あの子が何かになるまでの ~曲北中学吹奏楽部のインテルメッツォ~ 作:ろっくLWK
「……ごめんくだ、さい」
そろりと玄関ドアを開け、ゆりは内部の様子を慎重に窺う。一応インターホンは鳴らしたのだが、しばらく待っても相手の反応が無かったもので、やむを得ずドアノブに手を掛けてみた次第だ。不用心にも鍵は掛かっておらず、訪問先のドアはあっさり開いた。
「あの、ごめん下さい?」
玄関の内側へは立ち入らず、その位置からもう一度奥へと声を掛けてみる。ふわん、と鼻腔をくすぐる他人の家の匂い。けれどどこか嗅ぎ慣れた感もあって、ああこれはあの子の匂い、とゆりの胸に何かが沁みる。けれども待てど暮らせど、家の人が出てくる気配は一向に無かった。
もしかして、お宅を間違えてる? ゆりは一旦ドアを閉め、玄関脇の表札を再確認してみる。
「えっと、あそこの信号のある交差点から曲がってきて、児童公園を右手に見ながら左に曲がって、そっちに大きい松の木のある古い家でしょ。んで向かい路地の三軒目のここが白壁のお家だから……絶対合ってるよね、ここで」
でも、とゆりは一度考え直す。佐藤なんて苗字、この世にありふれている。例えばこの地図の書き方が僅かに誤っていたか何かで、本命のお宅はこの『佐藤さん』ではなく実はもう一軒隣の『佐藤さん』だった、なんて事態だって確率論的には無くも無い話だろう。だったらどうする? もう少し待つ? それとも他をあたってみる? 様々な可能性を考えてゆりが悶々とし始めたその時「お待たせー」と、家の奥から誰かがこちらへ近づいてくる気配があった。
「あー良がった。パッと見ドア閉まってたもんだがら、帰っちゃったかと一瞬心配ンなったで」
ゆりが再びドアを開けたのと時を同じくして、ぎらん、と廊下の角から真四角いメガネが光を放つ。こちらへ近づくだに露わになってきたその風貌は、ちゃんと
「ごめんごめん、トイレさ入っててすぐに出れねがった。誰も出ねくて、ここで合ってんのかな、って不安だったべ?」
「ううんそんな。……あー、ごめん、ちょっとだけ」
「んだべ、初めて来る家なんだし。何にしても無事に辿り着いて
ふう、と和香が安堵の溜息を洩らす。本来ならば彼女と近くで待ち合わせるかいっそ迎えにでも来てもらえれば安全確実だったのだろうが、今日の和香には「家で荷物受け取りの留守番
「玄関で立ち話も何だし、とにかく上がって上がって。大したモンは用意してねえけど」
「あ、うん。へば、おじゃまします」
少し高鳴る胸の音を呼吸でごまかしつつ、靴を脱いでおもむろに佐藤家の床を踏みしめる。転校五年目の秋。この日ゆりは、秋田で出来た最初の友達の家に、初めてお呼ばれしたのだった。
『ところで今度の休み、ウチさ遊びに来ねえ?』
ほんの数日前の、和香と並んで夜の街を歩いていた下校時。渡っていた橋のど真ん中ぐらいのところで彼女から切り出されたそのお誘いを、ゆりはほぼ即決で快諾した。返事こそ控えめな態度ではあったものの、実に五年ぶりとなる、それも秋田に来て初めての友達と交わした遊びの約束。それにゆりが浮き立たなかったわけがない。当日何着て行こう。どういう話題を用意しておこう。おみやげの品があった方がいいのかな。そんなふうにあれこれ気を揉んだりもしたけれど、「手ぶらでいいから遠慮せず来い」と気前の良い言葉と共に和香から例のメモを渡されたのが昨晩のこと。そして明けて本日、仔細はこれこの通り……というわけである。
「さ、何もねえけど、適当にくつろいで」
和香の案内で通された一階奥の日当たり良い洋室、恐らくはここが和香の私室なのだろう。壁紙、床と天井、学習デスクにベッド、カーテンに壁据付のフロート棚などなど、インテリアは全て白と黒を基調とするピアノカラーで統一されていた。少々ストイックさを感じさせるその色彩感もまた実に和香らしい。床一面に敷かれたアイボリーホワイトのカーペットは毛足が長くふかふかで、当然ながらゆりの自宅の畳敷きとは全然違う触り心地だ。これ使って、と目の前にダークグレーのクッションをぼふんと置かれ、ゆりは和香にお礼を言ってそこに腰を落ち着ける。
「ちょっと待ってれな。今ジュースとか持ってくるから」
「え、そんな、いいよいいよ。私も手ぶらで来ちゃったんだし、どうかお気遣いねぐ」
「ンなワケに行かねえべって。ゆりはお客さんなんだからさ、何もおもてなしさねえば私の方が都合悪ぐなっちゃう。まずゆっくり
「あ、ハイ」
ぱたぱたスリッパを鳴らしながら和香が部屋を出ていく。改めてしげしげと室内を見渡し、そこにある何もかもが自分の部屋とは違うことを再認識して、ふうー、とゆりは少し重めの吐息をこぼした。
部屋の主であるところの和香本人とはあれから学校や部活で交流を重ね、今ではそこそこフレンドリーなやり取りも問題なく出来ている間柄。だと言うのに、その子の家にいると思っただけでこれほどまでに緊張してしまう。こんなふうにドキドキしていることが和香にバレたら、「変なヤツ」とでも思われてしまうだろうか。でもそうなってしまわざるを得ないぐらい、友達の家に上がり込むだなんて本当に久しぶりのことだった。昔は何の違和感もなく普通に出来ていたことの筈なのに、たった数年機会が無かっただけで、もうこんなに緊張する体質になってしまっている。これもブランク、と呼ぶべきものなのだろうか。ゆりには何とも言えなかった。
「お待たせー」
そうこうしているうちに、和香がジュースやグラスを乗せたお盆を手にして戻ってきた。
「私のいねえ間に、なんか面白いもんでも見っけた?」
どき。ゆりの心臓が大きく縮む。まさかきょろきょろしていたところを見られていた、いや、監視カメラか何かに撮影されていた? 泡を食ったゆりを可笑しがるように、お盆を二人の中間に置いた和香が「ふふふ、」と吐息を震わせながらそこへ座る。
「目がなんかもう、面白そうなモン探してる色してたもんでさ。ゆりの興味を引くモンがあったかは分がんねえけど」
「あ、ううん、別に何も。じゃなくてえっと、あそこの棚にある本とかすごいなあって思って」
実際にそこへ目を向けながらゆりは答える。机の隣の壁一面へ据え付けられた幅一メートルほどの巨大なボックス棚、その大半はズラリと立ち並ぶ音楽関係の教本やらマーチングの特集誌やらでほぼ隙間なく埋め尽くされていた。
「ああ、これ? 私がマーチング始めた時に親さ買ってもらってさ、んで毎月買ってくうちにだんだん溜まってったの。マーチングのはアメリカの大会特集も映像付きのがあってさ、小学校でドラムメジャーになった時はイメージ作りの為に毎晩毎晩観てらったなあ」
「へえー」
「マーチングって定番のムーブ以外に流行り廃りもあるからさ。指導の仕方とかも結構奥深いし、感覚論だけだとなかなか思ったように出来ねえことも多くて。んでその手の本を見掛けたら片っ端から買い集めてくうちに、気付けばこんなんなっちゃってたんだよね」
「そうやって積み重ねてきたからなんだね、練習中の和香のあの指導の上手さって」
小学生時代のみならず、和香は全国強豪の曲北でも昨冬よりドラムメジャーを務めている。それは彼女のドラムメジャー経験を見込まれての人選ではあったのだが、この光景を目にしてあの時の部員たちの判断に疑義を呈することのできる人間はいないだろう。持って生まれたセンスがどうとかではなく、弛まぬ研鑽と積み重ねでもって相応の地位に立っている。和香はまさしくその典型であると言えた。
「お世辞言ったって飲みもんぐれえしか出ねえで。オレンジジュースとアイスコーヒーあるけど、どっち飲む?」
「あ、したら、コーヒーで」
「へばシロップとクリームは好みで入れて。あとこれは、つまみのお菓子」
どん、とカーペットの上に和香が直置きしたガラス製の菓子鉢の中には、クッキー、一口チョコ、バウムクーヘン、といった個包装の洋菓子がたっぷりと詰められていた。彼女の家では来客用にこんなものまで常備しているのだろうか? とゆりは些か物怖じしてしまう。さりとてもしも今日この日の為にわざわざ買ってきてくれたものなのだとしたら、それはそれで申し訳なく思ってしまうのだけれど。
「メチャクチャ美味しいヤツだから期待してて。ところでだけど、テーブル無しでも大丈夫? 私、地べたさ座る方が窮屈さねくて好きだもんでさ。もし不便だってんだば、あっちから折り畳みのやつ持ってくるけど」
「ううん、大丈夫。
「そンたに固くなんねったって良いって。
とぽとぽ、と二つのグラスにそれぞれコーヒーとオレンジジュースを八分目まで注いだ和香が、中身の黒い方のグラスをゆりへと差し出す。それを手にして、ゆりは胸の前に控えめにグラスを構えた。
「それでは、遅くなっちゃったけどコンクール東北大会金賞と、我らが秋山ゆりの覚醒を祝しまして、」
「いや、私の方は別に祝さねっても良いがら」
「まあまあいいべった、お祝い事はいくつあったって。というわけで、乾杯」
「……乾杯」
チン、とグラスを重ね合わせ、二人はちびちびと口をつける。ボトルのラベルからしてこのコーヒーは恐らくどこにでもあるような市販品の筈だが、この家の雰囲気がそうさせるのだろうか、やたら高級品をいただいているような気がしてしまう。一度グラスをお盆に戻した和香が、んーっ、と両の手を高々と掲げて大きく伸びをした。和香が着ている薄手のシャツの表面に、そのスタイルの良さがこんもり浮かび上がる。
「にしたって、久しぶりのオフだなあ。前回の全休日っていつだったっけ。花火とその次の日の二日間?」
「確かそう。後はコンクールに土日の練習にって、一日まるまる休める時は無がったもんね」
喋りながら、ゆりはこれまでの日々を振り返る。コンクールが終わってから概ね三週間。この間の吹部は日々の練習に招待演奏に文化祭への準備にと、本当に走り通しだった。
「夏休み後半がお盆と花火で部活休みになる日多いから、あそこでいっつも感覚狂うんだよなあ。なんか秋なれば毎年忙しくね? って。まあでも今年はこうやって今日明日が休みになった分、まだマシなんだべどもな」
「ンなんだがもね」
部屋の壁に掛かったカレンダーに、和香とゆりは二人揃って目を遣る。九月二十二日。赤文字で記された日曜日の今日と祝日の明日、吹部顧問の永田は部活を休みとした。
『……最近部内で色ンた事も起こってらし、ここら辺でお
予定外の連休発生だなんて、多忙が当たり前の曲北吹部ではめったにあるものではない。部員一同、この僥倖を喜びたい気持ちはやまやまながら、しかし吹部の現状を鑑みると決して手放しで喜べる気分にはなれなかったのも確かだ。
「永田先生、配慮して
「多分な。それにちなつも動きずくめでまともに休む時間も
「私も何も聞いてないけど、でも、無いとも言えねえんだかもね」
ゆりはふと、先日廊下の端に見掛けたちなつと日向の実に疲れ切ったような横顔を思い出す。吹部の日常的な活動や役職相応の仕事に加え、今回の件でも率先して主導的に働き続ける彼女たちに圧し掛かっているであろう負担量は、自分を含めた他の一般部員たちの比ではない。だがそれはそれとして、日向の直訴云々の件については当人たちも否定していたことであり、どこからそんな噂が流れ始めたかすら杳として知れなかった。
「頭の痛い問題だよねえ。和香だって、練習の合間縫ってちなつ達と一緒に対応策練って直接説得に当たりに行き来して、って大変だったべ?」
「全然。私なんかは自分と相手の子の相性考えて、そんで話の出来そうな子さ当たってみてるだけだからさ。ゆり達ヒアリング班が集めた声もあるからある程度絞り込みは出来てらし、それに何だかんだ言ったって、説得役の負担割合はちなつ五割で日向が三割強、私は残りのちょっとだけ、って按配だしね」
「私たちだってそんな大したことはしてねえよ。ただサックスの後輩から離脱した子と、あとはちょっと内向的な感じの子たち何人かから色々事情聞いたりしてるってぐらいで。あの子たちを私が説得できるかって言われれば、そんな自信も全然無えし」
サックスパートから独立組に転じた都合何名かの後輩。彼女たちの言い分は人によりまちまちであった。自分の意見を通してもらえない。言える環境や窓口がそもそも無い。幹部たちのやり方がずるい。もっと伸び伸びと自由に音楽を楽しめる場所が欲しい。……その全てではなくとも、部分的にはゆりとて共感を覚えるところがあったのも確かだ。今回は聞き役に徹していられるからまだ良かったものの、もしこれでちなつや和香のように説得まで行わなければならなかったとしたら、きっと自分は後輩たちの言い分にほだされて何も言えなくなってしまっただろう。
「まあゆりにはゆりの、私には私の役割があったってわけで、お互いお疲れ様ってコトだよ。ほら食べて食べて。せっかく持ってきたヤツ、飾ってらったって何もなんねえし」
「へば遠慮なく、いただきます」
和香に勧められるがまま、ゆりは何気なく選び取ったクッキーの個包装をぴりりと切る。
「そう言えば今日は、説得交渉の慰労会も兼ねてらったんだっけね。大会だなんだの他に」
「んだんだ、何事も切り替えは大事ってね。せっかくの休みなんだし羽伸ばせるときは羽伸ばすことさしっかり集中して、食べて飲んでゆっくり過ごそ」
「しっかり休むってのも、なんか和香らしいね。……あ、このクッキー美味しいー。すんげえサクサク」
見た目にも可愛らしいそのチェック柄のクッキーは、口に含んでみると実に香ばしい香りと旨味を帯びていた。焼き上がりも素晴らしく、表層こそ少し硬めだが噛めばふわりと砕ける絶妙な感触がまたたまらない。素直に感動の声を上げたゆりに、だべー? と和香が得意気な様子を覗かせる。
「このアソート、昔っからうちの母さんが大好きなやつでさ。コーヒーさもメチャクチャ合うで。試してみ」
「どこで売ってんの? こんな美味しいの。私食べたことなかった」
「市内の洋菓子店で作ってこの辺のスーパーとかさ卸してんだけど、まあまあ数が限られててさ。普段なかなか食べれねえんだよねー。私がおやつにリクエストしたってダメー、って言われるぐらいで」
「ええ? したらこれ、けっこう貴重なヤツだったんでねえの。良かったのかな、私なんかが食べちゃって」
「良い良い。きちんと母さんからも許可もらってらし、それにこういうのって、お客さんが来た時こそ食べねえば逆に勿体ねえモンだべった。これを食べてえが為にゆりをウチさ呼んだまであるし」
「えー何それー、私いいダシに使われてんじゃん。――ふふっ、」
ついつい口を衝いて笑いがこぼれてしまった。と、それを見た和香がふんわりと顔を綻ばせる。
「良がった。やっとゆり、笑ってけだ」
「え?」
「だぁって、ゆりってば家さ上がってからずっとカチコチなんだもん。どっか落ち着かねえっつうか、ソワソワしてるふうで。そしたらコッチだって申し訳ねえ気持ちンなっちゃうべ? 何か窮屈な思いさせちゃって悪りいなー、って言うかさ」
「あ、ああー。違うの、そういうんじゃなくて、」
和香に要らぬ心配をさせてしまっていたか、とゆりは両手をばたつかせて否定する。
「ただ私もさ、ホラ、秋田に来てからずっと友達っていう友達いねがったモンだがら。あと元々内気な性分だし、何するにしても割と探り探りだもんで、だからそれで、なんか友達ん家で過ごす感覚がまだうまく掴めながったっていうか」
限りなく本音に近いことしか言っていないのに、それがどうにも言い訳がましく思えて、ゆりは少々ならずまごついてしまう。確かに和香に指摘された通り、気兼ねなく寛ぐという段階にまではまだちょっと至れていないのも事実だ。
「とにかくそういうことなんで、ホント和香は気にさねえで。慣れてくれば私も普通にしてられると思うし、それに和香のお部屋キレイだなーっていうのもあったがら、それでつい気が引けちゃって」
「キレイ、
いかにも不思議そうに、和香がきょろきょろと室内を眺め回す。これでズボラと言われてはこちらの立つ瀬がない、とはその時ゆりが抱いた心底からの屈託だ。
「そう言うゆりの部屋はどンた感じなの?」
「うちは借家だからさ。部屋もけっこう古めの和室で狭いし、机もこんな立派なのじゃねえし、ベッドも無くて布団敷きだし」
そのせいでなのだろう。和香の家と自分のそれとでは、かなりの格差を覚えてしまうものがある。この部屋にしてもそうだが玄関にしろ廊下にしろ、洋風ベースの建築はどこもかしこも設計者の意識が細やかに張り巡らされてあって、例えばランプ一つにしたっていやらしさの無い上品さを醸し出している。他、廊下の宅電やチラリと覗いたリビングの様子などなど、インテリアの品々にはそれを選んだ家人のセンスの良さを存分に感じさせるものがあった。落ち着かないこと以上に、ここに居る自分の場違い感がどうにも歯痒い。和香の家に来た時から今に至るまでずっと、ゆりはそうした思いを拭えずにいた。
「そういう部屋もいいと思うけどね、落ち着いてて。この部屋もさ、前はうちの祖母ちゃんが使ってた和室でね。一昨年祖母ちゃんが
「へえ」
和香が正座っぽくしていた足を崩して人魚座りの体勢になる。ゆりもまたそれに倣うようにして、両の足先をぺたんと横に広げる女の子座りの恰好を取った。
「その当時の二階の部屋っていうのがまさに、ゆりの部屋みでンた感じで。和室ではねえんだけど四帖半ぐれえのホントに狭え部屋だったし、夜んなれば自分で押入れから布団出して敷いて寝て、んで朝起きたらまた押入れさ仕舞ってっていう」
「意外ー。和香ってずっとベッドじゃねがったんだ」
「全然。学校帰りに友達連れて来たって、二人も入れれば限界で。ンなもんだがら当時はけっこう抵抗あったんだよね、友達とウチで遊ぶの」
「ちょっと分かるかも。私はまず友達が居ねがったからアレなんだけど、じゃあ今連れてきて部屋さ通すってなったら、やっぱりちょっと気後れしちゃうだろうし」
「でもそういう暮らし方もキライでねがったけどね、私の性分さは合ってた気もする。んだもんでさあ、これがまた笑い話なんだけど」
「なになに?」
「祖母ちゃんの部屋を改装してオメエの部屋にする、って親さ言われて、私も最初はウキウキで色々決めてったのね。カーテンはこれとか、ここにこういうの欲しいーとか。んで、いざ改装終わってこの部屋さ入って夜にベッドで寝たっけ、ナンボ経ってもしっかり目ぇ瞑ってても全っ然寝付けねくてさ。なんでー? って。しょうがねえからその日は前の部屋さ戻って、結局いつもの布団で寝たワケよ。信じられる? ベッドも掛け布団も自分で選んどいてだで」
「あー、でもなんか、あるあるかも」
くすくす、とゆりは唇を震わせる。彼女と同じ経験があったわけでは無かったものの、枕が変われば寝られないという話だってあるぐらいだ。それに類する気持ちは自分にも分かるような気がした。
「机だって今でこそこんなブラックボードのでっけえのだけど、前は小学校の入学祝いで祖母ちゃんさ買ってもらった
「あ、見たい。迷惑でねがったら、後でお願い」
「迷惑だなんて、んなワケねえべった。友達なんだし」
「ともだち、……うん。ンだよね」
改めて言われると、何とも気恥ずかしい。和香とは入部以来三年間、最低限とは言えそれなりの接触の機会があったというのに、ついひと月ほど前までは彼女を「友人」というカテゴリの中に括れていなかった。恐らくは向こうからも。それが急展開を迎えてからのここ一ヵ月足らず、本当にそのたった一ヵ月足らずで今は互いが互いを友達と呼び合い、こうして相手の家へお招きされるまでに至っている。本当に、人間ってどうしてこうも単純なのだろう。『自分には絶対壊せない』と思い込んでいたその壁を壊すのなんて、こんなに簡単なことだったというのに。
「そ、それにしてもさ。和香ん家って立地もいいとこだよね。すごく落ち着いたトコで」
急に照れくさくなったゆりは話題を逸らすべく、窓辺に映る外の景色を眺めるフリをする。けれど実際、和香の家周辺は極めて閑静な住宅地と言って良い趣きだ。ここから曲北までは歩きでだとゆうに一時間は掛かるだろうか。ゆりの住まいからも少し離れてはいるものの、親の車などで通り過ぎることはあったし同じ小学校の学区内ではあるので、この辺の土地勘も全くのゼロというわけではない。ただ特に用事も無かったこの周辺へ、ゆりが自発的に訪れる機会は土地勘と同じくらいにほぼ皆無だったのだけれど。
「まあこの辺はなあ。なんか昔っからの住宅地で、代々住み続けてるって家も多い
「でもそれって、いわゆる一等地ってやつなんでねえの? 私も土地の価値とか何かなんて全然詳しくねえけど、大きい病院も高校も割と近えトコさあるし、暮らしに不自由するほどではねえよね」
「それはンだな。まあ買い物の件にしたって、その気になれば歩きでだって行けねえことは無えし」
その点、我が家は雑然とした路地の入り組む住宅街ど真ん中のくたびれたあばら家で、おまけに庭という庭も碌に無い平屋建て。和香の家とは本当に何もかもが違う。そのことを、ゆりは改めて痛感させられる。
「でもその分古い家とかお年寄りの人も多くて、出入りする時は何かと気ぃ遣わされること多くてタイヘンなんだよね。ま、ウチは元々祖父ちゃん祖母ちゃんが二人で住んでらった時は古い建物で、私らが移住するのさ合わせて十年以上前に一回リフォームしてらがら、今でこそこンた感じにはなってんだけどな」
「へえー。和香とご両親って、元はこことは別の所さ住んでらったんだ」
「当時の記憶は全然無えんだけどね。私が生まれるまでの頃は、同じ市内ではあるけど夫婦で集合住宅さ入ってらったんだって。それが私が生まれて、せっかくだしみんなで暮らすべってことンなって、んで母さんの実家だったココさ入ることにして――ってなカンジ」
「ええっ? せば和香のお父さんって、ひょっとして入り婿さん?」
「それが、ンでねえのよ」
ふと沸いたゆりの疑問を、和香が大仰に手を振って否定する。
「うちの父さんって
ふんふん、と合間合間に適度な相づちを打ちつつ、ゆりは和香の話に聞き入る。
「それが孫との同居って名目が出来て、一緒に暮らせた方がお互いメリットあるってことで、話を通しやすくなったんだべな。それから何年かして祖父ちゃんが、一昨年には祖母ちゃんが亡ぐなっちゃったがら、結果的にはここも今は父さんの苗字の『佐藤家』になってんだけどね。それまでは母さんの旧姓の
「はー。そんなの全然知らねがった」
人に歴史ありとは言うが、家族にもまた歴史があるものだ。そのことをしみじみと、ゆりは実感する。
「つまり苗字は変えねえで家だけがお母さんの実家に三世代で暮らしてたってことだがら、いわゆるマスオさん状態だったんだ、和香ん家のお父さんって」
「その例え方。私だからギリ通じるけど、下手したら他の子には伝わんねえで」
「うわ、そっか。今度から気を付ける」
「ところで家のことって言えばさ、うちの吹部の二年に
「あー、いるねえ。あのちょっと髪の毛モジャっとしてる」
彼の噂は勿論ゆりとて色々と聞き及んでいる。音楽の英才教育を受けてきたとか、けれどとんでもない人格破綻者だとか、生意気言って先輩を泣かせただとか。彼の詳細な人となりを知っている訳では無いので何とも言えないが、それでも自分に負けないぐらいには人付き合いが悪くて不愛想な子だな、とはあれこれ見聞きする中で思っていた。彼に関するゆりの絶対的な認識はただ一つ。圧倒的にトロンボーンの上手な子であること、それだけだ。
「アイツん家ってさ、実はうちの町内なんだよ。こっからすぐ近く」
「へえ、そうなの? したらもしかして、和香と草彅クンって幼なじみってやつ?」
「小っちぇえ頃からの顔見知り、って意味ではその通りなんだけどさ。一括りに同じ町内の子供っつっても全学年合わせりゃけっこうな人数いるし、アイツとなんて一回も遊んだこと無がったよ。そもそも草彅ってあンた感じのヤツだから、町内会のお祭りだとか家族参加の食事会とか、そういうのさも全く顔出さねえんだよね。親御さん達は至ってフツーな感じの人なのにさ」
「なんか想像つかねえ。あれ、でもそうすれば草彅クン、実は私たちと同じ
「んだよ。さてはゆり、知らねがったな」
くふ、と口元を綻ばせた和香が菓子鉢のアソートからカットバウムを一袋取り出し、慣れた手つきで封を切って「あんむ」と中身を口に放り込む。
「アレも園小でマーチング部さ入ってて、その頃から今と同じく有名人。ンだもんでアイツが何かやらかせばすぐ、周りの連中とか先生方からせっつかれるわけ。オメエあれの幼なじみだべ、何とかせえ、って何故か私がさあ」
「うわあ、それはしんどそう」
「もうジョーダンばっかし。幼なじみったって町内が同じってだけだで? たったそんだけの関係性で、あの問題児の面倒なんかそこまで見てれるワケねえべ、っつうのよ」
「あははは、確かに」
愉快な話にひとしきり笑声を上げたゆりは、はたと現状を振り返る。なんだかずいぶん会話のテンポが弾んでいる。さっきまで感じていた肩身の狭さも今はもうほとんど感じないし、それに何より、和香と二人きりでお喋りするこの時間が楽しくて仕方ない。数年ぶりに味わった、同い年の子と何らの気兼ねなく過ごす、本当に何気ないこのひと時。それは間違いなく、凝り固まった錆びのように長年膠着していたゆりの対人コミュニケーション感覚を溶解させつつあった。
「……んで結局そうやって、多数決で私が園小のドラムメジャーんなったのね。メガネ掛けてて真面目そうだからーなんて、いかにも小学生の決め方だでなあ。
「確かにひどい。ンだけど、私の前いた小学校でもそういうのあったよ。児童会長さ選ばれた子の推薦理由ってのが、『なんか見た目に勉強できそうだから』だったし」
「その子の実際の成績は?」
「ビックリさねえでよ、全教科平均なんと40点。百点満点で」
「ええー。そりゃあ
二人できゃっきゃと興じる会話はあっという間に時間を過ぎ去らせる。けれど午前中からの訪問だったこともあり、現在時刻はお昼を回って小一時間、という程度。出掛けるのも何だし昼食は家にあるもので適当に、と和香が作ってくれた冷やし中華も大変美味しくいただいた。和香の両親も夫婦で近場の温泉地へ湯治に出ているため日中は不在とのことで、二人きりの楽しい時間にはまだまだ猶予があった。
楽しい。ひたすらに楽しい。今のゆりにとって、和香との交流に思い切り耽溺することは、渇き切った喉にありったけの水を流し込んでいるようなものだ。くだらない話をして笑い、好きなタレントや役者の話題に花を咲かせ、音楽や部活の話をして大いに盛り上がり、学校行事のよもやま話を交互に語らい。こんなに楽しいことがこの世にあったのかと思ってしまうくらい、今日のゆりはここ数年分ほど己の中に漬け込んでいたありとあらゆる感情を、それこそ一気に点火爆発させていたのである。
「ハー、笑った笑った。ゆりとの話がこんなに尽きねえだなんて思わねがったなあ。ひと昔前のゆりからは想像も付かね」
「ううー、それは言わねえ約束。しょうがないって。前は私、和香とどう接していいか分がんねがったんだもん」
「何で?」
「だって、和香ってクールだしお上品だし、それに、カッコいいし」
「カッコいい、なんてこと無いでしょ。もちろんクールでも上品でもねえけど」
「あるよー。和香ってドラムメジャーだし、
ゆりの目で見る和香とは、いつだってそういう子だった。冷静で思慮深く、それでいて自分みたいに引っ込み思案なわけでもなく、いざ人前に立てば必要な指示や声掛けをテキパキと周りの子たちに飛ばしてゆく。吹部の現在の部長はちなつであり、彼女にも確かに組織の長らしい才覚は備わっているのだが、牽引力やエネルギッシュな姿勢を旨とするちなつのそれとはまた異なるタイプのリーダー適性みたいなものを、和香は確かに有していた。
もしも昨年ちなつが推挙されなかった場合、彼女に代わって部長の座に収まった人物は恐らく和香か日向、この二人のうちのどちらかだったことだろう。それを裏付けるように、日向は姫小マーチング部の部長経験者、そして前年の和香は吹部二年生の総代であった。
「知的なんて、それこそメガネのイメージだべった」
そうではないことを自ら証明するかのように、和香はおもむろにメガネのツルに手を掛け、ゆっくりと外してみせた。
「私は普通だよ。ゆりとおんなじ、普通にバカ話してけらけら笑ったりもする、どこにでもいる普通の人間」
裸眼の和香にじっと覗き込まれ、ゆりは息を詰まらせる。きっと焦点は合っていない筈なのに、黒色の太陽みたく輝く彼女の二つのまなこは自分の心の底までも照らしてくるみたいな気がして、こういう状況にしばらく縁の無かったゆりの胸はざわざわと落ち着かなくなってしまう。
「私は特別でも何でもねえし、そういうのに憧れたりもしてない。自分のやりてえことは一生懸命やってるけど、それは好きだからだしさ。そんなの誰さだって一つや二つはあるんだし、ンだがら普通だよなって自分では思ってる。ゆりだってそう思わねえ?」
「んだね。でも、和香がそういう子で良がったなって思うよ。もし私の昔のイメージ通りの才女って感じの子だったとしたら、きっとこうやってお喋りして楽しく過ごすってことも出来ねがったと思うもん」
「それ言ったら私だって同じ。ゆりと接する機会は度々あったけど、どっからどう話せばいいんだべこの子、って思ってて、それで最初の一手を出し辛かったってのもあったし」
「お互いにそンた感じだったってことだよね。あーあ、もっと早くから和香とこうやっていられてたら、今頃もっと楽しい学校生活を送れてたんだかなあ」
どかあ、とゆりはふかふかのカーペットに寝転がる。喋り過ぎて笑い過ぎて、精神的にはまだまだ行けるが肉体的には幾分疲れたところもある。もしも「このまま寝ていいよ」とお許しをいただけたなら、一瞬でストンと眠りに落ちることだって出来そうだ。そうと思ってしまうぐらい、この時のゆりは完全にリラックスしていた。
「それなんだけどさ、ゆり」
ん? とゆりは身を起こす。和香の声色はそれまでよりも少しだけ低かった。
「前からゆりに聞きてえな、って思ってたことがあんだけどさ。もし言いづれえことなんだば無理して答えねえったって良いからね」
「聞いてみねえば分がんねえよ。何?」
「へば聞くよ。……ゆりさ、どうして園小ん時、マーチング部さ入らねがったの?」
とくん。その質問を浴びた瞬間、ゆりの心臓は何かに揺さぶられたような錯覚があった。
「キツい言い方に聞こえたらごめん。けど、今のが私の本心だがら。変に捏ねくるよりそのまんまを伝えた方がいいって気がして、あえてそのまんまでゆりさ聞いてみた」
和香が上体をこちらへずらし、一歩近付くみたいな感覚で距離を詰めてきた。ゆりは避けるでも寄せるでもなく、先ほどまでと変わらぬ姿勢で和香と相対し続ける。こうして和香に迫られることを、怖いとは思わなかった。
「私さ、こうなれて本当良がったなって思ってる。曲北でゆりと出会えて、三年目の今これだけ仲良くなれて。でも欲を言えば、もっと早くから友達になれてればな、って気持ちも今はあるんだよ。そしたら、そうなってたら、ゆりの悩んでたことだってもっと早くに何とかしてやれたんだかも、って」
「和香、」
「それが傲慢な考えだってのは自分でも分がってるよ。もし今言った通りのことになってたとしても、その時私は結局何もしてあげれねがったのがも知んない。ただの部員同士なだけでそれ以上踏み込めねくて、お互いの関係だってそのままで終わったりしてさ。でも、私とゆりは同じ小学校だった。なら今みたいになれるチャンスはそこかしこにあったんでねえのかって、どうしても考えちゃうの。そのチャンスを見失ってたのがホント勿体ねえって、今はそンたふうに思えて仕方ねくて」
シン、と室内が静まり返る。あんなにも賑やかさとほどよい温かさに包まれていた室内に、今は降雪前の秋風みたいな冷気が入り込んでしまったかのようだ。だがその涼やかさが、ゆりにはむしろ心地良い。
「ごめん、急に変なこと言い出して。さっき言った通り、言いたくねえことだったら言わねくて良いから。……さ、それより打ち上げ打ち上げ。どうせだしさっき言ってた二階の部屋でも見に行く? それか気分転換に二人してどっかその辺さ出掛けるのでも、」
「いいの。和香」
穏やかな声でゆりはそう告げた。ぴたりと口の動きを止めた和香が、浮かせかけていた腰を再び落ち着ける。
「いつかはこういう話もしようって思ってて。でもタイミング測るっつうか、そういう空気の時でねえと、って時期選んでたトコもあってさ。学校帰りに急にこんな話したって暗くなっちゃうだけだからね。だから今回和香の家さ来て、和香の方から話振ってくれて、助かったよ」
それは嘘じゃなかった。和香によって切り開いてもらえなかったらきっと、自分は適切な時と場面を見繕えないままで、いつまで経ってもこの話を出せずにいたことだろう。曲北を卒業するまでか、あるいは卒業してからもずっと。だから助かった。いつまでも自分の中に溜め込んでおいたら、この鬱屈としたものは次第に醜く膿み爛れ切って、そうしていつかの時のように爆発して方々へ撒き散らしてしまうかも知れなかったから。
「あんまり面白え話にはならねえかも知んないけど、でも、和香には聞いて欲しい。私が秋田に転校して来てからの話。私が、ひとりぼっちだった時の話。……聞く?」
「――うん。聞く」
近くにあったクッションを引き寄せ、それを抱いて和香は傾聴の姿勢を取った。いつか誰かに話したい。この気持ちを目の前の誰かに、ほんの少しでいいから理解して欲しい。そういう思いで五年間、ゆりはずっと孤独に過ごしてきた。今日ついに、それが叶う。和香という友達に、長らく秘めたこの思いを打ち明けられる。自らの過去。妹との経緯。つい先日も部分部分はちなつに語ったそれらのことを今日、ゆりはこの地で初めて出来た『友達』という存在に対し、包み隠さず全てを詳らかにしようとしたのだった。