ティーパーティーに銃剣を添えて   作:Agrissa

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02. O beata Trinitas

 教室の扉を開けると、そこはまるで蓋を開けたおもちゃ箱のようだった。

 授業開始前の、もっとも騒がしいひと時。

 香水と紅茶、そして古い紙の匂いが入り混じった教室の空気は、トリニティ総合学園という場所の縮図のようでもある。

 

 

「ねえねえ! サミュエラから新作が出たらしいよ!」

「ほんとに!?」

「放課後はコスメショップに直行ね!」

 

 

 飛び交う談笑、あちこちで花咲く雑談。

 平和で、華やかで、そしてどこか残酷なまでに青春そのものの光景。

 その光の中に、ボクという異物が混ざり込む。

 

 ボクが足を踏み入れた瞬間、入り口付近にいた数人の生徒が、目に見えて表情を強張らせた。

 まるで、綺麗な水槽に一滴の黒インクが落ちたかのように、さざ波のような拒絶が広がる。

 

 けれど、それも一瞬のこと。

 彼女たちはすぐに興味を失ったように視線を逸らし、また自分たちの世界へと戻っていく。

 腫れ物には触らない。

 見なかったことにする。

 それが、このトリニティにおけるボクの扱いだ。

 

 ボクは視線を床に落とし、自分の席へと向かう。

 漆黒のロングスカートとシスターベールが、歩くたびにふわりと揺れる。

 

 誰とも目を合わせない。

 誰の言葉も拾わない。

 そうやって殻に閉じこもるのが、ボクの処世術。

 

 ──しかし、そこには例外もある。

 

 

「おはようございます、リルくんっ」

 

 

 窓際の自席に鞄を置いた瞬間、鈴を転がしたような澄んだ声が、ボクの鼓膜を優しく震わせた。

 その声に引かれるように顔を上げる。

 そこには、朝の陽光を背負い、柔らかな微笑みを浮かべる一人のシスターの姿があった。

 

 オレンジブロンドの髪に、猫耳の形をした特徴的なシスターベール。

 清楚という言葉に服を着せたかのような佇まいの彼女は、“伊落マリー”。

 奇人変人が跋扈し、陰謀と策謀が渦巻くこのトリニティにおいて、奇跡のような誠実さと慈愛を持った生徒だ。

 そして、中等部から縁が続く、ボクにとって唯一の友人でもある。

 

 

「おはよ、マリー。今日も早いね」

 

 

 ボクが席に腰を下ろすと、彼女は嬉しそうに目を細めた。

 まるで、飼い主の帰りを待っていた子犬のような、無防備な信頼の色。

 それがボクには眩しくて、同時に少しだけ胸が締め付けられる。

 

 

「はい。シスターフッドでは、毎朝奉仕活動がありますから。今日は大聖堂の回廊と、中庭の清掃をしてきました」

「そっか。ご苦労さま。午後にはミサもあるのに、ほんとに熱心だね」

「いえっ、好きでやっていることなので。それに、清々しい朝日を浴びながらの奉仕活動は、心が洗われるようで、とっても気持ちがいいんですよ?」

 

 

 ふふっ、と笑うマリーの表情に、嘘偽りはない。

 “シスターフッド”──それは、トリニティ総合学園における一大派閥であり、大聖堂の管理やミサの運営、生徒の悩み相談などを担う慈善団体のような部活だ。

 ボクもかつて、その末席に名を連ねていたことがある。

 

 ──侍者会。

 シスターフッドの下部組織にあたるそこで、ボクは今と同じ漆黒のシスター服を纏い、祈りを捧げ、奉仕に汗を流していた。

 あの頃は、ボクもマリーと同じように、純粋な気持ちで誰かのために動くことができていたのだろうか。

 今となっては、遠い昔の夢のようだ。

 血と硝煙に塗れたあの事件を境に、ボクはその資格を喪ったのだから。

 

 

「リルくんも、今度ご一緒にいかがですか? 久しぶりに身体を動かすのも、悪くないと思いますよ」

 

 

 マリーの誘いは、あくまで自然だ。

 ボクが孤立しないように、さりげなく手を差し伸べてくれているのが痛いほど分かる。

 

 

「……遠慮しとくよ。ボクが行ったら、せっかくの神聖な朝の空気が濁っちゃう」

「そんなことは──!」

「それに、ボクはもう部外者だからね。……それよりも、マリーの方こそ大丈夫? また先輩から山のような仕事を押し付けられてない?」

 

 

 話題を逸らすように、わざと軽口を叩く。

 マリーが目を丸くした。

 

 

「えっ? サクラコ様のことですか?」

「そ。あの人、真面目すぎるから。周りにも自分と同じ熱量を求めちゃうとこあるでしょ」

 

 

 “歌住サクラコ”先輩──シスターフッドの長を務める人物。

 威厳と高潔さを兼ね備えた彼女は、学内でも恐れ多い存在として知られているが、その実、少しばかり不器用で天然なところがあることを、ボクは知っている。

 そして、一度『こう』と決めたら一直線に突き進む、困った行動力の持ち主であることも。

 

 

「ふふ、心配してくれてありがとうございます。でも、大丈夫ですよ。サクラコ様は、色々と誤解されがちですけど……ちゃんと部員一人ひとりのことを見てくれる方です。無茶な要求はしませんから」

「なら、いいんだけどね」

 

 

 マリーの信頼しきった表情に、ボクは苦笑する。

 確かに、彼女は悪い人ではない。

 むしろ、お人好しすぎるくらいだ。

 ボクのような問題児に、今でも目をかけてくれるのだから。

 

 

「あっ、そうだ! そのサクラコ様から、リルくんに伝言が」

「……嫌な予感しかしないけど、なぁに?」

 

 

 マリーがポンと手を打ち、思い出したように言った。

 その無邪気な仕草に、ボクの背筋に冷たいものが走る。

 

 

「『午後のミサで、一曲お願いします』だそうです」

 

 

 ──やっぱり。

 予想通りの内容に、ボクは小さく、けれど重たい溜息をついた。

 机に突っ伏したくなる衝動を堪え、天井を仰ぐ。

 

 

「またぁ? 先週も歌わされたばかりなのに」

「それだけ、リルくんの歌声が必要とされているということですよ。……それと、ミサの後で『大事なお話』があるそうです」

「大事なお話?」

「はい。内容は……ごめんなさい、私にも詳しくは……」

 

 

 マリーが申し訳なさそうに眉を下げる。

 サクラコ先輩からの『大事な話』。

 十中八九、ロクなことではないだろう。

 あのお説教好きな先輩のことだ。またボクの生活態度について苦言を呈するか、あるいは厄介ごとを持ち込んでくるに違いない。

 

 逃げ出したい。

 けれど、ボクには断る権利なんてない。

 孤立無援のボクが、こうしてまだ学園生活を送れているのは、シスターフッド──とりわけサクラコ先輩とマリーが、陰に日向に庇ってくれているからだ。

 

 

「……はあ。分かったよ。サクラコ先輩の頼みなら、断れないしね」

「ありがとうございます、リルくん!」

「お礼なんていいよ。……ただの、罪滅ぼしみたいなものだから」

 

 

 最後の言葉は、マリーには聞こえないほどの小声で呟いた。

 そう、これは奉仕ではない。贖罪だ。

 ボクのような怪物が、この学園で唯一許された『人間らしい振る舞い』。

 それは、歌うことだけなのだから。

 

 

 

 

 

◆   ◇   ◆

 

 

 

 

 

「──O beata, O beata, benedicta et gloriosa Trinitas」

 

 

 トリニティ大聖堂。

 数多のステンドグラスが埋め込まれた高いドーム天井に、その歌声は吸い込まれ、そして降り注ぐ光の粒子となって満ちていく。

 

 

「──O beata, O beata, benedicta et gloriosa Trinitas」

 

 

 祭壇の中央。

 パイプオルガンの荘厳な響きを背に、一人の男の子が立っていた。

 

 ──白鍵リル。

 漆黒のシスター服に身を包み、胸の前で白く華奢な指を組むその姿は、この世の不浄を一切知らぬ聖女のようにも、あるいは神に仕える使いのようにも見えた。

 

 

「──O Pater Filius, O Spiritus sanctus, sanctus」

 

 

 膝まで届く白銀の長髪が、微かな空気の揺らぎに合わせてさらさらと舞う。

 伏せられた長い睫毛が震え、その隙間から覗くアクアマリンの瞳は、どこか遠く、ここではない何処かを見つめているようだ。

 頭上に浮かぶ、ト音記号を模した空色のヘイローが、歌声に呼応するように淡く、柔らかく脈動する。

 

 その背中には、純白の翼。

 一枚一枚の羽根が光を透過し、まるで自らが発光しているかのような神々しさを放っていた。

 

 

「……綺麗……」

 

 

 参列していた生徒の一人が、恍惚とした吐息を漏らす。

 普段は、彼を怪物と恐れ忌避する彼女たちも、今この瞬間だけは、その美しさと歌声に魂を奪われていた。

 

 リルの歌声には、不思議な力がある。

 透き通るようなソプラノは、聴く者の鼓膜を優しく撫で、心の澱を洗い流していく。

 それだけではない。

 彼の歌を聴いていると、身体の底から温かい力が湧いてくるような、不思議な感覚に包まれるのだ。

 疲労が癒え、思考がクリアになり、まるで生まれ変わったかのような高揚感。

 

 それは、歌っている彼自身も自覚していない特別な力。

 彼が歌うたび、参列者たちのヘイローもまた、共鳴するように淡い光を帯びていく。

 

 

「──Alleluja」

 

「──Alleluja」

 

 

 天上から降り注ぐような高音が、大聖堂の空気を震わせる。

 それは祈りであり、願いであり、そして悲痛なまでの叫びでもあった。

 

 誰も傷つけたくない。誰にも拒絶されたくない。

 そんな幼い魂の独白が、旋律となって世界に溶けていく。

 

 

「──Beata Trinitas」

 

 

 最後の一節が、絹糸がほどけるように静かに消えていく。

 パイプオルガンが終奏を告げ、完全なる静寂が訪れた。

 

 誰も言葉を発しない。

 動くことさえ忘れている。

 ただ、圧倒的な“聖”の余韻だけが、そこに在った。

 

 

 

 

 

◆   ◇   ◆

 

 

 

 

 

 歌い終えたボクは、ふう、と小さく息を吐き出した。

 祭壇の上から見る景色は、いつ見ても独特だ。

 数えきれないほどの視線がボクに注がれているけれど、そこにはいつものような敵意や恐怖はない。

 あるのは、純粋な称賛と、陶酔。

 

 ……皮肉なものだ。

 普段はボクを怪物扱いするくせに、歌っている時だけは天使を見るような目で見るなんて。

 自分の中にある二面性に、少しだけ自嘲的な笑みが浮かびそうになるのを堪え、ボクは恭しく一礼をした。

 

 参列者たちが退出し、大聖堂に静けさが戻る。

 緊張の糸が切れ、どっと疲れが押し寄せてきた。

 

 歌うことは好きだ。

 歌っている間だけは、憂鬱な記憶や空虚な現実を忘れられるから。

 けれど同時に、得体の知れないエネルギーを使っているような、魂を削っているような疲労感もある。

 

 

「お疲れ様でした、リル。相変わらず、見事な歌声でしたよ」

「リルくん! 素敵でした……! なんだか、身体がポカポカします」

 

 

 祭壇の袖から、サクラコ先輩とマリーが歩み寄ってきた。

 マリーは興奮冷めやらぬ様子で頬を紅潮させ、サクラコ先輩も満足げに頷いている。

 

 

「いえいえ。歌うこと自体は好きなので、このくらいなら別に」

「でしたらいっそ、シスターフッドに戻ってきては? その方が、私も依頼する手間が省けて助かります」

「ボクがシスターフッドに? あはっ、冗談は敵対派閥に銀貨三十枚を握らせてそうな、そのオーラだけにしてくださいよぉ」

 

 

 かつてシスターフッドの侍者会に所属していたボクだが、中等部での事件を機に、自主的に退部している。

 悪評まみれのボクがあそこに残り続ければ、彼女たちの評判まで傷つけかねなかったから。

 主犯のボクはともかく、無関係の人たちにまで十字架を背負わせるのはごめんだった。

 だから、たとえヨルダン川が逆流したって、復帰はあり得ない。

 

 ボクは軽快なトリニティジョークでさらりとお誘いをかわしながら、祭壇のステップを降りる。

 しかし、そのセンスがお気に召さなかったのか、先輩はカツカツとヒールを鳴らしながら距離を詰めてくると、ノーモーションでボクの頬をつねり上げた。

 

 

「ったああぁぁい!」

「うふふ。人のコンプレックスを削岩機で掘り起こすような真似をして楽しいですか?」

「さ、サクラコ様っ! どうか心を穏やかに……!」

 

 

 サクラコ先輩の腕にしがみつき、必死に静止しようとするマリー。

 

 しかし、サクラコ先輩はすぐにはボクを解放せず、じっとこちらの顔を覗き込んできた。

 そのアメジストのような瞳に見据えられると、まるで心の中まで透視されているようで居心地が悪い。

 

 

「……リル。貴方、また少し痩せたのではありませんか?」

「え? そ、そうですか? 自分じゃ分かりませんけど」

「頬のお肉が以前より落ちています。ちゃんと食事は摂っているのですか? 栄養バランスを考えたものを食べなくては、その小さな体では持ちませんよ」

 

 

 サクラコ先輩の両手が、ボクの頬に添えられる。

 ひんやりとした革手袋の感触。

 彼女はそのまま、親指と人差し指でボクの頬肉をむにっと摘まみ上げた。

 

 

「んぅ……っ! せ、せんふぁい……!」

「肌の色も白すぎます。まるで雪女ですね。もっと日に当たって、健康的な生活を心がけなさい」

「よ、余計なお世話ですぅ……! あと、雪女はやめてください……! ボクは男です……!」

 

 

 抗議の声を上げるも、先輩は離してくれない。

 むしろ、摘まむ力が少し強くなった気がする。

 隣ではマリーが『あわわ……』と困ったようにオロオロしている。

 

 

「口答えをする元気はあるようですね。……まったく、貴方は放っておくとすぐに消えてしまいそうで、目が離せません」

「んもう、子猫ですかボクは……」

 

 

 ようやく解放された頬をさすりながら、ボクは唇を尖らせる。

 サクラコ先輩は、いつもこうだ。

 シスターフッドの長として接する時は厳しいけれど、個人的な付き合いでは、妙に距離が近い。

 まるで、手のかかる弟か何かだと思っているみたいに。

 

 ボクが他の生徒と比較して小柄なことや、童顔であることを気にしているのを知っていて、わざと子供扱いしている節がある。

 ……まあ、別に嫌というわけではないけれど。

 ボクのような危険人物に、こうして無防備に触れてくれるのは、世界でこの二人くらいなのだから。

 

 

「それで、要件はなんですか? 大事な話があるって朝にマリーから聞きましたけど」

「ああ、そうでした」

 

 

 サクラコ先輩は表情を引き締め、空気を切り替える。

 その纏う気配が、一瞬にして為政者のそれに変わった。

 

 

「リル。貴方、まだどの部活にも所属していないようですね」

「……やっぱりその話ですか」

 

 

 ボクは露骨に顔をしかめた。

 サクラコ先輩は、ボクがシスターフッドを退部して以降、事あるごとにこの話を振ってくる。

 

 

「さっきも言いましたけど、部活なんて入る気ないです。今更どこに入ったって、周りが迷惑するだけですもん」

「迷惑かどうかを決めるのは貴方ではありません。受け入れる側です」

「じゃあ聞きますけど、ボクみたいな七囚人予備軍を受け入れてくれる奇特な部活が、このトリニティにあると思います?」

「ありますよ。探そうとしていないだけです」

「……ぅ」

 

 

 先輩の言葉は正論だ。

 でも、正論で人が動けるなら苦労はしない。

 

 

「リル。あの事件から、もう三年が経とうとしています」

「……だから、なんですか」

「そろそろ、前に進んでも良いのではありませんか? いつまでも過去の亡霊に囚われていては、貴方の時間が腐ってしまいます」

 

 

 サクラコ先輩の声は、厳しくも温かい。

 彼女が本気でボクの身を案じてくれていることは、痛いほど伝わってくる。

 

 ──シスターフッドへの復帰が気まずいのなら、他の部活でもいい。

 ──とにかく、人との関わりを持ってほしい。

 ──普通の学生らしい青春を送ってほしい。

 

 それが、彼女の願いなのだろう。

 

 でも、それはできない。

 ボクの中には、制御できない怪物が棲んでいる。

 もしまた、誰かと親しくなって、その人を傷つけてしまったら?

 もしまた、力が暴発して、取り返しのつかないことをしてしまったら?

 

 ボクの手は、祈るためにあるんじゃない。

 触れるもの全てを壊す汚れた手だ。

 そんな手で、誰かと繋がることなんて許されない。

 

 

「……無理ですよ、先輩」

「リル……」

「ボクは、今のままでいいんです。誰とも関わらず、ひっそりと卒業を待つ。それが、ボクにとっても、トリニティにとっても一番平和な道なんです」

 

 

 ボクは視線を逸らし、かぶりを振る。

 自分の言葉が、ただの現実逃避や逃げの類であることは分かっている。

 それでも、ボクにはそうすることしか出来ないのだ。

 

 そんなボクの弱さを見抜いているのか、サクラコ先輩は小さく溜息をついた。

 

 

「頑固ですね。……まあ、貴方がそう言うだろうとは予想していました」

「なら、この話はこれで──」

「ですが、今回は私も引き下がるわけにはいきません」

 

 

 先輩は一歩前に踏み出し、ボクの瞳を真っ直ぐに見据えた。

 その強い眼差しに、思わずたじろぐ。

 

 

「実は、貴方に会いたがっている生徒がいます」

「……え?」

「明後日の放課後、その方がここ、大聖堂の応接室にいらっしゃいます。一度、話だけでも聞いてみなさい」

「は……ぇ?」

「端的に言うと、進路相談ですね」

 

 

 進路相談。

 その響きに、ボクは眉をひそめる。

 教師でもない相手と進路相談?

 一体、誰が、何のために。

 

 

「だ、誰なんですか? その物好きは」

「それは会ってからのお楽しみです」

「ていうか待ってください。ボクはそんな話、受けるつもりは──」

「もうアポイントメントは取りました。お相手は多忙な方です。ドタキャンなどすれば、私の顔に泥を塗ることになりますよ?」

「うぐ……っ」

 

 

 なんという卑怯な手口。

 恩人を無下にできないという、ボクの弱点を的確に突いてくる。

 この人は、聖職者の皮を被った策士だ。

 

 

「……はぁ。分かりましたよ。行けばいいんでしょう、行けば」

「ええ、お願いしますね。きっと、悪い話ではないはずです」

 

 

 サクラコ先輩は満足そうに微笑むと、『では、私は聖務に戻ります』と一言残して、颯爽と踵を返した。

 その背中からは、『計画通り』という心の声が聞こえてきそうだ。

 

 残されたボクは、がっくりと肩を落とす。

 

 

「……はぁ。また面倒なことになっちゃったなあ」

 

 

 独り言ちると、隣で控えていたマリーが、おずおずと近づいてきた。

 その表情は、期待と不安が入り混じったような、複雑なものだ。

 

 

「あの、リルくん」

「……ん? どしたの、マリー」

「その……無理強いみたいになってしまいましたけど、きっとサクラコ様は……リルくんに幸せになってほしいだけなんです」

 

 

 マリーが、胸の前で両手を組み合わせる。

 その瞳は潤んでいて、切実な想いが伝わってくる。

 

 

「私も、同じ想いです。リルくんには、素敵な歌声も、優しい心もあります。だから……どうか、ご自分の可能性を閉ざさないでください」

「マリー……」

 

 

 彼女の純粋な善意が、胸に刺さる。

 ボクのことを『優しい』と言ってくれるのは、キヴォトス広しといえども彼女くらいだろう。

 ……本当のボクは、ただの怪物なのに。

 

 でも、彼女のその気持ちを踏みにじることなんて、ボクにはできない。

 マリーは、ボクが孤立した時、唯一側を離れないでいてくれた友人なのだから。

 

 

「……うん。ありがとう」

 

 

 ボクは精一杯の笑顔を作って見せる。

 

 

「話くらいは、ちゃんと聞くよ。……まあ、どうせ誰が相手でも、ボクの気持ちは変わらないと思うけど」

「きっと、良いきっかけになると思います。……応援していますね、リルくん」

 

 

 マリーは嬉しそうに微笑んだ。

 その笑顔を守るためなら、多少の面倒ごとも我慢できる気がした。

 

 

「それじゃ、ボクはもう帰るね」

「はいっ。……あ、そうだ。明日は一年生の健康診断と体力テストがありますから、今日は早めに休んでくださいね?」

「あ~、そういえばそうだっけ。今度は寝坊しないように気を付けないと……。それじゃあね、マリー」

「はい、お気をつけて」

 

 

 小さく手を振り、大聖堂を後にする。

 重厚な扉を抜けると、夕暮れの空が広がっていた。

 茜色に染まる空を見上げながら、ボクは再び深く溜息をつく。

 

 

「……進路相談、か」

 

 

 一体、どんな人物が待ち受けているというのか。

 そして、その出会いがボクの運命をどう変えてしまうのか。

 

 胸の奥で燻る、正体不明の不安。

 それが的中することを知るのは、もう少し先の話だ。

 

 

「朝の嫌な予感、当たっちゃったなぁ……」

 

 

 小さく呟くボクの頭上を、カラスが不吉な鳴き声を上げて横切っていった。

 ボクはシスターベールを目深に被り直し、長い影を引きずりながら帰路につくのだった。




劇中に登場した聖歌の元ネタは、少年合唱団LiberaのTrinityです。
興味のある方は、一度聞いてみてください。
浄化されます。
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