アフターグロウ(推しの子短編集)   作:FOOO嘉

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95I∀ ②

「あなたの幸福を祈らせてください」

 

しつこくチャイムを鳴らされたので、ドアを開けてみれば、張り付けたような笑顔のおばさんがそんなことを言ってきた。

 

 

──── アナタノコウフクヲイノラセテクダサイ ────

 

 

おばさんの言ってる言葉の意味がわからなくて、私は上手くその言葉を飲み込めなかった。

私と同じくらいの女の子だったかな、おばさんの隣に立っているその子は少なくとも私にはそんなに楽しそうに見えなかった。

ドアを開けた私を見て、それから家の中の様子を見た時、おばさんの顔が露骨に「あちゃー」って感じに歪んだのがわかった。

それはほんの一瞬のことだったけど、人の顔色の変化に敏感だった私はおばさんの顔色の変化を見逃さなかった。

それでも、おばさんはまた張り付けたような笑顔に戻ると、よくわからないことを口にし始めた。

『神様』を信じれば、必ず幸せにしてくれるとか、行いを見ていてくれるとか、今の自分が苦しいならお祈りをすればいいとか、多分そんな感じのことだったと思う。

『神様』というのを、私はよく知らなかったのだけれど、神様にお祈りをすれば、私はちゃんとご飯を食べられるのか、お母さんは殴ってこなくなるのか、そもそもお母さんはちゃんと帰ってくるのか、と聞くと、おばさんはよくわからないことを言い始めた。

おばさんの言っていることが私には難しかったから、あまり覚えていないけれど、おばさんが私の質問に答えていないことはなんとなくわかった。少なくとも、当時の私にとっておばさんの言う神様がしてくれることは余りありがたいことじゃないことだけは理解できた。

おばさんの持ってるパンフレットよりも私はマンガが読みたかったし、幸せかどうかよりもちゃんとしたご飯が食べたかったし、おばさんの言ってる神様に幸せにしてもらうために出かけないといけないのは面倒くさいな、そんなことを思いながらおばさんの隣にいる子どもをじっと見ていた。

 

「あなたは幸せなの?」

 

おばさんの話がつまんなかったから、暇つぶしくらいのつもりだった。

その子は少しびっくりしたように目を丸くすると、小さく首を傾げた。

 

「わからない」

「ふーん。神様に幸せにしてもらうのって大変なんだね」

 

そんな言葉を言ったと思う。

おばさんは、その子を叱ると手を引いて帰って行った。

なにか悪いことを聞いてしまったのだろうか。私はよく人に何かを聞いては怒られていた。

お母さんは何も言わなくても叩いてきたり、無視してきたりするけど。

だから、その時も私は何か空気の読めないことを言ってしまったのかなと、少し申し訳なくなった。

次に来たら謝ろうかと思ったけれど、結局おばさんとその子は二度と来ることはなかった。

 

 

結局、『神様』というのが幸せにしてくれる人だということはわかったけれど、その人は私にご飯を食べさせてくれたり、ちゃんとした綺麗な服を着せてくれたりする訳じゃないらしいということはなんとなくわかった。

それとも、そういう神様もいて、私のところには来てくれてないだけなのかもしれない。

私の家はお金も無いし、お母さんは娘の私から見ても変な人だったから、神様も寄り付かないかもしれない。学校で私が避けられているみたいな感じに。

 

 

そんなことを思っているうちに、お母さんがちっとも帰ってこなくなった。

 

 

家を空けることは珍しくなかったけれど、何日も空けることは余りなかった。

娘が心配とかそういう理由ではないことは察することが出来た。

お母さんは帰ってくる度に、私を見ては「あ、いるわね」とだけ言って、賞味期限がいつのかわからないパンを置いて行ったりしていた。

水やりを忘れた花がまだ枯れてないことを確認しにきたみたいに、お母さんは私がいること、というか生きていることだけを確認しているようだった。

 

「お母さんは私を産まなきゃ良かったって思ってる?」

 

殴られた頬を濡らしたタオルで冷やしながら聞いたことがある。

お母さんはお酒を飲みながら、私の言葉をつまらなさそうに聞いていた。

 

「…ま、ダメって言われたからさ」

「ダメって何が?」

「アンタを産むのを止めること」

 

お母さんは寂しそうに笑った。

私には見せたことが無い顔で笑うお母さんを見て、私は何となくわかった。

お母さんは私を産みたくて産んだ訳じゃないんだ。

きっと、その人にダメって言われたから産んだんだ。

特に悲しいとは思わなかった。

別に泣いたわけでもなかった。

ただ、繋がってなかったんだなと理解した。

私がお母さんとつながってると思ってた糸のようなものは、手繰り寄せてみてもどこにも繋がってないんだなと、私はぼんやりと感じてしまった。

 

 

だから、お母さんが帰ってこなくなった時も、そんなに寂しくはなかった。

だけど、困ったことにお腹は空いていた。

カップ麺もおかしも、パンも、全部食べてもお母さんは帰ってこなくて、だけどその頃の私はご飯の炊き方だって知らなかった。

電気代を払ってなかったせいで、電気も付かない家に一人で私はぼーっとしていた。

お腹が空いて頭は回らなかったし、寒くて毛布に包まって、ただじっとしていた。

部屋の外から聞こえる楽しそうな声が、テレビで見る世界よりも遠い場所の、作り物のような気がしていた。

 

お母さんが帰ってこなくなって、何日経ったのかわからなくなった時、ドアの鍵が開けられる音がした。

驚きはしなかった。お母さんが帰ってきたのかと思ったから。

嬉しくはなかった。どうせまだ生きてるのかとそんな顔を向けられると思ったから。

とりあえずホッとした。なんでもいいからご飯は食べられると思ったから。

動くと余計にお腹が空くのがわかっていたから、私は横になったまま、ドアの方を見上げていた。

 

けれど、ドアが開いて入って来たのはお母さんじゃなかった。

 

男の人だった。

 

初めて見る人だったと思う。自信は無かった。私は人の顔を覚えるのが苦手だから。

お母さんの新しい恋人だろうか。だけど、今まで会ったことのある人たちとは全然違っていた。

いつもお母さんは年上のおじさんばかりを連れてくるのに、その人はお母さんよりも年下のお兄さんだった。

とりあえず、いきなり殴ってきはしなさそうだなと、少し安心したのを覚えている。

 

「あなた…だれ?」

 

ご飯もろくに食べずに、誰ともお話もしていなかったせいで、カスカスでざらざらした声を出すのが精一杯だった。

お水も止められて、お風呂にも入れていなかった私は汚かったはずなのに、そのお兄さんは嫌な顔一つしないで私を抱き起こして優しく微笑んでくれた。

その笑顔は私の幸福を祈らせて欲しいと言ってきたおばさんの笑顔とは違って、嘘じゃなかった。

見ていると不思議と胸がぽかぽかするような、ほっとするような、柔らかい笑み。

だけど、私を見つめる瞳はなぜだか凄く悲しそうだったのを、よく覚えている。

 

「アイちゃんだね?僕は雨宮。雨宮吾郎」

「……ご、ろー?」

 

そういえば、人に目を合わせて名乗られたのって私初めてだ。

なぜかそんな驚きを抱いたのを覚えている。

 

「そうだよ。君のお母さんの…弟だよ」

「おかぁさんの…おと…?」

「ああ。さぁ、帰ろう」

「帰る?」

 

帰るって、何処に。

ここは私の家だということよりもどこに帰るのかを聞きたかった。

ゴローと名乗ったお兄さんは私を抱き上げて頷いた。

 

 

「君の家だよ」

 

 

 

 

 

「アイ…また潜り込んだのか」

「だって寒いんだもん」

「エアコン掛けろっていつも言ってるだろ?」

「節約してっていつも言ってるでしょ?」

 

ぎゅっと私を抱き寄せたゴロちゃんが頭の上で溜め息を吐く。

このやり取りはもう何十回目だろう。

ゴロちゃんはうんざりしてるかもしれないけれど、私はこのやり取りが大好きだ。

お小言を言いながらも、いつもゴロちゃんは私を抱き寄せてくれる。

彼が私を突き放したことなんて、この家に来てから一度も無い。それを確認する度に胸の内がポカポカと温かくなる。

 

「あ~あったか…」

 

ゴロちゃんは「こども体温マジあったかい」なんて言いながら、私の頭を撫でる。

来年には中学に上がるというのにこども体温とは失礼千万だと憤慨するが、頭撫でられるのが気持ちいいので文句は呑み込んでおくことにする。

 

「仕事行きたくない…このまま寝てたい」

 

朝は大好きだ。

特に冬の寒い朝。

低血圧で朝の弱いゴロちゃんが私に甘えてくる数少ない時間帯が朝だからだ。

このまま一緒に寝ていたいのは私にとってもかなり抗いがたい誘惑なんだけれど、心を鬼にする。

ゴロちゃんにはしっかりお仕事して、しっかりお金を稼いで来てもらわないといけないんだから。

大体ゴロちゃんが見栄を張ってファミリーカーなんて買うのがいけない。

私は軽で良いって言ったのに。第一、お買い物には自転車で十分だし、お出かけするのだって10分歩けば駅に着くのだから、電車でいいのだ。それなのに、ゴロちゃんは買い出しにもお出かけにも自動車の方が良いって言うんだもん。

私が1人で買い物に行くのは危ないからって、過保護にも程がある。

 

 

私を大事に思ってくれているのは嬉しいんだけどさ。

 

「朝飯今日はゴロちゃんの好きなお魚だよ」

「アジ?」

「正解」

 

お味噌汁の用意はできてるし、ご飯だって炊けてる。小松菜のおひたしには忘れずにゴマを振って、お皿に盛るだけ。お隣さんからもらった漬物もまだまだ残ってるし、あとはアジの干物を焼いてしまえば朝食はバッチリだ。

寝起きの悪いゴロちゃんがのそのそ顔を洗って、お髭を剃ってる間に焼き上がる。

 

「……うぅ~…わかった、起きる」

「はい、いい子いい子」

 

ゴロちゃんの寝癖交じりの頭を撫でてやると、寝ぼけ眼で苦笑する。

この笑顔を見るたびに、私はこの人以外何もいらないな、なんて思う。

この人の色々な表情を見て、この人と色んなことを話して、この人と色んなものを見て。

この人と過ごす時間が積み重なっていくにつれて、お母さんといた頃にはわからなかった、あの頃の私がどれだけ空っぽで何も知らなかったのか。

 

言葉でしか理解できなかった幸せっていうものが、どういうものなのか、わかってきた気がする。

 

 

 

 

 

 

『神様』というのは幸せにしてくれる人だとあのおばさんは言ってた。

 

 

 

だとしたら、あの日から、私の『神様』はゴローちゃん(あなた)だけ。

 

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