「ゴロちゃんもう朝だよ。ほら起きた起きた」
弾むような声に、雨宮吾郎は顔を顰めつつも渋々目を開ける。
ここで寝たフリをしようものなら、腹の上に伸し掛かる柔らかな重みが攻撃性を増すことを痛いほど理解しているからだ。
先日など、一度は目を開けたもののそのまま二度寝に突入した結果、腹にヒップスタンプを受けたばかりだ。
思わず「重い」と呻いたせいで、無情のスタンプの連打を食らい危うく強制的に二度寝させられるところであった。
故に、腹の上に座り、にっこりと笑って自分を見下ろす娘に早々に白旗を上げることにした。
「……おはよう…」
「うん、おはよ。顔洗ってきてよね」
ピンク色のエプロンを身に付けた少女からほのかに漂う朝食の匂いが鼻腔をくすぐり、吾郎に朝の訪れを告げる。
「わかったからどいてくれ…アイ」
腕を伸ばして、艶やかに伸びた黒い絹糸を撫でてやると、愛娘は猫のように目を細めた。
大根の味噌汁にご飯、焼いためざしは嘗て焦がしていたのが嘘みたいに絶妙な焼き加減だ。
昨日の残り物の肉じゃがが少しと、綺麗に巻かれた玉子焼き。
休みだから張り切ったな、と吾郎は娘の頑張りに微笑ましさを禁じ得ない。
「ゴロちゃん今日はお休みだよね?お買い物付き合ってよ」
吾郎が手を伸ばすと、何も言わずにアイが一味唐辛子の瓶を渡す。
「車出した方が良いか?」
大根の味噌汁に一味を二、三振かける。
何かを探している様子のアイにマヨネーズを手渡すと、吾郎は玉子焼きを一切れ口にする。
「うん、お願い。スーパーは最後に寄ってくつもり」
「りょーかい。服でも欲しいのか?」
そういえば、随分新しい服を買っていなかったかとアイを見る。
やはり年頃の女の子なのだから、もっとお洒落をしたいのは当然だろうと、大根の味噌汁を啜る。
「今日、青空市場行きたいんだ〜おばちゃんがね、このお漬物くれた時に教えてくれたの。今週良いのが出るって」
「なるほどねぇ。しかし、結局いつもの買い出しだな。服とかも買わなくていいのか?カバンも靴も、全然買ってないだろ」
「うーん、別にいいかな〜カバンはゴロちゃんの使ってたやつ使いやすいし」
「なんだよ、遠慮すんなよ。そろそろキツくなってきてるだろ服。今着てるそれだって、俺のお古だし、もう襟がダルダルでみっともないぞ」
「これは…別に家の中で着るだけなんだし、いいじゃん」
「寝巻きにするにしても、可愛いのあるだろ。俺の中学の頃のジャージなんてさっさと捨てちまえ」
色気も素っ気もないTシャツは吾郎のお下がりを部屋着に使っているものである。
下も吾郎のお下がりのTシャツに、彼が中学の頃に使っていたジャージを履いている。
元々が小柄なアイに対して中学の頃には背が伸び始めていた吾郎の服はサイズに余裕は十分過ぎるほどあり、裾直しさえすれば使う分には支障は特に無い。
特に無いが、吾郎としては不服だった。
アイは親の贔屓目を抜きにしても可愛い。可愛すぎる。
そんな女の子がお下がりのシャツとジャージ姿で過ごすなんて、これは世界への冒涜とすら言えるのではないか。
「いいでしょ。まだ使えるんだから。贅沢は敵だよ?欲しがりません勝つまでは!」
「何に勝つんだよ」
何度目のやり取りだろうか。
吾郎が彼のお下がりをいい加減捨てろとアイに言って、本人がまだ使えるからと突っぱねる。
家計のことを思ってくれている健気な心遣いなだけに叱ることも出来ず、しかし、子供にそんな気遣いをさせてしまっていることを心苦しくも思う吾郎の心境は複雑であった。
「アイの洋服代は贅沢とは言わん、必要経費だ」
贅沢さえしなければ2人で暮らしていける収入はあるし、祖父母の遺産も多少なりともある。
家は古く、戸などの建て付けは悪くなっているところもあるが、昔の木造建築らしく作りはしっかりとしている。田舎の土地に建つ古い建物とあって、固定資産税などあって無いようなものだ。
「必要経費って、全然そんな必要無いじゃん。そりゃ、私だって可愛い服は可愛いなって思うけど、めちゃくちゃ欲しい訳じゃ無いし」
「必要有ります。有ります〜。可愛い子は可愛い格好をする義務があるんです、ハイ論破」
美しいものはより美しくあるべきだと思っている吾郎には、もっと愛娘には可愛い格好でいて欲しい。
「はぁ?何子どもみたいなこと言ってるの?ていうか、ゴロちゃん親バカ発言もう、恥ずいから」
頬を染めてアイが眉間に皺を寄せる。
犬歯を剥き出しにして、本人的にはライオンくらいのつもりで威嚇しているのだろうが、吾郎にはどう頑張っても可愛いトラ猫程度にしか見えない。「俺の娘マジきゃわいい」と内心悶える。
「恥ずかしいものか。美しいものを美しい、可愛いものを可愛いと言うのは健康にも良いんだぞ?」
「はいはい、病院のトーイツケンカイ?だっけ?」
「偉いぞ、よく覚えていたな。美しいものは身体に良い。だからこの通り父さんは健康なんだ」
「誰が父さんか」
「パパでもいい」
「呼ばない」
「反抗期か」
「違うから!」
ぷくーっと頬を膨らませて、めざしに少しマヨネーズを付けるアイを見る。
すっかり家の子になってくれたものの、打ち解けすぎて所帯染みた子になったなと思いながら吾郎は玉子焼きを口にする。
アイ好みの甘い玉子焼きの優しい味が舌に広がる。
祖母の作る薄い塩味で育ったはずが、いつの間にかこの甘い味付けに慣らされてしまっている。
椅子の背もたれにかけられているエプロンが目に留まる。買った時はもっと濃いピンクだったが、今では桜色といった薄さにまで色落ちしている。
色落ちした色はそのままアイと過ごした時間の表れであるようで、むず痒くも嫌いな感覚ではない。しかし、同時にもっといいエプロンを買ってやればよかったという後悔もある。
買った時は自分も学生で、お金に余裕は無かったとはいえ、もっとしっかりしたものを調べて買えばよかった。
確か、アイと初めて大きなデパートに買い物に行った時のことだ、アイが物欲しそうな目を向けていたのがこのエプロンであった。
家に来たばかりで、不安と警戒心を漂わせていた小さな少女のおねだりが嬉しくて、あの時の自分はおかしなテンションでコレを買ったものだ。
まさかここまで大切に使われ続けるならば、もっと良いものを見繕ってやるべきだったのに。
「なぁ、アイ。エプロン新しいの…」
「コレでいいから」
「ですよねー」
にべもないアイの言葉に吾郎は「そんなボロっちいの捨てたらどうか」という言葉を呑み込む。
しつこく食い下がるとキレるか引き篭もるかのどちらかになり、せっかくの休日をお篭りになられたこの小さな天照大御神を出す為のあれやこれやで消費することになる。
どうせ娘に使う休日なら愛しい娘と仲良く過ごしたい。
「あ、でも、欲しいのあったわ」
アイが淹れてくれたお茶を受け取ると、吾郎の表情は明るくなる。
自由奔放なようで倹約家で健気な娘のおねだりには常時待機しているだけに、反応は早い。
「本当か?何だ好きなの言ってくれよ。何でも付き合うぞ?」
嬉しそうな笑顔を浮かべる吾郎に、アイは一瞬ニヤリとした笑みを浮かべる。
キラリというよりも、ギラリとした光がつぶらないアイの瞳に灯る。
猫がお気に入りのおもちゃを爪先で嬲るときの目の輝きに近い。
「あのね、ゴロちゃん」
「うんうん」
「私欲しいの…キツくなってきたから…」
「そうか、成長期だものな」
「うん。だからゴロちゃんも一緒に試着するの見て選んでくれる?」
「俺のセンスなんかでいいのか?」
「もちろん。寧ろ願ったり叶ったりだから」
「わかった。今日は一日付き合ってやるよ」
「ホント!?ありがとう〜〜!!欲しかったんだよね〜〜
新しいブラジャー」
「ブラッッゴホッ、がは、気管入っっっ…ゲハッ!?」
「もう、何やってんの。大丈夫?」
仕方ないなーとアイは吾郎の背をさする。
口調こそ心配しているものの、その表情は嗜虐的な悦びに満ちている。
そんなアイの表情にも気付かず、吾郎は涙目で咳き込みながらも、無性に感慨深くなっていた。
アイももう12歳だもんなぁ…
もう2年以上経つんだもんな。
★
「この子がそうなのね」
冷たい目。
冷たい顔。
冷たい声。
きっと吐息すら冷たいと思った。
その女が祖父母とどんな言葉を交わしていたのかは覚えていない。
ただ覚えているのは二つ。
一つは、その女はとても綺麗な女だったということ。
もう一つは、その女が自分を酷く忌々しいと思っていること。
女が自分に特別に罵声を浴びせかけた訳ではない。しかし、幼いながらも吾郎にはこの女が自分に複雑極まりない感情を抱いていることがわかった。
母の命を犠牲に生まれた自分を疎ましく思う祖父と、優しくもどこか腫れ物のように扱う祖母に育てられていくうちに吾郎にはそういった自分へのネガティブな感情の機微を読み取る洞察力が備わっていた。
そもそも持って生まれた利発さもあるのだろうが。
女は1人の少女を連れていた。
10歳、吾郎より5歳年上の女の子であった。
女の娘だという。
なるほど、確かに似ていると言える。
女に似て少女も綺麗な顔立ちのようだった。
ようだった、というのは、そんな顔立ちの良さなど気にならないほど少女には目を引く点があったからだ。
「だいじょうぶ?」
「……別に」
「でも、いたそうだよ?」
「…慣れてるから」
少女の顔は、持って生まれた美しさを損なう程に痣に塗れていた。
「ころんだの?」
「そう見える?そう見えるんなら…アンタまだ幸せだね」
「そうなのかな」
「ふん…そうでもないのか。こんなところで、あんな婆さんと爺さんに囲まれて暮らしてるんだから」
「おねえさんはしあわせじゃないの?」
「多分そうなんじゃないの。他の家なんて知らないけど」
せせら笑うような少女の笑みがやけに強く焼き付いた。
その怪我が転んで出来るようなものではないと吾郎が知ったのはもう少し後のことであった。
女は母の仏壇の前に座ると、手を合わせる訳でもなく、ただ虚空を睨み付けるように険しい目をしていた。
それから、女の子を一瞥すると、祖母と何かを言い交わして、吾郎に近付いてきた。
「アレが君のお姉さん。難しいかもしれないけど、半分だけ君のお姉さんってことね。良かったわね、君。父親に似て賢そうで。顔も似てる。母親似だったら殴ってたかも…なんてね。何ならアレと交換してウチの子になる?」
吾郎は首を振った。
祖父母を愛しているわけでは無かったが、目の前の女と暮らす未来は想像すらしたくなかった。
殴られるのか、それともそれ以外の何か酷い目に遭うような予感めいたものを感じたからだ。
女は「あ、そう。賢いのね本当に。羨ましいわ」と鼻で笑うように呟くと、女の子の腕を引く。
「ほら、ぐずぐずしないで。帰るよ」
「うん」
俯きながら女の子が、引き摺られるように家を出て行く。
一瞬、少女と目が合った。
それは刹那と呼んで差し支え無いものであったが、少女の目は確かに吾郎に向けられ、そして訴えていた。
『助けて』
と。
それから、少女が雨宮家を訪れたのは3回あった。
少女が母親に連れられてやって来た12歳の時と14歳の時。
中学の制服姿にどきりとした記憶がある。
そして、17歳の冬の夜。
少女はやってきた。
祖父母が寝静まっている時間に一人で。
「一晩泊めてゴロ助」
「…入りなよ」
野良猫が忍び込むように、吾郎の部屋に上がり込んだ少女に吾郎は母親と一緒では無いのかと、答えのわかりきった質問を投げ掛けた。
答えはわかっていたが、そうする必要がある気がした。
お互いの区切りのために必要だと。
少女は彼女の高校のものであろう、制服を身に付けていた。
「捨てて来た」
「そうなんだ」
「そう。きっとそのうち捨てられてたのは私だろうから、先に捨てて来た」
部屋着姿の吾郎を少女は舐め回すように、不躾な視線を向けると、小さく笑った。
「アンタには贅沢に見えるのかな」
「わからない」
「あんなのでもいた方が良いのかな。殴るような親なら最初から居なくていいよ。血が繋がってるだけの他人じゃん。ありがたがる必要も無いし。いなかったことがないからわかんない」
「そりゃそうなんじゃないかな。僕には君のように殴られて過ごす日々が想像出来ないのと同じで」
「ふふん、可愛くない奴」
少女は吾郎の布団の中に強引に入って来た。
すっかり大人の体付きになりつつある少女と、成長期に入ろうとしている少年の身体を収めるには一人用の布団は小さかったが、刺すような冬の夜の冷気に自然と二人は温め合うように身を寄せた。
「ゴロ助はさ、きっと捨てられても捨てない奴なんだろうね」
「よくわからないけれど、捨てたくはないと思う」
「アンタはそうなんだろうね。私はダメだわ。きっと捨てなきゃ捨てられるのが怖くて耐えられない」
少女の声が微かに震えた。
「アンタは優しいね。元々欠けてる奴は優しいのかな。私みたいに壊れて足りなくなった奴と違って」
「壊れてないよ…姉さんは」
「ひゃはっ、姉さん呼びやめれ。種が同じだっただけでしょ」
「それでも…」
「アンタは血の繋がりに幻想抱き過ぎ。こんなもの何の価値もありゃしないよ…」
少女は吾郎を胸元に抱き寄せる。
ざらりとした制服の感触に混じって柔らかな膨らみの感触が吾郎の顔に広がる。
「けど、割と嫌いじゃないわ、ゴロ助は。みんな死ねばいいと思ってるけど、アンタはそうでもないから」
「ありがとう」
「お礼言うこと?」
ギュッと吾郎が少女を抱き締める。
そうすることで、少しでも少女の抱える痛みのようなものが紛れれば良いと思った。
少女が短く吐息をつく。
「私さ、妊娠してるんだよね」
「……そうなんだ」
「その男のとこに転がり込むつもり。でも、どうなるのかな。ロクデモない男だし。また捨てるかも」
「なんで…」
ロクデナシとわかっていてそんな男と。
吾郎は言葉にしなかったが、少女には伝わったのだろう。
「そういう男しか相手にしてくれない奴なんだよ私は。それともアンタ相手してくれる?」
「えっと…」
「冗談よマセガキ」
くすくすと少女が笑う。
自嘲じみた悲しい笑い方だと思ったが、自分もこんな笑い方をしているのかもしれない、とも思った。
「…産むの?」
「ん?」
「赤ちゃん」
「ん〜〜どうしようかな。堕ろす金も無いから産むかも。そんで捨てちゃうかも」
「それはダメだよ。子どもを産むなら…」
「ちゃんと育てて愛せって?ハハッ、母親もいない癖に、母親になれって言うの?無責任過ぎない?」
「そうかな」
「ま、いいけど。じゃあさ、約束してよ」
「約束?」
「私ばっかりアンタの要求聞くのは不公平でしょ?だって、子ども産むのってめちゃくちゃ痛いって言うじゃん。鼻からスイカ出すくらい痛いって」
「凄いのはわかるけど、どう痛いのか想像つきにくいな」
「私もそう思う。で、私がそんだけ苦しい思いをして産むんだから、アンタにも責任取ってもらうよ」
少女が胸元に抱き寄せていた吾郎の両頬を手で包むと、その瞳を覗き込む。
「私が産んだ子を捨てたら、アンタが拾ってやってよ。アンタのせいで生まれた命なんだし」
そうなる未来が来るとどこまで予想しているのか、来てもどうでも良いと思っているのか皆目検討も付かない乾いた声に、吾郎の背筋が粟立った。
「ちょっと何マジな顔してんのよ。そもそも本当に産むかわかんないし、流産するかもしれないじゃん。逆に、いざ産んでみたら案外可愛くて愛情たっぷりに育てるかもしれないでしょ。それで、家族仲良くここに来て、アンタに姪っ子紹介するかもしれないじゃない。だから、テキトーに聞いておいてよ」
吾郎を抱きしめ直すと、少女は寝息を立て始めた。
吾郎は全く眠れなかった。
少女の匂いと温もりに落ち着かないのもあった。
しかし、それ以上に耳から離れなかった。
──── アンタが拾ってやってよ。アンタのせいで生まれた命なんだし ────
その言葉に、胸が早鐘を打っていた。
耳鳴りが、不吉の鐘のように鳴り響いていた。
胸に浮かぶ予感めいたものが、現実になるぞと告げられているような気がした。
★
その後、子供を産んだという連絡を母親になった少女から受けた。
『アイ』と名付けたらしい。
姓は変わっていなかった。
結婚をしなかったのか、別れたのか吾郎は聞かなかった。
そして、少女だった女が窃盗罪で逮捕されたという連絡を受けた時、吾郎はあの夜抱いた予感に突き動かされるように走った。
「お兄さん誰?」
「はじめましてアイちゃん。俺は君のお母さんの弟だよ」
「……叔父さん?」
「そ。そして、今日からは俺が君のお父さんになるよ」
「おと…う、さん?」
生まれて初めて耳にする言葉のように、たどたどしく呟くアイと名乗る少女に、吾郎は初めて会った日の少女 ──── アイの母の姿が重なった。
『助けて』
「俺が君を助けるから」
そっと、吾郎な怯えるアイの前に跪いた。
その光景は、永遠の愛を誓っているようにも、消えない罪の懺悔にも見えた。