ティーパーティーに銃剣を添えて   作:Agrissa

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25.7.21 この章の前置きとして、二話ほど追加しました。


10. 罪人に捧ぐカンタータ

 夕陽が、黄金のステンドグラスのように学園の尖塔を照らし出していた。

 

 トリニティの中央に位置する広大な庭園──トリニティ・スクエア。

 バロック式の豪奢な花壇には、赤や白の薔薇が規則正しく咲き乱れ、中心にそびえる大噴水からは、清らかな水音が絶え間なく響いている。

 まるで王宮の中庭を思わせるその景観は、キヴォトスでも有数の美しさを誇っていた。

 

 ボクは、その石畳の道をゆっくりと歩いていた。

 漆黒のシスター服の裾が、歩調に合わせて微かに擦れる音を立てる。

 

 

「…………」

 

 

 ──随分と、静かだ。

 

 ボクは周囲を見渡し、首を傾げた。

 放課後のこの時間帯、トリニティ・スクエアは下校する生徒や談笑するグループで溢れかえっているのが普通だ。

 だというのに、今は人っ子一人見当たらない。

 いくらボクが周囲から避けられているとはいえ、この異常なまでの無人状態は不気味ですらあった。

 まるで、見えない壁で世界から切り離されてしまったかのようだ。

 

 とはいえ、この美しい空間を独り占めしているようで、少しだけ得した気分にもなる。

 

 

「そういえば、今日はまだ遭遇してないなあ……ミカ様と」

 

 

 ここ数日、どこに行ってもあの桃色の悪魔が待ち構えていて、ボクの神経はすり減りっぱなしだった。

 奇跡的に平穏な一日。

 追いかけ回されることも、理不尽を押し付けられることもない。

 少し前まで当たり前だった孤独な日常が、今では酷く尊いものに感じられる。

 

 

「んぅ〜……っ。やっぱり平和が一番だよね」

 

 

 無意識のうちに少し幼い声が漏れ、ふうっと息を吐き出しながら肩を伸ばした。

 しかし、その安堵は、噴水広場に足を踏み入れた瞬間に粉々に打ち砕かれた。

 

 そこに、いた。

 

 夕陽を背に、噴水の白い大理石の縁に腰かけた一人の少女。

 特徴的な桃色の長髪が黄金色の光を反射して輝き、純白の制服がそよ風に揺れている。

 満月のような瞳が、ボクを捉えて嬉しそうに細められた。

 

 

「やっほーリルくん☆」

「うげえ……」

 

 

 反射的に目元が引き攣り、足が地面に縫い付けられたように止まる。

 長い、長いため息が、ボクの薄い唇から漏れ出た。

 

 

「ちょっとちょっと、そんな魔女でも見たような顔しなくてもよくない? ていうかリルくんさ、美少女が一人で黄昏れてるこのロマンチックな状況で、最初に出てくるのがため息って男の子としてどうなのかな? そんなんじゃモテないぞ☆」

「余計なお世話ですぅ! ああもう、油断した瞬間これだよぉ……。ていうか、ここに人っこ一人いないのって、まさか……」

「ご明察~☆ 私がティーパーティーの権限で人払いしておいたからだよ。今日は二人っきりで、じ〜っくりお話ししたかったからね。あはっ、逃げられないよ?」

 

 

 ミカ様は噴水の縁からふわりと飛び降り、ボクの前に立ちはだかった。

 その手には、見慣れた紋章入りの上質紙──ティーパーティーの入会誓約書が握られている。

 

 

「……で、何の用です?」

「え~? この状況でそれ聞いちゃう?」

 

 

 ミカ様は楽しげに書類をヒラヒラと振ってみせた。

 案の定だ。

 

 

「はぁ……だと思いました。お断りします。さようなら」

 

 

 ボクはため息と共に言い放つと、ミカ様の横を通り抜けてさっさと自宅へ帰ろうとした。

 いつもなら、ここからしつこい引き留め工作が始まる。

 だが──

 

 

「ん、そっか。ざ〜んねん」

「……え?」

 

 

 予想外のあっさりとした言葉に、ボクは思わず足を止め、振り返った。

 ミカ様は不満を口にすることもなく、誓約書をあっさりと背中に隠して微笑んでいる。

 

 

「……なんか、引き際が良すぎて逆に怖いんですけど。明日の朝は巡航ミサイルでも降ってくるんですか?」

「だって、通らない案件をいつまでも引っ張ったってしょうがないじゃんね? ねぇ、知ってる? これでもティーパーティーって結構忙しいんだよ?」

 

 

 肩を竦めて笑ってみせるミカ様。

 しかし、その笑顔の奥にある星屑の瞳から、ふっとおどけた光が消えた。

 

 

「──でもね。最後に、一つだけ聞かせてほしいな」

「なんですか?」

「どうしてリルくんは、そこまで頑なにティーパーティーとの……ううん、人との関わりを避けようとするの? 私の誘いを断ったんだから、そのくらいは教えてほしいな」

 

 

 空気が、変わった。

 夕暮れの風が止み、噴水の水音だけが不自然なほど大きく聞こえる。

 ミカ様の真剣な眼差しが、ボクの内側の柔らかい部分を無遠慮に覗き込もうとしていた。

 

 このままだと、ナギサ様の時のように、また踏み込まれる。

 ボクの触れられたくない、腐臭のする過去に。

 

 

「……ミカ様みたいなキラキラした世界で生きる人には、関係ないことです」

 

 

 冷たい言葉を投げつけ、視線を逸らす。

 膝下まである白銀の髪が、ボクの顔を隠すように揺れた。

 

 

「──また、誰かを傷つけるのが怖いの?」

 

 

 その一言が、背中から鋭い氷の刃となって突き刺さった。

 

 ボクはゆっくりと振り返る。

 そして、アクアマリンの瞳に、冷ややかな怒りを宿してミカ様を睨みつけた。

 

 

「知ってて聞くなんて、ミカ様って趣味が悪いんですね」

「──“ノートルダムの受難”」

 

 

 その名がミカ様の唇から紡がれた瞬間、ボクの心臓が凍りついた。

 全身の血が逆流し、黒いシスター服の下で、華奢な身体が微かに震える。

 それは、ボクにとって最大の禁句。

 決して開けてはならないパンドラの箱だった。

 

 

「あの事件で、何人もの生徒が重傷を負って、分校のキャンパスも崩壊したんだってね。公式記録には、そう書いてあったよ」

「……だから何ですか?」

 

 

 出てきた声は、自分でも驚くほど低く、絶対零度の冷たさを帯びていた。

 けれど、ミカ様はボクの威圧など全く意に介さず、まっすぐにボクを見据えて言葉を続けた。

 

 

「でも、その事件のトリガーを引いたのは、リルくんじゃない。……他の誰かだった。真犯人が、別にいたんでしょ?」

「……ッ!?」

 

 

 驚愕に、目が大きく見開かれる。

 どうして、この人がそれを知っている?

 あの事件の真実は、三年前に完全に闇に葬り去られたはずだ。

 当時の関係者以外、誰も知るはずのない事実だったのに。

 

 

「公式記録では、リルくんが一人で暴れた単独犯って扱いになってる。でもね、調書も証拠品も、不自然なことが多すぎたの。だから、ちょっとだけ調べてみたんだ」

 

 

 ミカ様の声が遠のき、ボクの意識は否応なしに三年前のあの日へと引きずり込まれていく。

 

 ──ノートルダムの受難。

 

 それは、ボクがトリニティの中等部に編入されて間もない頃の出来事だった。

 平和だったノートルダム分校に、突如としてガスマスクで顔を隠したテロリストが襲撃してきたのだ。

 彼女たちは過剰なまでの重火器と爆薬で武装し、まだ戦闘に不慣れな低学年の生徒たちを容赦なく蹂躙していった。

 

 悲鳴と爆音。

 燃え上がる教室。

 片隅で震える同級生たちを見て、ボクは気づけば前に出ていた。

 自分だけが、彼女たちを迎撃できる『力』を持っていると本能で理解していたから。

 

 ボクは、支給されたばかりの大型リボルバー──M500を構えた。

 同級生を守るために、初めてその引き金を引いた。

 

 だが、それが全ての悲劇の始まりだった。

 

 引き金を引いた瞬間、弾丸に込められたボク自身の異常なまでの“神秘”が、制御を失って暴発した。

 ボクには、銃器を扱う適性が微塵も備わっていなかったのだ。

 放たれた破壊の奔流は敵味方の区別なく吹き荒れ、守るべき同級生たちを巻き込み、校舎の壁を吹き飛ばした。

 

 さらに最悪なことに、戦闘状態に入った瞬間、ボクは脳の回路がまるで別人のものに切り替わるようなおぞましい感覚に襲われた。

 感情が完全に死滅し、思考が蒼く染まる。

 頭の中を支配するのは、『いかに効率的に敵対者を殲滅するか』という氷のように冷たい殺意だけ。

 ボクの身体はボクの意志を離れ、アサシンドロイドのように最適化された動きでテロリストを蹴散らしていった。

 その過程で、周囲の校舎がどうなろうと、逃げ惑う生徒が瓦礫の下敷きになろうと、ボク自身の身体が損壊しようと、思考の片隅にも上らなかった。

 

 結果として武装集団は撤退したが、後に残されたのは、地獄のような惨状と、自らの手で同級生を血の海に沈めたという絶望的な事実だけだった。

 ボクの中に、制御できない怪物が潜んでいる。

 その恐怖に、ボクは打ち震えた。

 

 

「ティーパーティーの権限を使って、当時の関係者とちょっと『お話』をしてみたの。そしたら、出てくる出てくる。正体不明のテロリストによる襲撃があったって証言が、いくつもね」

 

 

 ミカ様の声で、ボクは現実へと引き戻された。

 息が荒くなっている。

 握りしめた拳が、小刻みに震えていた。

 

 

「あの事件の責任は、リルくん一人にあったわけじゃない。きみは、理不尽な状況で必死に生徒たちを守ろうとしただけ……。その真実さえ明らかになれば、リルくんはきっとやり直せるよ」

「……やり直せる? あはっ」

 

 

 ボクは、乾いた笑いを漏らした。

 

 

「真実なんて語ったところで、誰も信じませんよ。上が白と言えば白、黒と言えば黒になるのがこのトリニティにおける真理です。それは、他ならぬティーパーティーに所属するミカ様が、一番よく知ってるはずじゃありませんか?」

「うん、知ってる。だから、ティーパーティーの私が白だと公表すれば、真実は覆る」

 

 

 ミカ様は、一切の迷いなく断言した。

 その真っ直ぐな言葉に、ボクの胸の奥で何かが軋む。

 だが、それは許されないことだ。

 

 

「──余計な真似をしないでください」

 

 

 ボクは吐き捨てるように拒絶した。

 

 

「事実がどうあれ、ボクが暴走して、多くの人を傷つけたことに変わりはないんです。だから、ボクは罰を受けなくちゃいけない」

 

 

 背中の翼が、自らを責めるように力なく垂れ下がる。

 

 

「この消えない罪の意識と、誰からも忌み嫌われる孤独という名の十字架は……ノートルダムの受難で、何もかもを失ったボクに残された、唯一のものなんです。それが……ボクの存在証明なんです。それを奪おうというのなら……たとえミカ様でも許さない」

 

 

 ボクはアクアマリンの瞳で、ミカ様を鋭く睨みつけた。

 しかし、ミカ様は怯むどころか、酷く切なげな表情でボクを見つめ返してきた。

 

 

「リルくん……。あの事件の真実が隠蔽されて、公式記録が改竄された理由、分かる?」

「知りません。……知りたくもありません」

 

 

 ボクの拒絶の言葉にも、ミカ様は構わず続ける。

 

 

「当時のパリサイ分派の人間が、テロリストの侵入をみすみす許した自分たちの失態を隠すためだよ。その証拠に、事件当時の監視カメラ映像も警備記録も、綺麗さっぱり消されてた」

「…………」

「そんな、自分の保身しか頭にない連中が作った『偽物の十字架』を背負わされて、自分をすり減らして……リルくんは、それで本当に満足なの?」

 

 

 痛いところを突かれ、ボクは思わず目を逸らした。

 夕陽の赤が、足元の石畳を血のように染めている。

 

 

「……それで丸く収まるなら、そんなことどうでもいいです。ボクがこうして孤立していれば、あの時みたいに、ボクの力で誰かを傷つける心配もないんですから」

 

 

 逃げるように言葉を紡ぎ、視線を逸らす。

 これ以上、彼女の言葉を聞いていたくなかった。

 

 ──けれど、ミカ様は容赦なく、ボクの心の最も脆い部分を踏み抜いてきた。

 

 

「……ふふっ。な〜んだ、そういうことかぁ」

 

 

 じっとこちらの様子を観察していたミカ様の口から、ふっと毒の抜けたような吐息が漏れる。

 

 

「……何がおかしいんですか?」

「やっとわかった。『人を傷つけたくない』なんて言ってたけど、それはただの建前だったんだ」

「は……?」

 

 

 ……この人は、何を、言っているんだ?

 一瞬、思考が空白になり、呼吸の仕方を忘れた。

 

 

「どうしてそんなに偽物の十字架を大事にしてるのか、不思議だったんだ。そんなもの捨てちゃった方が、絶対みんなと仲良くなれるのに」

 

 

 ミカ様は、ただいつも通り人を食ったような微笑を浮かべていた。

 けれど、その琥珀色の瞳は、ボクの内側の、もっとも柔らかくて見苦しい部分を正確に透視しているようだった。

 

 

「その十字架は、罰なんかじゃない。きみがこれ以上傷つかないために、自分から周りを遠ざけるための『盾』だったんだね」

「……っ!!」

「誰かと関わって、そしてまた『怪物』だと拒絶されるのが怖いから……そうやって盾を作って、必死に自分を守ってたんだ」

 

 

 心臓が、痛いほど大きく跳ねた。

 胸の奥底の、誰にも見せたくなかった醜い本性を、白日の下に引きずり出された感覚。

 

 ──やめろ。

 

 そんな声が、心の奥で反響した。

 胸がざわつき、どろりとした黒い感情があふれ出てくる。

 

 

「リルくんは、人を傷つけるのが怖いわけじゃない。本当は……自分が傷つくのが怖いだけなんでしょ?」

 

 

 ボク自身ですら理解していなかった、ボクの本質。

 それを暴かれたことが引き金となり、ボクの中で張り詰めていた何かが、音を立てて破断した。

 

 

「知った風なこと、言わないでください……! ボクのことなんて、何も知らないくせに! あなたみたいに恵まれた場所で、キラキラ生きてる人間に、ボクの何が分かるって言うんですか!!」

 

 

 感情のタガが外れ、叫んでいた。

 周囲の空気がビリビリと軋み、ボクから漏れ出す異常な神秘の圧力が、庭園の木々を激しくざわめかせる。

 

 瞳の奥が冷たく染まり、理性が憎悪へと切り替わっていくのが分かった。

 

 

「……知ってるよ」

 

 

 だが、ミカ様は暴風のような圧力の中を、少しも怯むことなく、静かに一歩、ボクへと歩み寄った。

 

 

「分かるよ。だって、きみは私と同じだから。……私と同じで、どうしようもなくバカで、そのせいで生き方を間違えちゃった、哀れな子だから」

「あなたがボクと一緒だって……? あははっ! ……ふざけるな。お前みたいなやつが、ボクと一緒なわけあるかッ!」

 

 

 言い聞かせても分からないなら、その身体で分からせてやる。

 ボクがどれほど危険で、近付いてはいけない存在なのかを。

 

 ── 一歩、踏み出す。

 

 ボクが足を踏み込んだ瞬間、大理石の石畳が爆発したように砕け散った。

 縮地法にも似た神速の踏み込み。

 瞬きをする間もなく、ボクの小柄な身体はミカ様の背後へと回り込んでいた。

 

 殺意はない。武器も使わない。

 ただ、手刀を彼女の首筋で寸止めして、圧倒的な恐怖を刻み込んでやる。

 

 白く細い腕が、空気を切り裂いてミカ様のうなじへと迫る。

 

 しかし──

 

 

「……っ!?」

 

 

 ボクは驚愕に息を呑んだ。

 寸止めするはずだったボクの手首が、振り返りもせずに背後に伸ばされたミカ様の手によって、万力のような力で完璧に止められていたのだ。

 

 常軌を逸した反応速度と、ボクの一撃を静止するほどの圧倒的な膂力。

 

 

「ふふっ。驚いた? 私って、これでも結構強いんだよ?」

 

 

 ミカ様はボクの手首を掴んだままゆっくりと振り返り、悪戯っぽく笑った。

 ボクは呆然と立ち尽くすしかなかった。

 ボクの身体能力は、並の生徒なら触れることすらできない領域にあるはずなのに。

 

 

「わざと怒らせるようなこと言って、ごめんね。ほんとは知ってたよ。リルくんが人を傷つけることを嫌う、優しい子だって。でもね、きみに分かってもらうには、これが一番近道だったんだ」

 

 

 ミカ様はボクの手首をそっと離し、優しく微笑みかけてきた。

 ボクは、混乱で震える声を、何とか喉から搾り出す。

 

 

「な、なにを……」

「もしもリルくんが、間違えて誰かを傷つけそうになったとしても……私なら、こうして確実に止めてあげられるってこと」

「……ぁ」

「拒絶されるのが怖くても大丈夫。同じ十字架を抱えてる私なら、リルくんの全部を受け入れてあげられる。それに、面倒な障壁だってティーパーティーの力を使って取り払ってあげる。……だから、安心してティーパーティーに来ていいんだよ」

 

 

 その言葉は、夕暮れの温かい光に溶け、ボクの氷のように凝り固まった心に染み渡っていった。

 

 ボクが一番欲しかったもの。

 それは、暴走する自分を止めてくれる、絶対的な力。

 醜い怪物であるボクを拒絶せず、受け止めてくれる存在。

 

 それに、今初めて気がついた。

 

 

「どうして……ボクなんかのために、そこまで……」

 

 

 小さな声でこぼすと、ミカ様は目を細め、どこか遠くを見るような、切ない色を瞳に浮かべた。

 

 

「さっきも言ったでしょ? 私とリルくんが、同じだからだよ」

 

 

 その瞳の奥には、ボクと同じで、確かな『罪人』の匂いがあった。

 彼女もまた、何か取り返しのつかない過ちを犯し、その後悔に苛まれているのだと、直感で理解できた。

 

 似た経験をしたことがあるからこそ、彼女はボクですら気が付かなかったボクの本質を言い当てることができたのだろう。

 

 

「さっきの……。ミカ様は、挑発のつもりで言ったのかもしれませんけど、『自分が傷つくのが怖いだけ』ってご指摘は……その通りなのかもしれません」

 

 

 憑き物の落ちたボクは、言いながら少しだけ微笑んでみせる。

 

 

「その証拠に……ひどく胸を抉られちゃいましたから」

 

 

 ミカ様は短く、『うん』とだけ答えた。

 それ以上、余計なことは言わなかった。

 ただ黙って、ボクの次の言葉を待っていた。

 

 ──マリーも、サクラコ先輩も、これまでずっと、ボクが新しい人間関係を構築できるよう、手を差し伸べ続けてくれた。

 しかし、その想いに、ボクは拒絶という形で背を向けてきた。

 

 多分、無意識のうちに恐れていたのだろう。

 一歩踏み出したその先にいる人たちに、拒絶されてしまうことを。

 そうして再び、心に傷を負ってしまうことを。

 

 だから、ボクは未来を歩むことを諦め、止まった時の中で生きることを選択したのだ。

 そうすれば、もうこれ以上傷つかずに済むから。

 それを、ミカ様の言葉で自覚させられた。

 

 ──もういい加減、現実から逃げることはやめて、止まったままの足を動かすべきなのかもしれない。

 孤立を選び続ける理由は、既にミカ様によって奪われてしまったのだから。

 

 覚悟を決めたボクは、ミカ様の瞳を真っ直ぐ見返した。

 

 

「……ボクは、とっても手のかかる後輩ですよ? ミカ様」

 

 

 幼さが残る顔でそう言って、ボクはゆっくりと右手を差し出した。

 

 

「──っ! ……うん、知ってる☆」

 

 

 ミカ様はパッと花が咲いたように笑うと、その小さな手を、両手でしっかりと握り返してくれた。

 

 夕陽が、二人の影を長く、一つに結びつけていた。

 

 

 

 

 

◆   ◇   ◆

 

 

 

 

 

「──っ、はあぁ……っ」

 

 

 リルが去り、茜色に染まった庭園に一人残された瞬間、ミカは糸が切れた操り人形のように、その場にへたり込んだ。

 純白のスカートが冷たい石畳に広がるのも構わず、彼女は大きく荒い息を吐き出した。

 

 

「あはは……。あ〜怖かったぁ……」

 

 

 ミカは自分の右手を見る。

 リルの手刀を受け止めた掌が、微かに、しかし確実に震えていた。

 

 踏み込みの圧力。

 そしてスピード。

 寸止めする意思があったとはいえ、あの瞬間に放たれたプレッシャーは尋常ではなかった。

 トリニティ準最強クラスと自負するミカでさえ、本能が警鐘を鳴らし、全身の産毛が総毛立つほどの圧倒的な暴力の気配。

 

 

「なにあれ……。ツルギ委員長クラスに片足突っ込んでるじゃん……」

 

 

 静かに視線を落とす。

 そこには、リルが踏み込んだ瞬間に粉砕された大理石の石畳が、クレーターのような痛々しい痕跡を残していた。

 華奢で、小柄で、まるで硝子細工の妖精みたいな姿をした男の子。

 けれど、その内側には、理外の強度を持つ純粋な暴力が内包されている。

 

 あの事件の被害報告書だけは、決して誇張などではなかったのだ。

 

 

「あんなに強くて、恐ろしい力を持ってるくせに……。あの子の手は……すっごく小さくて、冷たくて……怯えた子供みたいに震えてた」

 

 

 ミカは、先ほどリルの手を握り返した自分の右手を、そっと見つめた。

 掌にわずかに残る、華奢な指先の感触。

 それを思い出した瞬間、恐怖で早鐘を打っていたはずの心臓が、今度は別の理由で甘く、激しく高鳴り始めた。

 

 

「あはっ。思わぬ拾い物だったなぁ……。最初は、ナギちゃんに代わって、ちょっと世話を焼いてあげるだけのつもりだったんだけど……」

 

 

 小さく呟いたその声は、先ほどまでとは違い、ひどく仄暗く、熱を帯びた光を宿していた。

 孤独に震える美しい怪物を、ついに自分だけの鳥籠に閉じ込めたような、悍ましいほどの歓喜。

 

 

「……ずるいよ。あんなにも、私と同じ匂いがするなんて」

 

 

 自分の胸を抱きしめるように、ミカは身をよじる。

 その瞳の奥には、愛とも執着ともつかない、粘り気のある感情が渦巻いていた。

 

 

「──決めた。あの子の居場所は私が作る」

 

 

 きっとあの子は自分と同じで、光の当たる眩しい場所では生きていけない。

 マリーちゃんやサクラコちゃんみたいな、純粋で綺麗すぎる光の中じゃ、あの子はきっと息が詰まっちゃうはずだから。

 だから、自分と同じ日陰に引き込んであげる。

 そうすればきっと、何もかもがうまくいく。

 

 あの子の未来も。

 そして、自分の『計画』も。

 

 ミカは大きく息を吐き、天を仰ぐ。

 空は、夕焼けに満ちていた。

 燃えるような茜色が、雲の縁を黄金に染め、静寂の庭園を血のように覆い尽くしている。

 まるで戦火の前のような、奇妙な静けさ。

 

 

「あれだけの力……。もしも、私の隣で振るってくれるのなら……」

 

 

 邪魔な連中を排除し、トリニティの未来……いや、キヴォトスそのものの均衡すら変えることができるかもしれない。

 あの子という『ジョーカー』があれば、私の望む世界が手に入る。

 

 呟くように口にしたその言葉には、明確な野心と、底知れぬ独占欲が混じっていた。

 ナギサが思い描く特別情報執行局(イスカリオテ)という絵図とは別に、ミカにはミカの思惑がある。

 ティーパーティーという組織は、決して一枚岩ではないのだ。

 

 

「──でもまずは、久しぶりに戦闘訓練でもしてみよっかな」

 

 

 ミカはゆっくりと立ち上がると、スカートについた砂埃を軽く払った。

 その瞳からは既に、先ほど見せた怯えは完全に消え失せている。

 

 

「あんな小っちゃい後輩にあそこまで圧倒されるだなんて、ちょっとだけプライドが傷ついちゃったし……それに──」

 

 

 ミカは、リルの去っていった方向を見つめ、蕩けるような笑みを浮かべた。

 

 

「あの子を繋ぎ止める『鎖』は、いつだって強固じゃなきゃダメだからね」

 

 

 茜に染まった庭園の中、ミカはひとり背を向けて歩き出す。

 その足取りは恐ろしいほどに軽く、一切の迷いはなかった。

 噴水の水音だけが、やがて訪れる悲劇を予感させるように、ゆるやかに鳴り続けていた。

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