あの子が何かになるまでの ~曲北中学吹奏楽部のインテルメッツォ~ 作:ろっくLWK
「……十一、十二、十、三、じゅ、うし、」
カウントをしながらそれに合わせて上体を起こし、起こした上体を再び寝そべらせる。ポイントは腕や足の反動に頼らないこと。あくまで腹部にのみ力を入れ、その力のみで上体を起こすことで適切な箇所へ適切に負荷を掛ける。そうしないとどれだけやっても腹筋は思ったように鍛えられない。やらないよりはマシなのだろうが、それでも平素から基礎体力不足に喘ぐことの多い自分にとって、少しでも効率的なトレーニング法を追求するのは至極当然のことだ。そう自分に言い聞かせ、
「……十六、ハァ、ハァ、十、七。じゅう、は……ち、じゅう、きゅ……う。ハァハァハァ、んにっじゅ……にじゅ……んぐぐぐ……」
最後の一回が、なかなか持ち上がらない。顔面が真っ赤になるほど歯を食いしばり、頭の血管がはち切れそうになるほどおへその辺りに全身全霊を込め、雄悦は自分の震える体に鞭を打つ。
「――二十っ」
どはあ、と息を吐き散らし、雄悦は床に大の字になった。今日も何とか日課分はこなせた。ギンギンと痛む腹の表層をゆっくりと撫でさすり、荒ぶる呼吸と共にくっきり白目を剥きながら、頭の中で今季のトレーニングの成果を振り返る。
腕立て、腹筋、一日二十回。家と学校の行き帰りはジョギングで。そんなメニューを己に課したのは昨年の暮れ近くのこと。当初は腹筋も腕立ても、十回と持たずバテバテになっていた。家から学校までのほんの数百メートルの距離だって、その三分の一も走らないうちに息が上がり、校門をくぐる頃には嘔気交じりの吐息を堪えながらよろよろ歩くのが関の山。そんな過去の自分からすれば、近頃は着実に鍛錬の効果が上がってきていると言えるだろう。ノルマ分までは止まらずこなせるようになったし、ジョギングだって校門前までなら途中で歩きに転じず走り切ることも可能になった。……調子が良い日なら、という前置きはまだ外せずにいるのだが。
「んだけど、昔よりは確実に良ぐなってらよな。この調子でがんばれば、秋までには」
蛍光灯に透かした己が手の平を見つめ、雄悦は今一度深々と息を吐く。そう、秋までには。今年こそは。彼のそんな悲壮なる思いを十全に汲み取れる者が、果たしてこの曲北に何人いるかは定かでない。
雄悦が音楽を、マーチングを始めることにしたのは、小学四年生の春。学校の課外活動として、所属する部活をいずれか選択しなければならない時のことだった。生粋の運動音痴。百パーセント文化系。手足が長いばかりで体力ゼロのガガンボ。そうした級友たちからの揶揄を幼少のみぎりより散々浴び続けてきた彼は当初、スポーツ系の部活に加入することで自分を変えてやろうと思っていた。結果、野球部やサッカー部など各種運動部の体験入部に身を投じ、その片っ端から「体力が無さすぎてうちではムリ」と、彼は失格者の烙印を押され続けたのだった。
『したらマーチングだばどうだ? 適度に動くし楽器も吹くし、オメエでも出来るがも知んねえど』
友人の何気ない提案に、だったらやってみるか、と雄悦は意を決して未知の世界に足を踏み入れた。だが現実はそう甘くなかった。数分にも渡り整然と行進動作を続けるマーチングはその性質上、少しでも乱れを生じさせた瞬間に破綻をもたらしてしまう。加えて全員参加の団体競技という側面もあって、一人のミスが全体の成果に波及してしまう。当時担当していたトランペットの奏法こそ比較的早期に習得することは出来たものの、肝心要の演技動作の部分については顧問を満足させられるだけのレベルに達することが適わず、座奏以外の本番ではいつも旗を持ってフロアを巡るカラーガードの係をやらされていたのだった。
『大丈夫ッスよユウ先輩っ。先輩の音すんごくキレイっすから、体力さえ付けばマーチングでだってきっと大活躍できるッス!』
そう言ってくれる後輩もいるにはいたが、結局雄悦の体力問題がマーチング部の在籍期間中に解決することはなく、彼は都合三年間におけるマーチングの大会を全てカラーガードのポジションで終えることとなってしまった。そして中学校入学。身長ばかりがぐんぐん伸び、その割に体重と筋力はほとんど成長を見せないという悩み多き思春期に突入して尚、この問題は根源的に彼を苛んだ。
何しろ体を鍛えるにもまず体を動かす必要がある。なのに雄悦の場合、動かすための体力すら足りていない。どうしてそうなのかは本人にも謎だった。特に病気もしていないし身体的事情がある訳でもない。あるとすればせいぜい父も母も細身な人で、両親のそういう形質が息子である自分にはとりわけ強く顕れた、というくらい。だがそれが、両親からの遺伝こそが問題の根っこなのだとすれば、これはもはや絶望とでも言うべき状況に他ならないという事だ。雄悦自身、そんなふうに己の体力不足に「らしい言い訳」をつけるのは、嫌だった。
『しゃあねえなあ。雄悦、お
愛器がトランペットからユーフォニアムに変わったことで、その小さくない重量差が余計に彼の負担を増したというのもある。体育の授業でも逆に教師から心配されるほどの虚弱ぶりであった彼はしかし、吹部二年目の秋大会でも楽器を持たせてもらえなかった悔しさから一念発起し、自らを厳しく鍛えることにしたのだった。無論、あくまで本人比での話として。
そして今春。粘り強く取り組み続けたトレーニングが額面通りに功を奏したかどうかはさて置き、ついに雄悦は楽器を持った状態でフロアに立って演技をすることを許可されるところまで辿り着けた。実際に楽器を吹いて音を出す段階にまでは至れなかったものの、これも一つの前進には違いない。その時の心境は正直を言えば嬉しいとも悔しいとも言えぬ複雑なものではあったが、ひとまず何らかの手応えを得ることはできた、という一抹の安堵感を覚えていたのも事実だ。
やり続ければ成果は出る。だがもうすぐ春も終わり、夏を越して秋が来ればまたマーチングのシーズンを迎える。そして自分たちは今年で卒業だ。次にあるマーチングの大会は十一月の東北大会。それまでには奏者かガードか、自分のポジションもいずれかに確定されてしまう。今まで掛けた月日を思えば、エンドラインまでの残り時間も決して多いとは言えないのだ。
「今度からノルマ十回ずつプラスと、帰りのルート少し遠回りしてみるか。んだば次、腕立て二十、……いや、三十回」
今度は腹這いになり、その体勢から腕の力だけで自分の体躯を支え上げる。こうして晩飯の内容物が胃から逆流しそうになるのを繰り返しつつ、己を己なりにひたすら虐め尽くす雄悦の健気な努力は、その後もしばらく続けられた。
梅雨空が徐々に立ち退き始め、木々の繁みには朝も早くから虫たちの鳴き声が活発に飛び交うようになってきた。学校が開いて間もないこの時刻、朝練の為に他の生徒よりも早めに校舎の生徒玄関へと飛び込んだ雄悦が、ぜはー、と息を吐く。
「おおっし、ハァ、ハァ。今日も一回も歩かねえで、走り切れたど。ハァ、ハァ」
顎からボタボタと垂れた汗が、玄関のタイルに黒い染みを生んでいく。このところの雄悦は運動のみならず、食事の方にもかなり気を配るようになっていた。
肉、嫌い。魚、苦手。野菜、まあ食える。それ以外、食えて腹八分目。こんな感じで好き嫌いの激しい雄悦になかなか人並みの体力が付かなかったのも、考えてもみれば道理であろう。そのことをクラスメイトの運動部員に指摘された彼は即日ご飯の量を増やし、あまり得意ではない食材でも我慢してしっかり食べるようになった。果たしてその成果がすぐに出ることは無かったが、数ヵ月に渡って無心に摂取を続けた結果、実際に春の頃と比較しても基礎体力や持久力などには全体的な向上が感じて取れる。腹筋腕立ても今ではノルマ三十回が当たり前。体育の授業でだって、バテてへたり込む回数はずいぶんと減ってきた。この勢いで夏休み一杯をかけて鍛えに鍛え抜けば、きっと秋には、最後のマーチングこそは。そう期する気持ちが雄悦に、この手を強く握らせる。
「おっ、今朝も恒例の体力トレーニングか。がんばってらな」
と、頭上から注がれた朗らかで野太い声に、雄悦は何気なく顔を上げた。
「あ。
そこには音楽教師の永田がこちらを見下ろすようにして立っていた。雄悦は膝に手をついたままの姿勢で、おはようございます、と息を切らしながらも挨拶をする。
「おはようさん。どンだ雄悦?
「はい、今日と、あと
「よしよし良いどー。あとは走ってる最中、上半身をブラさねえよう意識しながらやってみれ。多少遅えってもいいがらバタバタと走らねえで、とにかく姿勢をビシっと整えんだ。マーチングで一番大事なのはソコだがらな」
「分がりました。今日の帰りから、早速やってみます」
んむ、と永田が満足気に微笑む。吹奏楽部の顧問である彼は、もちろん雄悦の体力的事情を知り得ていた。部活中の指導は言うに及ばず、こうして時おり雄悦の元に現れてはあれこれとアドバイスを授けてくれたり、無理をし過ぎないようにと労わってくれてもいる。曲北吹部を全国常連にまで押し上げた敏腕顧問。総勢百名以上の部員たちをまとめ上げる優秀な指導者。そんな世間一般に偉大と呼ばれるような実績の持ち主が、特にこれといって冴えもしない一生徒の自分なんかのことを気に掛けてくれている。その事実は雄悦にしてみれば、申し訳なさ以上に嬉しさを覚えるところでもあった。
「まあ疲れたべ。上さ上がる前に
「そうします。はあ、はあ、」
永田に言われた通り、雄悦は玄関のすのこに腰を下ろす。未だ暴れ狂う心肺が落ち着くまでにはもう少しかかりそうだ。もっとも、こんな早朝の時間帯に登校してくる生徒は吹部の関係者以外には殆どいやしない。仮にここで十分ばかり這いつくばっていたとしても、それを見咎める者など誰もいないだろう。と、そう考えていた雄悦の隣に、彼と全く同じ姿勢で永田がどかりと座り込んだ。浅黒く日焼けした肌。自分よりも遥かに筋肉質な腕や足腰。パッと見には音楽教師らしくないとも言える彼の精悍な風貌に、雄悦は同じ男として憧れに近い感情すらも抱いてしまう。
「
「あ、はい。とりあえず今は個人練は曲練中心でやってます。低音全体としてもだいぶ良ぐ仕上がってきてますし、ユーフォ三本の練習も感触いいです」
「んだがんだが。順調なのは何よりだなあ」
永田が浅く天井を見上げ、鼻から小さく吐息をこぼす。
「ところで、ユーフォって言えば例の
「黒江ですか?」
永田が雄悦に対してその名を出してきたのはこれが初だった。思いがけない話の展開に、少々雄悦は考え込む。
「んー、まあ、シンプルに上手えヤツだと思います。最初の内は指摘されることの多かった音量と音質も夏前ぐれえから良ぐなってきてて、最近はちなつのコト見本にして練習さ取り組んでるみてえで、技術的な面でもどんどんレベル上がってますし。多分俺なんか、もう抜かれてるんでねえがなって。あくまで俺はこう思うってだけの話っすけど」
それはこの上もなく率直な、雄悦なりの客観的評価だった。この春他県から転校してきた二年生の女子、黒江は、その時点でも既に部内で中の上程度の腕前はあった。そこへ加えて先述の要因と恐らく生来の練習好きな性分とが合わさった現状、彼女の上達ぶりは明らかに目を瞠るものがある。今しがたの評定も決しておべっかや謙虚さによるものではない。
「ふんふん。なるほどなあ」
「先生は黒江をどう思うんです? 演奏技術とか、マーチングの動きとか」
「あ?
「はあ」
永田の返答は至極あっけらかんとしたものだった。それに軽く拍子抜けしてしまい、とは言えしかし、と続けて雄悦は思う。
今の言葉が真に永田の本音そのままであるかは疑わしい。指導者という立場上、永田は隅から隅まで部員たちのことを見ている。先日コンクールに向けてのメンバーオーディションを行ったこともあり、個別の演奏力や成長ぶりもあらかた把握は出来ている筈だ。それで『見てない』だなんて事はあり得ない。現にその黒江は今回のオーディションを勝ち抜き、五十名近くいる二年生の中から僅か十名弱という限られたコンクールメンバーの席をも獲得するに至っている。それは取りも直さず、曲北ユーフォ計六名の内、黒江の技量は少なく見積もっても半分よりは上位であるということ。そして、この位置付けは他ならぬ永田自身によって正当に評価された結果のものである、ということだ。
「まあ俺の採点がどうだかはともかく、雄悦的には
「ンですね。何となく、ってぐれえの話ですけど」
「悔しいか?」
そこで突然、ずい、と永田が迫るように顔を近づけてきた。
「え、いや別に、特別そんなんでは」
「いいがらハッキリ言ってみれ。ホントは何と思ってらのよ?」
「ですから、」
「他の誰さも喋んねえって。男同士ハラ割った話ってことでよ、正直に俺さ言ってみれって。ん?」
やけにしつこく永田が絡んでくる。こうなっては断り続ける方が却って言い訳がましさが出るような気もした。――悔しいか。永田からのその問い掛けを前にして、改めて己の気持ちを整理しつつ頭に浮かんだものを、雄悦はそのまま言葉に表してみる。
「……多分、悔しいとは思ってねえっす」
「ほお」
「もしかしたら先生から見ても黒江は俺より上手えって、そういう採点なんだがも知んないです。いや、実際俺は、俺より黒江の方が既に上手えって思ってます。けど黒江は毎日練習頑張ってますし、俺もそれ見て知ってるんで、あんだけ工夫しながら毎日頑張ってたらそりゃあ上手くなるのも当然だって思います」
「なるほどな」
「その黒江を見て、アイツに負けてる俺恥ずかしいだとか、後輩のクセして生意気だとか、そういう気持ちになった憶えが俺さは全然無いんで。ただそうっすね、強いて言えば黒江さ負けねえよう俺も頑張らねえばって思ったことはあった、ってぐらいです。ンだがら何つうか、自分でも良く分かんねえんすけど、考え直してみてもやっぱ、黒江さ対しての感情は悔しさっていうカンジでは無えっすね」
「んだが。んだべな」
永田は一度目を伏せ、息を溜めるように小さく唸ってから、再びこちらを向いた。
「俺はな雄悦、お前えのそういうトコが、お前えのいちばんの武器だと思ってる」
「武器、すか?」
「んだ。他との比較さ走らねえで、常に
「いや、ちょっとピンと来ねえすけど。良いトコも悪りいトコも全部まとめての自分……ですか」
「そういう奴はよ、強ええんだよな。
「あー、……はあ」
どうにも抽象的な上に小難しくて、相手の言っていることがもう一つ掴み取れない。そんな雄悦の煮え切らなさを、永田は見逃さなかったのだろう。例えばだ、と雄悦の両眼を貫くような鋭さで、彼の眼光がこちらをしかと捉える。
「雄悦、お前え小学校の頃からマーチングやってらったって言うけど、その頃から大会ってなれば毎回楽器外されてガードだったって話だでな」
「え。あっはい」
「したら、よ。お前えがマーチングでへばって、楽器も吹けねえで毎回ガードさコンバートされてること、お前え自身はそれを何と思ってらのよ?」
それを尋ねられた時、雄悦の中には明らかな変化があった。くわ、と胃の腑から立ち昇った熱気が瞬く間に脳髄にまで浸透し、目の前の景色も永田の表情も赤く歪んで見える。無意識のうちに食いしばった歯がガリンと軋んだ音を立て、鼻からは憤懣の息がこぼれ出た。今沸いたこの感情に与えるべき名前は知っている。もうそれが答えで良いのだろう。一息を吸って決然と、雄悦は口を開く。
「――悔しかった、です」
「そういうコトだ」
え? と雄悦が問い返す前にすっくと永田は立ち上がり、玄関ガラスの向こう側に見える夏空を覗き見るように目をすがめた。雄悦はそんな永田の横顔を、少しばかり呆気に取られるような心持ちで見上げる。
「お前えの中での競争相手はいつだってお前え自身。ンだがらお前えは自分さ勝つ為に、こうだと決めたことはやり抜ける。自分と比べて人がどうだろうが関係ねぐ、
永田は振り返り、にか、と雄悦を称賛するような綻びの笑みを覗かせた。その笑顔に、眼差しに、雄悦の胸はこれ以上ないほど強く打たれた。
「それが雄悦のいちばんの武器だってコトだ。この調子で秋までコツコツ頑張って行きゃあ
「先生、」
「わっはっは。こうして俺はまた一人、悩める若人を救済してしまったか。いやあ、我ながら有能教師でまいったなや」
いや、別に救済はされてねえすけど。そう言いかけた口を雄悦はぱくりと閉じる。何であれ、永田の言葉がこの胸に、非力な自分に一粒の力強さをくれたのは確かだ。そして努力を見てくれている誰かがいる限り、自分のやってきたことがどのような結末に至ろうとも、決して無駄ではなかったと胸を張って言える、気がする。今はただ、それだけでも充分だった。
「まあよ。俺も中坊の頃に吹部さ入ってな、マーチングやるどーってなった時、当時の俺は小学校上がったばっかのチビ助で体力も何も
「え、そうなんすか?」
意外な事実に雄悦は目を丸くする。この頑強そうな永田にそんなか弱げな少年時代があっただなんて、今の今まで思いつきすらもしなかった。
「んだんだ。して、これがまたおっかねえ先生でよお。下手くそが目に付くもんで俺なんか容赦ねぐビシバシやられて、とうとう大会本番の二日か三日前だ、『そンたにやれねえんだば吹かねえったっていい!
当時の永田の苦しさや辛さが、雄悦には手に取るように分かってしまう。求められたことが出来ない不甲斐なさ。いやそれ以上に、自分ならもっとやれる筈だという理想とそうではない現実との大きな乖離。泣きこそはせずとも、雄悦にだって意地でもやり遂げたいと思うことの一つや二つはある。そして出来ない自分自身に毎度のように憤りを覚える。恐らくはかつての永田もそうであり、だからこそ彼は人目も憚らず涙を流しながら、それでもがむしゃらになって練習に食らいつこうとしたのだろう。
「でもな、その日の練習終わった後で、先生がこっそり俺んトコさ来てよ。『なあ栄信、今オメエが悔しいどって思ってるその気持ちっこは、これからオメエが伸びていく為の栄養剤みでンたモンだ。俺さズタボロにされて死ぬほど腹悪りいって思ったべども、その悔しさをバネにこれからオメエが死ぬ気で頑張ってけば、こンた壁なあ絶対乗り越えれる。んだがら今のこの気持ちを忘れねえで、今日の自分を明日の自分がぶっ倒すつもりでやってみれ。いいな?』――って、ドンって俺の胸
「……いい先生っすね」
「おう、今でも俺の心の恩師だ。んで俺も俺で実に単純だもんだがら、先生の言葉一つですっかりやる気んなってよ。見てれよ今の俺、明日の俺がボコボコにしてやる! ってな。そっから後はお前えと同じで、部活終わって家さ帰ったら宿題よりも先に筋トレ、ランニングの毎日よ」
「先生もっすか。やっぱそれしか無えっすよね」
体は動かさなければ鍛えられない。そうである以上、帰結するところはやはりそこなのだ、と雄悦は改めて納得の念を抱かされた。
「ちょっと参考にしたいんすけど、そん時って先生はナンボずつやったったモンだすか? 筋トレ」
「あん? 聞くってが」
ふと沸いた親近感と好奇心から尋ねてみた雄悦に向けて、永田がニヤリと口角を持ち上げる。
「俺の場合はまず腕立て腹筋八十回、腿上げにスクワットが三十回ずつ五セット、それさ毎晩のランニングが、えーと、家の裏手の川道を橋渡って向こう側まで往復してだったがら、確か四キロぐれえだったかな」
「はあ!?」
思わず雄悦は仰天の声を上げてしまう。永田が挙げたトレーニングメニュー、それらはいずれも本職の運動部に勝るほどでは無くとも、自分の数倍どころか下手をすれば二ケタ倍は上回る量だった。
「これが一年の時で、二年になってからはそれよりもうちょっと増やしたっけかなあ。その甲斐あって二年目からは演奏アリで大会出場、トレーニングは高校出るまで毎日休みなし。――ま、要するに人間、本気ンなればそンけぐれえの事はするってコトよ」
開いた口が塞がらない。雄悦はいま一度、永田の全身へと視線を巡らせる。盛り上がった二の腕に筋肉の層を感じさせる胸板の厚み。いくらか中年らしく衰え始めていることを差し引いても、永田がこんな体型をしているのは道理と言えた。
「
「あ、は、ハイ……」
一気に脱力した雄悦は、しかし同時に、得心するような思いでもあった。今の自分を超えるには、やっぱり並の努力じゃ駄目なんだ。ここにそれを成し遂げた人がいる。不甲斐ない自分自身を悔しいと思えばこそ、今日までの自分を打ち倒すために徹底して自分を虐め抜いて虐め抜いて、今日よりも少し強くなった明日の自分を日々つくっていく。他ならぬ永田がそうであったという事実を知った時、雄悦の胸中にはさっきまでともまた違う、永田栄信という一人の人間に対しての強烈な尊敬の念が生まれ始めていた。
「さぁーて、一休みにしてはだいぶ長げえ時間になっちまったな。そろそろ息も落ち着いた頃だべし、雄悦も朝練さ行くべ。ここで
「あ、ンだったす。……あの、先生。貴重な話、ありがとうございました」
「おう。
芳しい未来は
先生だってやれたんだ。俺だって死ぬ気になってやればきっと出来る。
そんで、今年こそガードでねくて楽器吹きとして、アイツと、アイツと一緒のフロアに立つ。
これが達成出来たら、そん時こそ、俺は。
――立ち上がって下駄箱で内履きに履き替え、雄悦は迷いもせず音楽室を目指した。今日からは腹筋腕立て一日五十回。スクワットと腿上げも、まずは十回ずつ三セットから。ジョギングは学校と家の往復以外に、追加で夜の大通り沿い一キロ。このように今までよりも更にハードになった自己改造計画を、天の太陽よりも尚熱く燃え盛る腹の底に描きながら。