◇ほろろ
神などいない。神など信じない。
全て嘘だった。みんな嘘つきだった。
神様が本当にいたのなら、ほろろは産まれなかった。
神様が本当にいるのなら、ほろろは必要ない。
だから存在しない、ほろろが存在している事自体が不在証明となる。
神様がいたのなら、ほろろは救われていた。
神様がいるのなら、ほろろは裁かれている。
神様がいないから、誰も救われない。
苦しみが無くならない。生きることそのものが苦痛となり、ほろろの愛する人々の心を殺す。叶わない理想、欲しかった未来。それらは虚構であり、現実はどこまでも厳しく、身も心も凍らせる。その飢え、寒さに耐えられず、人は苦しみ、哀しみ、憎み、恨み、悲劇はなくならない。
──ほろろが救わなければならない。
もっと早く、気づくべきだった。
魔法少女としての力を与えられた、その瞬間から。いや、そのずっとずっと昔から。人々に幸福を与え、生という罪苦から解き放ち、その魂を真に救済へと導くことができるのは、ほろろだけだった。
神様はいなかった。いたのなら、ほろろは魔法少女になっていなかった。あの恐ろしくも哀れな森の音楽家も、生まれるべきでない“悪意”に魅入られたモノクロの悪魔も、ほろろが生まれるよりもずっと前に裁かれ、その罪を清算し、何も失う事なく幸福を手に入れていた筈なのだから。
いや、そもそも、罪に囚われる前に。
神様がいたのなら、彼女達も救われている筈だった。あんなにも悍ましく、哀しく、憐れな存在に成り果てているはずがなかった。
そしてそれは、彼女達に限った話ではない。
ほろろに暴力を振るった両親も、その報いを受けて焼け死ぬ必要はなかった。ほろろに優しくしてくれた孤児院の皆も、悪意に絡め取られ、殺し合いなどさせられる事はなかった。ほろろを封印した魔法の国の人々も、ほろろを生み出したという“罪”を背負う必要はなかった。
この監獄に囚われた罪人達だって、きっとそうだ。与えられなければ、罪を犯す事はなかった。永劫にも似た苦しみに絶望する必要も、より強大な“悪意”に怯える必要も、死を以てしても外れることのない枷に縛られる必要も、そうだ、なかったはずだ。
神様がいてくれたなら、どれだけ良かっただろう。人々は綺麗なままでいられただろうか、生まれた事が罪で、生きることが罰だと、そう嘆く必要などなかっただろうか。
ほろろはずっと祈り続けてきた。神様、神様、どうか助けてくださいと。救いを無邪気に信じ、どうか、どうかと、この苦しみから掬い上げてくださいと、祈らないときは無かった、信じていた、だけど、裏切られた。
いや、違う。最初からいなかったのだ、裏切られたんじゃない、見捨てられたんじゃない。ほろろが馬鹿で、騙されている事に気が付かなかっただけ。
ほろろが馬鹿だから、神様に祈っていた。
神様はいないから、ほろろは救われなかった。
それだけのことで、それだけのはずだった。
救えるはずだったのだ。
ほろろが救われなくても、ほろろの大切な人達は救えるはずだった。ほろろが、救うべきだった。神様なんかに祈らなければ、ほろろが騙されなければ、誰も彼も救えたはずだった。ほろろにはその力があった、だけど、気が付かなかった。
許せない事だった。救うための力を持っていながら、それに無自覚なまま生き、あろうことか他人任せに祈ろうなど、断じて許せない。
ほろろが馬鹿じゃなかったら。
一体、どれだけの人々が救えた。
生きる苦しみから解き放ち、幸福な夢の中で生涯を全うさせることができた。理想と現実の差異に苦しんでいる者達に、本当の救済を与えることができた。痛み、苦しみ、悲しみ、後悔、それらの凍てつく感情を与えることなく、逝かせてあげられた。
そうしなかったのは、出来なかったのは、ほろろの怠慢だ。ほろろは自身がやるべき事に無自覚で、だから今もこうして人々は苦しみ、その魂をすり減らしている。
神などいない。いたとして、誰のことも救わず、誰のことも裁かない。
だから、ほろろが救うしかない。
誰に理解されなくても、誰から責められても。
ほろろは足を止めてはならない。己一人が楽になることで、その他大勢の人々が苦しみ続ける現実を自覚せねばならない。
誰が許すというのだ。ほろろは自分が許せない、大切な人たちを見殺しにした、見捨てた、救わなかった自分を許せない。許してはいけない。
だから、死ぬわけにはいかない。
ほろろは死ねない。
首を刎ねられ、脳を破壊され、心臓を貫かれても。
その程度で死ぬわけにはいかない、楽になるわけにはいかない。そんなの、ほろろが救えなかった人達に申し訳が立たない。
ほろろは死ぬことを許されない。
ほろろ自身が許さない。
だから、この感情が、ほろろの、自分自身を恨む気持ちが、憎しみが、怒りが、それ以外の、そして、その全てが──ほろろの魔法で、炎に変わる。
「貴方も、大丈夫です、助けます、救います」
「──っ、『動くな!』」
全身を悉く破壊されて、それでも死ぬ事はない。
ほろろの炎は人々を救うための力だが、ほろろに限りない罰を与える力でもある。地獄の炎に焼かれるのは、ほろろただ一人で有るべきなのだから。命ある限り捉えられる苦しみ、肉体の放つ電気信号を、自らの炎で上書きし、更なる痛みを与える事で修復する。
どれだけの痛みも、苦しみも、ほろろの足を止める事は出来ない。人々の救済、この世に存在するあらゆる悲劇からの──解放を、この役割を、責任を、手放す事など許されない。
ほろろにしか出来ない事だから、ほろろがやるべきなのだ。そこにほろろ個人の感情など、怠慢など──死ぬことなど、断じて、許されない。
「『動くな!』『動くな!』『動くな!』……なんでだ!? なぜ動ける!? なぜ死なない!?」
「貴方は、よく働きました。きっと、辛かったでしょう、苦しかったでしょう、訪れる明日に泣き、二度と手に入らぬ過去に苦悩したでしょう、大丈夫です、貴方は救われます、救われるべきです、救うんです、私が、貴方を憐れみます、貴方を覚えています、だから安心して──身を委ねてください」
この魔法少女は、間近いなく強者だ。
彼女の言葉を聞くたびに、彼女の声が鼓膜を叩くたびに。ほろろの意識は遠ざかり、肉体を離れて、ほろろの物ではない心象が頭の中に浮かび上がり、その間、ほろろの祈りは掻き消える。思考に、一時的な空白が生まれる。
きっと、彼女の魔法なのだろう。
喜び、悲しみ、苦しみ、怒り。
手を替え品を替え、あらゆる感情が、ほろろの物ではない“生ける者の情動”が、ほろろの頭に流れ込み、虚像となり、ほろろの思考を押し除ける事で、一瞬だけでもほろろの哀しみを忘れさせてくれる。
身を委ねて仕舞えば、きっと楽になる。
この使命感も、哀しみも、苦しみも、全て忘れて楽になれる。解放される、ようやく死ぬことができる、地獄に落ちて、報いを受けることが出来る。
──だが、それは“逃げ”だ。
ほろろは許されない、だから、死ぬわけにはいかない。死んではならない、死ぬことを許されない。生きて、生き残って、救って、救い続けて──
魔法によって、ほろろの頭の中から感情は消える。炎が弱まり、魔法の効果が薄まる。彼女はその隙を突いて、ほろろの首を刎ね、脳を破壊し、心臓を断ち、二度と起き上がらないように肉体を破壊する。
だが、ほろろは死なない。
なんて、哀しいのだろう。
どうしてそんなに、頑張れるのだろう。
抗うことに意味などないのに。生きようとするのは、辛いことに目を背けない生き方は、あんなにも沢山の苦しみを生み出すというのに。
分からないものに、理解できないものに。
どれほど恐れを抱き、遠ざけようとも。
いつか必ず辿り着く、背に手が届く、二度と這い出ることの出来ない深淵に飲み込まれる。
だから、ほろろが救わないといけない。
この魔法で、この救済の炎で。
憐れみ、傷つけて、されど魂は癒し、心を救う。
どこかの誰かが、世界が、彼女の命を奪う前に、ほろろが、彼女を
「『───っ』『──』『────』」
なぜ、どうして、魔法が効いていないのか。
彼女はきっと、そう言っている。
そんな事はない、彼女は良く戦った。他の誰がなんと言おうと、ほろろは彼女のような強き魔法少女を尊敬している。ほろろがあの頃の、神に祈るだけだった愚か者のままであったのならば。きっとここで死んでいただろう。
彼女の魔法は、ほろろに対して実に有効的だ。感情、それも、身を焦がすほどに強い情動。それがなければほろろの魔法は発動せず、彼女の魔法はその“感情”自体を一時的に掻き消す効果がある。恐らく、声を聞いた相手の思考を止めるような、そんな魔法なのだろう。
だが、今のほろろには通用しない。
何故ならば、この情動は、ほろろの心身を燃やし尽くして尚収まることのない感情は。頭の中ではなく、胸の中にあるのだから。ほろろは既にまともな思考などなく、全ては胸の内から溢れ出る欲求に沿って動いてるに過ぎないのだから。
そして何より、もはや、彼女の声は聞こえていない。彼女の言葉が鼓膜を揺さぶるよりも早く、ほろろの自己へ向けた怒りが、憎しみが、決して癒える事のない痛苦が。ほろろの鼓膜を、脳を燃やし尽くし、炎と共に再生し、魔法の影響を受けていない新たな肉体を作り出す。
だからもう、彼女の魔法はほろろに届かない。
ほろろは救われるつもりがないから、決して楽になることを許されないから、ここで負けることも、死ぬことも選べない。
狂ってしまった、壊れてしまった。
かつて、森の音楽家と、その一味と。ほろろを知っていた人々や、魔法の国の監査官は皆、口を揃えてそう言った。
だが、違う。ほろろは狂っていない、壊れてもいない。ただただ、哀しいのだ、憐れで仕方がないのだ、愛しているのだ、救いたいのだ、人を、人々を、ほろろの愛した隣人を、ほろろ以外の手によって奪われたくないだけだ。
人の一生に救いなどない。
だから、ほろろが与えねばならない。
「哀しいです。でも、大丈夫です。ほろろは救います。愛しています、だから、殺せます。神が見捨てたとしても、ほろろが、私が、貴方を憐れみます」
大切なのは、憐れむことだ。だけど、見下すのではない。心の底から愛し、全ての罪を受け入れる覚悟を持ち、恐れる気持ちを取り除き、惜しみなく赦すことだ。
瞳を閉じれば、そこに存在しているものだ。
悲しき生を分かち合い、神の教えに従って共に過ごし、心の傷を癒やしあった仲間達。悪意に晒され、殺し合うことを強制され、されど憎しみに囚われる事なく、大切な友を守るために戦い、蹂躙され、苦しみ抜いた末に、無念を抱いて散っていった者達よ。
ほろろが殺してあげるべきだった。
この魔法で、救済の炎で。幸福な夢を見せながら、一切の痛苦を与える事なく、何一つ報われない現実から切り離してあげたかった。
だが、それはもう叶わない。
後悔だ。ほろろが祈っていたからだ。自ら救いを与えるのではなく、何処かの誰かに助けを求めていたからだ。
だから、あの子達は救われなかった。
もう二度と間違えない。
炎が変わる。感情が燃え上がる。
抑えられない、抑える気もない。
黒から青へ。自罰から慈悲へ。
愛しき人々の犠牲によって生まれたこの罪で、全ての人々を
青い炎は、救いの証だ。
肉体は傷つけず、だけど、魂を燃やす。
一切の苦痛を与えることなく、その者が望む
人々は夢の中で、一生を全うする。
辛い現実に侵されることも、叶わぬ理想に心を凍てつかせることもない。真実、幸福な一生を、夢の世界で過ごす。最後まで見続けた夢を、現実でないと誰が証明できるのか。
だから、救いなのだ。そうしてあげたかった、愛しい隣人たちに。だが、それは叶わない。ほろろの理想は二度と手に入らない。
だから、全ての人々を救わねばならない。
代償行為だ、醜い欲求だ。だが、使命だ。
「ほろろが、全てを──
だから、恐れず、眠りなさい。愛しい人よ。