あの子が何かになるまでの ~曲北中学吹奏楽部のインテルメッツォ~   作:ろっくLWK

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晩秋の巣立ち

 秋も深まる故郷の大地。少しずつ下がってゆく気温に冬の訪れが近づいていることを感じつつ、それでも山際の紅葉は未だ半分、といったところか。そこへ向けて自転車をひいこら漕ぐ今日この頃、日向(ひなた)は隣を走るこの暴力女に引きずり回されながら、折角の貴重な休日に何ゆえこんなことをしなければならないのか、と激しい疑問に苛まれていたのだった。

「でたらめなナレーション付けんなっ」

「あぎゃっ! って危なっ。ちょっとちなつぅー、チャリ漕いでる最中に叩くなで」

 一旦よろめきかけた車体を、日向はハンドルを振って立て直す。冗談抜きで危なかった。あともう少し反応が遅かったら派手な音と共に自転車ごと足元のアスファルトに叩きつけられ、今頃は身動き取れなくなっていたことだろう。

「さっきからヒナがブツブツうるせえがらだべ。ホレ、またチョップされたくねがったら無駄なコトさエネルギー使ってねえで、さっさと漕ぐ」

「怖っわ。今度ぶたれて怪我したら治療費請求したろかな」

「何か言った?」

「いいえ、なんにも」

 これだからちなつは油断がならない。その強引さをからかうようにこっそり悪態を投げ込みつつ、日向は再びちなつと並んで道の先へと自転車を漕ぐ。家の近くを通る旧国道を横断し、その先に流れる雄物川の両岸を渡す大曲大橋を越え、すぐのところを右に渡ってしばらく川の下流方向沿いに土手道を疾走して。マーチングの東北大会を終えて帰ってきたその次の日曜日、突発の休養日ということで吹部が休みになった、雲一つない晴天の本日。日向はほぼ起き抜けでちなつに連れ出され、自転車でとある場所へと赴こうとしていた。

「大体さー、あそこって冬前に行くようなトコでねえべ。普通は春or(オア)夏、もっとあったけえ時期にランチボックスかバーベキュー用具でも担いで行くもんでねえの」

「いいべー別に。何となく来たい気分になったんだし」

「ハー、たまにいるよなあこういう人。楽器担いで夜の山さ登って、それでテッペンでプープカ気持ちよく吹いてとかさあ。ドラマとかならまだしも現実でソレって、どういう思考回路してればその気になれるモンなんだか」

「んなこと言うんだったら今からでも学校さ行って、楽器背負ってくる?」

「まーたご冗談を仰いなさる。そっちはユーフォだがらまだ良いとして、こっちはチューバだで。あんな重いもん背負わしてこの先の道行けってオメエ、私を殺す気かっての」

 流石に今背負っているものは、それよりも遥かに軽いボディバッグ一つだけ。また楽器室も顧問不在の今日は完全に閉鎖状態なので、どのみち学校へ行ったところで無駄足なのはお互い解り切ったことであり、従ってこんな口さがないやり取りもただの二人のじゃれ合いみたいなものだ。だがそれですら、ここからの道のりを思えば憂鬱な気分を払拭するに至らない。どうしてちなつは今、わざわざあんなところへ行きたがっているのか。ちなつの事ならばあらかた知り尽くしていると自負する日向ですら、こればかりはさっぱり理解が追いつかない。

なんだって(やれやれだ)なぁもう。腐ってばっかいねえで、ヒナもちょっとは良いトコさも目ぇ向けてみれって。ほら上を見てごらん、今日は絶好の秋晴れだど」

「微妙に暑い」

「それはチャリ漕いでるがら。それに深呼吸してごらん、空気も澄んでで気持ちいいし」

「微妙に寒い」

「それはもう十一月の半ばだがら。って、あー言えばこー言う。今からそんなんじゃいつまで経ったって到着さねえど」

「なあちなつー。どぉーしても行がねねえの?」

「どぉーしても行く。もうそういう体になっちゃってるし」

「何だ、そういう体って」

 などと罵倒芸みたいな掛け合いを続けながらも、二人の駆る自転車は川面を横目に見ながら緩いカーブを経て、徐々に上り坂へと轍を刻んでいった。この先は鬱蒼と林が生い茂っていて、正面に見える道をひたすらまっすぐ行けば山裾を縁取るように峠道を抜けて神宮寺(じんぐうじ)の方面へと至る。そして今回ちなつが目的地に設定した場所はここから左に曲がった先、この深い木々を脇に抱える細道のさらに向こう側にあった。

「来たぁー……」

 思わずそんな言葉が口を突いて出るほどいかめしい、この長いつづら折れの坂道。いま一度見上げてみて、うはあー、と日向の口からは長大な溜息がごっそりと出てしまう。前にここを登ったのは杏の発案により荒川家、中島家、小山家の三家族合同で開催されたバーベキュー会の時だったか。その前は小学校の遠足。他に思い当たる記憶は無いが、いずれにせよ数年ぶりであることに相違ない。あの頃と全く変わらずだらだら続く山道が、日向たちという来訪者を歓迎するみたいにデンとそこへ立ちはだかっていた。一応きちんと舗装されているとは言え、そんなもの何の足しにもなりはしない。何となれば今回はここを自転車という、上り坂ではただただ重荷にしかならない相棒と共に登らなければならない為である。

「よっし、行っくぞ」

 その一言で己に発破を掛けるみたいに、ちなつが立ち漕ぎの姿勢で自転車のクランクにぐいぐいと尋常ならざる負荷を掛け始めた。それを見て、おわ?! と日向は仰天する。 

「おおおうちなつ、待て待て待て。何、もしかしてチャリ乗ったまんまで行こうってらの? この坂を」

「ヒナがどうすっかは任せる。私は漕ぎで行く」

「私には解らぬ。何が今日のお前をそうさせるのだ、ちなつよ」

「良いっがら、降りて行ぐんだば、サッサど、行げって」

 まだ坂上りをスタートしてからそんなに進んでいないというのに、早くもちなつは苦しげにいきみながら、それでも自転車から降りることなくひたすらペダルを漕いで進もうとしている。だがそのペースは遅々として進まず、何だったら歩きの方が早いのではないかと思えるほどの低速ぶりだ。それはそうだろう。一度だけ親の運転する車で来たことがあったが、その時ですらここの勾配はまあまあキツいと感じたほどだ。歩きでだっておいそれと登りたくない。なのにちなつはギアも付いていないただのスクール自転車でここを登り切る、と断言している。正気かちなつ。さすがの日向も段々と、冗談では済まなくなってきた空気を感じ取る。

「んぐうううう、ごおおおお、」

 ペダルを踏みしめるちなつの声は、もはや地獄の亡者みたいだ。これでもまだ坂の入口をスタートしてから数十メートルも進んでいない。やむを得ず日向は自転車に跨ったまま、重力に負けて逆進せぬよう緩くブレーキを掛けつつぺたぺたと足で地面を掻いて坂を上ってゆく。こんな表情とこんな呻きをしながら上っている人間の脇を、さっさと自転車を降りて「ほいじゃお先―」と先行してやれるだけの非情なる胆力を、あいにくと日向は持ち合わせていない。それに一人で上に行ったって、どのみちちなつが来るまでは暇を持て余すばかり。だったらこうして傍にいて、ちなつがやり遂げるところを見届けてやった方がまだマシというものだ。

「っくううううう、ここキッチいいいいいい」

 一つ目のつづら折れ、ここは手前で一段グイっと傾斜がきつくなっている。そこを何とか踏み越えて、ちなつはいったん片足をついて呼吸と体勢を整えた後、さして休憩もせず再び立ち漕ぎになって次の坂へ向かって漕ぎ出してゆく。この辺りからは日向も自転車に跨り続けるのが辛くなり、潔く降りて手押しをしながらちなつの動静を見守っていた。

「んああああああ、絶対これえええ、(あり)った方が、早ええんだべなあああああ」

「だがらそう言ってらべって。ホント無理すんなよ、全力出し過ぎて腱切ったり肉離れ起こしてたらバカくせえにも程があんど」

「大ぃぃぃぃぃ、丈ぉぉぉぉぉ、夫ぅぅぅうう」

 二つ目のつづら折れ、その先に待つはひたすら上へ上へと向かう直線状のスロープである。ちなつが穿いているミッドブルーのスキニーが、形よく健康的に発達した彼女の太腿とふくらはぎの形を露わにしつつ、しかし今にも張り裂けそうなほどパンパンになっている。ハンドルを握るその手捌きも、倒れまいとするバランシング動作と保持し切れないほどの苦しさとでもうガタガタの様相だ。万に一つも転ばれては目も当てられない。日向は片手をフリーハンドの状態にし、あわやという時にも咄嗟にちなつの自転車を掴めるよう警戒状態で待機させる。

「お、上見えてきた。ホラちなつ、あっこまで行けばちょっと緩やかんなるど。もう一息」

「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ。んおおおおお、」

 ちなつが絶叫を上げる。ここまで脚を酷使した以上、彼女の大腿筋にはもう限界すれすれまで乳酸が蓄積してしまっている筈だ。それでもちなつは、時おり足をついて寸秒停止をすることはあっても、自転車から降りて歩くことはおろか休もうとさえもしない。彼女のそんな頑なな姿勢に日向も少しずつ只ならぬ何かを感じ取りつつ、がんばれがんばれ、とちなつの尻を叩くことに徹する。

「もうすぐ終点だぞちなつ。ここが最後の一山だ、根性出してげー!」

「くふうううううう、あああああああ、こんにゃろおおおおおお」

 もはや何に向けたものかも分からない、ちなつの渾身の咆哮。グイ、と真上から踏み下ろしたペダルが時間を掛けてきれいに一回転した時、ちなつの車体はついに最後のスロープを上り切った。

「やっ、たあぁぁ」

 平たい路面のところで二人とも自転車を停め、しばし休息を取る。ちなつはサドルにまたがったままでハンドル上に腕枕の姿勢となり、ぜはあ、ぜはあ、と激しく息を切らせた。全身汗だくな上に膝がガクガクと笑っていて、もはや夏場の長距離走後みたいだ。そんな有様のちなつを横で見守りながら、日向は何とも痛ましい気持ちを抱かされてしまう。

「なあなあちなつ」

「ぜえ、ぜえ、ひい、ひい。……何?」

「ちなつが自分で言い出して自分でやったことだから私さは何も言えねえけど、ここまでする必要あったんけ?」

「――あるか無えかは別。ただやりてえがら、やった、だけ。ハア、ハア、ハア」

「ちなつってそういうキャラだっけ。まあ、時々熱血スイッチ入ることはあったけど」

 訳分がんね、と日向は首を振る。何せちなつも日々のマーチング練習で鍛えられているのは確かなのだが、それでも本職の運動部員には遠く及ばない。瞬間的な反射神経が求められる競技ではせいぜい人並みのパフォーマンスだし、今回のように強度の高い運動行為となるとこれこの通り、すぐ息も上がってバテバテになる。そもそも運動好きという訳でも無いのだ。かく言う日向とて運動に関する能力も嗜好性も凡人に毛の生えた程度しか持ち合わせてはいないのだが、その日向から見たって今回のちなつの行動は、なかなか理解を示すのが難しいものがあった。

「とにかく、あっちの建物さ行って少し休むべ。もうチャリは降りだって良いんだべ?」

「うん、降りる。あそこって、自販かなんか、あったっけ」

「知らん。家から持ってきたヤツあるから、あとで一本けらあ(あげる)

「あんがと。ハア、ハア、」

 自転車を押してへろへろと、ちなつが道の先に進んでゆく。ここまで肉体的に消耗し切っている今の彼女の無様さたるや、まるで雄悦みたいだ。こんなことを口にすればちなつも本気で怒るだろうと判断し、日向も黙してカラカラと自転車を押す。この先の道はやや下り坂となっており、そこを過ぎればだだっ広い駐車場と白亜の建物があって、アスファルトの舗装区間はここで終点となっていた。

「うはー。相変わらず眺めはいいとこだなあ、眺めは」

 駐車場と下り斜面を区切る木の柵の付近まで寄って、そこへ自転車を停めた日向は目の前の眺望に率直な感想をこぼした。姫神山、正式名称大平山(たいへいざん)よりやや北西に外れた松山の中腹を切り開いて造成されたこの姫神公園は、市民の憩いの場であると同時に日向たちの住む大曲市街地とその基盤たる広大な仙北(せんぼく)平野を一望できる、ちょっとした観光スポットでもある。春になれば周辺に植わった桜の木が、夏場であれば新緑の爽やかな香りが、それぞれ訪れた者の目と心に十分な保養を与えてくれる自然豊かな公園……ではあるのだが、いかんせん稲穂の季節も盛りを過ぎ、かと言って紅葉もまだ十分でないこの時期、日向的には少々枯れかけた木々の葉っぱが出迎えてくれるだけのどうにも殺風景な場所、という印象を拭えない。

 他に周辺にあるものと言えば、年季を感じさせる子供向けの大型遊具の数々、いつかの時にもお世話になったコンクリ製のかまど、ここから少し離れた位置に立つ記念館の尖塔に備えられたカリヨンの鐘、周囲に雑木林のむらがる風と匂いと危険を感じることのできるテニスコートと、まあその程度であった筈だ。人生通算でも数えるほどしかここを訪れていない日向にとっては少なくとも、これと言うほど重要で手放しがたい思い入れや体験がここにあったとまでは言えない。

「さてと。まずは給水タイムにするべ。ホレちなつ、約束のジュース」

 背に負っていたボディバッグからボトルを一本取り出した日向は、それをちなつへ渡す。こうなると予想はついていたので家の買い置きからスポーツドリンクを三本ばかり持ち出していた訳なのだが、それが早速役に立ってくれたのは嬉しいやら悲しいやら。サンキュ、とボトルを受け取ったちなつはすぐにキャップを捻り、中身を半分ほどまでごくごくと一気飲みした。

「ぷはー。いやあ生き返った。ここまでダメージ食らうなんて思ってねがった」

「それは流石に考えなしだべー。あの坂を上るって時点で、歩きでだってまあまあの運動だべっての」

「中学生になった今なら、もうさっとが(ちょっと)は余裕で行けると思ってたんだけどなあ。やっぱダメだったか」

「その上チャリで立ち漕ぎして、だしな。西六(にしろく)のチャリ部だってここまではやらねえべ、っつうぐらいのハードトレーニングなんでねえの?」

「やるべ、このぐらいは。オリンピック選手出してるぐれえなんだし」

「ま、専門外の私らにゃホントのところはサッパリ分がんねっすけどね」

 そう言って肩をすくめつつ、日向も自分用のスポドリをぐびりと呷る。今しがたの話に出た「西六」とは大仙市のお隣美郷(みさと)町にある西六郷(にしろくごう)高校、「チャリ部」とはそこの自転車競技部のことだ。その界隈では名の知れた国体やインターハイの常連校で、部の出身者にはちなつが言っていたようにオリンピック選手やら競輪のプロ選手やらが歴々とその名を連ねてもいる。これだけの成績を毎年のように積み上げるからには、彼らの重ねる日々の練習もまた並大抵のものではあるまい。自分たち曲北がそうであるように。

「つっても、まさかちなつだって今から競輪選手目指すってワケでもねえんだべ。張り合う対象間違ってんぞ」

「べつに、そこと張り合いでがった(たかった)んでねえがら。ただちょっと、自分の限界さ挑戦してみたくなっただけ」

「ふうん?」

 生返事をしながら、日向はギシリと柵に寄り掛かった。付近には黄色いペンキの剥がれかけたベンチもある。そこに腰を下ろしてもいいのだが、長年の雨風に曝されてけっこう汚れが目立つし、ハンカチなんて上等なものも持ってきていない。多少お尻が汚れるくらいであれば、さほど気にもしないのだけれど。

「で、目的は果たせたワケ?」

 日向が問うと、ちなつは回答の前に一度大きく息を吸い、ハアー、と時間を掛けて長く息を吹き下ろした。

「まあ、果たせたっちゃ果たせたかな。とりあえず今の自分がこんなもんだってのは分がった。今回はそれで満足」

「そっか」

「まあ目的はもう一つあんだけどさ。それはまた後で」

 意味深な言い方をして、ちなつはスタンと靴音を鳴らし跳ねるように立ち上がった。

「突然話は変わるけど、何回か来たよなあ、ここ」

「本当に突然だなオイ」

「毎回来るたびに何かしら思い出が出来てるイメージあるけど、ヒナは何か覚えてることある?」

 ちなつにそう問われ、んー、と日向は数秒記憶を探る。

「あるっちゃあるなあ。あれは確か五年生の夏休みだったか、杏も一緒に来たバーベキュー会の時にさ、ちなつが肉落っことしてグズグズ泣きそうになって。仕方ねえから私と杏とで肉あげたら途端にニコニコんなってたっけ」

「ちょぉっとヒナー、出だしから私の恥ずかしい記憶掘り下げんのやめれー」

「言い出しっぺはそっちだべ。それと、あっちの回転地球儀で杏が調子ん乗ってグルングルン回しまくって、そのせいで勢いつき過ぎて私ら誰も降りれねぐなって、『たぁすけてー!』って親さ(さか)んだのも覚えてる」

 あの時は事無きを得たからそれで良かったものの、一歩間違えれば大変なことになっていたかも知れない。成長するにつれ世間のニュース等にも目を通すようになった今、日向は割と真剣にそう思う。

「後はあれな、杏の父ちゃんが呑んでたのさ釣られて、うちの父ちゃんがうっかりビールか何か一杯呑んで酔っ払っちまった事件」

「あー、あったっけな。杏ん家は母ちゃんが運転できるから何も問題ねがったけど、日向ん家の母ちゃんは免許持って()して、したらオメエおら()の車なんとする気だのよー、って日向の父ちゃんしこたま叱られ(ごしゃがれ)てらったっけ」

 あの時は始末に負えなかった。あそこで「だったら俺が運転する」と急遽ちなつの父が申し出てくれたことで何とか事は収まったものの、もしもアルコールを嗜まないちなつの父が小山家の車に乗せられてあの場へ来ていたのでなかったら、きっと日向の一家はここに車を置いて徒歩で下山させられる羽目になっていたことだろう。

「バカだったでなーうちの父ちゃん。その節はお宅のお父様さも、どうもご迷惑お掛けしまして」

「いえいえどういたしまして。ま、困った時はお互い様って言うしな。それにうちは毎回会費もタダで連れてってもらってるような身分だし、他で手伝えることは何でもするって」

「んだっけな、そう言や」

 ちなつと杏、そして日向。この三者はマーチング部で一緒になって以来、個々人同士は元より家族ぐるみでの付き合いをすることも多かった。元を正せばちなつの父と杏の父が学生時代の同級生、というよしみに端を発する親同士の関係は、そこにちなつの家の近所でもあった日向の家が加わる形で折々に触れ交流を続けてきた。

「ただうちは会費無料の負い目もあって、父ちゃんやハルはあんまし顔出さねえようにしてんだけどさ」

「うちも似たようなこと言ってたっけなー。まあ会費は流石にタダじゃねえけど、他の子よりはこっそり少なく受け取ってんだよね、杏の父ちゃん。だがら毎年の一泊旅行ん時なんかは会費の他に差し入れ渡して、それで帳尻合わせって按配(あんべ)にして」

「杏と仲良くしてくれてる恩返しみでンたもんだ、って杏の父ちゃんは言ってっけど、なんか大袈裟っていうか気ィ遣い過ぎって感じはするでな。私らはただ普通に友達として杏と付き合ってるだけだってのに」

「まあ、それはンだでな」

 話を合わせながら、その裏側で日向はひっそりと考える。恐らくちなつは自分ほどには、杏の過去に何があったかを知らない。低学年の頃にほんの一時期騒ぎとなったその話を、日向は後に他のクラスの児童から伝聞する形で聞き及んでいた。それでも詳細とまで呼ぶには程遠い情報量ではあるのだが、あの杏が不登校に陥りかけていた、ということは把握している。勿論こんな暗い噂話、杏本人や彼女の家族には直接裏取りなどしていない。

「もっとも、気ィ遣ってんのはウチらの親だって同じだべし。()ぐ分がらんけど大人同士ってそういうモンなんでねえの? 子供の私らにゃあカンケーねえって」

「んだ、って言いてえんだけどな。うちの場合、もうちょっと複雑だがらさ」

 ちなつが自嘲するように眉を歪めた。その仕草の意味は、もちろん日向だって解っている。だからあえて口にはしない。

「めんどくせえよな、大人ってさ。もっとこう、ウワーって馬鹿なことやってゲラゲラ笑い合ってそれでおあいこさん、ってな感じに手打ち出来りゃあ、何かと窮屈さねったって済むんだろうに。まあそれが出来ねえからこその大人なんだかも知んないけどね」

「お、出ましたヒナの悟りトーク。さてはちょっとノってきたべ」

「何なのよ悟りトークって。こう見えて、私だって色々考えてんの」

「どうだか」

「なにおー」

 あははは、と笑いながらちなつが木の柵に手を掛ける。

「他には学校の遠足か。確か春遠足ん時で、私はヒナと一緒の班だったっけか。桜があっちこっち咲いてるの眺めながら、二人並んで歩いて来たんだよな」

「んだんだ。小学二年生の足じゃちょっと遠がったけどなー」

「三キロか四キロあんだっけ? 片道で」

「確かそんぐれえ。当時の私らの足で二時間近く掛かった記憶はあるし、おまけに坂もきついし。あ、それで思い出した。さっきの坂のふもとらへんで雄悦がバテてさ、そんで他の同級生さケツ蹴られながらヒイヒイ言って上がってらったよな」

「あー! あったあった」

「あん時はまさか後に同じ部活になるとは思ってねくて、ちなつも私も『なんだあのモヤシはー』って、呑気にハラ抱えて笑ってらったけど。因果とは皮肉なもんですなあ、後々私らが雄悦のケツ叩くポジションさ据えられることンなるとは」

「シャレんなんねえもんなー。部のランニング練習ん時だって雄悦ひとりスタートからだだ遅れで、周回どころか二周差ぐれえの私らがバシバシ背中叩きながら雄悦どご()ゴールまで追っ立ててな。いやあ全く筋金入りだで、アレの虚弱体質は」

 くっくっく、と二人は八割方が愉快さで彩られた苦笑を喉から洩らす。

「にしてもホント良く覚えてんなヒナ。私なんてその辺の記憶、完全におぼろげだで」

「それなりにはな、どうも物覚えは悪くないようでして」

 もちろん覚えてる。忘れてなどいない。ちなつと楽しく過ごした日々の思い出は全て、日向にとって形無き宝物のようなものだ。

「でもそっか、あれが二年生の時だったか。あれから家ん中がゴタゴタしちゃって、三年生の遠足ん時、私行がねがったんだよね」

「んだったな。初めはこういうイベントのある日にちなつが風邪なんて珍しい、って思ってたけど」

「風邪でねがったんだよな、ところが。遠足なんて行ってる間に母ちゃんの容体が急に悪りぐなったら何としよう、って思って、それで人生最初で最後の仮病。父ちゃんさだって内緒にしたんだよね、あれ。知ってんのは今でもヒナだけ」

 どこか昔を懐かしむような目つきで、ちなつが自宅のある辺りを眺める。事の真相を日向が知ったのはその年の夏のことだ。その時にはもうちなつの母は故人となっていて、何があったかを母親に知らされた日向は一目散にちなつの家へ飛び込み、文字通り日が暮れるまで二人抱き合ってワアワアと泣いていた。

「そう言えば、あの頃はヒナって私のことチイコチイコ、って呼んでらったよな。いつの間にか言わねぐなったけど。あれっていつからだったんだっけ?」

「それはあれよ、やっぱいつまでもガキくせえ呼び方すんのもどうか、って十歳の誕生日を境に思ってさ。おいちなつ、なあに日向、ってやり取りの方がカッコ良いべ?」

「夫婦か。の割に、私はずっとヒナ呼びのまんまだけど」

「そこはちなつが悪い。まあ今さら呼び方なんてどうだって良いけどさ、私の場合は気分よ気分。ハーフ成人式を経たことでちょっと背伸びしてみてえなー、ってぐらいの」

 本当はそうでもなかった。日向がちなつへの「チイコ」呼びをやめたのは、母を亡くしたあと家族の為に一生懸命尽くそうとするちなつの背中を見ているうちに、彼女が自分よりも一足早く大人になってしまったように感じたからだ。同時にその一足で、自分からどんどん遠ざかっていくようにも。その時から日向はチイコと呼ぶのをやめた。出来なかったのではなく、するべきではないと思った。それはいつまでもちなつのことを子供扱いしているみたいで、一家という途方もないものを背負おうとしている人物の呼び名に相応しくないと、子供心にそう考えたから。

「ところで遠足の話に戻るんだけどさ。ここって色々遊具あったけど、何か上の方さジャンボ滑り台って無がったっけ。ヒナ覚えてない?」

「確かあったと思う。滑ったことはねえけど」

「だよなあ。ヒナと一緒で私も滑った記憶ねえんだよ。あるのは知ってんのに、()してだべ」

「さあ。使用禁止にでもなってらったんだべが」

 そこは本当にとんと記憶に無かった。もし使用可能だったとしたら、あの手の面白そうな遊具はいの一番に自分たちが使っていた筈だ。その頃は学校どころではなかった杏を除外するにしても、ちなつと自分とで揃って思い出に無いということはやはり、修理中とか故障中で使えなかったと見るのが妥当だろう。

「ちなつが気になるんだば、今からでも確認しに行ってみてもいいけど、どうする?」

「んー、いや、いいや。思い出話したかっただけで、別に今滑れるとしたって滑りてえワケじゃあ無えし」

「そっか」

 ぷつんと会話が途切れ、二人はしばし沈黙の時を過ごす。じっとりと澱むようなその間隙の空気に、日向はこれっぽっちも不快や窮屈の念を抱かなかった。

「さて。思い出話のタネも切れたことだし、ちなつの体もそろそろ落ち着いてきた頃だべ」

 日向はあえてこんな問い掛けから入っていった。ちなつが何のつもりで自分をこんなところまで連れ出したか、もう判った。そう答える代わりに。

「さっき目的がもう一つあるって言ってたけど、私さ何か話があるんだべ? 学校とか家でねくて、ここでしたいような話」

 そう問うた時、ふう、とちなつが息を抜くのが分かった。これはビンゴということだ。そしてその話の中身にも、おおよそ見当はついている。再びの静寂。秋虫たちの声はもうだいぶ聞こえなくなっていて、サワサワと木々の間を撫でゆく風は弱々しくも確実に、秋の深まりを日向の肌身に感じさせる。もうすぐ冬が来る。背丈まで覆い尽くすほどの雪が降り積もる極寒の季節が。そして、自分たちの進むべき(みち)を方々へと分かつ、そういう時期が。

「……夏頃さ、私日向さ言ったべった。音楽は中学までで卒業、高校がらは勉強一本に集中して、それで卒業したら働きに出るって」

「うん、聞いた」

「あれね、撤回する」

 ふうん、とも答えず、日向は視界の遥か向こうを横切った虚空の影を見やる。大きく翼を広げてのびのびと中空を舞う一羽の鳥。あれはトンビか、それともノスリか。鳥はそのまま踊るように眼下の雄物川を上流方面へと辿りながら徐々に高度を上げ、ここからではただの黒点としか見えない距離まであっという間に飛び去っていった。

「文化祭の後で父ちゃんと話し合って、そんで決めたんだ。私、音楽の道に行きたい。苦労もいっぱい掛けるし何の保証も無えことだから、父ちゃんやハルのこと考えたら心苦しい気持ちもあるけど、でもやっぱり私は私の好きな道をとことんまで極めてみたい」

 そう言い切ったちなつが向けるその表情は、この秋の空みたいに雲一つなく透き通っていて、とても広々としていた。まるで今までの迷いを全て振り払ったかのように。

「だから高校もね、前に永田先生に言われた私立推薦の方向で行こうって思ってる。幾つか候補はあったんだけど、特待生なら授業料も施設費もほぼ免除で寮費も家庭事情を考慮して特別に減免してくれるってトコがあったから、そこ受けてみるつもり。メチャクチャ遠いしそこも活動は忙しいらしいがら、盆暮れ正月だとかでこまめに帰って来るとかは多分出来ねえと思うんだけどね」

「……そっか」

「まだ受験もしてねえし、推薦はされても特待生枠に入れるかの保証も無えがら、どうなるかは分がんねえ。けどもしうまく特待性になれれば家の負担は最低限で済ませられるし、がんばり次第で音楽隊でもプロでも目指せる道は開けるっていう話だがら、とにかく高校卒業までの三年間を当面の目標にして、今は目いっぱいやってみる」

「三年間、か。そしたら、」

「うん。――ヒナとも三年は、多分会えねぐなると思う」

 やっぱり。そんな気分が日向の胸中に染み入る。ちなつがそういう道を選ぶであろうことを、そして選べばきっとこうなるであろうことを、日向は心のどこかで予見していた。ここへ来るよりも前から。今日ちなつに連れ出されるよりも、ずっと前から。きっとそう、ここ暫くのちなつの顔つきや言動を見ているうちに、それとなく。

「私にとって、これは人生最後のチャンスだって思ってる。ここでコケたら今度こそ全部すっぱり諦めて、私は父ちゃんとハルを支える為に生きていく。でも今はまだ到底諦められねえから、今はとにかく死ぬ気んなって三年やってみるよ。自分のやりたいことの為に、自分が全力出してやり切ったって、そう思えるまで」

 だからだったのだろう、と日向は結論した。さっき登って来たあの坂道をあえて自転車に乗ったままで挑んでみようとしていたのも、そもそもこの話をする場所としてこの公園を選んだことも、そこには一切の理屈なんて無い。全てのことは要するに、ちなつがただ『そうしたかったから』だ。

 今まで身の回りのことに囚われて、自分のやりたいことには最優先にフタをし続けていたちなつが今、自分がやりたいという衝動をそのまま露わにしている。衝動のままに行動し、その結果を自分のものとして受け止めようとしている。普段のちなつなら絶対しなかったであろう行動のオンパレードも、これなら得心がいく。今日ここにおいて、ちなつは試してみたかったのだ。自分という存在を。その身に秘めたる可能性を。どんなに些細なことでもいいから自分が思ったままの道を突き進んでみて、それを今後の人生の新たなるスタートラインとすることで、この先の道も同じように突き進んでいけると、そう信じたくて。

「だから今日はヒナにも無理して付き合ってもらった。内心ごめんって思いながらではあったけど、でも私がやり切るのを見届けてくれんのに、ヒナ以外の奴なんて考えらんなかったからさ。だがらヒナ、許して。私が決めたことを。これから私のやろうとしてることを」

 だとしたら、何と光栄なことだろう。自分は今日、ちなつが新たに定めたスタートライン、その脇に立って彼女の門出を見届ける役を仰せつかったというわけだ。

 これからちなつの進む道が茨の道であるか、それとも輝かしい赤絨毯であるのか、それは誰にも分からない。きっとちなつ本人にだって分かっていない。だがそれでもちなつは往こうとしている。自分の進みたい道を、自分の目指す場所へ向け、自分の進みたいように。その立会人として、ちなつに、自分が、選ばれた。何の才も持たぬ只人の自分が、それどころかちなつに依存しながら生きて来たような自分が、ちなつを送り出す第一の存在としてここに立つことを許された。これに勝る勲章などあろう筈も無く、これを超える報酬も他には考えられない。

 これほどの宝物を今回、自分はちなつから与えられてしまった。だから今、自分がちなつにすべきことは。

「あっそ」

「……は?」

 ちなつの目が点になった。それを見て、プッ、と日向は噴き出す。

「ま、頑張んなよ。せっかく()のやりてえコト見つかったんだ。向こう三年ガリガリ頑張って、んで手応え感じたら諦めるなんて言わねえで、もちっと頑張ってみ? あーでも、その前に受験頑張れな。ここまで言って落ちてみれ、こっ恥ずかしいなんてモンでねえど」

「いや、あの、そういうコトでねくて。他に何か言うこと無えの? もうちょっとこう、感動的なっつうかさ」

「あるワケ無えべ、んなモン。それとも何ぃー? なんか涙ちょちょ切れるようなリアクションの一つでも欲しかったってえの? ちなつサァン」

 揶揄するように日向がそう述べると、愕然としたちなつがぱくんと顎を閉じる。

「まあまあ、辞めるっつう話ならしんどかったし泣きもしたけど、続けるんなら私はオールオッケーだしさ。とりあえず今の私らには今の目標があるし、その後の受験だなんだって目の前の問題も一歩一歩着実にクリアしてかねねえべ? 将来の話なんてそっからだよ」

「ぅえ、ちょ、ちょっと待ってヒナ。ストップストップ。あまりにあっさりし過ぎたもんで、私の情緒の方が追っつかねえ」

「はあー? この程度で混乱してたら何も出来ねえべったぁ。その固ってぇ癖して存外脆いメンタルもちなつの直さねねえトコだで。ひとまずどこさ行くにしても厳しい環境だべし、三年みっちり鍛えられて来いで。冬の荒波を渡るブリのように、冷たい海に揉まれて脂ぴっちり乗ってねえと美味ぐねえしな」

「そこで無理やり晩メシの話さ繋げんなっ」

 ちなつの手が綺麗なスナップでツッコミの軌道を描く。そして、

「――あはははははははっ、」

 二人して高笑いしてしまった。幸いにして周囲に殆ど人の影は無かったものの、誰か見ている人がいたら何事かと驚いたかも知れない。けれどそれも今の自分たちにはどうだっていいことだ。ひー笑ったぁ、とちなつが眦を拭い、余韻にしばらくケタケタと肩をひくつかせる。

「ホーント、ヒナには毎回してやられるわぁ。もっと重い感じの空気になるかと思ってらったのに、こういうトコでいきなりスっと外して来んだもん。さっきまでハラ決めてらったやつ(のに)、おかげでバカらしくなっちゃったで」

「良きかな良きかな。基本的に良い事なんだし、そこに涙なんて似つかわしくねえべ。こういうのはサックリで良いのだよ、ちなつクン」

「ハァ、ったく。アンタってやつは」

 ふるふる、とちなつが首を振る。その仕草はまるで、今の今まで彼女を押さえつけていた(しがらみ)を自ら振りほどくかのようだった。

「……んだな。しんみりジメジメなんて、私らには全然似合わねえもんな」

「そうそう。それよりはいつも通り馬鹿話してゲラゲラ笑い合って、そうやって最後はおあいこさん、が一番だよ。私とちなつは」

 そう、これで良いのだ。悪戯っぽく笑ってみせながら、日向は思う。ここで湿っぽくしたところで、却ってちなつは心残りを作ってしまうだろう。友達を悲しませてしまった、申し訳ないことをした、と。そしてそれはもしかして、万一にもちなつがここへ帰らざるを得なくなったいつの日か、彼女が帰って来る為の口実の一端となってしまうかも知れない。別にそのぐらいの重荷は背負えるしいざとなれば覚悟もするけれど、でも自分自身に言い訳をしながら生きていくようなそういう生き方を、ちなつには選んで欲しくは無かった。

 だったら自分のすべきことは? いつものように、茶化すように。それで十分だ。

「大体、三年ったって別に牢屋にぶち込まれるワケでも無えんだし、何だったら私の方から会いに行ったげるって。おばんですーちなつさんのお宅ですかぁー、って、ある日突然ひょっこりとな」

「会いにって、簡単に言うけどホントに遠いんだで? 片道だってバカならねえ料金になるし」

「この狭い日本、絶対無理ってことも無いっしょ。夏休みとか駆使すれば日数掛かったって行くことは出来るべし、何なら親に小遣いせびるとかジイちゃんバアちゃんにたかるとか、方法なんて幾らでもあるある」

「そこはせめてバイトして稼ぐ、とか自力感出せで」

「ワッハッハ。とっくにご存知であろうに、ちなつクン。そういう泥臭いのは私の性に合わんのだよ」

「ふふっ。ヒナのばーか」

 ちなつの嘲りが、しかし今はどこまでも清々しい。ちょうどこの頭上に広がる青空みたいに。

「あーあ、見事に肩透かし喰らってしまった。へば目的も全部果たしちゃったし、帰るかぁ」

「ええー? 難儀してここまで来て、今の話だけで用事終わりってマジ?」

「うん、単純に来たかっただけだし。それより何か腹減っちゃったなあ。うちで何か食う? インスタントラーメンぐれえだったら買い置きしてある筈だし」

「徹底的な倹約ぶりは相変わらずなこって。いいよ、ちなつの進路決定祝いってことで、今日は私がなんか奢っちゃる」

「え、ホントに? 後からウソでしたーは無しだで?」

「オメエほんと、私が奢るって言った時だけ一切遠慮さねえのな」

「だってヒナだし」

「くっそう差別だ、国際人権団体さ訴えてやる」

「どうぞご自由にー。まともに取り合ってもらえるとは到底思えねえけどね」

 高を括ったような返しをしつつ、ちなつが軽やかな足取りで自転車のところまで歩いていった。日向も自転車の向きを変え、スタンドを蹴り上げる。ここへ来ることももう暫くは無いだろう。そんな哀愁にも似た思いで振り返ってみた郷土の景色は、秋枯れの季節とは思えぬ煌びやかさであるように、その時の日向には思えた。

 二人してやいのやいの言いながら押し自転車で舗装路を歩き、また例の坂のところまでやって来る。上りは大変苦労させられたが、下りは重力を味方に付けられる。こうなれば自転車だって心強い味方。その気になればこの坂だって、かなりのハイスピードで下ることもできそうだ。

「何奢ってもらおっかなー。ハードな運動してまだ体火照ってるし、アイスもありだな。でもハラさ溜まるものってなれば、もうちょっと食いでのあるもんが良いかな。時期的にそろそろ肉まん辺り行けるか? うーん」

 ちなつはすっかりこの後のことを考えて浮かれ気分、と言った様子だ。そのちなつへ向け、ごめん、と日向は一言を申し入れる。

「ちょっと先行ってて、ちなつ」

「え? いいけど、何か用事でもあんの?」

「忘れ物。大したもんでねえがら、無ければ無いでとっとと戻ってくるよ。ンだがら坂の下の分かれ道んトコで待ってて」

「はあ、うん、分がった。へば下で」

 ちょっぴり怪訝そうにしながら、それでもまあいいか、といった様子でちなつが頷き、下り坂を滑り始めた自転車のブレーキから指を放す。次第に速度を増しながら、ちなつと彼女を乗せた自転車はあっという間に日向の元から離れていった。体重を乗せ、肩で風を切って、びゅんびゅんと。それを日向は上からずっと眺め続けていた。そう、本当は忘れ物なんて、していなかった。

 これからもちなつはああやって、自分の道を突き進んでいく。それがどんな道であれ、自らの手で切り拓いた道の先には、今みたいに順風満帆で爽快なちなつだけの世界が待っている筈だ。自分はその道に乗れない。一緒の世界には行けない。そのことを悲しいとか侘しいとか、そういう風には微塵も思わなかった。ちなつのああいう姿をいつの頃からか、自分はずっと望んできた。あれがちなつのあるべき姿、往くべき道だ。だから、これで良い。

「――なあんて思えるようになったってコトはつまり、やっと私も巣立ちの時を迎えたってことかあ」

 そう独り言ちてから自転車に跨り、日向は地面を蹴って下り坂へと車体を走らせる。思いの他きつい傾斜の舗装路を、ブレーキを掛けながらの徐行運転でゆっくりと、ゆっくりと。来た時とは逆に、今度は日向がフラフラとしたハンドル捌きで坂を下りてゆく。上り坂で自分がちなつにそうしてあげたように傍で補助をしてくれる者は、誰もいない。けれど何故だか自転車を降りて歩く気分にもならない。自らに課したこの些細な難局を今、日向は自分一人の力でどうにか切り抜けてゆかなければならなかった。けれどもそれもそれで、また楽しいものがある。一つ目のつづら折れを抜けて二つ目のつづら折れ、あそこは片輪ブレーキでドリフトなんてしてみようかな、と日向の心は僅かに浮き立つ。

「おーいヒナぁ、おーい」

 坂道も残すところ直線数十メートルのみ。下ではちなつが呼び声を上げながら待っている。そう、まだあそこで待ってくれている。こうして他愛なく一緒に過ごせる時間ももうそれほど多くはない。その残り僅かな二人の時間を、涙や苦しみで埋め尽くしたのでは勿体ない。何より自分たちの年頃で、大人みたいな痩せ我慢や気の回し合いをするのはまだちょっぴり早いのだ。だったら今はもう少しだけ、あの頃のように、子供のままの私たちで。

 

 

 

「ヒナー、早えぐ早えぐー。快勝軒の豚骨つけ麺が私たちを待ってるどー」

「奢りの内容を勝手にグレードアップすなー!!」

 

 馬鹿なことをやって。笑い合って。それでおあいこで。

 

 

 

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