あの子が何かになるまでの ~曲北中学吹奏楽部のインテルメッツォ~ 作:ろっくLWK
「……うん、うん、そうだね。あははは、それも良いかも。うん、じゃあ明日よろしくね。はあい、
通話を終えてカチャリと受話器を置く。ふう、と一息ついて充足感に包まれながら、
「早苗ちゃんからだったのね。明日の約束?」
「うん。クラスの友達も誘って、みんなで初詣行こうって」
母に答えつつ、真由はテレビに映されたお寺の鐘つきの光景を少しぼうっとした目つきで眺める。こんな遅くまで起きて過ごすのも久しぶりだ。でもたまにはこういう日があったって良い。だって今日は一年の締め括り、大晦日なのだから。
「今年ももう終わりなんだね。こっちに引っ越してきてから、何だかすごい速さで時間が進んでいっちゃったみたい」
「それだけ充実してたってことでしょ。どうだった? 真由の学校生活は」
「入る前から想像はしてたけど、予想以上って感じだった。部活も朝から晩までだし、土日の休みも殆ど無かったもん。でも、その分だけ楽しいこともいっぱいあったよ」
「そうね。夏には部活のみんなと男鹿まで旅行したり、花火を観に行ったりもしたものね」
母がしみじみと述べたそれらの思い出は、勿論真由だって忘れていない。今年は何かと思い出深い一年だった。大変なことや辛いと感じることもあったけれど、過ぎ去ってみれば全ては宝物のような体験ばかり。きっと新しい一年も、こんな風に楽しい思い出を積み上げてゆくことが出来るのだろう。その期待感に、今から胸が高鳴るのを感じる。
『――年越しまであと一分となりました。それではテレビの前の皆さんもご一緒に。六十、五十九、五十八……』
「もうそろそろね」
母と真由、二人は並んでその瞬間を待ち侘びる。テレビの液晶には日本のみならず、世界中の人々が各々の言語で残り秒数を数える場面が描かれていた。ところで真由の父は夕刻からの飲酒が祟ってか、今年も年越し直前のこの時間帯を居間でグースカ
「でも来年は、起きてるお父さんとも一緒に年越しを迎えたいな」
「それは真由からお父さんに直接お願いしなくちゃね。私から言ったって聞きもしないし」
諦め半分の声色でそう語る母もまたいつも通り。我が家はきっと来年もこんな感じだ。小さな安堵を胸の内に抱えながら、真由は刻々と減ってゆく画面の数字を注視する。
『五、四、三、二、一、……明けましておめでとうございます、二〇一四年の幕開けです』
ハッピーニューイヤー、の掛け声と共に、テレビの向こう側でバンバン、と花火が上がる。その眩さに夏の花火会場で間近に観た大曲の花火を彷彿とさせられ、今年もあの迫力をもう一度この身で味わってみたい、と真由は心のどこかで願った。
「明けましておめでとう、真由」
「明けましておめでとうございます。今年もよろしくね、お母さん」
母と三つ指ついて丁寧なお辞儀を交わし合い、それから真由はにっこりと微笑んだ。街のどこかから、二つの年を跨いで鳴り響く除夜の鐘の音が聞こえる。テレビの中の賑々しさを堪能しながらのんびり過ごすお正月のひと時。それは慌ただしかった今年一年の真由にご褒美として与えられた、とても贅沢な時間でもあった。
「明けましておめでとー真由ちゃん」
「みんな、明けましておめでとう」
気持ち良い青空澄み渡る翌朝。待ち合わせ場所としていた
「いやー、ゆうべの『こぞ使』マジで
「観た観た。ここ最近で一番だったかもね」
「毎年
「あー観でがったー。うちは祖父ちゃん達の希望で紅白ぅー」
「うわあ、それすっげぇ損したなあ奈美子。後で観た方いいで絶対。うちさ来れば録画あるし、今度見せるがらさ」
「ホント? さっすが早苗ぇ、持つべきものはお笑い好きの友達だでぇー」
連れ立って歩く間、彼女たちとの話題は昨夜観た年末特別番組『小僧の使いとちゃいまっせ
「それにしてもさすが秋田っていうか、お正月でもやっぱりすごい雪だね。いつもの通学路と全然違う方角だからこっちにはあまり来たこと無かったけど、こんなに積もるものなんだ」
「まあなー。細っこい路地なんかは除雪も難儀するらしくて、ヨコっ
真由たちの居る歩道のすぐ隣にも、腰丈よりも高い雪壁が構築されている。これはわざわざ積み上げたものではなく、日々の除雪によって自然と脇に寄せられたものが次第に盛り上がってゆき、やがては身長を超えるほどにまで育ってしまうものなのだそうだ。車道も両端の雪が掻き切れずに緩い斜面を形成しているような有様で、それはあたかもスノーボード競技におけるハーフパイプみたいですらある。
「そのせいで滑って対面の車と事故ってるのとか、結構見るんだよなーこの時期は。うちの親も時々ヒヤっとしたー、なんて話する時あるし」
「私らでも通学中、足滑ってズデン! って行くときあるもんな。一人の時
「私もこないだ歩いてる途中で滑って、そのまま一メートルくらいツツツーってなったよ。転びはしなかったけど、踏ん張り利かなくてものすごく焦っちゃった」
「気ぃ付けた方いいでー真由ちゃん。カカトから行くと大体死ぬがら、歩く時はベタ足でむしろ自分がら滑らしていくのが転ばねえコツだよ。あと
「そうそう。んで万が一ズルン! ってなった瞬間、両手でワターって地面叩いてさ」
「それは絵梨お得意の柔道の受け身だべ。そこまで行ったらもう死んでるっつうの」
あははは、と一同の笑い声が雪づくめの通りに華やぎを添える。彼女たちの言う『死ぬ』とは即ち『転ぶ』の意だ。それが方言なのか彼女たちだけに通じる文化なのかはともかく、真由も会話の文脈から割と早期にそのことを理解するに至っていた。
ころころと変わる話題にもれなく花を咲かせつつ、真由たちはそこかしこに立ち並ぶ路上の屋台を目で物色しながら進んでゆく。やがて視線の先に大きな木造りの鳥居が見えてきて、道路を横断した一行は初詣客がごった返す神社の前へと立った。
「よおし到着。へばお参りしちゃおっか」
「おー」
奈美子と絵梨が連れ立って鳥居をくぐり、境内へと入ってゆく。真由は社殿の趣きを少し目で堪能してから、傍で待っていてくれた早苗を伴って奈美子たちの後に続いた。
ここ
「元々は九月にやってるそのお祭りで打ち上げてらった花火が、後になってナントカ大臣賞を付けるようになって競技化していったのが、今の『大曲の花火』の前身なんだってさ。それが今じゃ総理大臣賞とかが沢山付いて、大会提供でも凄まじい量の花火バンバカ打ち上げるワケだがら、ホントすげえ話だでなあ」
「奈美子詳しいー。オメエいつの間にそンた知識人さクラスアップしたのよ」
「社会科の郷土研究でちょうどやったヤツなんだよね、去年」
「なるほど、それなら詳しい訳だね。奈美子ちゃんすごい」
「でもナントカ大臣賞のナントカが出てこねがったがらな。減点二十」
「えー、その点数カラいって絵梨ー」
いつもの調子で雑談を交わし合いながら手水舎にて手と口をゆすぎ、それから四人は参拝の列に並ぶ。どんなお願いをする、賽銭いくら入れる、この後どうする、そんな会話が方々から聞こえてくる中、真由も何をお願いしようかしらん、と顎に指をかけて思案した。
「早苗は何お願いすんの?」
「私は決まってらべったー。カネゴンが今年度いっぱいで転勤しますように」
「百パーセント私怨で笑うわ」
「もう祈りを超えて呪いの領域よ。そういう絵梨は?」
「私は柔道個人戦で全県優勝できますように、かなー。今年最後のチャンスだしさ」
「はいはーい。私は成績上がりますように! 特に英語」
「志望校のボーダーまで全教科であと五十点足りねえんだっけか、奈美子。ンでもそれだば神様さお願いするより自分で勉強した方が早ええんでねえがー?」
「早苗の期末テストだって私と似たようなモンだったべったー。日頃がら頑張ってるがらこその、神様どうか私にお恵みをー、ってヤツよ」
やはり各々には各々の願い事があるようだ。いずれも本心から出たのであろうその正直かつ素朴なお願い事を、果たしてこちらの神様は聞き入れて下さるだろうか。今回が初参拝である自分にはここの神社のご利益の程など皆目見当がつかないのだが、それでも折角なのだから叶って欲しいものだ、と真由は思う。
「真由ちゃんは? やっぱ部活で今年も全国行けますように、とか?」
「んー。それもお願いしたくはあるけど、一番はやっぱり『今年もみんなと笑って過ごせますように』、かな」
「わあ、それメッチャクチャ真由ちゃんらしい」
「私も心打たれたぁ。カネゴンの転勤なんかお願いさねえで、世界平和とかにしとこ」
「つうか普通はそんなこと祈らねえんだで」
「こっちも成績アップはやっぱナシにして、んだなー、素敵な彼氏が出来ますように、とかにするべかな」
「えー? 何よ奈美子、もしかして好きな男子とか居だの?」
「うんにゃ、全然。だがら神様さお願いするワケよ、奇跡よカムヒアー、ってさ」
「まさに他力本願ですわ、これ」
絵梨の切れ良いツッコミの連続に、思わず真由は噴いてしまう。そこへ被せて早苗が「黒江、アウトー」と宣告したことで、一同はまたまた大笑いしてしまった。
そうこうしているうちに列は進み、参拝の番が真由たちに回ってきた。二人ずつ二列になって、まずは奈美子と絵梨から。その後に早苗と真由がそれぞれ本殿の前へと立ち、賽銭箱に少額の小銭を投げ入れ鈴を鳴らしてパンパンと柏手を打ち、揃って深々と頭を下げてから祈りの姿勢を取る。
両手を合わせて神妙に念じる隣の早苗が、実際に何を願っているかは分からない。それを寸秒気にした後、真由は願いを頭の中に思い描きながら本殿奥の祭壇に向け、ひたりと手を合わせ続けた。参拝を終えて列から外れると、社務所の辺りで奈美子たちが「おみくじー!」と声を上げている。真由たちもそこへ向かい、四人で一緒におみくじを引いた。
「何とだった? 早苗のは」
「末吉ー。願い事、『欲張らざればやがて叶う』。学問、『怠れば振るわず』。恋愛、『奥ゆかしきを重んじるべし』……なんかビミョーって感じ」
「でも末吉は末広がりの吉だ、とかってテレビか何かで聞いたことあるし、書いてある事も全体的にはそんなに悪くもないんじゃない?」
「かなぁ。奈美子は?」
「私のは吉。願い事が『懸命であれば成就す』で、商売が『機運巡る予兆あり』、学問はー、なんと! 『取り組みの成果が出る』だって!」
「おおー。要はそれ、一生懸命勉強すれば結果出るから勉強せえ、ってこったな」
「え、うわ、ウッソ。確かに願い事と学問一緒にすりゃあそういう意味ンなるわ」
ぬか喜び、とばかりに奈美子ががっくりと肩を落とす。確かにこれでは至極当たり前のことを言っているだけ、となっても仕方がない。
「つうか奈美子、やっぱ勉強のことお願いしたのな。んで絵梨はどうよ?」
「末小吉だってさ。願い事が『焦らず運気を上げるがよし』、不運物は『スポーツ用品』で、不運場所が『畳敷きの部屋』……って、柔道少女に残酷過ぎるでこの結果はー」
「マジがよ、これ絶対見てるべ神様、私らのこと」
わはは、と早苗たちが大口を開けて笑っている。それを横目に見て微笑しつつ、真由もくじを開いてみた。と、そこに書かれてあったのは。
「……わ、凶」
「マジで? で、内訳は?」
早苗たちが一挙に真由を取り囲み、くじの文面を覗き込む。自分ではちょっと読み上げる気が起こらなかったその内容は、友人たちの代読に任せることにした。
「えーどれどれ。願い事、『高望みにて叶わず』。旅立ち、『遠方に向かわざるを得ず』。商売は『恥を押して忍ぶべし』。不運人物、『細い身なりの者』……他も大概やべえこと書いてあんな」
「学問が『もっと貪欲に学ぶべし』で、恋愛は『兆しも無し』、待ち人は『来たらず』、病は『打ち身に気を付けよ』かぁ。初めて見たけどこンたエグいこと書いてらんだな、凶って」
「真由ちゃん、あんまヘコまねえでな。大丈夫、悪いことが書いてあったら神社さ結んで来いっていうし」
「う、うん。そうだね。私ちょっと行ってくる」
「あー、私も。このままだば道場さ出入りされねぐなっちゃうし」
真由と絵梨は境内の端にあるおみくじ掛けのところへ行き、それぞれ引いたおみくじを慎重に棒へと結ぶ。その間、心に引っ掛かっていたのは願い事のことだ。実は先ほどの参拝の際、真由は直前で願いの内容を少しだけ変えていた。――あと一年、ここでみんなと一緒に卒業まで暮らせますように。それでこのおみくじの結果というのは到底受け入れがたい。出来れば実現せずにそのまま過ぎ去っていって欲しいところだ。
「よし、終わり」
「私もー」
「へば帰ろっか。みんな時間あるならウチ寄ってかねえ? その辺の屋台から適当に何か買ってってさ。『栗鉄』の新作あるがら皆して遊ぼうで」
「おお、いいねー。真由ちゃんもホラ、気ぃ取り直して奈美子ん家でゲームでもして、パーっとやって忘れちゃお」
「そうしよっかな」
本当は家へ帰れば母のお手製おせちが待っていてくれる筈なのだが、この気分でそのまま家へ帰る気にはちょっとなれなかった。親へは奈美子宅の電話を借りて、帰りが少々遅くなる旨を連絡しよう。来た時と同じく四人で鳥居をくぐり、はあー、と真由は空に向かって吐息を吹く。寒気に冷やされ白い靄となった息は微風に流れ、瞬く間に街の景観へ溶け失せていった。
「あれ、真由?」
と、横から自分の名を呼ぶ女子の声がした。おや、と真由はそちらを見やる。
「あ、ちなつ先輩」
「よっ。こンたとこで奇遇だな、ってほどでもねえか。元日だし」
彼女の後方にはぞろぞろと、日向、雄悦、杏、ゆり、和香、といった面々が並んで歩いて来るのが見えた。三年生だけのところを見るに、彼女らは今年の受験の合格祈願でもしに来たのかも知れない。ちょっとごめん、と早苗たちに断りを入れ、真由はちなつの元へと駆け寄る。
「明けましておめでとうございます、今年もよろしくお願いします」
「おお、これはこれはご丁寧に。こちらこそおめでとさん、今年もよろしくな」
互いに頭を下げ合った後、チラリと横を見たちなつが「クラスの子たち?」と耳打ちをするように尋ねてきた。
「そうです。普段から仲良くしてる友達と、みんなで初詣に。先輩たちもですか?」
「んだ。いつもの姫小メンツと、それプラス今年はゆりと和香も一緒にね。ホントは奈央もいる筈だったんだけどさ」
「あー、」
真由は少々言い淀む。その二人の間に、後ろから追いついた杏が「あけおめー真由ちんっ」と飛び込んできた。
「明けましておめでとうございます、杏先輩」
「ことよろ。聞いたよー、奈央ちん怪我しちゃったんだって?」
「あ、そうなんです。ちょうど大晦日前の練習最終日だったんですけど、練習中に転んで頭打っちゃったらしくて、その日早退してました」
「私らもさっき初詣に誘おうって思って奈央ちん家まで行ったらさー、かくかくしかじかで三が日も家で休むから、って断られちったんだよ。最初は方便でねえがーなんて皆して話してらったんだけど、真由ちんの話で裏取りできて良がったぁ」
「はは、そうですか」
裏取り、というのも中々に酷い。直属の後輩に対して容赦のない杏の言動には、真由も乾いた笑いを返すのが精一杯だった。そこへ更に日向たちも追いついてきて、「明けましておめでとう」「今年もよろしくお願いします」と一同の間で新年の挨拶が交わされてゆく。
「にしてもさー、奈央ちんってそんなどんくさい子でも無えのに、外ならまだしも校内ですっ転ぶってのがどうも考えにくいんだよねー。どゆこと? マーチングの練習でもしてらったの?」
「いえ、最終日は午前にアンコンのチーム練と午後から大掃除があったくらいで、MMとかそういうのはやってないですね」
「それで何で怪我するワケ? 意味分かんな」
「私も分かりませんけど、どこかで躓いたとかじゃないですかね。病院行って検査するって話でしたし」
真由とてその辺の情報は又聞きであったが故に、詳しい状況まではサッパリ分からない。むしろ心配なのは奈央の現在の容態だ。当日はともかく大晦日や三が日も出歩けないとなると、これはもしかして余程重傷だったか、あるいは後遺症でもあったりするのだろうか。そう考えて表情を曇らせる真由を見かねてか、あーそれは、と杏の代わりに答えをくれたのは日向だった。
「多分だけど大丈夫っぽかったで。検査も異常ねがったし痛みももう引いてんだけど、念には念をってことで家で休んでるだけだがら、って本人言ってらったし」
「そうだったんですね。良かった」
「まあぶつけた場所が場所だしね。大事を取ってっていうのはあったんでねえかな」
「怪我した時に無理したっていいこと無いからね。うちの楓も心配してたよ、早く良くなって欲しいって」
和香とゆりの論調もおおむね真由と同じだった。それに対して杏は未だ納得がいかないようで、なんかおかしいーなんかおかしいー、と首を左右に捻るなどしていた。
「まあまあ、奈央さ無理させて良いことなんか一つも無えんだし、本人が休むって決めたんだば仕方ねえべった。まずはゆっくり休んできちんと治すのが一番だで」
「ぶうー。ちーちん物分かり良すぎ」
「んなこと言ってねえで、さっさと初詣済ませて帰るべ。私らは受験生なんだしな、あんま長時間出歩いて風邪なんか引いてるワケにも行かねえって」
「あ、そういえばちなつ先輩の受験日、もうすぐでしたね。頑張ってきて下さい」
「ありがと真由。まあリラックスして受けて来るよ、落ちる気はさらさら無えし」
そう言って、ちなつはいつものようにニカリと八重歯を浮かせた。この分ならばおよそ手応えは万全、といったところなのだろう。だがそれでもこうして初詣に来ているのは万に一つも不測の事態が起こらぬようにという願掛けの為であるか、もしくは受験とは全然関係の無い、例えば家族の無病息災を祈りに来たといったところなのかも知れない。
「したら私らそろそろ行くがら。アンタたちもごめんな、せっかくクラスメイト同士で楽しくしてらったトコ邪魔しちゃって」
ちなつが顔を向けた先にはいつの間にやら、真由のすぐ後方まで寄ってきていた早苗たちの姿があった。
「真由ちゃんの部活の先輩方っすね。明けましておめでとうございます。今年の受験、頑張って下さい!」
早苗の一声に合わせ、奈美子と絵梨もガバリと頭を下げる。この呼吸はさすが本職の運動部員たちだ、と真由は感嘆してしまう。厳密に言えば奈美子だけは芸術部所属なのだが、彼女は小学校でソフトボール部に在籍していた過去があり、こうした芸当はお手の物といったところのようである。
「こっちこそ、明けましておめでとさん。へばね真由、受験終わったら吹部さ顔出しに行くから」
「はい、楽しみに待ってます」
「ほーれ杏、ちなつがもう行ぐってよ。さっさと参拝済ませたらさっきの屋台でクロワッサンたい焼き買って食うべ」
「むー、しょうがないなあ。クロワッサンたい焼きの誘惑には勝てねえ」
「どんだけ食いしん坊なのよ、小山さんは。
和香が呆れたように溜息を吐く。あの和香ですらをも自分のペースで振り回すとは、やはり杏は恐ろしい。その苦労が偲ばれて、真由は心でひっそりと和香をねぎらった。
「へば黒江さん、まんずね。あ、そうそう。楓がね、黒江さんを連れて行きたいお店があるって言ってたから、良かったら今度一緒に行ってあげて。うちの部的に言って、次にまとまった時間作れるのは多分年度末辺りになっちゃうと思うけど」
「はい、分かりました。ゆり先輩からも楓ちゃんによろしくお伝え下さい」
「うん。三月まではなかなか顔出しも出来ねえと思うけど、練習頑張ってな」
ゆりが手を振り、そして和香と肩を並べて歩いてゆく。この二人が、いや、ゆりが他の誰かと親しそうにしている光景は本当に微笑ましいものがあった。これからも彼女にはああやって誰かの傍に、人の輪の中に居られるようであって欲しい。他ならぬ彼女自身の為に。
「じゃーね、真由ちゃん。今年一年いろいろ頑張ってくれた真由ちゃんさは今度、この日向ちゃんがソフトクリーム奢ってあげっから」
「いえ、大丈夫です。それに今は寒い時期ですし、ソフトクリームはちょっと」
「おん? それもしかして、あったけえ肉まんとかおでんの方が良いって暗に言ってる?」
「ああいやいや、そういう意味でもないです。とにかく奢りとかそういうのは間に合ってますから」
「そっかぁ。ま、無理に奢ったって窮屈な思いさせたら却って申し訳ねえしな。とにかく何かでお礼はすっからさ、そん時を楽しみにしといてな」
「は、はい。でもホント、お気持ちだけで十分ですんで」
「相変わらず謙虚だなや。まあそんなわけで私も行くよ。帰り気を付けれな」
「はい。先輩たちもお気を付けて」
立ち去る日向たちを見送って一礼をし、それから真由は早苗たちの元へ向かおうとする。その矢先、「黒江、」と真由を呼ぶ少し低い声が聞こえた。
「はい? って、あれ、雄悦先輩」
「黒江。ちょっと」
てっきりちなつ達と共に境内へ行ったとばかり思っていた雄悦が、何故か鳥居から外れた塀のところに一人ポツンと佇んでいた。彼に手招きをされ、怪訝に思いつつ真由は傍へ寄る。
「何でしょうか」
「
「はい? 面倒って、何の話ですか?」
「それは……いや、まあいい。とにかく黒江のおかげで俺も色々助かった。世話ンなったな」
「はあ。どうも」
「用事はそんだけだ。へばな」
雄悦との会話は普段以上に短いもので終わってしまった。境内のほうから「ユウ早えぐー」と彼を呼ぶ声。雄悦はそちらへと向かい、今度は真由が一人そこへポツンと残される形となってしまった。
「雄悦先輩、何のこと言ってたんだろ」
しばし考えてみても、その答えは容易には出て来ない。他に何か気になることもあったような気がしたのだが、そちらにもあいにくと見当は付かなかった。もやもやする気分は残ってしまったがしかし、雄悦と言えば真っ先に思い浮かぶのはやはり、奈央のことだ。
ひょっとして彼は奈央本人か、それとも杏辺りを経由して、夏頃の経緯を知り得たのかも知れない。仮にそうでなくとも、自分と奈央との交わりを傍で見ていてそれとなく思うところでもあったのかも。どちらにせよ推量の域を出ない話ではあるのだが、ともあれ雄悦本人が『世話になった』と言っている以上、その気持ちを徒や疎かにする訳にもいかないだろう。ここは察しがつかずとも受け取っておいて、それで事を丸く収めておくのが最も無難な解決策である筈だ。
「おーい真由ちゃーん。何ぼーっと突っ立ってんのー。そろそろ行こうでー」
数メートル先から早苗に声を掛けられ、真由ははたと我に返った。考え事をしている内にいつの間にやら、奈美子の家へ向かおうとする早苗たちに置いてけぼりを食らい掛けていたようだ。
「それとも何ー? 今の人、真由ちゃんのカレシとかー?」
「ち、違うよ。ただの吹部の先輩。ごめん待たせちゃって、今行くから」
真由は慌てながら返答した。いつまでもここに留まっていたらそれこそ早苗たちの勘違いを助長するようなものだ。雄悦周りの人間関係に自分まで絡まってこれ以上複雑な事態を招くのも避けたいし、さっさと切り替えよう。そう思って身を翻し、いつもの調子で踵から一歩を踏み出した――のだが。
「うわっ、」
その一歩が雪の底でツルリと滑り、真由の上体が大きくぐらついた。咄嗟に滑った右足を踏ん張らせつつバランスの崩れかけた軸足を横へ出すことで踏み止まろうとしたものの、今度はその左足が溶けかかった氷塊を捉えてさらに滑ってしまい、体が一瞬宙に浮く。結果、完全に体勢を崩した真由はお尻から盛大にズシャア、と凍てつく雪面に墜落してしまった。
「
「真由ちゃん大丈夫ー? もー、んだがら歩く時はベタ足でって言ったべー」
からから、と早苗たちが笑い声を上げている。周辺の通行人たちもこっちをじろじろと見てきて、恐ろしくばつが悪い。痛むお尻をさすりつつ今度こそ転ばぬよう慎重に立ち上がり、スカートとウォームタイツについた雪片をポンポンと手で払って――刹那、真由の脳裏にさっきのおみくじの内容がブワリと再来した。
打ち身に気を付けよ。
細い身なりの者。
恥を押して忍ぶべし。
……まさか。真由は境内の雑踏に紛れかかった雄悦の背中を見やる。彼は今日もいつもと変わらぬ長身痩躯ぶりだった。いや、たかがおみくじがそこまで当たっているなんてこと、ある筈が無い。だがされどおみくじだ。一応おみくじ掛けに結びはした訳だが、そんなことでは取り返しがつかないほどに神様の目に余る何かが自分の身を取り巻いていて、それが今まさに起こってしまったのだとしたら? そう勘繰りたくもなるくらい、おみくじの内容とさっきの転倒は奇妙な一致を見せていた。
「真由ちゃーん、大丈夫ー?」
「あっ、う、うん、何ともない」
震える声を押し込んで返事をし、それから真由は早苗たちに教わった通り、両手でバランスを取りながらそろりそろりと歩き出す。流石にもう一度転倒したくは無かったし、おみくじがこれ以上猛威を振るう結果となるのもご遠慮願いたかった。全く、新年早々とんだ厄がついてしまったものだ。後日一人でこっそり拝みに来て、どうか無難であるようにと願い直すべきだろうか。……そんなことを考えつつ、晴れの元日から憂鬱な気分を引きずらぬよう、真由は努めて今日一日はいつも通りの振る舞いをすることを誓ったのだった。
仔細は省くが以降当面の間、真由がおみくじを引くのが億劫になってしまったことは、もはや語るまでも無い。