2度目の人生は可愛くて強すぎる名人になってチヤホヤされたい! 作:勘解由小路龍之介五郎左衛門十兵衛
私、藤崎あかりは今までずっと雨が好きじゃなかった。じめじめするし、なんだか暗い気分になるし。
でも、前世の記憶を思い出した今はそんなに嫌いでもない。雨音はヒーリング効果があるし、囲碁の研究に集中できるからね。
そして今日。
私は雨がもっと好きになりそうです。
ある雨の日。
私はヒカルのおじいさん家の蔵に連れ込まれた。
年頃の男女ふたり。
誰もいない薄暗い密室。
なにも起きないはずがなく……。
「ねぇ、ヒカル。確かに蔵なら2人っきりで内緒のこともできるけど、私、初めてはもっとロマンチックな場所がいいかもなぁーって」
私は内心ドキドキしながら、それでも一応「最初は断った」という"建前"を作る。
「は? 初めて? 何言ってんだあかり」
「いや、別にヒカルとするのが嫌ってわけじゃないよ。むしろ全然……。ただ、場所が、ね。小学生でっていうのもちょっと早いかなって思うし……。でも、どうしてもヒカルがしたいって言うなら……」
私がそんなふうにもじもじしていると、ヒカルは蔵の奥をごそごそと物色し始める。
あれれ?
「……ヒカル? 何してるの?」
「ん? 俺この前の社会のテストで8点しか取れなくてさ、小遣い止められてんだ。だから金目のもん探してんの」
「お金ないの? ゴ、ゴム代なら私が出してあげてもいいし、なんなら私まだ生理来てないから……」
私がごにょごにょ言うと、ヒカルは怪訝そうに眉をひそめる。
「は? さっきから何言ってんだあかり?」
「え? ヒカルがお金ないから、その……ゴム、買えないって話じゃないの?」
「ゴムぅ? ゴムなんて買ってどうすんだよ。ゴムなんかいらねぇよ、ゴム鉄砲でもすんのか? 欲しいのはそうだなぁ……プレステとか64とか? まぁ、そんなもん勝手に買ったって怒られるだけだけどさ。せいぜい駄菓子かなんか買えたらいいかなってくらい?」
ん?
これなんかおかしい?
えっと、もしかして……
「ヒカルは私と……アレするためじゃなくて、売る物を探すために蔵に来たの?」
「当たり前だろ。てか、こんな暗い所であかりと何をするって言うんだよ」
「あー、そっかぁ、あはは……」
完全に私の勘違いだった。
そっか、そうだよね。
ヒカルはまだ小学6年生。マセてる子ならそろそろそういう性知識が付いててもおかしくないけど、ヒカルはまだだよね。それに、前世の記憶を思い出す前までの私だって、そんな知識のないウブなネンネちゃん(死語)だったし。
安心した……けど、ちょっと残念? かも。
そんな私はさておき、ヒカルは何かいい物を見つけたみたいだ。
「お、これなんかいーんじゃねーか?」
ヒカルはそう言いながら、なにやら取り出して持ち上げる。
てか、それ……
「碁盤でしょ、それ」
「ゴバン? 五目並べする台じゃねーの?」
「五目並べじゃなくて囲碁だよ。まぁ、五目並べもできるけど。ほら、ヒカルのおじいさんが新聞見ながらやってるじゃない」
「あー……、あれかぁ。あかりは囲碁出来んの?」
前世では最強の女流と呼ばれてました。なんて言えるはずもなく……。
「まぁ、ちょっとね。たぶん、ヒカルのおじいさんより強いよ」
元プロ棋士のプライドか、なぜか微妙な自慢を挟んでしまう私。
だけどヒカルは冗談だと思ったのかケラケラと笑い、
「へー、あかりよりよえーなんて、じーちゃんも大したことねーんだな」
いや、ヒカルのおじいさん町内レベルの小さな大会っぽいけどトロフィーも持ってたし、弱いってことはないと思うけどね。私が強いだけで。
「しかし、すげー古い碁盤だな。じーちゃんが昔使ってたやつかな。……こりゃ、高値で売れるかもな」
「ねぇ、ヒカル。それ、ほんとに売るつもりなの?」
碁盤には魂が宿る。……なんて言葉には「そんなオカルトありえません!」と否定したくなるデジタル派の私だけど、とはいえこれでも前世は碁打ちの端くれ。碁打ちが碁盤を大切にする気持ちは分かる。それを勝手に売ったりしたら、ヒカルのおじいさん悲しむんじゃ……。それに、たぶん古い碁盤なんて相当な由緒でもない限り大して値段つかないと思うけど。苦労してリサイクルショップに運んだあげく値段がつかないなんてことも十分に考えられる。
だけど、そんな私の心配をよそに、ヒカルは碁盤を布で拭く。
年季こそ入ってはいるもののそこそこ綺麗な碁盤だ。なのにどうしてヒカルはそんなにごしごし拭いてるんだろう? 意外と綺麗好きなタイプなのかな? ちょっとギャップ萌えかも?……でも、結婚したら部屋の隅を指でなぞって「埃が残ってる」とか言ってくるタイプかもしれない。うーん、それは面倒くさい。いっそ、私が囲碁で稼いで、ヒカルが主夫をするっていうのも……
「それにしても、全然落ちないぞ、この汚れ」
「……ん?」
いや、全然汚れてないんだけど? 綺麗好き通り越して潔癖症すら追い抜いて神経症レベルだよ! 見えない汚れまで見えてきちゃってるじゃん!
これは……ちょっと未来のお婿さん候補として黄色信号かな。今のうちにしっかり矯正しておかないと、将来の私が苦労するはめになる。
ここはガツンと言っておこう。
「全然汚れてないよ、綺麗じゃない。ヒカル気にしすぎ!」
「いや、汚れてるってば! ほら、ここ! 血の跡みたいな!」
ヒカルが碁盤の隅っこのほうを指して叫ぶ。でも血の跡なんてない。普通に綺麗だ。
……もしかして、碁盤じゃなくてヒカルの目がおかしい?
血の跡って、もしかしてヒカルの目が内出血してるとか? 内出血で視界が赤くなってるのを、碁盤の汚れと勘違いしてるんじゃ……。
そんな心配をしていると、
「誰だ!」
ヒカルが急に叫んだ。
「ヒカル、どうしたの?」
「…………」
ヒカルは口をぽかんと開けて、虚空の一点を見つめる。
そして、ぱたんと意識を失う。
「ヒカル! ヒカル!? 大変、ヒカルが!」
私は急いで蔵の外に出て、ヒカルのおじいさんに助けを求めた。
***
あれから数日。
ヒカルがおかしい。
救急車で運ばれて、幸いどこも異常ナシってことで軽い貧血か何かだろうと入院には至らなかったし、実際その後は一見フツーに生活しているみたいだけど、たまにヘンな行動をするようになった。
テスト中に急に叫んだり、急に気分を崩したり、見えない誰かに怒鳴りつけたり、かと思えば苦手なはずの歴史のテストで良い点を取ったり、宿題をきちんとやったり。
昨日なんか、どこか様子がおかしいから後を付けてみたら、なぜか碁会所に行っていた。
ヒカル、囲碁に興味持ったのかな?
なんで急に?
もちろん、将来の伴侶となるヒカルが囲碁に興味を持ってくれるのは私としても歓迎すべきことだ。やっぱ趣味とか価値観は近いに越したことはないからね。
でも、ヒカルが囲碁に興味を持った意味が分からない。そんな前兆なかったし、小学生がなんのキッカケもなしに囲碁を始めるなんてあり得ない。
前世の私が囲碁を始めたのは、囲碁をすれば頭が良くなると思い込んでいた母親が私に『いい大学に進学してエリート男性を捕まえてほしい』という青写真を描き、習い事として半ば強制的にやらせたのがキッカケだった。まぁ、私が予想外に囲碁に没頭してしまい勉強もしなくなりテストは国語以外いつも赤点ギリギリ、しまいにはプロ棋士になり囲碁に集中したいからと高校中退しアラフォーになっても年齢=彼氏いない歴の喪女になるとは誤算だっただろうけど。まぁ私の給料で実家リフォームしてあげたんだから親孝行な娘で両親としても鼻が高いだろう。あれ、でも親より先に死んだから親不孝でもあるのか? うーむ。
閑話休題。
前世のことなんて考えても仕方ない。重要なのは今世のことだ。
とにかく、私はヒカルがどうして囲碁に興味を持ったのかを知る必要がある。
「取り敢えず、今日の放課後、昨日ヒカルが行った碁会所に行ってみようかな」
そういうことになった。
***
「あら、また子供が来たのね?」
「……また?」
私はとぼける。
放課後、私は例の碁会所に来ていた。
「ううん、なんでもないのよ」
「また子供が来たって言ってましたけど、前にも来たことがあるんですか?」
「前にもっていうか……今も子供はいるんだけど」
そう言って、受付のお姉さんは碁会所の奥を指差す。
もしかして今日もヒカルが来ているのかな?と思ったけど、居たのはおかっぱの少年だった。イケメンだけどちょっとヘンな髪型。でも不思議と似合ってはいる。90年代半ばってこんなヘアスタイル流行ってたっけ? それとも親が切ったとか?
「……あの子は?」
「塔矢アキラくんって言って、プロレベルの実力がある子なんだけど、昨日やって来た男の子に負けちゃったみたいでちょっと塞ぎ込んでるみたいなのよ」
「ふーん。まさか、塔矢くんを倒した男の子って進藤ヒカルって名前ですか?」
まさかとは思ったが、一応尋ねてみる。
ヒカルがここに来たのは確定しているけど、ヒカルにプロ並みの子供と戦える棋力がある訳がない。なにせこの前まで碁盤のことを五目並べの台だと思ってたくらいだ。
しかし、受付のお姉さんは意外そうに頷く。
「そうだけど、どうして知ってるの?」
「私とヒカルは知り合いで、昨日この碁会所に入っていく所を見かけたんです」
答えつつ、私は内心首をかしげる。どうしてヒカルが……?
そんな私に、受付のお姉さんは詳細を話す。
「ああ、あの子と知り合いだったのね。黒のヒカルくんが2目差で勝ったって……」
「2目差? 2目半じゃなくって?」
「ええ、コミは無しでって話だったかしら」
「じゃあコミ入れたら白の勝ちなんじゃ……?」
「それは、そうなんだけど……でも、相手はアキラくんなのよ? 今プロ試験を受けても余裕で通るだろうって実力の相手にそれなら、勝ったも同然よ」
「…………」
いや、負けは負けでしょ。
とは思うものの、プロ並みの打ち手に対してそこまで互角に戦えるなら、同じプロ並みの実力があるということだ。
俄には信じがたい。
ヒカルは囲碁初心者のはず。それが一朝一夕でそんな実力者になるなんて。
……一つ、心当たりがある。
それは他でもない、私だ。
私はついこの間まで囲碁のことなんて何も知らない、ただ可愛いだけの普通の女の子だった。だけど前世の記憶を思い出し、可愛くて女流最強の棋力を持つ女子小学生になってしまった。
つまり……
「ヒカルも転生者なの?」
そうとしか考えられない。
おそらくヒカルの前世はプロ棋士かアマチュア強豪で、この前の騒動の時に前世の記憶を思い出した。それで最近のヒカルはおかしかったんだ。
私はその仮説を確かめるため、塔矢くんの席に近づく。
「ねぇ、君。ちょっといいかな?」
「……ごめん。今忙しいんだ」
塔矢くんはこっちを一瞥することすらせず盤面に集中している。
私は無碍にされてちょっとムッとしたけど、塔矢くんの並べる棋譜が魅力的だったので思わず見入ってしまう。
白の4目半……いや、この時代なら3目半勝ちか。だけど……
「棋譜並べ?……ふうん、まるで指導碁ね、これは。コミを入れたら白の勝ちだけど、完全に黒が上手。特にここの、攻めるでも守るでもなく相手の出方を試すような一手。完全に見下してなきゃ打てない一手ね」
「……キミは?」
塔矢くんがこちらを見た。
「藤崎あかり。小学6年生」
「ボクは塔矢――――」
名乗ろうとした塔矢くんの言葉を遮り、私は敢えて挑発するように言う。その視線をヒカルから私に向けさせるために。
「アキラくん、でしょ。受付のお姉さんに聞いたよ。プロレベルの実力があるなんて自惚れてたくせに、同年代の男の子に負けちゃって凹んでるんだって? おおかた、この棋譜はその対局のものなんでしょ? でも、この棋譜を見る限り上手なのは敗者である黒の方。負けたからって気にする必要はないんじゃない?」
「いや、ボクは白で――――」
「なるほど。対局には勝ったけど実力では負けてるって分かってるんだ。自惚れるだけのことはあるね。でも所詮、井の中の蛙だったってだけでしょ」
「ボクは……!」
塔矢くんは怒りを抑えるような声で言う。
「確かにボクは自惚れてたかもしれない。でもキミは、どんな想いでボクが自分と他の同年代の碁打ちの間に線引きするようになったか……! それが分かって言っているのか……!」
ある種傲慢にも思える優しさ。強者の情け。
私はそれを鼻で笑う。
「ボクちゃんは強すぎるから同年代と打てば傷つけちゃうって? もし本気で言ってるなら、囲碁なんて辞めたほうがいいよ。所詮囲碁なんて相手を叩き潰すだけのもの。その覚悟がないなら相手に失礼だよ」
私が言うと、塔矢くんは私をキッと睨みつける。
「ボクと対局しろ……!」
「いいよ。その代わり、賭けをしてね」
「賭け……?」
一瞬たじろぐ塔矢くんに、私は不敵に笑う。
「うん。負けたらなんでも言うことを聞く。もし勝者が敗者に囲碁を辞めろと言ったら囲碁を辞めなきゃいけない。その覚悟はある?」
「……キミが負けたら、ボクの言うことを聞くんだな」
「うん。えっちなことでもなんでもどうぞ」
「そんなことするわけないだろう……!」
そうして対局が始まる。
互先で握り、私が先手となった。
そうして対局を始め、数手。
「……また秀策のコスミか」
「どうしたの、普通の手でしょ」
「……古い、時代遅れの手だ」
塔矢くんは苦々しく吐き捨てる。
秀策のコスミは時代遅れの古い手。"AIが発展する前"は、そう言われていた。
だけど、AIによってその評価は一変する。
実は秀策のコスミは非常に優れた手であり、古い手などでは決してないのだと。
そうして、プロの対局でも有力な手のひとつとして再び使われるようになった。
もちろん、今は1998年。AIによって秀策のコスミが再評価されるのは20年近く後のことだ。塔矢くんの認識はこの時代の碁打ちとしては決して間違ってない。だけど……
「塔矢くんはちゃんと秀策のコスミを研究した? 秀策のコスミを検討尽くした上で時代遅れの手だと言ってるの? それとも単に流行じゃないってだけで古いと見做すミーハーなの?」
「ぐ……!」
塔矢くんの打ち手に対して、私はノータイムで応手を続ける。
そして――――
「……強すぎる」
塔矢くんが苦々しく呟く。
まだ中盤に差し掛かったばかりといった所だけど、既に私の勝勢だ。
未来のAI知識は秀策のコスミ以外使っていない。それで十分な相手だった。
唯一披露した未来知識が100年以上前から存在する秀策のコスミの再評価というのは現代囲碁への皮肉のような気もするけどね……。
確かに、塔矢くんは強い。
定石形での読みの深さは既にプロでも上位レベルと言ってもいい。
だけど……狭い。知らない場面に対応できるだけの大局観は未熟だ。少し定石から外れた形になると悪手ってほどじゃないけど明らかに緩い手を打つようになる。たぶん、いらない手まで読みすぎちゃって本当に必要な読みが抜けちゃうんだろうなって感じ。典型的な天才タイプにありがちな隙。そこを咎めさえすればそれほど難しい相手じゃない。
まぁ、それはあくまで女流最強の目線から見た話で、小学生でコレなら十分過ぎるんだけどね。ていうか今の時点でプロ並みどころかプロの中でも既に中堅レベルの強さはある。プロ棋士でも低段だと塔矢くんの緩手に気付けないだろうし。ここからさらに強くなると思うと……はいはい神童神童。
「……ありません……っ」
結局、終盤に差し掛かる前に塔矢くんは声を震わせた。
もう塔矢くんに逆転の目はない。塔矢くんは敗勢になってからもどうにか荒そうと頑張ってたけど全部きっちり咎めた。このまま打ち続けても何十目もの差がついて私が勝つだけだ。うん、まぁ、私相手にここまで打てたならよくやったほうだと思うよ。ちょっとヒヤッとする手もあったし。ていうか子供相手に大人気なさすぎでしょ、私。本当は指導碁打とうと思ったんだけど、思ったより塔矢くんの攻めが厳しくてあんまり手加減できなかったんだよね。
囲碁の内容としては取るに足らないただのワンサイドゲームだったけど、収穫はあった。
それは、私が前世で培った囲碁の腕は今世でも問題なく発揮できると分かったことだ。
前世の私と今世の
そうなれば当然、脳の演算能力も異なる筈。いくら私に未来の囲碁知識があったとしても、脳みそがポンコツだと話にならない。
まぁ、脳内一人囲碁や詰碁なんかしてみて前世と同じかそれ以上の地頭はあるんじゃないかと思ってたけど……思っていた以上に今世の脳みそは高スペックだった。
前世の私より遥かに目算が速く精確にできる。前世の私じゃ数十分悩まないと出ないような手がノータイムで浮かんでくる。まあ、単純に今の私の脳みそがアラフォーの脳みそと比べて若いだけかもしれないけど。
「くそ……! こんなところでボクは碁の道を諦めることになるのか……!」
私が自分の碁に満足していると、対面の塔矢くんが自らの膝を殴った。
あー、そういえば対局の前にそんな話したっけ?
たしか、『負けたらなんでも言うことを聞く』という賭けを持ち出した時につい流れで『囲碁をやめる覚悟はあるか?』みたいなこと聞いたんだっけ?
別に、私は塔矢くんに囲碁を辞めさせたい訳じゃない。だってそんなことしても私になんのメリットもないし。
私が塔矢くんを挑発したのは、単に『ヒカルと良い勝負をした相手』とやらの実力を知るために本気で戦ってほしかったから。本気の塔矢くんと対局できた時点で私の目的は既に完遂している。
だから、塔矢くんとの賭けは正直どうでもいいんだけど……。
うーん、でもせっかくだから何かお願いしておいたほうがいいよね。私にメリットのあるお願い。例えば……
「名人戦に繋がる対局で当たった時、一度だけワザと負けてもらうとか……?」
「……名人戦? ワザと? 何を……?」
「え、賭けの話だよ。私、負けたら囲碁を辞めろなんて言ってないでしょ。例として挙げただけで。だから、どういうお願いしようか考えてたの」
「名人戦に繋がる対戦でワザと負けると聞こえたけど……」
「うん。だって塔矢くんプロになるでしょ。私もなるから。それで、名人になりたいからさ、もし当たった時ワザと負けてくれると助かるなって――――」
「ふざけるな……っ!」
ビリビリ、と。空気が震えた。
「君はボクに八百長をしろと言うのか!? 囲碁を愚弄するのもいい加減にしろ!……どうして、どうしてキミみたいな奴が、ボクより……!」
「…………」
どこかで。
私は囲碁への真摯さを忘れていたのかもしれない。
私の存在自体が囲碁への冒涜だ。前世で自分自身が培った知識だけじゃない。他人が残した功績までもを我が物顔で独り占めして、本来なら不相応な名人の座を奪おうとしている。
そんな私が、今さら清廉潔白を気取るつもりはない。
だけど、ワザと負けろは駄目だ。
それはさすがに――――勝負師として超えちゃいけないラインを超えてる。
それがたとえ狡い方法で身に付けたものだったとしても、勝敗を決めるのはあくまで自分自身の実力じゃないといけない。
「ごめんなさい、塔矢くん。冗談でも言っちゃいけないことだったよね。賭けは無しでいいよ。変なこと言っちゃったお詫び」
「ああ、うん……」
私が頭を下げると、塔矢くんは毒気を抜かれたような返事をする。
(はぁ……。
ヒカルのことを知りたかっただけなのに、迷惑かけちゃったなぁ)
軽く自己嫌悪に陥りながら、私は碁会所を立ち去る。
ヒカルのことを知りたいなら、余計なことをせず直接話をしたほうがいいかもしれない。
まだ明るい空の下で、私はそう決めたのだった。