やはり、大凱旋門の勇姿は、雲一つない青空の下にあってこそ、より引き立てられる。
「クローバー」号から降りた私は、荒涼としたベレスの先で広がる青々とした空にしばし息を呑んだ後、今一度その事実を再確認する。
かつては、毎日のように訪れる連合軍爆撃機の大編隊と、そのあとに残る擦過傷のような飛行機雲により、空は大変に汚染されていた。
帝国空軍の戦闘機パイロット達は、物量的に圧倒的に不利な戦況下でよく戦い、自己犠牲的な戦闘により連合軍機の多くを血祭りにあげてきた。しかし、それでも帝国の空の奪還は叶わず、愚劣で野蛮な連合軍機の跳梁跋扈は終わる日を知らなかった。
今は違う。私以外の人間が死滅したこの世界の空を汚す者は、最早一人としていない。怪鳥の如き連合軍爆撃機が発する心乱れる騒音は、二度と聞こえてくることはない。過去に幾度も私の精神の平穏を見失わせた空襲警報は、宝石のように青い空の下で永遠に口をつぐんでくれている。
私にとって、空は最早死神ではあり得ない。凪いだ湖面のような空が放つ、水晶のような輝きは、私から不安という言葉を忘れさせてくれた。
喧騒という言葉とは無縁な、沈黙の世界。風が穏やかに談笑し、時が機械に縛られることなく悠々と歩を進める原初の世界の中で、私は都度写真機に顔を埋め、レンズ越しに映る情景を確認する。
主役は勿論、大凱旋門。しかし、あの清閑とした空もフィルムに刻みたい。限られた枠をいかに配分するか、時間を贅沢に使い、私は苦悩する。
あらゆる角度、あらゆる距離から、私は大凱旋門と、背後に広がる青空を観察する。レンズ越しでの睨めっこを続けていると、戦渦が色濃く残る地表も写したいという欲が出てきてしまう。
人類の叡智の象徴たる大凱旋門と、人類の野蛮の象徴たる戦争遺跡。この二つを見事に対比して見せた一葉は、見る者の息を呑ませるに違いない。
ならば何を写す?何を捨て、何を拾う?
石畳の舗装道路に薄くまぶされる瓦礫達に、無造作に散らかる物資達。
瓦礫は、大きい物だと柱ほどの物が道路に転がり、小さい物だと土塊サイズのものが道路を覆っている。
物資についてはどうだろう? 帝国が徴発したトラック達は、炎に炙られ骨組みだけとなった姿で横たわり、木製の弾薬箱は空っぽの中身を空に晒し、一切の規則性なく道路に捨てられている。
それらだけを写真におさめるのか? それは終わりの世界でなお毅然と佇む大凱旋門に釣り合う物なのか?
「否」という言葉が脳裏をよぎる。……やはり、勇戦敢闘の末に戦地で斃れた戦車……偉大なる「ケーニヒスアドラー」を写さなければ、私の写真……人類最後の写真達は、戦場の原風景を後世へ正確に伝えることが叶わないはずだ。
死してなお大凱旋門を守り続ける帝国の超重戦車達。混迷極める戦場下で最善を尽くし、殉死した英雄達の誰が、私の写真におさまるに足るか……。
試行錯誤を重ねつつ、私は歩を進め続けるのだった。