「──Stabat Mater, dolorosa. Juxta crucem lacrymosa」
「──Contristatem et dolentum. Lacrymosa, Juxta crucem」
高くそびえる大聖堂のドーム天井に、祈りの旋律が吸い込まれていく。
ステンドグラスから降り注ぐ色とりどりの光の粒子が、ボクの歌声と混じり合い、祭壇を神聖な空気で満たしていた。
「──Lacrymosa, dolorosa. Dolorosa」
サクラコ先輩からの要請でミサの独唱を任されるのは、これが何度目になるだろう。
瞳を閉じ、両手を胸の前で組みながら、ボクは最後のフレーズを静かに、絹糸を紡ぐように歌い終えた。
パイプオルガンの重厚な伴奏が静かにフェードアウトし、完全なる静寂が訪れる。
ふう、と小さく息を吐き、ボクは恭しく一礼して祭壇を降りる。
……さて、問題はここからだ。
ミサが終わり、参列者が退出して静けさを取り戻した大聖堂の身廊。
そこでは、シスターフッドの長であるサクラコ先輩と、友人のマリーが、ボクが来るのを待ってくれていた。
「お疲れ様でした、リル。本日も素晴らしい出来でした」
「リルくん、お疲れ様です! なんだか、いつも以上に心が洗われるような気がしました」
優しく微笑みかけてくれる二人の顔を見て、ボクは胸の奥がチクリと痛むのを感じた。
今日、ボクはどうしてもこの二人に伝えなければならないことがあった。
ずっと孤立していたボクを見捨てず、陰に日向に支え続けてくれた恩人たち。
ボクが社会との繋がりを取り戻せるよう、シスターフッドへの復帰を何度も持ちかけてくれていたのに、ボクはそれをずっと拒絶し続けてきた。
それなのに。
ボクは漆黒のシスター服のスカートをぎゅっと握りしめ、二人の前に進み出た。
緊張で、背中の翼がこわばる。
「……あの、サクラコ先輩。マリー」
ボクのいつもと違う深刻な声色に、二人がわずかに表情を引き締めた。
「実は、お二人に……報告しておきたいことがあって」
喉がカラカラに乾いていた。
これから口にする言葉が、彼女たちに対する裏切りなのではないかという罪悪感が、ボクの舌を重くする。
それでも、言わなければならない。
「ボク……ティーパーティーに、入ることにしました」
しん、と大聖堂の空気が止まった。
ボクは視線を足元に落とし、早口で言葉を継ぎ足す。
「……その、ごめんなさい。二人がずっと、ボクの居場所を作ろうとしてくれていることは知っていたのに、シスターフッドに戻るんじゃなくて、あっちを選ぶなんて……。すごく不義理なことだって分かってます。でも……っ」
言い訳を重ねようとしたボクの言葉は、頭の上に置かれた、温かく柔らかな感触によって遮られた。
──え?
おそるおそる顔を上げると、そこには、怒りでも失望でもなく、ひどく安堵したような……そして、うっすらと涙を浮かべたサクラコ先輩の顔があった。
「……サクラコ、先輩?」
「何を謝ることがあるのですか、このお馬鹿さん」
震える声。
革手袋越しの優しい掌が、ボクのシスターベールの上から、愛おしむようにボクの頭を撫でた。
「貴方が、過去の呪縛を断ち切って、自分から前へ進むことを決めてくれた……。それだけで、私がどれほど嬉しいか、分からないのですか?」
サクラコ先輩のアメジストのような瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
それは、長年出来の悪い弟を案じ続けてきた姉が、ようやく肩の荷を下ろしたかのような、心からの安堵の涙だった。
「リルくん」
横から、マリーがそっとボクの手に自分の手を重ねてきた。
彼女の翡翠色の瞳もまた、潤んでいる。
けれど、その顔には満面の、花が咲くような笑顔が浮かんでいた。
「本当に……本当におめでとうございます! リルくんがどこの部活を選んだとしても、私は……リルくんの友人として、誰よりも応援しますから!」
マリーは、まるで自分のことのように喜んでくれている。
……なんだ。
ボクは、なんて見当違いな心配をしていたのだろう。
彼女たちにとって、ボクがどこに所属するかなんてどうでもよかったのだ。
ただ、ボクが未来へ向かって歩き出すこと……それだけを望んでいたのだ。
ティーパーティーを選んだことへの罪悪感など、彼女たちの海のように深い愛情の前では、ただの杞憂でしかなかった。
「二人とも……」
目頭が熱くなるのをごまかすように、ボクは胸のつっかえが取れたような気の抜けた笑いを漏らした。
そして、両手で自分の雪のように白い頬を、パチン!と叩く。
「痛っ……よし」
気合を入れ直す。
ボクは姿勢を正し、二人の顔を真っ直ぐに見つめ返した。
「二人には、心配ばかりかけちゃってすみませんでした。……ボクをナギサ様と引き合わせてくれたサクラコ先輩の顔に泥を塗らないよう、ティーパーティーで精一杯頑張ります!」
ボクの誓いの言葉に、サクラコ先輩は目元の涙を指先で拭い、満足そうに頷いた。
しかし、その直後。
彼女の表情から姉のような温もりが消え、シスターフッドの長としての、凛とした厳しさが宿った。
「……それで、リル。貴方はティーパーティーで、具体的にどのような役目を任されたのです?」
鋭い問い。
ボクは首を傾げた。
「役目、ですか? 詳しい通達は午後にサロンで説明するって言われてるので、まだ何とも……」
その答えを聞いた瞬間、サクラコ先輩の眉間にうっすらと皺が寄った。
「そうですか。……リル、よく聞いておきなさい。桐藤ナギサという人は、トリニティの平和のためならば非情な決断も下せる『政治家』です。ミカさんも、感情のままに動くきらいがある」
「はあ……」
「もしも貴方が、彼女たちから理不尽な無理難題を突きつけられたり、政治の道具として使い潰されそうになったりした時は……迷わず私に相談しなさい」
サクラコ先輩の口調は、過保護なほどに真剣だった。
どうやら彼女は、ティーパーティー……特にナギサ様の手腕を、手放しには信用していないらしい。
「いざとなれば……」
サクラコ先輩は、ふっと目を細め、どこか神聖な使命に燃えるような、熱を帯びた声で付け加えた。
「私が直接、ティーパーティーのサロンへ乗り込み、彼女たちに私の『覚悟』を示して差し上げましょう」
「…………え?」
──覚悟。
その単語を耳にした瞬間、ボクの脳裏に、鍵をかけて海の底に沈めていたはずの、ある忌まわしい記憶がフラッシュバックした。
……あれは、ボクがまだ中等部に在籍していた頃のことだ。
クラスで授業参観があった日。
家族などいないボクの席には誰も来ないはずだったのだが、授業の途中で突然、教室の扉が勢いよく開かれた。
そこに立っていたのは、『これが後輩の成長を見守る私の覚悟です!』と堂々と宣うサクラコ先輩の姿。
それ自体は、百歩譲って美談かもしれない。
問題は、彼女の『服装』だった。
たった一枚の黒い布地で構成された、際どすぎるハイレグレオタード。
かつてトリニティを統治していた戒律の守護者──ユスティナ聖徒会に伝わるという伝統の礼装らしいが、一般の生徒から見れば、ただの露出狂か変質者にしか見えない代物だった。
そんな格好で、さも身内ヅラをして教室の最後列に陣取られたボクの気持ちが分かるだろうか。
あの時、クラスメイトたちから向けられたのは、畏怖でも嫌悪でもなく、純粋な『ドン引き』の白い目だった。
ボクはあの日の放課後、恥ずかしさのあまり三日間ほど自室に引きこもったのだ。
……あれは、ノートルダムの受難とはまた別のベクトルで、ボクの精神に深い傷を負わせたトラウマ事件である。
「……先輩」
ボクは、感情が完全に死滅した、絶対零度のアクアマリンの瞳でサクラコ先輩を真っ直ぐに見据えた。
「もし、またあのふざけた格好で、しかもティーパーティーのサロンなんかに現れるようなことがあったら……その時は、今度こそ先輩との縁を切りますからね」
「なっ!?」
声のトーンを極限まで落とした冷ややかな宣告に、サクラコ先輩が素っ頓狂な声を上げた。
隣では、当時の惨状を知っているマリーが、引き攣った笑いを浮かべながら必死に視線を逸らしている。
「な、何故ですかリル!? あれは決してふざけた格好ではなく、シスターフッドに古くから伝わる、神聖で伝統のある由緒正しき──」
「知りません。アレが再び視界に入った瞬間から、先輩のことは『歌住先輩』と呼ぶことにしますので」
「ま、待ちなさい! 私の覚悟を……私の覚悟を拒絶しないでください、リルぅぅっ!」
大聖堂の厳かな控室に、シスターフッドの長らしからぬ、悲鳴のような弁明が響き渡る。
ボクは深々とため息をつきながら、やっぱりトリニティのトップ層にはまともな人間が一人もいないのだと、改めて確信するのだった。
サクラコ先輩たちの温かい祝福……と、一部のトラウマを呼び起こす脅威から解放され、ボクは再びティーパーティーのサロンへと足を踏み入れていた。
午前中の面会とは打って変わり、午後のサロンは穏やかな西日に包まれ始めていた。
大理石の床に落ちる窓枠の影が、少しずつ長く伸びていく。
吹き抜ける風には、朝方の爽やかさとは違う、一日が成熟しつつあるような、微かな気怠さが混じっていた。
優雅に設えられたテーブルには、新しい紅茶のポットと、三段重ねのティースタンドが用意されている。
ボクは指定された座席に腰を下ろし、対面に座るトリニティの最高権力者──桐藤ナギサ様の言葉を待っていた。
隣の席では、聖園ミカ様が退屈そうにティーカップを指先でなぞっている。
これから語られるのは、ティーパーティーに加わったボクに与えられる、具体的な『役割』についてだ。
ノブレス・オブリージュ。
トリニティの平和と秩序を守るための、力ある者の義務。
そのために、ボクの力が少しでも役立つというのなら、甘んじて受け入れる覚悟はできている。
沈黙を破り、ナギサ様が静かに口を開いた。
「さて、リルさん。貴方に就いていただく具体的な役職についてですが」
ナギサ様の声音は、午前のそれよりも一段階低く、ティーパーティーのホストとしての威厳と冷徹さを帯びていた。
ボクは背筋を伸ばし、ごくりと息を呑む。
シスター服のスカートの上に置いた両手に、自然と力が入った。
「貴方にはこれから、ティーパーティー直属の機関である“
──
その単語を耳にした瞬間、ボクの思考は一瞬にしてフリーズした。
呼吸の仕方を忘れ、アクアマリンの瞳がこぼれ落ちそうになるほどに見開かれる。
聞き間違いだろうか?
いや、そんなはずはない。
ナギサ様の声は、どこまでも明瞭で淀みがなかった。
「い、いすかり、おて……」
「はい。正式名称は、ティーパーティ直轄 特別情報執行局 外典対策課 特命執行官という役職ですね」
ナギサ様は、ティーカップを静かにソーサーに戻しながら、長ったらしい名称を一切の澱みなく口にした。
ボクは思わずガタッと立ち上がりそうになるのを必死に堪え、震える声で問い返した。
「
「ええ。リルさんのその反応を見る限り、トリニティの歴史の授業はちゃんと真面目に受けていたようですね。いい子です」
ナギサ様は、ボクの驚愕を予想していたかのように、かすかに口角を上げた。
驚くのは無理もないだろう。
トリニティの生徒であれば、誰でも一度は耳にしたことがあるだろうその名称。
中等部の歴史の授業でも、必ず触れられるトリニティの暗部。
かつて、非友好的な学園や企業に対する防諜・破壊工作を担っていた少数精鋭のエリート集団。
しかし、彼女たちは防諜活動の最中、ティーパーティーのメンバーによる外患誘致の疑いを察知したことで、主君たちに対して刃を向けたのだ。
『ジューダス・キス』と呼ばれる、その未遂に終わったクーデターは、トリニティの歴史において重大な事件の一つとして記録されている。
結果として機関は解体され、それ以降、
そんな忌み名が、よりにもよってティーパーティーの現ホストであるナギサ様の口から出てくるとは。
しかもその口ぶりから、彼女はその呪われた機関を復活させるつもりらしい。
「そ、そんな馬鹿な……! あれって、とっくの昔に解体されて、歴史の闇に葬られたはずの機関じゃありませんか。それを、どうして今になって……」
困惑するボクに対し、ナギサ様は冷静に言葉を紡ぐ。
「驚かれるのも無理はありません。ですが、現在のトリニティにはどうしても、
ナギサ様は伏せ目がちに視線を落とし、微かに愁いを帯びた表情を見せた。
「リルさんも耳にしているでしょう。ここ最近、トリニティ学区内で頻発している、不良生徒たちを使った未認可薬物の密輸事件のことを」
「はい……。コハルさんから、少しだけ」
「現在、あの事件は正義実現委員会の活躍によって、末端の運び屋たちを捕縛することには成功しました。しかし、彼女たちはただ使われていただけに過ぎず、その背後にいる組織の全容は未だに掴めていません。……おそらく、首謀者は学外にいます」
学外。
つまり、トリニティ自治区の外側に潜む、得体の知れない敵。
「これ以上、事件の真相に迫るためには、トリニティの外へも捜査の手を広げる必要があります。しかし、実質的な正規軍である正義実現委員会を学外で大々的に動かせば、他学園──特にゲヘナ学園を無用に刺激することになり、重大な外交問題へと発展しかねません」
なるほど、とボクは内心で頷いた。
正義実現委員会は、その圧倒的な武力と引き換えに、政治的なしがらみに縛られすぎている。
彼女たちの制服はあまりに目立ちすぎるし、委員長であるツルギ先輩が学外を歩き回るだけで、トリニティが攻めてきたと勘違いされかねない。
「そこで、高度な隠密性と即応力、そしていざという時に単独で状況を制圧できるだけの武力を併せ持つ、独立した執行機関が必要になるのです。……正義実現委員会では追いきれない、『裏』の仕事を引き受けるための、ティーパーティー直轄の懐刀が」
ナギサ様の琥珀色の瞳が、真っ直ぐにボクを射抜く。
「学外にその名が知れ渡っていないにも関わらず、たった一人で戦況を覆すほどの強大な力を持つ生徒。……リルさん。貴方という存在は、まさに私が求めてやまなかった人材なのです」
その言葉に、ボクの背筋に冷たいものが走った。
ボクの、この忌まわしい力が、トリニティの平和のために必要とされている。
かつてノートルダム分校で、同級生たちを傷つけてしまったこの力が。
「……なるほど。ナギサ様の仰ることは、理解できました。正実の先輩方では動けない領域を、ボクが担うということですね」
ボクは一度深く息を吸い込み、気持ちを落ち着かせた。
役割自体には納得がいく。
表舞台に立たず、影からトリニティの平和を守る。
それは、トリニティで忌み嫌われているボクにはお誂え向きの仕事だと言える。
「ただ……」
ボクは言いにくそうに言葉を濁し、右の頬をポリポリと掻いた。
「その、役目については文句ありません。ありませんけど……。いくらなんでも、名前は変えた方がよくないですか? 不吉すぎますよ。裏切りの代名詞だなんて。ボク、ティーパーティーに反旗を翻す予定なんて、微塵もないんですけど」
ボクの素朴な疑問に、隣でマカロンをかじっていたミカ様が『ぷっ』と吹き出した。
「あははっ! だよねぇ! 私もそう言ったんだけどさぁ、ナギちゃんったら無駄に頑固なんだよねぇ」
「ミカさん、お静かに。お菓子を食べるか話を聞くか、どちらかにしてください」
ピシャリとミカ様を制すると、ナギサ様は再びボクに向き直り、静かに、そしてゆっくりと首を横に振った。
「いいえ、リルさん。名前を変えてしまっては、意味がないのです」
「……意味がない?」
「その名を名乗ること自体に、強力な『意味』があるのです」
ナギサ様の声が、一段と低く、重苦しい響きを帯びる。
彼女はテーブルの上で両手を組み、その組まれた指の隙間から、まるで深淵を覗き込むような鋭い視線を放った。
「リルさんは、“エデン条約”をご存知ですか?」
「はい。ゲヘナ学園との間に結ばれる予定の、不可侵条約……ですよね?」
「その通りです。長年にわたる憎しみ合いと流血の歴史に終止符を打ち、キヴォトスに真の平和をもたらすための、希望の条約。……現在、私が全精力を傾けて、その調印に向けた準備を進めています」
そこまで言うと、ナギサ様は苦々しげに目を伏せた。
「ですが……このトリニティの内部には、その平和を良しとしない者たちが数多く存在します。ゲヘナへの根強い憎悪を捨てきれず、条約の締結を妨害しようと企む……愚かな『裏切り者』が」
裏切り者。
その言葉の響きに、ボクは得体の知れない不穏な気配を感じ取った。
「……裏切り者、ですか。反対派閥……例えばペテロ分派の方々とか?」
真っ先に思い浮かんだ派閥の名前を口にする。
ペテロ分派とティーパーティーの不仲は、ボクのような政治と全く接点のない生徒にも知れ渡っているほど有名な話だ。
しかし、ナギサ様はゆっくりと首を横に振り、ボクの予想を否定した。
「公に反対を唱えているペテロは、まだ可愛いものです。真に恐ろしいのは、ティーパーティーのすぐ足元に潜み、暗躍する見えない敵です」
ナギサ様は一度言葉を区切り、バルコニーの風景へと視線を流した。
風が止み、木々のざわめきすらも消え去ったような、重苦しい静寂が落ちる。
「……今からお話しする内容は、ティーパーティーの中枢にいるごく一部の人間しか知らない、極秘事項です」
ナギサ様の声が、微かに震えていた。
隣のミカ様を見ると、先ほどまでのおちゃらけた態度は完全に消え失せ、表情に薄く暗い影を落としていた。
「現在、ティーパーティーの一員であるサンクトゥス分派の首長……百合園セイアさんは、長期入院中ということになっています。リルさんもご存知でしょう?」
「は、はい。掲示物で見たことがあります」
“百合園セイア”様。
今はここにいない、ティーパーティーの三人目。
怪我か病気かはわからないが、彼女が長期の入院となったことは、学内の掲示物やポータルサイトにも掲載されている。
「しかし、それは混乱を避けるための偽りです。……彼女は、エデン条約の調印を妨害しようとする裏切り者の手によって…… 害されたのです」
──ドクン。
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
ティーパーティーのメンバーが、害された?
トリニティの最高権力者の一人が、学内の何者かによって殺されたというのか。
驚愕のあまり、ボクは息を呑んだ。
あまりにも巨大なトリニティの闇が、突然ボクの目の前にポッカリと口を開けたような感覚。
平和で美しい学園の裏側で、血で血を洗うような権力闘争と暗殺が、現在進行形で行われているという事実。
「な、ナギサ様……。それは……」
「ですから、私は断固たる手段をとらなければならないのです」
ナギサ様の瞳に、決意と、それを上回るほどの悲痛な覚悟が宿っていた。
「条約調印を妨害する裏切り者たちを牽制し、動きを封じる。……そのために、
そこでようやく、ボクはナギサ様の意図を理解した。
トリニティに敵対する者を決して許さず、それがたとえ、中枢たるティーパーティーであったとしても容赦なく牙を剥いた狂犬──
一般生徒たちにとってはそれは、裏切りの代名詞という縁起の悪い名称の一つでしかないが、トリニティの敵対者たちにとっては、これ以上ない恐怖の象徴として機能するのだ。
「その機関が復活したという噂が流れるだけで、彼女たちへの強烈な抑止力となる。……そして、その執行官の座に、規格外の力を持つ貴方が就く。これ以上に、裏切り者たちの肝を冷やす布陣はないでしょう」
ナギサ様は、自嘲するように薄く笑った。
「悪趣味なブラフだと、笑っていただいても構いません。ですが、平和を実現するためならば、私は悪魔の名を借りることも厭わない。……そういうことです」
すべてが、腑に落ちた。
なぜ、ナギサ様がボクという危険人物をティーパーティーに引き入れたかったのか。
ボクの抱える過去も、悪名も、そして忌まわしい力も。
すべてを計算し尽くした上で、トリニティの平和という巨大な天秤の皿に乗せたのだ。
なんという冷徹な計算。
なんという重い覚悟。
サクラコ先輩が『政治家』と評した意味が、今ならよくわかる。
けれど……悪くない。
少なくとも、ただ恐れられ、遠ざけられるだけの孤独な存在でいるよりは、ずっとマシだ。
ボクのこの制御不能な力が、悲劇を生むためではなく、誰かの平穏を守るための抑止力として機能するのなら。
「……笑いませんよ」
ボクは、ゆっくりと姿勢を正した。
空色のヘイローが、決意を帯びて静かに輝きを増す。
「ボクのこの忌まわしい力が、ナギサ様の仰るトリニティの平和のために役立つというのなら……ボクは、喜んでその悪魔の役割を演じましょう」
ボクの言葉に、ナギサ様は一瞬だけ驚いたように目を見開き、やがて、心底安堵したような、柔らかな微笑みをこぼした。
「……ありがとうございます、リルさん。貴方を迎え入れることが出来て、本当によかった」
その微笑みは、政治家のそれではなく、一人の少女としての純粋な感謝のように見えた。
ナギサ様は姿勢を崩し、ふうっと息を吐いて肩の力を抜く。
「とはいえ、いきなり裏切り者の捜査や諜報活動といった、難易度の高い任務を押し付けるようなことはしませんので、安心してください。最初は内は、あれこれと気負う必要はありません」
「えっ、そうなんですか?」
「はい。まずは、先ほどお話しした密輸に関わっている不良生徒の制圧や、事件に巻き込まれた生徒たちの保護、あとは……そうですね、私たちティーパーティーの護衛など、正義実現委員会の延長線のような業務からこなしていってもらいます。少しずつ、現場に慣れていってください」
そう言って微笑むナギサ様に、ボクはホッと胸を撫で下ろした。
いきなり映画のスパイみたいな仕事を与えられたらどうしようかと、内心冷や汗をかいていたのだ。
「なるほど。それなら、ボクにもできそうです」
「ええ。それに、貴方には優秀な『メンター』をつけますから、何も心配はいりませんよ」
メンター。
指導者であり、助言者。
それは、ボクのような素人にとって、非常に心強い存在だ。
正義実現委員会のツルギ先輩だろうか?
それとも、副委員長のハスミ先輩?
期待に胸を膨らませるボクに対し、ナギサ様は、これ以上ないほど優雅な所作で、隣に座る人物を示した。
「リルさんの直属の指導担当は……ミカさんです」
「…………はい?」
ボクの口から、間の抜けた声が漏れた。
視線を向けると、そこには、満面の笑みでダブルピースを作っている桃色の悪魔の姿があった。
「やっほ〜☆ 今日から私がリルくんのメンターで〜す! よろしくね、新入りくんっ!」
「…………」
ボクは、絶望のあまり天を仰いだ。
よりにもよって、この人か。
ボクの平穏な日常をことごとく破壊し、MRI検査室で麻酔を嗅がせ、学食で最後の一つのイチゴを強奪した、あの歩く災害が、ボクの指導役?
お先真っ暗な未来しか見えない。
「……ナギサ様。今すぐ辞表を提出してもよろしいでしょうか」
「却下します。既に受理期間は過ぎました」
「うぅ……。主よ……試練にしたってこれはあんまりですう……」
ボクは頭を抱え、テーブルに突っ伏した。
この人とセットで動くなんて、胃薬がいくらあっても足りない。
……しかし。
うんざりする反面、ボクの心の奥底では、奇妙な安堵感が広がっているのも事実だった。
──『もしもリルくんが、間違えて誰かを傷つけそうになったとしても……私なら、こうして確実に止めてあげられるってこと』
昨日、彼女がくれたその言葉。
ボクの暴走を、圧倒的な力で止めてくれる存在。
自分が再び誰かを傷つけてしまうかもしれないという恐怖から、ボクを解放してくれる絶対的な安全装置。
それが、すぐそばにいてくれるという事実が、理屈抜きにボクの心を安心させていたのだ。
それを自覚した瞬間──
ぱたぱた。
ボクのその隠しきれない安堵感に呼応するように、背中の翼が勝手に羽ばたいた。
「あっ……!」
「んふふ〜?」
ボクが慌てて翼を折りたたもうとした時には、もう手遅れだった。
ミカ様はニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべ、身を乗り出してきた。
「な〜にリルくん? 口では嫌がってるくせに、翼はすっごく嬉しそうにパタパタしちゃってるけど? ほんとは私と一緒で嬉しいんでしょ〜? 素直じゃないなぁ☆」
「ち、違いますっ! これはその……風圧テストです! 気流の乱れを確認していただけでっ!」
ボクは顔を真っ赤にして抗議するが、ミカ様のニヤニヤは止まらない。
この翼は、時折ボクの感情と直結して、勝手に動いてしまうことがある。
そんな厄介な性質が、最悪のタイミングで表に出てしまった。
「あははっ! 風圧テストって! リルくんってほんとかわいいね! よ~し、そんなかわいい後輩くんには、私から入会祝いのプレゼントをあげちゃおっかな!」
ミカ様はご機嫌な様子で、自分の傍らに置いてあった高級そうなブランド物のバッグを引き寄せた。
「ぷ、プレゼント……ですか?」
警戒心MAXで身構えるボク。
この人からのプレゼントだなんて、絶対ロクでもないものに決まっている。
「うんうん、ちょっと待っててね〜。えーっと……」
ミカ様はバッグの中に手をつっこみ、ガサゴソと漁り始めた。
「これじゃないし……あ、これも違う……」
ぽいっ、ぽいっ。
彼女はバッグの中から、目的のもの以外を次々とテーブルの上に放り出していく。
有名ブランドのリップグロス。
キラキラ光るコンパクトミラー。
ピンク色の折りたたみ傘。
未開封のグミ。
そして、くしゃくしゃに丸められたコンビニのレジ袋とレシート。
「……あの、ミカ様。テーブルの上が大変なことになってるんですけど」
「あ、あったあった! これこれ!」
ボクの指摘を無視して、ミカ様が勢いよく取り出したもの。
それは、綺麗に折りたたまれた、布の塊だった。
「じゃじゃ〜ん! ティーパーティー特製のユニフォームだよ☆」
ミカ様がバサッとそれを広げて見せる。
……数秒間、ボクの思考は停止した。
そして、じわじわと状況を理解するにつれ、身体中の血液が煮えたぎっていくのが分かった。
広げられたその布はどう見ても、『女子生徒用』の制服だった。
純白のショート丈のケープに、フリルのついた可愛らしいワンピース。
胸元には、ティーパーティーの意匠があしらわれた紺色のスカーフが揺れている。
ティーパーティー所属の生徒に支給される、標準的な制服だ。
ボクは、わなわなと震える指で、その制服を指差した。
「……ミカ様。これは、一体なんの冗談ですか?」
「冗談なんかじゃないよ? リルくんの新しい制服!」
「ボクは!! 男です!! なんで女子の制服を着なきゃいけないんですか!? 喧嘩売ってるんですか!?」
怒りで声が裏返る。
いくらボクの容姿に男らしさが欠けてるからって、本物の女子の制服を着せようとするとは悪趣味にもほどがある。
「え~? そんなことないよ! 絶対似合うって! 最近流行りの多様性ってやつだよ! ていうかリルくん普段からシスター服なんて着てるんだから、このくらい誤差じゃん誤差」
「コレは下にキュロット履いてるから関係ないもん!」
「そんな『パンツじゃないから恥ずかしくないもん!』みたいなこと言われてもね〜」
「〜〜っ! ナギサ様! この人、初日からパワハラとセクハラを同時に仕掛けてきます! どうにかしてください!」
ボクは最後の希望を胸に、ナギサ様へと助けを求めた。
常識人であるナギサ様なら、この理不尽な暴挙を止めてくれるはずだ。
ナギサ様は、ボクの顔と、ミカ様が掲げる女子制服を交互に、真剣な眼差しで見比べた。
そして、顎に手を当てて、小さく呟いた。
「……あり、ですね」
「ないですよッ!!」
世界が終わった音がした。
この組織に、ボクの味方は一人もいない。
ナギサ様まで、真顔でそんな恐ろしいことを言い出すなんて。
ティーパーティーは、ボクの尊厳を破壊するための悪の秘密結社だったらしい。
「だいたい!」
ボクは気を取り直し、涙目になりながらも正論の弾丸を装填した。
「
ボクの怒涛の正論パンチに、ミカ様は『あちゃー』という顔をして舌を出した。
「わーお、バレちゃったか~☆ いやぁ、リルくんが着てるところ、ちょっと見てみたかったんだけどな~」
そう言って、ミカ様はあっけらかんとした態度で、制服をぽいっとバッグの中に放り込んだ。
……どうやら、ただボクをからかって遊ぶためだけに、わざわざこんなものを用意していたらしい。
やはり、この人とは仲良くなれる気がしない。
メンターの件で、ほんの少しでも安心を感じていたさっきまでの自分を引っ叩いてやりたい。
「まったくもう……。人をなんだと思ってるんですか」
ボクが深いため息をついていると、ミカ様は『ごめんごめん』と笑いながら、今度こそ本命らしき小さな箱をバッグから取り出した。
「はい、こっちが本命だよ」
渡された小さな箱を開ける。
中に入っていたのは、白地にピンクの意匠が施された、ティーパーティーのロゴ入りバッジだった。
ピンバッジのような形状で、裏にはクリップもついている。
「これは……?」
「ティーパーティーとしての、身分証のようなものです」
説明不足なミカ様に代わり、ナギサ様が静かに説明を添えてくれる。
「それを身に着けているだけで、貴方がティーパーティーの所属だということを証明できます。普段の学園生活では、必ず身に着けて生活してくださいね。もちろん、潜入任務などの際には外して大切に保管していただくことになりますが」
「なるほど……」
ボクはバッジを手に取り、光の加減でキラキラと輝くその意匠を見つめた。
これをボクが持つということは、ボクの行動の責任を、ティーパーティーが保証してくれるということだ。
なんという重みだろうか。
「リルくんさ、いつも周りの生徒からヒソヒソ言われてるでしょ?」
ふいに、ミカ様が少しだけ真面目なトーンで言った。
「これから先、もしリルくんのことを不当に扱ったり、馬鹿にしたりするヤツがいたら、そいつの顔面にそのバッジをドーンって突きつけて、黙らせてやればいいよ。ティーパーティーの権力、存分に振り翳しちゃっていいからね☆」
それは、彼女なりの気遣いだったのだろう。
ボクがこれ以上、学内で不当な扱いを受けないようにという。
……言い方と方法は、極めて野蛮な独裁者のようではあったが。
しかし、力を振り翳してふんぞり返るというのはボクの趣味ではない。
気持ちだけ受け取っておくことにしよう。
「……あ」
ふとボクは、手にしたバッジと、ドヤ顔をかましているミカ様を交互に見比べた。
そして、一つの素晴らしいアイデアを思いつき、おもむろに立ち上がった。
「……どうしたの、リルくん?」
不思議そうに首を傾げるミカ様に向かって、ボクはスッと腕を伸ばし、その眼前にバッジを突きつけた。
「……え? 何してるの?」
「ボクを不当に扱う生徒の代表が、ここにいたなと思いまして」
「…………」
数秒の沈黙。
ボクは真顔。ミカ様も真顔。
そして次の瞬間、ミカ様の顔に満面の笑みが咲き乱れた。
「あははっ! リルくんってば、冗談が上手なんだから〜!」
ぐにぃ。
彼女の指先が、ボクの頬を万力のような力でつまみ上げた。
「ったああぁぁい!」
「先輩を敬えない悪い子には、おしおきが必要だよね☆」
ギリギリと限界まで引き伸ばされるボクの頬。
このままでは、顔の皮が剥がれてしまう。
ボクは涙目でバシバシとミカ様の腕を叩くが、ゴリラの膂力には何の意味もなさない。
そんなボクたちの阿鼻叫喚の様子を、ナギサ様はティーカップを傾けながら、どこか楽しげに、そして呆れたように見つめていた。
「ふふっ。見かけによらず、図太いところもあるのですね。リルさんは」
クスクスと上品な笑い声を漏らすナギサ様だったが、『助けて』というボクの視線を受け取り、やがて彼女はコホンと一つ咳払いをした。
「さて、おふざけはそこまでにしておきなさい、ミカさん。リルさんの頬が取れてしまいますよ」
「柔らかくて気持ちいいからもうちょっとだけ〜!」
「ダメです。それよりも、散らかした物を片付けなさい」
ナギサ様の視線が、テーブルの上に散乱しているミカ様の私物へと向けられる。
リップに鏡、お菓子にレジ袋。
優雅なティーパーティーのテーブルが、一気に生活感あふれる惨状と化している。
ミカ様はようやくボクの頬から手を離したものの、散らかったテーブルを見もせずに答えた。
「えー、めんどくさーい。後でやるよ、後で」
「はぁ……」
ナギサ様は、今日何度目か分からない深いため息をついた。
「そうやって何でも面倒ごとを後回しにするから、貴女の私室は足の踏み場もない『汚部屋』と化しているのでしょう?」
──ピシッ。
ミカ様の動きが、完全にフリーズした。
「……お、汚部屋?」
「ええ。先日書類を届けに伺った時、私はあわや雪崩れてきた衣服の山に埋もれて命を落とすところでした。ティーパーティーの一員として、もう少し整理整頓というものをですね──」
「ちょっ、ちょっとナギちゃんっ!!」
顔をゆでダコのように真っ赤にしたミカ様が、慌ててナギサ様の言葉を遮った。
「そ、そういうデリケートなこと、リルくんの前で言わないでよっ! 私の先輩としての威厳が崩れちゃうでしょ!?」
威厳なんて、最初から一ミリも存在していないことに、この人は気づいていないのだろうか。
ボクがジト目で彼女を見つめていると、ミカ様は必死の形相でこちらに向き直った。
「ち、違うんだよリルくん! 私のお部屋が汚いんじゃなくて、私が綺麗すぎるから、相対的にお部屋が汚れて見えちゃうって現象! ね? 分かるでしょ!?」
必死に同意を求めてくるミカ様。
その顔は焦りで引きつり、額には冷や汗が浮かんでいる。
ボクは、そんな彼女を、これ以上ないほどの真顔で見つめ返し、静かに、そしてはっきりと告げた。
「バカじゃないですか?」
ボクの顔面に、ミカ様の目つぶしが炸裂した。
ビシッ。