マリーを見送った僕達は、再び式を先頭にして次の部屋へと向かっていた。その道中、式は「ここにきてから妙に勘が冴える」と言っていた。迷いなく部屋の案内をしてくれているのも、そのためらしい。
本人は気味が悪いと嫌がっていたが、「私と同じですね!」とXさんに同調されると、なんとも微妙そうな顔をしていた。
式は一つの部屋の前に立ち止まる。四階1号室、式はその部屋を黙って見つめていた。メカエリチャンは不思議そうに目を光らせる。多分サーモグラフィーを起動させているのだろう。暫くして、式はドアノブに手をかけた。鍵は開いていたのか、ドアは抵抗なくスッと開く。
部屋に足を踏み入れた瞬間、僕はツンとした強い刺激に襲われた。鼻を突くその匂い──まるで病院のように、強烈な消毒薬の匂いが部屋中に充満していたのだ。思わず鼻を押さえた。嫌な匂いじゃない。ただ、強烈な刺激に対する反射だった。隣のXさんも同じように鼻を押さえていたが、すぐに危険はないと手を下ろす。僕もそれに倣い、そっと手を外した。
そして、入室した時から視界に入り続けていた部屋の中央へ目を向ける。真っ白なシーツがかけられたその無機質な造りは、病院でよく見かけるベッドそのものだった。その上で、一人の女性が静かに眠りについている。
僕はその女性の姿に、思わず息を呑む。シーツから覗く彼女の顔には深い皺が刻まれ、その肌は雪のように白く、髪は白銀のように光を反射していた。僕にはその姿が病というより、まるで寿命そのものが尽きかけ、ひどく老衰しているように見えたからだ。
僕は隣に立つメカエリチャンへと視線をやる。彼女は静かに目を閉じ、ゆっくりと首を横に振った。
——もう助からないのか。
スッと浮かんだその言葉に胸の奥が、ギリッと音を立てて締め付けられた。初対面で、名前すら知らない人のはずなのに。もっと早くここへ辿り着いていれば、彼女はこんな場所で一人きりで命を落とさずに済んだのだろうか。行き場のない後悔が、鉛のように胃の奥に溜まっていった。
僕は式へと目を向けた。彼女はこの異常な光景をどう思っているのか、なんとなくそれが知りたかった。
式は、ジッとベッドの上の女性を見つめ下ろしている。
「……お前、起きてるだろ」
無感情とも取れる声で、式は唐突にそう告げた。
「はい。あなた達が部屋への入室のタイミングから」
答えはシンプルだった。式の問いに目を開いた女性は、頭を動かさずにそう答える。
その瞬間、メカエリチャンが弾かれたように僕の前に出る。僕を庇うようにその鋼鉄の翼を広げた彼女は、ベッドの女性へ鋭く問い詰めた。
「あなたは何者ですか!? 私の高性能センサーが、覚醒状態の相手に気が付かないはずがありません。現に、あなたからそのような反応は一切検知されなかった!」
「……そうですか。いえ、まずは名乗りと弁解をさせてください。私はフローレンス・ナイチンゲール。見ての通り、床に伏した老いた身です。あなた達に敵対する気はありません。もう長くはない命、無駄に削るような真似はいたしません。…さて、覚醒状態を検知できなかったと言うことでしたね。詳しくはありませんが、それは私が睡眠と言う休息行動を必要としていなかったから。しかし、自発的な体動を行えるほどの体力が残されていなかったということではないでしょうか」
しかし、彼女──フローレンス・ナイチンゲールはそうキッパリと言い切った。確かに彼女の体は寝返りを打つことができるようにも思えなかった。
「…現状、判明している情報では判断ができませんね。…業腹ですが、貴女の状態から危険度は低いと仮定します」
それを聞き、メカエリチャンも完全には納得がいっていない様子だが、警戒を緩めた。その横でXさんはすでに構えを解いていた。早すぎるだろ。式を見ろ、まだ一人張り詰めた表情でシリアス作っているんだぞ。…式は何に警戒しているのだろうか?
「それで、ナイチンゲールさんはどうしてここで寝ていたの?病院とかじゃなく」
「言っておきます。私も覚醒してからの情報しかありません。更に、この仮説に実証例はありません。あなた方の質問は、それでも問題ないと受け取ります」
ナイチンゲールさんは、こちらを見ずに一呼吸置いてから再開した。
「──私はこの部屋の外へ出ることはできない。この身体もそうですが、精神的にそう感じます。根拠はありません。ですが、そうだと私は確信しています」
頭も動かさず彼女は、静かに言い切った。身体は動かせるような状態ではないようだけど、それだけでそう感じるものだろうか。何か小骨が刺さったような違和感を感じた。
「ムム、なんだかでじゃびゅーを感じます。セイバーレーダーも反応していますね。正体はその布団の中身でしょうか?」
いや、僕はそれよりも布団を捲ろうとしているXさんを止めよう。病人の布団は理由もなくはがさない。
アホ毛をビュンビュン回すXさんの肩を力一杯に掴む。普通は人間の力ではサーヴァントは止まらない。が、Xさんはビクッと肩を震わせ、ピタリと動きを止めた。僕はそれに安堵したと同時に、彼女の発言が引っかかる。でじゃびゅー、デジャブ、既視感。…何かに既視感があった?何処での既視感だろう?まさか、このマンションでのこと?なら、Xさんは何に対してそれを感じたんだ?
「マスター君、急に掴まないでくださいよ!びっくりしたじゃないですかー」
「あ、うん。それはごめんね。でも、病人の布団をむやみにはがしたりするのはダメだよ」
振り返ったXさんからの抗議に、僕は謝罪を行なった後、それでもダメだと思うから注意を行った。
「む、マスター君は気になりませんか?」
「…X、そこまでだ。騒ぐな」
式はナイチンゲールさんから一度も目を離していない。有無を言わせぬ圧に、Xさんもバツが悪そうに口を閉じた。
「…それに、こんななりとはいえ、ここは病室って言うことなんだろ。こいつが出れないのもそう言う決まりがあるのかもな」
ここで式は初めてナイチンゲールさんから視線を外した。そして、メカエリチャンの方へ視線を動かす。
「お前のセンサーは異常って奴を何処まで感知できる?」
そして、式は前置きもなしに問いを投げる。
「質問の意図が不明瞭です。…ですが、彼女に対しての評価と勝手に受け取ります。…彼女から一般的な数値から逸脱は検知できません。いえ、不気味な程に各数値が彼女は人間であることを示しています。そして、直近に類似したが対象が存在します。先のマリー・アントワネットです」
…マリー・アントワネット。その名を告げられた時、僕の脳裏に、あの光景と指先の感触が蘇る。最後に見せたあの憐憫のこもった小さい笑みと、手の中で目を閉じた彼女の鉄のような無機質な冷たさが。
「…そうか」
「式さん、何か思い当たる事が有るんですか?」
メカエリチャンの返答に短く応えると、式は再びナイチンゲールさんの方を向く。それを不思議に思ったXさんが尋ねた。
「…何でも──いや、確認したかっただけだ」
「式、確認って何を──」
言い淀んだ式の真意が気になった僕が尋ねようとした時だ。
「──ゴホッ!!ゴホッ!!……ハァハァ。」
突如、ナイチンゲールさんが激しく咳き込んだ。それは肺から空気を絞り出したような咳嗽であり、頭すら動かせなかった身体が痙攣を起こす。
「──大丈夫!?」
僕は弾かれたようにベッドに駆け寄った。激しい発作の余韻が続く彼女の顔色を見る。元々白かった肌はドス黒い青白さが見えた。もう、マリーのような事はたくさんだ。彼女はまだ、間に合う。僕はそれを信じたかった。
「──くっ、バイタルが急激に低下している!血中酸素濃度低下、危険域です!」
「えっと、まずいんですよね!?どうしますか!」
「おい、なんか無いのか?」
メカエリチャンはバイタルを再測定する。状況が掴めていないXさんはオロオロとしていた。式は役立つ物がないかを尋ねる。
「──私の内蔵兵装に、救急の項目がない事にこれほど後悔するとは想定していませんでした」
「手はないの?」
歯がゆさからか、ギギっと鉄の歯が響かせる。急激に低下する酸素濃度にメカエリチャンは、自分にはどうすることもできないことに無力感を感じる。更に、メカエリチャンを見つめるマスターの揺らいだ目がメカエリチャンを突く。
「…ハァ、X任す」
「はい、おまかせください式さん。…マスター君、今はナイチンゲールさんを見てください。そらしちゃ駄目ですよ」
Xはそう言って、僕の顔を両手で挟む。そして、ナイチンゲールさんの方へ顔を向ける。さっきよりも呼吸の浅くなったナイチンゲールさんは、今にも止まってしまいそうな様子だった。
「もう、手はないかもしれません。でも、目をそらすのはいけません。だって、それは諦めてしまう事と同じです。マスター君は困難に諦めてしまっちゃダメです」
「Xさん…」
彼女の顔を見ることはできないが、真剣な雰囲気が伝わる。
「さあ、考えましょう!ダメかもしれませんが!」
「X、あなた励ましたいのではないのですか」
メカエリチャンの呆れた声が聞こえる。これは仕方ないかもしれない。
僕達は考えた。時間は少しだけだったかもしれない。それでも僕達は考えた。式はその間、ずっと待っていてくれた。メカエリチャンが電気ショックを構える。ボンっと言う音が一つ、二つ、部屋に響く。だが、彼女は帰っては来なかった。…僕はまた、目の前で喪った。涙は流さない。ただ、黙祷を捧げた。
部屋の扉が閉まる。僕はマリーの時とは、また違った夜風をその身に浴びていた。冷たい、でも優しい風だった。
部屋の扉が閉まる。
誰もいなくなった部屋で、ピクリと微かな体動があった事を知る者はここにはいない。