あの子が何かになるまでの ~曲北中学吹奏楽部のインテルメッツォ~ 作:ろっくLWK
「わあ、また海。見てお姉ちゃん。ここにも海があるよ」
「こら
後部座席で妹が隣席の母に窘められている。父の愛車である大きなSUVの助手席。そこにうずもれるようにして、ゆりはさめざめと溜息を吐いた。海なんてそんなもの、もう何時間も前に見飽きていた。
こんなの見たくないのに。
見たい景色はこれじゃないのに。
私はずっと、ずっとあそこに居たかったのに。
彼女の手には今、沢山の品が握られている。大きな花束。色んな贈り物が入った紙袋。クラスや部活のみんなに書いてもらった寄せ書きの色紙。それら全てがお祝いのプレゼントだったらどんなにか良かったろう。だったら、だったら今、こんな気持ちにはならずに済んでいた筈だった訳で。……色紙の中心辺りに視線を落とし、そしてポツリとそこに、ゆりは一滴の涙を注いだのだった。
『秋山ゆりちゃんへ 思い出をありがとう
秋田でも元気に楽しくすごしてね 南小一同より』
父の仕事の都合で秋田に転居することが決まったのは、ゆりが小学校四年生の終わりを迎えた三月頭のこと。あまりにも突然過ぎる話に、当初ゆりの頭は理解が追いつかなかった。生まれ育った新潟を離れ、車で何時間もかかる遠い遠い異郷の地へのお引っ越し。それが衝撃的であったのは言うまでもない。初めての転居という未知の行為にある種の恐れを抱いていた節もある。けれどゆりにとって一番堪え難かったのは、一番悲しかったのは、今日までずっと一緒だった友達と離れ離れになってしまうことだった。
クラスのみんな。器楽部のみんな。よくしてくれたご近所の人たち。そういう自分を取り巻くもの全てから切り離され、見知らぬ土地で一からスタートを切らねばならない。嫌だと泣いて喚いても、残ることすら許してくれない。こんな惨いことを幼い自分に強いてくる大人の都合というものが、ゆりにはひたすらに憎かった。
「ねえお姉ちゃあん、もう泣かないでよお。そんなに泣いてたらお姉ちゃんのおともだちだって悲しくなっちゃうよ」
「だって、だってリサちゃんも史恵ちゃんも、あんな顔して行かないでって、」
「辛かったでしょ、ゆりも。仲良くしてくれてたお友達だったもんね」
「クラスもずっと一緒だったし、部活でも一緒だったんに、それなのに」
父の運転するSUV、その車内はゆりの流す涙のせいで、まるでお葬式みたいな空気だった。時々母が思いついたように慰めの言葉を掛けてくれるだけで、それもこちらの心の芯をちっとも捉えやしない。父は運転に集中するフリをしているのか、車中では殆ど声を発さなかった。そして妹はさっきからこの調子。誰も私の気持ちなんて分かってくれない。そういう気持ちにさせられることがまた、ゆりの嘆きを一段と増幅させた。
食。温泉。祭り。花火。それぞれに調べてきた転校先の良いところを、級友たちはお別れ会の席で次々と発表してくれた。それはともすれば担任と級友からゆりへの、今から見知らぬ土地に旅立とうとしている教え子に少しでも希望の花を、という粋な計らいだったのかも知れない。けれどゆりには他人からの施しにそこまで思いを巡らせられるほどの余裕も知恵もなくて、とにかく自分のことだけで頭がいっぱいだった。これからの楽しみなんて何一つ思い描けない。秋田に行って何をどうしたいかだなんて、聞かれたって答えられっこない。とにかく故郷との別れが、皆とさよならしなければならないことが辛くて悲しくて寂しくて、ゆりの胸は今にも張り裂けてしまいそうだった。
「ほらお姉ちゃん、また海だよ。お姉ちゃんも海見てげんきだそうよ。でっかくてキラキラしてて、とってもきれいだよ……」
お願い楓。いいからちょっと黙ってて。腕で顔を覆い、ゆりは憚らず嗚咽をこぼす。
けれど別にこの時は、まだ楓のことが憎たらしかった訳では無かった。楓は楓なりに悲嘆に暮れるゆりを気遣って、風光明媚な景色や変わったオブジェを車窓の向こうに見つけては、それらを種に姉を励まそうとしていただけに違いなかったのだ。それをゆりが受け止め切れなかっただけであって、妹のことは可愛い存在ではあったし、泣き濡れるその面相の裏側では心根優しい楓の気配りをちゃんと解ってもいた。
理屈を超えた姉妹の絆。あえて言うなればそういった何かで、互いはしっかりと結ばれていた。そう、この時は、まだ。
「支度できた? 忘れ物ない?」
「うん。多分、大丈夫」
転居から一週間。年度が替わって五年生となった春、ゆりは秋田で始まる小学校生活最初の朝を迎えた。転校先の学校の名は
「どうしようお姉ちゃん。私、きんちょうしてきた」
「大丈夫だよ楓。ホラ、お姉ちゃんが手繋いでてあげるから、今日から毎日いっしょに学校行こ」
「うん。お姉ちゃんといっしょ」
きゅ、とこちらの手を握り返してきた楓の掌は一歳下とは思えないくらい小さくて、心細そうにぷるぷる震えていた。そうだ、私はお姉ちゃんなんだから、しっかりしなくちゃ。不安なのは自分だけではない。仲良くなった友達と離れ見知らぬ土地で生活することになったのは、妹の楓だって同じなのだ。そういうことがこの一週間で見えるようになってきて、姉としての責任感からゆりは悲しみを乗り越えた。この時点ではつまり、楓がいてくれたおかげでゆりは憔悴状態から立ち直ることが出来た、と言い換えられるだろう。
「……えーでは続きまして、今日からこの学校にやってきた新しいお友達の紹介です。新潟県からやってきた秋山さんの家族、お姉ちゃんのゆりさんと妹の楓さんです。みんな、仲良くしてあげて下さいね」
「秋山ゆりです。新潟の
「秋山楓です。わからないことがたくさんなので、先生やお友達のみんなにたくさん教えてほしいです。よろしくおねがいします」
体育館での始業式の最中、校長先生の紹介で八百名もいる全校生徒へ二人揃って頭を下げ、それからクラスに振り分けられて楓もゆりも各々の教室へと向かう。教室でも短めの自己紹介をして、同級生たちの注目を浴びながらゆりは自分の席に着いた。担任は若い女の先生で、前いたところの担任は温和で話しやすいおばさん先生だったけれど、今回の担任は切れ長の目が特徴的な少し怖い感じのする人だった。
「出欠確認は以上。では今日のこの時間ですが、進級してクラス替えを行って一日目なので、今日はクラスのみんなで
「はーい」
前の席から回ってきたプリントを、ゆりはじっと眺める。お題目。名前の欄。誕生日や血液型の欄。そしてPRポイントを書き記すための大きな枠。紙面上の印刷は以上のような構成となっていた。
PRゲームのルールはこうだ。名前の由来でも特技でも好き嫌いでも何でもいい、PRの内容が多ければ多いほど加点され、更にスピーチの内容が良かったと担任が認めればボーナス点が付与される。そして一位を取った子は担任からお褒めの言葉をいただき、みんなの前で表彰され、後ろの黒板にしばらく名前を飾られる。それは何のことは無い、よくある初顔合わせの自己紹介をゲーム形式にすることで、年端もゆかぬ児童たちにも取っつきやすくしただけのものだった。
「へば出席番号一番の赤川くん、自分のPRポイントを発表して下さい」
「はい」
返事をして最前列の赤川が席を立つ。本来二番目であるゆりの番は転校生だからということで最後に回され、他の子たちが順々に立ち上がってはそれぞれの自己紹介を済ませてゆく。どうやらこの学校にはマーチング部があるらしく、活動内容は概ね前の学校の器楽部と変わらないものであるようだ。ここでもマーチング部に入ってみるのもいいかしらん。そんな楽観視をゆりは抱いていた。
――これも今更の話ではあるのだが、この催しも実のところは半分以上、担任の配慮によって殆ど即興的に組まれたものであったのだろう。転校してきたばかりのゆりが早く新しい環境に馴染めるよう、他の児童たちの顔と名を覚えさせるため、あくまでもクラス替えによる初顔合わせを建前にして。
「へば最後、秋山さん」
「はい。え、えっと、秋山ゆりです。得意な科目は算数で、三年生の時に一回だけ掛け算の早解きテストで一位になって、学年集会で表彰されたことがありました。前の学校では器楽クラブに入ってました。得意なことはがんばること。好きな色は虹色です。私の発表は以上です」
ぱちぱち、と級友たちから拍手が浴びせられる。手元のPRシートにしたためた記述を見ながらの発表にはなったが、どうにか無難にはこなせたようだ。安堵の念と共にゆりは着席した。と、ちょうどそのタイミングで、授業時間の終わりを告げるチャイムの音をスピーカーが鳴らし始める。
「二時間目はこれで終わりです。次の時間は教科書配りと連絡をして、学級委員や係の決め方をやります。四時間目は短縮で帰りの会をして……」
担任が事務的なペースで淡々と連絡事項を並べ立ててゆく。いよいよだ。机の下で小さな手を握り締め、ゆりは緊張を新たにする。ここから休み時間中にクラスの子が話しかけてきて、二人三人と友達が出来て、そこから自分の新しい毎日が始まる。それは期待でもあり不安でもあった。大丈夫。新潟でも楽しいことはたくさんあった。だから秋田でも、きっと大丈夫。そんなふうに己に言い聞かせ、ゆりは教室から立ち去る担任の姿を見送った。
……キーン――コーン――カーン――コーン……。
「今日はこれでおしまいです。明日から普通の授業が始まりますので、忘れ物などしないように」
「はい!」
「みんな、気を付けておうちに帰って下さい。それでは起立、礼」
「先生さようなら!」
「はい、さようなら」
やけに長く重いチャイムの音が校舎中に響く。これを区切りに担任が教室を後にし、それから嬉々としてクラスの子たちが我先にとランドセルを背負いだす。今日一緒に遊ぼー。どこ行って何するー? そんな声が方々から飛び交う中、ゆりは机に座ったまま、凍り付いていた。
……あれ?
いつの間にか、今日の時間割は全て終わっていた。いや、決して眠っていた訳でもなければ意識を失っていた訳でもない。一時間目に体育館で始業式があって、二時間目はPRゲーム。三時間目は教科書と家の人向けのプリントなどたくさんの配布物を受け取った他、五年生となった今年から始まる委員会決めなどもあった。そうして四時間目の短縮授業は帰りの学級会があって、お昼前に下校となって。――全部ハッキリと覚えている。担任が言っていた時間割とも何一つ違えていない。だがその間一度として、たったの一人ですら、ゆりに話しかけてくる子はいなかった。
おかしい。どうして? なんで誰も話しかけて来ないの? 震える手で新品の教科書を一冊ずつランドセルにしまい、それを背負って「また明日」と教室を後にする。ばいばい、の一声すらも、誰からももらえない。そのままとぼとぼと廊下を歩くうち、気付けばゆりは内履きのままで校舎を出ていた。振り返り、ゆりはさっきまで自分がいたところを確認する。これから通うことになる新しい小学校、その学び舎たるコンクリートの建造物はゾッとするほど大きくて、怯え切ったゆりにはあまりに不気味過ぎる存在だった。
「ただいま……」
二十分かけて家に帰り着き、玄関の扉を開けたその時も、ゆりの顔面は未だ真っ青なままだった。おかえり、という親の声もなんだかよく耳に届かない。そのまま廊下を抜けて自分の部屋に入り、ランドセルを机の上に置いたゆりは黙って椅子を引いてそこに座り、その姿勢から真っすぐランドセルに突っ伏した。
あれ。友達って、どうやって作ればいいんだっけ。
わからなかった。小学校に入った時、自分はどうやって友達を作ったのだ? リサは? 史恵は? 彼女たちと自分の出会いってどうだった? 最初に話したのはどんなことだった?
わからない。何も思い出せない。頭がまっしろで、みんながどうして自分のそばにいたのか、いつからだったのか、なにをどうしゃべっていたか、それもなにも、おもいだせなくて。
「ゆり。ゆり?」
友達って、当たり前にいるものだと思ってた。みんなで一緒のところにいて、隣同士でお話をして、そうしていればいつの間にか、勝手に友達になれるものだと思っていた。でも、そうじゃなかった。ここではそうじゃなかった。待ってるだけじゃ、だれも自分のところに来てくれなかった。じゃあどうやって? トモダチをツクルには、どうやったらいいっていうの?
「ゆり。ゆりってば!」
「――あ、」
「もう。どうしたの、帰って来るなりまっすぐ部屋入ったかと思えば、ランドセルを枕になんかしちゃって」
母が心配そうな顔でこちらを覗き込んでいる。いけない、とゆりは直感した。今回の引っ越しでも一番多くゆりを慮る声を掛けてくれていたのは母だった。そんな母に心配を掛けたらダメだ。だって自分は、お姉ちゃんなのだから。
「何でもない。歩くの、ちょっと疲れちゃっただけ」
「そう。まあ初めての道だったことだし、最初の内はしょうが
安堵したような母の溜息混じりの一言に、ほんの一瞬郷土の方言が混じった。秋田に移り住む以上は娘たちが新しい土地に順応できるように。そうした意図から転居後の両親が新潟訛りを極力用いないよう配慮していたことを、ゆりも幼いなりにそこはかとなく察してはいた。
「それで新しい学校、どうだった?」
「う、うん。いいとこだったよ。先生もみんなもやさしくしてくれたし」
「そっか。良かった。早く新しい友達出来るといいね」
「そう、だね」
友達なんて出来なかった、母にそう言える訳も無かった。友達の作り方を忘れてしまった、などと言ったところで母は信じなかっただろう。実際自分だって信じられなかった。トモダチノツクリカタガワカラナイ。頭の中で反芻したその言葉は、改めて意味を考え直してみても、ゆりにはまるで訳が分からないものでしかなかった。
「ところで、楓はどうしたの」
「え、かえで?」
カエデって何だっけ。瞬間、ゆりの脳内は一面真っ白になる。
「一緒に学校行ったんだから、一緒に帰ってきた筈でしょ。楓はどこ?」
……しまった。ゆりの脇腹を嫌な汗が滑り落ちる。自分のことで頭がいっぱいだったせいで、妹のことを忘れていた。登校時にあれだけ不安そうにしていた楓は、もしかして今も姉が迎えに来るのを待って、教室でひとりぼっちになっているかも知れない。何より大事な妹の存在が頭からすっぽ抜けていたこと自体、ゆりにしてみれば痛恨の大失態でしかなかった。早く迎えに行かなくちゃ。そう思っていたちょうどその時、玄関の方から「ただいまー」と楓の声がした。
「あっ、帰ってきた。もう、アンタたちどうしてバラバラだったの? 楓一人ではぐれて寄り道でもしてたんかね」
ゆりが何かを答える前に、母は楓を迎えるべくぱたぱたと部屋を出て行った。その時の正直なゆりの心境は、助かった、というものでしかなかった。良かった。楓、無事に一人で帰ってきてくれた。だったら大変なことにならない。良かった。りんらん、と正午を告げる時計のジングルが鳴り、続けて居間から「ご飯よ」と自分たちを呼ぶ母の声がする。行こう、と思って廊下を出た先で、ゆりは信じられないものを見る。玄関のところには楓の他にもう一つ分、表の逆光に翳らされた何者かの影があった。
「楓、それ誰?」
「ん? よっちゃんだよ。クラスで新しくできた友達!」
トモダチ? 音も満足に拾い切れず、ゆりはオウム返しで楓に尋ねる。
「そう、友達。あのねえ、よっちゃんこの近所に住んでてね、明日から毎日一緒に学校行ってくれるって。だからもう私だいじょうぶだよ、お姉ちゃん」
ダイジョウブって、何が? 楓の言っていることは全然意味が分からなかった。よろしくおねがいします、と楓の隣の人影が挨拶をする。ゆりがそれに何と返したか、本人はちっとも覚えていない。種々の情報同士がどうしても紐づかなかった。目の前に立つソレが、楓の言う『よっちゃん』なる人物であるとすらも。
次に気付いた時、ゆりはまた自分の部屋にいた。日が傾き黄昏が室内に沈み込んで来ても尚、彼女はひとりぼっちの部屋から出られぬままでいた。
「……転校初日でそれかあ。いや、キツ過ぎるって」
和香が息苦しそうに呻きを漏らし、それから込み上がったものを押さえ込もうとするみたいにオレンジジュースのグラスをぐびりと傾けた。実際酷い話だと思ったのだろう。ここまでの状況を客観的に見るなれば、ゆりは始めからクラスの皆にシカトされていた、そういう解釈だって十分に成り立つ。和香の顔色が心なしか青白くなっているのも、きっとそんな薄ら寒い想像と無縁では無かった。
「でもね、今考えたらそうじゃねがったんだよ。あの子たちもきっと、こないだまでの私や和香と同じ。初めて接する他所から来た人間相手に、どっからどう話しかけたらいいものか分がんねがった。単にそれだけだったんだと思う」
既に二杯目となったコーヒーを軽く啜って口をゆすぎ、そのほろ苦さと共にゆりは当時の同級生たちの心情へと思いを馳せる。実際問題、それから卒業までの二年間を過ごす中で、ゆりに話しかけてくるクラスメイトが全くいなかった訳では無かった。時々は声掛けをしてくれる子だっていたし、遠足や修学旅行で乗り物に乗る時も誰かしらと隣になることだって普通にあった。ただその子たちと親しげに会話をして、友達同士になってお互いの家へ行き来する、そういうとても普通な交流にまで発展することが皆無だったというだけで。
「秋田の人ってシャイだっていうし、そこに私みたいな内気なのが転校してきたら、どっちも睨み合いになって一言も交わさないままになっちゃうのも当然だったと思う。まあ、それにしたって初日に丸っきり話し掛けられなかったのは、今考えてもちょっとショックだけどね」
「ちょっとどころの話でねえよ。私は転校したこと無いからゆりの気持ち分がるだなんて軽々しく言えねえけどさ、もしもゆりと同じ目に遭ってたら、私だってショックでしばらく落ち込むと思う。ナンボ何でも一言も話し掛けねえだなんて有り得ねえよ、ゆりが閉じこもっちゃうのも当然だって」
何考えてたのよソイツら。そんなふうに和香が憤ってくれて、本音を言えば少し嬉しい。うっそりと顔を綻ばせつつ、ゆりは心で和香に『ありがとう』を告げる。
それにしても不思議なものだ。語り出す前は重苦しい話になることを覚悟して不安や緊張の念も覚えていたというのに、いざ話をし始めたその途端、あたかも当時の自分を切り離したかのように平坦な精神を保っている己がそこに居る。それももしかして、あの頃のことがゆりの中では今やすっかり風化して、紙芝居でも読み上げるような気分で当時のことを俯瞰できているからなのかも知れない。
「でも、ゆりがそんなことになってた一方で、楓にはその日のうちに友達が出来てらった、っつうのも辛えよな」
「確かに辛かったってば辛かった。ただ、こん時はまだ楓がどうとかってより、とにかくひたすら動揺する気持ちの方が
「ちょっと目に浮かぶ。あれは楓の強ええトコだでな」
そう。こと友達作りの件に限って言えば、自分と楓とで決定的に異なるのがここだ。初対面の子の領域に、ゆりはどうしてもスマートに入っていくことが出来ない。一方の楓はそこに土足でズカズカ踏み入ることが出来るぐらいのコミュニケーション能力、いや、対人耐性とでも呼ぶべき素質を有している。楓が自分から積極的に声を掛けられるのも、楓の傍に自然と人が寄ってくるのも、恐らくはこの素質によるところが大きい。こればかりはゆりが真似しようと思っても容易に再現できるものではなかった。精いっぱいの勇気を振り絞ってやってみたところで、出来たのはせいぜい、自分と近しい境遇と雰囲気を持つ部の後輩にどうにか声を掛けてあげられただけ。それも五年間でたったの一度きりだ。
「だけどね、最初の日にやったPRゲーム、あれで私が前の学校で器楽部所属だった、って話をしてたのを覚えてくれてた子がいたんだよ。ただそん時には『器楽』って単語の意味が分がんねくて、後ンなって親さ聞いたら『キガクって字はこう書くんだ』って教えられたらしいんだよね。それで私が音楽やってたんだってことに、クラスで最初にその子が気付いてくれて」
「ソイツってもしかして、マーチング部だった
うん、とゆりは肯定する。その子、智菜は和香と同じ部活に所属していた訳であり、ということは部の活動を通じて互いに面識もあった事だろう。当時のゆりにとってクラスメイトの一人であったその智菜という子は小学校卒業と共に音楽を辞め、現在は女子テニス部に所属している。クラスも別々となったゆりとの付き合いは、当然ながら今に至るまで一切無い。
「へば、そん時智菜の誘いを断ったのって」
「あの時点ではもう、手遅れだったから。始業式の二、三日後ぐらいにね、私こっそり行ってたんだよ。マーチング部の見学しに、一人で」
それもまた、ゆりにとってはターニングポイントの一つだったと言えるのだろう。あの日あの時、一人でなんて行かなければ良かった。せめて先にクラスでの友達作りを頑張って、他のところでも何でも良いから最低一人は友達を作って、それからにすれば良かったのだ。だが今更後悔してみたところで、それこそ詮無きことだった。
ゆりには一つだけ、切り札と呼ぶべきものがあった。前の学校で器楽部に所属しサックスを吹いていたという経歴と、その一年間で培った技術。これはゆりが新潟から秋田へ持ち込むことを唯一許された、過去の蓄積によって練り上げた己の誇りそのものと呼べる実績だった。
器楽部に入る以前は音楽の知識も経験も、自信さえも一切無かった。ただ低学年の頃に音楽の授業でリコーダーの演奏を褒められて、音楽っていいものだな、と思ったことがあったという程度だ。でもある日、たまたま見たテレビの番組で出演者がかっこ良くサックスを吹き鳴らすその姿に憧れて、自分もいつかこんなことをしてみたい、と思うようになった。
時が経ち、小学四年生になって始まったクラブ活動。新潟のその学校には器楽部が存在した。人数も楽器の種類も曲北はおろか園小とですら比較にならないほど小さな部活だったけれど、狭苦しい楽器庫には幸運にも備品のアルトサックスが置いてあった。見学会の時にそれを見つけた当時のゆりは、さっそくクラスの仲良い友人たちを誘って器楽部に体験入部した。
『これ、吹いてみたいです』
もちろん最初は上手くなんて吹けなかった。けれど毎日頑張って練習するうち徐々にコツが掴めるようになってきて、時間を掛けて運指も覚えて、そのうち簡単な曲なら耳コピで吹けるまでになった。そうなると音楽は楽しかった。楽器は面白かった。きっとリコーダーを上手に吹けた経験がどこかに活きていたのだろう。得意になってどんどん吹けば吹くほど、いつしか周りの子たちがすごい、すごい、とゆりを褒め称えてくれるようにもなっていた。もっと上手くなりたい。そう思うようになったゆりは発表会でも堂々と演奏し、スポットライトを浴びてきらきら輝くサックスのキイに心ときめかせながら、本番の時間をひたすら楽しく吹き切った。それ以来、サックスは自分にとって絶対の自信をもたらす心の友となってくれたのだ。
あれさえあれば。音楽室の前まで来たゆりは祈るような心地で少しだけ扉を開け、薄暗い廊下からそうっと内側を覗き見た。室内で合奏をしていたマーチング部の部員たちは大半が金管の使い手だったが、そこには確かにサックスを吹く部員の姿もある。――よし。ゆりは小さくガッツポーズを取った。サックスがあるなら、これはもう貰ったようなものだ。マーチング部に入部して、どうにか希望を通してもらって、みんなの前で自己紹介がてら軽くサックスを吹き鳴らす。そうすれば他の子たちがサックス奏者としての私を認めてくれる。きっと私を仲間に入れてくれる。そしたら友達を作るのなんて簡単だ。ゆりはそう信じて疑わなかった。実に子供らしく子供じみた、穴だらけの発想だった。
『じゃあ、今日は新入部員のみんなで音出しの練習をしてもらいます。左から順番に、まずは小笠原さん』
『はい!』
ビッ、とリードミスの音が隙間の向こうから飛んできた。あの子のサックスは力みすぎ、とゆりはこっそり評定を下す。
『次、中川さん』
顧問の男性教師が一人ずつ指名をして、扉向こうの壇上に一列に並んだ新入部員たちがそれぞれの担当楽器を吹いていく。楽器を始めたての子が楽器演奏の感覚を掴めるよう、まずは最もベーシックな音出しの仕方を教わる。それはかつて南小で所属していた器楽部でもやっていた、楽器演奏の導入口みたいな段階だ。彼らよりも一年先輩のゆりは少々得意気な心持ちで、次また次と吹いていく子一人ずつの音色を品定めしてゆく。
『次、吉川さん』
『はい!』
プー、と可愛らしいトランペットの音。この子はまだまだだ。基礎中の基礎であるところのバズィングができてない。
『次、草彅くん。……草彅くん? まあいっか。へば飛ばして次、戸村さん』
『はい』
ヒュオー、とかすれたようなフルートの音。この子もアンブシュアがうまく取れてない。まともな音を出せるようになるにはもうちょっと練習が必要そうだ。
他にも数人の音出しが続き、それにゆりは耳を傾け続ける。ここまでを聴いた限り、やっぱり最初は皆苦戦しているようだった。でもそれが普通。自分もかつては通った道だ。これなら自分が入部しても、この子たちを指導しながらうまくやっていけるだろう。彼らの音を聞いたゆりはそう思えていた。この時までは。
『次、秋山さん』
『はいっ』
――え? とそこで唐突に、ゆりの一人品評会が終わりを告げる。はっきり聞き覚えのある声に続けて、トゥー、と豊かできれいな音。もちろん始めたてにしては、という前提ではあるものの、今の音はかなりクラリネット本来の音色に近い質感だった。そしてそれを、今の一音を吹いたのは。
『上手だねえ秋山さん。ひょっとしてどこかで吹いたことあったの?』
『えっとですね、クラリネットは初めてなんですけど、お姉ちゃんがサックスやってたことあって、それでちょっとだけ吹きかた教わったことがあって』
他の部員の影に隠れて見えなかったその声の主は、間違いなくそう述べた。何でも無いことのように。
『すごいねえ。お姉ちゃん楽器やってたんだ』
『うん! お姉ちゃんね、サックス吹いてるときすごいキラキラーってしてね、それがとってもカッコよかったんです。だから私も楽器吹きたいって思ってて』
『そうなんだねー。とってもいい音だったよ、お姉ちゃんに感謝しないとね。みんなも秋山さんみたいに、きれいな音が鳴らせるように頑張って練習しましょう』
『はい!』
『じゃあこの後は自由に吹く時間にします。分からないことは先輩のみんなに聞いたり、周りの子と教え合いながらやってみましょう』
顧問の指示で一列がほどけ、新入部員たちが散らばったり集まったりしながらめいめい自由に音出しをし始める。その何人かの小さな集まりが次第にひとところにまとまってゆき、やがて一つとなった大きい輪の中心から次々と、さっきの綺麗なクラリネットの音が飛び出した。ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド。楽器を始めて間もない人間には覚え切れないほど複雑な筈の運指をサラリとこなしてみせたクラリネットの奏者を見て、ゆりの背筋に激震が走った。それを吹いたのは誰あろう、楓だった。
『すごいすごーい』
『なんでそんな吹けるのー』
『アタシさも教えてー』
『他にもなんか吹いてみてよ』
『いいよー』
リクエストに応えた楓が、楽譜も無しに音を鳴らしてゆく。ド、ド、ソ、ソ、ラ、ラ、ソ。ファ、ファ、ミ、ミ、レ、レ、ド。……調こそ違えど、今楓が吹いてみせたのは適当な音の羅列などではなく、拍子に合わせて規則的に紡がれるれっきとした一つの楽曲だった。それは音楽にさして詳しくない者でも絶対一度はどこかで聴いて知っている曲。リコーダーかオルガンでもあれば大半の人間が練習次第で弾けるであろう曲。そうと言えるほど有名な『きらきら星』の一節を、その日初めてクラリネットに触れた筈の楓は練習も予行も何も無く、さも出来て当然であるかのような軽やかさで吹き上げた。曲名そのままに、照明を浴びてきらきらと光りながら。それをゆりはただ呆然としながら聴いていた。真っ暗な廊下に、一人ポツンと佇んだままで。
「――あの子はある意味異常だった。頑張って努力してちょっとずつ吹けるようになっていく他の子たちと違って、楓は運指も凄え速さで覚えていってたし、耳で聞いた音程もすぐ楽器で再現できて。だから『かえるのうた』とか『チューリップ』みたいな簡単な曲なら誰かに教わるまでもなく、頭の中の音感だけでスラスラ吹いてみせてた。私だって、そこまで行くのに毎日練習して一週間以上は掛かったってのに」
静まり返った室内に、ズズム、と微かな轟きが抜けていく。気付けば自分のグラスも和香のグラスもすっかり空になっていた。和香のお酌を手で断って、代わりにゆりはオレンジジュースのボトルを取り、濃厚そうなその橙の液体をとぽとぽと和香のグラスに注ぐ。
「ありがと。……楓がうちの部さ入ってきた時の騒ぎは私も覚えてる。とんでもねえバケモンだって、私の周りの子らも先輩方も、みんなして驚いてた」
バケモノ、か。和香の証言を耳にして、ゆりはそこに同意混じりの苦笑を一つ落とす。小学生だった当時の彼らですらそのおかしさを感知できたぐらいだ。より深く音楽を知り、より克明に音楽の難しさを肌で味わったことのある人間であれば尚のこと、楓の才能は紛れもなく人外の領域であったと断言するだろう。それをしてバケモノと形容するのは、なるほど、まさに当意即妙の用法だ。
「楽譜の読み方覚えるのだって、多分あの子は何の苦労もしなかったんでねえかな。家さ帰ってきて父さん母さんさ部活のこと話してるのを横で聞いてた限り、一日経つ度にどんどん練習の内容が本格的な曲練に移っていってるみたいだったもん。何でそんなことが出来んのか、姉の私にだって分がんないってぐらい、楓は音感も習得力も抜群のものを持ってた。現場で見てた人たちになら、それは一目瞭然だったろうね」
でしょ? とゆりは確認のことばを相手に投げ掛ける。それを受けた和香は、流石は姉ちゃん、と苦々しげな面持ちで口を開いた。
「全部ゆりの見立て通りだよ。実際の話、入部一ヵ月後にあった県のマーチングフェスで、他の同学年の子が歌とステップの係やってら時に楓一人だけは上級生のメンバーさ混じって堂々と演技演奏してらったがらね。それからも演奏会だなんだって新しい曲配ればいっつも楓が一番に仕上げてきて、時には上級生のほうが楓さ吹き方教わってることまであった。当時は草彅っていう頭抜けたヤツがいたせいで私らも感覚が麻痺してたのかもだけど、今考えりゃあ楓だって充分ヤベえ子だったんだよな」
「音楽に関しては、ね」
常人が三日かかってようやくこなせるようになることを、楓はたったの数十分でやり遂げる。常人が三日をかけて追いつく頃には、楓はその遥か先へと行ってしまう。そして常人には絶対に辿り着けない分水嶺の向こう側へも、楓はいとも容易くその靴跡をつけられる。少なくとも、あの時点における楓の音楽的な成長スピードにはそれほどまでの異常さがあった。あれで全くのクラリネット初心者と言われたって、誰もがにわかには信じ難いと思うに違いない。
「まあ言ってもそれはスタートダッシュの話でしかねえし、べつに楓もどっかでレッスン受けたりしてたワケでもねえから、今でこそ『部内ではだいぶ上手い子』レベルに収まってるトコはあるんだろうけどね。でも最初の時点では完全に常軌を逸してて、あのとき廊下で楓の演奏を聴いてた私は信じらんねえって気持ちでいっぱいだった。私の唯一の、がんばってがんばって身に付けたたった一つの取り柄を、それまでまともに楽器触ったことも無がった楓があっさり奪ってったような気がしてさ」
この辺りの話は先般のコンクール東北大会の宿舎にて、ちなつにも一部を要約する形で話した内容だ。当然彼女も「楓の才能がそこまでのものだったとは」と驚きを隠せぬ様子でいた。ことユーフォの演奏に関して『天才』と評するに相応しい実力を有するあのちなつですら、だ。
「でも楓って、他のことは丸っきり抜けてるでしょ。運動神経ねえし勉強もからっきしだし、内気ではねえけど思い込み激しくてそそっかしいトコあって。本質的な部分だけは姉妹でそっくりなんだよね、私と楓」
「いや、アンタら見た目もかなりソックリなんですケド。……って冗談は置いといて、まあ欠点の多い子でもあるとは私も思うで。それが却って楓の魅力にもなってんだべどもさ」
「うん。私もね、あの時まではそう思ってらった。ちょっと出来は悪りいけど優しくて朗らかで
それが楓自体を否定する気持ちに繋がった。自分に友達が出来なかったことですらも、才ある妹と不出来な己との比較という図式に転化された。全く馬鹿らしいことだと今なら思える。けれど当時の自分には、そういうふうに捉えることなんて到底不可能だった。あの時あの場で間違いなく、目の前で花開いた妹の天才性に、ゆりは完膚なきまでに打ち負かされたのだ。
「笑えるでしょ? 演奏の腕なんか一つも関係のない話だってのにね。楽器が上手かったら友達が出来る。そう思ってた私のことを、楓っていう名前のトラックがバーンって撥ね飛ばしてったみたいな気がした。楓にはもう友達が何人もいる。楽器だってすこぶる上手い。だったら私は何? こんな思いしてる私って何なの? って。あれが私が、なんで楓だけが、って思い始めた最初のキッカケだったんだと思う」
こんな妹のいる環境に今頃のこのこ分け入って、それで凡庸な自分を認めてくれる誰かがいるとは到底思えなかった。だからあれから更に数日が経ったある日、智菜に「マーチングやってみねえ?」と初めて問われた自分は、ううん、と首を振ってしまったのだ。
『そっか。へばまた何かで気持ち変わったら、そん時は教えてね』
それを最後に智菜が声を掛けてくることは無くなり、他の級友たちも校内行事に関する最低限のことを除けばこちらへは踏み込んでこようともしなかった。ゆりもまた自分からは彼らに歩み寄れなかった。それはその後もずっと、園小を卒業するその日まで。
「じゃあ、中学に上がって吹部さ入る気になったってのも、」
「簡単に言えば、楓がいなかったからだね。直接的には先輩方が勧誘してるところにたまたま引っ掛かったからではあったけど、それキッカケでまたサックス吹いてみるのもいいな、って思い始めて。ブランクのこととか部のレベルの高さとか考えると色々億劫ではあったけど、でもまっさらな環境で新しく始められればきっと私にだってやり直せるって、そう思った。……ちなつ辺りにコレ聞かれたら、向上心が無えって怒られちゃうかな」
過去を振り返ると何とも気恥ずかしい。目指せ今年も全国最優秀、という華々しい名目に惹かれて入部してくる子も多かった同学年の中で、ゆりは自分自身を再構築する為、ただそれだけの為に吹部に入部しようとしていたのだ。故に沢山練習して上手くなることも、周りとメンバーの席を争ったり大会で上位の成績を狙ったりすることも、当時のゆりにとってはずっと優先順位の低いことだった。
「だから入部式の後の楽器決めではサックスやってたなんてことは言わねえで、ただ希望だけ言ってパート編成されて、実際ブランクに悩まされながら時間掛けて少しずつ感覚を取り戻してったの。おかげで一年の頃はまだ先輩方も同学年の子らも、ゆりは上達早いね、って褒めてくれたりして。騙してるみたいでちょっぴり罪悪感はあったけどね」
「それでも友達は出来ねがったの?」
「私の方が壁作ってたからね。クラスで過ごしてる時でもそういう感じではあったけど、帰り誘われたって怖くて行くって言えねがったし、他の子同士で会話してるトコさも自分からはなかなか上手く入っていけねくて。それに、言葉遣いにも自信無くて」
「言葉遣いって、」
「秋田弁。私の訛り方って、ちょっとヘンでしょ? たどたどしいっていうか部分部分がおかしいっていうか。前住んでたトコと単語は結構似てるトコもあったから何とか体裁は取り繕えてたけど、イントネーションが全然違うし」
「あー……そりゃまあ確かに、時々ちょっと発音さ違和感覚えるってことはあったけど」
「こればっかりは気を付けてても、ふとした時に出ちゃうんだよね。周りの子が喋ってるのをコッソリ聞きながら覚えただけで、自分で喋りながら覚えてったワケじゃ無がったがらさ。それを指摘されたらどうしよう、って不安だったのもあったんだ」
きっと方言がどうこうだなんて、そんな小さい事、この子ならこれっぽっちも気にしないのだろう。目の前の和香が怪訝そうに浮かべたその表情から、ゆりは密かな確信を固める。これもまた、自分の頑なさと愚かさが生んでしまった悲劇の種の一粒だった、と。
「でも、そんなんではあったけど、中学に入ってから一年間は私も楽しく音楽してた。友達のことはもう半分ぐらい諦めてらったし、その分サックスを吹くことだけは純粋に楽しめてた。目的が目的だけに『居残り練が当たり前』っていう曲北の環境も全然苦には思わねがったしね。これがずうっと続けばいいって、そう思ってた。友達がいねくたって、私には音楽が、サックスがある。そういう状況がこれからも、ずうっと続けばいいって」
でも、続かなかった。和香にもおおよそ話の脈が掴めてきたのだろう。彼女は黙してゆりの語る続きを待っていた。手つかずだった和香のオレンジジュースのグラスがじっとりと結露の汗をかき始めていることに気付き、ゆりは部屋の壁掛け時計を一瞥する。いつの間にか窓から見える空には濃い雲が陰り、陽の傾きも相まって室内もぼんやり薄暗くなってきた。
「次の年になって、中学に上がった楓がうちの吹部に入るって言い出した時、私はイラつくってより何だか白けたような気持ちだった。心のどっかで『コイツはそうするつもりなんだろうな』って予感してたのもあったし、どのみち私に拒否権なんて無がったしね。その頃にはもう楓と会話することもめっきり無ぐなってて、入りたいなら勝手にすれば、って感じだった」
うん、と一度相づちを打つように頷いた和香がここで「あのね、」と口を開いた。
「実はさ、私、そのことで楓から何度かこっそり相談受けてらったんだ。勿論ゆりン家の詳しい事情なんてあの子は言わねがったし、私からも聞き出そうとはしねがったけど」
「だったらしいね。最近になって聞いたよ」
「ゆりと楓があんま仲良くできてねえんだなってのは、そん時から何となく想像ついてた。でも一人っ子の私にはあまりにも問題が難し過ぎて、正直ものすごい悩んだ。アドバイスなんてとてもでねえけど出来ねがったし、だったら友達になってくれるだけでもいいって楓に言われはしたけど、こっちだってどうやったらあの子さ近寄れるんだべが、ってさ。ただゆりの事はそれとなく見守っておくって、毎回そンた無難な返事しかしてやれねくて、それがずっと心さ引っ掛かってらった」
だからなのだろう。三年生に上がったゆりが度々閉校ギリギリまで一人居残り練に取り組んでいた時、「もう帰るど」と声を掛けてくれたのも部員では唯一和香だけだった。互いの家も途中までは同じ方向なので、何を喋るでは無くとも連れ立って下校した日だって少なくない。そんな和香にですらも心を開けなかった原因は勿論ゆりの方にあったのだが、少なくとも和香は自分に出来得る限りの方法で、どうにかしてゆりのことを支えようとしてくれていたのだ。うっかり相手を傷つけてしまわないだけの距離を保ちつつ、その後ろ背をじっと眺めるようにして。
「楓が楓なりに、ゆりのこと心配してらったのは間違いねがったと思う。だがらゆりの方さ何か事情があるんだべなって思ってて、でもただ思ってただけで、私からは
「間違ってないよ、それで。私だって和香の立場だったら、下手に踏み込んだって良くねえべなって考えて、結局何も出来ないままだったと思う。それ考えたら、ああいうふうにして私さ寄り添ってくれてただけでも和香はすごいよ。一人で暗くなってた私に、いっつも声掛けてくれてたもん」
ぎゅ、とゆりは胸に抱いていたクッションの端をきつく握り締める。誰かのせいになんてできない。これだけ多くの人たちが自分へ手を差し伸べてくれていたというのに、周りが踏み込んでくれなかったから自分はこうなってしまった、だなんて。それに、自分から相手の側へ踏み込むという選択肢だって無くは無かったのだ。それを捨て去って自らひとりぼっちになる道を要所要所で選んでいったのは、他ならぬ自分自身だ。
「友達が居ねくたって楽器を吹くことはできる。音楽は奏でられる。そういう楽しい毎日の積み重ねが、いつかきっと私を立ち直らせてくれる。そんな唯一の希望だった大切な時間も、楓が曲北吹部に入部したその日に終わった。……後は和香も知ってるよね。楓が部内でどういう扱いだったか。その楓と姉妹だからってだけで比較されて、私が陰でどんなふうに言われてきたか」
「そんなの知らねえ、って言いたいけど、言っちゃいけねえよな。今の言い方からして、ゆりだって薄々気付いてたんだろうし」
同じ小学校出身の同期生。先ほどの草彅にまつわる和香の苦労話がそうであったように、直接の繋がりなどなくとも、間接的で緩いその関係性はゆりにまつわる様々な風聞を和香の元へも運んだ筈だ。良いことも悪いことも、いや、悪いことであればあるほど、全て筒抜けに。
「でも私、言うほどゆりだって下手だなんてことは無えって、ずっとそう思ってらったよ。比較対象が楓だったからああだこうだ好き勝手言うヤツらが居たってだけで、曲北で二年までコンクールのメンバーになれねえ子なんて普通だったし。事実、私だってンだったべ?」
「まあね。でも私が先輩らを押しのけてメンバーになれるほど上手じゃねがったのは本当のことだし、そんな私とサックス並に激戦区のクラでメンバー入りした一年生の楓とを比べられたら、ああいう声が出るのもしょうがねえよなって思う。要は私に楓ほどの才能は無がった、ってことだよ。……こないだの一件で楓と姉妹としては和解出来たけど、才能の部分でとんでもない差があるのは当時も今も、ずっと認めてる。園小の子たちが言ってたっていう通り、あの子は正真正銘のバケモンだよ。私みたいな凡人からしたらホント、ずるいってぐらい」
ぱたた、と窓の外側に何かがぶつかる音が聞こえる。そちらには目もくれず、ゆりはふうと一つ溜息を口の端から洩らした。
「でもね、今はあの頃とはちょっと違う気持ちでもいるんだ。もしも楓が私のことなんかさ構ってねえで、自分が上手くなる事だけ考えてひたすら練習してたり、どっかでレッスンでも受けたりしてたら。そしたらあの子は今頃、もっともっと凄いところまで行けてたのかも知んない。それこそさっきの草彅クンだとかちなつだとか、ああいう人たちのいるようなトコまでさ」
「ゆり。だがらって、アンタが意図的に楓を邪魔してらったってワケでねえべ。あの子はただあの子が自分でそうしたくてやってただけなんだし」
「だね、それは分がってるよ。だから本当にお互いどうしようもねがったんだよな、って思ってる。あの子の才能が足踏みしてたことも、私が前さ進めねえでいたのも、どっちも結局自分たちのせい。だから思うんだ、私ら姉妹ってどうしてこうもヘンなとこばっか似ちゃったんだかなあ、って」
「……さっきも言ったべ。見た目からしてソックリだっての、アンタ方は」
寸秒の沈黙。それからゆりと和香は同時に「ぶっ、」と噴き出す。
「あっはははは――ちょっと和香ぁ。せっかく人が真面目なトーンで話してらったのにー」
「だってぇー、ゆりがツッコミ待ちしてるように見えたんだもん。話の流れも下げに掛かってんのが分がったし、実は計算してやってらったべ」
「バレたか」
ちろり、とゆりは舌を出す。時計の表示はとっくに夕餉時。和香の両親もそろそろ帰って来ている頃合いだろうし、楽しかった打ち上げ会ももうお開きとすべき時間となった。途中からはそう考えて話のペースを調整していたのは確かだ。
「いやしかし、ゆりってこンたに話の組み立てがしっかり出来る子だったんだなあ。なんか今日一日でゆりの新しい面見れた気分」
「それ言うんなら私の方こそ、今日は和香の新しい一面見れたもん。それも沢山」
「ンだっけ? 私の話なんて最初のうちぐれえで、後は全然だったと思うけど」
「ううん。和香が自分で気付いてねがっただけで、沢山あったよ」
利発でクール、それとちょっぴりドライ。以前はそう思っていた和香の、意外と砕けた部分。話好きな姿。そして何より、友達想いなところ。これらを知り得ただけでも、今日彼女の家を訪れた価値は十二分にあった。ゆりはしみじみそう思う。
「へば時間も時間だし、私そろそろ帰るね……って、うーわ、降ってる」
窓の外へと目を向けて、そこで初めてゆりは表がザアザア、とけっこうな勢いの雨模様になっていることに気が付いた。表を走る車のヘッドライトが水濡れした窓に乱反射して、眩い光をぴかぴか散らしている。どう見ても本降り。出掛けに見たニュースでは終日曇りの予報だったので傘も持たずに出てきたのだが、いつの間にやら予報がすり替わっていたらしい。この分だと少々雨宿りしたところでそう簡単に上がってはくれなさそうだ。どうしよう。しばし逡巡するゆりに、だったらさ、と和香が声を上げた。
「今日、泊まってけば?」
「え?」
予想だにしなかった和香からの提案に、楓は目を丸くする。
「だって明日も部活休みなんだし、もうだいぶ外暗くなってきてらし。それにこの降り方だもん、傘貸したってずぶ濡れんなっちゃうべ。それで休み明けに風邪でも引かれたら、私だって気まずいで」
「でも急にだなんて、和香のお父さんお母さんさも迷惑掛けちゃうべ」
「全然へっちゃらだって。布団ならあるし着るモンだって私の貸すしさ、どうせなら今夜は女同士でトコトン語り合おうで。ゆりの新潟時代の話とかまだまだ掘り下げられそうだし、それに私もさ、曲北でドラムメジャーになってからの苦労話だとか愚痴だとか、他の子さは語れねえってコト山ほどあるもん」
「……そうなんだ。あるよねそりゃあ、和香にだって。誰かさ喋りてえことの一つぐらい」
「そーゆーコト。あんまりあり過ぎて、一晩じゃ語り切れねえかも知んないね。そんくらい、ゆりと話したいことまだまだ沢山あるからさ」
どう? そう問われて、内心では遠慮する気持ちの方が強かった。何だかんだ言ってはくれるが、迷惑を掛けてしまうのは正直忍びない。その気になれば親に迎えに来てもらう手もあるし、同じ迷惑を掛けるにしても和香の親に送ってもらったっていい筈だ。――でも今は和香の方から、自分に泊まっていくことを求めてくれている。そんな友達の要請に応えないのも何となく申し訳ないような気がして、けれどそれ以上に嬉しい気持ちで一杯で。しばらく悩むフリをした後、仕方ねえ、とゆりは口元を綻ばせた。
「へばさ、悪いけどちょっと電話貸して。家さ連絡してくる」
「どうぞどうぞ。電話の場所は分がるべ? さっき通ってきた廊下んトコね、リビング手前の」
「ありがと。ついでにお手洗いも兼ねて、ちょっと行ってくるね」
クッションをその場に置いてゆりは立ち上がる。そしてドアノブに手を掛けた時、
「あのさ、ゆり」
「ん?」
くるりと振り返ったゆりに、座ったままの和香が軽く首を傾けて尋ねてきた。
「ホントのところ、今のゆりはどう思ってんの? 楓の才能と、ゆり自身のこと」
『――ハイもしもし。秋山です』
「ああ楓、もしもし。ゆりだけど」
『お姉ちゃん?
「いま和香ん家さ居るんだけど、この通り大雨降ってきちゃってさ」
『うん。けっこうすげえ降り方だね。大丈夫? お姉ちゃん帰って来れそう?』
「それなんだけどね。今日泊まってかねえ? って、和香に誘われて」
『え、和香先輩ん家に?』
「うん。だからお母さん達さ伝えといて。今日はお言葉に甘えて泊まってくるがら心配さねえで、って」
『そっかー、分がった。明日は帰り何時くらいになるの?』
「んー、まだ分かんない。でも和香ん家のご迷惑にならないよう、早めに帰るつもり。とにかくそういう訳だから、お父さんとお母さんさよろしくね」
『うん。ちゃんと言っとく』
「へばまんずね。あっそうそう、私の部屋、窓開いてたりしねえか見といてて」
『それも見とく。明日気を付けて帰ってきてね、雨降った後で足元も悪りぐなってると思うし』
「はいはい。そんな心配さねったっていいってば」
『それと、お姉ちゃん』
「ん、何?」
『良がったね。和香先輩とのお泊まり』
「……うん」
『えへへ、私も嬉しい』
「まったく、アンタって子は。――へば、人ん家の電話で長話もできないし、そろそろ切るから」
『はあい。また明日ねお姉ちゃん』
『うん、また明日』
受話器を置き、ほう、とゆりは緩やかに吐息をこぼす。……ありがとう。こんなに温かい気持ちで迎える夜もずいぶん久しぶりのことだ。リビングから漂ってくるお夕飯のにおいと、自分を呼ぶ和香の声。それに誘われ、ゆりはもう一晩の間だけ、自分を包んでくれるこの温かさへと身を委ねに向かうのだった。