「し、失礼します……!」
白亜の壁面に囲まれた長い廊下の突き当たり。
豪奢な装飾が施された重厚なマホガニーの扉を前にして、ボクは大きく深呼吸をした。
しかし、肺に吸い込んだ空気は震えていて、早鐘を打つ心臓を少しも落ち着かせてはくれない。
これから足を踏み入れるのは、未知なる世界。
トリニティ総合学園という、巨大な組織の頂点に君臨する者たちだけが立ち入りを許される、特別な場所。
本来であれば、ボクのような日陰を歩く忌み子には、一生縁のない場所である。
昨日の夕暮れ、トリニティ・スクエアでの出来事が脳裏をよぎる。
ミカ様に自分の最も脆く醜い本質──『自分が傷つきたくないから、他者を拒絶している』という真実を暴かれ、その心の弱さと、それに相反するような凶悪な力も、全てを受け入れてあげると告げられた。
あの一瞬のやり取りで、ボクの凝り固まっていた世界は崩れ去った。
だからボクは、今日ここにいる。
紆余曲折の末、ティーパーティーからの勧誘を受け入れ、所属する意思を伝えるために。
漆黒のシスター服の袖口から伸びる自分の手を、そっと見下ろす。
雪のように白く、骨の筋が透けて見えそうなほどに華奢な手。
この手は、暴走する力を振りまいて、他者を壊すことしかできない手だ。
けれど、その手綱を握ってくれる人がそばにいてくれるのなら──
「……よし」
ボクは両手で自らの頬を軽く叩き、気合を入れた。
空色のヘイローが、決意に呼応するように淡く明滅する。
冷たい真鍮のドアノブに手を掛け、押し開けた。
扉の向こうに広がっていたのは、眩いばかりの光の奔流だった。
吹き抜ける風が、白いレースのカーテンを優雅に揺らしている。
青空の下、大理石が敷き詰められた広大なバルコニーには、洗練されたアンティーク調の白卓が置かれていた。
テーブルの上には、精緻な装飾が施された硬質磁器のティーポットと、宝石のように輝く焼き菓子の数々が並ぶ。
そして、その席でボクを待っていたのは、トリニティの頂点に立つ三人の少女のうち二人。
ボクは敷居を跨ぐと、かつてシスターフッドの侍者会で徹底的に叩き込まれた作法に従い、二人の前で片膝をつく。
ぴかぴかに磨かれた大理石のタイルに、緊張で強張る自分の顔が反射した。
「お、おはようございます。ナギサ様、ミカ様。白鍵リル、ただいま参上いたしました……!」
声が震えていないか、裏返っていないか。
極度の緊張で、大理石に散らばる白銀のロングヘアがかすかに揺れる。
背中の純白の翼も、不安を隠しきれないように、キュッと小さく丸まっていた。
「ごきげんよう、リルさん。朝からご足労でしたね」
顔を上げると、ナギサ様がティーカップを片手に、淑女の鑑のような微笑みを浮かべていた。
プラチナブロンドの髪が朝の光を弾き、その後光に包まれた姿は、深窓の令嬢そのもの。
「あははっ、リルくんったらお堅すぎ! そんなロボットみたいな社交辞令とかいらないから、早くこっちにおいでよ!」
しかし、その厳粛な空気を一瞬でぶち壊したのは、もう一人の権力者だった。
桃色の長髪を揺らし、ミカ様がまるでスキップでもするような軽快な足取りで歩み寄ってくる。
そして、有無を言わさぬ力でボクの腕をぐいと掴んだ。
「み、ミカ様!? あ、ちょっと! 引っ張らないで……!」
「ほらほら、ここ座って! 特等席だよ☆」
抵抗する間もなく、ボクはナギサ様の対面、ミカ様の隣の豪奢な椅子へと押し込まれた。
あまりの強引さと、昨日の夕暮れ時のシリアスさとは打って変わった軽い調子に、ボクは目を白黒させる。
これでもボクは、相当な覚悟を持って今日ここに足を運んだつもりだった。
長らく拒絶し続けていた部活への復帰。
しかもそれが、トリニティの最高機関であるティーパーティーなのだから、処刑台に向かう罪人のような心持ちだった。
なのに、この温度差は一体なんなのだ。
「そのぉ……ミカ様? こういう場って、もうちょっとこう、緊張感とか、厳粛な雰囲気があるものなんじゃ……」
「そんなのいりませ~ん! せっかくのお茶会で肩肘張ってたら、紅茶もお菓子もおいしさ半減だもんね」
「いや、あの。ボクは別にお茶しに来たわけじゃなくてですね──」
「はい、これリルくんの分ね! 今日はダージリンのセカンドフラッシュだよ! 夏摘みならではのマスカテルフレーバーが最高なの! 焼きたてのフィナンシェと一緒に召し上がれ☆」
「……聞いてませんね、人の話」
ボクの抗議など完全に右から左へと受け流し、ミカ様はにこにこと悪びれずにボクの前にティーカップを置く。
フルーティーな茶葉の香りと、甘いバターの香りが鼻腔をくすぐるが、今のボクにそれを楽しむ余裕はない。
「リルさんのおっしゃる通りですよ、ミカさん。最初の顔合わせくらい、上級生として相応しい態度で臨んでくださいね」
「えぇ〜〜……。ナギちゃんお固すぎぃ〜〜……」
「……しわしわピ◯レットみたいな顔で抗議するのはやめなさい」
ナギサ様が、心底呆れたようにため息を吐き、眉尻を下げる。
しかし、再びボクへと向けられたその眼差しは、春の陽だまりのように穏やかで、ボクを萎縮させまいとする細やかな気遣いに満ちていた。
「さて、ミカさんが場を乱してしまいましたが……改めてまして。ティーパーティーへようこそ、リルさん。色々と葛藤があった中、こうして私たちの呼びかけに応えてくださったこと、心から感謝します」
「い、いえいえそんな! 感謝だなんて!」
トリニティの頂点に立つナギサ様に真摯に頭を下げられ、ボクは慌てて立ち上がりそうになるのを堪え、座ったまま深く頭を下げ返した。
偉い人に畏まられると、背中がむず痒くて仕方がない。
「むしろ、感謝すべきなのはこっちの方です」
ボクは視線を自分の膝の上に落とし、シスター服のスカート布地をきゅっと握りしめた。
「……ボクは、ナギサ様とミカ様にお会いするまで、ずっと死んでいました」
ぽつりと、乾いた声が漏れる。
自分の醜い内面を言葉にするのは、酷く体力を要する作業だった。
「ノートルダムの受難という過去で足を止めたまま、今という時を歩もうとしませんでした」
これまでのボクは、過去という閉じた世界の中で学園生活を送っていた。
現実を捨て孤独で居続けることで、自分も他の生徒たちも、二度と傷付くことはないと思い込んでいたから。
しかし、それは同時に、変化や成長を捨てることを意味する。
そんなものは、命あるものの生き方ではない。
緩やかな自殺と同義だ。
「でも、そんな屍も同然だったボクの手を、お二人は引っ張ってくれました。本当に感謝しかありません」
「リルさん……」
これまでも、救いの手を差し伸べられたことはあった。
サクラコ先輩や、マリーがそうしてくれた。
──けれど、その手を取って一歩前に踏み出す勇気が、ボクにはどうしても出せなかった。
だから、こうして強引にでも手を引っ張ってもらえたのは、今思えば本当にありがたいことだった。
「それと……大聖堂での面談の時は、本当に失礼しました」
ボクは再び深く頭を垂れた。
ナギサ様との初会合。
あの時ボクは、都合の悪い話から逃げる子供のように、話の途中で部屋を飛び出してしまった。
今更ながら、己の幼稚な振る舞いに激しい自己嫌悪が込み上げてくる。
ナギサ様は一瞬、言葉を探すように黙ると、それから少し困ったように微笑んだ。
「いえ、あれはこちらにも非がありましたから。書面上のデータだけを見て、リルさんのことを理解したつもりで、論理だけで接してしまった。貴方の心の傷の深さを測り損ねていたのですから、拒絶されても仕方がありません」
「拒絶じゃなくて……逃げただけなんです。いつもみたいに、過去を言い訳にして、目の前の現実から逃げただけ……」
自嘲気味に呟くボクの言葉を、ナギサ様は優しく否定した。
「ですがそれは、誰も傷つけたくないという、貴方自身の優しさから生まれた行動の帰結でもあるはずです。私はそれを、単なる逃げだとは思いませんよ」
その温かい言葉に、一瞬、肩の力が抜けそうになる。
しかし、ボクは小さく首を横に振った。
背中の翼が、否定の意思を示すように、パタパタと小刻みに揺れる。
「トリニティのみんなを傷付けたくないって気持ちは……本当です。でも、もっと深い根っこの部分……本質は、そうじゃなかったんです」
ボクは、隣で能天気にマカロンを齧っているミカ様をちらりと見やった。
「ボクは、みんなから拒絶されるのが怖くて、傷つきたくなくて……だから、部活みたいな、人と深く関わることから逃げていただけなんです。……その見苦しい事実に、ミカ様のおかげで気が付けました」
ボクの言葉に、ナギサ様は『そうですか』とだけ、静かに、そして優しく返してくれた。
そして小さく苦笑し、ボクに向き直る。
「ミカさんの無茶には、随分と振り回されたのでしょう? 話には聞いています。この子に代わって、改めて私から謝罪いたします」
「いえ。さっきも言った通り、ボクが一歩踏み出す決心を固められたのは、ミカ様のその強引さのお陰でもあるんです。だから、謝罪だなんて、そんな……」
なんとなく、バルコニーがしんみりとした空気に包まれる。
過去を乗り越え、新たな絆を結ぶ、美しい青春の1ページ。
……しかし、空気を読まない桃色の悪魔が、それを一瞬で吹き飛ばしてしまった。
「そうそう! リルくんみたいな辛気臭~い子に、この私がわざわざ手間暇かけて構ってあげたんだから、感謝されて然るべきだと思うよ☆」
「むかっ……! 悪かったですねえ、辛気臭くて!」
「み、ミカさん……! 勇気を出してくれた後輩に向かって、なんて言い草ですか!」
いちいち人の神経を逆撫でするトークスキルは、今日も絶好調らしい。
人がせっかく素直に感謝の気持ちを打ち明けて、良い雰囲気になっていたというのに、この人はどうしていつもこうなのだ。
だいたい、さっきからロクに話も聞かず焼き菓子を貪っていただけのくせに、こういう時だけイキイキと会話にカットインしてこないでほしい。
ここ数日の、彼女の暴挙に振り回された記憶が、走馬灯のように一気に蘇ってきた。
成績表を盾にとった脅迫事件。
MRI検査室での麻酔&緊縛事件。
そして何より、学食でのイチゴ強奪事件。
……せっかく綺麗に水に流してあげようと思っていたのに、なんだかまた腹が立ってきた。
抱いていた感謝の気持ちが、朝霧のようにスゥッと消えていく。
ボクは、感情の抜け落ちたアクアマリンの瞳をナギサ様へと向けると、なるべく平坦な声で言い放った。
「あの、ナギサ様。前言撤回してもいいですか? やっぱり、ゴリラと人間って分かり合えないと思うんです。1%のDNAの差って、やっぱり越えられない絶対的な壁なんですよ」
「り、リルさん……」
「さてさて! 冗談はこのくらいにしておいて、と」
「嫌味をスルーされるのが一番ムカつくんですけど……!」
額に青筋を浮かべて抗議するボクを完全に無視して、ミカ様がパンッと手を叩いた。
「で、結局リルくんは、ティーパーティーに入ってくれるってことでいいのかな?」
「……!」
横目でミカ様を睨みつけていると、これ以上ない直球を放り込まれた。
突然の核心を突く問いに、ボクは一瞬、言葉に詰まった。
ふと、バルコニーに吹き込む初夏の風が、白いテーブルクロスの端をそっと揺らし、ボクの白銀の髪を撫でていく。
ミカ様の顔からは軽薄な笑みが消え、ナギサ様も表情を引き締め、黙ってボクの答えを待っている。
ボクは、そんな二人を真っ直ぐ見返した。
そして、悩むそぶりも見せず、静かに頷く。
昨日の時点で、もう既に答えは決まっていたのだから。
「──はい」
はっきりと肯定の意を示したあと、ボクはほんのわずかに眉をひそめ、問い返した。
「……むしろ、お二人の方こそ、本当にボクみたいな人間を引き入れて、大丈夫なんですか?」
「と、言うと?」
「ボクなんかをティーパーティーに入れたら、生徒たちから反発されるのは間違いないと思うんですけど……」
これは、勧誘された時からずっと懸念していたことだ。
ティーパーティーは、このトリニティの花形とも言える存在。
全生徒が、大なり小なり憧れと敬意を抱いている聖域だ。
そんな神聖な場所に、学園きっての問題児であり、忌み嫌われている『ノートルダムの怪物』が入るとなれば、生徒たちは絶対にいい顔をしないだろう。
暴動が起きてもおかしくない。
しかし、そんなボクの心配をよそに、ミカ様は笑いながら軽く肩をすくめた。
「面倒な障壁は、ティーパーティーの力で全部取り払ってあげるって、昨日言ったじゃん。それにね、今のこのトリニティで、私たちティーパーティーの決定に真っ向から逆らえる生徒なんて、存在しないよ?」
そう言って、彼女はわざとらしくナギサ様に視線を送る。
「……ミカさんの言い方は少々乱暴ですが、そういうことです。諸々の対応については、こちらで責任を持って対処します。それに、貴方の力は、これからのトリニティにとって必ず必要になるものですから」
苦笑を交えながら、ナギサ様も肯定する。
どうやら、ボクの心配は杞憂だったらしい。
学園の支配者たる彼女たちがそう言うのであれば、ボクごときが頭を悩ませる問題ではないのだろう。
「後は、リルさんのお気持ち次第です」
「…………」
その言葉に、ボクはそっと瞳を閉じた。
脳裏に再び、あの崩壊したノートルダム分校の光景がよぎる。
崩れたキャンパス、舞い上がる粉塵の匂い、呆然と立ち尽くす、鮮血にまみれた自分──。
あの日、ボクは大切なものをいくつも失った。
人との繋がりも、自分の居場所も、これから先に作れるはずだった思い出や夢、未来への展望、そして普通の男の子として成長する機会も。
トリニティにいる限り、それらは二度と取り戻せないと、そう思っていた。
ボクは青春という輝かしい時間を喪失したのだと、全てを諦め、自分を罰することだけを考えて生きてきた。
──けれど。
ナギサ様は、そんなボクに居場所を与えようと、その手を差し伸べてくれた。
ミカ様は、ボクが同じ過ちを繰り返さぬよう、その手を正しい方向へと強引に引っ張ってくれた。
それだけじゃない。
ボクがもっとも恐れていた自分自身の力……そのストッパーにもなってくれた。
これは、失った青春を取り戻す、最後のチャンスなのかもしれない。
……白状すると、ボクは常々、普通の青春というものに憧れていた。
放課後に友達とカフェに行ったり、他愛のない話で笑い合ったりする生徒たちの姿が、羨ましくて羨ましくて仕方がなかった。
なんだかんだと言い訳をして、興味がないフリを装っていたが、ボクにはないものを持つ彼女たちを前に、ただ強がっていただけなのだ。
でも、今ならボクも、それを取り戻すことができるのかもしれない。
もう一度、誰かと繋がって、光の当たる場所を歩けるかもしれない。
──迷いは、もうなかった。
ボクはすっと椅子から立ち上がった。
そして、ナギサ様の前へと進み出ると、大理石の床に再び片膝をつく。
胸の前で両手を組み合わせ、祈るように深く、深く頭を垂れた。
シスター服の裾が、床にふわりと花弁のように広がる。
背中の翼が、主の決意を代弁するように、一度だけ大きく羽ばたいた。
「──父と子と聖霊の御名において、この誓いを捧げます」
かつてシスターフッドの侍者会で教わった作法に則り、ボクは修道誓願の言葉を口にする。
透き通るようなソプラノの声が、バルコニーの静寂に響き渡った。
「我が身、我が魂は、御身と共に十字架に。我が歩みが御心に適うものならば、御身らを支える僕となることを許し給え」
厳かで、神聖な空気が、バルコニーを満たす。
視界の端で、先ほどまでふざけていたミカ様が、ボクの完璧な立ち振る舞いを見て驚いたように瞬きをしているのが分かった。
その様子を見て、ボクの胸の奥で、少しだけ胸がすいた。
いつも振り回されてばかりだったボクが、ようやく彼女の鼻を明かすことに成功したのだから。
ボクだって、元シスターフッドの端くれだ。
本気を出せば、これくらいの立ち振る舞いは朝飯前なのだ。
中等部時代、サクラコ先輩から嫌というほど叩き込まれた作法だが、覚えておいて正解だった。
「修道誓願……ですか。そういえば、リルさんは元シスターフッドでしたね。その美しい所作、サクラコさんの薫陶の賜物でしょうか」
ナギサ様は、ボクの姿を眩しいものでも見るかのように目を細めた。
「……はい、立てられたその誓い、確かに受け取りました。貴方のこれからの献身に期待します」
「イエス、マイ・ロード」
厳粛な面持ちのまま、ボクは短く答えた。
少しの間を置き、ゆっくりと立ち上がる。
そして、柄にもなく形式ばったことをしてしまった気恥ずかしさを誤魔化すように、口元にふわりと幼い笑みを浮かべた。
「これから、お世話になりますっ!」
「ふふっ。ええ、こちらこそ」
ボクがおずおずと右手を差し出すと、静かに席を立ったナギサ様が、まるで壊れやすい硝子細工を扱うかのように、そっと握り返してきた。
──その時。
彼女はほんの一瞬だけ、何かを躊躇うかのように、ひどく切なげで、痛みを堪えるような表情を浮かべたように見えた。
あまりにも一瞬の出来事だったので、もしかしたら光の加減による気のせいかもしれないが。
「……小さいですね、リルさんの手は」
「そ、そうですか?」
握手を交わすボクの手を、ナギサ様が両手で優しく包み込む。
柔らかな温もりとともに、彼女の細い指先が、ゆっくりとボクの甲を撫でた。
子供扱いされているようで、こそばゆい感覚にボクはわずかに身を捩る。
「こんなにも小さくて、華奢な手で……貴方はたったひとり、重い十字架を抱え続けてきたのですね……」
慈しむような、その声音。
それは、為政者としてではなく、一人の先輩としての、純粋な憐憫の情だったのかもしれない。
しかし、その響きが、すぐに少しだけ堅くなり、上に立つ者としての冷徹な風格を纏う。
「リルさん。これから貴方には、その十字架の代わりに、ティーパーティーの権威という名の『責任』や『義務』という名の枷が付き纏うことになります」
「……!」
少しばかり、抽象的な言い回し。
しかし、何となくその意図は理解できる。
きっと、ナギサ様はこう仰っているのだろう。
ティーパーティーには、この学園において絶対的とも言える地位が与えられている。
しかし、高い社会的地位には、それ相応の責任と義務が伴う。
その義務を、ボクはこれから果たさなければならないのだ、と。
つまりは──。
「ノブレス・オブリージュを果たせ──と、いうことですね」
「ええ、その通りです。力あるものに課せられた、不可避の責務。ティーパーティーの一員となった以上、リルさんにもそれを果たしてもらわねばなりません」
無論、それは承知の上だ。
トリニティの中枢へと加わることを決めた以上、その程度の重圧は覚悟している。
「イエス、マイ・ロード。御心のままに」
「いいお返事です。それにしても……ふふっ。そのような言い回しをされてしまうと、まるで自分がおとぎ話のお姫様か、貴族令嬢にでもなったかのように錯覚してしまいますね」
為政者然としていたナギサ様の表情が、不意に漏れ出た笑みによって綻ぶ。
「え、えっと……変でしたか? シスターフッドで教わった、目上の方に対する正式な作法なんですけど」
「いえいえ、そんなことはありません。むしろ、上級生への深い『愛』が感じられる、素晴らしい立ち振る舞いかと」
「あ、愛……?」
にっこりと、心の底から満足げに微笑むナギサ様。
突然、奇妙な単語を言い出した彼女に、ボクの背筋を何故か悪寒のようなものが駆け抜けた。
理由は分からないが、彼女の語る『愛』とやらには、得体の知れない不穏な気配を感じる。
まさかとは思うが、この人もミカ様と同じく、ちょっと……いや、かなりヤバい人なのではないか。
いやいや、淑女の鑑であるナギサ様に限って、そんなことはあるまい。
「愛は巡り巡るもの……。リルさんの愛に応えられるよう、私もホストとして、一層頑張らなくてはなりませんね」
「は、はあ……」
相変わらず、言っていることの真意は読み取れない。
しかし、彼女の反応から察するに、ボクの振る舞いに問題があるわけではなさそうだ。
それなら別にいいか……と自己完結していると、そこへ、酷く面白くなさそうな顔をしたミカ様が強引に割り込んできた。
彼女は、繋がれたままだったボクとナギサ様の手を、バンッと払いのけるように引き離す。
「は〜い、そこまでそこまで! リルくんは私のオモチャなんだから、いくらナギちゃんでも、これ以上触るならオプション料金取っちゃうよ?」
「……え? オモチャ?」
何か、非常に聞き捨てならないことを言われた気がした。
ボクはぐるりと首を回し、ミカ様をジト目で凝視する。
しかし、そんなボクの抗議の視線など完全に無視して、ミカ様とナギサ様は言葉の応酬を始めてしまった。
「ミカさん。先ほどから態度がおかしくはありませんか? 上に立つものとして、後輩にはもっと愛と慈しみを持って接するべきかと」
「愛ぃ〜? 笑わせないでよ。リルくんが思いのほか可愛くて好みのタイプだったから、鼻の下を伸ばしてただけのくせに」
「あの、今ボクのことオモチャって──」
「……何を根拠に、そのような妄言を」
「だって、ナギちゃんって、ヒフミちゃんみたいな素直で献身的な子が、大ッ好物じゃんね! リルくんの誓いの言葉聞いてる時、絶対よだれ垂らしてたでしょ!」
「あの、今お金がどうとか──」
「それは! ただ純粋に後輩として好ましく思っているだけで、貴女が言うような不純な下心など一切ありませんッ!」
「ど〜だか! ほんとはリルくんのことお持ち帰りしてやろうとか、邪なこと考えてるんじゃないの?」
「聞けよッ!!」
とうとう堪忍袋の緒が切れたボクは、翼を逆立てて大声で喚き散らした。
しかし、ヒートアップした二人の耳には、ボクの叫びすら届いていない。
「いいでしょう。これ以上、私の名誉を傷つける減らず口を叩くおつもりなら、こちらにも考えがあります」
「へぇ〜? どうするの?」
「セイアさんの代わりに私が対応している膨大な事務仕事を、本日から全てミカさんの担当に変えます」
「う〜わ、やることがちっさ! 地味な嫌がらせ~! そんな器の小さいことばっかり言ってるとさ、ただでさえ小さいお胸がさらに縮んじゃうよ? セイアちゃんよりはマシだからって、油断しない方が──」
──瞬間、ナギサ様の右手が、音速を超えて虚空を薙いだ。
そして、一拍遅れて、ドサァッ!という何かが倒れる鈍い音。
驚いて音のありかを辿ると、そこには、顔面の中心に巨大なロールケーキを深々と突き刺したまま、白目を剥いて床にぶっ倒れているミカ様の姿があった。
「…………」
絶句。
そして、確信。
やはり、ナギサ様もヤバい人だった。
このティーパーティーという組織に、まともな人間は一人もいないのだ。
「──こほん。お目汚し、大変失礼いたしました」
にっこり。
ロールケーキを生やしたままピクピクと痙攣するミカ様を背に、満面の笑みを浮かべてみせるナギサ様。
怖い。怖すぎる。
さっきまでの気品あるホストの姿はどこへ行ったのか。
「本当はこれから、リルさんの今後の担当業務について、詳しい説明をしたかったのですが……どこかの誰かさんのせいで、予定の時間が足りなくなってしまいましたね。続きは午後にしましょうか」
「は、はい……」
「それと、リルさん。一つだけ訂正させてください。私は……着痩せするタイプなんです。くれぐれも、誤解のないようお願いしますね?」
「はいぃぃ……!」
背後にサタンの幻影を背負い、静かな圧を放つナギサ様を前に、ボクは青ざめた顔で震えながらそう答えるしかなかった。
……やっぱり、ティーパーティーに入ったのは、失敗だったかもしれない。