プロローグ
まだ日が射さぬ時間。娘の部屋に樋山 マナコはいた。
畳まれた布団と、伏せられた写真立て。
綺麗に畳まれたしまわれた布団と、少ない衣類。
娘が確かにここに居た痕跡と……同時に、もういない静寂ばかりがその空間に満ちている。
「やっぱり帰って来ない、か……」
狭い部屋の大気を、独り言が僅かに揺らす。アクルとよく似た大きな目を細めながら、マナコは長い黒髪を少し撫でた。
……別に、帰って来て欲しい訳では無かった。娘を見ていると、嫌な事ばかりを思い出すからだ。
思い当たる節は沢山ある。あの子さえ身籠らなければ、とか……自分によく似た姿をしたあの子が、幸せになると考えるのも釈然としない。自分は、不幸なのに。
………アイツラの血を引いている癖に、自分に似ている事も、嫌、で。
でも。だけど。だから。私は───。
「……自分が、産んだくせにね……」
また、独り言。当然の事ながら、誰も聞いてはいないし誰も答えてくれない。
きっと、聴きたいと思う者なんていないだろう。
ふっ、と……自虐的にマナコは笑った。
本当に、本当に、馬鹿馬鹿しくて。
不様で惨めで……情けない。
ふと、写真立てをその手で拾い上げ、その顔に苦い笑みが浮ぶ。
「……懐かしい、な」
一応、母親らしくあろうとしたっけか。マナコは思う。
確かこの日……小学校を卒業したあの子を、ほんの気まぐれであの場所へ連れて行ったのだ。
ちょっとした、思い出の場所。大事な場所。
あの子は──アクルはとてもとてもはしゃいで。がらにもなく、撮った写真。
運転なんてまったくしていなかったが、久しぶりの運転は我ながら上手く出来たものだ。
ふと、口元に手を触れて……微笑んでいた自分に気付き、マナコは少し驚く。
ああ、そうか。楽しかったのか。
私もあの日は、久しぶりに楽しかったんだ。
…………心機一転して。ちゃんと母親として、やっていけるかな、なんて思って───。
そして。結局、ダメだった。
あの子が自分に似てくるにつれて……あの子の年齢が、私の不幸の日に近付くにつれて……。
…………妬み、なんだろう。
重い溜め息を吐き出して、マナコは独り窓の外を見上げる。
白んで行く空。燐光を放ちながらも消えて行く星達をその目に映す。
あの星のように、醜いこの身も心も消えてしまえばいいのに。なんて、思う。
別に、帰って来て欲しい訳では無い。あの子だって、きっとその方がいいに決まっている。
もう、こんな私には愛想が尽きただろうと、浮かべる自嘲の笑み。
そうだ。だから、何処へなりとも行けばいい。
そう、帰って来て欲しい訳では無いのだ。だが、でも、だけど。
マナコは独り、祈ってみた。少女の幸せを。娘の幸福を。
会わないなら、そう思っていられる。
「……どこで、何をしてるのかな……?」
一応、捜索願いは出してある。家出ではなく、事件に巻き込まれた可能性もあるので。
……帰って来て欲しい訳では無い。でも、別に死んで欲しい訳でもないのだ。
だから、マナコは祈った。娘の幸せを。消えて行く最後の星に……。