萌えゲーアワード受賞作に転生できたと思ったら設定が似てる洋館ホラゲーだった件【書籍発売中】 作:シン・タロー
休日といっても高校に通っているマリや送迎を担当しているエイイチはともかく、それ以外の住人は普段の生活とさして変わらない。
けれど、この日は違ったのだ。
ふいにドアノッカーが叩かれ、狼戻館の玄関が来客を告げる。朝食後に思い思いの時間を過ごしていた住人達は殺気を放ち、張り詰めた空気が館内の温度を下げたようにも感じる。
来館予定はない。もはや隔絶された館でもないここへ迷い込むヒツジもいまい。であれば好きこのんでこんな魔窟を訪れる者など、かつてしのぎを削り合った猟幽會くらいのものだろう。
ツキハは書斎にて不敵に笑み、薄く目を閉じた。
私室の窓際に腰かけたセンジュはヘッドフォンを外し、アンニュイに外を見やる。
それぞれが死闘に備え感覚を研ぎ澄ましていく中、来客を出迎えるのは狼戻館の懐刀――アヤメだった。
それにしてもマリは何をやっていたのだろうか。索敵範囲への侵入をいち早く察知し、警戒を促すのが役目のはずだ。マリでも捕捉できない異能などを有する難敵の可能性がある。
「フ……この昂り。久しぶりですね」
アヤメは玄関扉の前で、短く息を吐いた。
はたして客人は、いまだ狼戻館に与していない猟幽會の残党か。それともマリに呪いを振り撒いた張本人、あるいはその協力者だろうか。
メイド服の複数箇所へ忍ばせた暗器をいつでも抜けるよう調整し、アヤメは扉を内へギィと開く。
陽光を背に浴びてたたずむ少女。
見た目は十代半ばといったところ。自然なセミロングの黒髪で、ボストンフレームの眼鏡をかけている。ニット帽に短い丈のスウェット、下はロングスカートにスニーカー。全体的にモノトーンな色合い。派手さとは無縁のアヤメをして、歳のわりに地味な印象を受ける。
「あ……」
線の細さに見合わないメイドの眼光に気圧されたのか、少女は顔を引きつらせると後ずさりした。
そう、見た目は関係ないのだ。いかに無害に見えようとも、ここは狼戻館――魔性の館。まっとうな人間が訪れる場所ではない。少女の目的がなんであれ、拘束するなどして吐かせればいい。なぜならもう、無傷で客を迎え入れるというルールも存在しないのだから。
物騒な思考に支配されたアヤメは、丁寧に腰を折る。
「ようこそお越しくださいました」
しかして少女の死角でナイフの柄を握り、アヤメは隠れた片目でしっかりと獲物を見据えていた。無力化するのに手順も時間も必要ない。アヤメが予備動作もなく少女との間を詰めようと試みた、その瞬間。
「何してるの? アヤメさん。わたしの友達が来るって、言ってたでしょ」
背後の声に踏みとどまり、アヤメはナイフを手の内側へ折ると素早く袖へ隠した。何事もなかったかのように姿勢を正し、声の主であるマリへと振り向く。
「マリ様の……お友達」
「そう。聞いてなかったの?」
「いえ。ですが……」
アヤメが昨夜の話を失念していた――わけではない。
狼戻館でも孤高を愛するマリと、友達という概念が結びつかなかっただけだ。もっとわかりやすくいえば、常識からもっとも外れたマリに年頃の友人などできるわけがないと思っていた。だがそんなこと、もちろん馬鹿正直にマリへと伝えられるはずがない。
「待雪さん! す、すごいお屋敷で、ちょっと気後れしちゃって。小さい頃から山の上にお屋敷があること知ってたはずなのに、なんか最近まで忘れてたっていうか……不思議なんだよね、あはは」
ホッとした表情の少女を見るに、どうやら本当にマリの友人のようだ。結界により山ごと現世から隔絶されていた際、一部の人間を除いて人々の認識から狼戻館は消え失せていたらしい。
「失礼いたしました。ご無礼をお許しください」
アヤメはあらためて頭を下げた。
恐縮した少女が答える前に、マリが口を開く。
「入って。ゲンさん」
「ゲンさん……? はて。それはまた、ずいぶんと江戸っ子気質な」
「み、
ちなみにこの源という少女。マリが編入した日にホールケーキの切り分けをさせられそうになった、最前列の席の女子である。
この日はマリが狼戻館にはじめて友人を招待した、ともかく記念すべき日となった。
◇◇◇
繰り返すが今日は休日である。マリを送迎する必要もないためエイイチは二度寝する気満々だった。けれど朝食の席でツキハから“まさか休むおつもり?”とでも言いたげな視線を向けられてしまい、フィールドワークに出かける
そこでゲンさんこと
「ま、まさかマリちゃんに友達ができるなんて……」
つぶやき、うろたえるエイイチ。アヤメ同様、昨夜はマリの虚言に心を痛めていた一人だった。ライトノベルの悪役令嬢を参考に高校生活を送るマリなど、まともなコミュニケーションを取れるわけがないと。
「失礼だね。エイイチくんと一緒にしないで」
「ぐぅっ」
ぐうの音しか出なかった。思えばエイイチにだって友達なんかいなかった。
緊張は抜け切っていない様子ながら、はにかんだ源が頭を下げる。性格も良さそうな少女で、さらにエイイチへダメージが入る。
「お、俺にだって、ビーチくんとか」
「とにかく、部屋に行くから二人とも邪魔しないで。こっちだよ、ゲンさん」
エイイチとアヤメをエントランスホールに置いて、マリは源とともにさっさと三階へ上がってしまう。
呆けたように無言で見上げていた二人だが、いち早く正気を取り戻したアヤメが口を開く。
「おやつ……そう。私は、おやつを用意しなくては」
「あ、そうですね、お客さんですから。じゃあ俺は、ツキハさんとセンジュちゃんに伝えてきます!」
「ええ、お願いいたします。首尾よくまいりましょう」
こいつは一大事だ、と二人はそれぞれの仕事をこなすために駆けていくのだった。
ダイニングルームにツキハとセンジュの姿はなく、エイイチはしらみ潰しに館内を捜索する。そして裏庭にてようやく二人を発見した。鬼気迫る表情のセンジュに、こちらも真剣な顔のツキハがなにやら講釈を垂れている。
「駄目ね。まだまだ能力頼りの動きをしてる。それでは命がいくつあっても足りないわ」
「わかってる! くそ、もう一本。今度こそ顔面に一発いれてやる!」
向かい合う二人ともがジャージ姿だ。よくトレーニングをしているセンジュはともかく、ツキハのジャージ姿はエイイチもはじめて見た。
「あの。なにやってんですか、二人で」
エイイチが声をかけると、ツキハとセンジュは構えを解いた。あきらかに戦闘的な行為に勤しんでいた雰囲気。
ツキハは蒼みがかった長い黒髪を背に流すと、前を閉じていたジャージのジッパーを少し下げる。苦しそうに押さえつけられていた谷間が露出し、熱気までもれ出てくるようだ。
「まさか、アヤメさんが遅れを取ったの? エイイチさんは庭で遊んでなさい」
「そんならあたしがやる。相手がなんだろうと、やられたりしねーから」
首にかけたタオルで汗を拭き、ペットボトルから水分を補給するセンジュ。ぐしゃりと握り潰した容器をエイイチへ寄越してくる。
「センジュ、今の感覚を忘れないことね」
「わかってる。エイイチ、侵入者は一階か?」
仕上がったやる気満々の二人を前に、来客を伝えるエイイチはとても言いにくそうだった。
「……マリのお友達。そう」
「で。ツキハさんとセンジュちゃんは、ここでなにやってたんですか? そんな汗だくで」
死闘に備えた訓練、調整。殺伐とした命のやりとりに身を投げる精神性。それはもうハートフルなエロゲー世界の住人の姿ではない。
「あ、あたしはほら、いつものランニングだよ。体動かすのは趣味みてぇなもんだし」
「わたくしは息抜きよ」
しらを切る二人。エイイチはツキハとセンジュの顔を順に見つめ、やがて息を吐く。
「俺、思うんです。マリちゃんの友達、とても良い子そうだった。そんな子をこんな恐怖の館に置いてちゃいけないって。俺はまだいい、ホラーゲームの知識があるから。でも耐性のないあの子は発狂してしまうかもしれない!」
「大げさよ、エイイチさん。それにここはホラーゲームの館じゃなくて、エッチなゲームの館」
「うそだ! 能力がどうとか侵入者がどうとか言ってたじゃないか!」
そもそもエッチなゲームの館は、それはそれで女子高生を招くのに問題がある。
エイイチは、正体がなんであれマリのことが好きだ。だが同時に【豺狼の宴】と関係のない、一般人は巻き込んではならない。保護しなければとある種の使命感も併せ持っている。
「ったく、あんま考えすぎんじゃねーよ。……ほ、ほら。せんせ。む、胸。揉む?」
「無理矢理すぎるだろセンジュちゃん! 話の流れを考えてくれ! あとどうせなら“おっぱい”って言ってくれ! ぐぅ!」
正論で突っ込みながら、またぐうの音が出た。ない胸を突き出すセンジュを前に、エイイチの右手がぶるぶると震えている。左手で必死に押さえつける様子は、さながら暴走しそうな力を制御する能力者のようだ。
「と、とにかく! 俺は無事にあの子を館から逃がしてみせる! 妨害しようたって無駄ですからね!」
エイイチは踵を返して館内へ戻っていった。
放置された胸を見下ろし、センジュがぽつり。
「……おっぱい」
ふくれっ面の三女を尻目に、誇らしげに背すじを伸ばすツキハだった。
エントランスホールでは、ちょうどアヤメがおやつとジュースを載せたトレイを手に三階へ向かおうとしていた。
「アヤメさん、おやつできたんですか? 俺が持っていきますよ」
「いいえ、ここは私が」
「遠慮しないでください! さあ、トレイを」
横から手を差し出され、アヤメは腑に落ちないながらもトレイをエイイチへ渡す。
搾りたてのような濃いオレンジジュースが二つと、皿に盛られたマフィンが甘い匂いを漂わせる。トレイに鼻を寄せるエイイチは、眉間にしわを刻んでアヤメへ問う。
「これ、毒とか入ってないですよね?」
直後。アヤメは皿のマフィンを鷲掴みにすると、そのままエイイチの口へ叩き込んだ。失礼な物言いにぶちキレたのだろう。エイイチが悪い。
「いかがですか?」
「お……おいひいでふ。ごめんなふぁい」
アヤメに平謝りして、エイイチはマリの私室へ向かった。
部屋に到着するとノックを三回、ドアを開けるエイイチ。
「お、お邪魔しま~す。あの、よかったらおやつを……あれ?」
室内にマリの姿はなく、カーペットに内股で座る源が一人で漫画を読んでいた。ずれた眼鏡の位置を直し、源はエイイチへ会釈する。
「待雪さんは席を外してて。あの、エイイチさん……ですよね?」
「じゃあ、入れ違いだったのかな。俺のこと知ってるの?」
「はい、それはもう! 待雪さんもよく話してくれるんです。あとは、えっと。先生達と揉めてたり、その、有名ですよ」
エイイチは三度目のぐうの音が出そうになる。どうやら悪い意味で名が知れ渡ってしまったらしい。
しかしマリが不在ならば好都合だ。エイイチはトレイをテーブルへ置くと、正座して源へ詰め寄る。そして小声で囁くのだ。
「源さん、悪いことは言わない。早くここから逃げたほうがいい」
「え!? 逃げ……な、なんでですか?」
「君は知らないだろうけど、この館は【豺狼の宴】っていうホラーゲームの館なんだ。猟幽會って組織と殺し合いしてて! 館自体も、もうめちゃくちゃ呪われてて!」
いきなりホラーゲームの館にいると言われて、信じる人間がいるだろうか。真実しか教えていないにもかかわらず、エイイチという“ヤバい男”の濃度がどんどん高まっていく。
しかしエイイチの見立て通り、源は純粋なのだろう。真摯なエイイチの説得に、若干の戸惑いが垣間見える。
「そ、そんなこと、いきなり言われても」
「俺を信じてくれ。頼む。必ず源さんを無事に外へ――」
「エイイチくんなにしてるの?」
「ひぃ!?」
おそるおそる振り返ると、エイイチのうしろでマリが腕組みをして立っていた。
「信じてくれ? 頼む? ゲンさん。なに言われたか知らないけど、エイイチくんは頭が少しおかしいの」
マリはソックスを履いたつま先で、正座するエイイチの足裏をぐりぐりやる。情けない声をあげながら、エイイチは甘んじて罰を受け入れているようにも見える。
そんな二人に苦笑すると、源はエイイチへ顔を向けた。
「大丈夫です、エイイチさん。待雪さんにはワンちゃんを見せてもらう約束で、今日はお邪魔したんです!」
「ワンちゃん?」
聞けば源はゴールデンレトリバーを飼っているとのことで、マリと仲良くなったきっかけも互いの犬自慢からはじまったらしい。本日はやっとマリご自慢の黒柴に会えると、源も楽しみにしていたようだ。
「でも捜したけど、ガンピールどこにもいなかった。エイイチくん知らない?」
「ああ、そういうことなら俺に任せてくれ!」
エイイチは胸を叩き、マリと源を引き連れて部屋から出る。簡単に引き受けたがいいのだろうか。ガンピールを柴犬と認識しているのは、狼戻館住人の中でもエイイチとマリのみである。
キッチンに立ち寄り鹿肉を調達し、裏庭へ向かう一行。すでにツキハとセンジュの姿はなく、だだっ広い庭でエイイチは鹿肉を掲げた。
「おお~~い! ガンピ~~ル!」
「え? は、放し飼い?」
源が花や木々に彩られた庭を見渡すも、柴犬の影も形もない。
エイイチはなおも声を張り上げる。
「おやつだぞ~~~~っ!」
庭の奥は生い茂る森であり、彼方は山である。その霞む山へ向け、マリが指をさした。
「あ。来た」
「え? え?」
常人の源には見えない土煙。おそらく数十メートル間隔で山肌を削り、疾駆している。かろうじて黒い点のようなものを源が確認できたときには、大地を揺るがす轟音が腹の底から響いてくる。
そこからは一瞬だった。一陣の風のごとき黒い塊が、エイイチへと直撃する。
「ぐはあッ!?」
もんどり打って転がるエイイチを、獣の黒い前足が踏みつけて止めた。獣の呼気と土埃が混ざり合い、霧のごとき煙が庭に立ち籠める。
エイイチは死んだのではないだろうか。獣に踏まれたままピクリとも動かない様子に源が心配していると、強い風が煙を晴らしていく。
「グルルル……」
それはあきらかに狼だった。ゴールデンレトリバーよりもサモエドよりも巨大な黒狼だった。黒狼は鹿肉をクッチャクッチャと咀嚼しながら、源をギロリと睨みつける。
「ひっ……ひ……」
すぐに源が悲鳴をあげたことは言うまでもない。ガンピールにしてみれば“なんか知らない人間がいるな”程度に見ただけかもしれない。
いずれにしても狼戻館の恐怖の洗礼を源に与えたのは、他ならぬエイイチの行動により引き起こされた結果だった。
◇◇◇
「もうすぐ暗くなっちゃうから、ゲンさんを送ってあげて」
夜の山道が危険なのは周知の事実。マリの頼みをもちろん引き受けたエイイチは、源に続いて玄関扉から外へ出た。
「あ、エイイチくん」
呼び止められたエイイチが振り向く。マリは源に聞こえないような小声で、エイイチに問いかける。
「ゲンさんを逃がそうとしてたのは……最近のゴタゴタに、あの子を巻き込まないようにするため?」
「ん? なんのこと?」
エイイチは柔和に微笑むだけだった。真相はわからない。マリもそれ以上はなにもエイイチにたずねなかった。
マリへ手を振ると、エイイチは小走りに源へと追いつく。あれだけ怖い思いをした割には、今は源も笑顔だ。
「――最初は怖かったけど……触らせてくれたし、ふかふかですっごくかわいかったです! ガンピールちゃん!」
「そりゃよかった。あれでガンピールはやさしいんだよ。ほら、俺も傷一つないだろ?」
腕まくりをして見せつけるも、そこに関してはエイイチが特殊なだけという気がしないでもない。
日が落ちれば、山はなおさら静かだ。エイイチはアヤメから借りたフラッシュライトを焚いて、源を先導する。
「……あんまり仲のいい友達とか、いなかったんです」
「え?」
「ほら、待雪さんって浮世離れしてるっていうか、目立つじゃないですか」
「ああ、まあ」
悪いほうに目立ってなきゃいいけど、と悪目立ちして校内で噂になっている男は思った。マリなら自分の心配をしろと言うだろう。
「だから待雪さんと話すようになったら、自然と私も友達が増えちゃって。だから感謝してるんです」
「へえ。なんか意外だな。源さん明るいから最初から友達多そうに見えたけど」
「ぜ、ぜんぜんですよ私なんか! どもっちゃってうまくしゃべれないし、今もめちゃくちゃ緊張してるんですよ」
「今も? 俺相手に?」
「はい!」
源の笑顔を見ていると、マリはきっとクラスに受け入れられているのだろう。その点、エイイチは少しホッとした。マリは学校生活に憧れていた節がある。友達の一人もできなければ、がっかりするに違いない。エイイチはそんなマリの顔をあまり見たくない。
「普段は無表情だけど、エイイチさんの話をするときはちょっぴり笑ってるんですよ。待雪さん」
「本当に? なんか想像できないな……」
ただ、もし本当にそうなら嬉しいな。とエイイチは素直に思う。
マリの学校での様子や、珍事件などを聞きながら歩く。夜の山道に恐怖を感じることもなく、話に花が咲く。ふもとまではあっという間だった。
「バス停もすぐそこだから、ここまでで大丈夫です。あの、送っていただいてありがとうございました!」
「うん。気をつけてね」
エイイチの噂に実は戦々恐々としていた源は、実際に言葉を交わしてネガティブな感情は払拭できたようだ。
エイイチも当初抱いた感想以上に、源を好ましく見ていた。狼戻館住人に抱く情愛とはまるで別種の紳士的な感情だ。
「これからも、マリちゃんと仲良くしてくれ。源さんが友達になってくれてよかったよ」
「はい、もちろん! 夏休みに海行こうとか、修学旅行もあるし、いろいろ計画立ててるんです!」
「はは。そりゃ楽しそうだ」
「それじゃあ待雪さんに、週明けまた学校でと伝えてくださいね!」
絶対にマリも楽しみにしているだろう。
源と別れたエイイチは、道を引き返して山を登る。空には月が浮かび、ぼんやりと眺めながら歩く。
エイイチは人差し指で二度、自身のこめかみをトントンと叩いた。
「…………」
いいことしかない。マリの未来にも楽しい出来事が確約されているのに、エイイチの口は固く結ばれていた。
◇◇◇
マリの症状は急速に悪化した。週明けには歩ける状態ではなく、本人は頑なに学校へ行こうとしたが結局休む羽目になった。
マリの私室の前で、エイイチはうろうろと行ったり来たりしている。部屋をたずねればよさそうなものだが、安静にしていたほうがいいのではないかとこの男にしてはめずらしく気を遣っているのだ。
だから唐突に開いた扉が、エイイチの顔面をしたたかに打ちつける。
「~~~~っ……つ~~!」
「なんだ、エイイチくん。いたの?」
鼻を押さえて屈むエイイチに対し、マリは平然と無慈悲な言葉を投げ落とした。
涙目になりつつエイイチは立ち上がり、マリの肩を掴んで迫る。
「マ、マリちゃん大丈夫!? 寝てなくていいの!?」
マリはうっとおしそうにエイイチの顔を押し退けると、大きく息を吐いた。やや間を置いて「あ」とエイイチを指差す。
「ちょうどいいや。エイイチくん、作ろっか」
「な、なにを? 子供?」
マリの蔑んだ瞳がエイイチを射貫く。
だがエイイチも混乱しているのだ。マリのことが心配すぎて、まるで頭が働いていない。
なのでゆっくり、はっきりマリは口にする。
「クラムチャウダー」
「え?」
「クラムチャウダー。作るから手伝って」