あの子が何かになるまでの ~曲北中学吹奏楽部のインテルメッツォ~ 作:ろっくLWK
薄暗い室内でもぞもぞと掛け布団が動く。その裾から小さく顔を出して、すーはー、と呼吸をし、
「ううぅ、
シンと冷え切った室内に暖房などは点いていない。部屋据付けのストーブにもタイマー機能ぐらいは一応備えられているのだが、仮にそれで部屋を暖めておいたとて、ここで過ごすのもせいぜい数分足らず。その程度の僅かな暖房費を惜しむほどケチでも無ければ家の経済が逼迫している訳でも無いのだが、しかしほとんど無駄と言っていいことにコストを費やしても益が無く、だったらやらない方がマシというものである。少なくとも奈央自身はそう考えていた。
「あー、布団あったけえ。いっそこのまま着て歩けりゃあいいのに」
そう言えば世の中には『着る毛布』なるものがあると聞く。それを思いついた人間はきっと、自分と同じぐらいかそれ以上にものぐさな人物なのだろう。いちいち布団を被るのも面倒だからいっそ着る。実に良い発想だ。思うに人類の歴史とは押し並べて、こんなふうに目の前の苦を楽して解決することを思いつける人たちの手によって、継続と発展を遂げてきたものなのかも知れない。
――なんて宣ってばかりで、いつまでも布団に包まってるわけにもいかないか。むっくりと布団から起き上がった奈央は机の椅子に掛けてあったフリースを素早く羽織り、はー、と息を掛けた手を振り合わせながらカーテンを開ける。窓の外は一面の銀世界。目前には今日も、冬の秋田らしい雪まみれの景色が広がっていた。
「へば行ってきまーす」
玄関ドアを閉じ、それから奈央は除雪された路上を覆う真っ白な雪面へとブーツの底を刻んだ。冬場の雪には様々な姿がある。天から舞い降りこんこんと地に積もる綿雪ぼた雪。湿気を多く含んだみぞれ雪などの重い濡れ雪。除雪作業や車の行き交いなどでこうして圧雪状態となった半氷状の雪路。一度氷塊となってから溶けることで生じるざらめ雪。他にも地面の汚れを掬って黒くなった泥雪や、厳寒真っ只中の二月頃に視界を埋め尽くすほど吹きつける粉雪……などなど、雪が覗かせる表情は決してロマンチックなものばかりとは言えない。特に除雪の影響で道路脇に盛り上げられた雪壁が遍く人々の通行を遮る中、寒さに耐えつつこうして学校までの道のりを歩かねばならないというのは、これはもう一種の苦行に近いものがあると言えるだろう。
「冬ってホント
首に巻いたマフラーに顎を突っ込んでそんな独り言を呟いてみても、聞き取れる人はきっと誰もいない。それはこの季節の数少ない利点と言えるだろう。ただその代償として身を切るようなこの冷気に曝されなければならないと考えると、やっぱり寒くて良いことなど何も無い、とも思えた。去年までの自分ならばこんなこと、頭の片隅にも思い浮かばなかったことではあるのだけれど。
それでも今朝は降雪の無い晴れ間なだけまだマシだ。薄曇りの空から僅かにこぼれる陽光を眺めつつ、旧国道の通りに立つ文具店前の信号を渡り、向こうへ見える校舎につま先を向け歩く。と、後ろの方から「ズシャ、」と鈍い雪擦れの音がして、奈央は一瞬だけ振り向く。
「あ痛たた。もー、転んだぁ」
「大丈夫? 気ぃ付けて歩げってぇ。雪道初めての人でもあるまいし」
背格好からして一年生と思しきあの女子生徒は、どうやら路上に発生していた氷面に滑って体勢を立て直し切れなかったらしい。それも雪の季節には良くあることだ、と奈央は再び前を向いて歩き出す。コートのポケットに突っ込んだ手のひらは、外気の寒さとは裏腹にほんの少し汗ばんでいた。
いかに雪国育ちの人間とは言え、冬場の移動は決して侮れない。しっかり雪の状態を保った圧雪であれば靴底が踏ん張ってくれるので転ぶ心配も少ないが、一見同じに見える白い道の一部には鏡のように磨かれた氷面、即ちアイスバーンが発生していることがある。加えて降りたての雪がそのアイスバーンを覆い隠していた場合、何気なく踏み出したその一足がズルリと恐ろしい勢いで滑ってしまうのだ。言わば冬の道路は罠だらけ。あの子みたいにみっともない姿を周囲に晒さない為には、次の一足がいつ滑ってもおかしくない、という構えで常に体重移動に気を付けながら歩かなければならない。
「面倒くせえよなあ雪って。大学はいっそ、雪の降らない南の方さでも行こっかな」
こうと呟いては見たものの、しかし現状の奈央には特段これと言って標榜する進路があるわけでもなかった。ただ毎年のようにあくせく雪と格闘しながら暮らしていくのは、自分のような人間にはちょっと難しそうだ、とは考えている。今朝だって奈央の両親は朝も早くから起き出しては、きのう一晩の間に堆く積もった玄関周りや車庫前の雪をスノーダンプや雪べらで敷地外へと掻き捨てていた。酷い時にはこれが朝も掻いて夜も掻いて、である。とてもじゃないが暮らしやすい環境だとは思えない。少しずつ成長してゆく日々の中でだんだんと、雪国暮らしの現実的なデメリットに目が行くようになってきた自分がそこに居ることを、この頃奈央は痛切に感じつつあった。
「おはよー、今朝も
「おはようございまーす」
学校の生徒玄関まで到着して、ようやく奈央は一安心とばかりに大きな溜息をついた。雪さえなければものの十数分で踏破できる通学路も、冬場となれば一気に倍近い時間を要してしまう。帰る頃に表の雪がそっくり綺麗に溶け去っていてくれれば良いのにな。そんな事は天変地異でも起こらぬ限りまずあり得ないとは重々承知しつつ、履く靴をブーツから上履きに替えた奈央はすたすたと音楽室への階段を上っていった。
「今朝も雪やべがったなー。うちの前なんて除雪来んの遅れて、家出る十分前まで雪こんもりだったで」
「マジ? たまーにあるよね。私ん家の父さんもそれで出勤時間なっても車出せねくて、仕事さ
廊下で生徒たちが交わすそんな会話に、あるある、と奈央は頷く。とりわけ突発的な大降雪に見舞われがちな十二月など、除雪が追いつかずに交通の足が大きく乱れることも少なくはない。ただし、それを遅刻の言い訳に出来ないほどの近場に家がある奈央個人としては、彼女らの体験談に勝るほどインパクトのある話を出せない残念さもあるにはあるのだが。
さて、今日も一日の始まりはここからだ。音楽室まで辿り着き、「おはようございます」と入口の戸を開けると、廊下までとは一転してぶわりと温かい空気が奈央を出迎えた。
「おーす奈央、おはようー」
「おはよー。メグもミカも早ええな」
最初に挨拶の声を掛けてきたのは、奈央と同じトランペットパートの
「今日って二人とも、朝からなんかあったっけ。朝練にしたってこの時間は珍しくね?」
「奈央ってば何言ってらのよー。あたしとメグ、今度から演奏会企画係になったべ。それで来月からの演奏会に使う曲どれにするかって、今から楽譜係と相談さねねくて」
「あーあれかぁ。在庫の楽譜と照らし合わせしながらの作業ンなるから、どっちも大変なんだよなー」
部室でもある音楽室の隅に鞄を下ろし、その上へ畳んだコートとマフラーを置きながら、奈央はしみじみと自身の体験を振り返る。
楽譜係として過ごしたこの一年間はそれなりに忙しい日々の連続で、その中では件の演奏会企画係と共同で事に当たる機会も随分と多かった。とりわけ先日行われた定期演奏会という名の三年生引退式や県内各所での招待演奏など、曲北ではその時その時ごとに曲目を切り替えて本番の舞台に臨むことが多い。この時にどんな曲を演奏するかを取り決めるのが演奏会企画係の仕事の一つであり、彼らや顧問に指定された曲の楽譜を配ったり管理するのが楽譜係の役割なのである。
「あんまこき使わねえでやってな、楽譜係のこと。通りすがりに先生とか先輩から『おい、あの曲出して来てけれで』って言われる恐怖感にみんな怯えてんだがら」
「ンなことしねえよー。それに今はまだ候補出しまでしか出来ねえし。去年と違って今年はまずその前に、『おたくら』の成果次第なトコもあんだしさ」
「あー、んだね。すっかり忘れてらった」
一応そうは述べつつも、奈央は鞄から一冊の書類ファイルを取り出す。
「とにかく早えぐ話がまとまるといいんだどもな。ただ練習するだけにしたって、方針が決まんねえうちは動きようがねえって状況でもあるし」
やれやれ、とばかりに恵が愚痴をこぼす。トランペットの現パートリーダーでもある彼女としては目下、そこが最大の関心事となっているのだろう。何となく奈央の働きぶりを不安視するようでもあるその物言いは、しかし相手にその意思が無いことは明白であると同時に、奈央としても全く同意できる内容だ。こういう厄介事はさっさと片付けてしまって、自分たちのやるべき事に集中したい。
「とにかく私らもう行っから。奈央からの良い報告、期待してるで」
「ハイハイ。まあ任しといて、この奈央ちゃんにかかりゃあ大抵の問題はズバーっと解決だがら」
「また言ってら、へばそっちも頑張ってー」
「ウチらも会議終わったら朝練しに戻っから、また後でなー奈央ー」
恵と美佳子が二人揃って部室を出てゆく。さて、自分も行こうか。念のため筆記用具等の忘れ物がないかをいま一度確認して、それから奈央も立ち上がり、部室のドアノブに手を掛けた。今日の奈央がこなすべき一番目の仕事。それは朝練でもなければ授業の課題提出でもなく、つい先日行われた新三年生会議にて新たに任じられた役職、『意見窓口係』の初会合に出席することであった。
意見窓口係。この名だけを聞けば、まあ都合百人近い大所帯である吹部にはそういう役職もあろうか、と思われる向きもあるかも知れない。しかし実際のところ、この役職は先週の定期演奏会後に行われた新三年生会議の場で新設された、つまりこれまでの曲北吹部に無い係であった。
「で、
手にしていたファイルを一旦机の上へ置き、奈央は説明を続ける。
「私らの仕事はこの秋に一回離反した独立組の子を中心として、部活や幹部に不満や疑問を持っている子の意見を募れる場を作ること、そして公の場や先輩を前にして声を上げられない子の窓口になってあげることです。これは前部長のちなつ先輩や永田先生からの依頼を受けて決まったことであり、独立組の子たちが復帰するにあたって条件とされた約束事の一つでもあります。これからの吹部がどうなるかは冗談抜きで、私らの働きに掛かってると言っても過言ではありません」
暖房の入り始めた教室の一角で席を固める数名の部員たち。その構成は二年生と一年生がそれぞれ二名ずつ、となっている。何せ今年からの新設の係、どの程度の負担があるかも全くの未知数である以上、のっけからあまり大人数を割いても余剰になりかねない。それに一年と二年の立場的な力関係を考えても、窓口は各学年ごとに別で設けてあった方が良い。そうした諸々の検討を踏まえた上で暫定的に、この頭数で意見窓口係は発足したのだった。来年以降この人員が増えるか減るか、それとも窓口係自体がお取り潰しとなってしまうか、全ては奈央たちの挙げる成果次第であると言えよう。
「秋の一件で独立組として離反した人数は一、二年合わせて六十八人。これに対して部に残った側の私たちは、三年生が引退してしまった今では三十人ちょっとしかいません。勿論独立組だった子の中でも完全に考えを変えて今ではこっちさ戻ってる子もいるにはいるけど、そこにあぐらを掻いてらんねえぐらいに少数派の立場にあるってことを、今の私らは重く受け止めないといけません。大変な事も多いと思いますけど、これは自分たちの活動環境を作るための大事な仕事です。みんなで力を合わせて頑張っていきましょう」
ひとしきり演説を終えて奈央が一礼すると、ぱちぱち、と他の子たちからは拍手が上がった。ふう、と一息をついて奈央は着座する。
「まあ一応係代表ってことで私もこういう感じに動きはするけど、窓口係は個人個人がしっかり役割を果たしてくれることがとても重要になってくると思います。それに、独立組の子たちの言い分と折り合いをつけてくって意味でも、私ら意見窓口係が学年だ何だってことに拘ってトロいことやってたら示しがつきません。なので気付いたことや感じたことがあればまず私ら同士で連絡や相談をしっかりしつつ、状況さ合わせて柔軟に対応していくようにしましょう」
「はい」
「へば次、これも一応にはなるけど自己紹介ってことで。二年二組、松田奈央です。前部長のちなつ先輩や独立組の
再びぱちぱちと拍手を浴び、次に奈央の隣に座っていた二年生の女子が口を開く。
「二年六組、
ぱちぱち、と奈央は手を叩く。ちなみに楓の『半分推薦』発言だが、いざ係を決める際のミーティングで直接的に彼女を推薦する声は挙がっていなかった。どうせ仲良くしている部員の誰かが事前にこっそり推したか何かなのだろう――といった程度に奈央は推量しているのだが。しかし自分同様、多少なり独立組と接した経験のある同輩の人物が共にこの仕事に当たってくれるのは心強いことである。
この後には一年生の子二人の自己紹介が続いた。彼女たちは二人とも元独立組だが、親しい先輩や友人に誘われたからという幾分弱い動機によって水月たちへ組したものであり、その後のちなつ達の説得で真っ先に部へ回帰した子たちでもある。双方の声を聞きつつ部を良くすることに貢献できれば。後輩二人は各々そのようなことを自分の言葉で述べていた。
かくして全員の自己紹介が済んだところで、へばこれを、と奈央は事前に用意してあったコピー用紙をみんなへ配ってゆく。
「次に仕事内容の説明ですけど、窓口係の基本はさっきも言った通り、部員のみんなから部に対する意見や要望を聞き取ることです。聞いた内容はこの紙にあるように、いつ、どこで、誰が、何を、どのように要望しているかを各自専用のノートかなんかさ書き留めて、それを可能な限り早めに私たちと共有して下さい」
「質問です」
後輩の一人が手を挙げた。どうぞ、と奈央は許可を出す。
「私らが意見を集めるまでは良いんすけど、そっから先はどうすれば良いんですか?」
「ナイス質問。それ待ってらったで」
本当は続けて説明しようと思っていたことなのだが、後輩が能動的に関わってくれるのは良いことだ。そういう姿勢は大事にしてあげなければいけない、と以前に杏からもらった助言を思い出しつつ、奈央は後輩の子の疑問に答える体裁で説明を続ける。
「私らが聞き取りした意見や要望は、窓口係で内容を分別してから永田先生や部長たち幹部のところさ持っていきます。また、解決策として提示された内容を相談者のところまで持ち帰って、へばどうするか、ってトコまで話し合いをすんのも私らの仕事のうちです。なので、聞き取りの段階からいい加減なことしてると後になってから『言った』『言わねえ』っつって、お互いの話がこじれかねません。
「なるほど」
「それと、私たちの仕事はただ不満がある子の声を全面的に採用してあげるだけとは限りません。部の都合から言ってそれは到底受け入れられないとか、申し訳ねえけど却下せざるを得ないって意見が出てくることも、時にはあると思います。そういうものでも一旦は必ずこっちで受け止めて、個人の問題を部活全体の問題としてどうするかって話さ換えていく。その為にも、途中で握り潰したりそんな話は
「解りました」
「他に質問はある?」
「あ、したら私からも」
次に手を挙げたのは楓だった。
「こないだ言ってた『向こう』との交渉についてなんだけど、それはどうする?」
その件も質問という形で寄越してくれたのはありがたい。話がスムーズに進展することを、奈央は何よりも尊んだ。それが自身のせっかち気質によるもの、と指摘されればぐうの音も出ないのだが。
「交渉は大人数で掛かっても仕方ないんで、私と秋山さんの二人で当たろうと思います。ただ会議の席でどんな話があったかについては一年のみんなにも後できちんと情報共有するんで、それはみんなしっかり把握して、他の子に状況を聞かれてもちゃんと説明できるようにして下さい。秋山さんも、それで良い?」
「うん、オッケー」
「へば他に誰か質問ある? 無ければこれで第一回の話し合いは終わりです。今からさっそく窓口係の仕事開始となります。私も初めて取り組む仕事なんで、勝手が分かんねえで困ったことになる場合もあるかもだけど、みんなの力を借りながら一個ずつ解決していきたいと思うんで、よろしくね。ではお疲れさんでした」
「お疲れさまでした」
窓口係の初会合はこれにて解散となり、後輩二人が机を戻して教室を去っていった。うはー、と伸びていた奈央のところへ、お疲れ様、と楓が声を掛けてくる。
「すごいねー松田さん、あんだけしっかり喋れてみんなのまとめ役出来て。ひょっとしてクラス委員長とか、小学校で部長やってらったとか?」
「まさかー」
奈央は大仰に手を振って謙遜してみせる。生まれてこのかた、『長』と付くなにがしかの役職に一度も縁が無かったのは本当の話だ。あったとしてもそれは学級会や児童町内会の議長ぐらいのもので、その実務も長とは名ばかりの司会役。従って、楓に羨望の眼差しを向けられるほどの手腕や見識があるとはとても言えたものでは無い。
「ただ私は身近にヒナ先輩だのちなつ先輩だのって、リーダーの代名詞みてえな人たちが多かったもんでさ。そういう人たちを見てるうちに自然と真似だけ出来るようになった、っつう感じでねえかな。自分じゃ良く分がんねえことだけど」
「それにしたって凄いよ、私じゃあんなふうには行かねえもん。奈央ちゃんとなら何とかこの係もやっていけそう。とにかくこれから一年間、一緒によろしくね」
「ん、よろしく」
向こうから差し伸べられた手を照れ混じりに握り返し、奈央はゆるやかに微笑む。
「でさ、松田さんの呼び方なんだけど、」
「来ると思った。私も秋山さんって呼ぶの、なんかムズムズしちゃうんだよね」
「やっぱそう? へば私のことは楓って呼んでよ、したら私も奈央ちゃんって呼びやすくなるし」
「分がった。というわけで早速だけど楓ちゃん、こっちこそよろしくね」
「うん、よろしく」
楓がにっこりと笑みを浮かべる。――よし。ファーストステップはまずまず良好にこなせたようだ、と奈央は心の中でこっそりと感触を掴んでいた。
秋山楓。彼女と奈央が密に関わる機会は実のところ、これまで殆ど無かったと言っていい。同じ二年生とは言えどクラスや委員会も違うし、同じ吹部の部員同士であっても木管と金管とでは少なくない隔たりがあるものだ。そんな二人の最初の接点は、今年の秋に吹部を見舞った独立組騒動の一件。あれの際に奈央と楓は共にヒアリング班としてちなつに名指し任命されたのだが、その活動時ですら班員同士で横の繋がりを持って動くことはまあ皆無、と言って良い状況だった。それ故に、奈央が有する楓個人の情報というものもそう多いとは言えない。同期の部員が五十名近くいる曲北吹部にあって、楓はその中の一人に過ぎず、彼女についてのあらゆることを奈央はまだ知らなかった。
「へば私も朝練さ行くがら、また放課後ね奈央ちゃん」
「うん、お互い練習頑張ろうな」
クラリネットを携えた楓が楽器室を後にする。遅れてケースからトランペットを取り出した奈央は、その場で楽器にプスーと空息を吹き込み、パタパタとピストンを弄んでからおもむろに楽器を下ろした。
「秋山楓ちゃん、ですかぁー」
そんなふうにうっかり口にした呟きを、しかし周囲の部員たちが聞き留めることは無かったろう。続けて棚から譜面台と楽譜ファイルを取り出し、奈央は再び廊下に出る。窓の外の雪景色はさながら水墨画のように白と黒のみで構成されていて、それはそれで味わいを感じる向きもあるのだろう。けれど奈央的には、降雪から一ヵ月足らずにして既に飽き飽きといった心境でもあった。煩わしいことばかりの冬はさっさと明けて欲しい。今の自分が負っているもの同様に。
ついと窓から視線を外し、いつもの練習場所へ向かって廊下を歩く。その間奈央が考えていたのは楓のことだ。奈央が抱く楓の第一印象と言えば、とにかくクラリネットの上手な子だということ。しかも、他の上手な子たちと違って遅くまでの居残り練を殆どしない、という逸話つきで。二年生の中ではトロンボーンの
それともう一つ、これはごく最近になって把握した事柄であるのだが、『異常』の二文字が頭に付くほどの姉好きであるということだ。彼女には一歳年上の秋山ゆりという姉がいて、これが実に瓜二つな姉妹であるのだが、どうやら楓はその姉に敬愛どころか心酔というレベルで懐きまくっていたらしく、ヒアリング班として一緒になった秋以降は姉とベタベタする楓の姿を頻繁に見せつけられたものだ。それは演奏技術に関して超人的な腕前を持つ楓の平素のそれとはあまりに落差があって、少なからず衝撃を受けてしまったのも未だ記憶に新しい。以前にそういう姿をとんと見ることが無かったのもきっと、金管と木管というセクション間の壁によるものなのだろう。
後は他人から又聞きしたものばかりだ。基本的には優しくておっとり系。だがとてもそそっかしい。一つの物事に入れ込むと後先考えない。時々思いもよらない行動に出ることがある。決して悪口としてではないが、聞こえてくる楓の人間的評価は八割方が「奇矯な人物」という趣旨のものではあった。
「まあ天才ってちょっと変わったトコがあるもんだって言うし、実際話してみて
ひとまず今回見えた情報をワンセンテンスとし、奈央はここまでで思索を打ち切る。そんな楓と今回一緒の係となったのも数奇な縁と言えばそうだが、しかしそれにいちいち囚われる事が許されるほど悠長にはしていられず、自分たちの役割も今の吹部にとって決して軽いものでは無い。それに、これからの自分たちは最上級生として部を引っ張る立場でもあるのだ。やらなければならないことは山ほどあって、一つずつの課題は着実にこなしていかなければ前進することも叶わない。
一歩一歩を全力で。そう己の胸に言い聞かせつつ、いつもの教室に辿り着いて、奈央はその戸をガラリと開けた。
果たして放課後。吹部の活動はいつものように、部長が一日の日程を部員に伝達するミーティングから始められた。
「今日の練習は来月のアンサンブルコンテストに向けての練習がメインになります。間にお正月も挟まるんで中だるみしがちな時期ではあるけど、冬の間にどんな練習をしたかで次の一年が決まります。この意識を頭から抜かず、各自しっかり取り組んで下さい」
「はい」
壇上に立って連絡事項やらスケジュールやらを伝達しているのは、パーカッションの
「……活動連絡は以上です。それと意見窓口係の担当者はこの後、集会ルームに行くのを忘れないように。以上、今日も一日よろしくお願いします」
「よろしくお願いします!」
ミーティングを終えて部員たちが一斉に席を立つ。やれやれ、と思いながら奈央が準備をしていたところに「お疲れー」と、軽い調子で村上が近寄ってきた。
「お疲れさん。なかなかサマになって来たねが、部長サンの仕事ぶり」
「からかうなってー。まだ全然自信ねえけど、私なりに一生懸命やってんだしさ」
「今がらそんなんじゃ今年一年やってけねえべ。ちなつ先輩みでンたく、おっしゃー私さついて来ーい、ってぐれえの気持ちでいねえと」
「そりゃあキャラ的に無理。どっちかって言えば私は
「あー分がる気ぃする。これでメガネ掛けりゃあ、まんま和香先輩っぽいし」
「褒められでるように聞けねぇー」
どすん、と村上が放ったタックルに奈央は大きくよろめかされる。「やめてよー」と非難の声を上げはしたものの、もちろん楽器などは持っていない状態でのじゃれ合いであり、お互い本気でやっていることではない。
「ンなことはともかくとして、さっき言ったやつ、忘れねえようにね」
「集会ルームの件な。分がってる」
そう言って手にしたボールペン付きノートをかざすと、それだけで村上も理解したのだろう。さっすが松田、と感心したように両手を腰に当て、その後に彼女の表情はキュッと引き締まった。
「今はまだアンコンの時期だがらいいけど、春からの吹部がどういう方向さ行くか、それが決まるのは松田たちの頑張り次第だがら。頼むよ」
その言い回しと表情には、どちらも村上の真摯さがたっぷりと込められていた。任してよ、と奈央は気前の良い返事をする。
「この役目は先輩たちから直接預かったモンでもあるから。これも恩返しだと思って、絶対やり遂げてみせるって」
「ごめん、パートさ指示出ししてて遅れちゃった」
果たして数分後、先に集会ルームへ入っていた奈央のところへ、少し息を弾ませながら楓がやって来た。
「相手の子は?」
「まだ来てねえよ。それより楓ちゃん、パートリーダーの仕事ごくろうさん」
「ありがとー、でも私やっぱ全然ダメだで。奈央ちゃんみてえにキリっとやれねえ」
「お世辞言ったって何も出ねえよー」
少々砕けたやり取りをしながら、奈央と楓は手分けして対談の席づくりのため椅子と机を運ぶ。
「ああもう、パートリーダーなんて引き受けるんでねがった。こういうの、やっぱ私向きでねえし」
「んなこと言ったって、クラのリーダー決めはパート内で満場一致だったんだべ? それで文句なんか言えねえって」
「それはそうなんだけどさー。リーダーはもっと自信と指導力のある子がやった方がいいよ、絶対。そういうの、私まるでダメだもん」
そうは言うが、と奈央は内心思ってしまう。実力面から言って、クラのパートリーダーに楓が就任するのは極めて妥当な人選と見るべきだろう。何せ一年の頃からコンクールのメンバー入り、二年生の今年は上級生を押しのけソロまでやってのけた人物だ。同様の人物はトロンボーンにも約一名いるが、あの性格破綻者と違って楓は姉の絡みさえ無ければまあ良好と言って良い人柄ではあるし、何よりあれだけ演奏が上手いのだから、音楽的知識やセンスに優れていることに疑いの余地は無い。それはパートの指導をする上では必須のスキルである。それに比するものを一切持たぬ奈央からしてみても、もしもクラのリーダー決めの場に同席していたなら、他の子と同じく楓をパートリーダーに推挙したに違いなかった。
「それに胸もでっけえし」
「ん、奈央ちゃん今何か言った?」
「ううん、何も」
ガタガタと机や椅子を並べながら、楓に見えない角度で奈央はこっそり嘆息を洩らす。胸部の盛り上がりのみならず雰囲気に口調に仕草など、同性の自分から見たって楓はまことに女らしい。そこからしたら自分は、と奈央はついつい比較に走ってしまう。男っぽい、と周囲から散々言われる理由の一つにこの凹凸の少ない体型があるのなら、それは何とも物悲しいことだ。『高校に入ったら胸が大きくなる』なんてまことしやかな言説も同級生たちの間にはあるが、仮にそれが全くの虚言だったとしても、せめてもの抵抗として髪ぐらい伸ばしてやろうかしらん。……そう奈央が考えていたところに、コンコン、とノックの音が飛び込んだ。
「はい、どうぞー」
奈央が声を掛けてからややあって、木製の戸が軋み音を立てながら外側に開く。そこに立っていたのは一人の女子生徒だった。
「いらっしゃい。あなたが旧独立組の代表?」
「一応。あと『旧独立組』って呼ぶのはやめて。今の私たちは『革新派』。こないだ話し合って、みんなしてそう決めた」
「分がった、革新派ね。まあまあ、とりあえずこっちさ来て」
奈央の招きに応じ、戸を閉めた女子生徒がするするとこちらへ近付いてくる。名札のラインなどから二年生であることは間違いない。名前こそ出てこないが、その顔立ちにも見覚えはあった。恐らくは金管の人員だ。……一口にそうと言っても、二年の金管というだけでゆうに二十名以上はいるのだけれど。
「へば、まずお互いに自己紹介しようで」
「自己紹介? 同じ部の人間同士で、今更そンたの要るの?」
「だって、これがら話し合いの席さ着くんだもん。お互いに相手のことがあやふやなまんまで話進めるってのも何だべ?」
「それってつまり、そっちにとって私のことはあんま印象に無え、って言ってんのと同じだよね。まあいいか、印象に無えのはこっちも同じだし」
さして気を悪くしたふうでもなく、その女子が名札をくりっと指で摘まむ。
「二年八組、
「柳川さんな。こっちは二年二組、トランペットの松田奈央。よろしく。」
「私は二年六組、秋山楓。八組なんだね、満流ちゃん」
「下の名前で呼ぶのはやめて。距離近え感じして好きでねえ」
「あ……ごめん」
早速のやらかしに楓がシュンとなってしまった。まあまあ、と奈央は二人の間に割って入る。
「とにかく、窓口係の私ら二人が柳川さんとの交渉担当になるがら。いろいろ意見言ってもらったりこっちの決定も聞いてもらうことになると思うけど、これからよろしく」
そう告げて奈央から差し伸べた手を、満流はしばらく見降ろした後、そこに何も無かったかのように黙殺して席へと向かった。二対一の席。当然のように一の側の椅子を手で引いた満流が、そこへふてぶてしく腰を下ろす。
「話し合いすんだべ? 時間が勿体ねえがらさっさと進めてちょうだい」
――コイツ。ぐらりと頭頂まで立ち昇った苛立ちを、しかし奈央は一息を吸って速やかに鎮める。相手がこちらのペースに乗ってきてくれるとは限らない。独立組だった時分に水月の手口に学んだのだとすれば、相手が非協力的な態度で場に臨んでくる可能性は十分考えられること。そうした事前のシミュレーションがここでは大いに役に立ってくれた。それと、会話を速やかに進めようという姿勢。そこに微かなシンパシーすらをも抱きつつ、気を取り直して奈央は談義の席へと向かった。
「いいよ。話が早ええ分にはこっちも嫌いでねえし」
満流とは対面の椅子に腰を下ろし、まずは相手のことをじっくりと観察する。満流の全体的な印象を一言で言い表すならば、水月とタイプの近い美人だ。ただ水月がつぶらな瞳と華やぐような笑顔の持ち主であったのに対し、こちらは三白眼とでも呼ぶべき尖った吊り眼に鬱屈とした仏頂面をベースとしていた。肩先辺りまで伸びたロングボブの髪には緩めのウェーブが掛かっていて、清楚ともまた異なる上品さを醸し出している。良いとこのお嬢様系は正直不得手な人種だが、しかし先方の代表として今回彼女が選ばれたからには、奈央もそう易々と引き下がる訳にはいかない。
「せばそっちのご希望通り、本題から入ろっか」
隣に楓が座ったことを確認して、奈央は切り出した。
「まず革新派、って言った柳川さんたちのグループの要望を、私らさ聞かせて」
どこか鼻白んだような表情と座り方をしてこちらを見据える満流が、実に面倒くさそうに唇をこじ開ける。
「私ら革新派の要望。第一に、」
……満流の口から述べられた内容は、要約するとこうであった。まず最も多いのが演奏会等でチョイスされる選曲の自由度が低いこと。次点で朝練や居残り練の半義務化状態と、それによる拘束時間の長大傾向。この二つは特に顧問や幹部陣からの独断や強制といった形で履行されており、また各パート内でも従わない人物を咎めるような空気があって、それこそが最大の不満要素であるらしい。続く不満は人によりまちまちで細分化されていったのだが、休日日数の少なさ、入部時の楽器決めや別の楽器を吹く自由が認められないことに対する不満の声、パート単位で練習することに対する異論や否定論、さらにはごく少数、一部部員の身勝手を黙認する不公平さ……等々、実に様々な視点や角度からの意見が挙がっているとのことだった。
「これに対して私ら革新派が提唱するのは、吹部っていう一まとまりの単位で動くんでねくて、希望する人間だけで都度まとまってその人数でやれることを考える、っていう自由体制。私らが独立組って呼ばれてた頃からやってるみてえにね。休日部活さ出てこねねえのは場合によりけりで仕方ねえにしても、どういう活動をどういうメンツでやってくかって部分については、部員それぞれの事情や意見をもっと尊重して欲しい。以上」
「ふんふん、なるほどね」
相づちを打って議事録をしたためるフリをしながら、奈央は要所要所で満流の様子を窺う。ここまでで彼女が、いや革新派が言っていることは、かつて独立組が主張していたことと殆ど変わりが無い。むしろ先鋭化しているとすら言えるだろうか。日向たちの読み通り、水月という主軸を失った現在の彼女ら革新派が旧態の方法論に固執しているのは、どうやら間違いなさそうだ。そんなふうに、奈央は心の中で決め打ちをする。
「今日のところはそっちの声を聞くだけで終わっちゃうんだけど、他に何か意見ってある? 部に対してでねくても、例えば私ら窓口係に対してとかでも良いんだけど」
「アンタたちに対して? あるよ、勿論」
「へばそれも聞いておこうかな。今後話を進めていく上での参考になるし、私らもまだ発足したての係だがら、平等に色んな声を聞きながら対応していきてえって思ってるんだ」
「対応、ねえ」
やけにぞんざいな言い回しをして、満流は一度顔を背けた。
「へば言わせてもらうけどさ。意見窓口係って、その存在そのものが欺瞞だよね」
は? 奈央は一瞬目を見開く。満流は頬杖をつきながら、こちらを品定めするような薄ら笑いを浮かべていた。
「欺瞞って、」
「だってそうでしょ? みんなの声を聞いて部の運営さ反映しますー、だなんて、今までと言ってることが何一つ変わってねえべった。ただ中間に新しい役職を一つ置いて、そこの責任区分でそれらしい仕事してますアピールしてらだけ。アンタらが永田先生や部長らさ話を通さねがったら結局今までと何も変わりねえコトだし、通したって向こうが話を聞いてくんねがったら同じことだべ」
「通すよちゃんと。それは私らの責任として、キッチリ。その為の窓口係なんだがら」
「へば逆に聞くけど、他の部員の意見を集約して幹部陣さ伝えるっていうアンタらの役割、それ今までの総代とかと何が違うの?」
「何が、って、それは」
「違わねえよな。むしろ総代が直接出てこねえ分、アイツらは完璧に体制派の人間です、って認めたようなもんだべ。それで私らの意見を聞いて、検討した結果これこれこういうことで決まりましたー、っつって多数派や幹部の決定事項をただ伝えに来るだけなんだったら、そんなの何の決定権も無え存在価値ゼロの役割なんでねえの」
ズキリ。満流の鋭利な言葉と視線が奈央の眼球を突き抜けて、心臓まで貫いていく。
「解る? 今までは私ら弱者の意見を総代やら部長やらが自己判断で握り潰してらった、ソッチの方がおかしいんだで。過去を反省するっつうんならまず真っ先にソイツらが謝りに来て体質を改めて、私らの声を直接受け止めねねえべったっつうの。それはやんねえ。係は新設する。んで後はお任せ。これってただの責任逃れでしょ。これを欺瞞って言わねえで何を欺瞞って言うの?」
それは。奈央には何も答えられなかった。事前に回答を用意出来ていなかったし当意即妙な返しもその時の自分には思いつけなかった、と表現した方がより正確だろう。
「これでもまだ幹部側の代理人を気取るってんならそれはご自由に、って感じだけど、そうやってただ向こうの言い分を押し付けに来るだけがアンタらの仕事なんだったら、私らは一切取り合わねえよ。つまりアンタらのやること為すこと全てが不毛。そんなんしてるぐれえだったらいっそ窓口係なんて解体しちゃって、アンタらはアンタらのやりてえ活動やってた方が遥かにマシでしょ? 私
蔑むような満流の眼がこちらを捉えて離さない。奈央はごくりと唾を呑む。……水月が相手じゃないからと思って高を括っていた。水月やその一味の言い分を、彼女たちと直接対峙したちなつの証言を、自分はもっと重視すべきだった。
旧独立組一派の立ち上げに中心的に携わった人物の一人、柳川満流。彼女は決して水月に踊らされただけの傀儡なんかじゃない。仮にちなつ達の言うように煽動していたのが水月一人だったとしても、満流は満流の頭で考え満流自身の主義主張を確立した上で、自発的にあの行動を起こしたのだ。そうして彼女は今ここに座っている。誰かのスケープゴートなどではなく、革新派という一団のれっきとした代表として。ヒアリング班の時も独立組の中核とはほぼ接触する機会の無かった自分にこの認識が決定的に欠けていたことを、奈央は事ここに及んで今更のように理解してしまった。
「――これが私の意見。どう、参考ンなった?」
「……うん。一応、胸さ留めとく」
「そ。へば今日のところはこれで終わりでいいよね。秋山さんは一言も喋んねがったけど、最後に何か言いてえことはある?」
「今日のところは特に無いかな。今回貰った意見はこっちで分別して、永田先生や担当の部員さ伝えておくね。ありがとう柳川さん」
「――あっそ」
フン、と悪しざまな態度で吐息をこぼし、柳川が席を立った。そのまま退室するのかと思いきや、彼女は自分の座っていた椅子一つを手にしてガタガタと運び、集会ルームの隅に積み上げられた他の椅子のところへ綺麗に戻した。
「何その顔。自分の使った椅子ぐれえ自分で片付けるよ」
「あ……その、ありがと」
「アンタらにお礼言われる筋合いなんて無えよ。ここは私らの練習場所でもあるんだし」
そう言えばそうだった、と奈央は唇を噛む。今はアンサンブル、即ち各パートが個々人単位までバラバラになってチームを組み練習するのが主体なメニューである為にうっかり忘れ掛けていたのだが、柳川たち革新派は独立組時代にここを根城として活動していたのだった。
「まあどうでもいいけど。とにかく無駄な事さいつまでも手間暇割きたくねえし、次回の日時が決まったらさっさと報せて。それか、窓口係解体の一報でもいいけどね」
最後に皮肉めいたことを言い残し、柳川はバタンと戸を閉じて集会ルームを去っていった。何も言えず俯き加減になっていた奈央に、大丈夫? と楓が横から声を掛けてきた。
「ひょっとして奈央ちゃん、今のショックだった?」
「ん、ううん。
「そっか。だったら良いんだけど」
ここで折れたような態度を楓に見せたら今後の諸々に関わる。反省すべきは反省すべきとして、気持ちの上では毅然さを保たないとこの先やっていけない。しっかりしろ奈央。心の中で自分に喝を入れ、奈央は面を上げる。
「それにしてもすげえ言い分だったね、柳川さん。窓口係なんていらねえんでねえの、なんて。まるで私たちと話する気なんて無えって言ってるみたいだった」
「実際そういうつもりではあったんだべと思うよ。独立組の頃の意見からして、こっちからの話なんて上からの押し付けと何も変わらねえ、って考えなのは見え見えだし。それにあの子らの言ってるやり方通りにやるんなら、交渉役がいたって何の意味も無えってのもその通りなワケだがら」
「でも、それじゃあ話し合いにはなんねえよね。何かこう、足掛かりになるようなことでもあったら良いんだけどな」
「すぐに、ってのは難しいがも知んないね。とにかくこれから何回か会ってく中で、少しずつでも探っていかねえと」
どうやらこれは想像以上の難題を安請け合いしてしまったようだ。先行きにどうにも暗いものを覚えつつも、奈央は今やるべきこととして議事録にいくつか補足と注釈を付け、そのノートをぱたんと閉じる。
「とにかく先生たちへの報告だけは済ませて、私らも練習さ戻ろ。今回のアンコン、楓ちゃんトコのチームはクラ四重奏だっけ?」
「うん、『ルーマニア民俗舞曲』。バルトークの。奈央ちゃんは?」
「うちは金管六重奏で、『スカルプチャー・イン・ブラス』。新しい曲だがら演奏音源も少ねくて、みんなで悪戦苦闘しながら練習やってる真っ最中」
肩をすくめながら奈央は楓に答えた。
「特にうちのチームさ来てる低音の一年生二人が、何でか知んねえけどめちゃくちゃ折り合い
「そうなんだ。なんか大変そうだなあ、奈央ちゃんたちのところ」
「まあ、言っても練習自体は二人とも真面目にやってくれてるし、人数が人数なだけに他所と比べりゃ全体的に問題は少ねえがら、その点ではマシっちゃマシなんだけどね。あ、一年って言えばそうだ、そのユーフォの子が元独立組の子なんだった」
「へえ。独立組の子がアンコンで
「しかも最後まで残ってらった子だがら、けっこう信念のあった子だと思うんだよね。多分だけど独立組の内情さも詳しいべし。……あー、いっそそういう手もアリか」
「手?」
「あ、ううん何でもねえ。とにかくそンた感じで、うちらも絶賛奮闘中ってトコ。さ、ここ片付けてそろそろ引き払おっか」
やや強引に話の区切りをつけ、奈央は議卓としていた机を両手でグイと持ち上げる。その裏では頭の中で、次にどう動くべきか、それを考えていた。
相手のことが分からなければ一方的にペースを握られておしまいだ。だったらどうするか? 満流のことを良く知っている人間から、その人となりや考え方や言動の傾向などを聞き出せばいい。それを元に対策を打って次の手に出る。困った時はこれを読め、と過日ちなつから渡された『ヒナちゃんの金言十ヵ条』なる手書きの文書にも、これは書かれてあったことだ。
満流に関する話を聞こう。自分たちよりはまだ満流のことを知っているであろう、あの子から。次にすべきことを決断すると同時に、がたん、と奈央は机を元の場所へと置いた。
「ごめんな、練習してえ時にわざわざ時間作ってもらっちゃって」
「いえ、それは別にいいんですけど」
努めて和やかな声色を選びながら、奈央は空き教室の戸を閉めた。現在時刻は部の活動時間終了後、いわゆる居残り練タイム。今ここに楽器も持たず訪れている理由はただ一つ、後輩のユーフォ担当、
「こう言っといて出だしに雑談すんのも申し訳ねえんだけど、三島さんってここで個人練してらったんだなー。音楽室から一番遠い教室なんでね?」
「かも、ですね。私の場合は春から色々あって、他の人たちのいるところで練習し
「ああ違うの、そういう話さ持って行きたかったんでねくて」
「大丈夫ですよ、分がってます。私はただ、私の選択の結果こうなった、っつう話をしただけですから」
自嘲とも呼べぬか弱い笑みを玲亜が浮かべる。このユーフォの後輩は此度のアンコンで同じチームの編成となった人物であり、従って奈央とはこれまで個人的接触を殆ど持つことは無かった。だが奈央自身はこの子のことを良く知っている。今年の春、ちなつと真っ向正面からぶつかった一年生。そして秋には水月や満流たちに共感し独立組へと離反し、最後の最後まで残った子。ここまでの経歴を見れば『問題児』と、玲亜のことを一言に切って捨てることも可能ではある筈だ。
「それにしても難しいすよね、今回の曲。私もなるべく皆さんさご迷惑お掛けしねえようにって思って頑張っては居たんだすけど」
「大丈夫大丈夫、三島さん自体はちゃんと吹けてっから。上手く合わねえのはどっちかっつうと、私ら二年の曲作り方針がまだ噛み合ってねえとか、曲そのものへの理解の問題とか、そっちの方が要因として大きいんだべと思うし」
「いや、でも私自身もまだまだだって思ってます。それにあのホジナシも毎度毎度足引っ張るもんで、ホントもうアイツは私以上にしょうもねえっす。困ったことにアレも一応低音の一員なんで、いつか根性から叩き直してやんねえば、ってカンジなんですけど」
「あはは。前から思ってらったけど三島さん、
「だってアイツ、ほんっとホジナシなんですよ。初心者のクセにすぐ調子づくし、そのクセ演奏中ミスしたトコも全然直せねえでっていう有様で」
それがどうだろう。いざこうして一対一で会話をしてみると、玲亜という子は拍子抜けするほどごくごく普通に会話の成立する女子だった。ともすれば自分と似た気質を感じるというか、意外とウマの合う存在とすら言えるかも知れない。この子が本当に、折々の場面であんな過激なことをしてきたと言うのか。自分の記憶が自分で疑わしくなってしまうみたいな気分がして、奈央は心のどこかで車酔いにも似た錯覚を得てしまう。
「私らの見てる前じゃそういう感じしねえけどなー、石川君。こっちの注意にゃ元気良く返事してくれるし、上手い下手はともかく練習自体は熱心にやってるみてえだけどな」
「騙されたらダメっすよ。チームの皆さんの前ではまだ猫被ってるトコもありますけど本性はクソ生意気なヤツですから。放っとくといつやらかすか分がんねえんで、誰かが首輪締めてねえと」
「首輪って。それ言うんだば手綱でね?」
「あ、ンだがも知んねえっす」
玲亜がぽりぽりと頭を掻く。その仕草からはえもいわれぬ愛嬌が感じられて、奈央もまたクスリと微笑んだ。
「へば貴重な居残り練の時間を無駄にしちゃう前に、本題に移るべ」
「あ、はい。でも松田先輩が私なんかと個別で話っていうと、やっぱ例の係の用事ですか?」
「係の用事ってのはンなんだけど、三島さん本人のことについてでは無えんだよね。もちろん部への意見とか要望があったら、それはいつでも承るんだけど」
「はあ」
「それと苗字で呼ばれんの堅苦しいがら、奈央でいいよ。私は一応三島さんって呼ばせてもらうけど」
「あ、だったら私のことも玲亜でいいです。先輩のこと一方的に下の名前で呼ぶのも何ですし」
「ホント? せばこれからは玲亜ちゃん、でよろしく」
「はい、奈央先輩」
呼び方に関して一つご了解が頂けたところで、さてと、と奈央は本命の話を始める。
「今回玲亜ちゃんさ聞きてえのは独立組、じゃなくて今は革新派、の柳川満流って子のことなんだけど」
「柳川先輩ですか? 二年の」
玲亜の即応ぶりから、奈央は最初の感触を掴む。この分なら玲亜も彼女とは面識があるのだろう。期待していた話題を引き出すことは、どうやら可能そうだ。
「そう。んで、その柳川さんと私、今回革新派代表と窓口係代表ってことで直接交渉することになったのね。それにあたってどんな子なのかなーっていうのを、もし玲亜ちゃんが知ってたら教えて欲しいなあ、って思って」
「なるほど、柳川先輩の……」
「そンた難しいことでねくてもいいの。どういう人柄かとか、独立組の時に何やってたかとか、誰と仲が良かったかってぐらいのことで」
「そうですね。まあ、私の知る限りではって話ですけど」
少し自信なさげな前置きを一つして、それから玲亜は語り始めた。
「ハッキリ言えば、水月先輩とは違うタイプで頭の回る人、って感じっすね」
「頭の回る、ね」
「はい。私は噂でしか知らねえんですけど、確か成績も毎度学年十位以内とかって言ってました」
それはすごい、と奈央は目を瞠る。学業にはいまひとつ自信が無いために他人の成績など気にも留めたことが無かったのだが、どうやら勉強でも地頭においても満流は優秀な人物と判断して良さそうだ。
「んで、人柄とかはどンた感じなんだべ」
「柳川先輩自身は無口でちょっと暗えトコはあるんですけど、発言する時はバンバン前さ出てくるような人で、独立組の練習形態を大筋で打ち立てたのはあの先輩でした。それさ水月先輩や他の先輩方が賛成するって形で、私らの活動は始まっていったんです」
「そうだったんだ? 水月ちゃんが上に立って、って感じでねがったのは聞いてたけど」
「はい」
そこは姫小の時と今回とで大きく異なる点の一つ、と言えるだろう。姫小での事件における水月は完全に事の発端を握った主犯であり、彼女に賛同して部の活動をボイコットする児童が多数出る形となった。だが今回、水月は他の子を代表して声明を発表することはあれど、主導者として独立組の舵取りをしていた訳では無かった。彼女らは全員が並列に立ち上がり、吹部の体制から離反したのだ。――あくまで奈央やちなつ達の知り得る限りにおいては、の話だが。
「へば、柳川さんがけっこうリーダーシップを取ってるって感じだったとか?」
「それがそうでも無えんです。こうしようああしようを言い出すのはいつも決まって他の先輩方で、柳川先輩が自分から部に対する不満を口にしてた印象ってのはあんまり無くて。どっちかって言うと聞き役的な感じで、他の人らが不満を言ってるのさウンウンって同調してるところを見ることの方が多かった気はします。その点ではちょっと、水月先輩とも近え立ち回り方ではあったんですけど]
「ふんふん」
「ただ水月先輩と決定的に違うところは、そうですね、いっつも何かさ怒ってるように見えたことですかね」
「怒、ってる?」
「はい。それが何にかってのは分がんねがったですし、私が単にそう思い込んでただけだったのがも知んねえすけど。」
カツン、と奈央の胸に何かが引っ掛かった。怒ってる。言われてみれば確かに、先刻の面談で対峙した満流の態度は悪態そのものであったことに違いないのだが、その奥には何かに憤怒しているような気配も無くはなかった。それを奈央は満流本人の言動もあって「自分たち意見窓口係に向けたもの」とばかり思っていたのだが、以前からも似たような態度であったのだとすれば、奈央たちが直接の標的だったとは限らない、と見て良いのかも知れない。
「やっぱりそれだけ部への怒りとか不満が強ええ、ってことなんだべか」
「吹部への不満っていうのともちょっと違うっつうか、苛立ちでもねくて。……んーダメだ、うまくは言えねえっす。なんか大雑把な感じですいません」
「いやいや良いよ、大丈夫。ホントにアンケートみでンた感じで聞いてるだけだがら。で、他に何か気付いたことってあった?」
「他にっすか。他の先輩方とは話し掛けられれば普通に返すぐれえで、私ら後輩さもあんま向こうから構ってきたりはしねがったんで、これと言った印象は無えんすけど。ただ練習自体はけっこう真面目にやってらったと思います。柳川先輩も小学校からトロンボーンだったらしくて、かなり上手え人なんすよね」
「へえ」
奈央はやや意外に思う。トランペットとお隣の区域ではあれど、奈央自身はトロンボーンパートの詳細にあまり詳しくない。ただ今年のコンクール、二年生から選出されたのは草彅一人だけだった。別にそういうことはこの曲北に珍しくもなく、自分がメンバーに入れたのも実のところ半分ぐらいは人数面の調整的な要因によるもの、と奈央自身は思っている。それは即ち、メンバー落ちしたからと言ってその子の演奏技術が他よりも明らかに劣っている、などと一概に言えたものでは無いという意味の話だ。満流もきっと、そういう『隠れた巧者』の一人であるのだろう。
「ところで柳川さんって、小学校はどこなんだっけ。姫小でないのは分かるんだけど」
「私も柳川先輩本人から聞いたワケではねえすけど、
「高畑? あのモールの近くの?」
はい、と玲亜が首肯する。高畑小の学区は大曲市街地のほぼ南東端にあり、そのほぼ対極に位置するここ曲北からは直線距離にして約三キロ超とずいぶん遠い。夏場の自転車通学ですら下手をすれば片道三十分、冬場の今なら徒歩で通学するにはちょっと絶望的な時間が掛かっている筈だ。
「あそこって児童数もあんま多くねえのか、出身だって子あんまり居ねえよね。私のクラスでも一人か二人か居たっけかー、ってぐらい印象薄いし」
「うちのクラスもです。で、そういう事情もあってなんだか、柳川先輩ってホント居残りさねえ人でして。部活おしまいって時間になったら、きっかりで帰って行くんですよ。それであんだけ上手いってのも凄えことだとは思ってますけどね、私なんて毎日残ってですらコレですし」
「いやいや、だから玲亜ちゃんは普通に吹けてらって、十分。小学校の頃はフリューゲルだったんだべ?」
「はい、
「だったら気にしねえったっていいって。毎日練習しながら二年三年、ってなってけば小学校からの子との差は自然と埋まってくし、中には追い越しちゃう子だっているもんだがらね。そりゃあ絶対的に上手え人を見れば、やっぱキャリアの差ってデケえよなーって思っちゃうのはあるけど」
「ですね。園小出身の先輩でも草彅先輩だとか秋山先輩だとか、ずっとやってる人ってバカみてえに上手い人ばっかですし」
「いやあー、あの二人とは比べねえ方がいいよ。色んな意味で次元飛び抜けてる人たちだし」
「あー、まあ、ンだすね」
奈央と玲亜は揃って苦笑いを浮かべた。そもそもあの二人をして「上手い」という枠に括っていいものかどうか、という議論まである。両者共に一年の頃からコンクールメンバーの席を獲り、今年に至ってはソロ担当者。奈央たち同学年はおろか上級生の間でも『曲北木管と金管のダブルエース』みたいに評する声が挙がるほどなのだ。
「それに水月ちゃんみてえに、意外な人が埋もれてるってケースもあったりするしね。まあ同じ姫小だった私ですら全然気付かねがったことではあったし、あれもあれで例外なんだべども」
「ですね。でも私はあの人の本当の演奏聴いた時、どっか納得しました。やっぱ水月先輩のユーフォってこんなだったんだ、って」
「ふうん」
玲亜がそう述べた真意が何であるか、奈央には解らない。彼女は独立組が発足する以前からもずっと、水月と行動を共にしていたという。その日々の中で、奈央たちの与り知らぬ水月の実態を玲亜が感じ取っていたとしても何ら不思議の無いことではあった。だがそこを今この場でほじくり返すのは、単に奈央の知的好奇心を満たす以上の意義を持たない行動だ。
「ちょっと話がズレちゃったっすけど、柳川先輩についてはこんなトコですかね」
「ああ、ごめん。私の方こそ時間食わせちゃって」
「
「本当ありがとね。で、これ最後の質問なんだけど、」
玲亜の物腰はどこまでも穏やかで、かつこちらに協調的な姿勢を保ったままだった。それが少し不思議で、奈央はこの一件だけは玲亜に尋ねてみようと思った。あくまでも、今後満流と接していく上での参考資料として。
「玲亜ちゃんは独立組だったんだよね。吹部や先輩方にも色々不満があって、それで独立して」
「はい、そうでした」
「でも今はこれだけ私さ協力してくれてる。練習も熱心にやってくれてるし、意見や要望も特に無いみたいだったし。それって今はもう吹部への不満は
「不満が無え、ってワケでも無いんですけどね。そうだなあ、」
玲亜は少し考えをまとめるように間を置き、それからこのように述べた。
「私自身は独立組がどうこうって以前に水月先輩のことを尊敬してて、独立だ何だは自分なりに考えて行動したって感じでしたから。でもあれからは少し考えが変わったっつうか、変わんない部分もあるにはあるんですけど、今はもっと他にやりてえと思うことをやれる場所を選んでるって感じです。水月先輩が休部しちゃったこととも直接的な関係は無いですし、今の革新派っていう柳川先輩たちのグループの子たちとも、実際もうあんまり関わってません」
「そっか」
感謝を告げる代わりに、奈央は玲亜に頷いてみせる。それは奈央なりの肯定の仕草だった。春にちなつと反目した時より、秋に独立組として部室を去っていった時より、今の玲亜の表情は活き活きとして輝いている。そのように、奈央の目には映って見えた。
「ヒントと言えばヒント、ンでねえと言えばンでねえ。うー、あー、過去最大の難問だでこりゃあー」
自室の椅子に座ったままで思い切り背伸びをし、ばきぼきと背骨を鳴らしてから元の姿勢に戻って机の上のノートを再び眺める。本日満流から言い放たれた、革新派の抱える不満内容。それらは勿論本日のうちに永田や村上にも即時共有済みである。彼らも内容を検討の上で後日返答する、とのことではあったが、しかしそれでいいのだろうかと奈央は考えあぐねる。あれから美味しい晩ご飯を食べてあったかいお風呂に浸かり、のんびり動画を見るなどもしてじっくり心身を労わったというのに、この胸には今も満流のあの冷徹な発言が深々と突き刺さったままとなっていた。
『意見窓口係って、その存在そのものが欺瞞だよね』
『そんなの何の決定権も無え存在価値ゼロの役割なんでねえの』
『いっそ窓口係なんて解体しちゃって、アンタらはアンタらのやりてえ活動やってた方が遥かにマシでしょ?』
はあ、と溜息をついてノートを閉じ、それを鞄に突っ込んだ奈央はその勢いのままに身体をベッドへと投げ出す。何だか疲れた。たった一日の、それも三十分にも満たない出来事でしかないのに、その中で交わされた数個の言葉が全身から瞬く間にエネルギーを引っこ抜いていったような気分ですらあった。
こういう感覚は以前にも覚えがある。あの時も今みたいに、言われたことが後になって頭の中でぐるぐるし始めた。じゃあどうすれば良かったんだ、という気持ちがいつまでも自分を責め苛んで、結局そのまま一睡もできずに夜を明かす羽目になってしまった。今回はあの時ほどでないとは言え、他人からの言葉にぐちぐちと思い悩んでしまっているのには変わらない。この打たれ弱さは私の悪いところだな。そんなふうに自虐してみせつつ、奈央は再びのそりと起き上がる。
「どうすれば良がった、でねえよな。こっからどうするか、それは私が考えてかなくちゃ」
腹を括り、いま一度奈央は机に向かう。もう床に就くべき時間はとっくに過ぎているのだが、今はそれよりも自分の考えをまとめておくことの方が大事だと思った。手元のノートに記載された数々の情報。そこには今回の議事録の他に、玲亜から聞き取りをした満流関連の情報もちゃんと書き留めてある。
これらが事態解決のヒントになってくれれば良いのだが。そう考えつつ、大判の付箋に要点や懸案事項を追記してはノートに貼りつけを繰り返し、奈央はここまでの状況と自分の思考を一つずつ整理していった。ひょう、と窓の外側を叩きつける真冬の風が、明日もきっと寒い一日になるであろうことを奈央に予感させた。