「単純な過労だね」
そう言って、せんせの手が私の頭を優しく撫でる。
ベッドに横たわる私の顔をせんせがほっとしたように見下ろす。
「少し頑張り過ぎだぞルビーちゃん」
「えへへへ」
「褒めてねーから」
雨宮吾郎先生。
昔から、私とお兄ちゃんがママのお腹の中にいたころからずっとママの担当医で、私達兄妹の出産を手伝ってくれたお医者さん。
今は何だかんだあって、苺プロの専属ドクターみたいになってる。
その辺は大人の事情なんだろうけど、ミヤコさん曰く「アイドルのプライベート事情に理解があって、アイドルに献身的で、アイドル達が嫌悪感を抱かないくらいに清潔感があって、そこそこにかっこよくて、アイドルに手を出す程女に飢えていない主治医ってね、かなり貴重なのよ」とのことだ。
概ね納得ができるけど、飢えていないのは困る。
ギラギラされても困るけど、出来れば私に対しては、いつか我慢出来なくなって手を出して来て欲しい。
「ルビーちゃんが倒れたって聞いた時は、マジで血の気が引いたからな」
「レッスン中にふらついただけなのに大げさだなぁ」
「倒れそうになってんじゃねーか」
まったく、とため息混じりにくしゃくしゃと髪をかき回される。
髪型がぐしゃぐしゃになることより、こうして少し雑に扱われることが気安さの表れのようでくすぐったい気持ちになる。
よっぽど嬉しそうな顔をしているからなのかな、MEMちょは「縁側でおじいちゃんに撫でられてる猫ちゃんみたいだね」なんて揶揄ってくる。(先輩は「パパ活してると誤解されないようにね」なんてかわいげの欠片も無いことを言ってくるけど。そういう辛辣でかわいげの無さがお兄ちゃんの友達になれる要因で、お兄ちゃんの彼女になれない要因だと思う。)
失礼な話だ。
せんせはおじいちゃんなんて年じゃない。
まぁ、おじさんと言われたら否定出来ないのだけど。
「…張り切る気持ちはわかるけどな」
「うふふ、流石情報が早いね〜私のファン1号なだけある」
「だったら、体調不良でライブ中止なんてファンを悲しませることだけはやめてくれよ」
乱れた私の髪を、せんせの指が丁寧に手櫛で整えていく。
身体にのし掛かる倦怠感も忘れて、思わずうっとりとしてしまう。
せんせの骨張っていて、長い指が蜂蜜色の髪をすり抜けて行くこの感触が私は大好きだ。
昔だったら、絶対に味わうことの出来なかった感触だから。
ニット帽で隠した頭髪の抜け落ちた頭を撫でられるのは恥ずかしくて、そんなことせんせは気にする人じゃないとわかっているから嬉しくて、それでもやっぱり嫌だった。
せんせは隠してるつもりだったかもしれないけど、そんなときのせんせの目は悲しそうで、悔しそうで、何より辛そうだったから。
私はその目が、せんせが私のためにそこまで想ってくれることが嬉しくて、でもそんな目をさせてしまう自分が嫌いだった。
だから、こうして、せんせが私の髪を撫でてくれるのはたまらなく心地良い。
「いつもゴメンね〜セーンセ」
ふっと現れた人影がせんせの耳元で甘く囁いた。
せんせは短く悲鳴を上げつつ身体を強ばらせた。
「あ、アア、アイちゃん」
「あっはっは、いつまで経っても不意打ちに弱いね〜センセ♪」
「ママ」
「ルビー大丈夫?」
そう言って、心配そうに私の顔を覗き込んでくるのは、私のママ。
元国民的スーパーアイドルで、現在は国民的大大大女優な星野アイ。
娘の贔屓目を抜きにしても、その美貌はアイドルの頃と遜色無い、というかむしろ色気が上乗せされパワーアップしてる。
そんなママは私のおでこに張り付いた髪を指で優しくほどいていく。
ママの優しくて甘い香りに、胸が温かいもので満たされていく。
せんせはママに席を譲って、いつの間にかミヤコさんと話している。
それは当然の気遣いなんだろうけど、先生の手が離れてしまうのは少し名残惜しい。
「センセ、いつもありがとうね」
「気にするな。これも仕事のうちだ」
「推し活じゃなくて?」
ママが悪戯っぽく笑うと、せんせの頬が少し赤くなる。
せんせがアイの古参ファンで、現役B小町ファンなのは既に苺プロの共通認識。
共通認識なのだけど、小さな頃から重々承知しているのだけど、たまにママにだけ男の子のように照れちゃうせんせの姿は見ていて面白くない。
ママって絶対せんせが自分のこと今も大好きなのわかっててからかってるよね。
「アンタも難儀よね」
せんせと楽しそうに話すママを呆れたように見つめながら、先輩がベッドに腰掛ける。
「母親が恋敵だなんて」
「違うから。ママはせんせのお友達。せんせはママのただのファンだから」
「いや、どう見てもあれって」
「お友達だから」
「でも」
「お友達」
「……まぁ、良いわよ」
すぐに恋愛ごとに結び付けようとするのは先輩の悪いところだ。
人のことは散々恋愛脳とか、脳内お花畑とか言うくせに、初恋の男の口車に乗せられてアイドルデビューしてる自分のことは完全に棚に上げている。
お兄ちゃんの言動にいちいち反応して、パフォーマンスが左右される先輩の方が遙かに恋愛脳だ(とあかねちゃんが言っていた)。
「…あんなオジサンのどこがいいわけ?そりゃ顔は悪くないと思うけど」
「年下のイケメン好きな先輩にはわかんないかな〜せんせの大人の魅力って」
「でも、あれ絶対散々女遊びしてきてるわよ。その結果、落ち着いたクチよ絶対」
「別に良いの。今はそうじゃないんだし」
「ふぅん、意外。そういう過去とか気にすると思ってた」
「私と付き合うまでの練習だって思うことにしたもん」
「意外と男らしいこと言うわね」
「そういう先輩こそ、相手の過去も全部把握しようとするところ、重いってお兄ちゃんが言ってた」
「え…マ、マジ?」
先輩が強ばった顔でぶつぶつ言い始めたので、私はせんせのところへ行く。先輩はああなったら帰ってこないし、先輩のああいう面倒臭さがましましになってるのはお兄ちゃんの責任だし。
「ねぇ、せんせせんせ」
ママと楽しそうに話しているせんせの袖を引っ張る。
いくらママでも、そろそろせんせを返して欲しい。
せんせは私が先に出会って、とっくに先約済みなんだから。
「こら、まだ寝てないとダメだろ」
「もう大丈夫だよ。それより、今日はまだ時間あるの?」
「ん?ああ、まぁな」
「センセは推しのためなら仕事をちょっぱやで片づけてくるもんね」
ママが楽しそうにコロコロ笑う。
写真に取って額縁に飾りたいくらい可愛いし綺麗な笑顔だけど、娘の恋路の横槍に使うのはどうなんだろ。
「じゃあさ、レッスンの後ご飯食べよ?」
「ダメだ、今日はもう休め」
「ぶぅ〜だったら、せめてご飯には付き合ってよ」
「アイドルにスキャンダルは厳禁だろ」
「いいっじゃん、ここで食べて行けば」
「引き下がらないな…まぁ、良いか。それなら」
「やった!せんせ大好き。早く結婚しよう!!」
「やめろ。社会的に死ぬし。ファンに殺される」
「私と結婚したら、ママがお義母さんに付いてくるよ。生意気な義兄も出来るけど」
「それはちょっと心惹かれるな…」
「じゃあ、私と結婚する?センセならいいよ。可愛い双子の子供も付いてくるし」
「いや、推しをそういう対象には…いや、しかし…」
「何でママの時は満更でもないのよ、せんせの推しはママだけなの?」
「冗談だって、怒るなよ」
ぽんぽんとせんせが頭を撫でてくる。
子供扱いして誤魔化してるってわかってるのに嬉しいのが悔しい。
「俺の一番の推しは変わってないよ」
「「さりなちゃん?」」
☆☆☆
「ん…?」
目を開けると、ぼやけた視界の中で見慣れた天井が蜃気楼のように揺らめいていた。
「起きたか」
「……お兄ちゃん?」
「熱は… 少し下がってきたか」
お兄ちゃんが微かに笑っていた。
安心したような、でもちょっと泣きそうで、困ったような笑みを。
優しく髪をかき分けて、私のおでこにお兄ちゃんがそっと手を当てる。
ひんやりとした手の感触に目を閉じる。
骨張ってって、長い指が髪をくすぐるように撫でていく。
知ってる感触だ。
小さい頃から兄妹をやってきてるから、知ってるのは当たり前なんだけど。
そうじゃなくて、もっと昔から。
ママのお腹にいた頃よりも、ずっと前から。
生まれる前から、知ってて、生まれる前から、好きな。
「ルビー…どうした?」
「?」
「泣いてたぞお前」
壊れ物に触れるように、お兄ちゃんは私の目尻を指先でそっと拭う。
キザだなぁ〜。
こういうの先輩とかあかねちゃんにしちゃってるのかな。
だったら、その気にさせちゃうよ。
そんなことを思ったけど、口にはしない。
お兄ちゃんがかすかに眉間に皺を寄せてる。
綺麗な顔に、罅のように皺を寄せる時、知らない人が見ると、難しいことを考えているのか、それとも不機嫌なのかと思われがちな表情。
それが、この人が心から心配している時の表情だと知ってるのは、多分私とミヤコさんくらい。
てか、私とミヤコさんにしか見せない。
普段抑えてる感情を、抑えきれない表情を見せる時、この人って本当にシスコンだなって呆れてしまう。
「大丈夫だよ。懐かしくて、幸せな夢を見てただけだから」
「…そうか」
お兄ちゃんの表情に共感と痛ましさが浮かぶ。
きっとママの夢を見たのだろうと思ったのだろう。
半分正解で、半分不正解。
でも、せんせのことはナイショ。
シスコンのお兄ちゃんはきっとヤキモチを焼いて、根堀葉堀聞いてくるに違いない。
「そんなロリコン野郎止めておけ」なんて言うに決まってる。
だから、まだまだセンセのことはナイショ。
でも、いつかはお兄ちゃんに紹介して認めてもらわなくちゃな〜
いっそのこと、東京ドームのLIVEで「普通の女の子に戻りまーす」って引退宣言からの結婚宣言とかもありかな。
ルビーがレッスン中に倒れたと聞いて、撮影もそこそこにすっ飛んできた。
風邪気味なのを隠してレッスンしていたらしい。
馬鹿な妹め。
体調管理も出来ないうちはプロと名乗ることは出来ない。
「てきぱき看病の準備進めながら言っても、ツンデレなシスコンお兄ちゃんにしか見えないよアクたん」とMEMが揶揄ってきたが、それはスルーした。
その場のテンションとノリに自分の体調を忘れてしまうのが、この馬鹿な妹の悪いところだ。
こっちの気も知らないで、バカたれは幸せそうな顔をして寝ている。
熱が出てても幸せな夢を見ていられるのは、最早羨ましくすらある。
熱で赤くなった頬を少しばかり摘んでやると、ルビーは短く唸る。
その表情に少しばかり溜飲が下がる。人を散々心配させたのだから、これくらいは許されてしかるべきだ。
病人の眠りを妨げるのは医者としてあるまじき振る舞いだが、生憎今の俺は医者じゃない。
幸せそうに眠る妹の寝顔に、何故かあの子の寝顔が重なる。
健康優良馬鹿妹とはドルヲタなところ以外の共通点など無かったはずのあの子の寝顔が。
不意にルビーの瞳がぼんやりと開かれる。
熱と夢うつつのせいで虚ろな瞳が、あの子の最後の眼差しに重なる。
「……さりなちゃん」
不思議そうに俺を見つめるルビーに、小さく苦笑する。
思わず口からこぼれた名前を、どうやら妹は聞き漏らしてくれたようだ。
寝ぼけ眼の妹の額に手を当てながら、二度と会えないあの子を想う。
君も少しは見れたのか?幸せな夢を。