ティーパーティーに銃剣を添えて   作:Agrissa

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戦闘回後半です。


17. 福音のための鎖

 その光景を、ミカは店内奥のカウンター席に確保した特等席から、脚を組みながら静かに見つめていた。

 磨き込まれたマホガニーのカウンターに肘を預け、頬杖をつく。

 窓から差し込む午後の光が、彼女の桃色の髪を薄く金色に透かしていた。

 

 彼女の目の前で繰り広げられているのは、もはや戦闘と呼べるものではなかった。

 一方的で、圧倒的で、そしてどこまでも冷たい蹂躙劇だった。

 

 

「ひ、ひぃッ! 速すぎて照準が定まらねぇ!!」

「バカ! 適当でもいいから撃てッ! ヤツの足を止めるんだよ!!」

 

 

 残された七名のスケバンたちが、恐慌に陥りながら手にした銃器の引き金を引こうとする。

 アサルトライフルの銃口がめちゃくちゃに振り回され、サブマシンガンの照準が空を切る。

 しかし、彼女たちの銃口から火が吹かれることは、ただの一度としてなかった。

 

 彼女たちがトリガーに指をかけるより早く、虚空から銀色の閃光が飛来する。

 聴くものの背筋を凍らせる、冷たい風切り音。

 

 リルの両腕、その漆黒のシスター服の袖口から、尽きることのない手品のように次々と射出される銃剣の投擲。

 それは単なる力任せの牽制などではない。

 敵の銃の機関部、あるいは引き金にかけた指の関節、肩口の腱──射撃動作を成立させるために不可欠な急所のみを、寸分の狂いもなく正確に打ち据える、神速にして絶対的な精密投擲だった。

 

 たった一本の銃剣が放たれるだけで、一人の戦闘力が完全に奪われていく。

 それも、殺すことなく。

 壊すことなく。

 ただ、無力化するためだけに研ぎ澄まされた、恐ろしいまでの技量。

 

 

「うっ!? やべ──!」

 

 

 神秘を纏った鋼鉄の質量が叩きつけられ、武器を弾き飛ばされたスケバンたちが次々と尻餅をつく。

 そこへ、リルが音もなく肉薄した。

 翻る、漆黒のシスター服の裾とベール。

 さらさらと宙に弧を描く、白銀のロングヘア。

 

 両手に握られた銃剣が、蒼白い残光を纏った数多の銀閃を、暴風のように刻み込んでいく。

 その鋭い斬撃に乗せられた神秘は、彼女たちの意識を刈り取るには十分すぎるほどの威力を秘めていた。

 

 

「あ、が……ッ」

「う、そ、だろ……」

 

 

 防御する間も、悲鳴を上げる間も、仲間に助けを求める間すらも与えられない。

 リルが通り抜けた後に残されるのは、ヘイローが明滅しながら力なく倒れ伏す、スケバンたちの無力な肉体だけ。

 痙攣し、白目を剥いて、ピクリとも動かなくなった彼女たちが、壊れたマネキンのように床に転がっていく。

 

 一度の発砲すら許さない、完璧な制圧。

 それでいて、致命傷は一つもない。

 だが──その手際があまりにも機械的で、あまりにも洗練されすぎているが故に、凄惨な血の海よりもさらに冷酷で、背筋が凍るような異常性がそこには漂っていた。

 

 それは、美しいとすら思ってしまうような。

 人間が振るう暴力の極致を、芸術の域にまで昇華してしまったかのような。

 

 

「……すごい。ほんとに、すごいよ……リルくん」

 

 

 ミカの唇から、感嘆とも畏怖ともつかない吐息が、ほとんど無意識のうちにこぼれ落ちた。

 彼女はカウンターに預けた頬杖を外し、無意識のうちに身を乗り出していた。

 惨劇のど真ん中で荒々しく舞い踊るその男の子の姿から、琥珀色の瞳を、一瞬たりとも引き剥がすことができなくて。

 

 普段の彼を、ミカは知っている。

 どうしようもなく華奢で、儚くて、触れれば壊れてしまいそうな硝子細工の妖精のような姿を。

 ちょっとからかえば顔を真っ赤にして怒り、イチゴを横取りすれば涙目で駄々をこね、過去のトラウマに怯えれば迷子の子供のように肩を震わせる。

 庇護欲をそそる、愛らしい男の子。

 

 ──だが、今の彼はどうだ。

 

 ミカの視線の先で、リルがまた一人のスケバンの胴へ、容赦のない逆袈裟を叩き込んだ。

 衝撃でふわりと舞い上がった白銀のロングヘアの隙間から、白磁の横顔が露わになる。

 そこには、普段の幼げな愛らしさも、怯えも、照れも、微塵たりとも存在していなかった。

 

 一切の感情が削ぎ落とされた、冷たく無機質な能面のような表情。

 しかし、その顔に嵌め込まれたアクアマリンの双眸だけは、敵対者を狩る絶対的な殺意と、氷の底に沈殿した剣呑な光を宿して爛々と異様な輝きを放っていた。

 虹彩の深奥で瞬く蒼白い光は、まるで彼の中に棲む何かが、瞳を通して外界を睨みつけているかのようで。

 

 それはまさしく、人間の皮を被った『怪物』──いや。

 人の形をした『兵器』の顔だった。

 

 

「──っ」

 

 

 その瞳を視界に入れた、その瞬間。

 トリニティでも最強クラスの武力を自負するミカの全身を、足の爪先から頭頂部へと駆け上がるように、凍えるような戦慄が貫いた。

 本能が、警鐘を打ち鳴らしている。

 規格外の暴力装置と対峙した生命体が、意志とは無関係に発する根源的な恐怖のアラート。

 

 ──もしもあの冷たい刃が自分に向けられたら。

 ──あの殺意に満ちた瞳が、自分を標的として捉えたら。

 果たして自分に、勝ち筋はあるのだろうか。

 

 ミカの喉がゴクリと鳴った。

 握りしめた掌に、冷たい汗が滲む。

 心臓が、恐怖で早鐘を打っている。

 

 ──しかし。

 

 ミカの心に芽生えたそのわずかな恐怖心は、直後に湧き上がった、あまりにもどす黒く、そしてあまりにも甘美な感情によって一瞬で、跡形もなく塗り潰された。

 

 

「あはっ……」

 

 

 声が、漏れた。

 それは、笑い声だった。

 

 

「あははははっ……!」

 

 

 歓喜だった。

 身体の芯から沸き立ち、制御を振り切って溢れ出す、抑えきれない歓喜。

 心臓が早鐘を打ち、全身の血液が沸騰するかのような、理性を焼き焦がす途方もない興奮。

 

 自分と同じ傷跡を持つ、あの小さくて脆い男の子が、自分と同じように圧倒的な暴力を振り撒いて、邪魔者を蹴散らしている。

 そして、その凶悪なまでに強大な存在の手綱を、他でもない自分が──聖園ミカが握っている。

 

 その事実から生じる、歪んだシンパシーと独占的な優越感が、彼女の脳髄を痺れるほどに灼いていた。

 

 ナギサは、彼のことをあくまで特別情報執行局(イスカリオテ)の優秀な執行官程度にしか見積もっていないだろう。

 だが、違う。

 あの子はそんなちっぽけな枠に収まるような存在じゃない。

 まだ幼く未熟な面はあるが、いずれはトリニティどころか、キヴォトスの勢力図そのものを塗り替えてしまいかねない、凶悪なジョーカー。

 

 そして今、そのジョーカーは、自分の言葉一つで動き、自分の声一つで止まる。

 リルが世界で最も信頼している人間は、きっとナギサでもサクラコでもマリーでもない。

 紛れもなく、この自分だ。

 

 

「……ふふっ。本当に、素敵だなぁ……」

 

 

 ミカは陶然とした表情で、自らの唇を人差し指の腹でゆっくりとなぞった。

 彼女の琥珀色の瞳もまた、リルとは全く異なるベクトルの、狂気と陶酔が綯い交ぜになった危うい熱を帯びて、ぎらりと光っていた。

 

 

「ぐあ……ッ!」

 

 

 また一人、銃剣の餌食となったスケバンが、意識を刈り取られ、操り糸を断たれた人形のように床へと崩れ落ちる。

 

 やがて──店内に響いていた悲鳴と金属音が、完全に鳴りやんだ。

 取り巻きのスケバンたちは、一人残らず冷たいフローリングの上に転がり、誰一人としてピクリとも動かない。

 残ったのは、静寂と、硝煙に似た神秘の残り香と──ただ一人。

 

 

「クソッ……! クソがッ!!」

 

 

 部下が全滅したことにようやく気付いたリーダー格が、血の気を失った顔を引き攣らせながら叫んだ。

 見開かれた眼球に、床に横たわる仲間たちの無惨な姿が映り込んでいる。

 唇が恐怖で痙攣し、奥歯がガチガチと鳴っていた。

 

 だが、彼女の執着は恐怖を上回った。

 震える手でテーブルの上に残された銀色のアタッシュケースを引ったくると、それを胸に抱え込むようにして、店の出入り口へと背を向けて走り出す。

 

 ──しかし、それを目の前の怪物が見過ごすわけがなかった。

 

 リルの冷徹な思考ルーチンは、彼女が逃走の意思を見せた瞬間から、すでにその経路と速度を完全に予測し終えていた。

 右手に握った銃剣を逆手に持ち替える。

 蒼白い神秘の光が刀身を舐め、冷たい燐光を放つ。

 

 狙いは彼女の背中──脊髄付近。

 そこへ的確に一撃を叩き込み、運動能力を奪う。

 投擲のモーションに入り、後方へ振りかぶった右腕の筋肉が極限まで収縮する。

 

 ──だが。

 その時だった。

 

 カラン、と。

 

 逃走するスケバンの前方、店のドアベルが──場違いなほどに軽やかな音を立てて鳴った。

 

 

「え……? あ、あの……?」

 

 

 入り口から姿を現したのは、スケバンへ仕事を依頼した大人でも、踏み込んできた正義実現委員会でもなかった。

 見慣れないトリニティ生──明らかに一般の女子生徒だった。

 清潔な白い制服に、華美な装飾のないヘイロー。

 腕に抱えた小振りな鞄からして、帰宅する途中だったのだろう。

 彼女は店内に立ち込める異様な空気に面食らったように足を止め、狼狽の声を漏らしている。

 

 

「あ、あれっ? どうして一般の子がここに?」

 

 

 状況を見守っていたミカが、カウンターの上から僅かに腰を浮かせ、困惑の声を漏らした。

 外では、ティーパーティー所属の上級生たちが規制線を張って、通行人を遠ざける段取りだったはずだ。

 だが、何らかの行き違いがあったのか、あるいは単純なヒューマンエラーか、最悪のタイミングで、戦場と化した店内に無関係の生徒が足を踏み入れてしまった。

 

 

(──エラー。射線上に非戦闘員を検知。投擲プロセスを一時停止)

 

 

 リルの脳内で、冷たいシステムが即座に警告を発した。

 振りかぶっていた右腕の筋肉が、まるで見えない壁にぶつかったように、空中でピタリと強制停止する。

 標的は移動中。

 このまま投擲すれば、出入り口に立つ生徒を巻き込んでしまう可能性がある。

 

 

「ちょうどいいところに来やがったな!!」

 

 

 一方で、逃げるリーダー格にとって、この状況は天からの贈り物だった。

 彼女は血走った両目を歓喜に見開き、引き攣った口元で狂ったように嗤い、状況も掴めず呆然と立ち尽くしているトリニティ生へ、空いた片手を強引に伸ばした。

 

 意図は明白だ。

 人質に取る。

 自分の盾にする。

 あの化け物がどれほど強かろうが、か弱い一般生徒を前にすれば手を出せまい──と。

 

 

(──交戦継続に支障なし。非戦闘員の被害想定は許容範囲内。攻撃を続行──)

 

 

 冷たいルーチンが、即座に最適解を叩き出す。

 生存確率の数値を弾き、被害の許容範囲を算出し、合理的な判断として攻撃続行の命令を下そうとする。

 

 

(──……だめっ!)

 

 

 しかし、リルの中で、理性の楔が金切り声を上げて軋んだ。

 

 

(関係のない人を……巻き込むわけには……いかない……っ!)

 

 

 脳裏にフラッシュバックする。

 瓦礫の山と化したキャンパス。

 自分の力に巻き込まれ、血を流し、瓦礫の下で呻く同級生たち。

 恐怖に染まった瞳でこちらを見上げる、彼女たちの顔。

 

 もう二度と、無関係な人を自分の戦いに巻き込まない。

 もう二度と、守るべき人を自分の力で傷つけない。

 その強迫観念にも似た誓いが、ノートルダムの残火のように彼の理性を激しく揺さぶった。

 

 だが、感情の揺らぎは、冷たい思考ルーチンの制御を緩ませる毒だった。

 理性と殺意が同居する危うい均衡が、急速に崩れていく。

 

 プツリ、と。

 

 何かが──リルの頭の中で、断ち切れる音がした。

 

 

(──試算完了。戦術パターンをCQCへ修正。プロトコルを制圧から殲滅へ移行。敵性体の生命プロセス停止を最優先目標に再設定)

 

 

 冷たい。

 何もかもが、冷たい。

 三年前のあの日と同じ、氷の底に沈められたような、おぞましい感覚が脳を塗り潰していく。

 必死に打ち込んでいた理性の楔が、根こそぎ引き抜かれる。

 かつてと同じ──あの冷酷で、合理的で、人間性の欠片もない思考ルーチンが、リルの自我を完全に飲み込んだ。

 

 次の瞬間、リルの姿がその場から掻き消えた。

 音を置き去りにする、という表現すら生ぬるい。

 彼が元いた場所のフローリングが、まるで砲弾が直撃したかのように粉々に弾け飛び、木片と埃の柱が天井まで吹き上がる。

 

 それは跳躍ではなく、爆発だった。

 両脚の筋肉が蓄えた運動エネルギーが、神秘によって数十倍に増幅され、人間の反応速度が追いつくことを許さない絶対速度をもって、空間を一直線に貫く。

 

 リルが次に姿を現したのは──リーダー格のスケバンの、文字通り鼻先数センチの距離だった。

 

 

「な、ぁ……っ──」

 

 

 彼女の伸ばした手が、一般生徒の襟首に触れる、そのコンマ数秒前。

 空間転移したかのように眼前に出現した白銀の死神。

 雪のように白い肌、アクアマリンの瞳、漆黒のシスター服。

 その全てが視界に入った瞬間──彼女が理解したのは、自分の命運が完全に絶たれたという事実だけだった。

 

 リルの右手に握られた銃剣が、天段の構えから振り下ろされる。

 刀身の全長に沿って蒼白い神秘の光が脈動し、刃そのものが悲鳴のような風切り音を奏でる。

 それはもはや剣術の範疇にはなかった。

 純粋な破壊のエネルギーを刃の形に鍛え、圧縮し、凝縮した──絶対的な暴力の結晶。

 

 轟音が、店内の空気を丸ごと揺さぶった。

 

 

「か──ッ……は、ァ──」

 

 

 凄まじい袈裟斬りが、リーダー格の左肩から右脇腹にかけてを、光の軌跡を灼きつけながら駆け抜ける。

 本来であれば、人体を一太刀で両断するほどの一撃。

 しかし、彼女のヘイローが極限の光を放ち、最後の防護壁としてかろうじてそれを防いだ。

 代わりに、刃に乗せられた莫大な衝撃波が、彼女の体内を縦横無尽に駆け巡る。

 骨が軋み、内臓が揺さぶられ、神経回路が焼き切れる。

 

 アタッシュケースが力を失った手から弾け飛び、彼女の身体はくの字に折れ曲がりながら、床に深々とめり込むように叩き伏せられた。

 フローリングが蜘蛛の巣状に砕け散り、リーダー格は白目を剥いて意識を手放した。

 

 決着は──ついた。

 

 だが。

 

 理性を手放したリルの瞳に映る世界は、まだ終わっていなかった。

 

 

(──対象の生命プロセスの継続を確認。フォーマットを継続)

 

 

 その冷たい命令に従い、リルは無表情のまま、右手の銃剣を再び逆手に持ち替えた。

 蒼い燐光が刃を舐め、冷たい光の尾が空気に軌跡を残す。

 泡を吹いて意識を失い、仰向けに倒れ伏すリーダー格の喉元──もっとも無防備な急所を、凶刃の切っ先が正確に見据える。

 

 そのまま、確実に貫き、命脈を断つべく──リルは銃剣を高く、高く振りかぶった。

 

 鋼鉄が店内の薄明かりを反射し、冷たい星のように一瞬だけ瞬く。

 凶刃が落下を始める。

 

 あわや、血の惨劇かと思われた、その──刹那。

 

 

「──もういいよ、リルくん」

 

 

 静寂を縫うように。

 激戦の余韻をすべて洗い流すように。

 酷く穏やかで、酷く優しく、春の陽だまりのように甘やかな声が、リルのすぐ耳元で囁かれた。

 

 

「──……!」

 

 

 ピタリ、と。

 刃が止まった。

 気絶したスケバンの喉元から、わずか数センチ。

 冷たく蒼い燐光を放つ銃剣の切っ先が、見えない壁に阻まれたかのように、空中で完全に静止していた。

 

 リルの華奢な手首を、後ろから伸びてきた白く滑らかな指が、掴んでいた。

 羽毛のように優しく、それでいて万力のように確かな、絶対に振りほどくことを許さない力で。

 

 その手の正体は、ミカだった。

 彼女はいつの間にか、リルの背後に立っていた。

 小柄な彼の身体を後ろから包み込むように、その手首を優しくホールドしている。

 

 

「決着はついたよ。リルくんの勝ち」

 

 

 母親が、悪夢にうなされる子供を起こすような、穏やかで慈しみに満ちた声。

 

 

「だから、もうおしまい。……ね?」

 

 

 最後に添えられた、柔らかな念押し。

 その言葉と、手首から伝わるミカの確かな体温が、リルの脳内に張り巡らされていた氷の回路を、春の雪解けのように、ゆっくりと、しかし確実に融かしていった。

 

 

「ぁ……ぁ、あ……」

 

 

 世界に、色が戻る。

 冷たい青単色に塗り潰されていたリルの視界に、喫茶店のアンティークな内装の暖色が、傾きかけた午後の光の橙色が、ミカの桃色の髪の鮮やかさが、一斉に雪崩れ込んでくる。

 死んでいた感情が、堰を切ったように意識の表層へと逆流し、感覚がノイズ混じりに再起動していく。

 

 リルの瞳から、無機質な殺意の光が抜け落ちた。

 代わりに宿ったのは、自分がたった今何をしようとしていたのかを理解したことで生まれた、恐怖と絶望だった。

 

 指先から力が抜け、銃剣が彼の手を離れた。

 カラン……と乾いた金属音が、静まり返った店内に虚しく響き渡る。

 

 

「ボ、ボクは……また……」

 

 

 ガタガタと震え始めた自分の右手を見下ろし、リルは蒼白な顔で息を呑んだ。

 雪のように白い指先が、小刻みに痙攣している。

 

 この手が今、何をしようとしていたのか。

 この刃が、あとほんの一秒遅く止められていたら。

 自分は間違いなく、この気絶している人間の喉笛を、掻き切っていた。

 

 ノートルダムの、あの時と、同じだ。

 理性を失った怪物として、取り返しのつかない大罪を犯すところだった。

 あんなに、あんなに必死に訓練を重ねて、今度こそ大丈夫だと、もう失敗しないと、そう自分に言い聞かせたのに。

 結局、何も──変わっていなかった。

 

 

「ひっ……! あ、あぁぁ……っ!!」

 

 

 震える聴覚に、悲鳴のような声が飛び込んできた。

 振り返ると、フローリングの床にへたり込んでいる、一般生徒の姿があった。

 

 彼女は血の気を完全に失った顔で、リルの顔と、床に横たわるリーダー格のスケバン、砕けたフローリング、壁に突き刺さった無数の銃剣、そして床に転がるアタッシュケースを、目まぐるしく順に見比べていた。

 その瞳に浮かんでいたのは──感謝でも安堵でもなかった。

 

 恐怖。

 

 人間が、到底理解の及ばない超常の化け物に遭遇した時にだけ見せる、魂の底から這い出てくるような、根源的で原始的な、純粋な恐怖の眼差し。

 

 ノートルダムの受難の日、生徒たちがリルに向けたものと──寸分違わない瞳。

 

 

「ノ、ノートルダムの……怪物……っ!」

 

 

 震える唇の隙間から絞り出されたその一言は、どんな銃弾よりも鋭く、どんな刃物よりも深く、リルの胸を真っ直ぐに、深々と、容赦なく抉り取った。

 

 

「いやぁぁぁっ!!」

 

 

 一般生徒は半狂乱になって立ち上がると、涙を散らしながらリルの顔をもう一度だけ、怯えた目で見つめた。

 そして、脱兎のごとく、転がるように店の出入り口から逃げ出していった。

 

 カランカラン、と。

 ドアベルの音が、酷く能天気に、酷く虚しく響き渡る。

 

 それきり、誰もいなくなった。

 

 残されたリルは、逃げ去った彼女の背中を追うことも、呼び止めることもできず、ただ力なくその場に立ち尽くしていた。

 膝まで届く白銀の髪が、破れた窓から吹き込む風に揺れ、彼の表情を隠すように頬にかかる。

 シスター服の袖口を握りしめる指先は氷のように冷たく、全身が木枯らしに晒された幼子のように、止めようもなく震えていた。

 

 

「……やっぱり、ボクは……」

 

 

 ぽつりと。

 空っぽの喫茶店に、掠れた独白が落ちる。

 

 

「怪物でしか……ないのかな……」

 

 

 ノートルダムでの過ちを、二度と繰り返さないために。

 暗い闇の中で、誰にも見せられない醜い自分と向き合い続けて、血が滲むほどに努力を重ねてきたつもりだった。

 それなのに、結果として自分はまた──同じ崖の縁に立っていた。

 同じ深淵を覗き込み、同じ怪物に呑まれかけていた。

 

 自分は結局、何をどう足掻いたところで、人を傷つけ、人を恐怖させ、人を遠ざけることしかできない、出来損ないの怪物なのだろうか。

 どれだけ手を伸ばしたところで、普通の人間にはなれないのだろうか。

 この手は永遠に、壊すことしか──

 

 ふわり、と。

 

 背中に、温もりが触れた。

 

 今にも砕け散りそうなリルの身体を、ミカが後ろからそっと、壊れ物を扱うように慎重に、それでいて二度と離さないと誓うように強く抱きしめていた。

 

 

「……そんなことないよ」

 

 

 耳元で囁かれたその声は、どこまでも柔らかく、どこまでも温かく、砕けかけた世界を繋ぎ止める最後の鎖のように、リルの心に沁みた。

 

 

「怪物はね、周囲の被害を考慮した戦い方なんてしないよ」

 

 

 ミカの声が、静かに、しかし揺るぎない確信をもって紡がれていく。

 

 

「ましてや、見ず知らずの誰かを助けるために、自分の理性をすり減らしてまで全力を尽くしたりなんて、絶対にしない」

「ミカ、様……」

「さっきは、ほんの少しだけ、コントロールを失敗しちゃったかもしれない。……でもね」

 

 

 ミカの腕に、少しだけ力が込められた。

 

 

「最終的には、過ちを犯す前に……ちゃんと立ち止まることができたでしょ?」

 

 

 その言葉に、リルの震えが、ほんのわずかに和らいだ。

 

 

「三年前のきみは、誰の声にも耳を貸さず、そのまま突っ走っちゃった。でも、今日のきみは私の声を聞いて、剣を止めることができた」

 

 

 肯定。

 他の誰にも見えなかった、彼の必死の努力と、その成果を。

 ミカだけが、完璧に理解し、完璧に認め、完璧に肯定してくれた。

 

 

「きみは怪物なんかじゃない。ちゃんと……人間として、成長してるんだよ、リルくん」

 

 

 その言葉が届いた瞬間。

 リルの強張っていた肩から、力が抜けた。

 凍りついていた何かが、胸の奥でじんわりと融けていく感覚。

 視界の端がぼやけ、目頭が熱くなるのを、リルは必死にこらえた。

 

 

「ボクが……成長、してる……?」

「うん。よく、頑張ったね」

 

 

 ミカの声が、子守唄のように優しく響く。

 

 

「だからさ、そんなに自分を責めないであげて。きみは、よくやったよ。えらいえらい」

 

 

 最後に添えられた、少しだけおどけた響きを持つ労いの言葉。

 それが、張り詰めていたリルの精神の糸を、良い方向へと、ふっと緩めてくれた。

 

 ミカという、絶対的な肯定者がそばにいてくれる。

 暴走しても、止めてくれる。

 失敗しても、認めてくれる。

 怪物になりかけても、人間に引き戻してくれる。

 その事実が、リルを深い闇の底から、辛うじて掬い上げた。

 

 

「……屈辱です」

 

 

 ようやく絞り出されたリルの声は、掠れてはいたが、確かな温度を取り戻していた。

 

 

「ミカ様みたいな適当な人に、二度も救われるだなんて」

「なにそれひっど〜い! せっかくメンターらしく、カッコよく励ましてあげたのに〜!」

 

 

 ミカが頬を膨らませ、大げさに不満を表明する。

 その声に、リルはようやく──小さく、壊れかけの硝子のように脆く、それでいてどこか温かな微笑みをこぼした。

 

 ふわり、と。

 リルの背中の翼が、安堵を伝えるように一度だけ、小さく羽ばたいた。

 

 ──しかし。

 

 リルの背後で微笑むミカの表情は、彼にかけられた慈愛に満ちた言葉の響きとは裏腹に──全く別の感情に、支配されていた。

 

 

(……あは)

 

 

 ミカの視線が、逃げ去った一般生徒が消えた扉をじっと見つめていた。

 その琥珀色の瞳の奥で、冷ややかな光が、ゆらりと揺れている。

 

 あの生徒は、今のトリニティの縮図だ。

 よく知りもしない人間を相手に、噂や同調圧力に流されて負の感情を向ける。

 憎むべき相手すら自分で決められない、蒙昧な連中の巣窟。

 それが、今のトリニティ総合学園の現実だ。

 

 

(──やっぱり)

 

 

 ミカは、リルを抱きしめる腕の力を、そっと、しかし確実に強めた。

 

 

(やっぱり、きみがいるべき場所は、光の当たる眩しい世界なんかじゃないんだよ)

 

 

 ミカの胸の奥で、ドロリとした真っ黒な感情が、粘性を持った泥のように渦を巻く。

 

 先ほどの生徒が生きる、光溢れるトリニティの表舞台。

 リルはそこに足を踏み入れようとしていた。

 そこで笑って、そこで泣いて、そこで普通の青春を取り戻そうとしていた。

 

 ──だが、結果はこの通りだ。

 光の世界の住人たちは、彼の本質を知ろうともせずに、ただ恐怖して、逃げ出してしまう。

 何度やっても、きっと同じことの繰り返し。

 どれだけ努力しても、無知で蒙昧な彼女たちは、きっとリルを受け入れようとはしない。

 

 

(でも、私は違う)

 

 

 同じ痛みを知っているから。

 同じ闇を歩いてきたから。

 自分だけは、彼と魂の一番深い場所で、理解し合うことができる。

 そして同時に、自分の抱えるこの底なしの痛みを正しく理解してくれるのも、世界中できっと彼だけ。

 

 

(だからさ。きみは、私と同じ日陰にいるべきなんだよ)

 

 

 歪んだ共感。

 そして、彼という唯一無二の存在を、自分だけの薄闇の中に永遠に留めておけるという、鎖のように強固な執着と、蜜のように甘い歓喜。

 

 ミカはリルの小さな身体を抱きしめたまま、もう二度と手を離さないとでも言うように、腕の力をさらに、さらに強めた。

 

 

(逃がさない)

 

 

 呼吸のように自然に、その決意が胸の底から湧き上がる。

 

 

(絶対に、誰にも渡さない)

 

 

 この美しくも悲しい存在は。

 この恐ろしくも儚い存在は。

 自分だけのものだ。

 

 

(……安心して、リルくん)

 

 

 甘い毒を孕んだ言葉を、ミカは音にならない吐息の中で囁いた。

 

 

(私だけはずっと──きみのそばにいてあげるからね)

 

 

 リルには決して見えない角度で、ミカはその美しい顔に、背筋が凍るほどに妖しく、蕩けるほどに昏い、聖母と魔女が重なり合ったような微笑みを、張り付けていた。

 

 傾きかけた夕陽が、砕けた窓硝子を通して、二人の重なり合った影を赤く、長く、冷たい石畳の上に伸ばし続けている。

 それはまるで、一つに溶け合った二つの影が、もう二度と引き剥がせないのだと──そう、告げているかのようだった。




なんかミカがタチの悪いヤンデレヒロインみたいになっちゃった……。
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