ティーパーティーのサロンを包んでいた喧噪の余韻が、冷めた紅茶の芳醇な香りと共に、少しずつ大気へと溶けていく。
先ほどまでボクの眼前で繰り広げられていた理不尽な暴挙もすっかりと鳴りを潜め、白亜のバルコニーには再び、学園の頂点に立つ者たちに相応しい、静謐で冷徹な空気が戻りつつあった。
吹き抜ける風が、純白のテーブルクロスを軽く揺らす。
傾き始めた午後の日差しが、精緻な彫刻の施されたティーセットに反射し、大理石の床に柔らかな光の網目を落としていた。
「──ねぇ、リルくん」
不意に、隣に座るミカ様が口を開いた。
その声は、いつもふざけている彼女からは想像もつかないほど、低く、静かで……そして、どこか真剣な響きを帯びていた。
ボクは少しだけ背筋を伸ばし、彼女の方へ顔を向ける。
対面のナギサ様も、陶磁器のティーカップを音を立てずにソーサーへと戻し、黙ってミカ様の次の言葉を待っていた。
バルコニーから、先ほどまでの穏やかな弛緩が消え去り、微かな緊張感が張り詰める。
「ノートルダムの……真実のことなんだけどさ」
ミカ様の琥珀色の瞳が、真っ直ぐにボクを射抜いた。
「昨日も言った通り、あの事件のトリガーを引いたのはテロリストたちで、リルくんの抱える罪の半分は、パリサイの隠蔽工作で作られた濡れ衣だった。……ねぇ、この事実、ティーパーティーの権限で全校生徒に公表してあげようか? 私たちが公式に声明を出せば、リルくんのトリニティでの扱いも少しはマシになると思うけど」
真実の公表。
それは、ボクがこれまで背負い続けてきた十字架を下ろし、再び陽の当たる場所を歩くための、最も直接的で効果的な手段だろう。
もし普通の生徒が同じ立場に置かれていたのなら、涙を流して喜んで同意し、己の潔白を声高に叫ぶに違いない。
けれど──ボクの心は、自分でも不思議なほど、酷く冷たく凪いでいた。
「お気遣いはありがたいんですけど、遠慮しておきます」
間を置かずに紡がれたボクの答えに、ミカ様が意外そうに目を丸くする。
ナギサ様も、不可解なものを見るようにわずかに眉を寄せた。
「どうしてですか、リルさん。これは貴方の名誉を回復し、正当な学園生活を取り戻すための、当然の権利なのですよ?」
「かもしれません。でも……その、正直億劫なんです」
ボクは視線を足元の大理石に落とし、自分の内側にある本音をゆっくりと掬い上げるように言葉を紡ぎ出した。
「たしかに、真実を公表したら、多少扱いは変わるのかもしれません。でも、それと引き換えに、ボクはまた学園中の生徒から奇異の視線を集めることになります。……それが、億劫なんです。それに──」
ボクは一度言葉を切り、脳裏に焼き付いている光景を思い起こした。
瓦礫の山。流れる血。苦痛に顔を歪める同級生たち。
「真犯人の隠蔽があったとはいえ、あの日、ボクが神秘の制御に失敗して、たくさんの同級生たちを巻き込んで、傷つけてしまったという結果そのものは決して覆りません。ボクが彼女たちの日常を壊したことは、紛れもない事実なんです」
人を守りたくて振るった力で、人を壊した。
その罪悪感は、誰に何を言われようと、あるいはどんな真実が隠されていようと、ボクの魂の根底にこびりついて決して離れることはない。
「生徒たちが恐れているのは、事件の真相がどうであったかではなく、ボクが危険な力を持っているという事実そのものです。どうせ公表したところで、結局は危険な怪物だという周囲からの扱いは大して変わらないと思います。それなら……全てを墓場まで持っていって、波風を立てずに穏やかな時間を過ごしたいなって、ボクは思うんです」
希望を持つから、裏切られた時に傷つく。
理解されることを望むから、拒絶された時に絶望する。
ならば最初から何も望まず、静かな日陰で忘れ去られるのを待つ方が、ボクにとっても、トリニティにとっても平和なのだ。
ボクの投げやりともとれる言葉を聞いたミカ様とナギサ様は、まるで自分たち自身が刃で切りつけられたかのように、酷く切なげな顔をして深い沈黙に落ちた。
二人の痛ましそうな、そしてボクの抱える深い諦めを前に為す術を持たないといった視線が、ボクの胸をちくりと刺す。
……困ったな。
彼女たちに、そんな悲しそうな顔をさせたくて言ったわけじゃないのに。
せっかくボクのために奔走し、手を差し伸べてくれた二人に、これではあまりにも不義理だ。
「それに」
ボクは沈んだ空気を変えるように、ふっと顔を上げ、二人に向けて小さく微笑んでみせた。
「今のボクには、マリーやサクラコ先輩だけじゃなく、ナギサ様とミカ様もいてくれますから。この学園で、ボクという存在を受け入れてくれる人が、こんなにもそばにいてくれる。……それだけで、ボクは十分幸せなんです」
それは、打算でも強がりでもない、嘘偽りのない本心だった。
孤独に凍えていたボクの隣に、今は確かな温もりがある。
この場所さえあれば、周囲の有象無象からどう思われようと、どうでもいい。
これ以上のものを望むのは、身の程知らずというものだろう。
夕陽に透けるような淡い微笑みを、ボクは真っ直ぐに二人へと向けた。
直後。
視線の先にいる二人の動きが、彫像のように不自然に止まった。
「え、え〜っと……」
「……こほん」
ミカ様は数度またたきを繰り返した後、ふいと視線を横へ逸らし、指先で自身の桃色の髪を弄り始めた。
その白い頬は、陽射しのせいだけではない、ほんのりとした薄紅色に染まっている。
対面のナギサ様も、冷静沈着な仮面の裏側で微かな動揺を見せていた。
彼女は空のティーカップを口元へと運び、それで自らの表情を隠すようにしながら、小さく咳払いをして視線を泳がせている。
なぜか二人とも言葉に詰まり、どこか気恥ずかしそうな、言葉少なな空気がバルコニーに流れている。
普段は学園を牛耳る絶対的な権力者である彼女たちが見せた、年相応の少女のような初々しい反応。
その理由がよく分からないまま、ボクはそんな二人に向けて、さらに言葉を続けた。
「でも……ボクが真犯人のままでいたら、ボクを正式に迎え入れてくれたティーパーティーの評判まで落として、無用な非難を浴びる原因になってしまうかもしれません。ボクに居場所をくれた恩人であるお二人に、そんな迷惑はかけられません」
ボクは姿勢を正し、少しだけ照れたように視線を彷徨わせている二人の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「だから、事件の真相を公表するかどうかは、ミカ様とナギサ様の一存にお任せします。……ボクの手綱はもう、お二人に預けると昨日決めましたから」
自分の運命を、完全に他者に委ねるということ。
それはかつてのボクであれば絶対に選ばなかった選択肢だ。
しかし今のボクは、この二人がボクを悪いようにはしないと、心の底から信じることができていた。
ボクの言葉に、頬の赤みを引かせた二人は深く息を吸い込み、やがて、春の陽だまりのような優しく、そして誇り高い微笑みを浮かべた。
「……分かりました。貴方のその信頼、私たちが責任を持って預かりましょう」
「うんっ! お姉さんたちに任せなさい!」
ナギサ様が、ティーパーティーのホストとして、力強く頷く。
ミカ様も、いつもの無邪気な笑みを取り戻し、ボクに向かって小さくウインクをして見せた。
その時だった。
ナギサ様の傍らに置かれていたスマートフォンが、無機質な通知を知らせる光を明滅させた。
スッと視線を落とし、画面に表示された暗号化メッセージに目を通すナギサ様。
次の瞬間、彼女の纏う空気が、明確な敵意を含んだ冷たいものへと変貌した。
それは、先ほどまでの穏やかなお茶会を楽しむ令嬢のものではない。
トリニティの平穏を脅かす外敵に向ける、為政者──そして
「……どうやら、ティータイムはここまでのようですね」
ナギサ様が端末をテーブルに伏せ、静かに立ち上がる。
「ナギちゃん、何かあったの?」
「ええ。正義実現委員会からの報告です。例の未認可薬物の密輸に関わっていると思われる不良生徒のグループが、学園近郊の喫茶店にたむろしているとのこと」
その言葉に、ボクの背筋が自然と伸びた。
先ほどまでの私的な時間が終わり、ここからは公的な任務の時間が始まるのだと、本能が察知する。
「現場付近は人通りが多く、建物も密集している。このような場所に正義実現委員会を突入させ、銃撃戦に発展した場合、無用に被害を大きくする恐れがあります。──リルさん。
ナギサ様の声が、バルコニーの空気を弓の弦のように張り詰めさせる。
「対象の制圧、および身柄の確保。くれぐれも、一般市民に被害を出さないよう、迅速に処理してください。……ミカさん、貴女もメンターとして同行を」
「は〜い! 任せてよナギちゃん! かわいい後輩の初舞台、特等席で見守っててあげる☆」
いよいよだ。
ボクの、この忌まわしい力が、初めて誰かを守るための任務として振るわれる時が来た。
トリニティらしい純白の装甲車が、自治区の整然と区画された市街地を滑るように進んでいく。
外部からの物理的な攻撃を弾き返す分厚い防弾ガラスと、車体を覆う特殊な防音材によって、窓の向こう側に広がる午後の喧騒は完全に遮断されていた。
後部座席に広がるのは、外界から切り離された密室特有の、鼓膜を圧迫するような奇妙な静寂だけだ。
最高級の皮革で覆われたシートに深く身体を沈めながら、ボクは自身の膝の上で両手を固く、指の関節が白く変色するほどに握りしめていた。
隣には、長い脚を無造作に組み、窓枠に肘を突いて流れる景色を眺めるミカ様が座っている。
「ねぇリルくん。なんか車に乗ってからず〜っと静かだね。もしかして、緊張してる?」
沈黙を破り、ミカ様が面白がるように覗き込んできた。
その横顔や脱力した肩のラインからは、これから敵対勢力が潜む場所へ乗り込むのだという気負いは微塵も感じ取れなかった。
「……少しだけ。実戦は、あの時以来なので」
「あの時って……ノートルダムの?」
「はい」
ボクが短く答えると、ミカ様は柔らかな微笑みを浮かべた。
「そっか。でも大丈夫だよ、私がついてるんだから。何かあっても、全部カバーしてあげる」
屈託のないその言葉に、ボクは小さく頷きを返す。
だが、ボクの心臓は依然として、自身の肋骨を内側から叩き割らんばかりの暴力的な勢いで激しく打ち鳴らされ続けていた。
固く組み合わせた手のひらには、拭っても拭ってもじっとりと冷たい汗が滲み出し続けている。
これから向かう先には、明確な敵意を持った標的がいる。
戦闘という状況に陥れば、ボクは嫌でも自身の力を行使しなければならない。
力を使えば……また、自分の中にある得体の知れないアレが、深い眠りから目を覚ましてしまうかもしれない。
アスファルトの継ぎ目を越えるたびに車体を伝う微かな振動と、密閉された空間特有の重い空気が、ボクの意識を、暗く冷たい記憶の底へと強引に引きずり込んでいく。
──約三年前、ノートルダム分校における受難の日。
あの日、平和で退屈だった午後のキャンパスは、瞬きをする間に凄惨な地獄へと姿を変えた。
ガスマスクで顔のすべてを覆い隠し、白いコートに漆黒のタクティカルギアで身を固めた正体不明のテロリスト集団。
彼女たちはなんの警告も予備動作もなく分校の敷地内へ雪崩れ込み、手にした自動小銃と無数の爆発物で、無防備な生徒たちを次々と蹂躙していった。
「きゃあああっ! 誰か、助けて!」
「正義実現委員会はまだなの!?」
「……ふん、トリニティのお嬢様は腰抜けだらけだな」
「逃げる者は追わなくていい。指定一号の始末が最優先だ」
悲鳴と怒号、そしてテロリストの冷酷な声が交錯する。
飛び交う銃弾の軌跡が空気を焼き切り、歴史ある白亜の石柱が次々と崩れ落ちる。
燃え盛る炎の熱気が肌を炙り、鼻腔を深く刺す硝煙と粉塵の臭いが肺を満たしていた。
視界を覆う煙の中、瓦礫の陰で頭を抱えて震える同級生たちや、床に倒れ伏す先輩たちを尻目に、ボクはただ一人、侵略者たちの前へと歩み出た。
ボクの右手には、まだ一度も使用したことがない、純白の塗装が施された大型の回転式拳銃──M500が握られていた。
ボクが、やるしかない。
理不尽な暴力の前に怯えきっている同級生や先輩方……彼女たちは完全に戦意を失っている。
今ここで侵略者たちに立ち向かえるのは、もうボクしか残っていない。
これが初めての実戦になるとはいえ、怖がっている場合じゃない。
その純粋な祈りにも似た決意だけで、ボクは目前に迫る銃口の群れに向かって、重い鉄の塊を不格好に構えた。
──その、直後だった。
脳の最も深い部分で、物理的な回路が強制的に切り替えられるような、極めておぞましい感覚が全身を駆け巡った。
網膜に映る景色からあらゆる色彩が急速に剥落し、世界が青白い単色の空間へと変貌する。
それと同時に、胸の内にあった恐怖や焦燥、躊躇、あるいは誰かを守りたいという人間としての感情のすべてが、絶対零度の冷気で急速冷凍されたかのように完全に死滅した。
思考領域を支配したのは、氷のように冷たく、機械のように無機質で、ただひたすらに標的の排除のみを目的とする最適化された殺意だけ。
「いたぞ! あそこだ!」
視界の端で、ガスマスクの奥からくぐもった声が響いた。
「指定一号を発見。これより処理に移行する。……総員構え!」
ガスマスクの奥から、テロリストの一人が通信機越しに何かを呟いた。
だが、すでに思考が戦闘機械のように変貌していたボクの脳は、それを意味のある言語として認識することはなかった。
交戦状態において不必要な情報は、ただの無価値な環境ノイズとして即座に破棄されていた。
視界に映る武装集団の頭部へ、脳内の不可視の照準が正確に重なる。
ボクは敵への警告や威嚇射撃といった手順も、正しい射撃姿勢への移行すらも省略し、手にしたM500の引き金に指をかけた。
そして、何も考えず強引に、薬室の弾丸へと神秘を流し込む。
本来であれば、キヴォトスの生徒一人ひとりが持つ神秘という名の力は、細心の注意を払い、己の精神と肉体のバランスを保ちながら武器へと流し込むべきものだ。
しかし、得体の知れない思考ルーチンに支配された当時のボクは、それを底の抜けた水槽から水を撒き散らすように、暴力的に薬室へと注ぎ込み、そのまま無造作にトリガーを引き絞った。
──瞬間。
大気を劈く、破壊的な轟音が空間を揺らした。
巨大なコンクリートの塊を高所から落として粉砕させたかのような、鼓膜を直接殴りつける暴力的な銃声。
その銃口から放たれたのは、本来の弾丸などという生易しいものではなかった。
制御を完全に失い、純粋な破壊のエネルギーそのものと化した神秘の奔流は、敵の傍らを虚しく通り抜け、そのまま背後にそびえ立っていたキャンパスの壁面へと激突する。
飴細工を力任せに叩き割ったかのように分厚い石造りの壁が吹き飛び、砕け散った瓦礫の雨と熱を帯びた爆風が、周囲で逃げ惑っていた同級生たちを容赦なく呑み込んだ。
ボクはこの時になって初めて、自分に銃の適性が皆無であることを知ることになった。
「いやぁぁぁぁっ!!」
「う、うぅ……痛い、痛いよ……」
苦痛に満ちた悲鳴と、呻き声が聞こえてくる。
自分が守りたかったはずの者たちを、自らの手で引き裂いている。
だが、その光景を視覚情報として取り込んだボクの脳は、射線上の障害物が巻き込まれた、二次被害発生、戦闘継続には影響なしと、単なる物理事象のデータとして処理しただけだった。
そこに罪悪感も後悔も、微塵も存在しない。
「な、なんだあの威力は……!」
「怯むな! 照準がデタラメだ! 当たりはしない!」
圧倒的な破壊の余波を見せつけられ、侵略者たちは一瞬だけ動きを止めた。
しかし、彼女たちはすぐさまボクの射撃精度が皆無に等しいことを見抜き、陣形を整え直して一斉掃射を開始する。
対するボクは、冷え切った思考のまま、二発、三発と引き金を引き続けた。
空間を揺るがす爆音が連続して響き渡る。
だが、放たれた奔流はただの一度も標的を捉えることはなく、美しい中庭の噴水を蒸発させ、歴史あるステンドグラスを粉々に砕き、逃げ遅れた生徒たちを次々と爆炎の中へと巻き込んでいくだけだった。
(──エラー。銃器による遠距離攻撃は極めて非効率。戦術をCQCへ修正)
コンマ数秒でその結論を導き出したボクは、残弾のあるM500の弾倉を振り出すこともなく、それを単なる硬質な鈍器として逆手に握り直した。
そして、吹き荒れる爆風を切り裂き、常人の眼球では捉えきれないほどの神速の踏み込みで、敵の懐へと疾走した。
そこから先は、戦闘ではなく、一方的で凄惨な蹂躙だった。
誰かに教えを乞うたわけではない。
自主的に訓練をしたわけでもない。
そもそも、この戦闘がボクにとっての初陣だ。
だというのに、ボクの肉体は、まるで数多の死線を潜り抜けてきた熟練の暗殺者のように、あるいは闘争の歴史そのものを肉体に記憶しているかのように、最も効率的に人体の構造を破壊する動きを完璧に理解していた。
「弾幕を張り続けろ! 接近を許すな!」
正面から放たれる自動小銃の弾幕を、ボクは首を数ミリ傾け、あるいは半身をわずかにずらすだけの最小限の動作ですべて回避した。
空気抵抗すら感じさせないその動きは、空間にボクの残像を焼き付けるほどの圧倒的な速度。
「た、弾がすり抜けていく……!? 亡霊かコイツは……!」
崩れかけた石柱の残骸を蹴り、そのまま垂直の壁面を疾走し、重力に逆らう立体的な軌道で敵の死角へと入り込む。
最後尾で通信機を握っていた一人の背後へ音もなく着地したボクは、その腕を掴んで無造作に逆方向へとへし折り、悲鳴を上げる間も与えずに彼女の身体を肉の盾として前方に突き出し、別の敵が放った銃弾を防御した。
盾にした敵の身体を前方へ蹴り飛ばし、姿勢を崩した次の標的の顔面へ、手にしたM500の鋼鉄のグリップを叩き込む。
頭蓋が軋み、顎骨が粉砕される鈍い音が響く。
直後、背後の死角から、ボクの首筋を狙って放たれたコンバットナイフの鋭い刺突が迫る。
だが、ボクは振り返ることすらなく、背後に伸ばした手の甲で刃の側面を的確に叩き、その致命的な軌道を数センチだけ逸らした。
空を切った刃を躱すと同時に、ボクは低く屈み込み、遠心力を乗せた足払い気味の回し蹴りを放つ。
足首を刈り取られ、為す術もなく体勢を崩して宙に浮いた敵。
ボクはその無防備な顔面を空中で鷲掴みにし、そのままの勢いで後頭部を石畳の地面へと激しく叩きつけた。
脳髄を容赦なく揺らされた敵は、苦鳴を上げる間もなく完全に意識を消失する。
周囲の瓦礫や地形を完璧に利用し、流れるように次の対象へと移行する。
常人離れした速度と、無駄を極限まで削ぎ落とした洗練された技量。
それはまるで、あらかじめそのようにプログラミングされた、意思を持たないアサシンドロイドのようだった。
ボク自身の意思などそこには介在しておらず、ボク自身でさえどうしてこれほどまでの身体能力を引き出せるのか理解できないまま、ただあらかじめ脳内に記述された殲滅プログラムが淡々と実行されていくだけだ。
「な、なんだこの化け物は!? 聞いていた話と違うぞ!」
「『マダム』は、自我を持たない失敗作だと言っていたはずなのに……!」
恐怖に完全に支配された侵略者たちが、後ずさりしながらうわ言のように叫ぶ。
だが、彼女たちの口から漏れたその言葉すらも、ボクの脳には一切の言語情報として届くことはない。
瞬く間に半数近くの戦力を沈められ、完全に戦意を喪失した残りの敵が、じりじりと後退し始めた。
「クソッ……! 予定より早いが例のプロトタイプを使う!」
「了解! おい、巻き込まれる前に撤退するぞ!」
指揮官と思しき一人が、忌々しげに懐から奇妙な物体を取り出す。
それは、見慣れない形状の爆弾だった。
彼女たちはそれをボクに向かって無造作に放り投げると、気絶した仲間を素早く背負い上げ、背を向けて逃走を開始した。
(──対象の逃亡を確認。プロトコルを掃討へ移行し、フォーマットを継続)
空中に放り出された複数の爆発物。
脳が勝手にその放物線の軌道を計算し、爆風の隙間を縫って突っ切れば、逃げる敵の背骨を容易くへし折ることが可能だという結論を下す。
最適解を導き出し、地を蹴るために脚部の筋肉を限界まで収縮させる。
しかし、その瞬間──
「──っ、ぁ。ボク……は、なにを……」
不意に、分厚い霧が晴れるように、ボクの脳を完全に支配していた冷たいシステムが唐突にシャットダウンした。
剥落していた色彩が視界に蘇り、死滅していたはずの感情が、激しい痛みという感覚と共に一気に脳内へと逆流してくる。
無機質な戦闘機械から、ただの平凡な男子生徒へと、思考が強引に引き戻されたのだ。
急激な認識の混濁に、地を蹴るはずだったボクの足が完全に止まる。
そして、空中で起爆のタイマーを終えた未知の爆弾が、無防備に立ち尽くすボクの眼前で、音もなく炸裂した。
網膜を瞬時に焼き尽くすほどの強烈な閃光。
次いで、内臓を巨大な手で直接握り潰されるような、これまでに経験したことのない凄まじい衝撃波がボクの肉体を呑み込んだ。
頭上に浮かぶヘイローそのものを直接粉砕されるような根源的な激痛。
ボクはその場で立ち尽くしたまま、それを受け止めるしかなかった。
どれほどの時間が経過したのか。
耳の奥で不快な高音が鳴り続ける中、うっすらと目を開けたボクが最初に認識したのは、激痛の発生源である自分自身の腹部だった。
肉が大きく抉れ、シスター服が自身の血液でどす黒く染まっている。
本来であれば、屈強な生徒の肉体であっても致命傷となり得るほどの深い損傷。
だが、それ以上にボクを絶望させたのは、顔を上げた先に広がっていた景色だった。
「ひっ……!」
近くの瓦礫の陰から顔を出した、『猫耳型のベールを纏ったシスター』が、血まみれのボクを見て顔を恐怖に歪め、這いずるようにして後ずさりして逃げていく。
「…………」
ボクの足元には、ボク自身が放った力によって吹き飛ばされ、ボクの鮮血を浴びた上級生が、虚ろな目をしながら力なくへたり込んでいた。
周囲には、苦痛に呻き声を上げる無数の同級生たち。
そして、半分が崩れ落ち、無惨な骨組みを晒すノートルダムのキャンパス。
敵の姿はもうどこにもない。
そこに残されていたのは、ボクが自らの手で破壊し尽くした日常の残骸だけ。
──ボクが、やったんだ。
ボクはただ、みんなを守りたかっただけなのに。
襲ってきた悪い人たちを追い払って、この場所を守りたかっただけなのに。
それなのに、どうして。
こんなはずじゃなかった。
こんなつもりじゃなかった。
今になってようやくわかった。
ボクは、ここにいてはいけない存在なのだと。
だってボクの正体は、平凡な生徒なんかじゃなく、おぞましい怪物なんだから──
「──くん。リルくん、大丈夫?」
不意に名前を呼ばれ、ボクは肩を大きく跳ねさせて現実の世界へと引き戻された。
過呼吸気味に息を吸い込み、隣を見る。
ミカ様が、いつもの軽薄な笑顔を完全に消し去り、ひどく心配そうにボクを覗き込んでいた。
いつの間にか、ボクの冷たく震える両手は、彼女の温かく柔らかい両手によって、しっかりと包み込まれていた。
「ぁ……」
「大丈夫? すごく、怖い顔してたよ。手も氷みたいに冷たいし……震えてる」
「……ごめんなさい。少し、昔のことを思い出しちゃって」
ボクが視線を落として答えると、ミカ様は痛ましそうに唇を噛んだ。
「もしも、またあの時みたいに、暴走してしまったらって……。また、誰かを巻き込んでしまったらって……。そう思うと、どうしても怖くなってしまって」
せき止めていた不安が、堰を切ったように口から溢れ出す。
ミカ様は、そんなボクの震える言葉を黙って聞き入れ、やがて優しく語りかけた。
「……そっか。でもね、リルくん。大丈夫だって言ったでしょ」
彼女は、ボクの手を包み込む力を少しだけ強めた。
「もしも、リルくんが間違えて誰かを傷つけそうになったとしても……私が絶対に止めてあげるから。リルくんがどんな怪物になっちゃっても、私が全部受け止めてあげるから」
「ミカ様……」
「だから、一人で怯えなくていいんだよ。ティーパーティーの権力も、私の力も、リルくんのためなら出し惜しみせず使ってあげるからさ」
彼女の確かな体温を通じて、その力強い言葉が、凍りついていたボクの心にじんわりと流れ込んでくる。
そうだ、もうボクは一人で戦うわけじゃない。
もしもあの時のように、ボクが得体の知れない思考ルーチンに飲み込まれ、制御の効かない怪物になってしまったとしても。
隣にいるこの強くて、少し強引で、でも同じ痛みを理解してくれる人が、ボクを力ずくで止めてくれる。
その事実がもたらす絶対的な安心感が、荒れ狂っていたボクの動悸を、少しずつ静めていった。
「……はい。ありがとうございます、ミカ様。もう、大丈夫です」
ボクが深く息を吐き出して頷くと、ミカ様はホッとしたように微笑み、ゆっくりと手を離した。
車内には再び静寂が訪れる。目的地までは、おそらくあと数分といったところだろう。
ふと、ミカ様が何かを思い出したように、手のひらを合わせた。
「そういえばさ、リルくんって事件の罰則で、トリニティでの銃器所持を禁じられてるんだよね? もちろん、真実が明らかになった以上、あんな理不尽な罰則はもう無効にできるけど……でも、今は手ぶらなんでしょ?」
「ええ。『銃は』持っていませんね」
「それじゃあ戦えないじゃん。ならさ、今日は特別に私の予備を貸してあげようか? 一応、サブマシンガンなら車に積んであるし。それとも、ハンドガンの方がいい?」
ミカ様は気遣うようにそう提案してくれた。
しかし、ボクは静かに首を横に振ってそれを辞退した。
ノートルダムでの戦闘で嫌というほど思い知ったが、ボクには銃の適性が一切ない。
体術など、他の戦闘技術は自分でも驚くほど高いのに、不自然なまでに銃との相性が悪い。
神秘の込め方、照準の合わせ方……全てがうまくいかないのだ。
そんなボクが銃を使ったところで、また狙いを外して周囲の一般市民や建物を破壊してしまうだけだ。
「お気遣いありがとうございます。でも、大丈夫です。ボクは、銃が苦手なので」
「え。でも、武器がないと……もしかして、ステゴロで戦うつもりなの? いくらなんでも無茶だよ。相手は武装してるんだよ?」
「いえ、そうじゃありません。武器なら、ここにありますから」
ボクはそう言うと、漆黒のシスター服の、だぼりとした袖口を軽く振った。
すると、金属と布が擦れ合う微かな冷たい音と共に、袖口の暗がりから一つの刃が滑り出た。
まるで最初から手のひらの中に存在していたかのように、あるいはボクの肉体の一部が鋼として伸長したかのように、それは音もなくボクの手の中に収まった。
車内の薄明かりに照らされたのは、一本の無骨な鋼だった。
小剣程度の長さを持つ、分厚く鋭利な片刃に、Z字に曲がりくねった特徴的な柄。
本来ならば、ライフルなどの銃身の先端に装着して使用するための装備。
それは、旧式の
ボクが銃を取り上げられて以降、護身用として密かに研ぎ澄ませ続けてきた、ボクの牙。
「……えっ。それって……銃の先に付けるやつだよね? というか、それが武器って、そんな刃物一本でどうやって戦うつもりなの……?」
さすがのミカ様も、予想外すぎる原始的な武器の登場に、本気で驚いた顔をして上体を引いた。
銃火器が絶対的な力を持つこのキヴォトスにおいて、銃剣単体での戦闘をメインスタイルにするなど、狂気の沙汰でしかないと映るのだろう。
このシスター服の袖口やスカートの中に、これと同じものがまだ百本以上も暗器として隠されていると知れば、彼女はさらに絶句するだろうか。
「ご心配なく。ボクには、これが一番性に合っていますから」
「性に合ってるって、ホントにそれだけで行くつもりなの? やっぱり私の銃を使った方が……」
「問題ありません。これなら……銃みたいに暴発して、周りの人たちや建物を巻き込む心配もありませんから。それに……人を壊すには、これで十分です」
ボクは低く静かに答え、手にした銃剣の刀身を目の高さに掲げた。
磨き上げられた冷たい鋼の表面に、ボク自身の顔が反射して映り込む。
そこに映っていたのは、先ほどまで過去の亡霊に怯えていた、臆病な男子生徒の顔ではない。
アクアマリンの瞳から徐々に人間としての感情の光が抜け落ち、氷のように冷たく、機械的な殺意だけを宿した──怪物の目へと、静かに思考を切り替えようとしているボクの姿だった。
「到着しました。対象の喫茶店は、この先です」
運転席と後部座席を隔てる壁のスピーカーから、ドライバーを務めるティーパーティーの先輩の声が響く。
「──ではミカ様、お掃除に行きましょうか」
「……うん。リルくんの力、見ててあげる」
短いやりとりを交わすと、ボクは銃剣を袖口に仕舞い込み、ゆっくりと車のドアノブに手をかけるのだった。
漸く主人公のメイン武器お披露目です。
まぁ、戦闘描写が無いのでお披露目と言っていいものか微妙な感じですが!