡みの中に落ちていった。……久しぶりに長く眠ることが出来た。

 

 

 

* * * * * * *

 

 

 

 ……社畜の生態だろうか。起きてすぐに飛び起きて時計を確認するという癖は抜けなかったが……。九時間十四分、俺は久しぶりに長く眠った。

 

「起きた?」

 

 目を向けずとも、あの妖精の春風のように快活な声が聞こえた。振り向く目に、ルルイドの街のランプで出来ているらしい夜景が焼き付いて少しだけ眩しかった。しかしそれ以上に──開け放たれた窓から吹き抜ける夜風を全身に余すところなく浴びた、読みかけの本を置いてにこりと笑う妖精の姿が──何よりも素晴らしい眠気覚ましとなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あーっ!?支払い!!そうよ!!世界が違うんだから支払ってもらうお金違うじゃない!!この魔法、結構お金かかってるのに~~~~!?」

 

 一人の妖精の世知辛いそんな叫びが、夜のルルイドの街を観光中の俺の耳に届いた気がした。

 

 

to be continued……?

 

 

 

 

 

*1
今思い返すとそんなに丁寧だったか?

*2
彼女は最後まで名を名乗らなかったので、この呼称を用いる。

*3
街と国のどっちの名前なんだと思ったが、どうやら城塞国家であるらしく区別はないらしい。

*4
彼女は時々よくわからない造語を使う……


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