あの子が何かになるまでの ~曲北中学吹奏楽部のインテルメッツォ~ 作:ろっくLWK
喫茶店での語らいから一夜明け、今は正午を少し過ぎた休憩時間中。奈央と楓は再び満流を対面の席に据え、集会ルームのど真ん中に用意した会談の席へと着いていた。
今日は吹部の年内最終活動日。明日の大晦日と新年三が日は部活も休みとなり、それが明ければアンコンまでは残すところ二週間ほどとなってしまう。その期間はさすがにチームでの練習を最優先に取り組まなければならないし、アンコンが終われば吹部は冬以前のように二分されたままの状態で動き出してしまう。以後の状況がどうなるかは全くの不透明だが、遅くとも春までには何らかの形で妥結を図る必要がある。それが叶わなかった場合、来年度の吹部の決定的な破綻は避けられなくなるだろう。
だがそんな悠長なことを言うつもりは毛頭無い。今日で決着をつける。そういう姿勢でもって、奈央はこの場に臨んでいた。
「――で、
「悪りいんだけど、それは無理だよ。楓ちゃんはうちらの係の大事な人員だし、それに何でもかんでも言われた通りにしてたらそれこそ窓口係の意味が無えがら、いくら柳川さんの要望だからってそこまでは聞いてあげられない」
「あっそ。へば今日の話し合いは以上、解散。お疲れ」
「待って」
そこで声を上げたのは奈央ではなく楓だ。……何よ? と楓を見据えながら一言放ち、立ち上がりかけていた満流が再び席に腰を下ろす。
「私、柳川さんとは殆ど話したこと無がったよね。それなのに突然私さ『降りろ』なんて言ってきたのが、ずっと不思議で」
「不思議要素ある? それともこんなことも分がんねえの? 秋山さんのことが気に食わねえからに決まってらべった」
「そう、それ」
相も変わらず、楓は物怖じもせず満流に対峙している。奈央はそれを傍でじっと見守る体勢を取り続けた。もしも楓が突っ走るようならその時には自分がブレーキを掛ければいい。だからまずは楓の思ったようにやらせてみる。これは今回、二人で事前に決めた算段に基づく行動であり役割分担だった。そう、満流との交渉に当たっているのは一人ではない。奈央と楓、二人なのだ。
「殆ど話したことも無くて、パートもセクションも違うのに、
「頭お花畑かよ。片思いって知ってる? アレみてえに、特に何の接点も無えったって人が人を好きんなることはある。これはその逆。接点も何も無えのに人が人を嫌いになるなんて、世の中には腐るほどあるんだよ。アンタが自分でも分がんねえうちにね」
「解るよ。ううん、どうして嫌われてるかでねくて、私の思ってもみねえところで誰かに嫌われる可能性があるってのは、それは解ってる」
「フン。――したら話は早ええよな。秋山さんは自分の気付いてねえところで私に嫌われてらった、だから係から外れてどっか私の目につかねえ所さ消えて欲しい。何も難しい話でねえべ。これでもまだ何か言いてえことある?」
「ある」
チッ、と満流が煩わしそうに舌打ちをする。今のところ、楓の言動に動揺や興奮といった不安定さは見られない。それだけを確認して奈央は再び満流へと視線を戻し、相手の動向に引き続き注意を払う。
「私、自分が誰にでも好かれる人間だなんて思ってない。むしろ知らねえうちに憎まれたり嫌われてたりすることの方がずっと多いのかも知んないって、考えてる。だがら柳川さんから嫌われてたとしてもそれは仕方ねえし、自分に原因があるとしたらそれは認めねねえって思ってるよ」
「へえ、ずいぶん殊勝な考え方してんじゃん。実のトコ、秋山さんがそういうヤツだとは思ってねがったわ」
「でも、だがらこそ私は知りたい。どうして柳川さんが私のことを嫌うのか。どうして係から外れろって言ってくるぐらい、私と話をする気にもなれねえってなってるのか」
楓にはきっと、相手を挑発するつもりやコントロールしようという意図などはこれっぽっちも無い。己のありのまま、言葉にしたままの心境でもって、彼女はひたむきに満流の本心へと焦点を合わせ続けようとしていた。そのぶれない姿勢を前に、奈央は改めて思う。やっぱり楓はすごい。演奏力よりも何よりもまず第一に、自分の想いを行動に換えることで憧れの姿を体現しようとする、その意志の強さが。
「知りてえって言われて、ハイそれはこうなんです、なんてベラベラ私が答えるとでも思ってんの?」
「思わねえ。柳川さんに話してくれる気が無えんだったら、それでも無理やり聞き出そうってつもりは無えよ」
至極悪しざまな満流の返答に、楓がふるふると首を振る。
「でも話してくれる気があるなら、それがどんなにひどい言葉でも私、ちゃんと聞く。柳川さんのためで
楓からの最大限譲歩したと言って良いアプローチに、満流はしばらく答えを寄越さなかった。ジロリと睨む満流。真っ向から受け止める楓。両者の声無き対峙。一旦膠着状態に陥った場の空気が再び動き出すその時までを、奈央は固唾を呑んで待ち続ける。
「……ビックリしたわ。ううん、呆れた。秋山さんのこと、本当に嫌いンなりそう」
ポツリと一言を落とした満流が、かき混ぜた泥水みたいに濁り切った表情のまま口を開く。
「アンタのことを気に食わねえ理由は複数ある。まず、その澄ました態度。次にバカみてえな愛嬌の良さ。他にも細けえトコで色々鼻につくモンはあるけど、何より一番癪に障んのは、アンタが『天才』だってこと」
――天才。そのワードが満流から飛び出した瞬間、奈央はゾワリと背筋を震えさせる。やはりと言うべきか、自分がそうであったように、満流もまた楓という存在をそのように評価していた。
「自分で自分のことどう思ってるかは知んないけどさ、天才サマはいいよね。特に努力さねえでも勝手に評価されて目立つ場所さ立てるし、自然と人が寄ってきて中心的存在でいられる。それを当たり前みてえな顔して受け取って、今みてえに悟ったようなこと言ってみたりしてさ。自分は何しても許されるとか思ってんだよね、アンタらみてえな人種って。そういうところが一番ムカつく」
今までにない勢いで満流が罵詈雑言をまくしたてる。それを受ける楓はしかし、今までと変わらぬ態度を維持して満流の放つ刺々しさをその身に浴び続けていた。
「アンタら天才サマは所詮、私らのことなんかこれっぽっちも理解出来っこねえんだよ。それで窓口係? 不満のある子に向き合って、あれこれ話聞いて交渉して? ンなこと自分さ出来るって本気で思ってんだ? どこまで傲慢なのよ。天才サマは天才サマらしくお高く止まってりゃあいいじゃん。遥か上のステージさ立って、今までと変わらず、下々を見下しながらさあ」
どうしてそこまで言い切れるのだろう。そうと思ってしまうぐらい、相手の嫌悪点を述べる満流の言動は恐ろしく解像度の高いものだった。だがこれでも楓は一つとして揺らがない。そして隣に座る奈央もまた、楓に同じく。
「理由は以上。さあ、納得したんだば出て行きなよ。自分がこの役目に不適格だってこと、ナンボお花畑のオツムでもここまで言われりゃ流石に解るべ」
「うん、判った」
「そりゃ良がった。ならとっとと――」
「判ったよ。やっぱり柳川さんは私そのものを見て言ってるんでねえ、ってことが」
……あ? 満流の目が途端に血走る。ここが介入のしどころだ。そう判断し、奈央は「ちょっといいかな」と二人の間に手を差し入れる。
「柳川さんには申し訳ねえけど、私も横で聞いてて同じこと思った。柳川さん、楓ちゃんのこと知らなさ過ぎるよ」
「知らねえって、何がよ」
楓を睨んでいた満流の目が今度は奈央に向けられる。全身を焼かれていると錯覚するほどの凄まじい迫力。これを涼しい顔をして耐え切っていたことを思うと、楓の胆力はやはり一般のそれを逸脱していると言わざるを得ない。
「確かにあれだけ言えんだったら、柳川さんが嫌いだと思ってることにウソは無えって私も思うよ。直接面と向かって話したこともつい最近まで殆ど
「だがらそれは、今までのことが色々目に付いてて、」
「本当に? だったら柳川さんは見てきた筈だで。楓ちゃんが今こうなるまでにどんだけの努力を積み重ねてきたか。音楽始めてから今日までの間、楓ちゃんがどんだけ痛え思いしてきたのか」
「……努力? 痛え思い?」
満流が懐疑の視線をこちらへと向ける。彼女のその態度から、奈央は最後の確信を得た。――楓の見立て通りだ。そして自分の推測が的を射ているのだとすれば、この子が、柳川満流が楓のことを痛罵しながら心に思い描いていたもの、それは。
「実を言うとね、私もついこないだまでは柳川さんと同じように、楓ちゃんのことを自分とは別格の存在だって思ってらった。クラが上手えのは部内の誰でも知ってるし今更の話だけど、他にも突発的にすげえ行動に出ることもあるしちょっぴりそそっかしくて天然だったりするし、ご覧の通り図太かったりもするしね。だからこの子は飛び抜けてんなあって、ずっとそう思ってた。一言で言うなら天才っていう、柳川さんが思ってたのと同じ印象だよね」
奈央はひと呼吸を置いて隣を一瞥する。その時の楓は、ちょっと言い過ぎだよ、とでも言いたげな複雑さに彩られた表情でこっちを見ていた。楓には申し訳ないがこれも布石だ、許して欲しい。後できちんと本人に謝る算段を付けつつ、奈央は再び満流を凝視する。
「でも昨日二人であれこれ話して、そうでねえ、ってことを私はたくさん知ったんだよ。例えばそう、楓ちゃんがみんなに見えねえトコでどれだけ練習のやり方を工夫してるかってこととか」
「はあ? この子が工夫?」
「楓ちゃんは殆ど居残り練しないって、私らの間じゃ有名な話だよね。それを真に受ければ、楓ちゃんは練習しないでもこんなに上手い子、イコール天才って考えちゃう。でも違うんだよ」
「違うって、意味分がんねえ。だったら何があるってのよ」
満流が食いついてきた。この手応えにこっそり拳を握り、奈央は昨日楓に聞かされた話を脳内で振り返りつつ満流にそれを説明する。
「楓ちゃんは事情があって遅くまで居残れねがった分、毎日の練習の仕方にすげえ気を遣ってたんだって。例えば毎日一時間以上もみっちり基礎練こなして、曲練に入る前は必ず楽譜をじっくり読み込んで自分の中さ演奏のイメージを作ってから取り掛かるようにしてて。その内容もすげえんだよ、適当に吹いてる時間なんて一秒も無えってぐらい。家さ帰ってからも譜読みだとか音のイメージ作りだとかをキッチリやってるんだよ。毎日何時間も、一日だって欠かさずに。……柳川さんはそれ、知ってらった?」
満流は答えない。それが暗黙の肯定であると受け取って、奈央はさらに畳み掛ける。
「もっと具体的な練習方法や内容も楓ちゃんから聞かされてるけど、それ聞いた時は正直『私はここまで頭使って練習してねがった』って、思いっ切りブン殴られたみてえな気分だった。
「だがらってそれが、秋山さんが天才だってことを否定する材料にはなんねえでしょ。松田さん、この子の小学校時代の噂話聞いたことある? 楽器持たされた初日から楽譜もねえのにスラスラ曲吹いてみせてた、っていう」
奈央は黙って首肯した。勿論聞いている。噂話としても、楓本人の口からも。それはホント、と楓が再び喋り出す。
「柳川さんの言った通り、昔の私にそういうことがあったのは確かだよ。でも、それは本当に最初の時期だけ。小さい頃からずっと音楽さ興味があったから始めのうちはぐんぐん吸収できてたけど、そんなのすぐ天井さぶち当たった。ただ吹けるっていうのと音楽をするっていうのは全然違う。そう考えるようになってからは練習の仕方から色々見直していって、その時その時で自分に出来ることを精いっぱい取り組んできたの」
「だがら私は他の子と同じく平凡です、って? 十分非凡でしょ。自分が上手くなる為にっつって、そんだけやれたら」
満流の指摘に、違うの、と楓が首を振る。
「上手くなりたかったのはあったけど、何て言うか、自分一人の為に上手くなりたかったワケでねくて。……一緒に吹きたかった人がいたんだ。けどそれはずっと叶わねくて、だからいつか一緒に吹ける時が来たら、その人に恥ずかしくねえ演奏が出来るように、って思って。でも練習だけさは充分な時間は割けねくて、それでやり方を工夫するようになっていったっていうか、色々考えた結果そうなったっていうか、ええと」
「ハア。要するにそれ、自分の為ではあったけど偉くなりてえチヤホヤされてえってのとは違って、その誰かさんと演奏することが一番の目的だったって話だべ? で、その為に時間の使い方さ気ぃ遣ってきたって言いたいんでしょ」
「あ、うんっ、そう。そういうこと」
あろうことか満流の側から助け舟を出してきて、楓はそれにコクコクと頷きを返した。少々奇異にも思える光景ではあるが、しかし、と奈央はこっそり下腹に力を溜める。今の話を満流が端的に噛み砕けたということは、つまりはそれだけ彼女の楓に対する理解が進んだという事だ。
「それが誰なんだかは知らねえけどとにかく、秋山さんが上手えのは才能だけでねくその人と一緒に吹く為に試行錯誤した結果だ、って話をしたがってんのは分がった。で? 私が言ったことが秋山さんに対してのものでねえなんて、どうして断言出来んのよ」
「それはさっき、柳川さんが自分で言ってらったことだよ」
奈央がそう告げると、何? と言わんばかりに満流の表情が強張った。
「『本当に嫌いンなりそう』。楓ちゃんのことがもうとっくに嫌いなんだったら、普通そういう言い方しねえよね」
刹那、眼球が飛び出そうなほど満流の瞼が大きく見開かれる。突いた。その確たる手応えをこの瞬間、間違いなく奈央は得た。
「柳川さん本当はさ、楓ちゃん本人が嫌いってワケでは無がったんだべ。むしろ窓口係としてこういう形で接することになるまで、関心さえ殆ど持ってねがったんでねえの? ただ楓ちゃんの中さは何か、柳川さんの嫌いなものをイメージさせる何かがあった。だがらそれを楓ちゃんさ被せて、係を降りれだの何だの言うことで、自分の嫌いなものを攻撃しようとしたんだよ。楓ちゃんでねぐ他の何かを、間接的に」
「――うっさい」
「それが何なのか、今は私にも判る気がする。最初は全然判んねがったんだけど、柳川さんがどういう立場の子で何を思ってどんなこと考えてるのか、ってずっと見ていくうちにね。そういうトコまで行けたのも、元を正せば楓ちゃんが最初に柳川さんのことをしっかり見ようとしてて、私もそういう姿勢さ学べたからなの。だがら私も、今は聞きたい。柳川さんの本当の気持ちを。柳川さんが何さ怒ってて、何を嫌ってんのかを」
「うっさい、うっさい、」
こちらから視線を外したままで満流は喚いた。ここまで来たらもう、残るハードルは数えるほどもないだろう。奈央はいま一度手元のノートに視点を置く。柳川満流。曲北二年生。トロンボーン担当。高畑小出身。これと楓の洞察、そして満流本人の言い分。材料は全て揃っている。後は事の真相とその後のことに自分がどう向き合うか、窓口係として満流とどう折り合いをつけてゆくか、それだけだ。
「部への不満の根っこもひょっとして、ソコさあるんでねえの? だったら尚更話して欲しい。もしも私たちに協力出来ることがあるならするし、要望って形で上げれるものだったらそれも先生や部長と話してくる。放置したり握り潰したりなんて、絶対さねえがら」
「うっさい!」
ガタリと椅子を蹴り飛ばし、満流が勢いよく立ち上がる。その全身から発された威圧と拒絶の気配に、奈央は思わず口をつぐんでしまった。
「もういい。アンタらの探偵ごっこさなんて付き合ってらんねえ。交渉ごっこもこれでおしまい。――帰る」
「待って、柳川さん」
ずかずかと靴音を鳴らして退室しようとする満流を、奈央は追いすがって止めようとする。咄嗟に掴んだ満流の手首は想像以上に白く細く、指の先には彼女の容姿にいたって不釣り合いなペンダコ状の盛り上がりをいくつも認めることが出来た。
「誤解しねえで、私は柳川さんのことを追い込みてえワケでねえの。ただ柳川さんのことを理解したいって思ってるだけで、」
「それがお節介だっつってんのが分がんねえの? ムカつく。いいがら放してよ」
「お願い、話だけでも聞いて」
「放せってば!」
「――わ、」
ガアン、と鈍く大きな音が集会ルームを揺るがす。満流に思い切り腕を振り抜かれ、バランスを崩した奈央はその身をしたたかに机へ打ち付けてしまった。
「奈央ちゃん!」
「あ
楓が血相を変えている。宙に投げ出されるような恰好でぶつかったのだから当然だろう。後頭部もお尻もひどく痛むが、大したことは無い。よろよろと立ち上がり、奈央は未だチカチカと星が飛ぶその両目でしかと満流を見据える。満流の表情と瞳には、意図せずして相手を害してしまった、という動揺と困惑の色がはっきりと表れていた。それでいい。もしもこれで彼女が蔑むような見下しを継続していたならば、その時こそは自分も冷静ではいられなかった筈だから。
「お願い。私から言ったっていいけど、そんなのただの推理でしかねえもん。ンなことがしたいんでねくて、私はただ柳川さんの力になりてえの。それを通じて、吹部を今より少しでも良ぐするために」
「何でよ。松田さんアンタ、おかしいよ。
「見てきたから。このまま放ったらかしにしてたらココが、吹部のみんながどうなるか。それを、小学校ん時に」
姫小時代の、六年生だった時のマーチング部での思い出。それを奈央は忘れていない。賞がどうこうなんて関係無く、ボイコットに組しなかった奈央たちの側ですらも、当時の姫小は活動そのものが楽しいと思えるような環境では全く無かった。直接的な原因は確かに水月にあったのかも知れない。彼女が何もしなければ、ちなつや奈央たちの代は前年通りの活動と実績を残して終わっていた筈だ。けれどその後の姫小がぼろぼろの状態だったのは、自分たちのせいだ。事の成り行きを眺めるばかりで何もしなかった、無力に過ぎた自分たちの。
「柳川さんたちが部から離れて吹部が真っ二つンなってた時、私も先輩方もみんな辛い思いしてた。特に
またあんな日々に逆戻りなんて、それだけは御免だ。どんなに今が辛くたって、前へ進めばきっと良いことがある。進んだ先で悲劇に見舞われたとしたって、そこを乗り越えて更に先へと行けば、辛い日々もいつかは終わる。そうであると信じたい。願って止まない。冬が終わればまた春がやって来るように。心に傷を抱えたままの自分がいつか、弛まず歩んだ道の先で新しい自分と出会える、そうであることをこんなにも強く狂おしく望んでいるように。
「だがら私は柳川さんとも向き合いたい。意見の合わない人同士だがらってただ切り捨てるんでねくて、理解した上でどうにか一緒にやってけねえかって、それを探っていきたいの。私と同じように柳川さんにだって絶対、こうしたい、こうなりたい、って気持ちがある筈だがら。自分の気持ちを叶えるために努力したり頑張ったりした時期があった筈だがら。ソレは絶対、無駄になんかさせねえ。頑張ろう、って思ったその気持ちまで、無がったことにしちゃいけねえよ。だがら、だがら私は、」
そこまで喋ったところで突如、くらあ、と奈央の視界が大きく廻った。――あれ? 踏ん張ろうとした足に上手く力が入らず、たたらを踏んだ奈央の全身が糸の切れた操り人形みたいに膝から崩れ落ちる。楓が何かを叫んで、天井が回転して、そのまま床に倒れ伏す……かに思えたが、その肩を誰かががっしりと抱えてくれたおかげで、奈央は床との激突を間一髪で免れた。
「奈央ちゃん?! しっかりして奈央ちゃん!」
楓がこちらの顔を覗き込んでいる。大丈夫、とうわ言のように返事をして、それから奈央は自分を助けてくれた人物が何者であるかを確認しようと身じろぎをした。
「ダメ。じっとしてて」
「あ、」
楓とは別方向から自分を覗く顔。それは満流だった。いくつに見える? と目の前で指を振られ、二本、と奈央は答える。その向こう側には両手を震わせあたふたしている楓の姿があった。
「どうしようどうしよう、保健の先生呼んできた方がいいんだべか。それとも救急車とか」
「大丈夫、多分ただの脳震盪。ヘタに動かす方が怖えし、今はこのまま様子見た方がいい。松田さんは私が見とくから、秋山さんはコレ水で濡らして持ってきて」
「わ、分がったっ」
満流が渡したハンカチか何かを手に、楓がばたばたと集会ルームを出てゆく。ややあって「ぎゃー! ごめんなさいごめんなさい!」と楓の絶叫が聞こえてきた辺り、どうやら焦りのあまり暴走して通りすがりの生徒か教師に何やら粗相をやらかしてしまったようだ。そこまで認識出来るようになってようやく、奈央は状況の理解に至る。自分を助けてくれたのは満流だった。咄嗟に伸ばされた彼女の手が奈央の肩を掴んでぐるりと体勢を捻ってくれたお陰で、奈央は倒れ込まずに済んだのだ。
「全く。私の悪口さはあんだけ堂々としてらった子が、ワケ分がんね。天才ってホント無茶苦茶だで」
「かも、ね。そういうトコも楓ちゃんらしいけど」
奈央はクスリと吐息を零す。あれこそがきっと楓の本質、そして彼女の持つ魅力なのだろう。気を張っていない時は忙しなくておっちょこちょい。けれどどこか憎めなくて放っておけないと思わされる。楓を慕う人たちとは恐らくそういう何かを彼女の内に見出したか、或いはその何かにあてられた人たちなのだ。その天才性や奇矯さとは一切の関係無しに。
「それより、ありがと柳川さん。私のこと助けてくれて」
「礼なんて言わねえで。私がぶっ飛ばしたせいでこうなったんだし。それより吐き気とかある?」
「今は無い。目は回ってらけど」
「そう。とにかく眩暈が治まったらすぐタクシー呼ぶがら、近くの病院さ行って診てもらって。後頭部から思い切り行ってらったし、油断したらダメだがらね」
「分がった」
「それとさ、松田さん」
「ん?」
「――ごめん」
ポツリと一滴、満流の口から謝罪の言葉が出た。それがとても意外で、けれどもどうにもくすぐったく思えて、いいよそんな、と奈央は告げる。
「私も無理に掴んだりしたのが良ぐねがったし、今回はおあいこってことにしよ。それなら柳川さんも気にしねくて済むべ」
「まあ、そうしてくれんだったら、こっちも有り難えけど」
「んでさ、仲直りの証ってワケでねえんだけど、これからは柳川さんのこと『満流ちゃん』って、下の名前で呼んだっていい?」
へにゃり、と奈央は顔を綻ばせる。本当は満面の笑みでもって本人の許可を求めたかったのだが、ぐわんぐわんと反響する鈍痛を頭の芯に抱える状況下ではこれが限界だった。
「……ホントさあ、窓口係ってのはこンた人種ばっかだワケ? 秋山さんだけでねくてアンタも、充分無茶苦茶だわ」
苦々しく口元を引き攣らせ、満流は長い溜息を洩らした。それはあたかも『観念した』と告げているみたいで、けれどとっても満流らしい素敵な笑顔だと、奈央は揺れる意識の片隅でこっそりと思ったのだった。
「……んでその結果、交渉は未だ継続中、と」
「そうッス。つっても今は向こうもかなり前向きに、ッスけどね」
いつかの時も訪れた食堂。テーブル席の対面に日向を置いて、奈央は事の次第を説明していた。既に年も明け、先週末にはアンコンも終えた某日。ちなつは志望校の推薦受験のため秋田を離れていて、代わりに日向一人が報告を受けてくれている。今回もおにぎり一皿のみを注文した日向に対し、奢られる側の奈央は遠慮なく「上」の字が付く天ざる蕎麦を注文し、今はズズズと音を立ててその少し太めに切り揃えられた麺を手繰っている真っ最中だった。
「とりあえず今は柳川さんたちも革新派っていう単位での活動はしてねくて、練習もウチらと同じメニューで一緒にやってます。要望のほうも声多かったヤツと深刻そうなのから順々に片付けていってるんで、こないだの柳川さんとの話し合いも経過確認ぐれえだったッスね。勿論全部は叶えられねえってことで、そこの点もお互いに合意しながらのやり取りッスけど」
「そっかそっか。思ったより良い子そうで良がったな、その柳川ちゃんって子」
「はいっ。でも『満流ちゃん』呼びは結局却下されちゃったッス。苗字で呼ばれた方が特別感あっていい、とか言われて」
「何じゃそりゃ」
意味不明、と日向が苦笑する。実際奈央とて満流の述べた理屈は全く意味の分からないものだった。でもそれでいい。大事なのはどう呼ぶかでなく、その呼び方に相手がどんなことを感じるか、だ。満流本人が苗字呼びを希望するのなら、それを尊重することもまた友誼のかたちと言えるだろう。
他にも日向には細大漏らさず様々なことを報告した。例えば満流の家が地元で個人医院を経営する、代々続く医者の家系であったこと。昏倒した自分を手当てする満流の手際が妙に良いとは思ったのだが、それは彼女が将来親の跡を継いで医療の道を志している事と、浅からぬ関係があるらしかった。
『別にあの程度の手当てぐれえ、誰でも出来て当然だし。それよりこのこと言いふらしたりさねえでよ。こんなんでプロ気取りかよ、なんて他の子さ言われんのが一番ムカつくし』
口ではそう言いつつも少し照れたような様子の満流はとても等身大な感じがして、奈央も再度満流への認識を改めさせられたものだ。高圧的かつ賢明、それでいて大胆不敵。そんなふうに思っていた彼女もその実態はやはり自分と同じ中学生、という事実を知れたことは、奈央にしてみれば負傷という対価を払って尚余りあるほどの成果であったと言えよう。
「で、その柳川ちゃん最大の不満ってのは結局何だったん?」
「またまたー、すっとぼけちゃって。ヒナ先輩だったらここまでの話で、もう大体予測ついてんでねえッスか?」
「えー、私そういう人間関係の機微とかに弱いしぃー。それに奈央ちゃまほど賢くないしぃー。いやあサッパリ分がんねえなあ、一体どこの生意気小僧のことが気に食わねがったんだろうなあ」
「もう半分答え言ってるようなもんッスよ、それ」
「バレたか。じゃあ司会の奈央サン、正解をどうぞ」
「草彅です。中学に上がってアイツさ会ったせいで、柳川さんそれからずっとコンプレックス抱えちゃったらしくて」
蓋を開いてみればまことに単純な話だ。初めてこの解に辿り着いた時は半信半疑な気分でもあったが、しかし満流の立場と境遇、そして草彅の人でなしっぷりを思えば、それも充分有り得ることだと納得してしまった。後日聞き出した満流本人の言い分は以下の通りだった。
『それまでは私、高畑小でトップのトロンボーン吹きだった。勉強でも一番、運動も得意ってほどではねえけど評価はまあ良い方で、何やるにしても周りのみんなにチヤホヤされてらった。勿論人よりいっぱい練習してたし勉強だって頑張ってやっての結果だったがら、自分のこと天才だなんて自惚れてはいねがったけどね。秀才、ってやつかな。とにかく頑張って上位にいれば、一番になれればみんなが褒めてくれる。いい立場でいられる。そういう状況に昔の私は味を占めてたワケ』
でも、と続けた満流の顔は見る見るうちに曇っていった。
『曲北で吹部に入って、同じトロンボーンさ草彅がいて。……もう音一つ聞けばそれで解る、ってやつだよね。どうやってもアイツの演奏力さは勝てねえと思った。勉強だ素行だってことでは勝ってても、アイツの絶対的な音楽の才能に勝ち目が無えことの方が遥かに悔しくて、遥かに打ちのめされた。私の一番好きで一番得意だったものを横からあっさり掻っ攫ってった草彅のことが、私はどうしても許せねがった』
強い嫉妬の念を誰かに抱いた体験を持たぬ奈央には正直今も、満流のそういう気持ちを十全に理解できるとは言い難い。けれど、どこか共感を覚えるところもある気はした。
それ以降、満流は草彅の二番手という立ち位置に甘んじることとなった。無論、当時の上級生の中には自分より上手な人もいることはいたが、草彅の存在はそういうのとも次元が違った。彼がいる限り、自分は永遠に一番になれない。それどころか評価すらされない。このような憤懣を入部してからの二年弱、満流は誰にも話せぬままでずっと抱え込んでいた。そうして今年のオーディション終了直後、燻る己を持て余し練習にももう一つ身が入らずにいた満流のところへ、あの子が近づいてきた。
『それまで
奈央もそこにまで首を突っ込もうとは思わなかった。目の前の相手を知ろうと注視し続けることと、好奇心のままに他人の内情を掘り尽くすことは、似ているようで全然違う。その領分を奈央はとっくに弁えている。
「んで水月ちゃんが休部してからは、他の子らの推薦で柳川さんが代表さ立つことンなって。柳川さんも柳川さんで『自分らの居場所を守れるなら』って、けっこう乗り気ではいたらしいッス」
「まあ、草彅っちのいねえ環境がもう一回手に入ったワケだしねえ。私にゃ分からん世界だけど、理解はするで。んでも不幸だでなあ、同世代さ草彅っちみでンた怪物がいたらそりゃあ、ボーンでトップ獲りてえって子にしてみりゃ絶望もいいトコだべし」
「その辺って、今まであんま興味無がったんで聞かねがったッスけど、三年生のトロンボーンの先輩方はどンた感じでらったんですかね」
「ボーン連中の間で草彅っちがどう言われてたかって意味? そら散々よ」
ですよねー、と奈央は完全に同意する。彼のたちの悪さはある意味その音楽的能力以上に有名だ。ともすれば今の水月よりも、草彅は部内でより多くの人に嫌われた存在と言えるかも知れない。
「大体アイツって秋山さん家の妹ちゃんみてえに愛想良くもねえし、下手すりゃ先輩も下に見てるってぐれえ態度最悪だしで、元から人間的な部分の評価は最低オブ最低だしな。ンでも面と向かって何も言われねえで済んでたのはアホみてえに上手がったからで、柳川ちゃんにしてみりゃそれも胸糞悪りい部分だったんだろうね」
「本人もそう言ってました。何でアイツばっか、って。革新派としての要望の中さも『一部部員の身勝手を黙認する不公平さ』ってのがあったんスけど、まさかそれが柳川さん本人の声だったなんて、最初聞いた時には思いもよらねがったッス」
サクリと海老天に歯を立てながら、奈央は日向に答弁する。大きくぷりぷりな海老の身肉と、それを包んでしっかり揚がった黄金色の衣。こんなに美味しい海老天を食べたのは初めてだ。お蕎麦のつゆも旨味たっぷりで、蕎麦の素朴な味わいと香りを存分に引き立ててくれる。今度から年越し蕎麦はこのお店にするよう、親におねだりしてみてもいいかも知れない。もっとも今は年明けを迎えて間もない一月下旬、次の機会と言ってもそれはちょうど一年後となってしまう訳なのだが。
「でもその草彅っちの件は何としたのよ? いくら何でもそこまで個人的な問題を、まさか部全体の問題にすり替えるってワケにも行かねえべ」
「直接的に、ってのは流石に無理ッスね。でも永田先生と相談して、部の活動規範の中に『人間力の成長』ってのを盛り込むことにして部長にも了解取って、それで柳川さんさはひとまず納得してもらったッス」
「ははあ。要はアレだ、上手えがらって調子こいたり適当やってたらお叱りを受けるどー、っつう部のお約束を作って、それで他の部員が草彅っちをバンバカ叩ける大義名分にしてやったってワケだな。まあ他の部員は常識的に出来てる事だがら、実質はアレ一人だけさ首輪嵌める為のルールなんだべども」
「そういうコトっす。パートリーダーでもねえ草彅はこれで文句も言えねえ立場になったことだし、部も永田先生も柳川さんの味方ンなるがら後はもう思いっ切り言ってやれー、ってことッスよ」
「ま、それで大人しく従う草彅っちでも無えんだろうけどねえ。楽器の腕の差って部分は柳川ちゃんが自分で折り合いつけてかねえとな部分だし、こればっかりは介入できねえよなあ。ンでも、いざって時はガツンとやって溜飲下げれるって、そう思えるだけでも随分違ってくるべしな」
うんうん、と日向が芝居がかった所作で大きく頷く。奈央はそれを、かぼちゃ天やおくら天をサクサク齧りながら窺っていた。天ぷらだけのお持ち帰りは出来るのかしらん、などと考えながら。
「まあ全面解決では無えにせよ、今回の奈央の仕事ぶりは概ね及第点、ってなトコか。来年の吹部の活動にも目処は付けられたし、これで私らも心置きなく曲北を去れるってもんだ。ごくろうさんだったね奈央」
「ありがとッス。……ところでヒナ先輩さ一つ、聞きてえコトがあるんスけど」
「改まって何よ?」
奈央は一旦言葉を切って蕎麦の残りを掻き込み、それから麺つゆの入った蕎麦猪口へトポトポ、と蕎麦湯を注ぎながら日向に尋ねた。
「今回の一件、コレ、先輩方からの『試験』だったんスよね? 私への」
答えはすぐには返って来なかった。緩く笑顔を保った日向がおもむろに湯呑みを手にし、黙って茶を一服してから奈央を覗き見る。
「いつ気付いた?」
「気付いたっつうか、ハッキリそうだなってなったのは正月休みの真っ最中だったッスね。一通りの整理をしながら今までのことを振り返ってた時にふと、先輩方は最初っからこうなるのを分がってて私を指名したんでねえか、ってことに思い当たって」
そう答えてから奈央は一旦ズズ、と蕎麦湯を啜る。わさびとしょうがの利いたつゆが、ほど良い温熱と蕎麦の豊潤な風味を伴って咽頭を下ってゆく。これもまた、寒い時期には殊のほか沁みて良い。
「その前からもちょくちょく違和感はあったんスよ。私さ交渉事の経験が殆ど無えことは先輩方だって良く解ってる筈だし、人の上さ立つポジションさ就いたことだってまあ無がったですし。勿論姫小での経験とか色々理由を付けてはいたッスけど、そんなん他の姫小出身の子にだって頼めることじゃないッスか。その辺なんかおかしいなーって気はしてたんで」
「まー、分がってらったとまでは言い切れねえ、ってのが実のトコではあったけどね」
ここからは向こうの白状ターンだ。今回も日向から寄越されたおにぎりのたくあんを蕎麦湯のあて代わりにボリボリとかじりつつ、奈央はそっと傾聴の姿勢を取る。
「まず、この仕事は奈央にしか出来ねえと私もちなつも思ってた、それはホント。その上で、こういう係が発足したらそれとなくやってみるよう楓さ促してくんねえ? ってゆりに頼んだのは私。アンタと楓はどっちもアクセルコンビではあったけど、だがらこそ独立派みでンた子たちさ積極的にアプローチする効果はある筈だ、って目ぇつけてたワケさ。奈央たちがヒアリング班だった秋の頃から」
「私だけでねくて楓ちゃんも、だったんスか。まあ、楓ちゃんを推薦した人がお姉ちゃんのゆり先輩だったってのを楓ちゃん本人から聞かされた時点で、何となく予感はしてらったッスけど。でも一歩間違えば大事故ンなるとは思わねがったッスか?」
奈央は素直にそれを問う。自分で言うのも何だが、自分はどちらかと言うと自制の利かないタイプだ。おかげで対人交渉の類には全く自信が無かったし、満流相手の対応にしたってニアミスの危険はそこかしこにあった。もしもそうなってしまったら今頃は、来月以降の吹部の行方をもっと暗い気分で占わざるを得なかったことだろう。
「そうなったらそうなったで仕方ねえ――ってのは、ちなつと関係の無え私個人の意見だけどな。もう吹部は奈央たちの時代になったんだし、奈央たちが自分で考えてやってけば良い。その中でコケたり取っ散らかったりって事があったって、それもまた人生の貴重な経験値ってやつよ」
「つまりヒナ先輩にとっても、この人選はどっちみちギャンブルではあった、ってコトッスね」
「つっても一定の勝算はあったけどね。その人に越えられぬ試練を天は与えないものなのだよ、奈央クン」
「あー、よく言うッスよねーそれ」
どこまでが本当なんだか、と奈央は日向の言を話半分に聞き入れる。
「それにしても、ちなつ先輩が部長になってからもだったと思うッスけど、ヒナ先輩は毎度毎度すごいッスね。経験を通じて人を育てるのが上手えっつうか、先々を見通して布石を打ってるっていうか」
「はっはっは。褒めたって蕎麦のおかわりは奢んねえど」
奈央が蕎麦湯を飲み切っていたことに、日向はとっくに気が付いていたらしい。けれど実際問題、奈央とて天ざるを完食してもうお腹いっぱいだ。今のはさしずめ本題に入る前の日向流ワンクッション、といったところだろう。
「まーあれよ、うちは姉ちゃんいるからなー。後は父ちゃんの影響もナンボかはあるだろうね、うちの父ちゃん歴史モノ好きだし」
「なるほど、あのお姉さんッスか」
それを聞いて奈央は得心が言った。本人は他の人にあまり語ろうとしない話なのだが、実のところ日向の姉は姫小マーチング部、曲北吹部、と小中続けて部長職を歴任した一種の才媛。その人となりは奈央とて何度か会って見知っている。あの人に鍛えられれば妹の日向がこういう人間性を獲得していることにも合点が行く、というものだ。だからこそ彼女は例の『金言十ヵ条』なる指南書も制作することが出来たのだろう。
「でも結局私は私のやり方しか出来ねえし、姉ちゃんみてえにやれる訳でも無ければ奈央みてえに相手との距離を直球で詰められる訳でも無え。そこは個々人の特性の差ってやつだよね」
「それは良いんスけど、私は別に部長でもパートリーダーでも何でも無え、ただのヒラ部員ッスよ。ヒナ先輩のリーダー育成、ホントに必要だったんです?」
「おいおい、何を言っとるのかね松田氏ぃ。私は何もアンタをリーダーに育てるつもりでやってたワケでは無えっての」
「違ったんスか。へば何の為に?」
「そりゃ勿論決まってるべ。自分で気付いてもらう為に、だよ。奈央の良いところを、奈央自身で」
「私の、良いところ?」
そう、と日向が湯呑みを一気に飲み干す。幸いにしてこの食堂のお茶はおかわり自由だ。卓据付けのポットから二人分のお茶を注ぎ淹れ、日向はそれを自分と奈央の目前にそれぞれ置いた。
「自分が痛い思いをした経験を元に、他人の痛みを分がってあげられる。それが奈央のいちばん良いところ。少なくとも私たちから見たアンタって、そういう子だで」
面と向かって日向にそう言われても、正直を言えば実感はほとんど無かった。だが痛い思いをすることに人一倍敏感だった、というきらいは確かに無くもない。――自分と雄悦の間柄について、日向はどこまでを知り得ているのだろう? そんな奈央の窺いの視線を、日向はおどけた表情で躱すみたいにした。
「でもアンタ自身はそれが自分の特性だとは思ってねがったべ? そういう奈央に、柳川ちゃんみてえな子らを吹部と繋いであげる、っつう窓口係の仕事はうってつけだと思ったのさ。リーダーとはちょっと違う方向性だけど、奈央のそういう特性が活きる場はきっとあるって思ったんだよ」
「はあ。そしたら楓ちゃんもそうだった、ってことッスか?」
「一応ンだけど、でも奈央のとはまた違う部分があの子のテーマだったって感じだな。妹ちゃんも妹ちゃんで、秋頃からは野放図に突っ走らねえよう自分をセーブしてる、って気配があったがらね」
「気配って、何でそんなん分がるんすか」
「分がっちまうんだからしょうがねえんだなあコレが、なあんて一人で手柄顔する気は無えけどさ。これについては『変わりたがってる
それがどこまでのものと目していたのやら、日向の観察眼の深みは奈央にはとてもじゃないが計り知れない。ただ今回の一件、相手のことを注意深く見ようとしていた楓の姿勢が結果的に自分の助けとなってくれたことは確かだ。そして日向たちにこの係を任ぜられなければ、きっと自分は今でも色々気付けぬままあちこちに取りこぼしを生んでしまっていたことだろう。
「とは言え、まだ発足一ヵ月。これからも色々問題は降りかかってくんだろうし、今回上手く行ったことでも次はそうとは限んねえべから、奈央も引き続き心して職務に励んでくれたまえよ」
「いやあ、これ以上ってなるとどうなるんだか、ちょっと想像つかねえッスけどね。でも折角の機会なんで、自分なりに一生懸命やってみるッス。今回は色々配慮してもらってありがとうございました」
「よしよし。そうやって前向きに取り組んでくれんだったら、私としても先輩冥利に尽きるってモンだ」
日向は満足気に喉を鳴らしながら、飲み切ったお茶の椀をテーブルに置いた。
「それはそれとして、奈央もなんかスッキリした顔つきンなったな。秋口の頃よりかさ」
「え、」
奈央は一瞬口をつぐむ。これもまた自分では自覚の無いことだった。
「そう見えるッスか?」
「見える見える。まあ色々と心の重荷もあったべどもさ、これからは好きなようにやってみな。吹部も学校生活も、これからは奈央たちが主役なんだがらね」
日向のその言い回しには幾分なりか、自分よりも一年先を行く者としての含蓄が込められていた。――好きなようにやってみろ、か。胸に手を当て、奈央はそっと考えてみる。まだ諸々のことにけじめを付けきれてはいないし、大きな成果を挙げられたという訳でも無い。だが一つだけ、何かを成し遂げることは出来た。そんな充足感が或いは自分に良い影響をもたらしているのだろう。それを裏付けるように年明けからこっち、奈央は例の悪夢を一度も見ていなかった。
「あ、ちなみにもし来年以降も日向ちゃんの相談を受けてえ時はいつでも聞くでー。ちなつと違って私は地元の高校受ける予定だし、可愛い後輩の頼みとあらば幾らでもひと肌脱ぐかんね。相談一回につき回転寿司食い放題で」
「はい、謹んで遠慮しとくッス」
あいにくと、こちらのおこづかいは日向のそれ程に潤沢ではない。加えて日向の平素の食べっぷりからして、相談する度そんな値の張る食事代を支払わされたらお財布はあっという間にすっからかんだ。日向への恩返しはまた別の機会、別の形であることが個人的には望ましい。そう結論してせいろの上の箸を盆に揃え、ごちそうになりました、と奈央は両手を合わせた。
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人の縁とは数奇なものだ。何の気なしにすり合った袖の持ち主同士が共に何らかの事態に当たることになったり、それほど深い絆になると思わなかった関係がいつの間にやら固い結束と化していたりする。逆に、永遠に繋いでおきたかった関係がふとしたことで途切れ、そのまま失われてしまうことも。それら全てを自分の意思のみでコントロールし切るのはきっと不可能なのだろう。だからこそ、一度得られた縁は大事にしたい。奈央は今、痛切にそう思う。
「迎えに来たよー奈央ちゃん」
「おっ、もうそんな時間か。へば私ちょっと行ってくる」
「ほいほーい」
「がんばれよー、窓口係」
恵と美佳子に見送られ、教室を出た奈央は楓と肩を並べて廊下を歩く。小脇に抱えるはいつものノートとファイル。初めの頃はほぼカラッポだったそれらの中身も、係に就いて数ヵ月を経た今では種々の相談内容や解決案などでぎっしりだ。
「楓ちゃんさは今週、どんな相談来てた?」
「んー、私のトコさ届いたのは練習場所の不満かな。夏場にメンバーだけが冷房ガンガンな音楽室で練習すんのは差別だがら、そこ何とかせえっていう」
「あー、それは確かに言えてんね。でも他に合奏の出来る練習場所、って言ったらそれこそ集会ルームとかぐらいだよな」
「んだねえ。あとパーカッションの楽器運搬もあるがら、これは村上さんと先生に要相談かな。奈央ちゃんの方はどうだった?」
「私んトコさは一件だけ。某トロンボーンの男子が相っ変わらず言うこと聞かねえから、いっそ永田先生さガツンとやってもらうようにして、だって」
「あはは。誰が言ったか想像つく内容だね、それ」
けらけらと垢抜けた笑いをこぼす楓に、奈央も破顔を返す。いっそ例の男子にはペナルティとして、部内雑事の奉仕活動でもやってもらった方が良いのかも知れない。何より面倒事を嫌う性分の彼であれば、それを回避する為に多少なり体裁を整えるぐらいのことはしてくれるだろう。しなかったらしなかったで、その時はまた別の手を考えるだけである。
「あ。そう言えばさ、」
奈央はふと思い出したことを口にする。
「柳川さんとの交渉中に私がガシャーンってなって脳震盪起こした日、病院の前で楓ちゃん、柳川さんさ何か喋ってらったよね。あれって何だったの?」
「ああ、あれね」
あの日は病院へ向かう為に会談もあのまま中断となってしまったのだが、奈央自身は疼痛に頭を苛まれていたせいで、楓たちの具体的なやり取りまでは殆ど憶えていなかった。ハッキリしているのは楓と満流が病院まで付き添ってくれたこと、検査の結果大した異常は見られず、帰りも満流の手配してくれたタクシーで家まで送られたこと。そのまま一晩寝たら翌朝にはすっかり良くなっていたこと。この三点だけだ。
「大したことでねえんだけどね。柳川さんが八組だって聞いてたから、もし長澤さんと喋る機会があったらってことで、伝言を頼んだの。『私は何も気にしてねえがら、部に戻って来たらまた一緒に吹こうね』って」
「ふうん?」
奈央は怪訝に思う。楓がその昔に水月と関わりを持っていたことは既に聞かされていたが、それは一昨年の夏からずっと途絶していたという話だった。そんな水月に楓が伝えたかった言葉。何か秘められたものがそこにあるのは間違いないのだろうがしかし、奈央にはこれといって思い当たるものも無い。だからこれはきっと、当人同士にしか解らぬ一種の符丁。そんなふうに奈央は解釈する。
「何か良く分がんねえけど、でもいつか帰って来ると良いな、水月ちゃん」
「うん。本当にそう思う」
昨年末に全国大会を終えてからというもの、水月はずっと休部状態だ。一部にはこのまま退部してしまうのでは、なんて憶測もある。彼女の行動を危険視するならいっそのこと辞めてくれた方がお互い益が多い、とする向きもあるだろう。けれどそれらとは異なる考えを奈央は抱いている。水月だって吹部の一員。同じ姫小の同窓生。だったら彼女のこともいつか理解できるようになりたい、と。
「それにしても、気付けば窓口係の発足からもうすぐ三ヵ月かあ。修了式まであとちょっとだけど、最近は相談の件数も要望の内容もめっきり落ち着いてきてて、この人数でも充分回せるようになってきたよね」
「んだなー。まあ忙しいよりは良いことだよ。私らの係の仕事が少ねえってことは、それだけ吹部に不満を持ってる子が少ねえってことでもあるし」
「でもそれで満足してたらダメ、ってことだよね。今日の会議の目的は」
「さっすが楓ちゃん」
奈央は楓に賛美の言葉を投げ掛ける。一頃よりも窓口係を頼る部員が減ったとは言え、集団活動に不満は付きもの。そういうものを打ち明けられずにいる部員は未だ少なからず居る筈だ。例えば先輩後輩の力関係に遠慮していたり、自分自身でも解決策を見い出せていなかったり、ごくごく私的な悩み事だったり。こういったか細い声を隈なく拾い、然るべきところへと届けることの出来る新たな仕組みを設けたい。それが本日の会議に際して設定した、奈央の目的であった。
「こういうアイデアが出てくる辺り、奈央ちゃんもすっかり窓口係代表って貫禄がついてきてるよね」
「やだなあ、貫禄だなんて。私にはそういうのは似合わねえよ。ただ自分に出来ることは精いっぱいやりてえ、って考えてるだけ。部活ってただ良い演奏して良い賞もらえればそれで良いってもんじゃ無え筈だって、そう思うがら」
「そうだね。去年のヒアリング班からこの係の活動まで通しでやってきたせいか、だんだん私たちも吹部の色んな子たちの考えを半分くらい持つようになってきた感じはするよね」
「確かに」
その実感は奈央の中にもある。満流の実像と向き合うまでの奈央には、離反した部員たちのことを単なる異分子としか見ていなかった節があった。でも彼らには彼らの考えや想いがあり、各々自分の決断に基づいて行動している。満流の件を通じてそのことが一つ解った時、奈央はそんな彼ら一人ひとりに寄り添える自分でありたい、と思った。
「私らはみんなで一つの吹部なんだもん。だがらどっちか一方だけが我慢し続けなきゃいけねえだなんて、そういう状況じゃやっぱり上手くはやってけねえと思う。みんながちょっとずつ我慢して、みんな自分のやりてえ事に思いっ切り取り組める。そういう状況を創る為の手伝いをするのが、私らの一番大事な仕事の筈だがら」
現状それが正しく果たせているかどうかは分からない。これから実現出来るかどうか、その自信だってどこにも無い。でも今は遮二無二取り組むことで一歩ずつを踏み固め、いつかその域にまで届くことが出来れば、それで良い。きっと不可能なことじゃない。かつての自分とは違う自分、その位置へ確実に、今の奈央は立てているのだから。
そして。
「皆で楽しく音楽やってく為に、これからも頑張ろな、楓ちゃん」
「うん。今後ともよろしく、奈央ちゃん」
頼もしいパートナーと笑顔を交わし合ってから、奈央は教室の扉を開ける。そこでは既に後輩たちが席を組み、先輩たちの到着を待っていた。お疲れさん、とねぎらいの言葉を掛けてから着席し、奈央は手にしていたファイルを開く。
「それでは意見窓口係、本日の会議を始めます!」