いつもより授業早く終わっちゃったな。
部室じゃなくて、ダメ元で例の洋菓子店に行けば良かったかな。
時間割全ての授業を終えて迎えた放課後。
私はそう考えてる間に部室の前に来てしまったのもあって、少しめんどくさくなっていた。
「あれっ──? お疲れー、みんな今日は早かったんだ?」
「んー……」
「あ、お疲れ。あんたのクラスも今終わったところなのね」
部室のドアを開けると、ヨシミとナツがいた。
ナツは牛乳パックに刺しているストローを咥えて啜りながら、手を挙げていた。多分『お疲れー』って返してくれているんだと思う。それに続いてヨシミが、こっちを向くため椅子の背もたれに腕をかけて振り返っていた。
「他のクラスに至っては一時間早めに終わちゃったみたい。なんかズルいわよね」
講師ロボットたちで会議があるとか、どうとか、クラスによっては私たちよりも早く放課後を迎えた所もあったみたい。
「あれ? アイリは?」
「ずずっ、ぷはっ……お花」
「そっか……」
「授業終わってすぐに行ってたから、そろそろ帰ってくると思うわ」
私はテーブルを挟んでヨシミの前に座った後、カバンから緑色のマカロンを一つ取り出して口に入れた。
艶やかなバンズパンの形状のように作られたメレンゲの表面が舌に触れた。そして、咀嚼して崩れる食感と同時に、挟まれていたチョコミント味のガナッシュの清涼感ある爽やかな甘みが舌に広がった。一口サイズのマカロンを咀嚼しながらカバンを閉じて、顔を前に向けると、ヨシミが何を言うわけでもなく、悪そうな笑みを浮かべてこっちに手を差し出していた。
「カーズサ……美味しそうなの食べてるじゃないっ……」
「ふぅ……
──ぽんっ……
「は……?」
「むぐっ……んっ……ふふっ……」
まだ咀嚼し終えていなかった私は、目の前で鳩が豆鉄砲を食らったかのように間の抜けた表情をしているヨシミをおかずに、マカロンの甘い食感を味わった。
手のひらを上に向けて差し出してきたヨシミに、私はお手でもするように手のひらを下に向けて乗せていた。
「そうじゃないでしょ!!」
「んっ……あ、犬の方が良かった? はい」
飲み込むと、今度は私が手のひらを上に向けて彼女に差し出した。
「そういうことでもないわよっ!! バカにしてんの!?」
「はぁ……分かってないなー、カズサ」
「何が?」
「そうよ! ナツからも言ってやって!」
「……首輪から用意しないと」
「そっか……ごめん、ヨシミ。そこまで気が利かなかった」
「それ以上に気が利いてないのよ!! ナツに期待した私がバカだったわ! バーカ!!」
「ふふっ、冗談だって……でも欲しいなら欲しいって言ってよ。こっちだってタダじゃないんだから……味は何でもいい?」
私はカバンを再び開けて、適当に一つ取ってヨシミに手渡した。ピンク色のマカロンだった。
「ん……ありがと……はむっ──んぅぅっ……ふふっ、ラズベリーね、悪くないわっ」
ヨシミは私が一口で食べるのと違って、半分齧っていた。ラズベリー特有の頬にまで広がる甘酸っぱい風味に少し目を細めながらも、満足そうに微笑んでそう言っていた。
「そういえば、今日は一人なのね。レイサは?」
「あいつと私、クラス違うし……いつも会ってる訳じゃないから」
「じゃあ、早く終わったクラスだったかもしれないわね。あのケーキ頼んでみたら良かったんじゃない?」
「あっちの事情まで知らなかったし、自警団の仕事があるかもしれないからいいよ、別に」
「ふーん……それにしても、随分と仲良くなったわよね、あんたたち」
ヨシミは言い終えると、半分残ったマカロンを口に放り込んだ。
仲良くなったと言われればそこまでしっくり来なかった。
「そうかな、大して変わらないと思うけど」
「いいや、きっと仲良くなってるはずだよ。それはもう、私たちにも言えないような親密な関係に」
あんたは私たちの何を知ってて言ってるの、それ。
ナツが腕を組んで、まるでもう全てお見通しとでも言わんばかりに、自信に溢れた様子でそう口にしていた。何も合っていないけど。
確かに、あいつと時々会っていると、何か私でも自分の中で理性から乖離した変な感情があることは分かっていた。ただでさえ面倒だった関係が漸くはっきりとさせられたばかりだったのに、それ以上に面倒ごとを招くような気持ちが私の中にあることに。
特にナツに触れられると、妙にそれが私の中での癪に障る節があった。
宇沢がまだ私のストーカーだった頃、私の黒歴史を知った部員の中でも、一番酷い悪ノリで絡んできたのがナツだった。
でも、それが正解だった。彼女のとった行動が、私たちの関係を着地させる最適解だった。
……少し、訂正。度が過ぎたから一度だけ本気で怒った。
ナツの行動が私の過去を、追い回してくる宇沢を、どれだけそれが表に出ても、私たちの関係は変わることなく、日常の新しい要素になるだけなのだと、証明してくれた。まだ少し納得行ってないところはあるけど、気がつけばそれが当たり前になっていた。人目を気にして場所を選んだりすることなく、あいつと関わる機会が増えていた。
『──今度こそ負けませんよ! 挑戦状を受け取ってくださいっ……!』
今まではめんどくさくて、バカみたいな正義感一つで襲い掛かってきていたあいつの表情には、じゃれ合いを楽しむような喜びも入り混じってるように見えて……って、何考えてるの私……実際、未だにめんどくさいのは事実でしょ……
私は右側の長めに伸ばしている横髪の中に指先を入れて、折角綺麗に整えた髪をわしゃわしゃと掻き乱すように扱った。
「そうなの? カズサ、あんた抜かりないのね」
「違うって……だいたい言えないようなことって何……?」
最悪。さっきヨシミをからかったのもあって今度はヨシミから仕返しのように弄られていた。いつものプロレスじみたやり取りがよりにもよって最悪なタイミングと重なってしまった。
私も普通にいつものように呆れた感じであしらえばいいのに、否定する私の言葉には怒気が少しずつ籠もっていた。沸騰寸前のように、水面下からふつふつと気泡が浮かんでいくような心地だった。
「えー、そんなのヨシミにだって分かりきってることだよ。そうでしょ?」
やめて。
「ちょっと、絶対先のこと考えてなかったでしょ!? 何で私に振るのよ!!」
私は少し鬱陶しそうにナツを見つめていた視線を、目つきを変えず、そのままヨシミの方へと移した。
この問題も私の中で抱えてどうにかしようとしていた物だった。
「ヨシミ……?」
余計なことを言うなって意味を込めて口にした彼女の名前が、自分でも内心驚くくらいやけに低く聞こえた。
でも、この圧のかけ方がミスリードだった。
彼女がそういう恋愛方面に関しては、今までの悪ガキ然とした日頃の態度を忘れさせるほど、あまりにも初心だった。私のかけた圧は、思わぬ方向に転がることになった。
「えっ……た、例えば……き、キスとか……! そ、そうでしょ!?」
「──っ……はぁぁぁっ……」
タバコの煙でも吐くように、私は大きくため息を吐いた。吸ったことなんてないけど。これが冬場ならきっと、その息の白さがそれと間違われそうなくらいの大きなため息だった。
いい加減にして……
どうにかしてこの会話を切り上げさせないと、そろそろ面倒だった。
よりにもよって、ブレーキ役のアイリが不在なこの状況が、ナツとヨシミの悪ノリに拍車をかけさせていた。ヨシミの場合は冷静さを欠いてる状態だけど。
「宇沢はただの友達だから。おかしいでしょ、そういうの」
自嘲気味に私はそう口にした。
私が密かに宇沢に抱いているかもしれないそういった感情を嘲笑うかのような言葉だった。でもこれぐらい振り切っていれば、流石のナツも引いてくれるでしょ。
──ドサッ……
そう思っていた矢先だった。私が自嘲気味に放った自分への一言が、他人を傷つけたことを知らされることになるのだった。
クイズ番組とかなら、不正解の音でもなっていたのかもしれない。いいや、そっちの方がもっと清々しかったかも。
柔らかく崩れやすいモノが落ちた音がした。
「……? 今の何の音?」
「外から聞こえたけど?」
ヨシミが音のした方へ振り返り、ナツは座っている場所から入り口の方を覗くように背伸びしていた。
私は他の二人が動くよりも先に椅子を引いて立ち上がると、早足で出入り口の方へ向かって行った。
廊下のドアの後ろで、アイリが呆然とした様子で立っていた。
その両手には、ケーキの箱が抱えられていた。
酷く凹んだケーキの箱。
角から落としたんだと思う。まるで床にめり込もうとしたかのように、大きく凹んで形が崩れていた。
……まさか、違うよね?
あいつは何でも真に受けやすい奴だった。聞かれれば、一番厄介なことになるのは間違いなかった。
「これ、レイサちゃんが……」
私の中で答えを見つける前に、間違えてしまったみたい。
「宇沢が……?」
部室の中に入ってきたアイリが私に箱を手渡すと、ヨシミはテーブルに肘を着いて、少し呆れたような様子で話し掛けてくるのだった。
「……聞いてたのかしら、さっきの話。カズサが強がったりするからっ」
「あーあ……」
「つ、強がった訳じゃないでしょ……! 事実っていうか……そもそも、変な事聞いてきたナツのせいでしょ!?」
「待って──!」
私が二人の方を見て話している間、アイリが何かに気づいたのか、少し八つ当たり気味に語気を荒らげた私を止めてくれた。やっぱりアイリがいてくれるだけで、こんなに違った。
「カズサちゃん……レイサちゃんが買ってきたこれって……」
箱の繋ぎ目に封をするように貼られたシールを見ると、あの洋菓子店のマークが描かれていた。
あいつ、嘘でしょ……わざわざ私なんかのために……?
テーブルに型崩れした箱を置いて、開封すると、ベタッと蓋の裏面に大きくへばり付くように残っていたクリームが、右の親指と人差し指に付着して、私は咄嗟に手を離した。
茶色のクリームに微かに白い生クリームが入り混じっていた。
明らかにモンブランだけの物ではなかった。
私は親指を口に入れながら、しぶしぶ、ぐちゃぐちゃになっていると思われる箱の中を覗き込んだ。
濃厚なモンブランのクリームの味わい。しっかりと栗だった時の実の質感を彷彿させる細やかなクリームが舌に触れた後、絶対にモンブラン以外の物であるフルーツの味が後味として、私の舌にじわっと広がってくるのだった。
覗き込んだ箱の中にその正体があった。
タルトケーキであるモンブランは、下のタルトによってそこまで型崩れしていなかった。だけど、とぐろを巻くように作られた細やかなモンブランのクリームの山に、桃のショートケーキだったと思われる物が突き刺さっていた。積み重なったスポンジがかろうじて元の形がどういう物だったのか分かる程度で、盛られていたクリームの形状は最早どんな物だったのか、お店に行かないと分からない物となっていた。
そうやってショートケーキを受け止めきれず、一緒に蓋に飛び込んでぐちゃぐちゃになったモンブランの断片が私の指に付いたみたいだった。
人差し指に付いたクリームも口にした。
親指の時と同じだった。栗の質感や、落ち着いた甘味の合間、あいつが普段大声で飛び込んでくるかのように急に桃の瑞々しい甘さが現れるのだった。
そして、付着物を舐め終えた指に舌を這わせても、私の肌の感触だけしか伝わってこなかった。
「……これじゃ味、全然分かんないじゃん」
栗の実の質感を彷彿とさせるしっかりとしたモンブランのクリーム。そして付着した生クリームにはトッピングされていた桃の実の味が染み込んでいた。
切っても断面でもはっきりと形を保つイチゴと違って、果汁で潤った断面から滲み出た桃のエキスを吸った生クリームの味がした。
栗の落ち着いた甘味を邪魔するように、爽やかな甘味が主張してくるのだった。まるで何でもない日常を過ごしている合間、私を見かけては大声で駆け寄ってくる
自分の気持ちと周りに振り回される怒りと、今行かないときっと取り返しのつかないことになるかもしれない焦燥感が同時に込み上げてきた。
「──宇沢っ!!」
気泡が疎らに浮く程度だった私の感情が一気に沸騰した。
私はドアの方まで駆け出して、廊下まで出た後、ふと正気に戻って立ち止まり、ドアの縁を掴んで部室の中へ身を乗り出すように顔を覗かせた。
「アイリ、宇沢どっちに行った!?」
「えぇっ!? あ、あっち!! 外の出入り口の方!」
「分かった……!!」
めんどくさい。
いつも私を追いかけてきていたはずの彼女の背中を、今度は私が追いかけていた。
縁取られた廊下の窓の一枚ずつが、映画のフィルム映像のように私の視界の隅で流れていた。
友達になろうと言って友達になった訳でもなかった。
そもそも最初は友達ですらなかった。
私たちの関係に名前を付けるなら何が相応しかったんだろう。
本当にめんどくさい。
ナツとヨシミがからかうように聞いてきた、あの時から。
アイリに渡された箱の中身の有様を知った、あの瞬間から。
私は廊下を駆け抜けて、出入り口を出た後、一瞬立ち止まった。
あいつが行きそうな場所。
見渡す限りひと気が少ない校庭。
パステルカラーの後ろ姿はどこにも見当たらない。
もう学園を出て行った可能性は十分あるはずなのに、考えるよりも先に私は部室会館の裏に向かって走り出していた。
部室会館の裏。
日が沈みかけているのもあって、すっかり建物の影が辺りを暗くしていた。
緑の芝生。純白の建物の壁。建物に沿うように人二人くらいなら並んで歩けるくらいの幅で敷かれたレンガ舗装の床。
そして、その色を全部薄く塗り潰すように暗くなっている景色の中、まるで色を塗り間違えたかのようにはっきりと見えた後ろ姿。
色の付いた綿菓子のようなメルヘンチックな髪色の子どもが蹲っていた。
近づいていくと、なんとか鳴き声を押し殺そうとしているのか、息を止めて喉を絞めているような嗚咽が段々と大きく聞こえてくるのだった。
「ひ、っ……えぇ、ぐすっ……ひ、ぃ゛……うぐっ、う、ぅ゛……っ!」
「……宇沢」
「──っ!!」
見つけた。
私は彼女の背後から声をかけると、一定間隔で肩を微かに震わせていた彼女の身体が大きく震え上がった。
「きょ、杏山、カズサっ……ひ、ぐっ……ど、どうして、ここが……っ……」
「どうせ、考え無しに走り出したでしょ。学園から出るまでにも距離があるだろうし、最近出来た友達に変な心配されないように時間を置くならこの辺かなって──っ、あんた……なんでそんなに泣いてんの……」
ああ、こいつって泣く時はこんなに泣くんだ。
なんとか涙一滴さえ流さないようにしているせいか、目元に大粒の涙一滴を作っては、それが堪えきれなくて、ボロ、ボロと溢れて頬を伝わせてた。そのせいで、宇沢の頬は酷く涙でぐっしょり濡れていた。
「い、いえ゛──! げほっ、げほっ……こ、これはっ……」
「……一旦落ち着いたら? 待ってるから……はい、ハンカチ」
「すみません……っ……」
私はパーカーのポケットに入れていたハンカチを取り出して、泣きじゃくっていた宇沢に手渡した直後だった。
「あ──っ! いた!!」
「……ん? ヨシミっ? それにみんな……」
「ごめんねっ……カズサちゃんがあんなに慌しく出るなんて珍しかったから……」
「あーあ……カズサがレイサを泣かした」
「なっ──……! 元はと言えばあんたのせいでしょ!! ナツ!!」
「人のせいにしてもダメよ、カズサ……決め手はあんたの強がりからだったんだから」
やっぱり私の気持ちを見越した上でされていた見透かされたかのような口振りで言われるのに頭に来そうになっていた。
だけど、ナツが取った行動に私たちは呆気に取られる事になった。
「うーん……そこまで言うなら仕方ないなぁ……確かにそうだね……私のせいだとカズサが言うのなら、私がお手本を見せてあげないといけないのかな」
思っていたより聞き分けが良いのは、それはそれで不安になる答えだった。
「ナツちゃん……? お手本って……?」
「それもそうよ、何するの?」
「カズサは友達同士でするのはおかしいと言ってたけど、私はそうは思わないんだよねー……プライドのため無理に自分を着飾るなんて、ロマンを求める一番の妨げになっちゃうし……」
そう何かを得意げに語るように、ナツは両手を尾骶骨辺りで組んでふらふらと歩き回り始めたと思った矢先、ヨシミの方へと、一歩ずつ近づいていた。
「今、ロマン関係あるの? って、なんで私の方に来るのよ……!? ちょっと、ナツ!? ちょっ……んぅっ──!?」
「ナツちゃん……!?」
「ナツ、あんた……」
「……えっ!? こ、これ私たちが見ていいんですか!?」
ナツはヨシミの両頬を両手で押さえると、何の躊躇いもない様子でヨシミにキスをするのだった。
「んっ……にひっ……ごちそうさま、ラズベリー味だね……さっきのマカロンかな?」
「はぁ……はぁっ……!! ナツ、何してんのよ!? ちょっと……!! あんたの証明のついでに私のファーストキス奪わないでよ!! ねえ!! あんた聞いてるの!?」
「ヨシミちゃん、落ち着いてっ……」
「落ち着いていられる訳ないでしょ!」
「さて、じゃあ次はレイサの番だよ」
「──は?」
「えぇっ……!? 私ですか!?」
ナツが誰とキスしようかなんて私には関係ないけど、それだけは神経を逆撫でされたような心地がした。
宇沢のすぐ後ろは校舎の壁だった。
後ずさりしようと引き下がってゴツンと後頭部を軽くぶつけていた。
「いっ──いたたっ……あはは、な、ナツさん……!? 冗談ですよね!?」
別に後ろへの逃げ道が塞がっているだけで、横に逃げることはできるはずだった。
それでも、じわりじわりと近づいていくナツに対して、宇沢は私のハンカチを両手で握り締めてたじろいでいるだけだった。
ほとんど宇沢と同じ目線のはずのナツが、わざと身を少し屈めて下から覗き込むような姿勢で、ゆらゆらとホラー映画に出てくるゾンビのように身体を左右に揺らしながら近づいていた。
ナツは腰まで伸びた桃色の長い髪を右の側頭部に束ねてサイドテールを作った髪形だった。
ゆらりゆらりと、まとめても背中まで伸びたその長い房が、彼女の動きに後からついて行くかのように揺れていた。
宇沢はまるで蛇に睨まれた蛙のような状態だった。
自分よりも巨体の動物に迫られているみたいに、宇沢は顔を小刻みに左右に振るだけで、壁に張り付いて一歩も動こうとしていなかった。
「冗談? さっきの見たでしょ? 大丈夫、怖くない怖くない」
「じゅ、十分怖いですっ……!! う……うわあぁぁぁぁっ!?!?」
「──ストップ」
私はナツの左肩を掴んで引き止めた。
「あれ? 嫉妬かな?」
「……っ! ナツ……怖がっているんだから止めたら?」
「……そう言われたら仕方ないなぁ」
振り返ったときのこいつの表情……本当に分かっててやっていたんだと思い知らされるくらい、したり顔だった。口を横に伸ばすように微かにニヤッと笑い「にひっ……」と聞こえるか聞こえないか曖昧な声量で微笑していた。
『カズサならそうすると思ってたよ』
口にはしていなくても、次に口を開いた時には確実にそう言いそうな表情だった。
そして、私が肩を掴んで振り返ったナツに向かって、息を切らしながらヨシミが割り込んできて彼女の胸倉を両手で掴んでいた。
「ご……ごめんね、ナツちゃん! ヨシミちゃん押さえ切れなかった……!」
よく見ると、ヨシミが普段袖を通しているぶかぶかのオーバーサイズのパーカーが肩が露出するように着崩れていて、下に着ていた学園指定のセーラー服が見えてしまっていた。
アイリが何とか押さえていてくれたみたいだけど、彼女の性格からヨシミに遠慮気味で押さえていた結果、オーバーサイズのパーカーが着崩れる程度の中途半端な恰好になってしまったんだと思う。
「あちゃー……捕まっちゃった……今度はそっちからしてくれるの?」
「そんな訳ないでしょ!! 返してよ、私のファーストキス!!」
「一度してしまったら返せない。だから『唇を奪う』って言うんだろうね」
「あんたの見解は聞いてないわよ! あっ──!? 逃げた!?」
ヨシミが掴んでいたのは真っ白なカーディガンの胸倉だった。
「アイリ、追うわよ!」
「え──? え!? わ、私も……!?」
引っ張られて首周りが広がったのもあって、そこからナツは首を下に抜くように脱いで、そのまま表の方へと向かって走っていた。
金髪を側頭部左右に一つずつ束ねたツインテールを靡かせながらヨシミは追いかけていき、二人を心配するかのようにアイリがその後をついていって、私と宇沢二人きりになってしまった。
宇沢は少しして気まずく思ったのか、ぎこちなく笑いながら両手に握ったハンカチの状態を見せるかのように口元辺りまで持ち上げていた。
「あ……あははっ……! すみません……折角お借りしたハンカチぐしゃぐしゃにしてしまいました……ちゃんと洗って返しますから……」
「ううん、洗わなくていい。今返して」
「え、あっ……で、でも……!」
「今、返して」
客観的に聞かなくても分かるくらい、私の声には怒気が籠もっていた。
「はい……!」
「ん……」
差し出した右手に、宇沢はおずおずと皺の付いたハンカチを手渡してきていた。
私がそれを受け取ると、宇沢はきょろきょろしたり、たじろぎながらも、横歩きでヨシミたちが行った方向へと、一歩足をずらしてゆっくりと立ち去ろうとしていた。
受け取ったハンカチは皺が付いているだけじゃなく、彼女の涙をたっぷりと拭き取った後の湿り気を残していた。
「えっと……で、では……私たちもこの辺りでお開きにしませんか……!? ケーキはすみません、落としてしまったので……中身がダメになっていたら食べなくても大丈夫ですよ……!! あ、あはは……」
「……っ」
立ち去ろうとしている彼女に一歩踏み出して近づいた。少し尻込みしているからか、殆ど目線が変わらないはずの彼女がいつもよりも小さく見えた。
「きょ、今日はご迷惑をおかけしました……!! それでは──」
「──どこに行こうとしてんの?」
校舎の壁を叩くように右手をついて、宇沢の進行方向を塞いだ。
手のひらの僅かな窪みに含まれた空気が勢いよく潰されて、癇癪球のような破裂音を立てていた。
後で手を見たら赤くなってるかもしれないくらい痛かった。でも、今はそんなことなんてどうでもよかった。こいつを止めるのが目的だったから。
私は湿ったハンカチを元々入っていたポケットにしまうと、右膝を宇沢の脚の間に入れ込んで、そのまま膝先を後ろの壁に押し付けた。これで彼女は私に蹴りでも入れるつもりで、下着が見えるくらい足を上げなければ、逃げられなくなっていた。
この際、蹴られても良かった。それが彼女の答えなんだ、って私の中で一人勝手に腑に落ちるだけだから。
ただでさえ日陰になっている薄暗い建物の裏で、私に迫られている彼女はより顔の影が濃くなっていた。
走ったせいか、宇沢から温もりを持った子どものような匂いが微かに漂い、私の鼻を擽った。
さらさらと芝生を撫でるように吹く心地良く思えるそよ風が、私だけにしか分からない程度に香り付けされていた。
「ナツの時は逃げなかったくせに……」
「あ、あれは、急なことだったので……!! それにお借りしていたハンカチを返せていなかったですし……」
「洗って返すつもりだったんでしょ? 連絡先を知らない仲でもないし、別に良かったんじゃない?」
「あ、あの……! どうして怒っているんですか……!」
もう一度泣き出しそうに弱々しくなっている彼女には嗜虐心を擽るものがあった。本来向けていたはずの嫉妬とか、そういった恋愛感情をわざと複雑にするようなどす黒い気持ちを、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられるようなスパイスみたいに、今の宇沢に対して向けている気持ちが分からなくなりそうだった。
『プライドのため無理に自分を着飾るなんて』
ナツが私を焚き付けるように残した言葉が、胸の中でふと過るのだった。ムカつく。それも含めて、私の胸の中が熱を持つように熱くなっているのを感じていた。もう止められそうになかった。
「……決まってるでしょ」
「え……?」
「怒るに決まってるでしょ……あんたの自分勝手なところに……なんで逃げたの……?」
「そ、それは……私が……ただの友達で……そういうことを期待するのだって、おかしいことで……」
「はぁ……あんたどこまで真に受けやすいの……」
「……私、気付いてしまったんです! 杏山カズサに抱いている思いが、友達以上の物なんだって……あなたが先生に相談をしてくれたおかげで、私の学園生活は変わりました……放課後スイーツ部の皆さんと友達になれて、クラスの子とも友達になれて……」
パズルのピースが一つずつ埋まっていくように、お互いの認識が少しずつ近づいているみたいだった。
「あなたにお話したように、友達と遊ぶことはとても楽しかったです……!! 同じ楽しみを時間を共有し合うことが、どれだけ幸せなことなのか……ですが、杏山カズサ! あなたと過ごした時に感じた幸せを、皆さんと過ごしても得られないものだと気付いてしまいました……友達と過ごせば過ごすだけ、あなたとの時間も欲しくなっていたんです……! あ、あははっ……い、言ってしまいました……こ、こんな欲張りな人間は迷惑ですよね──んっ……!」
宇沢の顎に左人差し指を添えて、俯き気味だった彼女の顔を持ち上げた。
あまりにも自虐的な言葉を口にしようとしていた彼女の唇を塞いだ。
一瞬の脳の伝達物質を絶たれたような錯覚があった。
そして、唇の感触を堪能するためだけのように、一瞬絶たれた伝達物質がじわじわと脳の中を駆け巡り始めて触れている物への感覚が鮮明になっていた。
普段大きく口を開けて喋っている彼女の唇は、綺麗にぴったり重なってしまうほど同じ大きさをしていた事を知った。
ふにゅりとした柔らかい感触が、胸の内で情緒を乱すほど込み上げていた私の気持ちを宥めてくれているみたいだった。
私がいきなりキスをしたから驚いて見開かれてい瞼の開き具合とか、そのあと、それを受け入れてくれたかのように瞳をぎゅっと閉じて動く頬の動きとか、そういった宇沢の顔の動き一つ一つが目を瞑っていても伝わってきていた。
ほんの少しの鼻呼吸で入ってくる宇沢の頬から香る柔肌を思わせるミルクのような匂いとか、ぎこちなく私の肘辺りの裾を握ってくる遠慮気味な彼女の仕草に愛しさを感じていた。
ここまでして、今さら私は胸の中でちゃんと自覚した。
私、こいつのことが好きだったんだ。
胸の内側が熱くなっていた。
心臓辺りに少しずつ、灯りが点るようにポカポカと暖まっていくような心地だった。
首筋とかから汗が出てきそうなくらい、体の火照りを感じていた。そして、それは私と唇を触れ合わせている宇沢も同じみたいだった。
キスを終えて顔を離した瞬間、僅かに触れ合いそうな距離感だった頬に伝わっていたお互いの頬の温もりがスッと消えるように無くなってしまった。
唇が離れた直後、宇沢は息を止めていたのか、頬を真っ赤に火照らせたまま深く息を吸っていた。
淡い紫色の瞳が小さく見えるくらい、目を大きく見開いて、私を見つめていた。
私はキスでまだ火照りを残した唇の隙間から「はぁ、っ……」と、息を吐いた。
「ど──どうして、ですか……! 私はあんなに迷惑をかけたのに!」
「あんたは、いつも十分迷惑かけてる……! 中学の頃から、どこに行っても、私の日常に割り込むように決闘、決闘って、追いかけ回してくるし、全然懲りないし……」
「あ……す、すみません……!」
「はぁ……熱血系で声が大きいバカなんて嫌い
「──っ……もしかして、この積極性……『キャスパリーグ』復活の兆しですか……!?」
キャスパリーグ。
私の黒歴史だった二つ名をこいつは未だに口にしてくるのだった。
今でも時々思い出す度に、枕を抱えて悶えることがあるほど忘れたかった思い出だった。
私は込み上げてきた苛立ちのせいで、右の目尻をピクピクと微かに痙攣させていた。
そんな苛立ちが、歯止めを狂わせていた。
「はぁぁぁ……あんた、さぁ……それやめろって言ってるでしょ……! それ以上言ったら……」
喉元まで出かけて、すぐに躊躇った。
口が止まった私を不思議そうに宇沢が覗き込んでくる。
「い……言ったら、どうなるんですか……?」
じいっと見つめてくる淡い紫色の瞳が、泣きはらしたのもあって白目が少し赤らんでいた。涙で濡れた頬が柔らかな丸みを帯びていた。
「……もっと深く、塞ぐから」
言ってしまった。
まだ付き合ってもいないし、今のが初めてのキスだったのに、そこまで踏み込んだら、いくら宇沢でも引くと思ってた。
私をまっすぐ見つめてきていた宇沢は、俯いてしまった。
やっぱり、流石に気持ち悪すぎるよね……
そして、見上げるかのような上目遣いで私の目を見て、顎を震わせながら彼女は言葉を発した。
「う……! 受けて立ちます……!!」
言い終えた直後、彼女は口を閉じずに、そのままぎこちなく開けていた。
いつもバカみたいに大きく口を開いて大声で喋っているくせに、控えめに口を開いて、舌をべえっと出していた。
宇沢の唾液で濡れた舌の表面のぬらぬらと艶めいている見た目が、瑞々しさがあるフルーツピューレのように見えた。
私も宇沢の舌を出すそぶりにつられて、舌を出しながら顔を近づけていた。
う、嘘でしょ? 本当にするの……?
理性ではこの状況に戸惑っていた。
お互いの舌と舌が近づくと、口を開けているのもあって、はぁ……っと微かに吐き出される吐息の熱を舌先で感じ取れるほど、私たちは顔を近づけ合っていた。
触れる……本当に触れちゃう……
口にしてはいけないと分かっている物を興味本位で食べてしまいたくなるような衝動みたいだった。
理性はただ胸の中で独り言のように客観視できていることを溢し続けているのに、体は止まってくれなかった。
「はぁ……ぁ……宇沢っ……」
そして、そんな胸の内側で止めどなく理性的な言葉が溢れる中、舌同士が触れ合う直前に私が口にしたのは彼女の名前だった。
「は、はいっ……んぅっ……──んぇ……っ……」
宇沢が返事をした直後、ねっとりとお互いの舌先が触れ合った。
唇同士だけでも脳が柔らかく解されるような甘い痺れがあったのに、舌先なんて触れ合ってしまえば、周りの音が聞こえなくなるほど頭が真っ白になるくらい気持ち良かった。
驚いたようにビクッと肩を震わせて、顔を離そうとしていた宇沢の身体を抱き寄せた。
壁を叩いた右の手のひらがまだ痛くて、宇沢の後頭部に回しても、彼女の髪の感触がよく分からなかった。
空いた左手は腰に回して、向こうから突き放しでもしない限り、逃げられないように私は宇沢を抱きしめていた。
「ひっ、ん……ふぁ……っ……んぅ……」
ちろちろと唾液を纏った舌先同士を擽り合うように触れ合わせていると、宇沢の顎の震えが伝わってくるほど甘い声を漏らしていた。喉奥から絞り出されるような彼女の猫なで声に、私の背筋がゾクッと震え上がった。
目を閉じているのもあって、舌先から伝わってくる今にも蕩けてしまいそうなくらい熱い温もりも、胸が締め付けられるほどの猫なで声も、私の両肩の裾をしがみついてくるように握りしめてくる小動物のようなそぶりも全部が愛しかった。
舌先同士を擽り合うようにくるくる、くるくるとお互いの唾液を舌先で絡め合わせるように触れ続けていると、舌先の僅かな窪みに溜まった唾液の大きな雫の表面張力が崩れ、お互いの顎に滴っていた。
滴った唾液の伝う感触が、絡ませ合いに没頭していた私たちの意識を一瞬だけ引き戻した。
──あ……
「あ……」
蕩けた瞳をした宇沢と目があった。
離れかけた舌先。
熱の籠った吐息。
芝生や木々を抜けるような風がふわりと、うなじを撫でるように後ろ髪と首の間を通り抜けたのを合図に、私は再び宇沢に舌を絡めた。
「んぅ……っ、ぇ……はぁ……はぁ……れろ……っ……ん……──んっ……! う、ぅ……っ……」
宇沢の舌の側面に、私は舌の表面をべったりと絡ませると、口内へと滑り込ませて、唇同士を密着させた。
口内に舌を捩じ込まれた途端、一瞬だけ猫なで声からいつもの声が聞こえたのもつかの間、私はそれをぴったりと唇を合わせて塞いでしまった。
ねっとり絡み合う唾液と舌の混ざり合う水音が、鼓膜に直に伝わってきて、周りの音をぼかしてしまっていた。
宇沢の腰に回していた左手に力を込めて、彼女の身体が私に密着するように強引に引き寄せた。
彼女の舌先がより私の舌の付け根に触れやすくなっていた。それは私も同じだった。
より宇沢の舌に絡めやすくなった私は、瞼の隙間が無くなるくらい強く目を閉じて、彼女の口内を深くまさぐるように舌を蠢かせた。
私の両肩の裾を握っていた宇沢の両手の指先が、快感の逃げ場でも探すみたいにもぞもぞと僅かに指を広げたり握り直したりと落ち着きのない様子だった。
舌の表面の筋を、舌先で根元から舌先まで線を描くようになぞると、それに合わせて宇沢の腰から背中にかけてぞわぞわと分かりやすく震え上がっていた。舌の側面で舌の表面や裏側を左右に何度も擦り続けていると、腰や肩を時折舌の動きに合わせるように捩らせていた。
まるで私の舌で彼女の体を操っているみたい。
唇を触れ合わせる角度を変える瞬間、微かに開いた口と口の隙間から息を漏らすように、私はクスッと笑った。
宇沢の口内をまさぐっている間、口端がずっと強ばっているから、彼女の目元が力んでいるんだと伝わってきていた。
周りから音が消えたような気がした。
芝生を撫でる風の音も揺れる木々も、表の方にまだ残ってる生徒たちの楽しそうな談笑も、グラウンドの方で部活に励む生徒の黄色い声も、外からの音の何もかもが入ってこなくなっていた。
ずっと耳に入ってくるのは、口内から舌が絡み合う少しねっとりとした唾液が立てる音。
「んっ……ぇ……は、ぁ……れ、ぇ……んぅ……」
それから宇沢の吐息だけだった。
──ちゅ、ぅぅっ……ちゅぱっ……
身体が寝起きのようにポカポカと暖まってきて、制服の内から蒸れ始めていたのを感じて顔を離してみると、透明な唾液の糸がつぅー……っと、私と宇沢の舌先同士を繋ぎ、伸びるように引かれていた。
舌をべぇっと出して、肩で息をしている宇沢。彼女が私の両肩の裾を握っていた力が少しずつ弱まっていた。
お互いに段々と高まった興奮が冷めていき、舌や瞳、温もりばかりに集中して狭くなっていた視野がじわじわと広くなっていくのを感じていた。
ぷつっ……と舌同士をねっとり繋いでいた唾液の糸が切れるのを合図に、私たちも舌を挿し込み合った深いキスの余韻が終わりを告げた。
「はぁー……はぁ……はぁ……つ……次は負けません、から……!」
「はぁ、はぁ……これ……勝ちとか負けあるの……?」
「あ、ありますよ!! それと……少しモンブランの味がしました……! ケーキ、食べてくれたんですか? 私が落としてしまったのに……」
「まだちゃんと食べてない……蓋に付いたクリームだけ……もう一個のは、あれあんたの?」
「あ、はい! モンブランは一人一つまでだったので、違う物を店員さんに選んでもらいました!! それもぐちゃぐちゃになってしまいましたが……あっ──」
私は宇沢の肩に顎を乗せるように彼女の身体を抱き寄せた。
「モンブラン、色々混ざってちゃんと味が分からなかったんだよね」
「す、すみません……」
「だからさ……」
私は彼女の耳元に顔を近付けた。
「今度一緒に食べに行かない? 二人で行けば、二つ買えるでしょ?」
「……はい!」
「ふふっ、決まり……部室戻ってケーキ食べよ? 前にも言ったでしょ、形は崩れても気持ちは変わらないって……あんたの気持ちはちゃんと届いてるから」
「杏山カズサっ……」
キスをしていた時とは違って、宇沢の両手がちゃんと私の背中に回されていた。
そして、私の名前を口にしながら回していた手や腕に力を入れて、彼女も私のことを抱き寄せるように抱きしめ返してくれた。
お互いに制服の上にパーカーやカーディガンを着ていたけど、制服越しに身体の温もりが伝わるほど、私たちは抱き合っていた。
「あの……杏山カズサ……!」
「うん……」
「杏山カズサ!!」
「っ──さっきから何……? いきなり大きな声出さないでよ……」
いきなり大声で名前を呼んでくるものだから、私は咄嗟に耳を少しでも遠ざけるため、抱き合ったまま両目を瞑って彼女がいない方へ顔を背けた。
「すみません……! あっ、いえ……そうではなく! 後ろ……! 後ろです!」
「後ろ?」
私の背中をバシバシと叩き、もう片方の腕は伸ばしきって、明らかに私の背後を指差しているような動きをしていた。
「皆さんに見られています……」
「え──?」
『皆さん』という言葉に、背筋に悪寒が、まるで背中に氷を当てられたかのような心地で駆け抜けた。
古びた人形のようなぎこちない動きで私は恐る恐る、振り返った。
「──うーん、そこまでやれとは言ってないんだけど」
「ご、ごめんね……二人とも……心配になって戻ってきちゃった……」
「あははっ! もう一度キスしなさいっ、今度はこっちに見せつける感じで!」
「──!? あ……あんたたち……いつから見ていたの……!?」
「割りと最初から? ふふっ、ちゃんと撮ってるわよ!」
「ヨシミ、後で頂戴」
「あんたはダメに決まってるでしょ! ファーストキスを奪った罪は重いんだから!」
カーディガンを後ろ前反対で着させられて、袖を通さずそのまま縛られて上半身の身動きが取れなくなったナツがさも当たり前のような様子で立ってた。
その縛られた袖で出来た綱をアイリが掴まされていて、その横でジャージを着直したヨシミが私たちに向かってスマホのレンズを向けていた。
「ナツじゃなくてもダメに決まってるでしょ!! 早く消して!」
「ヨシミさん! 消してください!!」
飛びかかった私と宇沢から逃れるように、私たちより頭半分くらい小さい彼女は、ひょいと私たちの身体の間をくぐり抜けて後ろに逃げ出していた。
「宇沢、そっちから回り込んで! 次こそ捕まえるよ!」
「……っ! はい!! 逃がしませんよー!」
あんたなんでそんなに楽しそうなの? ああ、もう……本当に単純なんだから。
でも、今は単純な方が良いのかも。
自分の本心を有耶無耶にする余計な着飾った気持ちが人を傷つけるくらいなら、こんな悪ノリも素直に楽しめられれば幸せなのかもしれない。
「早速共同作業かしら? あんたたち本当に仲が良いのねっ」
「……っ、はぁ」
前言撤回。絶対に捕まえる、絞めるつもりで。
「調子に乗るのもそこまでだから! 捕まったら覚悟してよ! ヨシミ!」
「そうですよ!! 大人しくしてください! ヨシミさん!!」
──この後、なんとかヨシミを捕まえて、写真も動画消させた。
散々走り回って疲れ果てた私たちが部室に戻った後、例の原型を留めていないケーキはアイリが冷蔵庫に入れてくれてたみたい。
冷えて少し形を保った二つだったケーキ。
それをもう一度別々になるように切り分けて、フォークを入れて食べていた。
途中で現れる桃の甘味、崩れた形。
「あはは、本当ですね……桃のショートケーキのはずなのに、モンブランの味が混ざってしまっています……」
苦言を呈している訳でもなく、ただ自嘲気味にそう溢して食べている宇沢は、渋そうに眉を潜めていたけど、頬を綻ばせて柔らかく笑っていた。
「確かにね……それに……こんなにめちゃくちゃになってるんだけどさ──」
「で……でも! 私は好きです!」
私の含みのある言い方に気づいたのか、宇沢は私の言葉を遮るように思いを伝えてきた。
目の前にあるスイーツの話。
そうだと分かっていても、やっぱり口にするのは少し照れくさかった。
だから本当は違う言葉を言うつもりだった。
一度一つになってしまった物を分け合って口にしている私たちにとっては、多分違う響きに聞こえる言葉。
違う味に思えるくらい混ざり合って、こんなにめちゃくちゃになっているけど……
「──っ……うん……私も好き」