「おい」
山岳地帯を往く1人の人影。
背中にかかる程度で乱雑に切られた、闇夜を思わせる漆黒の髪が風になびく。
「……おい」
防具など要らんとばかりに、Tシャツとジーンズで構えられた服装はピクニックに来た童女のようで。決してこのような世紀末感あふれるダンジョンを闊歩していい装備でない。
右手に持った一振りの刀は真っ赤な波紋が美しい一品だ。しかしその価値は美術品的なものではなく、鋭さにある。
鋼鉄でできたゴーレムを豆腐のように切り裂いたのは、決して少女が持つ技術だけに依るものでない。刀の性能があって初めて一つの技に昇華される。
「聞いてるのか、おい」
木々の隙間をかき分けて、左右から同時に飛び込んできた黒い影。
狼を両断してはいけない。それは二つとなる。
狼を傷つけてはいけない。血も新たな狼となって襲い来る。
狼に魔法を放ってはいけない。それは彼等のエサになるだけだから。
「これもお前の仕事だろ、おい」
少女がここにきて初めて刀を構えた。
右の狼に向かって振り下ろされ、左へと斬り払われる。
それだけで狼達は死を感じる暇もなく絶命した。千回分裂するという狼に、その
『吾輩、魔物怖い……少女が怖い……戦い、怖いよぅ……』
「おい、お前が絶望してどうする。私を絶望させろよ、おい」
吾輩は悪魔である。でも、戦闘は苦手である。
とりあえず今はこの魔境を抜けるため、少女に身体を返している。
▼
吾輩はこれまで、とんと争いごとに関わる機会が無かった。
寝て起きて、寝る。
地獄で日々ぐーたら生活を送っていた吾輩は、悪魔失格のダメ悪魔。
千年掛けて貯め込んだ"怠惰"の力は既に無く。戦いの技法など端から持っていない。つまり、吾輩はこのダンジョンなる魔境から抜け出す術を持たなかったのだ。
ここは中国が湖南省、武陵源。
安全だった草原地帯を抜けたら、天を衝く巨大な奇岩が幾百と連なった秘境に辿り着いた。仙境と呼ぶにふさわしい、人間がたやすく立ち入れない険しい山岳地帯だ。
でも魔物と呼ばれる怪物は跋扈している。うじゃうじゃいなさる。
というか、なんでこんな秘境に居たんだ貴様!
なに!? ここが世界最難関のダンジョンだと!? ……そうか!!
……。
ダンジョンとはなんなのだ一体……。
なんで巨大ビルみたいな大きさの鉄人形がいるのだ。重力を反転させる蛇とはなんだ。見たら気が狂って死ぬ悪霊って一体なんなのだ。
吾輩は悪魔である。
でも、ダンジョンの怪物共に比べたら、ミジンコである。
『ダンジョン怖い……怪物怖い……』
「悪魔が泣くな。情けない」
吾輩だって別に死は怖くない。
これまで無法者の悪魔に幾度となく殺されてきた。だけど、あいつらは別にこんな異次元の力は持っていなかった。
ダンジョンに潜む怪物どもが秘めた力の波動。理外のそれは理屈ではなく、吾輩の心に直接訴えかけてくる。こりゃ、やべぇって。吾輩は心の底から分からされてしまったのだ。
「むっ、跳ぶぞ」
『え……ぬぉぉお!?』
掛け声と同時に少女は地を蹴り、空へと飛びあがる。その直後。今まで立っていた地面が消失した。炎熱に溶かされたようにグツグツ茹だった溶岩へと変わる。
「グォオオオオ――!!」
「あれは飛龍の一種、刑天『黄炎龍』……だったか。見ろ、奴の魔力は全てを溶かすぞ」
『視界がぐるぐるして何も見えん!』
敵の攻撃を躱すために少女は空中を蹴って進む。
ドラゴン――だと思う。首から先が無いけどゾンビか?――から放たれた魔力の奔流。それを少女は側方へと回転しながら避けた。すごいぞ、お手本のような空中機動だ。
でも、まともに敵の姿が見えん! どっちが前で、どっちが下だ!?
「と、こんな感じでやれば倒せるな。理解したか?」
『うむ』
いつの間にか体を四分割されて落下していく、元ドラゴン。
少女は弱っちい吾輩のために戦闘指導をしてくれているようだが……すごいぞ。何も分からないことが分かったぞ。
そもそも、吾輩だって最初は少女に体を返さずにダンジョンを抜けようと思ったのだ。
吾輩が悪魔としての力を取り戻すため、その方法を考えるため、とりあえず少女の自宅に帰ろうとした。でもダンジョンの怪物に襲われて気が付いた。
あれ? 今の吾輩って、どうやって戦えばいいのだ?
今の吾輩に人間界へ殴り込みに来た時のような力はなく、借り物でしかない少女の力は上手く扱えない。
あたふたしてたら、怪物にめちゃくちゃ殴られた。
巨大な
「ば、馬鹿者が! それは私の体だぞ!? 敵に好き放題やられるんじゃあない!」
などと少女に怒られた。
「ぐぅ、臭い! 胃液と唾液で体中ベッタベタじゃないか! こんな失態は初めてだ、くそっ! 気色悪いっ!」
などと年頃の少女にあるまじき体験もさせてしまったな。その時の感情はご馳走様でした。
それで「こりゃ厳しい」と、代わりに戦って貰うため
その結果がこれだ。
なんとこの少女、ダンジョンの怪物共を相手に何一つ苦労していない。
ダンジョンを練り歩いている最中だろうと、戦闘中だろうと、得られる感情は無味無臭のそれ。少女はこの魔境に感慨一つ抱かない。ありえぬ強さを持っている。
え? これ彼女がその気になったら吾輩、一瞬で殺されちゃわない?
身体の操作権を返還している以上、そのリスクは高い。
彼女は吾輩を育てると言ってくれていたが、それはいつ反故にされるか分かったものでない約束だ。だって吾輩、めちゃくちゃ少女の事虐めてるし……。
彼女がブチギレて「お前など、もう知るか!」ってなったら、普通に殺される仕打ちをしてる自信ある。
だからそんな懸念が湧きあがったのだが、そこは吾輩、賢い天才。
少女にはしっかり鈴付きの首輪を用意してあるぞ。
『む……貴様また吾輩に反抗しようとしたな。そんなに罰が欲しいのか?』
「っ、これでも気付くか。何故だ。バレないと思ったのに……!」
『小賢しい奴だ。次は30秒と言ったな。そら、存分に苦しむがいい』
「まっ、待――ひっ」
少女の両腕が彼女の意志とは無関係に、自分の首を締め上げようと動き出す。少女の表情に恐怖が宿った。
「待て……待て、すまなかった。隠れて身体を奪い返そうとしたのは悪かった。謝る。だから、止――あっ……がっ!」
全力で締め付けられて動脈が閉塞、少女の視界が明滅する。意識は瞬く間に朦朧として全身の力が抜ける。舌をだらしなく突き出して、目を見開いて喘ぐ少女。
だけど腕の力だけは変わらない。吾輩が動かしているからな。首筋に真っ赤な手跡が付くほど、ギリギリと締め付ける。そしてキッチリ30秒後。意識を失った少女の首を開放してやった。
少女は打ち捨てられた魚のように地面に転がった。
「――がひゅっ。げほ、げほっ! お、前、ふざ、けるなよ……っ! 死ぬかと思ったぞ!」
『相変わらず反抗的な目つきだな。貴様は己の立場を理解できぬ野良犬と見える』
意識が戻ると同時に吾輩を睨みつけてくる少女。
生理反射で涙こそ浮かべているが、その意志は欠片も死んでない。
ハッキリ言おう。
ちょっと内心、吾輩この少女怖い。
なんで折れないのだこの少女。これほどの仕打ちされたら、普通、嫌になるだろう。逃げ道だって残してる。
けれど、少女は敵の慈悲に縋らない。己の力だけで吾輩の支配から抜け出そうとも足掻いている。なんだ、自尊心の塊かコイツ?
更に加えて言おう。
先ほど少女がどうやって吾輩の支配を脱走しようとしたか、吾輩は方法が分からなかったし気付けなかった。でも、九分九厘、抜け出されていた。
勘づくのにもう少し遅れていたら吾輩は少女の制御を失っていた。
いや……まあ、失っても良いし、殺されてやってよいのだが……その、吾輩だって悪魔だし。プライドあるし……。
どうせなら、この小生意気な少女の方から「解放してくれ」と申し出て欲しいのだ。あるいは用意した逃げ道を使ってほしい。そしたら吾輩、笑って死んでやる。
だから、先ほど結んだ『契約』が功を奏したのだ。
―― 貴様は吾輩が力を取り戻すのを援助し、育てるものとする。
これは吾輩を育てさせるために結んだ契約……では無い。
この真髄は裏切り行為の感知だ。
彼女が自分の意志で反逆行為を犯そうとしたとき、この内容と矛盾する。故に契約というものに精通している悪魔には伝わってしまうのだ。彼女の違反が。
造反行為の禁止を契約上に明文すれば、もっと簡単か? そもそも契約で縛っているから安全か?
いいや、そうではない。それでは「ここに錠があるぞ」と教えるようなものだし、契約は万能の檻でもない。
契約とは、力関係が対等か優越であって初めて機能する脆い手枷である。
吾輩のようなクソ雑魚ナメクジ悪魔が結ぶ契約なんて、名ばかりの張りぼてだ。だから『壊す価値もない』と思わせる内容でなければいかんのだ。
どうせこの少女なら、独力で契約破棄ぐらいして見せるだろうから。
あ、ちなみに吾輩が少女の手綱を握っているのは、契約とは別由来の影響だぞ。
あれは少女の願いを叶えてやった結果であり、少女の方から
つまり、吾輩が気さえ抜かなければ契約と魂の掌握によって少女の行動を縛ることが可能。なのだから――
『諦めろ。貴様の全ては、吾輩の手の中にある。もやは抵抗は無意味だぞ』
「……いいや過言だな。確かに手ごたえを感じた。あと少しでいけそうだったな」
獣のような笑みを浮かべる少女。獰猛よな。
というかこの少女、ぜんぜん吾輩を育ててくれそうな気配がないのだが……?
先ほどせっかく契約したというのに、ずっと吾輩と少女で主導権の奪い合いをやっている。まあ、吾輩も少女イジメで食べれる感情が美味しくて、ついついやり過ぎてしまうから悪いのだろう。
そんなこんなで少女は何度だって抵抗してくるから、吾輩も油断していると致命的な事態に陥りかねん。が、それがまたいい塩梅に味を付ける。
これだけ抗って、あと少しでいけそうなのに、いけない。最後の一線が超えられない。吾輩の支配下から抜け出せない。それを悟った時の少女の感情は如何ほどか。
気高く、強く、どんな万難をも排して来た少女が初めて経験する挫折。
身体だけでなく、その澄んだ魂すら鎖で雁字搦めになって悪魔に蝕される。逃げ道など、もうどこにもないのだと知った時の少女の絶望が待ち遠しい。
これ程の極上の獲物を、吾輩は見た事ない。
心が折れた時の絶望が楽しみだ。
いずれ訪れるであろう絶望の饗食を想像して、吾輩は静かに舌なめずりするのだった。
……なお少女は別に逃げても良いものとしている。
が、ぜんぜん逃げんな、この娘。一体どうなっているのだ??
いずれ訪れるであろう絶望(訪れない)