あの子が何かになるまでの ~曲北中学吹奏楽部のインテルメッツォ~   作:ろっくLWK

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徒花とて一家言あり

 道路のアスファルトがもうもうと陽炎を立てている。その中を汗だくになって歩きながら、玲亜(れあ)は一人ボソリと呟いた。

()ぢぃー」

 木々の間にはミンミンとセミの鳴き声が飛び交い、青々とした空にはぎらついた太陽と果てなく伸びる入道雲とが天の玉座を争うようにしてそこに浮かんでいる。川のせせらぎこそやや涼やかではあれど、だからと言ってねっとりと絡みつく熱風のせいで体が冷やされるということも無く、従ってこの体がかいた汗もまともに乾きやしない。つまるところは死ぬほど暑い。こんなあからさまな猛暑日でも休むことなく学校へ出てきて練習に精を出さねばならないだなんて、吹部とはつくづく因果な部活動である。

「音楽室なら冷房あるけど、教室さは無えしなあ。ハアー」

 考えれば考えるだに憂鬱になってくる。そもそも秋田は雪国。雪国は夏も涼しい。なんて連想、実態にこれっぽっちも当てはまってない。玲亜の知る秋田の夏とはひたすらにジメジメして蒸し暑く、下手をすれば夜だって熱帯夜に苦しめられる良いとこ無しの悪環境だ。日本海側特有のフェーン現象だか何かがその原因である、というようなことを夏休み前に理科の教師が語っていたが、そんなことすら今はどうだっていい。誰かこの暑さを何とかしてくれ。てっぺんで括ったヤシの木ヘッドからもぼたぼた夥しい汗を垂れ流しつつ、玲亜は道端にブツクサとぼやきを撒き散らす。

 このユニークな髪形は自身の剛毛とどうにか折り合いを付けようとした玲亜が、小学校時代に散々悪戦苦闘した末に辿り着いた一つの成果である。もっと髪質が柔らかければ髪を伸ばすことで小洒落たヘアスタイルにも仕上げられるのかも知れないが、持ち主に似て強情なこの頭髪は方々に散らばるばかりでちっとも女の子らしさを醸すことには貢献してくれない。故に昨今では括った髪先が掌大ぐらいになるところで切り揃えてしまう方が良い、と本人もすっかり諦観していたのだった。

 夏向きの髪型ってどんなのだろう。いっそ男子並みに短くするのも有りなのかな。そんな風に考え事をしながらの移動は、ただ歩行するだけのかったるい時間を実に都合よく潰してくれるものである。こうして玲亜の足は今日も無事、曲北の玄関口まで辿り着いたのだった。

「おはようございまーす」

「おはよー。今日も暑ちいなー」

 生徒同士のそんな挨拶を尻目に靴を履き替えて、玲亜はまっすぐ音楽室へと向かう。朝と帰りのミーティングだけは部員全員参加。それ以外の時間は来たるコンクールの出場メンバーと出場しない自分たちサポメンとで、スケジュールが大きく異なる。だったらサポメンもいっそ夏休み中ぐらい自由集合自由解散として欲しいものだが、それは顧問および部の方針が許してくれないらしい。返す返すも実に憎たらしいことである。

「おはようございます」

 一声を張って音楽室のドアを開ける。バッと集まった部員たちの視線。そのうち何名かが「おはよう」と声を返してくれただけで、全員の視線はすぐさま元の位置へと戻っていった。……今日もか。半ば慣れつつもあったその通過儀礼を終え、部室の隅に鞄を置いた玲亜は引き続き楽器室へと向かう。

「おはよう三島(みしま)っちー。今日も早えなあ」

 玲亜の所属する低音パート、その楽器棚のところでは副パートリーダーの日向(ひなた)がガコガコと、巨大なチューバのケースから楽器を取り出しているところだった。おはようございます、と挨拶を返して、玲亜は自分の楽器が置いてあるユーフォの棚を探る。

「どうよ、最近の練習は捗ってるかい?」

「そうですね。まあぼちぼちって感じです」

「ぼちぼちねー。まあ私らも時々は練習見に行くから、成果楽しみにしてるで」

「はあ」

「へばまた音楽室で。オーイちなつー、今日のスケジュールって何となってらっけー」

 会話もそこそこに、日向が楽器室を出て行った。はあ、と一息をついて玲亜は棚から取り出したユーフォのケースを開ける。楽器を取り出して各所にオイルを挿すフリをしながら、玲亜は胸の内でそっと今しがたの会話を振り返っていた。

 一見朗らかに見えたであろう先輩後輩としてのいかにもなやり取りはしかし、本当のところは自分に対するアフターフォローの一環なのだろう。以前に一度、玲亜は日向に厳しく諫められたことがあった。あれ以来、日向は事あるごとに自分へ声を掛け、さっきみたいに調子を伺ったりちょっとしたアドバイスなんかをくれたりもしている。こういう上級生からの気遣いは本来有り難いと言えば有り難いものなのだろうがしかし、玲亜にしてみればちょっぴり窮屈なことでもあった。

「どうせだばシカトするか、ごっそり忘れてけだ(くれた)って良いのにな」

 ポツリと呟いて、はたと我に返った玲亜は管に必要量以上のオイルを挿し過ぎたことに気付く。慌ててクロスでオイルを拭き取ると、管の周辺には滲んだ油のせいで曇った輝きが出来てしまった。全くもう。棚のところに置いてあったティッシュで一旦ていねいにオイルを取り除き、それから再びオイルを挿し直す。こんなもどかしさを抱えるようになったのも昨日今日に始まったことじゃない。あの春から、ふとしたことがキッカケで吹部の部長でありパート直属の先輩でもあるちなつとぶつかってしまった、あの日からずっとだ。

『……指定された曲以外は吹いちゃダメだなんて、吹奏楽部にそんな決まり無いんでないですか?』

 練習時間の合間、休憩気分でほんのちょっとだけ皆で吹いていた、指示外の曲。その現場を見咎めたちなつはサポート組の部員たちを激しく叱責し、彼女の頭ごなしな態度に無性に憤りを覚えた玲亜は席を立ち、ちなつに食って掛かった。結局その場は日向の諫言を受けて玲亜も引き下がらざるを得なくなったのだが、それ以来部員たちの、とりわけ三年生たちの自分に向ける視線の温度感は、さっき部室で味わったあの冷たさと全く同じ。あれから既に何ヶ月も経ったというのに一向に回復する気配が無い。それもこれも自分のせいとは重々承知しながらも、しかし玲亜としてはいたたまれない気分と共に、どこか納得のいかない思いを抱かされ続けているのもまた確かであった。

『あの人たちとまともにぶつかっちゃダメだよ、どうせ声を上げたって言うことなんか聞いてくれないんだから。ああいう時は一旦矛を引っ込めて大人しく様子を窺って、それで言える状況と立場が回ってきた時になったら言うの。発言が正しいことだけじゃなく、言うべき時と場所を選ぶのだって大切なことなんだよ』

 そう自分に諭してくれた敬愛する先輩との約束を忠実に守って、あれから玲亜は一度も暴走を起こしていない。時々起こしそうになる衝動を覚えてしまうこともあれど、そういう時には決まってその先輩が某かの形で自分を戒めてくれた。以降、確かにあの時の直接的な関係者や同じパートの先輩同輩らは例の一件を蒸し返すようなこともせず、比較的穏当に自分と接してくれている。……約一名を除いて。しかし他パートの部員たちは「ほとぼりが醒める」という領域には未だ至っていないらしく、今でも通りすがりにこそこそと自分の陰口を叩いている。それはきっと夏が終わっても秋になっても、下手をすれば自分が曲北を卒業する日まで続くのだろう。玲亜はそのような漠然たる予感を抱いていた。

『うわ、アイツって春の事件やらかしたヤツだよね。まだ平気な顔して部に留まってんだ』

『私てっきりあのまま辞めるもんだと思ってたんだけどなー。やっぱ面の皮厚いやつは違うでな』

『どうでもいいけど何か物言うんだったら、せめてそれなりに上手ぐなってからにせえってんだよな』

『それか三年になってからね。まあそれが待てねえから、あんな場所でキレ散らかせんだろうけどさあ』

 彼らは相手の耳に届くようにこうした陰口を叩く。そのことも、玲亜はとっくに知っている。それを陰口と呼ぶべきかどうかは甚だ疑問ではあるのだが、しかし結果としてやっていることは何かをサンドバッグ代わりにすることで憂さ晴らしをしているようなもの、と考えれば結局は同じことだ。そういう人たちのことを、例の先輩はこうも言っていた。

『あの手の人たちっていうのはね、強い側や多数派に組することで自分たちの存在まるごと正しいものだって勘違いしてる、とってもかわいそうな人たちなの。相手が抵抗して来ない、言えば言った通りに組み伏せられる、だから自分たちに沿わない人間は間違ってるんだ、っていうふうにね。おかしいでしょ? 文句を言ってこないからってそれが本当に正しいことかどうかなんて、自分では何一つ分かってないクセに』

 これが真実であるかどうなのかは何とも言えない。世の理の正しさを推し量れるほど自分のことを教養深く賢い人間だなどと、玲亜自身は露ほども考えていなかった。だがそれ以前の直感的な話として、あの人の言うことは間違ってはいない、とも思う。陰口で他人に不快な思いをさせ悦に入るような奴らの言うことややることが人の道として正しいだなんて、その逆側の立場に立つかたちとなった玲亜には到底認められるものでは無い。

「――以上で今日の連絡を終わります。暑い日が続いてますが、各自水分をこまめに摂ったり適度に休憩するなりして、体調を崩さないよう気を付けて過ごしましょう。それでは練習を開始します、今日も一日よろしくお願いします」

「よろしくお願いします!」

 部長のちなつが号令を掛け、部員たちが声を揃えて返事をして、今日も吹部の活動が幕を開ける。玲亜たちサポメンはこれから校舎の各所に散らばって、午前は個人練及びパート練、午後からは集会ルームを使って秋からの演奏会に用いる曲の合奏練習だ。お盆明けからはマーチングのMM(エムエム)練習も始まると言うし、やるべき事は目白押し。だと言うのに、それは本当にやらなければならないことなのか、という思いが玲亜の胸にはひっきりなしに去来する。

「どうしたの玲亜ちゃん。ボーっとしてないで、早く移動して練習始めよう?」

 と、考えに耽りかけた玲亜に誰かが声を掛けてくる。顔を上げた玲亜はその人物を見て、水月(みつき)先輩、と相手の名を呼んだ。

「もしかして、この暑さでちょっと参ってるとか? だったらあんまり無理しちゃダメだよ。保健室空いてるか分からないけど、念の為行ってみようか?」

「いえ、大丈夫です。心配掛けちゃってすいません」

「なら良いけど。ほら、ここにいたらメンバーの人たちの邪魔になっちゃうから、楽器持って移動しよ」

「はい。すぐ行きます」

 ぱたぱたと荷物をまとめ、玲亜は席を立つ。ああ、この冷房の効いた涼しさとも、夕方までしばしのお別れか。一旦は閉じていた皮膚の汗腺が再び開くことに若干の憂鬱を覚えながらも、玲亜は音楽室のドアをくぐって廊下へと出た。

 

 

 

 水月は低音パートの二年生であり、担当楽器はユーフォ、即ち玲亜の直属の先輩ということになる。二年生には他にもう一人ユーフォ担当者がいるのだが、彼女は今回コンクールのメンバーとなった為に音楽室で練習する組。水月はメンバーから落選した為、玲亜ともう一人の一年生同様にサポメン組だ。この水月に玲亜は春からずっと信頼を寄せ、部活の時間中はいつも行動を共にしていた。

「先輩は今日も最初は一人で個人練ですか?」

「うん、ごめんね。私下手っぴだから、個人練はなるべく一人で落ち着けるところでやりたいの」

「いえそんな。私も出来てないトコさらう時は一人で集中してえな、って時ありますから」

「だよね。私の場合もそんな感じ」

 こんな益体も無い会話を交わしつつ、玲亜は水月と連れ立って熱気漂う校舎を歩く。自分はこんなにも汗だくだというのに、隣の水月の白い肌には汗らしい汗などほとんど見当たらない。どうしてなのだろう。水月はひょっとして制汗剤の類をふんだんに使用してでもいるのか、それともそもそもからして自分とは毛穴のサイズが違っていて、それで汗も目に見えない粒子となっているのだろうか。容姿にしろ仕草の一つひとつにしろ、もはや同じ場に生きる人間とは思えないぐらいの差がある水月の佇まいには、少々気後れしてしまう部分も無くはない。

「でも今日は久々に、自分の基礎練終わったら玲亜ちゃんと一緒に音出ししようかな」

「え、いいんですか?」

「ずっと一人で楽器吹いてるのも侘しいものだしね。玲亜ちゃんだってそう思うんじゃない?」

「それはまあ」

「だったら一緒に吹こう?」

「そうして貰えると嬉しいです」

 素直な気持ちを口に出すと、良かった、と水月が微笑を浮かべる。それなら基礎練から一緒にやりましょうよ、とまでは言えなかった。基礎練を行う部活始めの三十分から一時間ぐらいの間、水月は絶対に他の人たちと一緒に練習をしようとしない。その傾向はこれまで彼女と共に行動する中で、玲亜も経験則的に把握できていたことだ。ただ本当に水月がその時間の中できちんと基礎練をしているかどうかは怪しいところもあったが、しかし玲亜にとってはそんなこと、大した問題では無かった。水月と一緒の時間を過ごせる、今日も水月に色々なことを教えてもらえる。ただそれだけで玲亜はもう充分だったのだ。

「じゃあ私はここで。後でいつもの場所に行くね」

「はい。待ってます」

 階段のところで水月を見送って、それから玲亜は自分の個人練の場所へと向かう。低音パートが練習場所としているいつもの教室でも基礎練は出来るが、夏になる少し前から玲亜はそこへは殆ど寄り付かなくなっていた。低音サポメンの練習を取り仕切る二年生女子との折り合いがやや悪いせいでもあるのだが、それ以上に自分と同じ一年のチューバ担当、石川(いしかわ)泰司(たいじ)という男子が何かにつけ自分に絡んでくるのが最大の要因である。下手くそで碌すっぽ音楽知識も無いクセに、態度だけは横柄でやたらと生意気。ああいう手合いは玲亜の最も嫌うところだった。下手なら下手なりに謙虚である方が良い。その上優しい人間性であれば、尚更文句のつけようも無いというものだ。

「さてと、」

 譜面台を下ろし、一つ息を吸う。玲亜が個人練の場所としていたのは、音楽室から遠く離れた第二教室棟三階の外れにある空き教室だ。何の用にも使われずただ机と椅子をガラガラ積んであるだけのそこは、あまりに移動の便が悪いためか吹部の誰も寄り付かない。トイレが近いことだけが唯一の利点とも言えるそこは、しかし玲亜のように居場所の少ない人間にとって、何かと都合が良かったのも事実だ。

 さて、基礎練から始めるか。最初にB♭(ベー)を八拍鳴らし、次に玲亜は適当にスケール練習をしてから基礎練習用の楽譜から選んだいくつかのパターンをさらさらと吹きこなしていく。正直こんな練習だって、どこまで意味があるのか全く分からない。ただ何となくやれと言われてその通りにしているだけであって、取り組んでいる練習内容の重要性というものが玲亜にはいまいちピンと来ていなかった。

『基礎練はすごく大事なんだよ。同じパターンが曲の中に出てくることだってあるし、そうじゃなくても音の移行や指運びがスムーズにできるかそうでないかじゃ、音作りに大きな差が出てくるもん。だから玲亜ちゃんも最低限、これとこれ辺りは毎日やり続けてね。効果はきっと後になって出てくるから』

 水月ではない方の二年生のユーフォ吹きからそう申し付けられているが故に、玲亜はこれだけは毎日欠かさずやっている。彼女もまた玲亜にとって敬愛する先輩であることに相違は無い。ただ彼女はコンクールのメンバーとなったことも然り、現在の自分とは何かと距離のある人だ。玲亜自身は上手くなることにさして興味は無いものの、あの人の期待を裏切ることはしたくない。そういう気持ちから、離れて練習をするようになった今でも彼女の言いつけはなるべく守るようにしていた。

「――ふう。基礎練終了」

 お決まりのメニューをこなすこと約三十分。楽譜を秋の演奏会で吹く曲に差し替え、ユーフォを構え直す。さあ吹くぞ、というその時、後ろの戸がガラリと音を立てて開いた。

「お待たせ」

 そこにはユーフォを抱える水月の姿。今日は比較的早く来てくれた。どうぞ、と玲亜が声を掛けると水月はおもむろに戸を閉め、しゃなりしゃなりとした足取りでこちらへ近付いてきた。

「今日も頑張ってるね。もう曲練始めてるの?」

「はい、まあ。基礎練ばっかしてたってつまんねえですし」

「だよね。私も基礎練の楽譜ばっかりさらうのは飽き飽きしちゃう。それよりは自由に吹いてた方が楽しいし、結果的に練習にだってなるよね」

 玲亜のすぐ隣まで寄ってきた水月がそこに譜面台を置き、ぱらぱらと楽譜のファイルをめくる。水月の楽譜は自分や他の先輩方と違ってとても綺麗だ。彼女は練習の要点や注意を一つも楽譜にしたためない。それが正しいことなのかどうかはさて置き、あらゆる意味で水月には必要の無い行為だった。

「じゃあ一緒に吹こっか。頭からでいい?」

「はい。どうぞ」

 三、四、と音頭を取って息を吸った水月に合わせ、玲亜もユーフォに息を吹き込む。教室に響く二人分のユーフォの音色。適当な区間までの合わせを終えてマウスピースから口を離すと、水月もまた口元をハンカチで拭い、それからきょろりと玲亜を覗き込んだ。

「やっぱり上手だね玲亜ちゃん。もう私が教えてあげられる事なんて殆ど無さそう」

「いや、まあ、ありがとうございます」

 殊勝に頭を下げてみせたものの、玲亜の心境は複雑だ。何せ水月は、彼女のユーフォの技量はお世辞にも高いとは言えない。主に音楽の面で彼女から教わったのは幾つかの運指や替え指、それとユーフォに関する初歩的な知識ぐらいで、後はたいてい経験者の玲亜が知っていそうなことしか無かった。

 音も塞がり気味だし音程も形も安定していない。何だったらユーフォにコンバートされて数ヵ月目の自分の方がまだマシ、と思える部分の方が多い。そういう先輩は小学校の時にも居たことは居たものだが、かと言って玲亜は目の前のこの先輩を軽蔑する気持ちなど微塵も持っていない。それは奏者としてどうこうなんてこと以前に人間的な部分で水月個人を尊崇し、彼女とただ共にいられるだけのことに純粋な喜びを見出していればこそだった。

「やっぱり玲亜ちゃんと吹くのって楽しい」

 そう言ってもらえることにも嬉しさはある。何だかんだ言ってもやっぱり、玲亜だって誰かと音合わせをしながら過ごせる方が楽しいに決まっていた。それが水月だから、というのは勿論のことだし、そうでなくたって楽器演奏は、音楽は、自分一人で黙々とやっていたってつまらない。水月がそういうことに同意してくれる人で本当に良かった、と改めて玲亜は思う。

「じゃあここからは自由練習の時間にしようか。三十分くらいしたらもう一回合わせてみて、それでおかしいところを一つずつ直していってみよう。玲亜ちゃんも後輩だからって遠慮しないで、気付いたことがあればどんどん私に言ってね」

「はい」

 水月の提案で二人はばらばらに音を出し始める。――先ほど「心境は複雑」と言ったが、「微妙」とか「怪訝」ではない理由が一つある。それは時々、本当にごく稀にではあるのだが、水月が吹くユーフォのその音色にあった。

 ポーン。

 まただ。自分の音出しをしながら、玲亜はそれとは別のところへ耳を傾ける。先ほど言った通りの腕前である水月だが、しかしそんな彼女のユーフォのベルからは、今みたいに恐ろしく透き通った音が出てくることがある。割合的には十日一緒に練習しても一度聴けるかどうか、というぐらいにごくごく低頻度。しかしその音色はユーフォの経験浅い玲亜ですらゾワリとさせられるほどの美しさで、初めは水月が奏でたものではないと錯覚してしまうほど、普段の彼女の濁った音色とはひどく落差のある明瞭さだった。

「どうかしたの?」

「え、」

「玲亜ちゃん、意識がよそに行ってる気がするよ。楽器吹いてる時はもっと集中しないと」

「あ、はい。すみません」

 速やかに謝罪をして、玲亜は冷えた肝を温め直すように一旦呼吸を整える。あの音を聞こうとして注意が散漫になっていたのは指摘の通りだ。それでもこうやって聞き逃すまいとしている時に限って、例の音色が彼女のユーフォから出てくることは無いものである。だからあれは一種のまぐれみたいなものなのだろう、とも思う。アンブシュアや息の吹き込み方が奇跡的に噛み合うことで、自分でも驚くほどきれいな音が飛び出すことも決して無いではない。きっと水月のあの音もそういう類のまぐれ当たり。この頃の玲亜はそう結論し始めていた。

「ねえ玲亜ちゃん。どう思う?」

「はい?」

 もう一度楽器を構え直そうとしたその時、水月がやにわに何かを問うてきた。何がです? とこちらから尋ね返すと水月はクスリと笑い、それから自分のユーフォの構えを解いた。

「今頃あそこではメンバーの人たちが一生懸命練習してるよね、コンクールに向けて」

「あー、はい。でしょうね」

 水月の視線を目で辿り、彼女が見ているであろうものに玲亜は思い当たる。距離が遠すぎるせいで音などは一切漏れ聞こえて来ないが、音楽室では確かにメンバーたちが音出しなり合奏なりをしている頃合いの筈だ。

「すごいよね。オーディションに選ばれたからっていうだけで、あの人たちは冷房の効いた涼しい環境でたっぷり練習できて。その一方、サポートの私たちはこんな暑い日に校舎のあちこちに散らばって、冷房も使えない教室で汗かきながらの練習だよ。格差って言うのかな、こういうのって」

「はあ。いや、私には何とも分がんねえですけど……」

 何だかいつもの水月と雰囲気が違う。そう思っている玲亜をあざけるようにこちらを一瞥した後、水月はコツコツと窓辺に寄り、その尖った指先で音楽室のある方角を指差した。

「あの人たちと私たちを隔てるものって何なのかな。楽器の上手さ? オーディションで選ばれたかそうでないか? 誰かに気に入られてるから? どれにしたってその選外とされただけで、私たちはこんな扱いをされなくちゃいけないっていうのかな。ねえ、玲亜ちゃんならこの問題、どう考える?」

「そう、ですね」

 思えばこの時既に、玲亜は水月の生み出すペースに巻き込まれ始めていた。だがそんなことには気付ける由もなく、先輩に問われるがまま素直にしばらく練った思考が導き出した答えを、玲亜は素直に述べる。

「……そんな違いなんて、本当は無えもんだと私は思います。私らだって同じ吹部の部員ですし、同じ時間の中で同じように活動してらってのに、その扱われ方に差があるっていうのは普通に考えたらおかしいことです」

「そう」

「だけどメンバーにはメンバーの練習がありますし、私らがそこで一緒に練習すれば混ぜっこぜになっちゃうと思うんで、分けること自体は仕方ないんだかも知んないです。ただそれが冷房アリなのとそうでないのとで、メンバーばっか涼しいところでっていうのはちょっとなあ、っつうぐらいですかね」

「それは本当に玲亜ちゃんの思ってることなの?」

 ずきり、と水月は玲亜の心臓を穿つような一言を放ってきた。え、と呼吸の止まった玲亜は何も返せず、ただ水月が次に何と言い出すかのみに意識が行ってしまう。

「私ならこう思うよ。冷房があるかどうかなんて話じゃなくて、そもそもコンクールに出るメンバーだからってことで扱いを良くして、他の部員と差別するやり方がどうなのかなって。別にメンバーだけが音楽室を占有する必要なんて無いわけだし、日毎に交代交代で私たちが音楽室を使ったって良い筈だよね。それが出来ないのはどうしてなのかな」

「えっと、いや、分がりません」

「それはね、その方があの人たちにとって都合がいいからなの。頑張って結果を出せば、君たちには移動の必要も無く冷房の効いた涼しい部屋を使わせてあげる。メンバーなんだからサポート組のサポートをいつでも受けられて、本番当日は檜の舞台に上がらせてあげる。すごいことでしょう? 席が限られてることを建前にして、それ以外の部員からは本来あって当たり前である筈の権利をこんなふうに奪ってるんだよ。そしたら良い待遇を欲する子たちは当たり前のように競争に身を投じるよね。良い待遇を手にする為の競争に」

 このとき水月が言い出したことは、まだ玲亜には半分以上意味の分からないことだった。ただ敬愛する先輩がそう言っているからという心理的迎合と、何を言いたがっているのか分からないでもないという是認の意思が、はい、と玲亜を頷かせる。

「さっき玲亜ちゃんは言ったよね、分けることは仕方ないって。でもそれは玲亜ちゃんの元々の考え方じゃないよね。どうしてそう考えるようになったの? ひょっとして春に中島先輩にそう言われたから? じゃないと組織はまとまらない、って」

「……かも、知れません」

「だったら教えてあげる。――見てごらん」

 玲亜は再び音楽室のある方向を振り返る。その後ろから、水月は甘やかに、実に甘やかにこう囁いた。

「ああやって、自分たちの思い通りにするためにそれ以外を犠牲にするのが、あの人たちのやり口だよ」

 

 

 

 あの後ほどなく水月は教室を去り、お昼休みになっても再びここへ姿を現すことは無かった。持ってきたお弁当の包みを開きながら、玲亜はどこか上の空で、さっきの水月の発言を振り返る。あれが彼女たちのやり口。そうと言われて玲亜が思い浮かべたのは、ちなつや日向たちの言い分だった。

 こうと決めたことはみんなでやれ。

 バラバラなことを言っていては組織がまとまらない。

 好き勝手するのをサボりの言い訳にすんな。

 全員がまとまるためには、こういうことだってある程度仕方がない。

 それら全ての言葉を、確かに一理あることだ、とかつての自分も一度は呑み込んだ。だが先ほどの水月とのやり取りを経て、今またそれはぐつぐつと蒸し返されつつある。しかも否定的な方向に。

 こうと決めたって、いつ誰が? 私たちは入った途端にそうすることを強制されただけだ。

 バラバラでは組織がまとまらない? それで困るのは誰だ? 

 サボりの言い訳にするな? 不自由を強いることの言い訳に部活の在り方を振りかざしたのはそっちだ。

 ある程度仕方がない? じゃあ私たちはその仕方なさに黙って組み敷かれろということか?

 ――どっちの言い分が正しいかなんて、未だに分かりっこない。だがそもそも「どっちも正しくない」という可能性だってあった筈だ。水月の言葉はそれを、どちらの正しくなさをも認めている、そんなふうに思えてならない。彼らが困らないことは、自分たちには困ること。彼らにとって好都合なことは、自分たちにとって不都合なこと。その真逆があって、ただそれだけ。それを「正しいかどうか」という尺度で推し量ろうとするから物事がこんがらがってしまうのであって、「正しさなんて要らない」と思ってみれば、こっちにだってこっちの困らないことや好都合なことを否定される謂れは無いと、そう主張するぐらいの権利はやっぱりあったんじゃないのか?

 ……悶々としながら口に運ぶお弁当は、ちっとも味がしなかった。一通りを平らげ胃袋を満たした玲亜は、お弁当の殻を手提げ袋にしまってから教室を出る。この時間帯、水月がどこにいるかは分からない。だが午後からの合奏で彼女に会えたとしても、そこでさっきの話の続きは出来ないだろう。話をするならこの機を措いて他に無い。彼女に会って、さっきの発言の真意を直接問い質したい。自分のこの考えが間違っていないかどうか、それを彼女に諮りたい。そんな思いに駆られるがまま、玲亜は昼休憩が終わるまでの間ひたすらに教室と教室の合間を練り歩いた。サポート組の面々が占める幾つかの教室内、そこで交わされる会話に、それとなく聞き耳を立てながら。

「……大体さあ、先輩たちだって自分らのやりてえことばっかやって、それ以外の声なんて拾ってくんないじゃん」

「上手いからってだけでこの扱いの差はヒドイよね。誰か熱中症でぶっ倒れれば見直されんだべが」

「確かに全国行きたくて吹部さ入ったってのはあったよ。あったけど、ここまで自由時間も何も無いってなると、ねえ」

「あの子の言ってたことが正しいんだかな、やっぱさ」

 そんな声が、今日はあちこちからこぼれている気がする。いや、今日の自分の意識がそっちに傾いているから波長の近い声を拾ってしまうだけであって、実際交わされている内容は普段とそんなに変わりないのかも知れない。元より吹部の体勢や指導の在り方に愚痴がこぼれることはあった。自分が問題を起こした直後だって、サポート組のごく一部からはこっそり同情の声も上がったぐらいだ。だからと言って表立って擁護してもらえることも無く、結局は遠巻きに「かわいそう」という憐憫を垂れてお終い程度のものではあったが。

 くそ、と玲亜は床を踏みしめ立ち尽くす。どうにも心が腐っている、そんな気分だ。こんな気持ちはさっさと晴らしてしまいたいのに、そういう時に限って水月には巡り会えない。それが無性に腹立たしかった。結局この惑いがその日のうちに解消されることはなく、午後の合奏にも平然と欠席を決め込んだ水月とは帰りのミーティングの席になるまで出会えず、あの話の続きを出来ないままで玲亜はその日帰途に就いたのだった。

 

 

 

 

 あれから水月とは何事も無かったかのように、至って普通な先輩後輩としての触れ合いが再び続いた。練習中の行動は相も変わらず、二人きりになってもメンバーや幹部らを腐すような発言は一切なく、彼女に誘われて訪れた花火大会の会場でも部活に関する話題などは一つも出て来やしない。『親が取ってて余った席だから、くつろいで使おう?』と言って案内された六人掛けの桟敷席は、本来ならば何万円もする高価な場所であった筈だ。そんなところを二人貸し切り状態で使わせてもらえることには一抹ならぬ畏れ多さがあったが、しかし人生初の桟敷席から眺める花火は遠方の地べたから見上げるそれとは全然違う、圧巻の迫力と美しさであった。

『綺麗だね』

 うっとりした口調でそう述べた水月と、花火の輝きに照らされたその横顔の尊さが、玲亜の網膜に焼きついて離れなかった。大会提供までを観終えた後は会場近くの大通りで解散となり、ほどなく水月は雑踏に紛れ消えていった。果たして水月は何を考え自分一人をあの席へ誘ったのか、その真意は何一つとして分からぬまま。しかし水月はきっと自分のことを可愛がってくれている、だからこんなにも丁重に扱ってくれるしこんなにも親身に接してくれるのだ、と玲亜は考えた。

 だから水月は包み隠さず、世の物事の真実を自分に教えてくれている。そういう認識の刷り込みと共に。

 

 

 

 花火大会に前後して、玲亜の身の回りには少しずつだが確実に、目に見える変化が起き始めていた。

「やっぱおかしいよ。部のことは私らにだって意見する権利ぐらいある筈でしょ、同じ部員なんだし」

「このまま行ったら何も変わんねえよ。何か行動して知らしめねえと」

「でも実際どうやんの? ただ文句言ったって絶対通用しないよ、先生やあの人らには」

「ストライキってのも考えたけど、ダメだよなあ。楯突いたってことで全員退部にされそう」

 こうした声が、いつの間にやら玲亜の個人練の場所だった教室にいくつも集うようになっていた。そうなるまでの過程を玲亜は詳しく知らない。ただ一人で練習する玲亜を彼女たちが見つけ、次第に何人もがこの教室に集まっては真剣な議論をするようになっていった。少なくとも玲亜目線ではそういう流れであり、そういう機序だった。彼女たちは一様に顧問や幹部らに不満を抱き、それを何に憚ることもなく玲亜の前で口にした。

「何でって? だって三島さん、あの時あの場で勇気出して刃向かってらったべ。その三島さんならきっと、私らの気持ちも分がってくれんでねえかなって」

 こんな声が自分の周りに多く集まっていることは、率直に言って嬉しかった。彼女たちとは色々なことを話し合った。部活に関すること。音楽のあり方。自分たちの成すべきこと。自分たちの目指すもの。話は面白いほどまとまってゆき、ある程度の方向性と形が見え始めたところで、二年生の女子たち数名が他のサポート組の同輩と一年生をこの教室に集め、その話を持ち掛けた。

「このままじゃ私らは押し潰される。その前に行動して、おかしいことはおかしいってあの人たちに示そう。やるって人、手を挙げて」

 そこで迷いなく手を挙げたのは、その場に居た全員だった。もちろん玲亜も手を挙げた。水月はそのとき教室の隅にいて、今までばらばらになって燻る分子に過ぎなかった玲亜たちが一つの群体にまとまりゆく光景を、自らも挙手しながらどこか遠巻きに眺めているみたいだった。

 

 

 

 

 

 

 あれから一ヵ月以上。本日の練習を終えた玲亜は楽器室に楽器を戻した後、鞄を背負って一人階段を下りていた。

「今日も楽しかったな、みんなでの合奏」

 独立組、とちなつ達に名付けられた自分たちの一団。身内での名称などは特に決まっていないがそんなもの、第二吹奏楽部でも改革派でも何でもいい。今も体育館でマーチングの練習に明け暮れる彼女たちと、自分たちは違う。その意識さえ持っていれば玲亜も、他の参加者たちも、己のアイデンティティを確立するには充分だった。

 今日の合奏では久々に半数以上が賛同して、その子たち皆で『アメリカングラフィティ』を演奏した。指揮者は一年生の子。不出来はみんなで注意し合い、曲としてまとまったものにする。そんなひと時は顧問から指摘された通りの修正をただ繰り返すよりも、またパートの先輩から言われた通りの練習を積み重ねるよりも、遥かに有意義で楽しいと思えるものではあった。

 ただ一つだけ気になっていることもある。それは合奏となった時、水月が決まって集会ホールから姿を消すこと。大人数の時は元より、数人単位のアンサンブル形態の時ですらも誰かと合わせる光景をとんと見掛けない。そして、玲亜とも。それが気になって以前さりげなく尋ねてみた時、彼女は玲亜にこう答えた。

『私はどうせ下手だから、合奏したってみんなの足を引っ張るだけだもの。私は私で楽しんでるから、玲亜ちゃんも気にせず玲亜ちゃんの音楽を楽しんで』

 それは確かに自分たちの理念に適った行動ではあって、そうであるが故に玲亜にはそれ以上何も言えない。だがそのせいで水月と音合わせをするあの密やかな喜びの時間は夏の頃よりめっきり減ってしまい、他の用事で水月が自分のところへ訪れることも極端に潰えてしまった。それは玲亜には少々ならず残念なことであった。上手い下手なんてどうでもいい。ただ気の合う人と一緒に音を合わせ、一緒に楽しみたい。そう考える玲亜にとって、ここでの現状は不満とまでは言えないものの、満ち足りた気分になることもいまひとつ少ない、というのが偽らざる本音だ。

「……なんて、贅沢なんか言ってらんねえべ。物事何でも良いところもあれば悪いところもあるんだし、我慢するところは我慢さねえばなんねえんだがら」

 自分に言い聞かせるようにそう呟きながら一段また一段と階段を降り、玲亜は一階へと到達する。そして、あれ? と思った。

 我慢するところは我慢しないと。それってなんだか、日向に言われたのと同じことのような気がする。全員がまとまるためには、こういうことだってある程度仕方がないと割り切らなければならない。現実に玲亜は今それを、水月に対して履行している。自分たちで定めた方針を厳守するが故に玲亜は今、我慢すべきこととして水月との合わせを我慢せざるを得ない状況に陥っているのだ。どうなっている? あの時自分は皆と一緒に、ちなつや日向の唱えるあの認めがたい理屈を否定する者全員で、志を同じくして立ち上がったのではなかったのか? 何より水月が自分に諭したのはそういうものでは無かったのか? これが違うのだとすれば、そうしたら、自分は今の今まで何をしてきたというのか。

 その場に立ちすくんで頭をフル回転させてみても、答えは一向に出てきそうに無かった。明確な答えは無く、考えても考えても行き着く先は霧の中。だがどこかに存在する矛盾が『いい加減気付け』と、考えの足らぬ己を急かしているような気がする。今見ている光景のその裏側にある真相を、ちらりちらりと窺わせているようでもある。なのに見えないというもどかしさ。それが玲亜の胸の内でむくむくと起き上がり、言い知れようのない不快感を放ち始めていた。

「……ん、」

 と、その時はたと玲亜は気付く。校内の雑音に紛れてどこからか流れ来る、麗しいユーフォの音色に。そしてその異質さに。

 ――何だ? この演奏。

 曲名などは分からなかった。どこで誰が吹いているのかもまるで見当が付かない。ただ、それが向こうに見える体育館の方向からでは無いことと、間違えようも無いほどにユーフォの音色であることはすぐに解った。続けて聴覚を引っ張られるうちに、玲亜はそのユーフォが奏でる旋律が恐ろしく美しいことにも気が付いた。全くの淀みなく、こんなおぼろげな聴こえ方でも吹く者の技量と集中力がありありと感じられるほどに高度な演奏。しばらく無心になって聴き続けながら、玲亜は何かを感じ取る。これだけしっかりした旋律は、基礎を疎かにしている人間には出来っこない。それに、音楽知識や奏法がでたらめな人間にだって到底不可能なことだ。

 問題は誰が吹いているか。それが玲亜にはさっぱり見当が付かなかった。吹き方の癖や響きの感触が自分の知っている先輩方のそれではない。そもそもこの時間帯、顧問や体制派の部員たちは体育館でマーチングの練習を行っている真っ最中。それ以外の面々でこれだけ上手にユーフォを奏でられる人間に、思い当たる人物は誰一人としていない。じゃあ誰が、とまで考えたところで、玲亜の脳内に漠然とした一つの可能性が芽生える。

 この時点ではまだ、その解はハッキリと掴み切れてはいなかった。けれど、他にあり得る可能性は無いとも思えるものだった。そう思えたのはきっと、玲亜の本能的な勘とも呼べる何かだったのだろう。あるいは無数の経験が導き出した無形の演算結果、と喩えることも出来たかも知れない。

 だがそれが何であれ、この理屈なき推測がもし的を射ていたのだとしたら。

 己の直感が示すものが、もしも探し求めた真実そのものなのだとしたら。

 あの人にとっての三島玲亜という人間の存在価値。それは、つまり――

「おー、三島ちゃん。まだ帰ってねがったんだ」

 鷹揚な声が玲亜の耳から他の音を遮り、思考は寸断を余儀なくされる。振り向いたその先には日向が立っていた。

「中島先輩? ――どうも、」

「今帰るとこ?」

「そうです。こっちはもう練習終わったんで」

「いやあ良がった。実はこないだの面談の続きなんだけどさ、次はいつがいいかなー、って近いうち三島ちゃんトコさ行くつもりだったもんで。休憩ついでに音楽室さ物取りに行こー、って思ってココ通りかかったのが超ラッキーだったわ」

「休憩ってそれ、どのくらい前の話ですか?」

「ん? どのくらいも何も、つい今さっき。休憩ーってなってから直行して今だし」

「そう、ですか」

 玲亜は頭の中で状況を推定する。ここから体育館までは徒歩で一分と掛からない。つまりメンバーの人間に体育館以外の場所で、今の演奏をするだけの時間的余裕は無かったということだ。

「で、どう? いつなら行ける?」

「……私から話すことなんて、もう無えですけど」

「そう素っ気の無えこと言わねえでさー。私らとしても無理に戻って欲しいなんて言うつもりはねえんだよ。ただ三島ちゃんたちの考えとか気持ちだとか、そういうのをチョロっとでも良いがら聞かせてもらえればなあ、って思って。どうよ?」

 日向に尋ねられ、玲亜は黙する。それは回答を考える為ではない。さっき聴こえたユーフォの音色、あれを今一度この耳で追うためだった。しかし待てど暮らせど、あの演奏の続きはどこからも聴こえて来ない。日向と問答を繰り返している間にあの吹き手は演奏を終えてしまったのだろうか。だとすれば腹立たしい。こっちは日向と、体制派の人間と話すことなんて、もうこれっぽっちも無いと言うのに。

「ね、お願い。私やちなつに話しにくいってんだったら、三島ちゃんの話しやすそうな人さ話してくれるんでもいいからさ」

 話しやすい人なんて、そんなの――とまで口から出掛けたところでふと、玲亜の脳内にぽこんと別の人物の姿が像を成して現れた。

「……そンたに言うんでしたら」

「お?」

「そンたに言うんでしたら、へば、黒江(くろえ)先輩さなら喋ります」

真由(まゆ)ちゃんさ?」

 訝しむように日向はそう言った。――夏までは『黒江ちゃん』だったのに。日向の呼び方の違いに彼女と真由の関係性に変化があったことを感じ取りつつ、それでも玲亜は重ねて宣言する。

「はい、黒江先輩さだけには。それ以外の人とは喋りません。話が決まったら、面談の時間と場所を報せに来て下さい」

 玲亜の敬愛する、水月以外のもう一人の先輩。今は玲亜の傍にいない、穏やかだけれど不思議な存在感を持つ先輩。あの人にだったら、話してもいい。そしてあの人ならば、この謎を解き明かしてくれるかも知れない。自分たちのやっていることの意味を。日向たちがやっていることの価値を。あの人自身の存在意義を。水月の見ているものを。そして、さっき聴こえたユーフォの調べの正体を。

「分がった、本人さも話してなるべく早く予定取るようにする。ありがとね三島ちゃん」

 合意を得るや否や、日向はサッと身を翻してその場から離れていった。そして十メートルも先まで行ったところで振り返り、

「言い忘れてた! 帰り気を付けてな。へばまた明日」

「……お気遣い、どうも」

 玲亜が頭を下げたのを心持ち満足気に見届けて、日向は今度こそその場を去っていった。ぽつんと一人残される格好となった玲亜は、少し項垂れて考える。自分のやろうとしていることが本当に正しいことなのかどうか、いまいち確信が持てない。いや、正しいことなんてきっと無いのだ。あるのは誰かにとって都合の良いことかそうでないか、あるいはその人にとって意味のあることか無意味なことか、それだけ。

 だったら、私は私にとって都合の良い方を選ぶ。私自身に意味のある方を選ぶ。

 それが日向にとって真由にとって、それ以外の誰にとって不都合なものであったとしても。

 臆する必要なんて無い。今と何ら変わりの無いことだ。自分は自分が最善と思う道を選んだ結果、今のこの場所にいる。それがこれからも続くだけ、ただそれだけのことなのだから。

 

 

 玲亜は駆け出し、一目散に玄関を目指す。その先に答えが無いことはとっくに分かっていた。玲亜が求めたものは答えではなく、選択そのものだ。これから先にどんなことが待っていようが、自分の大事な人たちが自分という存在の価値をどのように見積もろうが、そんな自分にだって心底大事に思っていることの一つぐらいはある。これを貫き通す為に、自分がすべきことを尽くす。水月がやったことの本質はきっとそうだったのであり、その水月を今でも心の底から尊崇すればこそ、自分もまた彼女に倣うべきである筈だ。思想や手法といった枝葉末端ではなく、自分にとって価値あることを貫こうとしている彼女の姿勢、その根幹としての在りように。

 

 

 例え今の水月にとって三島玲亜という人間が、もはや全く無価値の存在となり果てていたのだとしても。

 

 

 

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