人間界にやって来たと思ったら、そこは戦い終わったばかりの戦場だった。
草原だろうか。周囲は開けて何も無い。彼方まで広がる地平線、澄み渡った蒼穹と緑の絨毯は心を透き通すようで風が心地よい。ただ、血に染まっていなければ。
はて、人間界というのは、このような物騒な場所だっただろうか?
鬼のような巨漢が幾重にも積み重なって倒れ込み、大蛇かと思えば頭部が二つに別れた蛇が死んでいる。
ひしゃげた空っぽの鎧だけが幾つも散らばり、天を衝くような一つ目の巨人が潰されていた。
おっと、これはドラゴンか?
今にも火を噴きそうな真っ赤なドラゴンが、首だけになって落ちている。
吾輩、来る世界を間違えたかもしれぬな。
人間界はもっと、こう……なんというか、落ち着いていて、平和じゃなかったかなぁ。
まかり間違ってもこんなファンタジー生物っぽい何かはいなかった気がする。
「くそぅ、貴方とも、戦ってみたい……きっと強いん、だろうなぁ……あぁ、でも体が、もう動かないや」
ふむ……。
いいや。よいよい。
ここが人間界であろうとなかろうと、目の前に死にかけの人間がいる。それで十分。どうやら吾輩は丁度いい場面に出くわしたようだ。
この小娘から絶望を喰らってやろう。
そう思って、大口を開けて少女を呑み込まんと迫る。そして気が付いた。
「むっ。なんだ死にかけではないか」
少女の体はこれ以上ないほど壊れていた。
片腕が無い。眼球は一つ破裂している。腹は割かれ、内蔵の大部分が漏出してなくなっている。もはや臓器は心臓と肺くらいしか残ってない。
一体、どうやって生きているのだこの少女。
「しかも、絶望していないではないか」
それでいて彼女からは絶望のような美味そうな感情が得られない。
まるで凪いでいる。心の起伏が無く、彼女は既にあるがままを受けいれている。これでは吾輩の食事ができないではないか。
絶望を喰らおうとやってきた吾輩は空腹だ。
今この場で死にかけの
「ふーむ」
どうせなら腹いっぱい食べてみたい。
どうすれば、この子が一番で絶望してくれるだろう。
……ふむ。ふむ。思いついたぞ。
「癒してやろうぞ」
悪魔というのは不思議な生物で、人の願いを叶える力を持つ。
吾輩は魔法の原理なんぞ知らぬが、腹を割かれ、片腕が落ち、放っておけば死ぬであろう少女だろうと、彼女が斯くと望むなら直してみせる。それは容易い願いだ。
「……なんで?」
彼女は瞬く間に完治した身体をペタペタ触って、不思議そうに首を傾げた。
「生かされたのが不思議かな?」
「それはそうだ。だってお前は悪魔で、人間の敵だろう。なぜ私を助けた?」
「助けた? ふはは、それは早計と言うものだ。貴様にはこれから吾輩と戦って貰うのだ!」
「……!?」
「後は死ぬだけとでも思っていたか? その覚悟ができていたか? 無駄無駄、そんなものはもう無駄だ! そら、延長戦だ! もう一度!」
「っ!?」
少女は信じられないと目を見開いた。
そして、吾輩へと流れ込む彼女の感情――"絶望"の味は意想外に美味だった。
吾輩は賢い。
絶望とは。持ち上げて落とすのが最適だ。
少女はあの時、戦い終えて致命傷を負っていた。少女はあの時、死の覚悟を決めていた。しかし吾輩がそれを消してやったのだ。
裂けた腹は塞がり、
冷たく凍てついた死が遠のけば覚悟だって鈍るもの。
もしかしたら助かるかも――淡く生まれたそんな希望を、しかし吾輩という巨悪が容易く踏みつぶす!
一度抱いた希望を失くした人間はより一層絶望してくれる。それがこの"絶望"という甘美な味!
「そらそら、逃げろや逃げろや! 脆弱な人間の肉体なぞ、吾輩の爪に触れれば弾けるぞ!」
「っこの、怪物が!!」
振り下ろした爪を、少女はギリギリで躱して見せた。
次々と攻撃を繰り出すが、しかし、少女は先ほどまでの致命傷が嘘だったかように飛び跳ねて逃げ回る。
互いの体格差は歴然だ。少女は見下ろすほど小さく、吾輩にとってただの腕の振り下ろしでしかない攻撃が抗えぬ暴力となる。
時折、少女はその手に握った刀で吾輩を切りつけたが、まるで鉄を打つかのように火花が散るだけで皮膚は破れない。吾輩これでも悪魔なので人間なんかに負けないよ。
「右に左に、おおっとそう来るか。中々泣かんか、つまらぬな!」
「くはっ! 誰が泣くかよっ! こんなにも楽しいのに! ――ハハ! アハハハッ!」
強がりを言って狂ったように笑う少女。吾輩の笑みも深くなる。
徐々に吾輩の爪が少女の身体を掠めていく。
皮膚が裂け、血潮舞い散るその中で感じる彼女の気持ち。
分かっておる、分かっておるぞ。貴様の増大する"絶望"は、味わっている吾輩が一番分かる!
「見たことない速度っ! 強靭な肉体! こんなの、どうやって勝てというのだ! ははっ、私の刀が一切通らない!」
「ならば諦めて吾輩の慈悲に縋ってみたらいい。頭を下げて頼むなら、見逃してやらんこともない!」
「アハッ、お断りだな! バカが! ようやくそれらしくなってきた所だ!」
人間の感情。その栄養。初めての食事は吾輩の五臓六腑に染み渡る。
彼女が齎す絶望は血となり肉となり、より一層、吾輩を強大な悪魔へと押し上げ――あれ? なんか、吾輩、すごい勢いで弱体化してないか?
なんで? 今どちゃくそ雑魚やぞ吾輩。ナメクジだ。
「招来、雷火。晦冥を切り拓け――炎環渦雷」
うわっ突然中二病っぽい詠唱するじゃん少女。やめてよ。
「ぬぅうう!?」
かろうじて目で追える速度で放たれた斬撃が吾輩の首に迫る。
それは肉体的異変と、精神的失調に苛まれていた吾輩の対応を遅らせた。――避ける? いやもう間に合わん。防御、不可っ――!
ごぉぅんと重厚な音を立てて吾輩の首が落ちた。
「……吾輩の負けか」
「ああ、私の勝ち。これで終わりだ……そうか。もう、これで終わってしまったのか……」
そして吾輩を打ち倒し、命を繋いだ少女から送り込まれる感情――"幸福"の味。うお、まっず。ヘドロかな??
ぺっぺっ。うぇええ……吾輩これキライ。口直し無いの? 無いのかァ……。
やっぱり吾輩は立派な悪魔だったのだ。
ただ寝転んでゴロゴロしてるだけの猫じゃない。
吾輩は、人間の絶望が大好物で、幸福を嫌悪する怪物だ。……ヤバいな、そう表現するとこの子みたいな中二病に見えてしまう。ちょっと恥ずかしいぞ吾輩。
「では最期の仕事でもするか。吾輩を打ち破った褒美だ。願いを言え、直々に叶えてやろうぞ」
悪魔と言えば人間の願いをかなえる存在だよね。普通なら対価を貰うのだろうが、今回は特別だ。
吾輩も自分がしっかり悪魔だったと再認識できたことだし、最期はそれらしく散ってやろう。
でも簡単な願いでお願いね。もう力殆ど残ってないからね。
そう思って少女を見る。
首だけになっても、彼女は吾輩の視点より低い位置にいた。項垂れているせいで余計にそう見える。
「……」
「どうした」
黙り込んでないで早くしてほしい。
あっ、こら、そんなに幸福を噛み締めるな! 吾輩のお口を虐めるな!
「もう一度」
彼女は仄暗い瞳で、こちらを見つめてそう言った。
「もう一度だ。お前どうして最後、手を抜いた。今度は最後まで本気で戦ってほしい」
「抜いてなどおらぬわ」
よしんば力が抜けていたとして。
それは貴様がくすぐったい詠唱をしたせいだ。
今でも吾輩、思い出すだけで布団をかぶりたくなるんだぞ。
まあ――もう1つ、2つ。理由はあるが。
それはコイツとは無関係の事。
失って初めて分かったが、吾輩は"怠惰"でなければいけなかったのだ。それが吾輩という悪魔の根源だったのだ。
「してはならぬことをした。吾輩は悪魔としての在り方を裏切った。貴様に手を出す権利が無かった、故に力を失った」
「何故だ。どうして、そこまでしてお前は私を助けた?」
「ふん、貴様の感情を食べたかったが為に決まっている。貴様が吾輩に助けられたと勘違いした時の感情は極上だったぞ。対して、なんだ今の感情は。臭くて敵わんな」
「……」
「誇れよ人間。その陰気臭い感情など捨て去って、吾輩を打倒したのだと、驕り高ぶり、胸を張れ。
増長して、天狗になって、周囲を見下すがいいさ。
それなら吾輩の口にも合いそうだ。
「そうか。なら決めたぞ、私の願い」
少女はそう言うと、自分の胸に手を当てて願いを告げた。
「お前の全力を取り戻せ。そして、もう一度私と戦え。その為なら私にできることは何でもしてやろう。それが願いだ。叶えてくれるのだろう?」
「なるほど」
……なるほど?
んん? これ、願い叶うのか?
吾輩の力はもうカスみたいな量しか残っていない。それじゃあ、全力なんて絶対取り戻せない。
あ――でも願いをかなえる能力は発動するらしい。
吾輩の体と首が泡となって消える。力だけが空間に漂い、少女の周りを流れると、ゆっくり少女の体内へと吸収されていった。
「……ふむ?」
『うん?』
そしたら突然、視界が変わった。
これまで全方位が見えていたのに、今では吾輩の顔が向いている前方しか見えない。なんだこれは不便だな。
というか……吾輩は今、どこにいる? きょろきょろと自分の体を見回した。
「ううむ。これは、まさか少女の肉体か?」
右手を上げようと思えば、ふむ、動く。
口は……動くな。
ああ、これ、あれだな。イルカくんが言ってた"依代"って奴だな。どうやら吾輩は悪魔としての肉体を失って、代わりに少女の体へ入り込んでしまった様だ。
か細い体つきをぽんぽんと触れてみる。
顔はどうだ、うおぅ、すべすべだ。頬っぺたむにぃーと引っ張った。
「やってしまったな名も知らぬ少女よ。貴様はもう吾輩の器になり下がった。吾輩に奪われたこの体は、もはや貴様のものではなくなった!」
凛々しい少女のものだった顔に、吾輩の邪悪な笑みが浮かぶ。
悪魔に憑依されるとは不憫な奴め。
自分で『何でもしてやる』なんて言うから悪いのだ。悪魔にそんなこと言ったら大変な目に合うのは自明の理なのだ。
吾輩という悪魔を人間界で自由にさせてしまう事は、絶望と恐怖を振りまく怪物を野に放った事と同義。せっかく悪魔祓いに成功したというのに、もう吾輩は力を取り戻すまで止まらぬぞ!
『そうか……そうか! お前は力を取り戻せるんだな!?』
脅してやったら、少女からまた美味い感情があふれ出た。
「ふはは、後悔しても、もう遅い。色んな人間をお前と同じ目に合わせてやろう。そして吾輩が力を取り戻した時を楽しみにしておくがいい。今度は有無を言わさず捻り潰してくれる!」
『っは! 言ってくれる。打倒されるのはお前だよ、私を舐めるな怪物が……!』
強気だな少女よ。だが、吾輩は全てを知っている。
自分の身体を他人に奪われて弄ばれる。これを絶望と言わずして何という。
もはや指一本の自由も効かぬと知った愚かなお前の悲嘆。実に味わい深い甘味を感じるぞ。吾輩の喉が鳴る。
悪魔を舐めてかかるからそうなるのだ。吾輩の腹の中で精々、悔やんで絶望するがいい! それが吾輩の糧となる!
……んーうまぁ。