ティーパーティーに銃剣を添えて   作:Agrissa

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ナギサ様メインの日常会です。


19. 白金のアガペー

 目覚めは、驚くほどに穏やかだった。

 枕元のスマートフォンが鳴らす午前7時のアラームに、ボクはすんなりと意識を浮上させる。

 昨晩、ティーパーティーのサロンで蒼い液体を見た瞬間に襲いかかってきた、あの暴力的な吐き気と、骨の芯まで凍てつくような悪寒は、まるで最初から存在しなかったかのように跡形もなく消え失せていた。

 

 身体を起こし、自分の掌を開いて閉じてみる。

 震えはない。

 指先の感覚も正常だ。

 試しに数回、大きく深呼吸をしてみたが、胃の底がせり上がるような不快感もない。

 

 背中の翼をバサリと一度広げ、畳む。

 筋肉の応答も問題なし。

 むしろ、普段よりもちょっと調子がいいくらいだ。

 

 

「……なんだったんだろ、あれ」

 

 

 あの蒼い液体を見た瞬間、身体の奥底で何かが激しく共鳴するような、得体の知れない感覚に襲われたのは確かだ。

 ボクはあれを『知っている』──そう細胞の一つ一つが叫んでいたかのような、あの異様なまでの認知。

 けれど、一晩眠った今となっては、その感覚もどこか遠い夢の残像と化したかのように霞んでしまっている。

 

 ナギサ様は、疲労のせいだと言っていた。

 初めての実戦任務で、気づかないうちに消耗していたのだろうと。

 ……その通りだったと思うことにしよう。

 あまり深く考え込んでも仕方がない。

 

 ボクはベッドを出て、いつも通り朝の身支度を始めた。

 歯磨きをしながら白銀の髪をブラシで梳かし、漆黒のシスター服に袖を通す。

 鏡の中の自分を一瞥──相変わらず、男らしさの欠片もない華奢な姿が映っている。

 

 長いベールを被り、コンバットブーツの紐を結び、玄関のドアを開ける。

 

 

「行ってきます」

 

 

 誰にともなく声を上げ、ボクはいつもの通学路を歩き始めた。

 

 

 

 

 

◆   ◇   ◆

 

 

 

 

 

 異変に気づいたのは、正門をくぐった瞬間だった。

 

 空気が、違う。

 いつもなら、ボクの姿を認めた途端に蜘蛛の子を散らすように道を空け、ヒソヒソと陰口を叩きながら露骨に距離を取っていく生徒たち。

 その光景は、入学以来一日たりとも変わらない、ボクの日常そのものだったはずだ。

 

 ──なのに、今日は様子がおかしい。

 

 避けられていることに変わりはない。

 しかし、向けられる視線の質が、昨日までとは明らかに異なっていた。

 恐怖や嫌悪だけではない。

 好奇、困惑、そして──微かだが、畏敬に近い色が、そこに混じっている。

 

 

「ねぇ、あの子……」

「掲示板のやつ、見た?」

「本当なのかしら、あれ……」

 

 

 波紋のように広がるざわめきが、ボクの通過する道に沿って連鎖していく。

 

 ──掲示板。

 その単語を耳にした瞬間、ボクの足が自然と中央棟のエントランスホールへ向かっていた。

 

 ──そこに、あった。

 

 中央棟玄関の電子掲示板。

 普段は行事予定や委員会の告知が表示されている大型モニターの全面に、ティーパーティーの公式紋章が大きく掲げられ、その下に、三本の公式声明が、荘厳なフォーマットで並んでいた。

 

 一つ目──『ティーパーティー人事のお知らせ』。

 高等部一年、白鍵リルが、ティーパーティーの正式メンバーとして加入したことの公示。

 

 二つ目──『特別情報執行局の再編について』。

 かつて解体された特別情報執行局を、ティーパーティー直轄の情報機関として再編成すること。

 長官はホストの桐藤ナギサが兼任し、白鍵リルが単独の執行官として任に就くこと。

 

 三つ目──『ノートルダムの受難に関する事実の訂正』。

 

 ボクは、三番目の声明の文面を、食い入るように読んだ。

 

 そこには、約三年前にノートルダム分校で発生した傷害事件について、当時の捜査を主導した旧パリサイ分派が重大な証拠の隠蔽と改竄を行っていたこと、事件の発端は正体不明のテロリスト集団による武装襲撃であったこと、そしてその襲撃に対し、白鍵リルが『たった一人でテロリスト集団を撃退した』という事実が、簡潔かつ明瞭な文章で記されていた。

 

「…………」

 

 ボクは、しばらくの間、その声明文を無言で見つめ続けた。

 

 『たった一人で凶悪なテロリスト集団を撃退した』。

 事実ではある。

 嘘は書かれていない。

 しかし、その表現は明らかに英雄的な色彩を帯びている。

 

 ──なるほど。

 ナギサ様は、こう来たか。

 

 トリニティの生徒たちがこの声明に目を通した時、彼女たちの脳裏に浮かぶボクの像がどう変容するか。

 『何をしでかすか分からない、管理されていない危険な怪物』から──『ティーパーティーの管理下で、トリニティを外敵から守るために機能する、恐るべき猟犬』へ。

 

 生徒たちの恐怖を完全に拭い去ることは、おそらく不可能だ。

 ボクが持つ異常な力と、ノートルダムで多くの生徒を巻き込んだ事実は消えない。

 だからこそナギサ様は、その恐怖を『排除すべき危険因子への恐怖』から『味方として頼もしい守護者への畏怖』へと、巧みに意味を書き換えようとしているのだ。

 あの正義実現委員会のリーダーである、剣先ツルギ先輩と同じように。

 

 

「……ほんと、敵わないなぁ」

 

 

 ボクはシスターベールの下で小さく苦笑し、掲示板に背を向けた。

 

 

 

 

 

◆   ◇   ◆

 

 

 

 

 

 昼休みの教室は、まるで蜂の巣を突いたような騒ぎだった。

 

 普段からボクの存在は教室の空気を変える触媒のようなものだったが、今日のそれは質も量も桁違いだった。

 朝の声明が全校生徒へと行き渡った今、白鍵リルという存在は、学園の話題を完全に独占していた。

 

 窓際の自席で力なく項垂れるボクの周囲を、同級生たちのヒソヒソ話が衛星のように周回し続けている。

 

 

「──でもさ、冤罪の部分はあったにしても、あの事件でたくさん怪我人が出たのは事実じゃん? やっぱり、関わらない方がいいって」

「そうね。ティーパーティーに入ったのも、どうせ裏で何か汚い手でも使ったのでしょう」

「ん〜……だとしても、あの怪物をティーパーティーが管理してくれるっていうなら、安心じゃない?」

「うんうん。それに、あの暴力がゲヘナみたいな野蛮な連中に向くなら、むしろ大歓迎かも」

 

 

 否定と肯定が、ほぼ半々。

 朝に見た声明の効果は、既に現れ始めているようだ。

 ナギサ様の狙い通り、『管理された猟犬』という認識が、少しずつだが浸透しつつある。

 

 

「はぁ……」

 

 

 ボクは机の上に突っ伏し、深い深いため息を吐いた。

 どんな噂を立てられようが、ナギサ様とミカ様に委ねると決めた以上、文句はない。

 あの二人が必要だと判断して公表したのなら、受け入れるだけだ。

 ……しかし、純粋にうるさい。

 

 耳に飛び込んでくる雑音の物量が、物理的に鬱陶しい。

 マリーがいてくれたら少しは気も紛れるのだが、今日に限ってシスターフッドの急用で不在だ。

 

 購買にでも行って、気分を変えよう。

 ボクは力なく身体を起こし、椅子を引いて立ち上がった。

 

 ──その瞬間だった。

 

 教室の入り口付近で交わされていた雑談の声が、ぴたりと止んだ。

 会話の消失は波紋のように広がり、数秒と経たないうちに、教室全体を不自然な静寂で包み込んだ。

 

 何事かと、ボクは怪訝に思って入り口の方を振り返る。

 

 そこに、彼女がいた。

 

 純白の制服に身を包み、プラチナブロンドの長い髪が廊下から差し込む光を受けて黄金色に輝いている。

 背筋は凛と伸び、佇まいの一つ一つに、生まれ持った気品と威厳が香り立つ。

 教室の入り口に立つその姿は、まるで額縁の中の肖像画がそのまま抜け出してきたかのようだった。

 

 ──桐藤ナギサ様。

 

 トリニティの最高権力者が、一年生の教室の入り口に、当然のような顔をして立っている。

 

 教室中が、石化した。

 

 ボクの噂で持ち切りだった同級生たちが、一人残らず口を半開きにしたまま固まっている。

 幽霊でも見たかのような、あるいはそれ以上の絶句が、教室を支配した。

 

 それも当然だろう。

 多忙を極めるティーパーティーのホストが、わざわざ下級生の教室に足を運ぶなど、トリニティの常識では考えられないことだ。

 彼女が直接姿を見せるのは、全校集会やスピーチ、派閥間の公式会議くらいのもので、一般の教室を訪れるなど前代未聞に違いない。

 

 

「ごきげんよう」

 

 

 凍りついた空間に、春風のような声が流れ込む。

 ナギサ様は教室に一歩足を踏み入れると、周囲の生徒たちに向けて完璧な微笑みを一つ配り──そして、真っ直ぐにボクの方へ歩み寄ってきた。

 

 カツ、カツ、カツ。

 

 ヒールが教室の床を打つ音だけが、静寂を規則正しく刻んでいく。

 ボクは購買に行こうとして立ち上がった中途半端な姿勢のまま、完全に硬直していた。

 

 

「リルさん」

 

 

 ボクの目の前で、ナギサ様は足を止めた。

 そして、まるで舞踏会で相手を誘い出す貴族のような、優雅で自然な仕草でこう告げた。

 

 

「よろしければ、ランチをご一緒しませんか?」

 

 

 ──教室中の視線が、一斉にボクへと突き刺さった。

 

 驚愕、羨望、困惑、嫉妬。

 ありとあらゆる感情が混ぜ合わさった数十の瞳が、ボクとナギサ様を交互に貫いている。

 泡を吹いてひっくり返りそうな生徒が何人かいるのが、視界の端に見えた。

 

 

「え、あ、その……」

 

 

 突然の事態に、思考回路が完全にショートする。

 ボクは口をパクパクと開閉させた後、半ば反射的に、臣下の礼を取ろうとした。

 

 

「い、イエス、マイ・ロ──」

 

 

 しかし、その言葉が完成するよりも早く。

 ナギサ様の白い指先が、すっとボクの唇に触れた。

 

 薄い唇の上に、柔らかく、そしてひんやりとした人差し指の腹が、ふわりと押し当てられる。

 まるで秘密を共有する合図のような、あまりにも自然で、あまりにも親密な仕草。

 

 

「──折角のランチなのですから、今くらいは堅苦しいのはナシにしましょう?」

 

 

 ナギサ様の琥珀色の瞳が、甘やかな三日月を描いて細められる。

 それは、普段の為政者然とした彼女からは想像もつかないほどの、柔らかな笑みだった。

 

 教室の温度が、何かの間違いで五度ほど上昇した気がした。

 後方で、女子生徒数名が声にならない悲鳴を上げているのが聞こえる。

 

 

「は……はいぃ」

 

 

 かろうじてそれだけ答えると、ナギサ様は満足げに微笑んで指を離し、『それでは参りましょうか』と、ごく自然にボクの隣に並んだ。

 ボクは彼女に促されるまま、呆然と足を動かして教室を出る。

 背後では、堤防が決壊したような凄まじいざわめきが爆発していた。

 

 

 

 

 

◆   ◇   ◆

 

 

 

 

 

 連れて来られたのは、トリニティ・スクエアのど真ん中だった。

 

 昼休みの庭園は、ランチを楽しむ生徒たちで最も賑わう時間帯だ。

 噴水の周囲にはグループごとにシートを広げた生徒たちが色とりどりのお弁当を囲み、石畳の上を行き交う生徒たちの談笑が、庭園の空気を華やかに彩っている。

 

 その中でもとりわけ人目につく場所──大噴水の正面、広場の中央に位置する白いベンチ。

 ナギサ様は迷うことなくそこへ向かい、ボクに隣へ座るよう促した。

 

 

「こ、ここですか? もう少し目立たない場所の方が……」

「ここが一番、風通しがよくて気持ちがいいんですよ」

 

 

 にっこりと微笑まれてしまっては、それ以上の反論は出来なかった。

 ボクは観念して、ナギサ様の隣に腰を下ろす。

 

 予想通り──いや、予想以上に、周囲の視線が痛い。

 広場のあちこちで、昼食の手を止めた生徒たちが、こちらへ視線を釘付けにしている。

 遠巻きに足を止め、スマートフォンを構えている者までいた。

 

 ティーパーティーのホストと、今朝から学園中の話題を独占している問題児が、並んでベンチに座っている。

 これ以上ない見世物だろう。

 

 

「さて、お腹が空いたでしょう?」

 

 

 ナギサ様はそんな衆目など微塵も気にしていない様子で、膝の上に置いたバスケットの蓋を開けた。

 白いリネンのナプキンを丁寧に広げると、その下から姿を現したのは、彩り豊かなサンドイッチの数々だった。

 

 きめ細やかなパンの間に、みずみずしいレタスとトマト、ジューシーなローストチキン、とろりと熟したアボカド、そして風味豊かなクリームチーズが幾重にも織りなす美しい断面。

 切り口の均一さは、もはや芸術の域に達している。

 そこへ、彩りを添えるように添えられた新鮮なフルーツと、小さな焼き菓子。

 一品一品に、作り手の丁寧さと愛情が見て取れた。

 

 

「これ、全部ナギサ様の手作りなんですか……?」

「ええ。昨日、体調を崩されていたでしょう? 栄養のあるものをと思いまして、今朝少し早起きして準備しました」

 

 

 ティーパーティーのホストが、一年坊主のために朝から弁当を作ってくるなんて、一体どんな世界線に迷い込んだのだろうか。

 

 

「そ、そんな……畏れ多いです。ナギサ様はお忙しいのに、ボクなんかのためにそこまで──」

「リルさん」

 

 

 ナギサ様が、穏やかだが有無を言わせない声色で、ボクの言葉を制した。

 

 

「せっかく貴方のために作ったのですから、食べてくれないと……私が困ってしまいます」

 

 

 困ります、と言いながら、その口元には柔らかな笑みが浮かんでいた。

 少しだけ強引で、けれどどこまでも優しい。

 親鳥が雛に餌を運ぶような、そんな慈しみが、彼女の声に滲んでいた。

 

 

「……い、いただきます」

 

 

 これ以上辞退するのは、かえって失礼になる。

 ボクは両手を合わせてから、差し出されたサンドイッチの一切れをおずおずと受け取った。

 一口、頬張る。

 

 

「……〜〜っ!」

 

 

 美味しい。

 チキンの柔らかさ、アボカドのとろける舌触り、クリームチーズの穏やかな塩気。

 全ての味が完璧に調和していて、疲弊した身体に、じんわりと沁みていくようだった。

 

 

「お口に合いましたか?」

「合いました……! なんですかこれ、プロの犯行ですか……?」

「ふふっ。犯行とは、穏やかではありませんね」

 

 

 くすくすと笑うナギサ様もまた、自分の分のサンドイッチに手を伸ばし、上品な所作で口元へと運ぶ。

 二人でサンドイッチを頬張る、穏やかな時間。

 噴水の水音と、遠くの生徒たちの笑い声がBGMになり、ベンチの周りに柔らかな空気が漂う。

 その空気にあてられてか、緊張で強張っていたボクの肩から、徐々に力が抜けていった。

 

 

「ナギサ様って、料理もお上手なんですね。ちょっと意外かもです」

「意外とは心外ですね。これでも、幼い頃から身の回りのことは一通り自分でこなしてきたんですよ? 何もかも使用人任せにしていたら、後で自分が苦労しますから」

「へぇ……。なんだかミカ様とは大違いですね。あの人は自炊なんて絶対できなさそうだし、バカのサンドイッチだし」

「ば、バカのサンドイッチ?」

 

 

 学食での一幕を知らないナギサ様が、一瞬だけ困惑の表情を浮かべた。

 しかし、すぐに口元を手で隠すようにして、小さく肩をすくめる。

 

 

「まぁ……ミカさんの自炊については、あまり褒められたものでないのは事実ですね」

「あ、やっぱり。どうしてここまで差がついたんだろ……。ナギサ様は本当に、理想の先輩って感じなのに」

 

 

 アボガドチキンサンドを頬張りながら、ボクはついポロリと本音をこぼしてしまった。

 

 直属のメンターでありながら、日々ボクの平穏を理不尽な暴力とわがままで破壊し尽くしている存在──聖園ミカ様。

 ティーパーティーへの勧誘の時にボクの成績表を盾にとったり、麻酔を嗅がせたり、イチゴを強奪したりとやりたい放題やってくれた彼女の姿を思い出し、ボクは深くため息をついた。

 

 

「あら。ミカさんにも、良いところはたくさんあるんですよ?」

 

 

 しかし、ナギサ様はティーポットから温かい紅茶を注ぎながら、幼馴染をかばうようにクスリと笑った。

 

 

「彼女はああ見えて、とても友達思いで、気が利くところもあるんです。例えば先日は、私が気になっていた新作の限定スイーツを、わざわざ私の分まで買いに行ってくれたりしましたし」

「ミカ様がそんなことを? 意外とマトモなところもあるんですね」

 

 

 傍若無人なワガママお嬢様の顔ばかり見ているボクには、到底想像もつかない姿だ。

 

 

(……でも確かに、大して関わりのなかったボクの手を引っ張ってくれたり、本気で寄り添ってくれたり……時々信じられないくらい優しくなるんだよね、あの人)

 

 

 実際、その優しさがボクにとって救いとなっている部分もあるので、共感できなくもない。

 ……悔しいから、あまり認めたくはないけれど。

 

 そんなことを考えていると──

 

 

「──ああ。でも結局、両方ともミカさんが完食したんでしたっけ。……わざわざ私に見せつけるようにして」

「え゛」

 

 

 ミカ様を擁護するために掛けたはずの梯子を、なんとナギサ様自らが粉砕してしまった。

 気品漂う笑みを貼り付けたままなのが、ちょっと怖い。

 ……なんだか、会話の雲行きが怪しくなってきた。

 

 

「昨日なんてリルさんが帰った後、私が書類仕事で肩を凝らせているのを見て、自ら肩揉みをしてくれましてね」

「そ、そうなんですかぁ。とっても気が利くんですね」

 

 

 急に立ち込めてきた暗雲におどおどしながら、ボクは棒読みの相槌を返す。

 

 

「ええ。お陰様で、両肩の骨が完全に粉砕されるかと思いました」

「…………」

 

 

 その言葉にボクは、口元にサンドイッチを運ぶ手をピタリと止めた。

 ナギサ様は、シミ一つない額に青筋をピキリと立てた。

 どうやら、ボクは気がつかないうちに、彼女の地雷を踏み抜いてしまっていたらしい。

 

 

「『ナギちゃん、ガチガチじゃん! 私がほぐしてあげる!』と、満面の笑みで言われましてね。彼女の親指が私の僧帽筋に食い込んだ瞬間、油圧プレス機に挟まれたかのような絶望を味わいました。あやうく三途の川の向こうで、ヒフミさんが手を振っている幻覚を見るところでしたよ」

「え、えっと……」

「悲鳴を上げる間もありませんでした。昨晩は両肩に湿布を四枚ずつ貼って、鎮痛剤を飲んで気絶するように眠りました」

 

 

 ナギサ様の顔からは、先ほどまでの『理想の先輩』のオーラはとうに消え失せていた。

 代わりに浮かび上がったのは、光の宿っていない、虚無のような昏い瞳。

 

 

「そ、それは……大変でしたね。でも、悪気はなかったんでしょうし……」

「そうですね。今朝も、彼女なりの善意は見せてくれました。私が大切にしている、アンティークのティーカップコレクションがありまして。彼女が『私が綺麗に洗っといてあげる!』と言ってくれたのですが」

「わぁっ! 家庭的な一面もあるんですねっ!」

 

 

 最初にミカ様をディスったのはボクなのに、いつの間にかフォローする側になっている。

 しかし、そんな配慮は、ナギサ様の一言で一瞬のうちに吹き飛ばされる。

 

 

「業務用の高圧洗浄機で、です」

 

 

 ボクは手に持っていたサンドイッチを、危うく地面に落としそうになった。

 

 

「高圧……洗浄機?」

「はい。トリニティの校舎の外壁を清掃する時に使う、あのバズーカのような機械です。私のマイセンのヴィンテージカップが、水圧に耐えきれず一瞬にして『白い粉末』へと還りました」

「ひぃん……」

「『ピカピカになったよ!』と、無邪気な笑顔でその粉を手渡された私の気持ちが、貴方に分かりますか、リルさん……?」

 

 

 ナギサ様の手が、小刻みに震え始めていた。

 その震えは、彼女が握るサンドイッチにも伝染していく。

 

 

「あ、あの! ナギサ様、落ち着いてください! 手の中のトマトサンドが、ものすごい力で圧縮されてます! トマトが泣いてます!」

「さらに一昨日! 私が執務室の換気をしようとしたら、彼女、『手伝うよ☆』と言って、窓枠ごと壁から素手で引き剥がしたんですよ!? 『こっちの方が風通しがいいでしょ!』じゃありませんッ! お陰で執務室が一日中オープンカフェ状態でした!」

「ナギサ様ぁ! トマトが! トマトがスプラッター映画みたいになってますぅぅッ!」

 

 

 ボクの必死の制止も虚しく、ナギサ様は完全に感情のリミッターが外れてしまっていた。

 美しい庭園に、トリニティ最高権力者のドス黒い怨嗟の声が響き渡る。

 

 

「先週の派閥間合同会議でも! ペテロ分派の代表が演説している最中に、あの人はこっそりスマホでゲームをしていたんですよ!? しかも音量をマックスにしたまま! 議場中にガチャを回す音が響き渡る中、ペテロの首長が般若みたいな形相でこちらを睨んでいて! あの時の胃痛は今でも忘れられません!」

「ひんひん……」

 

 

 ナギサ様の怒気にあてられて縮み上がったボクは、最早情けない声を上げることしかできない。

 

 

「極めつけは先月です! 私が寝不足でうたた寝をしている間に、私の髪の毛を三つ編みにしてくれたのは百歩譲って許しましょう! ですが、なぜそれを椅子の背もたれと強固に結びつけたのですか!? おかげで目を覚まして立ち上がった瞬間、危うく自分の髪の毛で首の骨を折るところでした!!」

 

 

 ダァンッ!!

 ナギサ様が、既に原形をとどめていないトマトサンドを、無慈悲にランチボックスへと叩きつけた。

 

 

「……はぁ、はぁ、はぁっ……」

 

 

 肩で激しく息をするナギサ様。

 そのプラチナブロンドの髪は乱れに乱れ、まるで山姥のような有様だった。

 

 ボクは、ただただ圧倒されていた。

 ボクが受けた『麻酔を嗅がされる』『イチゴを奪われる』といった被害など、彼女の受けているテロの数々に比べれば、赤子に等しいレベルだった。

 

 

「……ナギサ様」

 

 

 ボクは、静かに自分のハンカチを取り出し、そっと彼女に差し出した。

 

 

「お辛かったですね……。ボクでよければ、いつでも愚痴、聞きますから」

「……っ、リルさぁん……っ」

 

 

 ナギサ様はハンカチを受け取ると、令嬢としての体面も忘れ、目元を押さえて小さくすすり泣き始めた。

 ボクは彼女の背中を、自分の翼で優しくすりすりと撫でてあげる。

 そこにはもう、ティーパーティーのホストと執行官という上下関係は存在しなかった。

 ただ、同じ巨大な理不尽(トリニティピンクゴリラ)によって日常を破壊され続ける『被害者』としての、固く、深く、切実な連帯感だけが、二人の間に芽生えていた。

 

 

「……次は、一体何をされるのでしょう。もう、朝起きるのが怖いです……」

「大丈夫です、ナギサ様。今度ミカ様が暴れたら、ボクが全力で隙を作ります。その間に、ナギサ様はあの特製ロールケーキをあの人の口にねじ込んでください」

「……はい。ええ、必ず。……ふふっ」

 

 

 涙を拭いながら、ナギサ様がようやく小さな笑い声を漏らした。

 ボクもつられて、ふっと笑みをこぼす。

 

 傍から見れば、学園のトップと恐れられる怪物が、ベンチで並んで愚痴をこぼし合っているだけの奇妙な光景だろう。

 でも、こうして二人で不満をぶちまけ合っているこの時間は──なんだか、普通の高校生に戻れたみたいで、少しだけ居心地が良かった。

 

 

 

 

 

◆   ◇   ◆

 

 

 

 

 

 ナギサはリルにハンカチを返すと、海溝よりも深いため息を吐いた。

 嵐の後の凪のように、怒りが燃え尽きた後の、果てしない疲弊が彼女の肩に降り積もっていく。

 

 

「……すみません、リルさん。後輩の前で、みっともない姿を」

「い、いえ。全然」

「ミカさんの話題になったことで、ついこれまでの鬱憤を爆発させてしまいました。ホストがこんな調子では、リルさんを失望させてしまいますね……」

「そんなこと……」

 

 

 ナギサの言葉にリルは小さく首を横に振り、そして──ほんの少しだけ、寂しそうにその目を伏せた。

 

 

「……むしろ、ちょっとだけ、羨ましいなって」

「羨ましい?」

「ナギサ様とミカ様の関係って、こんなにめちゃくちゃなのに……ちゃんと『友達』なんだなぁって。あんなに遠慮なく怒ったりぶつかったりできるのって、本当に信頼し合ってるからこそですよね」

 

 

 そう言って、リルはベンチの背もたれに身体を預け、噴水の向こうに広がる青空を見上げた。

 その横顔には、誰かの輪の中に入りたくて入れなかった子供の、静かな憧憬が透けていた。

 

 

「ボクには、そういう関係ってなかったから。……だから、ちょっと眩しいなって」

 

 

 ナギサは、風に揺れるリルの白銀の髪と、空を映すアクアマリンの瞳をしばし見つめていた。

 やがて、ふっと柔らかく口元を緩めて、静かに言った。

 

 

「リルさん。それは……過去形にしなくてはいけませんね」

「え?」

「羨ましかった、と。もう、過去形ですよ」

 

 

 ナギサは穏やかに、けれど確かな力を込めて、リルの目を真っ直ぐに見つめ返した。

 

 

「だって、貴方はもう……その輪の中にいるのですから。ミカさんと、私と──同じ場所に」

 

 

 リルの瞳が、わずかに見開かれた。

 その白い頬に、淡い朱が差す。

 照れくさそうに視線を泳がせ、口元をもごもごと動かすが、うまく言葉が出てこないらしい。

 俯いた横顔を、白銀の長い髪が隠すように垂れる。

 

 ──ぱたぱた。

 

 言葉にならない感情を代弁するように、リルの背中の翼が、小さく、嬉しそうに羽ばたいた。

 

 ナギサは、その光景を見て──こらえきれず、小さく吹き出した。

 

 

「ふふっ」

「な、なんですかっ」

「いえ。貴方の翼はいつも正直ですね、と思いまして」

「ぅ……っ、これは、その、風圧テスト──」

「あと、リルさん」

「は、はい」

「頬に、パンくずが付いていますよ」

 

 

 ナギサが指先を伸ばし、リルの白い頬に付着した小さなパンの欠片を、そっと摘まみ取った。

 再び、彼の頬に朱が差す。

 そんな無垢な反応に、ナギサは思わず胸を締め付けられる。

 

 彼が、小さなお口でリスのようにサンドイッチを頬張る姿。

 ほんのちょっとの言葉で頬を染める純真な反応。

 素直になれない感情を翼に暴露されて、慌てふためく仕草。

 

 ──それら全てが、どうしようもなく、愛らしい。

 

 お嬢様学校であるトリニティ総合学園は、面目やプライドを保つために、上辺だけの仮面を被って体面を取り繕う生徒が多数を占めている。

 特に、ナギサが身を置く政治の世界ではそれが顕著だ。

 だから、リルのように純真無垢な生徒には、彼女はどうしても構いたくなってしまう。

 ミカが言っていた、『好みのタイプ』と言う指摘はあながち間違いではなかったのだ。

 

 

(ああ……。私としたことが、ここまで心を掻き乱されるだなんて……)

 

 

 ナギサの胸の奥で、母性と呼ぶほかないものが、温かな潮のように満ちていく。

 この子を守りたい、と思う。

 この子に笑っていてほしい、と思う。

 庇護欲が、為政者としての自制を蕩かすように溢れ出してくる。

 

 ──しかし、その柔らかな感情のすぐ裏側を、冷たい刃のような記憶が掠めた。

 

 昨夜、セリナが持ち込んだMRIの画像。

 白黒の濃淡で映し出された、あの凄惨な所見。

 人為的に破壊と修復を繰り返された筋繊維。

 成長期の骨を砕いて作り替えた、異常な骨格構造。

 脳に直接刻み込まれた、殺戮のための戦闘技術。

 

 こんなにも小さくて、こんなにも愛らしい身体の下に。

 誰かが施した、地獄の痕跡が埋まっている。

 

 その事実と、自分が今、この子をティーパーティーの政治的な駒として利用しているという現実が、ナギサの胃を鬼の手で握り締めるように、じくりと締め付けた。

 罪悪感と自己嫌悪が、胸の一番柔らかい部分に深く食い込む。

 

 

(──せめて)

 

 

 ナギサは、小さな子供のようにサンドイッチを頬張るリルの横顔を見つめながら、心の奥底で、誰にも聞こえない声で誓った。

 

 

(せめてもの罪滅ぼしとして。この子が少しでも幸せな青春を送れるように……この子にとっての絶対的な『盾』に、私はなりましょう)

 

 

 リルを政治の道具として利用する罪は、もう背負ってしまった。

 今更、聖女のように振る舞うことはできない。

 ならばせめて、この子が誰かに傷つけられた時に、その傷を庇えるだけの壁になろう。

 どんな噂も、どんな悪意も、この子に傷を負わせる前に、全て自分が受け止めよう。

 

 それが、桐藤ナギサという政治家に許された、唯一の誠意だった。

 

 

「──ナギサ様」

 

 

 リルの声で、ナギサは思考の淵から引き戻された。

 目の前では、リルが空になったバスケットを律儀に片付けながら、不思議そうにこちらを見上げていた。

 

 

「ありがとうございました、とっても美味しかったです。……でも、少しだけ気になっていたんですけど」

「何でしょう?」

「多忙なナギサ様が、ただの食事のためにわざわざボクを教室まで迎えに来たとは……正直、思えないんです」

 

 

 アクアマリンの瞳が、穏やかだが、どこか探るような光を帯びてナギサを見つめている。

 

 

「……本題は、何ですか?」

 

 

 ──やはり、この子は鋭い。

 

 ナギサは内心で苦笑した。

 普段の、達観しつつも子供っぽい側面に騙されがちだが、リルは自分が思っている以上に、他者の意図を読む力を持っている。

 

 

「ふふっ。そうですね……強いて言うなら」

 

 

 ナギサは微笑みながら、視線をベンチの周囲へと流した。

 広場のあちこちに、先ほどから遠巻きにこちらを見ている生徒たちの姿がある。

 昼食の手を止め、あるいは通りがかりに足を止め、二人の様子をチラチラと窺っている。

 

 

「──あれ、ですかね」

 

 

 ナギサの目線の先を辿ったリルの耳に、そこかしこから漏れ聞こえる囁き声が届いてきた。

 

 

「なんか……仲良さそうじゃない?」

「ナギサ様があんなに親しそうに、無防備に接してるなら……実は、悪い子じゃないのかも?」

「怪物って聞いてましたけど、今見たら……なんだか、ただのかわいい男の子ですね……」

 

 

 リルの手が、膝の上で止まった。

 そして、すべてが──繋がった。

 

 わざわざ教室まで迎えに来たこと。

 唇に指を当てるような、親密な仕草を躊躇なく見せたこと。

 一番目立つベンチに陣取ったこと。

 衆人環視の中で、手作りのサンドイッチを振る舞ったこと。

 

 その全てが──トリニティのトップである桐藤ナギサが、白鍵リルに対して全幅の信頼を置いている、ということを、生徒たちの目に焼き付けるための、計算し尽くされた『政治的パフォーマンス』だった。

 

 ナギサは、午前中に公式声明で生徒たちの認識を書き換え──そして午後は、自らの身体を使って、リルへの信頼を『視覚化』してみせた。

 

 言葉で伝える以上に、行動で示す方が、人の心は動く。

 ナギサがリルの隣で穏やかに笑い、彼と食事を共にし、何の警戒もなく触れ合っている姿──それは、どんな公式声明よりも雄弁に、『この子は安全だ』と物語っていた。

 

 

「ナギサ様……。全部、計算ずくだったんですね」

「……さて。何のことでしょう」

 

 

 ナギサは白々しくとぼけてみせたが、その口元に浮かぶ微笑みは、全てを肯定していた。

 

 リルは数秒の間、噴水の水音に耳を澄ませるように黙り込んでいた。

 やがて──

 

 シスターベールの下で、白銀の前髪が目元を隠すように垂れる。

 その奥で、アクアマリンの瞳がゆらりと揺れて、わずかに潤んでいるのが、ナギサには見えた。

 

 

「……ありがとう、ございます」

 

 

 消え入りそうな声だった。

 リルは自分の膝の上を見つめたまま、震える声で言葉を続ける。

 

 

「ボクのために……こんなに、色々と……」

 

 

 それ以上は、喉がつかえたように声にならなかった。

 俯いたまま、シスター服のスカートをぎゅっと握りしめる華奢な指先が、かすかに震えている。

 

 ナギサは何も言わなかった。

 言葉の代わりに温かな掌で、リルのシスターベールの上から、白銀の頭をそっと撫でた。

 慈しむように、愛おしむように、ゆっくりと。

 壊れやすい宝物を扱うかのように。

 

 リルの身体から、ほんの少しだけ強張りが抜けた。

 それを確かめるように、ナギサはもう一度、優しく、彼の髪を梳いた。

 

 噴水の水音が、途切れることなく響いている。

 木漏れ日が二人の上にまだらな光を落とし、薔薇の香りを乗せた風が、白銀とプラチナブロンドの髪を一緒に揺らしていた。

 

 二人を遠巻きに眺めていた生徒の一人が、傍らの友人にぽつりと漏らした。

 

 

「……なんだろう。あの二人を見てたら、怖いとかじゃなくて……なんか、ちょっとほっこりするね」

 

 

 その小さな呟きが、トリニティの空に溶けて消えていく。

 それは、白鍵リルを取り巻く世界が、ほんの僅かに──しかし、確かに動き始めた証だった。




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