◇
品川環の人生において、期待とは常に重荷以外の何物でもなかった。
「環、お前……またか」
「は、はい! 申し訳ありません。教官殿」
ハァ、と。目の前でこれみよがしに吐き出された溜め息が、ナイフのような鋭さで環の心を傷つける。擦り減ってとうの昔に底を突いたと思っていた自尊心が、マイナスの領域を目指さんばかりに底の底へとめり込んでいく。
前には失望の眼差しで環を見つめる教官、背後からはクラスメイトからの嘲笑の音を含んだ忍び笑い。前門にも後門にも逃げ場などなく、つまり、環に居場所など存在していなかった。
環はこれでも、名門と呼ばれる家の出で将来を期待されていた人間だった。兄弟姉妹はもとより両親や祖父母、そのまた先祖に遡っても一切の瑕疵がなく優秀な、本物の血筋を引いている。親族は誰もが何かしらの分野で活躍していて、政治や軍部にも関わりが大きい。弟や妹でさえ、今の環より遥かに国に貢献している。
そんな中で生まれた唯一のイレギュラーであり、家名を汚す欠点であり、文句のつけようもないほどの無能。それが品川環という少女だった。
人並外れて能がなく、人並みのことすら熟せない。学力体力共に常にドベ、頭の回転は遅く機転が利かず、気が弱くて会話も長く続かない。凡そ人間に与えられる全ての能力値が最低限としか思えないというのは、環が他者と共有できる数少ない認識の一つだ。
「度重なる遅刻、貸与物品の紛失、転倒による備品の破損……なぁ、一応確認したいんだが、わざとやってる訳じゃないんだな?」
「ひゃい! わざとではありません!」
以前までなら、怒鳴り声と共に拳の一つや二つが飛んできている頃だった。だが、教官が環を見つめる瞳に宿っているのは怒りなどではなく、困惑、諦念、その他諸々の名状し難い感情であり。つまり、環がいつも向けられていたものだった。
「……私はこれまでそれなりの数、それはもう色々な生徒を世に送り出してきた。その中には当然、遅刻をする奴も、物を無くす奴も、不注意で何かを壊す奴もいた」
「……はい」
「だがな、お前みたいなのは初めてだ。どうやっているのか聞きたいくらいだ。なんでこれだけ注意されて、罰を与えられて、それでも改善出来ないんだ?」
「も、申しわ」
「いい、いい。謝ってほしいわけじゃない、ただの愚痴だ……後で反省文を提出しろ、席に戻れ」
「…………はい」
命令された通りに、自らの席へと戻る。目線を下へと向けて、極力クラスメイトの顔を見ないようにする。環がそれまでの人生で学んだことの一つであり、好奇や侮蔑の視線を認識しないための工夫だった。
「わっ、と──きゃっ」
その場の誰しもが、何故? と疑問に思ったことだろう。俯いて下を見ながら歩いていたにも関わらず、環は右足を自分の左足へと引っ掛けて地面に突っ込んだ。運動神経の鈍さがたたり、受け身を取ることすら出来ずに額をぶつける。
えぇ、と。誰かの困惑する声が環に届く。痛みに加えて、恥ずかしさと情けなさで視界が滲む。水滴が頬を滴り、床に落ちた。
「大丈夫か」
「……ひゃい」
無力感に苛まれながらも四つん這いへと姿勢を変えた環の視界に、差し伸べられた手が映りこむ。おもわず手を取り、引っ張り上げられるようにして立つ。その後から、相手が誰かを察した。
「ようひゃん」
「無理に喋るな、だ。血が出ている」
ここ数ヶ月ですっかり聴き慣れた声で、ごちゃごちゃになっていた環の感情が落ち着いていく。白いハンカチが血で汚れていくのに嫌がるそぶりも見せず、クラスメイトにして同室のペアである
「教官殿、品川候補生が負傷した。適切な処置を施したい。離席の許可を求める」
「……ああ、頼めるか」
「問題ない、すぐ戻る」
教官を相手にしていても、羊の声や態度に緊張は見られない。環を相手にする時と同じように、クラスメイトと接する時と同じように。表情が動くこともなければ、声音に感情が乗ることもない。あくまでも平静であり、どこまでも自然体。環が知っている羊という少女は、そういう不思議な雰囲気を持っていた。いつも落ち着きのない環は、彼女のそういう所にも憧れていた。
「品川候補生、歩けるか」
「は、ひゃい」
「
繋いだ手は環のそれよりも一回り小さく、背も頭ひとつ分ほどは差がある。それなのに、環は羊に対してこれ以上ないほどの頼もしさを感じていた。環が羊と出会ってから過ぎた時間というのは、これまでの人生の長さと比較して決して大きい割合ではない。だけど、もしかしなくても、環は血の繋がった家族たちよりも、自分の手を引いて進んでくれる少女に対して心を開いてしまっている。
どこからか聞こえてくる環を嘲る声も、羊といる間だけは気にならない。その事実こそが今の環の本心であり、情けなくてたまらなかった。
◇◇◇
栄光ある帝国立軍学校。その中でも新設されたばかりの「特別な才能」を育てるための特別学科。噂によれば将来の幹部候補生が集まると云われているその場所こそが、環の所属する組織だった。
性格まで立派な家族親族たちに「いつか環にも得意なものが見つかるよ」と慰められ、彼我の差により一層惨めな気持ちで日々を過ごしていた環にとって、自分がそんな「特別」な場所に選ばれたというのは、正に寝耳に水のような出来事だった。
これ以上ないほど喜ぶ家族の期待の視線に見送られ、環は「特別兵推進科」通称「特進」へと所属し────当然のように、そこでも最底辺の成績を叩き出した。
教育を受け持つ上官は功績立場共に確かなベテランであり、与えられる指導は間違いなく帝国内でも最高水準のもの。一般兵の義務の一部が免除されていたり、所属する候補生の生家に様々な優遇措置が取られていたり、そもそも軍学校の一生徒にはありえないほど高待遇であったりと。明らかに環には不相応な環境であり、実際、入学してすぐに環は周囲から浮き、
当たり前だ。特別扱いとはいえ、軍学校である事には変わらない。与えられる罰は当然ながら「連帯責任」であり、明確に足を引っ張る環をクラスメイト達が疎ましく思わない訳がない。
特別。それそのものに憧れていながらも諦めていた環にとって、この環境はある意味でそれまでの人生で一番生き地獄に近い。人は諦めている時よりも、何かに期待している時の方が、現実という壁に強くぶつかり、大いに傷つく。自分自身に期待することを諦めていた今までの環よりも遥かに大きく深い傷を、この数ヶ月間で与えられていた。
他人からの期待を裏切るのは、心苦しい。
だけど、自分自身の期待を叶えられないのは。それよりも遥かに大きく自尊心を損なう。
何度諦め、無理だと言い聞かせ。家族に迷惑がかかるかもしれない、という懸念から目を逸らして逃げようとしたか分からない。毎夜後悔して、途中から己の恥部を数えることを放棄した環に把握できるものではない。
それでも逃げなかったのは、環にも僅かな救いが与えられていたからだ。
三条羊、環のクラスメイトであり同室。関係としては、所属上のパートナーという事になる。与えられるカリキュラムで優先的にペアを組み、生活の苦楽を共にする相手であり。つまり、環の無能による被害を一番受け止めている被害者でもある。
特別扱いとはいえ、罰則は存在している。クラスの共同作業ならクラス全体が、私生活や二人一組での活動なら同室相手が。環のやらかしによって不利益を被り、環と同様の罰則を与えられる。
とはいえ、当初よりは周囲への負担も軽減されてはいる。環がミスをしなくなったのではなく、あまりにも数が減らないために連帯責任が機能していないと判断されての処置というのが情けないが。それでも、以前と比べれば風当たりがマシになっているのは間違いない。
その変化が、罰則だけではなく、三条羊によって齎された物だというのは環の勘違いではない。
環がどれだけやらかして、その被害を羊が受けたとしても。羊から環への態度は一貫して変わらず、以前も今もずっと、自然体でありながらも思いやりに満ちている。怪我をすれば手当てをしてくれて、物をなくせば一緒に探してくれて、罰を与えられても不平不満の一つすら漏らさず、むしろ庇ってくれてすらいる。
一番近くにいる環から見ても不思議なほどに、ともすれば献身的とすら感じられるほどに、三条羊は
無能の環と、特別な羊。この二つが同じ「特別な才能」という括りで見出され、同じ扱いで一つの組織に所属しているというのが、環には信じられないことだった。日々成長していく羊含むクラスメイト達と、未だに「特別な才能」とやらが目覚める兆しすら見えない環。場違い、と陰口を叩かれていたのは一度や二度ではなく、きっと他の誰よりも環自身がその事を理解しているだろう。
「此方は別に、そんな大層な人間ではない」
──むしろ、欠陥品だ。
環が日頃の感謝の気持ちと、その十倍ほどの謝罪を伝えた時、羊はそう応えた。環はその謙遜にしても過ぎた言葉に対して、流石に尊敬を通り越して恐怖すら覚えた。が、しかし、そんな環の内心を悟ったのだろう。羊は自らの
「事故の後遺症、だ。脳が欠けた影響で、色々と現実味がない。何も感じない訳ではないが、常人より情緒に乏しい。この通り、表情も動かない。人間として、欠陥が有る」
──長い事、家族には迷惑をかけた。
そう呟き遠くを眺める羊の横顔を見て、環はまた一つ、彼女から学びを得た。成績優秀で、出来た人間で、悩みの一つもなさそうなほど完璧に見えたとしても。遥かに劣る環が、同じ、と断ずるのは違うかもしれないけど。どんな特別な人間であっても、それぞれが何かを抱えていて、他者には想像出来ないことで思い悩む事もあるんだと。
もしかしたら、家族もそうだったのかもしれないと。平均以下で劣等生で、自分のことで精一杯、案じられるばかりで思いやる事をしてこなかった環はようやく、そんな当たり前の事に思い至ったから。
だからきっと、環はこの横顔を忘れないだろう。例えどれだけの時間が流れて、いまこの瞬間がセピア色に染まる思い出へと変わったとしても。きっとこの想いだけは、忘れない。
『やまのてせん、起きろ』
「それよりも、明日の事だ。以前から周知されていた通り、
「大丈夫、かな。また、私が足を引っ張って──」
「考え過ぎだ。教官は『特別な才能』があれば問題ない、と言っていた。此方もそうだが、品川候補生、其方も『特別な才能』とやらに恵まれているとされ、此処にいる。だが、少なくとも此方はそんな才能など感じたことも無い。品川候補生が自分に自信がないのはいつもの事だが、この一点に関しては此方も同じだ」
「でも、でも、さ、私と羊ちゃんは、違うよ」
「違う、か。そんなのは当然、だ。同じ人間など居ない。だが、少なくとも『特別な才能』という一点を見出されたのは、此方も、其方も、クラスメイト達も、その一点では『同じ』だ。品川候補生、自分を疑うならば、だ。我々を選んだ国を信じろ」
『やまのてせん、目を覚ませ』
「じ、じゃあ、あの、羊ちゃんに、お、お願いがあるんだけど」
「なんだ」
「品川候補生、じゃなくて、ね。な、名前! 名前で呼んでくれたら、頑張れる、かも?」
「名前、か。それが品川候補生のモチベーションになるのなら……そうだな、明日の試験を二人揃って突破できたのなら、其方を環候補生と呼ぶとしよう」
「候補生はいらないよ……」
自分に期待する事は、自ら重荷を背負うのと変わらない。最後に残るのは辛い気持ちだけなのに、環はまた一つ、自分に重荷を借した。だけどその分だけ、羊に感じていた罪悪感や後ろめたい気持ちが、心の中から消え去っていて。息苦しくなるはずなのに、これまでのどんな瞬間よりも心穏やかで。
だからこそ、環は気が付けな“かった”。
聞こえな“かった”し、届かな“かった”。
ずっとずっと、幸せな夢の中で微睡む事が『正解』であり、環にとって正しい事なの“だった”。今は辛いからこそ、既に失ってしまったからこそ、あの時が幸せだったんだと、思い出が幸福なのだと知ったの“だった”。
『起きろ、やまのてせん。攻撃されている』
その呼びかけは、環には届かな“かった”。