しとしとと、雨の音がする。
窓を打つ雨の音に、ゆるゆると意識が覚醒していく。
身体に燻る熱と鈍痛が、夢現の中にいる私に昨日の行為が現実なのだと教える。
「おはよう」
ふわふわとした身体をゆっくりと起こすと、アクア君が優しげに私を見つめていた。
「おはよう、アクア君」
今更私の身体でアクア君が見ていないところも、触れていないところも無い場所なんて一つも無いけれど、堂々と朝から見せつける程まだ羞恥心が麻痺している訳でもない。
傍らに人一人分のぽっかりと開いた場所を手で撫でる。
ひんやりとしたシーツの感触に、彼が随分前に起きていることを物語っているようで、ちくんと胸が寂しく疼く。
窓辺に置いた椅子に腰掛けて、立てた片膝に頬を乗せて雨音に耳を傾けるアクア君の姿は一枚の絵のようだ。
「朝ご飯何がいい?」
ベッドの下に落ちていた下着を身につけながら問いかけると、アクア君は少しだけ沈黙してから、首を振った。
「いいよ。せっかくの休みなんだから寝てろよあかね」
「だめだよ。ちゃんと食べなきゃ」
そう言うと、彼は困ったように小さく笑った。
「あかねの作るものなら何でも良いよ」
「 ──── ッッ」
鼻の奥がつんと痛くなる。
だって、ずるい。
「何でも良い」が一番困るって言ってしまいたかったけれど、アクア君の顔を見たら何も言えなくなってしまう。
一瞬、途方に暮れたような彼の表情は、「何でもいい」じゃなくて、「何も無い」とでも言いたげだったから。
下着の上にシャツだけを身につけると、アクア君の側に寄り添う。
物憂げに窓の外を見つめるアクア君の頭を抱き寄せる。
痩せたなと思う。
元々細身だったけれど、この一年で彼は更に痩せた。
無駄な肉なんて一片も無い色身体は、彫刻のように美しい。
けれど、同時にその姿には危うさが漂っていた。
「どうしたんだ?」
「なんでもない。ただ、こうしたいだけ」
「あかねは甘えんぼうだな」
「うん、そうだね」
さらさらとした琥珀色の髪に指を絡めて、何度も撫でる。
ルビーちゃんと同じ色のはずなのに、どうしてこうも違うのだろう。
ルビーちゃんの髪は真夏の太陽のように輝いて見えるのに、アクア君はまるで黄昏時の夕日を連想してしまう。
そう感じる度に、私は彼を抱き締めずにはいられない。
そうしないと、彼が目覚めない眠りについてしまうような気がして。
抱き寄せたアクア君がおずおずと私の腰を抱き寄せる。
何度も何度も身体を重ねているのに、こういう時の彼はとても臆病に私に触れる。
「雨止みそうにないな」
「そうだね。でも、せっかくのお休みだし、のんびり寝ちゃおうか?」
「買い物良かったのか?」
「うん。まだ冷蔵庫余裕あるから」
それよりも、アクア君と居たい。そう囁くと、アクア君は途方に暮れた顔をする。
放り投げられたボールをどうしていいのかわからない子供のような、与えられた好意に今も彼は不慣れだ。
もう一年も経つのに。
彼は生き延びてしまった命をどうすればいいのか戸惑っている。
寂しげに膝を抱えて雨を見つめる姿は、傷ついた動物を思わせる。
洞穴の奥深くで、じっと傷が癒えるのを待っている狼のようで、孤高だけどとても悲しい。
どれだけ傷ついても、洞穴で身体を丸める狼は、弱音を吐かない。
泣きたくなるほど痛くても、どうしようもなく苦しくても、何も言わずにただじっと身体を小さく丸めるだけ。
「苦しくない?」
「ん?柔らかい。それに温かい」
胸に抱き寄せたアクア君が小さく笑う。
そうじゃないと、その言葉を呑み込む。
代わりに、アクア君の額にキスをする。くすぐったそうに声を立てて笑う彼の瞼にも唇を落とす。
コンクリートを打つ音が激しさを増す。
雨景色は深く色濃くなっていく。
この家だけが世界から切り離されたような気がした。
そうなるならそうなってしまえばいい。
彼にひたすら残酷だった世界に、今更期待なんてしない。
いっそ何もかも切り離して、私とアクア君だけになってしまえばいい。
ちちちちと、可愛らしい小鳥のさえずりが聞こえる。
カーテンを開けると、雲一つ無い青空が目に飛び込む。
差し込む光の眩しさに、手を翳す。
「おはよう、アクア君」
ベッドの上で丸くなっているアクア君に声をかけると、彼は短く唸る。
「……うぅ…おはよ…あかね…」
朝日が眩しいのか、綺麗な眉間に皺を寄せて、うっすらと目を開ける彼の姿は日向ぼっこをする猫に重なる。
まったくもう、と溜め息が出る。
忙しくてあまり眠れてないのはアクア君の方なのに、なかなか寝かせてくれなかったのだから、自業自得だ。
そこまで求めてくれるのが嬉しくて、ついつい許しちゃう私もいけないのかもしれないけど…
ベッドに腰掛けると、くすぐるようにアクア君の前髪を指先で弄ぶ。
「朝ご飯出来てるよ。食べる?」
「んん〜〜…たべる」
未だに寝ぼけているのか、むずがるように呻きながら、私の手に頬ずりする。
どうしよう、可愛い。
内心、身悶えていると、再び寝息を立て始めたアクア君を揺すってやる。
「こら、二度寝しないの。早くご飯食べないと。今日映画行くんでしょう?」
「んん…眠い…」
めんどくさい、もっと寝たい、そんなことをごにょごにょと言いながら丸くなる。
いつも頑張っているのを知っているから、本当は寝かせてあげたいけれど、ようやく合ったお休みは最大限活用したい。
「映画は今度にしないか?」
アクア君が私の腰に腕を回して抱きついてくる。
「今日は、あかねも一緒に寝よう」
膝に頭を乗せてアクア君がおねだりするように見上げてくる。
くっ…自分の顔の良さを自覚してるのはズルい。
ズルいけど、悔しいことに可愛い。
今すぐベッドに潜り込んで、一緒に惰眠を貪ってしまいたい衝動を抑えながら、私は心を鬼にして言う。
「だめ。ルビーちゃんの映画なんでしょ?見に行かなかったら拗ねちゃうよ」
「ううう」
ぽんぽんと背中を叩いて、寝起きの悪い大きな子供をあやしてやる。
ちょっと太ったかな?
元々心配になるくらい痩せてたから、ちょうど良いくらいなんだけど。
昔より肌の艶も良いから、むしろ若くというか幼く見える。
初めて出会った頃のアクア君みたい。
「…どうしたんだ?」
「んー?んふふふ、アクア君は甘えん坊さんだなって思って」
「…いや、甘えてねぇし」
「本当に〜〜?」
膝の上に乗せられた頭をわしゃわしゃと撫でてやる。
薄い色素のさらさらとした髪が、陽を浴びてシャンパンゴールドに輝く。
何度も何度も、数え切れないくらい体を重ねて、アクア君の指も舌も、私の身体で触れていない場所なんて一つも無いくらいなのに、どれだけ彼が貪欲で、夜の彼は可愛いなんて言葉とはほど遠いと理解しているけど、こうして甘えてくる姿はやっぱり可愛い。
「いい天気だな…」
「そうだね。ほら、早く起きて。洗濯しちゃおう。シーツも洗いたいし」
「あぁ、確かに、濡れて冷たいなシーツ。誰かさんのせいで」
「そうだね。でも、それは誰かさんが人をイジメてくれたからだってわかってるのかな?」
「……めちゃくちゃノリノリだったじゃ…いてっ」
ぎゅっと、デリカシーの無いことを言う人の背中を抓ってやる。
「悪いことを言う人におしおきしなきゃね」
「痛い痛い」
「大げさなんだから。そんなに強くしてないでしょ」
「いや、背中のひっかき傷が…いててて」
顔が熱くなって、抓る指先に力が籠もる。
白い背中に刻まれたいくつもの赤い線から目を逸らす。
確かに、私が付けたものだけど、だからって、そんなに大袈裟に痛がることは無いでしょ。
人の羞恥心を煽っておきながら、当のアクア君は気持ちよさそうに私の膝に顔を埋めている。
こうしていると、大きなワンちゃんが甘えているみたいだ。
ボールを加えてころころと転がる大型犬。ゴールデンレトリバーとか、そういうの。
「あかね」
「ん?」
「あかねは柔らかいな。それに温かい」
「うん」
「それにいい匂い」
「ふふ、ありがとう」
膝に顔を埋めたアクア君が小さく笑うのがわかる。
愛しくなって、アクア君のつむじにキスをする。くすぐったそうに身を捩ってこちらを見上げる彼の額に、瞼に、唇に、一つ一つキスを落としていく。
ねぇ、アクア君。
君は随分と弱音を吐くようになったね。お仕事が疲れた、学校行きたくない、もっと寝てたいって。
すぐに痛いって言うし。そういえば歯医者が怖いってぐずぐずするのも、ちょっと痛いからなんだよね。
疲れて、しんどいと思ったらすぐに私に抱きついてくる。
私が台本を読んでると、後ろから抱きしめてくることもあるよね。
寂しくて構って欲しいの、わかってるんだからね。
なかなか離してくれないから、あきらめてそのまま台本読むのにも慣れちゃった。
でもね、泣きたくなる程痛くて、叫びたくなる程苦しいのを耐えて、身体を丸めていた頃より、今、弱音を吐く君の方がずっと好き。
頑張り屋で、優しくて、素直じゃないけど、寂しがり屋で甘えん坊なのを隠さなくなったアクア君をあの頃の何倍も愛しいと思う。
「しょうがない、ルビーちゃんには一緒に謝ろうか」
「うん」
ベッドに横になると、アクア君の頭を胸に抱き込む。
これで何度目になるんだろう。
君のおねだりに私が屈してしまうのは。
でも、こんなことで困ってしまっていることが、たまらなく幸せ。
君の甘えたさんぶりに困らされてることに幸福を覚えてしまうのだから。
なんて、そんなことを言うとアクア君はきっとふてくされて「あかねだって甘えただろ」って言うんだろうね。
そうだね。
私達似た者同士だものね。
窓の外に目をやる。
澄み切った空が広がっている。
彼の名前の色を思わせる淡青緑色の空が。