あの子が何かになるまでの ~曲北中学吹奏楽部のインテルメッツォ~ 作:ろっくLWK
「よっこらしょ、っと」
肩から吊り下げた大型のボストンバッグを背負い直し、建物から一歩外に出る。カア、と全身を照らす強烈な太陽の光。それに向けて手をかざし、目をすがめながらちなつは呟いた。
「暑っつ。何これ、もはや春でねくて初夏の陽射しだねが」
まだ暦が四月に切り替わったばかりだというのに、カレンダーを数枚分先送りしたと形容しても良さそうなこの熱気は、つい先日まで雪に囲まれる生活を送っていた身には少々ならず重たいものがあった。全身から噴き出し始める汗にこれは堪らぬとばかり、ちなつは羽織っていた柿色のブルゾンを脱いで薄手のセーター姿になる。手荷物が増えてしまうせいで煩わしくはあるのだが、さりとて暑さに耐え切れずに熱中症にでもなってしまったら元も子もない。ブルゾンをバッグに被せるように掛けてから、ちなつはごそごそとポケットを探り、中から一枚のメモを取り出した。
「場所はここで合ってらよな。確か目立つように学校指定のジャージ着てくる、っつってらったけど……」
それは出立の前夜、先方からの電話内容をしたためたメモだ。待ち合わせ場所は西二十三出口。少し距離を歩くので、あまりあれこれと手荷物を持ってこないこと。以上。後は改札から待ち合わせ場所までの経路がそこには書かれてある。これの通りに間違わず来れた筈だが、なにぶん初めての土地なもので確たる自信などは無い。
さて目当ての人物はもう到着しているだろうか、それとも。ちなつはキョロキョロと辺りを眺める。一面コンクリートの巨大なビル群。地面もその大半が平滑なアスファルトで塗り固められていて、街中でも田畑や樹林などの自然豊かな故郷の地とは何もかもが違っていた。こういう大都市を訪れるのも別にこれが初めてという訳では無いのだが、しかし今まで違って、これからはここが自分の暮らす場所となる。それを思うと少なからぬ感慨はあった。期待感。高揚。不安。寂しさ。熱意。様々な想いをこの胸にしまい込み、自分は今ここに居る。今一度そう自覚した時、ちなつの鼻にツンと何かが沁みた。
「ごめーん、お待たせ―」
その時遠くから声が聞こえて、ちなつは振り向いた。空の色と同じカラーリングのジャージ。間違いない、あの女子こそが例の電話を昨夜くれた、これから部活の先輩となる人だ。こちらへ近付いてきた彼女がニカリと晴れやかに笑う。濃い茶褐色の髪を後ろで束ねてポニーテールにした彼女の清廉さは、いかにも垢抜けた高校生らしさを帯びていた。
「あなたが荒川ちなつさんだね。遠いとこまでご苦労さん、移動大変だったでしょ」
「はい。あ、いえ、空港までは父に車で送ってもらって、それからはずっと飛行機でしたから」
「何時間掛かった?」
「乗り継ぎを除けば三時間ぐらいですかね。家を出たのは朝で、こっちに着いたのが今さっきなんで」
腕時計をちらと見やりながらちなつは答える。この腕時計は今年の正月、入試で使うだろうからと父に買ってもらったものだ。決して高いものでは無いどころか時刻表示しか出来ない安物ではあるが、それでもちなつにとっては自分の為に与えられた、父の思いが籠った宝物。それは今後の生活でもきっと役立ってくれることだろう。
「それにしても良く分かりましたね、私のこと。こっちから探して声掛けるつもりでいたんですけど」
「え? だってバッグに掛かってるそれ、ゆうべの電話通りの色じゃん。それ着て立ってるって言われてたのに脱いでるもんだから、最初パッと見では分かんなかったけど」
あー、とちなつは思い出す。うっかり忘れていたのだが、そう言えばそういう段取りだった。
「すみません、あんまり暑かったもんで、思わず脱いじゃって」
「まあ秋田からだとそうかもねー。私の父方のお祖父ちゃんが仙台に住んでてさ、小さい時遊びに行ったことあるんだけど、冬場寒いもんねえ東北は」
「ですね。今年も先月の中頃までは、まだちらほら雪降ってました」
努めて口調を訛らせないよう心掛けながら、ちなつは初対面の先輩相手にかしこまった受け答えをする。それは自身がお上りさんと見られたくないが為では無い。相手に通じない言葉遣いをしたって意味が無い。母の葬儀やら何やらで遠方の親戚の応対をするうちに芽生えたそういう意識が、相手に適した口調というものを自然とちなつに選ばせるのだ。
「じゃあ行こっか。昨日伝えた通り、先に学校寄ってから寮に行くって流れになるけど、そんな大きい荷物抱えたままで大丈夫?」
「はい。着替えとか色々詰めてるんで大きくは見えますけど、重さ自体はそんなに無いんで」
軽くバッグを揺すってみせ、それからちなつは先輩女子と並んで歩き出した。
「あ、そう言えばちゃんとした自己紹介まだだったね。私、二年の
「分かりました、香苗先輩。私のこともちなつって呼び捨てにして下さい」
「ありがと。同じ部活の仲間を苗字呼びするのって、何かヘンな気分になっちゃうんだよねー」
「分かります。私もどっちかって言えばそういうタイプなもんで」
クスクス、とちなつは香苗と笑い合う。まだ出会って数分のことなので何となくではあるが、この人とは馬が合いそうだな、と思った。
「あ、でもだからって指導の手は抜かないからね。ビシバシ行くんでよろしく」
「はい。こっちこそ、よろしくお願いします」
その辺はさすが抜かりないな、とちなつは思う。練習が厳しいのは元より百も承知、覚悟の上だ。むしろきつければきつい程、自分としてはありがたい。そういう環境で切磋琢磨しながら励んだ分だけ、自分の目指す道筋がどんどん近づいてくると、そう思えるから。
「ところで、ちなつって中学校はどこなんだっけ?」
「大曲北中学校です。曲北、って私らは呼んでるんですけど」
「あー曲北かぁ、全国常連だよねあそこ。じゃあちなつって、そこで部長やってたってワケなんだ」
「はい。まあ、自慢げに言えるほど立派な部長では無かったですけど。ところで先輩の出身って、」
「おっと、そう言や自己紹介の時に忘れてたっけ。私は千葉。習志野ってところで、地元の学校で吹部の部長やってたんだ。ちなつと同じくね」
「なるほど、習志野ですか」
それでか、とちなつは納得を覚える。千葉出身。香苗がこの地域特有の方言を使っていないのは要するに、自分と同様ここの出身者ではなかったからだ。
「習志野って言えば、それこそ高校にも全国常連の吹部あるところですよね。でも進学はこっちにしたんですか?」
「うん。私も一時はそのまま地元進学か、いっそ京都の
「私の場合は、そうですね」
どこまでを明かしてよいものやら、と言葉を選びながらちなつは語る。
「ちょっと重い話になっちゃうんですけど、うちって片親で。小さい弟もいたりして家の経済事情が色々あったもんですから、なるべく負担の少ない学校で音楽が思いっ切り出来るところを、ってことでここを選びました」
「なるほどねー、それで特待Aでの入学か」
うーむ、と得心したように香苗が喉を唸らせる。実際のところその件や公的支援以外にも、今回の進学に際しては様々な方面からの便宜が図られた。とりわけ、遠方に暮らしていた父方の祖父母や近年疎遠気味となっていた母の実家から継続的な援助を約束して貰えたことには、本当に感謝の念しか無い。この身に受けた数多の恩義に報いる為にも、この高校三年間を中途半端な結末で終わらせることは決して許されないのだ。それはある種、ちなつが負った責任でもある。
「マーチングの全国経験者だし、奏者個人としてもかなり優秀って話はうちの先生から聞いてるしで、こりゃあ一年目からバリバリ大活躍は待ったなしかな。大いに期待してるよ、次代のエース」
「いえそんな、エースだなんて。きっと先輩方も相当上手でしょうし、私なんかがついていけるかどうか」
「謙遜するねー。まあ別に悪いことじゃないし私個人としても嫌いじゃないけど、さっきの部長の件と言い、それもこれも全部ちなつの実力あってのことなんだから。あんまり自分を下げてばっかいないで、もっと自己評価を見直した方が良いよ」
「はい、気を付けます」
何だかこんな説教を、以前後輩に垂れたことがあったような。その時のことを思い出して、ちなつはこっそり苦笑した。今にして思えば、曲北に来て日が浅かった頃のあの子も今の自分と似たような心境だったのだろう。あの時は随分と偉そうなことを言ってしまったが、後になって彼女に自分の進むべき道を大きく変えられることになるなどとは、当時思いもしなかったことだ。あの頃の自分のままだったらきっと今、自分はここに立っていなかった。その紙一重とも言える己の選択がもたらしたものの意味を、改めてちなつは思い知る。
「ところでなんですけど、この学校って部活以外の学校生活はどういう感じなんですか?」
「学校生活かあ、まあ普通っちゃ普通だよ。ただ校則がめちゃくちゃ厳しいし、寮の門限もある上にウチらには部活もあるから、放課後のバラ色青春ライフみたいなのは期待しない方がいいかもね。せっかく
「まあ、そこは大丈夫ですかね。元から三年間は遊ぶ暇も無いだろうなって覚悟してましたし」
「ほっほう。最初っから覚悟が出来てるのは感心だ」
にひ、と向けられた香苗の笑顔はどこまでも朗らかだった。けれどその裏側には、幾多の困難を乗り越えてきた彼女の揺らがぬ自信という名の輝きがびっしり込められているみたいで、直視したちなつはそれを眩しいと思ってしまう。
「それに招待演奏だ何だってあちこち出張することになるから、バタバタしてるうちに一年また一年ってあっという間に過ぎてっちゃうと思うよ。時々海外にも行くし」
「凄いですよねそれ。私も受験前に色々調べてビックリしました」
「そういう経験が出来ることも含めてのウチだからさ。せっかく入ったからには目いっぱい頑張って、目いっぱい楽しみなよ。やる気のある子には絶対に頑張っただけの見返りがあるのもウチの良いトコだから」
「はい、助言ありがとうございます」
お礼を言いつつ胸の内でこっそりと、ちなつは香苗の言葉に同意する。目いっぱい楽しむ。それは自分が音楽をする最大の理由であり目的の一つだ。本気で楽しいことをするのには、時として苦しさと向き合わなければいけないこともある。辛いことでも歯を食いしばって取り組まなければいけない時だってある。けれどそれらの艱難辛苦はあくまで越えるべきハードルでしかない。越えて満足して終わりなのではなく、また超えた先に必ずしも求めたものが待っているという保証もありはしない。だからこそ過程を楽しむことは大事なのだ。それでも自分が前を向いて歩き続けるための、言わば自分自身を鼓舞する原動力として。
そう思えるようになったのは、数々の素晴らしい思い出のおかげ。たくさんの人たちのおかげ。そしてあの子の、黒江真由のおかげ。だからこそ、とちなつは思う。ここで目いっぱい頑張って目いっぱい楽しんで、そしていつかどこかであの子に再びまみえた時、私はこんなにも音楽を楽しめてるよ、と伝えたい。自分が新しい何かになるまでの手掛かりをくれたあの子への、自分に出来る最大級の恩返しとして。
「お、見えてきた」
駅を出てから交通量の多い大通りを歩くこと十数分。道路に沿って立ち並ぶビルの影に、とても大きな白亜の建物が見えてきた。少しずつ近づいてくるその建物を前に、ちなつの心臓がトクトクと早鐘を打つ。ここで自分はこれからの三年間を過ごす。そして三年後の自分はきっと、今のそれともまた違う何かに変わっている。果たしてそれが望み通りのものであるか、それとも違うものであるか。それはその時になってみなければ分からない。だが今は思い悩んだって仕方がないことの筈だ。だって自分はもう既にここに居て、今からその道を歩み始めることになるのだから。
「お、やってんなー」
香苗の呟きは恐らく、建物から漏れ聞こえる種々の楽器の音を指していた。その音色にちなつは安堵すら覚える。そうだ、どんなに離れた場所まで来ても、どんなに見知らぬ人たちに囲まれても、音楽の在りようは変わらない。それがある限り、ちなつはちなつでいられる。例え家族や友達と離れ離れになっても、たったひとりきりでこの道を歩まねばならないのだとしても、傍らにはいつも音楽がある。ユーフォがある。それこそがちなつの心の支えであり、人生の杖なのだ。それはこれからもずっと、ちなつがちなつであり続ける限り。
「さあ、正門到着。っというわけで、ここがちなつの母校となる私らの学校だよ」
前を歩いていた香苗が振り返り、大きく両手を広げる。校舎正面の上部、そこへ飾られた校名のオブジェを目に灼きつけながら、ちなつは香苗の大きな声を全身に浴びた。
「
ここからちなつの新たな人生が始まる。
それはきっと、希望に満ち溢れた未来へと向けて。
或いはまだそうと知らぬいつの日にか、ここで迎える新たな彼女たちの再会、その瞬間へと導かれるようにして。