あの子が何かになるまでの ~曲北中学吹奏楽部のインテルメッツォ~ 作:ろっくLWK
辺り一面を長らく覆っていた雪景色がすっかり溶け失せて、早十日ばかり。雪濡れしていた田畑の泥土が本日の晴天に程よく乾き始めているさまを、
「ヒーマーだぁー」
つい二週間ばかり前に志望校の入試を終え、先週には曲北中学校の卒業式。その数日後には合格発表。そして今日。退屈のうちに過ぎ去る日々はかくも目まぐるしいものか。あと一週間もすれば暦も変わって新年度。杏はこの春、高校生となる。そのことに別段の感慨などは無い。当たり前のように送ってきたこれまでの月日がそうであったように、これから訪れる月日もまた当たり前のように、自分とそれを取り巻くものを時と場所へ即した何かへ変えてゆくだけのことだ。不変の存在なんてものを、杏はこれっぽっちも信じない。何故なら彼女の目の前にあったものはいつだって何だって、時として彼女自身でさえ、常に変わることを余儀なくされ続けてきたのだから。
……それにしても暇だ。窓から離れ、杏はばふんとベッドに倒れ込む。その表情はだらしなく弛緩し切っていた。今日は一件、昼前に出かける予定がある。それまでは誰かと遊ぶというわけにもいかない。さりとて約束の時間まで家で過ごすにしても、何か気を紛らすものもこれといって見当たらなかった。
「ゲームって気分でもねえし、折角の春休みなのに高校の予習なんかすんのも馬鹿くせえしなー。あー! こういう時、家さピアノの一つでもあれば良がったのにぃ」
のんびり、なんて言葉はもう飽き飽きだ。時間があれば常に動いていたいしやれることを見つけたい。それもできれば一人よりも二人、二人よりも沢山で動く方がいい。こうした性分の杏にとって、同級生の友人たちがそれなりに暇でありそれなりに忙しなくもある卒業後の春休みというものは、ひたすらに鬱陶しいだけの期間であるとも言えた。
「何かやることねがったっけかなー。教科書はもう買って来ちったし、制服の採寸も終わったべ。こまごましたのは来月ンなってからでも間に合うし……」
ブツクサぼやきをこぼしつつ、頭の中に作成していたTODOリストを一つずつ確認してみる。――うん、大体のことにはとっくに目処がついている。差し当たりやっておくべきこと。特に今日、絶対やるべきこと。そんなものは例の外出予定を除いて全く無い。結局あと数時間はこの無駄な余暇を引き続き持て余さなければならない、という事実を再確認しただけで、杏の思考のひと時は僅か十秒足らずを潰せたに過ぎなかった。
「あーダメ。寝っ転がってるだけなんて不毛だ不毛。どうせなんだしお菓子作りの練習でもしてよっと」
がばりと起き上がった杏はベッドから飛び降り、お
「おはよ、お姉。今日は珍しく遅起きだねが」
「悪いけどとっくに起きてましたー。ただ起きた後、部屋でボンヤリ一日の予定立ててただぁけ。それよりお母は?」
「いるよ。もうそろそろ仕事さ行く時間だって支度してらけど」
「そか。柚は今日はどちらへ?」
「同じクラスだった子と買い物。中学で使うモン一緒に買いに行こ、ってゆうべ電話来てさ」
「ほほー」
杏は柚ににやついた笑みを返す。容姿も性格も実に女の子らしくないことを最大のアイデンティティとしている我が妹は、その特質に違わず同級生女子からの人気がすこぶる高い。例えば乙女の祭日バレンタインデー、彼女は今年も級友からの友チョコ、どころか割と本気めのメッセージが添えられた手作りチョコを相当数持ち帰ってきた。両手に余るほどだったその数は、十をゆうに超えていただろうか。柚も柚で級友たちからのそうした熱視線を厭う気持ちはまるで無いらしく、それどころか「男子に同じコトされるよりは遥かに気楽」とまで宣う始末だ。
あまつさえ柚は男子にも相当人気がある。ゲーム。漫画。スポーツ。テレビやネットの流行。およそ男子が好むであろうコンテンツを一通り網羅している彼女は、「話が合うから」という理由で性差の壁を越えた交流を持つことが出来、先般の卒業式でも複数の男子から告白やラブレターを受け取るなどしていたそうだ。演技などでなく天然でこれなのだから恐ろしい。血を分けた姉妹だというのにどうして姉と妹でこうも真逆なのやら、と思わされることもしばしばである。
「まーせいぜい楽しんでらっしゃいな。ところで柚、中学では部活何とすんの?」
「んー。今んとこ吹部のつもり。他の子らも吹部入りてえっつってるし、
「奈央ちんが頼れる、ねえー。どうだか分かんねえけど、まっ、入るんだったら頑張んなよ。来年からの曲北はけっこう大変だべがらね」
「お姉それ、アタシが姫小のマーチング入る時も言ってらったけど、ナニ? また例の人が何かやらかしたワケ?」
「さあどうだろー。でも姫小の時とは、またちっと違うかもね」
杏はわざとうそぶいてみせる。実際問題、『例の人』が部に残した爪痕はそれなりに深刻だ。姫小マーチング部だった柚も、己が母校で起こった事件の形跡と詳細は人づてに聞くなどして知っている。だが曲北でのそれは、あの時ともまた決着の仕方が異なっていた。これが今後どのように転がっていくのか。――とっくに卒業生の身となってしまった杏が、それを案じたところで詮方ない。
「それよりいいの? 時間」
「あ、ヤバッ。こンたトコでお姉と長話してる場合でねがった」
慌てて立ち上がった柚が、靴のつま先でトントンと玄関タイルを小突く。本日彼女が履く白無地のスニーカーは「通学用にも使えるように」と柚本人が選んだ、この度おろしたての品。まだ一つの汚れも帯びていないそれは今後、持ち主と共にどんな道を踏み、どんな天気に濡れ、どんな景色を見てゆくのだろう。さしずめ今日はその一回目、靴擦れしないための試運転。この靴が柚の小さな足にしっくり来る頃には、彼女自身もまた色々なことを見聞きして一回り大きくなっている筈だ。
「んだば行ってくる。あ、今日のお昼、アタシの分は取っといてよ。勝手に食ったら承知しねえがら」
「はいはい、言われなくたって手なんかつけねえってば。それより気ぃ付けていってらっしゃーい」
玄関を出ていく柚をひらひら手を振って見送り、それから杏は再び「お母ー」と声を上げながら居間へと向かった。
「おはよう杏」
「あやアンちゃん、おはよ」
居間には出勤の支度をしている母の他に、食器の後片付けをする祖母の姿があった。父はこの時間帯なら既に仕事へ行っている頃。祖父の姿は見当たらないが、きっと雪解けを迎えた畑の様子見ついでにご近所さんのところで煙草でも吹かしに行ったのだろう。定年退職を機にそれまで片手間だった稲作と畑いじりを専業とするようになった祖父は、こうして日々農家仲間のご近所さんを巡っては下らない世間話に花を咲かせつつ、今年の作付けをどうするか、といった情報収集をするのが趣味の一つとなっていた。
「おはよ。お母ー、朝ご飯まだ残ってる?」
「冷蔵庫さ入れてらよ。ラップの上さ付箋載っけてらのは昼の分だがら、そっちは後で
「ハーイ。付箋のある方は一つ残しとけ、ってことね」
さっき柚に言われた分を、杏はしかと頭の内で計算に置く。柚は食に貪欲で、裏切れば後が怖い。例えそれが実の妹相手であれ、些細なことで無用な敵を作るのは実に馬鹿げたことだ。これは杏が掲げる信条の一つであり、その根拠となるものは彼女自身の幼少期の体験である。
「ん? ってことは今日お昼、ババもいねえの?」
「んだ、大ババ
「あーそう。帰りは?」
「分がんねえで。なんと大ババだば、誰彼構わず人の顔見れば話し掛けて動かねえもんで、困ったもんだで」
「はあー、ホントにね」
祖母の愚痴めいた物言いに、杏は呆れ混じりの同調を示す。あれだけご高齢ともなると、曾祖母の病院通いは毎週毎週の恒例行事となるものらしい。家から出歩くのだってあの衰えぶりでは相当くたびれるだろうに、曾祖母ときたら通り掛かった人に片っ端から声を掛けてはまごついてを繰り返し、周囲の人間を大いに疲弊させてしまう。それに毎度付き合わざるを得ない祖母も、何ともご苦労なことだ。
「ところでさあ、今日ちょっと台所借りるで。午前中出掛けるまで暇だし、なんかお菓子作りでもしようと思って」
「それはいいども、使った後はちゃんと片付けせえでな。こないだなんて材料も泡立ても全部ぶっ散らかしたままどっかさ行っちまって。あのままだば
母が刺々しい口調で返してきて、ち、と杏は舌を打った。それは先月中旬の話。とある目的の為、一日遅れながらも初めてのお菓子作りにチャレンジした杏は思わぬ苦戦を強いられた結果、約束の時間ギリギリとなったことで片付けもせずに家を飛び出さざるを得なくなってしまった。ちなみにその時作った品は、手のひらサイズのチョコレートだ。
「だーから、あん時は後で片付けるつもりだったんだってば。今日は出掛ける前にちゃんと片付けするし、少しは信用してって」
「ホントだべが。アンちゃん、今度約束破ったらババも怒るど」
「勘弁してよー。ホントごめんって、あん時も二人さは散々謝ったじゃん」
祖母の追及するような視線を、杏は両腕を抱きながら怯えてみせることで躱そうとする。こう見えて、祖母はなかなかどうして躾に厳しい。祖父母たるもの孫には甘い、という世間の通説がこの人に当てはまらないのはきっと、女子は女子らしく、という祖母流の哲学ゆえでもあるのだろう。
「まあいいけど、使うんだば使うでおら
「ハイハイ。がんばって
支度を整えた母がのそりと立ち上がる。そのまま居間を出るのかと思いきや、あっそうそう、と母が杏のすぐ傍で踵を返した。
「忘れるドゴだったで。さっき
「え? 円華さんが?」
意外な人物の名に、杏は少々ならず驚く。食卓まで引き返した母はその上に置いてあったものを掴み取り、再び杏のところまで戻ってきた。
「ホラこれ。何だか分がんねえけど頼まれた、って。杏さ渡しといてけれって」
それは一枚の紙くず、いや、角が沢山ある星にも似た形をした折り紙のようなものだった。受け取って、杏は確認のため裏表をひっくり返す。宛名無し。差出人の名前も無し。この時点でもう、この折り紙の本当の差出人が誰なのか、杏には察しがついていた。
「ありがと、お母。後で円華さんさもお礼言っといて」
「そンたのオメエが晩げにでも直接言いに行けばいいべった。家だってすぐそこだのに」
「それが出来ねえがら頼んでんだっつうの」
は? と母が杏の呟きに怪訝な顔を示す。何でもなーい、と告げながら、杏は食卓の椅子を引いてそこに座った。
「おかしけな杏。まンず良いや、母さん仕事さ行ぐンてな」
「んー。いってらっさい」
生返事で母を見送り、杏は卓上に置いた折り紙をしばしジト、と睨む。あっちから折り重なっていて、それがこっちにこう掛かっていて、だとするとここからめくればそっちがこうなって。こんな風に折り紙の構造を杏が勘案しているその合間に、台所の片付けを終えた祖母は居間の片隅にあるテレビ前を陣取り、お茶をお供にいつもの健康番組を視聴し始めた。
『凝り固まった体をほぐすには、背中のストレッチが有効です。皆さんもご一緒にやってみましょう。ではまず、高ーく上げた両手を頭の上で組みまして、そこから両腕を大きく横に開いて肩甲骨を……』
画面の中のトレーナーがやってみせるその通りの動きを、祖母が見ながら真似している。相も変わらず間の抜けた光景だ、と祖母をチラ見して心でそう卑下しつつ、杏はアタリを付けた折り紙の端っこを指先でピチリとめくってみた。
――ご丁寧なことに糊付けまでしてある。糊自体の粘度はさほど強いものではないが、力づくで剥がそうとすれば連動して周辺が破ける仕組みのようだ。昔はこんな手間など掛けなかったというのに。果たして自分以外の人間に見られたくないとでも思ったのか、それともこれも何らかのメッセージを込めた行動なのか? 紙を破かぬよう慎重に端から糊を剥がしてゆき、時間を掛けて折り重ねをほどいたその折り紙を、杏はべらりと広げる。
「……ババ、やっぱ台所の件はいいや。そん代わり、アタシちょっと出てくる」
「あや、
「うーん、用事次第。一時間ぐれえして戻んねがったら、ご飯は後で食べるからそのまま冷蔵庫さしまっといて」
「したらお昼は
「んー。気ぃ向いたら」
どうせ暇だったし、退屈しのぎにはちょうどいいか。居間を出て一旦自室へと戻り、プルオーバーのパーカーに細身のソフトジーンズ、と動きやすい服装に手早く着替えを済ませた杏は、まっすぐ玄関を目指して再び階段を下りていった。
「あやぁアンちゃん、どごさが行ぐんだがや? ババも
「だぁがら大ババ、お
「なんだって、だぁれもババの相手なぁしてけねえおのなあ。
脇の小部屋からいつものように顔を覗かせた曾祖母をこれまたいつものようにあしらいつつ、履き慣れた靴に足をつっかけ玄関を出る。表の陽気は今日も目覚ましく、季節を一つ飛び越えて夏の予行演習をしているみたいだった。時間的に見て、歩きよりは自転車を使う方が良さそうか。そう判断した杏はまず家の裏手にある納屋へ回り、農具やらの雑品に埋もれる形で奥の方へしまってあった自転車を引きずり出した。パッと見る限りでは故障や錆び付きによる破損などは無い。ひと冬寝かせた我が愛車には、来月からの高校生活でも駅までの通学にて活躍してもらう予定だ。
続けて車庫内の壁際に立て掛けてあったエアポンプでしゅこしゅことタイヤに空気を充填してから、冬眠中に土埃を被っていたサドル上面をざざっと手で払う。早速跨ってペダルを逆に空漕ぎし、それから杏は体重を乗せて前へとゆっくり漕ぎ出す。試運転のつもりで軽くブレーキを掛けると、自転車は持ち主の乱暴な起こし方に抗議の声を上げるが如く、キヒイ、と甲高い異音をかき鳴らした。
「お待たせ」
「大して待ってません。先輩のことですから、どうせ五分は遅刻してくると思ってましたし」
途中から舗装路を外れ、がたがたと砂利道を進むこと数分。家から少し離れたところにある河原手前の大きな一本杉、その直下に彼女の姿はあった。杉の木手前の草地のところでスタンドを立てて自転車を停めた杏はゆっくりと、用心するような肚積もりで彼女の元へ近づく。
「それにしても良く分かりましたね、アレの差出人が私だと」
「ごじょーだん。円華さんがアタシ宛てに持ってきた、って時点で十中八九確定でしょ。それに、あの折り方。あれで分からねえほどアタシも馬鹿でねえし」
「それはそれは至極ごもっともでした。――お久しぶりですね、
「久しぶり。こうしてアンタと二人きりで会うのも七年と十ヵ月十六日ぶり、かな」
サア、と揺れる春風に撫で梳かされた目の前の人物が、大きくなびいた漆黒の長髪を手で押さえつける。そこから漂う澄んだ水のように癖の無い香りが、杏の鼻腔を僅かにくすぐった。穏やかな微笑を湛える彼女に対し、杏は愛想笑いすらも浮かべない。ありていに言って杏はこの時、向こうはどういうつもりでこんなことをしたのだ、と相手の動向を警戒する以外の心理を持ち合わせていなかった。
「もう少し引っ掻き回したかったんなら円華さんヅテでねくて、自分で郵便受けにでも突っ込むんだったね。アンタにしちゃ詰めが甘くない?」
「偏見ですね、私だってそこまで先輩のことを愚弄したかった訳ではありませんよ。ただ母がたまたまそちらのお宅に用事があるとのことだったので、それならついでにとアレを託しただけのことです」
「どうだか。にしても呼び出すなら呼び出すで、もう少しマシな書き方しなよ。こんな薄っすい内容で、もしアタシが忘れでもしてたら意味無いでしょ」
ばさり、と杏は手にしていた紙を広げてみせる。それは先ほど自宅で開封した折り紙の内面。――本日九時、いつもの場所にて。紙に書かれてあったのはただその一文のみだった。
「失礼しました。それで伝わらなければ所詮それまで、と思っていたものですから」
「そっちの方がよっぽど失礼だっつうの」
杏の悪態に、フフ、と相手はすかした笑みを一つこぼしただけだった。そう来るだろう、と予め予想していた杏はへそを曲げることもなく、んで、と問う。
「急に呼び出したりなんかして、アタシさ何の用事があるっての?
辺りにそよいでいた風が止み、黒髪の間に見え隠れしていた相手の瞳が露わとなる。
「先輩も異なことを仰いますね。何の用件も無しに、私がわざわざ先輩をこんなところへ呼び出すとでも?」
「用件が何であろうが、そもそもアンタに呼び出されることが異常事態だってハナシしてんの」
「やれやれ、随分と嫌われたものですね。と言っても、それも当然のこととは思ってますが」
一本杉から離れ、水月もまたこちらへ一歩ずつ近づいてくる。まるで社交場にでも赴く時に着るような春向きの少し薄手なフレアドレスを風にはためかせ、それにはやや不釣り合いに思える無装飾のミュールで足元の砂利を掻き分けながら歩く彼女の立ち振る舞いは、まるで風そのものをその身に纏っているかのようだ。
「用件は二つあります。内一つは後ほど明かしますが、そちらは最重要。もう一つは、こうして先輩とお会いして話をすることです」
「会って話すって、それだけ? 今さらアタシに何の話があるってのさ」
「そうつっけんどんにならないで頂きたいものですね。何しろ先輩のご卒業で、私はもうそちらにとっての警戒対象では無くなった筈ですから」
「まあね」
杏は遠慮なしに鼻白む。水月と杏、二人の関わりは同じ部活の、それも直属ではない先輩後輩程度の関係値。今はもう、たったのそれだけ。故にもうすぐ高校生となる杏にとって、水月はもはや自分の居場所に危害を成せる存在ではない。少なくとも今後一年間と、その翌年に彼女が杏と同じ高校を進学先に選んだりしなければ、の話だが。
「とりあえず、話があるってんならサッサとしてもらえる? 暇そうなアンタと違ってアタシ、このあと予定あるんだよね」
「お見送り、ですよね。あの子の」
「……さすがにアンタも知ってたか」
「風の便りで。先輩なら当日も見送りに行くだろうなと、そう思ってました」
「で、アンタは行かねえってワケなんだ?」
「行くわけがありません。私にその資格なんて無いですし」
「ふぅん。資格ね、そりゃまた殊勝なことで」
水月がどういう考えでいるのか、分からないでもない。だがあえて今、杏はそれを口にしなかった。
「後輩の子らから聞いたよ、アンタ先生に退部届出して、今は休部扱いなんだってね。姫小ん時は部に残ってサボったり出てきたりって好き勝手やってたアンタが、どういう風の吹き回し?」
「どうもこうもありません。私個人の意図なんて誰かに話したところで仕方ありませんし、それに風聞は所詮風聞。あの類の言説には概して曲解と捏造が付きまとうものです。私のことを噂する人たちの口には個々の願望が乗っているだけ。事の真相なんて誰一人として語れていないし、まして知りもしない。違いますか?」
「またそうやって、わざと的を外すような物言いしちゃってさ。――ンじゃあ代わりにアタシが当てたげるよ。アンタが休部扱いに甘んじてる、その理由」
杏は小さく息を吸う。今から述べることに根拠らしい根拠などは何も無い。ただ方々から伝わる諸々の噂話や証言を一つずつ吟味し、その上で自分なりの客観視をもって解題した長澤水月という人物のありようを発表する、単にそれだけの行いだ。
「アンタは最初、あの騒動で自分の計画を無事やり遂げたら、そのまま部を去るつもりでいた。だって変わった後の組織や集団に、アンタの興味なんて一切無かったから。あの独立組の子たちがここからどう変わろうが、あるいはまた元の形に戻ろうが、それすらもどうだっていいって考えてた。どうせ集団が集団として定着してくると、いずれはアンタが最も毛嫌いするであろう集団特有の性質を帯び始めることンなる。つまり退部届を出すところまでが当初からの既定路線で、連中のその後まで面倒見るつもりなんて毛頭無がったんでしょ、アンタには。吹部のみんなからしたら無責任極まる話だけどね」
目の前の水月は何も言わない。ただ緩く綻ばせた口元をその角度で保ち続けたままで、ガラスの欠片の如く尖った目だけをこちらに向けていた。
「でもアンタにとって想定外だったのは、うっかり近づいたせいであの子に自分も毒されちゃった、ってこと。短い期間だったけど本気の自分を発揮して、それであの子と一緒に何度も合奏やって、そうするうちにアンタは気付いちゃったワケだ。誰かと音を合わせることの楽しさに。自分以外の音楽と向き合ってみる面白さに。実際楽しそうにしてたもんね、アンタがあの子と吹く時は」
実のところ、杏はその現場を目撃していた。中央棟と教室棟を繋ぐ連絡通路の屋上、曲北の生徒たちが俗に屋上テラスと呼ぶ――杏に言わせれば、あれはテラスではなくバルコニーなのだが――そこは教室棟の窓から良く見える位置にあり、背高な安全柵で囲われていることも手伝って生徒にも終日開放されている。従ってあの晩秋の日、そこに誰と誰が居て何をしていたのかも、教室でパート練をしていた杏からは丸見えだったという訳である。
「あの子との音合わせに、アンタは可能性を感じた。組織や集団がどうこうなんて一切関係の無い、もっと音楽的な意味での可能性を。合わせる度に、その気持ちはますます強まった。だから最後の本番、アンタはあの子の為に吹く気になった。ほんの一回だけのつもりでね。違う?」
「ハイともイイエとも言ってませんけど」
「まあいいや。とにかくそうやって毒されたアンタは、いざ退部届を出して『もう少し考えてみねえが』って先生に引き留められた時、断り切れなかった。だって、もしもあの時感じたものが間違ってないんだとしたら、アンタが長らく求めてたものはやっぱりあの子が持ってた、ってことになるから。――アンタが本当に変えたかったものは部活でも学校でも、集団でも何でもない。本当に変えたかったのは、変わりたかったのは、アンタ自身。だからそれを成し遂げてくれる人間から、あの子から離れたくなかったんでしょ」
繰り返しにはなるが、これほど雄弁たる杏には確たる論拠など一切無い。それでも惑わず淀まずこうまでスラスラ言えるのは、あの手この手を駆使してかき集めてきた情報の確度と自分自身の思考回路に、杏がそれなりの自信を有していたからだ。
「そう考えた結果、アンタは退部するでもただ残留するでもなく休部ってカタチにして、あの子との距離感を測り直すことにした。まあ、扱いが休部になった理由の半分は、先生が気を回したからでもあんだろうけど。ほとぼりが覚めた頃にもう一度向き合ってみれば、あの時自分が感じたものが本物だったかそうでないかが判断できる、って思ってたワケだ。でも残念だったね、そろそろ頃合いかと思い始めたその時に、相手の方がこういう展開になっちゃうだなんてさ」
水月はまだ口を開かない。それは半ば、こちらの言い分を正しいと認めているということか。いずれにしても言いたかったのは次の一言だ。それさえ言い切ることが叶えば、探偵の真似事みたいな今までの論説などは杏にとってどうでも良かった。
「さしずめ今日の見送りに行かないってのも、早い話がこういうコトなんでないの? 『自分の気持ちに整理が付いてないのに、そのままであの子と会うワケにはいかない』ってね。……これがアタシの推論。どうよ水月? いつもアンタが誰かにやってるみたく、自分のハラを他人に抉られる気分ってのは」
とどめの一撃を放った杏はしばしの間、表情一つ変えぬ水月の返答を待つ。やがて一つ息を落とした後、ぱちぱち、と水月が褒め称えるようにその両手を鳴らし始めた。
「全く、よくもそこまで自信たっぷりに妄想話を語れるものです。さっき私が言ったことをお忘れですか? 風聞は風聞。誤謬は誤謬です。そこかしこに散らばった断片を幾ら理想通りに組み合わせてそれらしく誂えたところで、実在する私自身の思考と心境を忠実に再現したものには到底成り得ないのですよ」
「じゃあ今のも真相からは程遠いっていうの? アンタが見送りに来れない理由も全然的外れだった、って?」
「さあ。是非の判断はお任せしますよ、先輩お得意の、その逞しい妄想力に」
人を食ったような水月の物言いは、やっぱり相変わらずだった。その一方で、別にどっちだっていい、と杏も内心思う。杏は別に事の真相を暴きたかったのではない。ただ水月の思考を先読みして、可能な限り彼女の蛮行を阻むことで、自分のあるべき居場所を守りたかっただけ。これは今回に限らず、今までずっとそうだった。そして姫小でも曲北でもそれが成せなかった時点で、杏の目論見は失敗に終わっていたのだ。今しがた披露したものなどは全て、目的に至るまでの過程で培ってきた諸々の能力と下地作りの産物に過ぎない。
「何だっていいけどさ、その節はホントやってくれたよね。うちのパートから一年全員と二年の半分ごっそり持ってってくれちゃって、まあ」
お返しとばかり、杏は包み隠さぬ皮肉を水月にぶつける。例の騒動の際、杏の属するトランペットパートからは大量の離脱者が出てしまった。おかげでパートは一時半壊状態にまで陥り、離脱した子たちがパートに戻ってからも、その鍛え直しや人間関係の再構築などに杏は随分と奔走させられたものだ。だがもしあれに加えて説得にまで出向かなければならなかったとしたら、杏の負担はさらに増して早晩パンクしかねなかったことだろう。『独立組との交渉にパーリーは極力参加させない。パーリーのみんなには、普段通り練習できる環境をキープしてて欲しいから』……部長としてちなつが下したその判断にも一定度以上の正当性があったことを、全てが終わった今となっては認めぬ訳にはいかないのかも知れない。
「それは私のせいではありませんね。誰かに言われたからどうのこうのではなく、他ならぬあの子たち一人ひとりが吹部の体制と小山先輩の振る舞いに不満を抱えていたから、ですよ。トランペットパートの離脱者があれだけ大勢に及んだのは」
「良く言うよ、最初から
「否定はしません。ですが、先輩にとっても良い薬だったでしょう? 人懐っこそうに振る舞うことで相手との距離を力づくで詰めたって、それを嫌がったり無理強いだと感じてしまう人間は、これほど多く生まれるものなんですよ」
「さあね。あれが薬になったかどうかはそれこそ、アンタお得意のその素晴らしい人間観察力ってヤツにお任せするよ」
意趣返しの一言を水月に放ち、それから杏は小さく溜息をつく。やっぱりこうなっちゃうんだな。諦めにも似た侘しさが、その時の杏の胸中を駆け巡っていた。
「言いたいだけ言って、お気は済みましたか?」
「全然。でも言い出したらキリねえから、この辺にしといたげる」
「そうですか。では先輩の話が終わったところで、今度はこちらの話ですけど」
珍しく水月が勿体ぶった前置きをしてきた。何? と杏は斜に構える。
「先輩をここへお呼び立てしたのは他でもありません。吹部のことも集団も何も関係なく、かつて旧交を持った者同士として、先輩と一度じっくり昔話がしたくなったからです」
「はあん。昔話、ね」
そう呟いて、杏は水月とほぼ同時に一本杉を見上げる。
「ああいう形でこの場所を指定したのもそれが理由でした。ですからあれで通じなければ仕方がない、と思っていたのも七割ぐらいは本当です。昔話の出来ない相手をこんな場所まで呼びつけたところで、ご覧の通り殺風景な眺めの品評会ぐらいしかする事はありませんから」
「皮肉はいいって、もうお腹いっぱい。――ま、忘れるわけないよ。あれはアンタとアタシの、二人だけに通じる秘密の暗号だったからね」
あの頃と、ここの景色は何一つ変わっていない。いや、少しだけ枝先が枯れているのと、杉の葉の位置が低くなったようでもあるか。そう見えたのもきっと、杏があの頃より遥かに大きくなったのと、小さい時には気付きもしなかった諸々のことに気付けるようになったせいだ。成長と共に、知識という名の虫眼鏡を得たことによって。
「音楽教室や保育園で行き会う度、あの折り紙をこっそり渡し合って、中身を見ていついつどこ行く、そんで何する、ってやってたっけ。『いつもの場所』って言ったらココ、ってのもそうだった。音楽無しでアタシらが遊ぶ時は、お互いの家以外だといっつもこの周りだったから」
「あの折り紙、最初に発案したのは先輩でしたね。後から私の工夫も織り交ぜて、下手な開き方をしたらすぐ破けるようにして」
「だっけ? よく覚えてないや。にしたってさあ、それプラスで糊まで貼っ付ける必要無いでしょ。あんな文面、どうせアタシ以外の誰が見たって分かりっこないってのに」
「中身を見られたくなかったからじゃありません。先輩以外の誰かに封を解かれることが許せなかっただけです」
「あっそ。変なトコに拘っちゃってまあ」
とぼけてみせつつ、杏は手にした紙にそっと視線を送る。件の折り紙、かつて水月と二人で決めた五段階の難易度のうち、今回の折り方は最大難度のAだった。折り紙の難度はメッセージの重要性、即ち相手に叶えて欲しい願いの度合いを表すもの。予め解き方を分かっていなければ紙は引きちぎれ、文面のある位置は散り散りになってしまう。それで読めなくなる訳では無いものの、破けた時はそのメッセージは無効、というのも二人で定めたルールの一つだった。遊ぶ約束、難度C。ケンカ後のお詫び、難度B。今度一緒に弾きたい曲のリクエスト、難度D。そうした諸々を彼女たちはこっそり折り紙で交わし合い、ほどいた折り紙の内に書かれた文面を差出人に見せることで互いの合意とし、会話で打ち合わせることなく互いに履行してみせた。
親も知らない、誰にも言わない、二人だけの伝達法。かつての杏と水月はそれを、秘密の折り紙、と呼んで大切にしていた。
「あの頃は無邪気なものでしたね。今にして思えば何とも子供じみた、それでいてませたやり方だったなとは思いますが」
「こんな高度な折り紙の出来る子なんて、同年代じゃアタシら以外に居ねがったしね。おまけに小学校上がる前のクセして漢字まで使ってたし」
「あれは私の発案でしたか。まだ誰にも習ってないのに、これも暗号だから、なんて言って使ってましたね。そのクセいざここへ来て何をするかと言えば、虫取りやお花摘み、あるいは二人きりでの鬼ごっこやかくれんぼ、おままごとの延長線上みたいなごっこ遊び。我ながら実にやっていたことの落差が酷いものだと、思い返すだに慙愧の念に堪えないというものです」
「したら言わねえでおけば良がったべ」
「したかったのですからしょうがありません。昔話は時に、お互いの恥ずかしい過去を掘り返す行いでもありますから」
くすくす、と水月がくすぐったそうな声を上げる。さっきはああ言っていたものの、本人は特段あの頃の行いを恥などとは思っていない、というのが本心なのだろう。平静を帯びた彼女の薄氷の笑みがそれを物語っている。
「他にも九年前の夏、ちょうどここで遊んでいた時に大きなヘビが出たのを覚えていますか? あれも今にして思えばきっとアオダイショウか何かだったのでしょうが、毒蛇だ、咬まれたら死んじゃう、と怖がる小山先輩を背後に抱えた私が、その辺の棒きれでヘビを追い払ってあげたこともありましたね」
「あったっけ、そんなん。おおかた記憶違いでアンタの方が怖がってたんじゃないの?」
「いいえ、間違いなくそちらでした。先輩と違って私はヘビなんてへっちゃらでしたから。あの後、しばらく泣き止まなかった小山先輩を私が傍で寄り添ってなだめていたことも、よく覚えてますよ」
そこは忘れろ。怒気を込めた杏の視線に、水月はクツリと吐息を一つこぼしただけだった。今のは果たして嘲笑なのか懐古なのか、杏にはどちらとも判別が付けがたかった。
「でも、先輩が小学校に上がって、ほどなく二人ともここへは来なくなって。秘密の折り紙も、それから殆どしなくなりました。私と先輩とで最後に交わした折り紙の内容、先輩は覚えてますか?」
何だっけね、とシラを切るのは簡単だった。けれどここまでの水月とのやり取りを通じて、杏の中には少しずつだが心境の変化が生まれ始めてもいた。意図はどうあれ今日の水月はこちらと真摯に向き合おうとしている。そんな相手にこれ以上不誠実な態度を取るのは、自分が彼女と同じ側に堕したと宣言するも同然の愚行だ。そう考えた杏の口から、自然と答えはこぼれ出た。
「『あーちゃんそつぎょうおめでとう。わたしが小学校に上がったら、また毎日いっしょにあそぼうね』……でしょ」
「そうです。私から先輩に送った、祝辞と約束を託した秘密の折り紙。――けれど返答は、無効にされました」
杏はそのことをしかと覚えている。小学校に上がる前の、ちょうど今ぐらいの季節。音楽教室で水月からいつものようにこっそり渡されたその折り紙を、杏は実際に小学生となってから彼女に示してみせるつもりでいた。あんな事やこんな事、楽しい事がいっぱいあるから、だから水月も早くおいで。そういう想いを言葉でなく、態度で告げるつもりで。それからおよそ一月後。せっかく時間を掛けて丁寧に開帳した水月からの折り紙を、杏は自らの手で、ばらばらに引き裂いた。
「あの時の折り紙も難度Aでした。でも破け方を見てすぐ気付いたんです。あれは広げる途中で破れたんじゃない。先輩がご自分でやったのだ、と。ですからあの時、私は何も言わず、先輩が黙って帰るその背をただ見送りました」
そのあと水月とは微妙に疎遠な時期が続いた。だがこれはまだ決定打ではなかった。やがて色々なことに耐え切れなくなった杏が水月の前で度々涙を流すようになり、それを受け止めた水月が最初の行動を取り、衝撃を受けた杏がさらに水月と疎遠になり。そうして翌年、水月が起こした二度目の騒動が、二人の仲を決定的に分かつこととなったのだ。
「どうして私があんなことをしでかしたか、あれが今にどう繋がっているか。そんなことは打ち明けずにおきます。もっとも、小山先輩でしたらとっくにご存知の筈ですけどね。でも私はあの時から今に至るまで一つだって、自分のしたことを後悔などしていません」
「だろうね。アンタはそういう奴だよ。昔っから今も、ずっと」
「ええ。ですから私も本当は分かってるんです。先輩もあの時から今に至るまで、ご自分の選択をこれっぽっちも後悔していないってことを」
杏はそれにあえて答えなかった。後悔してないかどうか、だなんて、とてもじゃないが一概には言えやしない。だが巡り巡って考えれば、結局は『後悔してない』としか答えようの無いことだった。
あの一件の後で己の身に平穏がもたらされた時、ぼろぼろの状態だった杏がまず何よりも一番に恐れたのは、あの地獄のような日々が再発してしまうことだった。何がキッカケになるかも誰が元凶になるかも分かったもんじゃない。今仲良くしてくれるからって、他人を信用したらいつか必ず痛い目を見る。だから杏は人好きのする自分を作っていった。有力な人物には率先して取り入ったし、弱っている者には自分から手を差し伸べた。自分を厭う煙が立てば火種はすぐ消し、懇ろに扱うことで相手の不満を親睦へと替えた。そうやって身の回りの人間を、強者や集団を自発的に味方につけようと腐心することで、杏は自らを
「当時は違うクラスで事件についての認識や記憶の薄かった荒川先輩や中島先輩と、部活での出会いを通じて懇意にしていたのも、実のところ半分以上はそれが目的だったんでしょう? 部活という集団の中で筆頭や中心に立てるだけの存在。そうした性質を持つあの人たちと繋がることで、先輩はご自分の生きやすい環境を確保しようとした。勿論残りの半分には、先輩たちのお父さん同士がたまたま学生時代の同級生で、マーチング部の父兄会で再会したのを機に縁故を温め直したから、というのもあったんでしょうけど」
「……ホント、そういうところは目敏いっつうか耳聡いっつうか。誰から聞いたのよ、そンた話」
「私も私で過去の一例ずつから学びましたから。集団を否定はしても、人間を否定してはいけない。小さなことをいちいち毛嫌いしていては大望を成せません。ですから不得手なりに、情報の提供元は色々と確保してあるんです。先輩とは違うやり方で、ですけど」
「ふーん。まあそこは聞かないでおくよ、こっちもこっちで開示したくねえカードだし」
こんなやり取りをしていると、まるでスパイ同士の諜報合戦をしているみたいだ。幼かったあの頃と異なり、人間や集団の持つ力を逆に利用することを覚え始めた水月。今の彼女は正直言って脅威以外の何物でもない。もしも万一、来年の彼女が高校まで自分と一緒のところを選んで入ってきたとしたら。その時こそは杏とて、抵抗もせず尻尾を巻いて逃げ出すことになるかも知れなかった。
「ご安心下さい、こちらにその意思はありませんから。それに先輩と違って、私の進学先はもう取り決められてますので」
「取り決められてる、ね」
決めている、ではなく。些少なニュアンスの差、その奥に潜む意味を、杏はとっくに知り得ていた。けれど口に出したりはしない。言ったところで杏にはどうしようもなく、また水月にだってどうしようもない。これはそういう類のことなのだ。
「要するに、小山先輩と私がこういう形で関われるのも今日が最後、という訳です。喜んでいただいても良いんですよ? 先輩の望む平穏無事な学生生活を、今度こそは私に掻き乱されずに済むんですから」
「あはは、やったー。なんて無邪気に笑うとでも思ってんの? 二回もやられた時点でもうとっくに手遅れだっての」
「でしょうね。でも私は謝りません。あれはいずれも先輩の為にやったことでは無かったですから」
「いいよそれで、もう。今さら謝られたってアタシの方が困っちゃう。それに今回ばかりはアンタも一泡吹かされたみたいだしね、誰かさんのおかげで」
「随分と迂遠な言い回しをなさいますね。今のってもしかして、先輩ご自身の手で泡を吹かせられなくて残念無念、という意味でした?」
「さーてねー。どのみちアタシは大して突っ込んだことできなかったし、それに、アンタのユーフォの腕前を見抜けなかったのも失態だったし」
「へえ」
これまた珍しく、水月が興味深そうな目つきをこちらに投げ掛けてきた。杏はそれを半ば無視しながら少しだけ過去を振り返る。あの日、文化祭後の夜、事態を唯一打開できそうな後輩に過去のよもやま話を語って聞かせた杏は一つだけ、過ちを犯した。解決のヒントとなり得ることは全てあの子に話すつもりでいたのに、その彼女に水月関連の重要情報を伝え漏らすという、致命的な過ちを。
――水月は自分のユーフォの腕を偽っているのかも知れない。何故なら私たちの習っていた先生は、ピアノだけでなくユーフォでもプロ同然の人だったから。
けれど実のところ杏自身、姫小の頃からずっと水月のユーフォを聴いていて、一度たりとて上手いと思えたことが無かった。それは比較対象としていたものが、彼女の直近にいたユーフォの天才・ちなつだったせいでもあろう。水月が今でもあの音楽教室に通っていることは母づてに聞き及んでいたものの、その先生がかつてユーフォを専攻していたことなど幼少のみぎりには知る由も無かったし、ピアノの他にユーフォまで習っているかどうかまでは流石に確認のしようが無かった。水月が自らユーフォを選ぶのも単に先生への憧れからの選択であって、環境と上手さは必ずしも比例しない、と杏が心のどこかで高を括っていた節もある。
それらの要因があいまった結果、水月がユーフォの凄腕である可能性は杏の中で検討の対象外か、あるいは優先順位のより低いものと化してしまった。自分の中で未確定の情報をいたずらに伝えればあの子の混乱を招く。だが伝えないことによって事態の解決が遅れるリスクもある。散々悩んだ末、杏が選び取ったのは前者の判断だった。それも今振り返ってみれば、自分は二択の賭けに敗けた、というだけのことだ。
「確かに、あの子も最初はビックリしてましたね。でも気付けなかったのも当然です。そうなるように私も徹底的に情報を伏せてましたし、例え先輩が疑いの念を口にしたところで真に受ける人なんて誰もいなかったでしょう。そもそもこんなのは大勢にさほど影響しなかった、その程度の取るに足らない情報です。だと言うのに先輩にしてはらしくもなく、随分些細なことを気に病んでいるんですね」
「ま、
「ご理解していらっしゃるなら何よりなことです。――これは慰めるつもりで言う訳ではありませんが、表舞台に出てこない範囲では小山先輩の働きぶりもなかなかのものだったと思いますよ。自分というものが掴み切れずにボンヤリしていたあの子が、度重なる先輩の介入によってやっと一つのキッカケを得られたんですから。立会人としての担ぎ出しや説得交渉時のヒアリング班推薦、それに文化祭の夜の密会も」
「だっからさあ、立会人とか推薦の話まではともかく密会って、誰から聞いたのソレ。まさか探偵でも雇ってんじゃねえべな」
「こんなの誰かに聞くまでもありませんよ。もしかして先輩、互いの家が比較的近所にあるという事実をお忘れでは?」
「む、」
確かにそうか、と杏は口をつぐむ。折しも文化祭当日、発表演奏に不参加を決め込んだ独立組は勿論手伝いなどせず、クラス関係の仕事だけしてさっさと学校を後にしていた。従って、杏家の車が例の後輩を送り迎えするその現場を、その時間帯にはとうに帰宅していたであろう水月本人が目撃していたとしても何ら不思議は無い。あいにくと自宅周辺ののどかな景色は、それが容易に行える程度には視界が開けていた。
「それに、母親同士のネットワークもありますしね。そちらはどうか知りませんが、あいにく我が家ではこれといって禁句事項も設けてませんので、先輩のお宅の情報はひっきりなしに入って来るんですよ。例えばそうですね、小山先輩のご親戚が親御さんと一緒に転居してまで京都の有名マーチング部に所属なさっている事とか、柚ちゃんが中学校でも吹部に入るつもりでいる事とか」
「おー怖。親同士の仲が良いっつうのも考えもんだね、ホント」
「他にも、先輩が先月お菓子作りで何やら大惨事をやらかしたらしい、なんて話も聞きました。そうまでして手作りのお菓子を贈りたかった相手が先輩にはいらしたのでしょうね、恐らくは相思相愛のどなたかが」
「……それ以上喋ったらその口ねじ切るど」
「怖いことを仰らないで下さい。だからこそ、こちらもあえてお名前を伏せたんです。他人からの敵意に敏感で予防線を張り巡らせている分、先輩は弱くていらっしゃいますからね。何の見返りも求めずひたすらにご自身のことを強く慕ってくれる、そういう純然たる好意というものに」
誠に残念なことながら、今の水月の推理は大当たりだ。ハー、と大きく項垂れ、杏は持ち上げた目線で水月を突き刺す。
「ホント、獅子身中の虫っていうか、真の敵は身内に有りってヤツだよね。ったく」
「今しがた先輩がご自分で申し上げた通りです。何事も良い側面ばかりとは限らない、ということですよ」
もっとも、条件はこちらとて同じ。杏もまた自身の母と円華の繋がりを経由して、水月の近況をある程度掴める筋は確保出来てはいた。とは言っても杏の聞き及んだ範囲において、一連の事件をどうにかできるほどの価値ある情報などはほぼ皆無。水月の学業に関する話、家での素行に関する話、家庭内のちょっとした愚痴。伝わってきたのはせいぜいその程度の雑駁な情報のみだ。
「そこの情報戦ではアタシの完敗だった、ってことか。あーあ失敗失敗、そこらへんお母に口止めしときゃ良かったなぁ」
「ウソは感心しませんね。そんなことするつもりなんて、先輩には毛頭無かった筈です。過去の経緯から言って、お母様を始めご家族に今また余計な心労を負わせたくは無かったでしょうから。柚ちゃんもその辺は理解して、お母様に話さずにいる私関連の情報もあったみたいですしね」
「ったく、ホントやりにくいわ。アンタ相手は」
間違いない。こと頭脳戦において、水月は確実に自分より上位者だ。悔しいけれど、その事実を杏は認めざるを得なかった。清々しい敗北感、などという心境からは程遠いけれど、それも今はもう昔とすべきなのかも知れない。だってお互いの歩む道は、もう決定的に分かたれてしまったのだから。
「さて、そろそろ昔話も一通り尽きた頃でしょうか。振り返ってみればどれもこれも益体の無いことばかりでしたが、たまにはこういう時間を設けるのも悪くは無いものですね」
「アタシはくたくただけどね。まあ同意できなくも無いけど、当分はいいや」
「ではもう一つの用件を。こちらはすぐ終わります。先輩もそろそろお時間でしょうし」
そう言って、水月はいつの間にやら手にしていた雪のように真っ白な封筒を指先に挟み、黙ってこちらに差し出した。定型サイズよりはやや真四角に近いその封筒をひったくるように受け取って、杏はぐるりと裏表を確認してみる。宛名無し。差出人の名前も無し。もちろん封蝋などもされていない。これまた様式通りのやり方だ。
「んで、これは誰宛てなワケ?」
「
「アタシなんかさ頼んで良かったの? うっかり忘れたり、イジワルしてそこら辺さ
「そこまで先輩のことを悪逆非道な人非人だとは、さすがの私も思ってません。それに、この程度のおつかいでヘマをするほどの無能者だともね」
「言ってくれるね。まあいいや。ここでヘンな抵抗したってアタシの株が落ちるだけだし」
等と口では言いつつも、これを届けることには何の問題も無い、と杏は踏んでいた。水月は絶対あの子には危害を加えない。故にこの折り紙の内容も、これから旅立つ相手の気分を損ねるようなものにはなっていない筈だ。
「よろしくお願いします。用件はこれで以上です」
ふわ、と水月が一歩退いた。杏もまた預かった封筒を懐のポケットにしまい込んで後ずさり、自転車のハンドルを握ってカンとスタンドを蹴り上げる。
「これの難度は?」
「最低のEです。あの子は開け慣れてませんから、どんなに手先が不器用でも中の文面を破くことの無いように」
「水月にしちゃ珍しい気遣いだね。明日雪でも降りそー」
「名残り雪が降る可能性はまだありますから、さほど異常なことの例えとも言えませんよ。この時期でしたら」
「今日のこの気温で明日も予報は晴れマークだよ、さすがに無えってば」
杏は辺りの様子を示すように両手を広げる。多少風が吹いても平気なように、と着てきたプルオーバーの内側では、この小一時間で既にじっとりと汗が滲みつつあった。
「それと、読む前に破られたって私は構わない。そういう意味も込めてのEです」
「だったらその辺のコトも、渡す時にいちいち言わねったって良いんだべ。どうせ本人にゃ伝えてないんでしょ? 折り紙難度の意味なんて」
「勿論。ですから先輩からも言わずにおいて下さいね。だってこれは私たちだけの、秘密の暗号なんですから」
「はいはい。ご要望、確かに承りましたっと」
サドルにまたがり、ペダルに片足を掛け、その姿勢で杏は一度、水月を見やる。
「じゃあね水月。せいぜい達者でやんなよ」
「言われなくても。――ああそうそう。ところで先輩、」
「あん、何」
「先ほど先輩の仰ったことに一つ、誤りがありましたよ。お気付きでした?」
「誤り?」
この期に及んでまだそんな話をするつもりなのか。胡乱な目を向けた杏に水月はくつくつと刻むような笑い声をこぼし、それから人差し指を立ててこう言った。
「日時です。私たちが二人で会うのは、正しくは最後の日から七年と十ヵ月
「……そりゃどうも、細かいご指摘ありがとさんで」
フ、と水月の口から短い吐息が噴き出る。それに合わせて杏の口からも、きひひ、と甲高い笑声がこぼれた。水月のこんな無駄遣いみたいな賢しさには、もはや怒りも呆れも通り越して笑うより他無かった。たった一日の差に拘る。それもまた実にコイツらしい。しばらく勝ち誇るように口元を綻ばせていた水月が、やがて真顔に近い表情を取り戻す。
「お引き留めしてすみませんでした。では先輩も、道中お気をつけて」
最初から最後まで、水月は杏にこうべを垂れるような真似はしなかった。けれども何故だか悪い気はしない。そう、水月はそれでいいのだ。名残を惜しまず振り返り、ハンドルを反対方向へ切ってペダルを踏む足に力を籠め、杏は元来た道を戻ってゆく。そのまま砂利道にがたがたと自転車を漕ぎ続け、一本杉から遠く離れたその時にふと、後方から自分の背中を水月の声が追い掛けてくるような、そんな気がした。
――さよなら、あーちゃん。
「バイバイ。みーちゃん」
呟いて、杏はペダルの回転を加速させる。この距離からではきっと互いの声なんて届きやしない。だから今のがただの幻聴に過ぎないことも分かっている。それでも何故だか杏には、一つの確信があった。今度こそ、もう二度と、あの子と交わることは無い。例えどんなに家が近かろうと、何かの拍子にばったり行き会うことがあろうとも、その時こそ自分と彼女はただの小山杏と長澤水月として、互いに触れ合わぬままそれぞれの歩むべき道を歩んでいくのだろう、と。
軽い暇潰しのつもりがとんだ時間を食わされた。途中からペダルを漕ぐペースを上げ、杏はバイパス下の地下通路を自転車で疾走する。ここから見送り場のバスターミナルまでは、このペースでなら十分と掛からない。着々と発車時刻が迫っているのは事実だが、さりとて遅れるということも無いだろう。
住宅地を駆け抜け、青信号を渡り、線路沿いの道をひた走る。風を切って、先へ、先へ。過ぎ去る景色は目まぐるしく移ろってゆく。本来胸に渦巻くものは切なさであるべきなのに、その時の杏の体内にはこの晴れ渡る青空みたいな清々しさと、甘酸っぱさにも似た爽快感とが飛沫を蹴立てて駆け巡っていた。
「あーもー、みんなして面倒ごとばっか押し付けてくれちゃってさぁ。かくなる上は後で
この胸にしまった秘密の折り紙。これを真由に渡した時、彼女はどんな顔をするだろう。真由が折り紙を広げた時、そこにはどんなことが書かれているのだろう。ご丁寧にも糊付けがされてあるせいで、杏には中身を盗み見ることもかなわない。けれどきっとあの子は喜ぶだろうと思った。何故だかそう思えて仕方が無かった。この時既にもう、杏は旅立つ後輩を見送ってあげることを第一目的とはしていなかった。それよりも何よりも、この折り紙を彼女の為に無事届けることの方がもう、楽しみで楽しみで仕方無かったのだ。
「待ってなよー真由ちん。何にもしてあげられなかったアタシからの、これが最後のビッグプレゼントだかんね」
杏を乗せた自転車が、風を掻き分け飛んでゆく。向こうに見えるあの白い建物のふもとへ。中身も分からぬその一切れの折り紙を、託した相手と届ける相手、どちらも喜ぶ向こう側へ。