湿り気を帯びた風がフリーレンの頬を撫でた。
梢が音を立てて、その乾いた音に、空気は暖かくとも身体の内側から冷たさがのぼってくる感じがして、微睡から急に目覚める。それから眠る前どうしていたのか思い出せず、体を起こそうとして、手のひらに重さを感じた。
まず最初に隣にヒンメルが眠っていることに気が付いて、それから手を握り合っていることをみとめた。
確か、見晴らしのいい丘に、今日は曇っていたけれど暖かくて雨も降らなさそうだったからやって来て、しばらく過ごしているうちに雲間から日が差し込んで、柔らかい草の上に陽だまりを作った。昼寝でもしようかとヒンメルが言って、朝から眠たかったフリーレンはその提案に異を唱えるはずもなく。
「……フリーレン?」
「あ、ヒンメル」
握られていた手がゆっくりと離れた。その時に、剣だこの硬さと皮膚の少し乾燥した感じが伝わって来て、自分の手とは違うものだという当たり前のことに変に感心してしまう。フリーレンの手を覆い尽くせる程に手が大きい事にも、やっぱり驚いた。
「えっと……なんでヒンメルと一緒にいるんだっけ?」
確かに冒険をしていた筈だけれど、ヒンメルと一緒ではなかったような気がしてフリーレンは尋ねた。
「寝ぼけているのかい? 急に僕を訪ねてきて前衛が欲しいと言ったのは君じゃないか」
「……そうだった」
ヒンメルの言う通り、どうやら寝ぼけてしまっていたらしい。魔王を倒す冒険が終わり、フリーレンは一人で魔法収集の旅に出たのだけれど、たった十年でも仲間と共に戦っていた経験は強烈で、前衛の必要を感じた。距離的に一番近いヒンメルのもとを訪ねて、何か小言を言われた気もするが、結局来てくれた。
ヒンメルと共に冒険をすると、やはり仲間の存在は大きいと再認識。ダンジョンへ挑むにあたり効率が全然違って、ミミックに食べられた時も髪を焦がさずに脱出できる。それに加えて、少し楽しい感じがした。毎朝早くに起こされる事だけがどうにも不満だったが。
ヒンメルは立ち上がってぐっと伸びをした。意味もなく見上げていると、ヒンメルは少し首を傾げてフリーレンに手を差し伸べた。
☆
勇者ヒンメルとの冒険は、やはりヒンメルとの冒険だった。彼は魔族の残党を斃し、小さな相談事でも引き受けて、代わりに銅像を建ててもらう。やはり魔王を斃した勇者の像だと職人も気合が違うらしい。魔王を倒す冒険の途中、ヒンメルがポーズに悩んだり作り直しを求めた時は鬱陶しそうにしていたというのに、今はどこか嬉しそうにしていた。もっとも、十時間を超える頃には辟易していたけれど。
職人の作業場を見ると、板張りの床に大きな傷があり、そこから木が傷んで黒くなっていた。
ヒンメルのポーズをスケッチに起こしている職人の手には生々しい傷がいくつもあって、伐採され加工された木とは違って、生きている力強さがある。そう思えば、彼の描くヒンメルのスケッチも線が太い。
部屋の奥にごちゃごちゃと置かれている粘土の像は原型。あそこにこの後ヒンメルのものが並んで、彼の像は広場に置かれる事だろう。
いつかまたこの場所を訪れた時を楽しみにしていると言って職人と別れる。そのヒンメルの言葉や、なんだかんだ職人も満足げにしているあの表情も、原型に使われる粘土のにおいに満ちた空間も、全て懐かしく心に沁みた。
「……? どうしてだろ」
ヒンメルと冒険をしている間に、何度もこういうことがあったのだから懐かしさを感じるのは違和感がある。一つ前の街を訪ねた時にも彼は像を作らせていた。
「フリーレン。いい宿の場所を聞いたんだ…………どうした? ぼうっとして」
「なんでもないよ……いや、ヒンメルがあまり時間をかけるから」
「当然だろう? 僕の像はずっと遺るんだ。一番いい姿でないと」
こんなやり取りも、懐かしかった。
☆
魔族か魔物の精神魔法にやられてしまったのかもしれない。
違和感が強いと、そういった事を考える。
けれど、精神魔法を掛けられた訳ではないとすぐに分かる。精神魔法に対する防御は破られていないし、そんな痕跡も全くないから。
翌朝目が覚めて、ヒンメルに揺すられていると気が付いた時にも、やはり違和感があった。この役目をするのは、確かにヒンメルだったけれど、女の子だったような気もした。勇者パーティーにも女性はフリーレンだけで、今はヒンメルとの二人旅なのだから、そんな筈がないのに。
この違和感が魔法によるものでないのなら、単に疲れているだけかもしれない。
嫌々起きて、窓外に目をやると、猛烈な勢いで雨が降り注いでいた。起き上がってしまったついでに、窓に近づいて外を見る。
道の泥が、雨の勢いで跳ねていた。坂になっているところを小川のように水が流れていく。まだ青い筈の葉がやけに黒く、靄の先に霞んで見えた。
窓を大粒の水が流れて、それが景色を不規則に歪め、奇妙な感じだ。
「ヒンメル。雨だよ。今日は宿でのんびりしてようよ」
フリーレンはすぐにベッドに引き返してシーツに包まろうとしたが、ヒンメルが手で遮って。
「朝食を用意してもらっているんだ。今日は宿で過ごすことに賛成だけれど、まずはご飯を頂こう」
「……わかったよ」
内心で面倒だと思いながらも、フリーレンはすぐにいつもの服を寝巻の上から着て、なぜだか茫然とこちらを見ているヒンメルに首を傾げた。フリーレンが思っていたよりもずっと不審そうに見てしまったらしい。ヒンメルは悪戯を知られた子供みたいに慌てて、しどろもどろになりながら。
「いや……やけに素直だと思って。いつもなら勝手に食べろと言うから」
「……別に、そういう気分だっただけじゃないの?」
自分のことながら、フリーレンは自信を持てずに、発話さえも曖昧な感じになって。ヒンメルは聞き返してきたが、無視して部屋を出た。
もう一日滞在すると知って、宿の人間は勇者ヒンメルが連泊した宿だと宣伝できると喜んでいた。その言葉に苦笑を零すだけだったが、朝食を食べながらもヒンメルがこちらを気にしていることに気が付く。以前なら――昨日までなら気が付いていなかったそれに、人間の感情の機微に敏感になっている理由が分からない。
言いようのない違和感にやはり精神魔法か何かの疑いを持つが。
「まあいいか」
この幸せが薄く広がる、まるで微睡の様な朝に浸っていたかった。
のんびり書きます。