ティーパーティーに銃剣を添えて   作:Agrissa

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今回も無駄に長いです。
もう少し文字数コンパクトにするつもりだったのに…。


18. 忘却の聖痕

 夕闇が、トリニティの尖塔を呑み込もうとしていた。

 茜色に灼けた空が紫紺へと移ろい、最後の陽光が中央部室会館の白壁をうっすらと朱に染めている。

 その最上階、ティーパーティーのサロンへと続く長い廊下を、二つの足音が静かに辿っていた。

 規律正しいヒールの音と、それに寄り添うように響く、少し重たいコンバットブーツの音。

 

 ミカ様とボクは、初任務を終え、帰還の途についていた。

 

 

「──ただいま戻りました。ナギサ様」

 

 

 サロンの扉を開けたボクの声は、自分の耳にも掠れて聞こえた。

 全身がひどく気怠い。

 骨格の芯に鉛を流し込まれたような、ずっしりとした重さが四肢にまとわりついている。

 これは、戦闘による肉体の疲労ではない。

 ──精神の、消耗だ。

 

 戦闘中、最後の最後に理性を失いかけて、ミカ様の手を煩わせたこと。

 助けた生徒から、怪物と呼ばれ逃げられたこと。

 その二つの棘が、帰路の間ずっと胸の奥でチクチクと刺さり続けていた。

 

 けれど──胸の奥深くでは、砂粒ほどの小さな安堵が、確かに息づいている。

 一般市民への被害は、ゼロ。

 敵対者の死者も、ゼロ。

 制圧は完了し、対象は全員、正義実現委員会へと引き渡された。

 密輸品であるアタッシュケースも、ほぼ無傷のまま回収できた。

 

 最後に暴走した以上、完璧な結果とは言えないかもしれない。

 

 ──それでも。

 誰も、殺さなかった。

 誰も、壊さなかった。

 ボクのこの力が、初めて、誰かを守るための道具として機能した。

 その事実に、ボクは少しだけ胸をなでおろしていた。

 

 

「おかえりなさい、リルさん。ミカさん」

 

 

 サロンの奥、いつもの定位置で紅茶を傾けていたナギサ様が、穏やかな笑みで出迎えてくれた。

 しかし、ボクの顔色を一瞥した瞬間、彼女の琥珀色の瞳がすっと細まる。

 観察するように一秒、二秒。

 やがて、それ以上は何も言わず、視線をミカ様の方へと移した。

 

 

「報告をお願いします」

「はいはーい☆ えーっと、結論から言うと、大成功だよナギちゃん。対象十三名、全員制圧。死者ゼロ、重傷者ゼロ。一般人への被害もなし。お店はちょっと壊しちゃったけど、修繕費はティーパーティーの経費で落とすってことでよろしくね☆」

 

 

 ミカ様は、腰に手を当てて胸を張りながら、明るい調子でそう告げた。

 まるで遠足の感想を先生に報告する小学生のような気楽さだったが、ナギサ様は特に咎めることなく、短く頷いた。

 

 

「ほとんど被害なしですか。上出来です。……密輸品は?」

「ここに」

 

 

 ボクは抱えていた銀色のアタッシュケースを、テーブルの上へと静かに置いた。

 金属が磁器と触れ合う、乾いた音が鳴る。

 

 ずしりとした重量感が掌を離れた瞬間、肩の荷が下りたような感覚と、同時に、得体の知れない不快感がせり上がってくるのを覚えた。

 このアタッシュケースを抱えている間、ずっと感じていた微かな違和感。

 腕の中で何か生き物が脈打っているような、薄気味の悪い感触が、ケースの表面を通してずっと伝わり続けていたのだ。

 

 

「では、念のため中身を確認しておきましょうか」

 

 

 ナギサ様の言葉に、ボクとミカ様は同時に頷いた。

 彼女は白い手袋をした指先で、慎重にロックを外す。

 カチリ、カチリ、と二つの留め金が外れ、蓋がゆっくりと持ち上げられた瞬間──

 

 蒼い光が、サロンの空気を染め上げた。

 

 黒いウレタンの緩衝材に厳重に固定された、数個のガラス製アンプル。

 その中に密閉された液体が、心臓の鼓動に似たリズムで、脈動するように蒼く明滅していた。

 明かりが灯り、消え、また灯る。

 まるで液体そのものが呼吸しているかのような、生理的な嫌悪感を催す不気味な発光。

 

 同時に、アンプルの封を切ったわけでもないのに、蓋を開けたケースの中から、背筋を粟立たせるような冷気にも似た気配がじわりと滲み出してくる。

 それは温度としての冷たさではなく、もっと根源的な──触れてはならないものに触れてしまったという、魂の奥底が発する拒絶反応のようなものだった。

 

 

「……これが、密輸されていた薬物」

 

 

 ナギサ様が、慎重な声色で呟いた。

 普段は完璧なポーカーフェイスを崩さない彼女の横顔に、わずかだが確かな動揺が走ったのを、ボクは見逃さなかった。

 

 白い手袋をした指先が、アンプルの一つに触れようとして──その数ミリ手前で、引き留められたように止まる。

 触れることを、彼女の本能が拒んでいるかのようだった。

 

 

「……正義実現委員会が成分分析に失敗したという報告は受けていましたが、実物を目の当たりにして、その理由が分かった気がします。これは、通常の薬物分析の枠に収まるような代物ではありません」

 

 

 ナギサ様のプラチナブロンドの髪が、バルコニーへ吹き込む風に微かに揺れた。

 その下にある琥珀色の瞳が、蒼い発光を映し込みながら、鋭く、そして深く思索を巡らせているのが見て取れる。

 

 

「もはや、密輸などというレベルの問題ではありませんね……。こんなものが学区内で流通しているなど……」

 

 

 そう言い切って、ナギサ様はケースの蓋に手をかけた。

 閉じようとしたのだ。

 これ以上、この禍々しい光を眺めていたくないという、本能的な防御反応のように。

 

 

「ちょっと待ってナギちゃん」

 

 

 しかし、ミカ様がそれを止めた。

 彼女はテーブルの縁に両手をついて身を乗り出し、ケースの中を覗き込んでいた。

 蒼い光が、彼女の琥珀色の瞳の中で、小さな星のように反射している。

 

 

「……きれい」

 

 

 ぽつりとこぼれ落ちたその一言に、ナギサ様の眉がぴくりと動いた。

 

 

「ミカさん?」

「うん……なんだろう。怖いものだって頭では分かってるんだけどさ。この蒼い光……ずっと見てると、なんか……吸い込まれそうになるっていうか」

 

 

 ミカ様は小首を傾げ、まるで美術館で絵画に見入る少女のような表情で、脈動する蒼い液体を凝視していた。

 得体の知れない薬物だと認識しているはずなのに、その瞳にあるのは警戒ではなく、純粋な審美的興味だった。

 

 本来であれば、不謹慎と切り捨てるべき反応だろう。

 しかし、彼女のその感想は、ある意味で的を射ていた。

 この蒼い光には、見る者の理性を掻い潜り、本能の深い場所に直接触れてくるような、抗い難い引力がある。

 

 禍々しいものほど美しく、美しいものほど禍々しい。

 そんな矛盾を体現したかのような、危うい輝き。

 

 

「……ミカさん。あまり長時間凝視しない方がよろしいかと」

 

 

 ナギサ様が静かに、しかし明確な警告を発した。

 ミカ様は『は〜い』と気の抜けた返事をして、ようやくケースから視線を引き剥がす。

 

 ──その時だった。

 

 

「っ──」

 

 

 ボクの胃の底から、何かが突き上げてきた。

 吐き気だ。

 唐突に、そして圧倒的な質量で、ボクの食道を逆流してくる激しい嘔吐感。

 

 それだけじゃない。

 全身の皮膚が一斉に粟立ち、背中の翼の付け根がびりびりと痺れるような、得体の知れない悪寒が身体中を駆け巡っている。

 

 

「リルさん?」

 

 

 ナギサ様の声が、急に遠くなった。

 テーブルの上で蒼く明滅し続けるアンプル。

 その光を見ていると──いや、光だけではない。

 この液体の存在そのものが、ボクの中にある何かを、暴力的なまでに共鳴させていた。

 

 ──知っている。

 

 そんな確信が、根拠もなく脳裏を過ぎった。

 

 ──ボクは、これを知っている。

 

 デジャヴ。

 けれど、それは通常のデジャヴとは質が違った。

 既視感というよりも、もっと深い場所──骨髄や、血管の内壁や、細胞の一つ一つが、この液体の存在を『記憶している』とでもいうような、肉体レベルの原始的な認知。

 

 知らないはずなのに、身体が覚えている。

 見たこともないはずなのに、この蒼い色が、妙に馴染み深い。

 それでいて──この液体から漂ってくる気配は、甘い匂いの奥に腐臭を忍ばせた花のように、ボクの嗅覚を、視覚を、触覚を、ありとあらゆる感覚を、内側から激しく掻き乱してくる。

 グロテスクで、冒涜的で、何か生き物を無理やりすり潰して瓶に詰め込んだような──

 

 

「う、ぅ……っ」

 

 

 膝が笑い、視界が傾ぐ。

 テーブルの端を咄嗟に掴んで辛うじて持ちこたえるが、指先に力が入らない。

 額にじっとりと冷たい汗が滲み、呼吸が浅く速くなっていくのが自分でも分かった。

 

 

「リルくんっ!?」

 

 

 ミカ様の声。

 横から伸びてきた手が、ボクの肩を支える。

 その温かさで、辛うじて意識が繋ぎ止められた。

 

 

「……す、すみません。少し……くらっと……」

 

 

 掠れた声で答えながら、ボクはアタッシュケースから視線を逸らした。

 蒼い光が視界から消えた途端、吐き気と悪寒が少しだけ和らぐ。

 けれど、身体の奥で小刻みに震え続ける不快感は、容易には収まってくれなかった。

 心臓が不規則に跳ね、指先が痺れたように冷たい。

 

 

「リルさん。大丈夫ですか?」

 

 

 ナギサ様が、席を立ってこちらへ歩み寄ってきた。

 手袋を外した彼女の手が、ボクの額にそっと触れる。

 ひんやりとした肌の感触が、火照った肌に心地よかった。

 

 

「少し熱がありますね。……初めての実戦任務の後です。緊張と疲労が、想像以上に身体に負荷をかけているのでしょう」

 

 

 ナギサ様はボクの額から手を離し、労るような微笑みを浮かべた。

 

 

「今日はもう、帰ってゆっくり休んでください。押収品の分析と今後の方針については、こちらで進めておきますから」

「でも、報告がまだ……」

「それはミカさんから聞くので構いません。それよりも、今は休養が最優先です。いいですね?」

 

 

 有無を言わせぬ、しかし慈しみに満ちたその口調。

 まるで熱を出した子供を寝床に追い返す母親のような、柔らかな厳格さだった。

 ボクは反論する気力もなく、小さく頷いた。

 

 

「……はい。すみません、ナギサ様。失礼します」

 

 

 ペコリと頭を下げ、テーブルから身体を離す。

 ミカ様の支えていた手が、名残惜しそうにゆっくりと離れた。

 

 

「無理しないでね、リルくん。明日、元気になったら、またいつもみたいに私をいっぱい振り回してね☆」

「……それ、逆ですよね。振り回してるのはミカ様の方でしょうに」

 

 

 憎まれ口を返しつつ、ボクはサロンの扉へと向かった。

 膝下まである白銀の髪が、頼りなく揺れる。

 背中の翼は力なく垂れ下がり、漆黒のシスター服の裾を引きずるように歩き出す。

 

 扉を開ける直前、ボクは一度だけ振り返った。

 テーブルの上のアタッシュケースは、もう蓋が閉じられていた。

 それでもなお、その中に潜む蒼い光の残像が、網膜に焼き付いて離れない。

 

 ──あの光を、ボクは知っている。

 

 どこで。いつ。なぜ。

 その問いへの答えは、記憶の闇の奥底で、頑なに沈黙を守り続けていた。

 

 

「……失礼します」

 

 

 ボクは逃げるように扉をくぐり、サロンを後にした。

 廊下に出た瞬間、堪えていた息が一気に漏れる。

 壁に手をついて深く呼吸を繰り返しながら、ボクはうつむいた自分の掌を見つめた。

 まだ、震えが止まらなかった。

 

 

 

 

 

◆   ◇   ◆

 

 

 

 

 

 リルの足音が廊下の彼方へと消えていき、やがて完全な静寂がサロンに降り積もった。

 夕暮れの最後の光も失われ、バルコニーに設えられたランタンの暖色だけが、二人の少女の横顔を照らしている。

 テーブルの上には、蓋を閉じられたアタッシュケースが、まるで棺のように沈黙していた。

 

 

「……さて」

 

 

 紅茶を注ぎ直す仕草で間を作り、ナギサは改めてミカへと向き直った。

 ティーカップを唇に運ぶその所作は完璧に優雅だったが、琥珀色の瞳に宿る光は、先ほどまでの労りとは全く異質の──厳格な為政者のそれだった。

 

 

「ミカさん。メンターとしての所見をお聞かせください。リルさんの、特別情報執行局(イスカリオテ)執行官としての実力。そして──暴走の兆候について」

 

 

 単刀直入な問い。

 そこには遠慮も、感傷も、一切含まれていない。

 

 

「所見、ねぇ」

 

 

 ミカは椅子の背もたれに深く身を預け、長い脚を優雅に組み替えた。

 天井を仰ぎ、記憶の中に刻まれた光景を反芻するように、しばし瞼を閉じる。

 そして──

 

 

「すごかったよ」

 

 

 ミカの口元に、ふっと笑みが浮かんだ。

 それは、いつもの茶目っ気のある笑顔ではなかった。

 もっと深い場所から湧き上がってくる、熱を帯びた──陶酔にも似た表情。

 

 

「十三人相手に、たった一人で制圧。しかも銃器は使わずに銃剣(バイヨネット)だけで。……それに、敵に一発も撃たせなかったんだよ、ナギちゃん。一発も、だよ」

 

 

 ミカは椅子の背もたれに体重を預け、宵闇に包まれ始めた空を見上げた。

 その琥珀色の瞳が、記憶の中の光景を映し出すように、うっすらと潤んでいる。

 

 

「最初の一手からもう、格が違ったの。投擲で敵の注意を逸らして、その隙に懐に飛び込む。動きに一切の無駄がなくて、まるで……そう、最初からそうなるように設計された精密機械を見てるみたいだった」

 

 

 ミカの声は、報告というよりも、目撃した奇跡を語る証人のそれに近かった。

 指先を組み合わせ、自身の唇に軽く押し当てながら、恍惚とした眼差しで言葉を紡ぐ。

 

 

「翻るシスター服の裾。銀の髪が弧を描くたびに、敵が一人、また一人と倒れていくの。氷みたいに冷たい目をした天使が、容赦なく、でも美しく……。あんなに綺麗な暴力、初めて見た」

「……ミカさん」

 

 

 ナギサの声に、微かな警戒が混じった。

 ミカの語り口が、戦闘報告の域を明らかに逸脱していたからだ。

 有能な後輩の実力を称えているのではない。

 そこに漂っているのは、もっと個人的で、もっと生々しい──何かを愛でる者の、危うい熱。

 

 

「報告として伺いたいのは、情緒的な感想ではなく、客観的な戦闘能力の評価と、暴走の兆候の有無です」

 

 

 ナギサがぴしゃりと軌道修正を試みる。

 ミカは一瞬だけ不満そうに唇を尖らせたが、すぐに姿勢を正し、トーンを切り替えた。

 

 

「はいはい。……客観的に言えば、近接戦闘のスキルは私の想定を大きく上回ってた。反応速度、空間認識能力、神秘の出力制御、全部がトップクラス。正直、同年代はおろか、上級生のほとんどを凌駕してると思う。正義実現委員会の副委員長クラスにも、タイマンで余裕を持って勝てるレベルだね」

「ツルギさんと比較して?」

「近接に限れば、互角かそれ以上。……ただし」

 

 

 ミカの声が、わずかに沈んだ。

 

 

「暴走の兆候は、あったよ」

 

 

 ナギサの指が、ティーカップの取っ手の上で微かに強張った。

 

 

「制圧はほぼ完了してたんだけど、最後の最後で、リーダー格のスケバンが逃げちゃったの。そこに、タイミング悪く一般の生徒が店に入ってきちゃって」

「……それで?」

「リルくんは、その生徒を巻き込まないように攻撃をいったん止めた。それ自体は正しい判断だったんだけど……感情が揺れたせいで、それまで保ってた理性の制御が崩れちゃったみたい。一瞬だけ、本気で殺す気の目になってた」

 

 

 ナギサは無言で紅茶を啜った。

 その沈黙の中で、いくつもの情報が彼女の頭の中で組み立てられ、分析されていく。

 

 

「気絶した相手の喉元に銃剣を振り下ろそうとしたところを、私が止めたの。……ほんとにギリギリだったけどね」

「止められなかった場合は?」

「間違いなく殺してたと思う」

 

 

 ミカの声は、端的だった。

 そこに感情的な誇張はなく、純粋な事実の報告として発せられていた。

 

 

「……そうですか」

 

 

 ナギサは目を閉じ、数秒の沈黙を置いた。

 ティーカップをソーサーに戻す、カチリという硬質な音が、静寂に落ちる。

 

 

「しかし、最終的には貴女の声で止まったのですね」

「うん。私の声に反応して、ちゃんと剣を止めることができてたよ。……三年前のノートルダムの時は、誰の声も届かなかったって話だから、それを考えればすごい進歩だと思う」

 

 

 ミカの声が、ふっと柔らかくなった。

 リルに直接語りかけた時と同じ、慈しみの響き。

 

 

「理性のストッパーは機能している。ただし、極限状態では不安定になる可能性がある、と」

「そういうこと。だから、しばらくは私がそばについて、あの子の状態を見ながら──」

 

 

 ミカがそこまで言いかけた時、ふと、彼女の唇の動きが途切れた。

 宵闘の風が吹き抜け、桃色の髪を揺らす。

 その瞳の温度が、報告モードから、別の何かへと移り変わっていくのを、ナギサは見逃さなかった。

 

 

「……それよりもさ」

「なんです?」

「あの生徒。リルくんが理性をすり減らして守った、一般の女の子なんだけど」

 

 

 ミカの唇が、笑みの形に歪んだ。

 だがその笑みには、一片の温度もなかった。

 極北の氷原に咲いた花のように、美しく、そして凍えるほどに冷たい微笑み。

 

 

「その子ね、最後に何て言ってたと思う? 必死に戦ったリルくんの顔を見て──『ノートルダムの怪物』だって。そう叫んで、泣きながら逃げていったの」

 

 

 テーブルの上のランタンの炎が、ちらりと揺れた。

 

 

「自分の命を救ってもらったのにだよ? ……ほんと、トリニティの子たちって、どうしようもないのばっかりだよねぇ。自分じゃ何もできないくせに、守ってくれた相手にあんな仕打ちを平気でするんだから」

 

 

 ミカの指先が、テーブルクロスの端をゆっくりと、しかし確実に強い力で握り込んでいく。

 白い布地に皺が刻まれていくのと同じ速度で、彼女の声から慈愛の成分が蒸発していった。

 

 

「噂だけを鵜呑みにして、目の前の事実すら見ようとしない。同調圧力に流されるだけの、思考停止した羊の群れ。憎む相手すら自分じゃ決められない哀れな子たち。……それがトリニティの一般生徒の平均値。あはっ、ほんと笑えるよねぇ」

 

 

 笑っていた。

 確かにミカは笑っていた。

 しかし、その笑顔を見つめていたナギサの背中を、冷たいものが一筋、音もなく這い下りた。

 

 ──何か、おかしい。

 ミカの怒りは理解できる。

 理不尽な仕打ちを受けた後輩への義憤として、それは正当なものだ。

 しかし、今彼女から漂っているのは義憤の温度などではなく、もっと粘度の高い、もっと個人的な──自分の所有物を傷つけた者へ向ける種類の、冷ややかな敵意だった。

 

 

「──滑稽。本当に、滑稽だよ」

「……ミカさん」

 

 

 ナギサは、意識的に穏やかな声を選んだ。

 

 

「お気持ちは分かります。しかし、一般生徒を責めても仕方がありません。あの子たちは、知らないだけです。リルさんという生徒の本質を」

「何も知らない……知ろうともしない人間が、一番タチが悪いんだよ、ナギちゃん」

 

 

 ミカが、真っ直ぐにナギサの目を見返した。

 その琥珀色の瞳は、昏い炎を宿したまま、微かに揺れていた。

 ナギサはその視線を正面から受け止め、一拍の間を置いてから、話題を切り替えた。

 

 

「だからこそ──リルさんの学内での立場を改善するための策を、私なりに考えてみたのです」

「策? なぁに?」

 

 

 ミカが身を乗り出す。

 ナギサが薄く微笑み、その先を語ろうとする。

 

 ──まさにその瞬間だった。

 

 コン、コン。

 

 控えめな、しかし確かな意思を持ったノックが、サロンの扉を叩いた。

 二人の視線が、同時に扉へと吸い寄せられる。

 この時間帯に、アポイントメントなしでティーパーティーのサロンを訪れる人間は極めて限られている。

 

 

「どうぞ」

 

 

 ナギサが応じると、重厚な扉がゆっくりと開き、一人の少女が姿を現した。

 救護騎士団の白い制服に身を包み、頭には十字の紋章が刻まれたナースキャップ。

 そして、パステル調の桃色の髪と、おさげのように垂れる同色の羽、聡明さと温かみを兼ね備えた容貌。

 

 

「失礼いたします。ミカ様、ナギサ様。……遅い時間に申し訳ございません」

 

 

 “鷲見セリナ”。

 トリニティが誇る医療部門、救護騎士団の中枢を担うメンバーの一人。

 その声は、いつもの彼女が持つ柔らかな響きとは程遠い、何かを堪えるように抑え込まれた、重苦しいものだった。

 

 

「セリナちゃん? こんな時間にどうしたの?」

 

 

 ミカが、椅子の上で小首を傾げる。

 普段であれば、セリナがサロンを訪れるのは、ティーパーティーメンバーの健康管理に関する定例報告の時くらいだ。

 それも事前に日時を調整した上での訪問であり、こうして夕刻に突然現れることは、まずない。

 

 

「先日実施された、白鍵リルくんの健康診断に関する再検査の結果をお持ちしました」

 

 

 セリナは一礼した後、脇に抱えていた大判の封筒を、静かにテーブルの上へと置いた。

 その動作には、爆発物を取り扱うかのような、異様なまでの慎重さが込められていた。

 封筒の表面には、『CONFIDENTIAL──最重要機密──取扱厳重注意』の朱印が、二重に押されている。

 

 

「リルさんの再検査……。先日、MRIでエラーが出たという件ですね」

「はい。データの再取得を行い、改めて精密な分析を実施いたしました。……その結果が、こちらになります」

「ご苦労様です。……ですが、検査結果であれば、通常は本人と担当医に通知されるものではありませんか? なぜ、ティーパーティーへ?」

 

 

 ナギサの当然の疑問に、セリナは視線を落とし、唇を噛んだ。

 数秒の逡巡の後、彼女は絞り出すように答えた。

 

 

「……結果の内容が、あまりにも異常だったためです。ご本人への通知の前に、ティーパーティーの判断を仰ぐべきだと……医療チームで協議した結果、そのように結論しました」

 

 

 空気が変わった。

 ミカが椅子から立ち上がり、背筋を伸ばす。

 ナギサの瞳の奥で、政治家としての冷徹な光が灯った。

 

 

「……異常、とは?」

「それは……」

 

 

 ナギサが慎重に問うと、セリナは視線を落とし、テーブルの上の封筒を見つめた。

 その目には、ナギサが初めて見るような──医療者としての使命感と、一人の少女としての恐怖が、ないまぜになった色が浮かんでいた。

 

 

「……ナギサ様。私は、これまで救護騎士団で、多くの生徒の体を診てきました。戦闘での怪我も、先天的な疾患も、特異な神秘体質も、一通りの経験はあるつもりです」

 

 

 セリナの声は、意図的に平静を保とうとしているのが分かった。

 しかし、白衣の裾をぎゅっと掴む右手が、微かに震えている。

 

 

「ですが……このような所見は、これまでの医療者生活の中で一度たりとも、目にしたことがありません」

 

 

 その言葉の重さに、サロンの空気が一段と冷え込んだ。

 

 

「……詳細を、聞かせていただけますか」

 

 

 ナギサが静かに促すと、セリナは小さく頷いた。

 だが、封筒に伸ばしかけたその手が、途中で止まる。

 まるで、その中身を自分の口で説明することに、強い抵抗を感じているかのように。

 

 

「その……大変申し上げにくいのですが……」

「もったいつけないでよ、セリナちゃん。ここにいるのは私とナギちゃんだけなんだから」

 

 

 じれったさに堪えかねたミカが、ひょいとテーブルの上から封筒を取り上げた。

 

 

「あっ……ミカ様、お待ちくだ──」

 

 

 制止の声が完了するよりも早く、ミカは封筒の封蝋を親指で押し割った。

 するりと引き抜かれた、数枚のMRI画像と、びっしりと所見が書き込まれた診断報告書。

 

 ミカはまず画像の方を手に取り、ランタンの明かりに透かすように掲げた。

 白黒の濃淡で描かれた人体の断面図。

 筋組織、骨格、神経系──リルの身体の内部が、生々しく克明に映し出されている。

 

 

「……なに、これ」

 

 

 ミカの声から、感情の色が全て抜け落ちた。

 掲げていた画像を持つ手が、微かに震えている。

 ナギサがミカの背後から画像を覗き込み──そして、息を呑んだ。

 

 それは、人体の筋繊維の断面図だった。

 しかし、そこに映し出されていたものは、健常な生徒のものとは根本的に異なっていた。

 

 

「……この筋繊維の構造は……」

 

 

 ナギサの声が、微かに震えた。

 

 

「……はい。通常の成長や鍛錬では、絶対に生じ得ないパターンです」

 

 

 セリナが、意を決したように報告を始めた。

 

 

「リルくんの筋組織には、全身に渡って、人為的な破壊と再生を繰り返した痕跡が認められます。筋繊維を一度、意図的に破壊し、そこに高濃度の神秘を注入して強制的に修復させる……それを、何十回、いえ、何百回と反復した形跡です」

「筋繊維を、破壊して……修復……?」

 

 

 ミカが、ぽつりと復唱した。

 その言葉の意味を、彼女の脳が理解することを拒んでいるかのように。

 

 

「それだけではありません」

 

 

 セリナの声は、さらに沈んでいった。

 

 

「骨格にも同様の痕跡があります。成長期の骨に対して、過剰な負荷をかけて微細骨折を誘発し、神秘による強制的な骨再生を繰り返すことで、通常の数倍の密度と強度を持つ骨格構造へと作り替えられています。さらに──」

 

 

 彼女は一度言葉を切り、喉に詰まった何かを押し下げるように、深く息を吸い込んだ。

 

 

「──神経系にも、手が加えられていました。伝達速度を向上させるための、人工的な神経回路の増設と思われる痕跡。そして、脳の記憶領域……特に戦闘行動に関わる運動野と判断中枢に、外部から情報を直接書き込んだような、不自然な神経結合のパターンが検出されています」

 

 

 沈黙が、鉛のようにサロンへ降り注いだ。

 ランタンの炎だけが、何事もなかったかのように、ちらちらと揺れ続けている。

 

 ナギサは、報告書を手に取り、セリナが指し示す箇所を一つ一つ追った。

 筋繊維の異常な瘢痕(はんこん)パターン。

 骨密度の不自然な偏差。

 神経結合の人工的な配置図。

 どのデータを見ても、同じ結論に行き着く。

 

 これは、事故でも、病気でも、先天的な異常でもない。

 ──何者かが、白鍵リルの肉体に対し、意図的な『強化』を施した痕跡だった。

 

 

「人体……実験……」

 

 

 ナギサの唇から、凍った吐息のように、その言葉が零れ落ちた。

 震える指先が、報告書の紙面を握り込み、微かに皺を刻んでいく。

 

 

「あの子の身体は、誰かの手で、意図的に──兵器のように作り替えられていた……?」

 

 

 言葉にしてしまった瞬間、その意味の重さが全身にのしかかってきた。

 ノートルダムの受難。

 パリサイ分派による冤罪。

 そういった、トリニティの政治的な闇とは全く次元の異なる、もっと深く、もっと暗い──白鍵リルという個人の存在そのものに関わる凄惨な闇が、想定の埒外から姿を現した。

 

 ナギサの頭脳は、高速で思考を巡らせている。

 いつ行われたのか。

 誰が行ったのか。

 そして何より──リル本人は、この事実を知っているのか。

 

 

「セリナさん。一つ確認させてください。リルさんは、ご自身の身体がこのような状態であることを、認識しているのでしょうか」

 

 

 ナギサが、低い声で問う。

 

 

「おそらく……リルくん本人は、何もご存じないものと思われます」

 

 

 セリナは目を伏せたまま答えた。

 

 

「処置が行われた時期が幼少期であると推測されること、そして脳の記憶領域への介入が確認されていることを考慮しますと……処置に伴う記憶が意図的に、あるいは処置の副作用として消去されている可能性が極めて高いです。リルくんは、自分の身体が『そういうもの』だと認識してすらいないのではないかと」

「……分かりました」

 

 

 サロンに、三度目の重い沈黙が落ちた。

 ナギサは報告書をテーブルに戻し、深く、深く俯いた。

 その姿は、巨大な重圧の下で、かろうじて形を保っている石柱のようだった。

 

 ──想定外だった。

 完全に、想定の外だった。

 ノートルダムの受難という過去の傷は、ミカの調査によって概ね輪郭が掴めた。

 対処も、方針も、ある程度見通しが立っていた。

 

 しかし、これは全く別の次元の問題だ。

 白鍵リルという生徒の身体そのものに、何者かの悪意が、深く、取り返しのつかないほどに刻み込まれている。

 

 ──背筋が、凍る。

 

 あの小さな身体に、これほどの凄惨な過去が押し込められていたなんて。

 あの細い腕の、あの白い肌の下に、こんな──人体を素材として扱った冒涜的な実験の痕跡が埋まっていたなんて。

 今朝、握手を交わした時のあの華奢で小さな指先を思い出し、ナギサの胃が不快にねじれた。

 

 しかし──。

 数秒の沈黙の後、ナギサはゆっくりと顔を上げた。

 その表情は、いつもの為政者然としたものではなく、一人の後輩を想う先輩のものだった。

 

 

「……セリナさん」

「はい」

「直ちに、このデータを隠蔽しなさい」

 

 

 ナギサの声が、低く、しかし有無を言わさぬ強さで室内に響いた。

 

 

「MRIの原データ、分析レポート、画像──全てを。正式な診断記録からは抹消し、異常のない健常者のデータと差し替えてください」

「ナギサ様……!?」

 

 

 セリナが、わずかに目を見開く。

 医療記録の改竄は、彼女の職業倫理に真っ向から反する命令だった。

 

 

「リルさんは現在、極めて不安定な精神状態にあります。今日この瞬間ようやく、ほんの少しだけ前を向き始めたところなのです」

 

 

 ナギサの声に、かすかな震えが混じる。

 

 

「そこに、このような……残酷すぎる事実を突きつけたら、あの子は……」

 

 

 言葉が、途切れた。

 脳裏に浮かんだのは、面談の日、全てを諦めたかのように悲壮な表情を浮かべていたリルの横顔。

 

 あの子がこの事実を知ったら、どうなる。

 自分の身体が、誰かの実験道具として弄ばれていたという真実を突きつけられたら。

 ようやく灯りかけた、あの小さな希望の炎が──完全に消えてしまう。

 

 

「……承知、いたしました」

 

 

 セリナは数秒の逡巡の後、小さく頷いた。

 その表情には、命令に従う苦痛と、リルへの同情と、そして医療者としての良心の呵責が、複雑に入り混じっていた。

 

 

「……ただ、ナギサ様」

「何でしょう」

「いつ、ご本人に打ち明けるおつもりですか? 今ここで事実を伏せたとしても、リルくん自身がこの現実と向き合わなければない日は、いつか必ず訪れます。……ご自分の身体のことですから」

 

 

 その問いに、ナギサは即答しなかった。

 代わりに、閉じたアタッシュケースの上に視線を落とし、しばしの沈黙を挟んだ。

 蒼い光は、もう見えない。

 けれど、その奥に潜む禍々しさの記憶は、彼女の網膜にまだ残っている。

 

 

「……この件については、時機を見て然るべき方法でリルさんに伝えます。しかし今は……今だけは、ダメなのです」

 

 

 ようやく紡がれた言葉には、覚悟の響きがあった。

 

 

「あの子は、ようやく過去の呪縛から一歩を踏み出し、前を向き始めたばかりです。その足元に、新たな深淵を開くような真似は……少なくとも今は、すべきではありません」

 

 

 リルの精神的な不安定さは、今日の任務でも如実に現れた。

 ここに更なる衝撃を与えれば、彼の心は取り返しのつかない形で砕けてしまうかもしれない。

 そうなれば、彼を救うことも、活用することも、どちらも不可能になる。

 それは、トリニティのためにも、リル自身のためにも、避けなければならない最悪の結末だ。

 

 ナギサは自分にそう言い聞かせた。

 その判断に、私情は含まれていないと。

 為政者として、最も合理的な選択をしているのだと。

 

 ──けれど。

 

 スカートに添えられた指先が、微かに震えていたことに、ナギサ自身は気づいていなかった。

 

 

「セリナさん。改めて、ご報告に感謝いたします。この件については、引き続き極秘裡に経過観察をお願いします。何か新しい所見があれば、直接私へ報告を」

「……承知いたしました。それでは、失礼いたします」

 

 

 セリナは深々と一礼すると、来た時と同じように、静かにサロンを後にした。

 扉が閉まる音が、どこか棺の蓋が閉じる音に似ていた。

 

 再び二人きりになったサロンで、しばらくの間、誰も口を開かなかった。

 ランタンの炎がチリチリと微かな音を立てて揺れ、天井に踊る影が、二人の沈黙を嘲笑うようにゆらゆらと形を変え続けている。

 

 

「……ナギちゃん」

 

 

 先に沈黙を破ったのは、ミカだった。

 再び椅子に深く沈み込んだ彼女の声は、驚くほど静かだった。

 

 

「うん、私も同意するよ。リルくんには、今は言うべきじゃない」

 

 

 珍しく素直に、そして迅速に同意したミカの言葉に、ナギサは僅かに瞳を瞬かせた。

 しかし、それ以上追及することはせず、小さく頷き返す。

 

 

「……ありがとうございます。これからの対応は、改めて──」

「ナギちゃん」

 

 

 ナギサの言葉を遮り、ミカが身を起こした。

 その顔を、ナギサは正面から見据えた。

 

 ミカの表情には、先ほどまでの陶酔も、嘲笑も、軽薄さもなかった。

 琥珀色の瞳に灯っているのは、底なしに深い、昏い、純粋な怒りだった。

 それは政治家が不正に対して発する義憤ではなく、もっと原始的な──大切なものを穢された者が宿す、煮えたぎるような私的な憎悪だった。

 

 

「あの子の身体に、こんなことをしたやつ……。絶対に見つけ出して、私が直接──」

「ミカさん」

 

 

 ナギサが、静かに、しかし有無を言わさぬ声で遮った。

 

 

「今は、感情に任せて動く時ではありません。エデン条約の調印を控えた今、私たちにはやるべきことが山積しています。この件の調査は、然るべき時期に、然るべき方法で行いましょう」

 

 

 ミカは唇を噛み、拳を握りしめた。

 白い指の関節が、更に白くなるほどに。

 だが、やがてその力が、ゆっくりと抜けていく。

 

 

「……わかった」

 

 

 ミカは目を閉じ、深く、長い息を吐いた。

 そして再び瞼を開けた時──そこにはもう、怒りの炎は見えなかった。

 代わりに、琥珀色の深みの中で、全く別の光が、ゆらりと立ち上っていた。

 

 

(リルくん……)

 

 

 あの子の身体は──白鍵リルという存在は、自分が想像していたよりも遥かに深い闇の底から這い出てきた生き物だった。

 ノートルダムの受難なんて、氷山の一角でしかなかった。

 

 あの子の記憶にすら存在しない時期に、誰かがあの華奢な身体を素材として弄び、戦うための道具として作り替えた。

 骨を砕き、筋を裂き、神経を繋ぎ直し、脳に殺し方を刻み込んだ。

 そんな地獄を生き延びて、何も覚えていないままトリニティに辿り着いて、孤独の中で必死に人間として生きようとしていた。

 

 あの子が戦闘中に見せる、あの恐ろしいほどに洗練された殺戮技術──あれは才能なんかじゃなかった。

 誰かに、暴力的に、刻み込まれたものだったのだ。

 

 想像を絶するほどに深い闇、こんなものを抱えるあの子は、やはり──

 

 

(あぁ……きみはやっぱり──)

 

 

 ミカの胸の奥から、先ほどの憎悪とは別のもう一つの感情が──蜜のように甘く、毒のように粘り気のある感情が、じわりと滲み出てきた。

 

 

(──やっぱり、きみは光の当たる世界じゃ生きていけない)

 

 

 怪物と呼ばれるだけじゃない。

 あの子の身体そのものが、光の下に晒してはいけない秘密で出来ている。

 この事実が世に出れば、トリニティの生徒たちはリルを怪物どころか、得体の知れない人造兵器として恐怖するだろう。

 

 彼を受け入れる場所は、光の中にはない。

 最初から、なかったのだ。

 

 

(──だから)

 

 

 ミカの唇の端が、微かに、微かに持ち上がった。

 それは笑みと呼ぶにはあまりに小さく、あまりに昏い弧だった。

 

 

(──だから、きみが安心していられる場所は、私のそばにしか……私のいる、光の当たらない日陰にしかないんだよ)

 

 

 闇を知る者だけが、共に歩ける暗がりがある。

 あの子の壊れた身体を、壊れたまま愛せるのは、自分だけだ。

 あの子の中に棲む怪物を、怪物ごと抱きしめてやれるのは、この世界で自分だけなのだ。

 

 その確信が、歓喜となって、ミカの血管の一本一本を焼くように巡っていく。

 頬が紅潮し、心臓がドクドクと甘い痛みを伴って高鳴る。

 身体の奥底から湧き上がるこの感情を、何と呼べばいいのか、ミカ自身にも分からなかった。

 

 愛なのか。

 執着なのか。

 それとも、もっとおぞましい──

 

 

「ミカさん?」

 

 

 ナギサの怪訝そうな声で、ミカは我に返った。

 いつの間にか、自分の胸元を握りしめていた手を、何食わぬ顔で離す。

 

 

「……ん? なに、ナギちゃん」

「今後の対応について、話の続きを」

「あ、うん。ごめんごめん。ちょっとぼーっとしてた」

 

 

 いつもの軽薄な笑みを貼り付け直して、ミカは肩をすくめた。

 ナギサはその反応に一瞬だけ探るような視線を向けたが、すぐに手元の書類へと意識を戻す。

 

 二人の間で、今後の方針についての事務的なやり取りが始まった。

 データの隠蔽手順、セリナへの追加指示、リルの今後について。

 それらを淡々と確認していく声が、夜のサロンに低く響いていく。

 

 バルコニーの外では、とっくに日が暮れていた。

 トリニティの尖塔群が、夜空に黒い影となって佇んでいる。

 その下に広がる学園の灯りは、いつもと変わらず穏やかに瞬いていた。

 

 誰も知らない。

 あの灯りの下で、一人の男の子が、自分自身の身体に刻まれた凄惨な過去を知らないまま、今夜も独りで眠ろうとしていることを。

 そしてその秘密の上に、二人の少女が、それぞれの思惑という名の蓋を、静かに、しかし確実に被せたということを。

 

 ティーパーティーのサロンに灯るランタンの炎が、ちらりと揺れた。

 まるで、これから始まる長い夜の幕開けを、誰かに告げるかのように。

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