微睡みは、甘い蜜の味に似ている。
意識が現実という冷たい岸辺に打ち上げられるのを拒み、温かな羊水のような夢の底へと、どこまでも沈んでいきたがる。
遠くで、誰かの声が聞こえた気がした。
鈴を転がしたような、あるいは小鳥のさえずりのような、耳に心地よいソプラノ。
『……ルくん』
柔らかい何かが、耳朶を撫でる感触。
春風のようなそれが、ボクの意識をじわりと覚醒へと導いていく。
『リルくん、起きてますか?』
名前を呼ばれた。
聞き覚えのある、安らぎに満ちた声。
しかし、まだ泥のように重たい瞼を持ち上げるには至らない。
ボクは無意識のうちに掛け布団を頭まで被り、その甘やかな干渉を遮断しようと試みた。
あと5分。
いや、あと30分。
どうせボクのような落第生が一人、始業に遅れたところで、トリニティの優雅な朝は何一つ変わりはしないのだから。
『……まだお休み中なのでしょうか。急ぐほどではありませんが、そろそろ起きた方がいいような気が……』
声の主は、困ったように独りごちる。
そして、衣擦れの音と共に、気配が近づいた。
『──り、リルくんっ、お部屋、失礼しますね?』
「……んぅ……」
ガチャリ、とドアノブが回る音がした気がする。
続いて、ぱたぱたと軽い足音がベッドサイドへと近づいてくる。
フローリングを叩くそのリズムは、侵入者にしてはあまりにも軽やかで、悪意の欠片も感じられない。
ふわり、と鼻腔をくすぐる香り。
それは安っぽい柔軟剤の匂いではなく、もっと厳かで清浄な……教会で焚かれる乳香のような、あるいは日向に干したリネンのような香り。
「リルくん、朝ですよ」
優しく肩を揺すられ、ボクの意識はようやく水面へと顔を出した。
重力に抗って薄く瞼を開ける。
逆光の中で、ぼんやりとした輪郭が結ばれていく。
白い修道服の袖。
柔らかなオレンジブロンドの髪。
そして、心配と慈愛をないまぜにしたような、翡翠にも似た瞳。
「……ま、りー……?」
「はい、マリーです。おはようございます♪」
視界がクリアになるにつれ、彼女──マリーの笑顔が鮮明になる。
「ふふっ、ぐっすりでしたね。夢の中で、何かいいことでもありましたか?」
「……どうだろ。ただ、泥の中に沈んでただけかもね……ふわぁ」
寝起きの掠れた声で答えながら、ボクはのろのろと上半身を起こした。
オーバーサイズのスウェットから、華奢な鎖骨と細い腕が露わになる。
背中の翼を、寝癖を直すようにバサリと一度羽ばたかせる。
そんなボクへ、小さな子供でも見守るかのような視線を向けてくるマリー。
彼女は枕元のスマートフォンを手に取ると、画面をこちらに向けてきた。
「今、6時半ぴったりです」
「……起きるには、ちょっと早くない?」
不満げに口を尖らせる。
ボクの平均起床時間は七時だ。
一分一秒でも長く布団の中にいたいボクにとって、30分の早起きは拷問に等しい。
「そうでしょうか? 私はいつも、五時には起きていますけど……」
「それは奉仕活動があるからだよね? ボクにはそういう高尚な趣味はないから、ギリギリまで寝て体力温存する派なの。……というわけで、もう一回おやすみぃ」
言い切ると同時に、再び枕へと顔を埋める。
ふかふかの枕が、ボクの顔面を優しく受け止めてくれる。
これぞ至福。
二度寝という名の甘美な誘惑に、ボクは抗う術を持たない。
「あっ……。では、30分後にもう一度起こしますね」
「おねがい~……」
意識が遠のいていく。
脳内に快楽物質エンドルフィンが分泌され、全身が幸福感で満たされていく。
ああ、神様、もしあなたが本当にいるのなら、この惰眠こそが、ボクに与えられた唯一の救いなのでしょう。
………………いや、ちょっと待て。
なにかがおかしい。
警報。
脳の奥底で、戦闘本能にも似たアラートが鳴り響く。
状況を再確認しろ。
場所は、ボクのマンションの自室。
時間は、早朝6時半。
そして目の前にいるのは、制服姿の伊落マリー。
「なんでマリーがここにいるのっ!?」
──がばっ。
完全に意識を手放そうとした寸前、強烈な違和感に殴りつけられたボクは、バネ仕掛けの人形のように跳ね起きた。
「きゃっ」
「なななな、なんなんなんでここに!? ここ、ボクの家だよね!?」
「あ、あの……落ち着いてください、リルくん」
マリーは驚いたように目を丸くし、それから申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「今日は健康診断と体力テストがある兼ね合いで、奉仕活動はお休みなんです。だから、たまには一緒に登校したいなって……。それで、お迎えに来たんですけど、ダメ……でしたか?」
「ダメとかじゃなくてさ……。心臓に悪いよ。朝起きて目の前にサクラコ先輩がいて、おもむろに『わっぴ~!』とか言い出したらどう思う?」
「そ、それは……とても怖いです」
えらく深刻な表情で、マリーが身震いする。
どうやら、この状況の異常さを理解してもらえたようだ。
いくら気心の知れた友達とはいえ、寝起きドッキリは勘弁願いたい。
「今度からは、事前に連絡してもらえると助かるかな……」
「ご、ごめんなさい。驚かせるつもりはなかったんです」
「ううん、分かってくれたならいいよ。……さ、もう完全に目が覚めちゃったし、少し早いけど学校行こっか」
「はいっ!」
一転して、マリーの表情がパッと花が咲いたように綻ぶ。
やはり、彼女には笑顔が一番似合う。
その眩しさに目を細めつつ、ボクはのそのそとベッドを出て、クローゼットへと向かった。
中から漆黒のシスター服を取り出し、着替えようとして──ふと、ある事実に気づいて動きを止める。
「…………あのぉ。マリー」
「はい?」
「今更なんだけど、どうやってこの部屋に入ったの? このマンション、オートロックのはずなんだけど」
「え? 普通に入りましたよ?」
「……玄関の鍵も、かけてたはずなんだけど」
「はい、かかっていました。なので、開けました」
マリーは事もなげに言い放ち、にっこりと微笑んだ。
その笑顔は、慈愛に満ちた聖母のようであり、同時に深淵を覗き込むような底知れなさも孕んでいた。
「………………」
「??」
……どうやら、これ以上の深入りしないほうが良さそうだ。
「~~♪」
朝の通学路。
まだ人通りの少ない、石畳の舗装路に、マリーの楽しげな鼻歌が響く。
空は高く澄み渡り、街路樹の隙間から差し込む木漏れ日が、彼女の猫耳型のベールをキラキラと照らしている。
ボクはあくびを噛み殺しながら、その隣を歩いていた。
袖口のフリルを指で弄りながら、横目で彼女の様子を窺う。
「ずいぶんご機嫌だね?」
「ふふっ。だって、リルくんと一緒に登校なんて、すごく久しぶりですから」
「そんなに久しぶりだっけ?」
「はい。高等部の入学式が最後です」
「てことは、ほとんど中等部以来かぁ……。そっか、もうそんなに経つんだ」
長いようで短く、短いようで永遠にも感じる時間。
思えば、中等部の頃はほとんど毎日、こうして一緒に通っていた気がする。
しかし、高等部へ上がったことで、マリーの所属が侍者会から典礼委員会──すなわちシスターフッド本部へ移った。
彼女の生活リズムが変わり、互いの行動もズレていき、自然と一緒に登校することはなくなっていた。
それにしても、そんなに間が空いていたとは。
中等部での経験──あの忌まわしい事件の記憶が鮮烈すぎるせいで、時間の感覚が麻痺しているのかもしれない。
「中等部、か……」
ボクはぽつりと呟き、視線を空へと投げた。
青い空に浮かぶ白い雲が、あの日見た爆炎の煙に見えて、思わず目を逸らす。
「今になって思い返すと、ボクたちの友人関係って、ちょっと不思議な始まり方だったよね」
「えっ?」
「ほら、ボクって色々あってシスターフッドを退部してから、それまでの友達とぱったり縁が切れたじゃない? でもマリーは逆で、在籍してた時はあいさつ程度の関係だったのに、抜けてからよく話すようになったからさ」
中等部でボクが引き起こした事件。
ボクの中に眠る、制御不能な力の暴走。
多くの同級生たちを傷つけ、校舎を半壊させたその罪は、ボクをトリニティの中で完全に孤立させた。
怪物。狂犬。関わってはいけない禁忌。
道端に不発弾が落ちていたら誰もが避けて通るように、生徒たちはボクから距離を置いた。
──しかし、なぜかマリーとサクラコ先輩だけは、そうしなかった。
むしろマリーの場合は、事件の後から積極的にボクに関わるようになった。
傷ついたボクを介抱し、孤立するボクに声をかけ、こうして友人として接してくれている。
その理由は、いまだによくわからない。
直接本人に聞いたこともあるが、いつもやんわりとはぐらかされてしまう。
本当は、ボクのような人間と一緒にいることで、彼女の評判まで下がってしまうのではないかと不安になることもある。
けれど……。
「リルくんは……私がお友達じゃ、嫌ですか?」
マリーが立ち止まり、不安そうにボクを見上げてきた。
その瞳が揺れている。
「まさか。マリーが友達でよかったと思うことはあっても、嫌だと思ったことはないよ」
それは、紛れもない本音だった。
もし彼女がいなかったら、ボクはとっくに孤独に押しつぶされて、本当に破滅していたかもしれない。
「〜〜っ。そ、そうですか」
マリーの声が、ほんの少し上ずった。
その白い頬が、朝焼けのような朱に染まっていく。
彼女は嬉しそうに俯き、もじもじと指先を絡ませた。
「……?」
その反応に、ボクはどうしていいか分からず、ただ瞬きをする。
すると、彼女は何かを決意したように顔を上げ、通学用の鞄から包みを取り出した。
「そ、そういえばっ! 今日は時間に余裕があったので、お弁当を作ってきたんですっ」
少しオーバーな仕草で、可愛らしいランチクロスに包まれたお弁当箱を掲げるマリー。
照れ隠しなのは明らかだったが、追求する理由も無いのでそのまま流すことにする。
「ふぅん? 健康的だしいいことだと思うよ。それじゃあ、今日のお昼は別行動だね。ボクは久しぶりに一人で学食でも行こうかなぁ」
「あ……その、そうじゃなくて。実は、リルくんの分も用意してまして……」
もう一つの包みを、彼女はおずおずと差し出した。
少し大きめの、男性用のお弁当箱だ。
少し、驚いた。
誰かに手料理を作ってもらうなんて、いつ以来だろうか。
記憶にないくらい、遠い昔のような気がする。
そもそも、ボクには『家庭の味』というものの記憶がない。
トリニティの購買か学食、もしくはコンビニ弁当。
それがボクの食事の全てだ。
「……かつて聖ベネディクトは、自分を敵視する司祭から、毒入りのパンを贈られたそうな」
「そ、そんなこと私はしません~っ! 中身は普通のサンドイッチですっ!」
「あはっ、冗談だよ。……ありがとね、マリー」
ボクは彼女の手から、まだほんのりと温かい包みを受け取った。
その重みが、ずしりと掌に伝わる。
単なる物理的な重さではない。
そこに込められた彼女の想いの重さが、ボクの空っぽな心を満たしていくようだった。
──同時に、胸の奥がチクリと痛む。
「……気を使わせちゃって、ごめんね」
ぽつりと、言葉が漏れた。
「え?」
「昨日のこと、気にしてるんでしょ? 大聖堂で、サクラコ先輩とあの事件の話になったから」
昨日の夕方、ボクはサクラコ先輩から進路相談の話を持ち掛けられた。
その際、頑なに拒むボクに対して、先輩はボクの過去を持ち出し、前に進むよう諭してきた。
そのやり取りを、マリーも傍で見ていたのだ。
多分、マリーはボクに気を使っている。
トラウマを刺激されたことで、ボクが塞ぎこんでいるのではないかと心配したのだろう。
でなければ、いくら奉仕活動が休みとはいえ、わざわざトリニティとは逆方向のボクの家まで来たり、早朝から二人分のお弁当を用意したりなんてしないはず。
高校生にもなって、彼女にこれほどの心労をかけている自分が、情けなくて仕方がない。
ボクは、いつまで彼女の優しさに甘え続ければいいのだろう。
いつになったら、彼女に恩を返せるのだろう。
「いいえ、謝らないでください。私が好きでやっていることですから」
「とっくに吹っ切れたつもりだったんだけどね……。ボクって、見た目だけじゃなくて中身も、まだまだ子供だったみたい」
自嘲気味に笑う。
初等部の生徒のような、小柄な体躯。
華奢で、頼りなくて、誰かに守ってもらわなければ生きていけないような、そんな自分が嫌になる。
本当は、誰よりも強くて、壊れない身体を持っているはずなのに。
その力は、誰かを守るためではなく、傷つけるためにしか使えない。
「……あの、リルくん」
マリーが、真剣な眼差しでボクを見つめてきた。
「昨日、背中を押した私が言うのも変な話なんですけど……。私は、リルくんがどんな道を選んだとしても、それを尊重します」
「マリー……」
「無理をして、変わろうとしなくてもいいんです。今のリルくんのままでも、私は……私にとっては、大切なお友達ですから。ですから……あまり、思いつめないでくださいね」
その言葉は、どんな慰めよりも優しく、ボクの心に染み渡った。
彼女は、ボクの弱さも、醜さも、すべて知った上で、それでも友達だと言ってくれる。
その絶対的な肯定が、ボクをこの世界に繋ぎ止めてくれている唯一の鎖なのだ。
「……ん」
小さく頷くことしかできなかった。
喉の奥が熱くなり、視界が少し滲む。
ボクはそれを誤魔化すように、お弁当の包みをぎゅっと抱きしめた。
サクラコ先輩が言っていた進路相談……そこで何が話されるのかは分からない。
でも、その答えは三年前のあの時、すでに出ている。
今更、期待なんてしない。
もうボクには、こんな生き方しか──
数百年にわたる歴史を誇る、由緒正しきトリニティ総合学園。
ロマネスクやゴシックといった様式の、荘厳な建築群が連なるその学園において、ひときわ異彩を放つ建物があった。
──トリニティ中央部室会館。
かつての修道院を増築・改修したその建物は、随所に宗教的な装飾が施され、内装も宮殿のように豪華絢爛だ。
古くには各地の有力者を歓待し、祝祭を催していた歴史もあるという。
長い時が流れた今、その内部は数々の部活動が日々情熱を燃やす、青春の舞台へと姿を変えている。
そして、そんな建物の最上階。
一面に敷き詰められた白亜の大理石。
バルコニーの手すりには精巧な彫刻が施され、眼下には手入れの行き届いた広大な庭園が広がっている。
風に乗って漂うのは、最高級の茶葉と焼き菓子の甘い香り。
──選ばれし者たち、“ティーパーティー”のサロン。
トリニティにおける最高意思決定機関であり、最も高貴とされる少女たちにのみ許されたその聖域に、二人の令嬢の姿があった。
「これが、本日の健康診断および体力テストの結果ですか。中等部のデータから分かってはいましたが……やはり本物ですね、あの子は」
白磁のティーカップから立ち上る湯気の向こうで、プラチナブロンドの少女が静かに呟いた。
テーブルの上に広げられた数枚の資料に、白く細い指を滑らせる。
その手つきは優雅にして無駄がなく、言葉の一つひとつには、生まれながらの威厳と気品が宿っている。
──“桐藤ナギサ”。
トリニティの中枢たる“ティーパーティー”のホストにして、学園三大派閥のフィリウス分派を統べる才媛。
絹糸のような長髪を控え目にかき上げるその姿は、まるで貴族の肖像画のようであり、しかしその琥珀色の瞳の奥には、冷徹な計算と策謀の光が宿っていた。
対するは、向かいの席で気だるげに頬杖をつく少女。
パテル分派首長──“聖園ミカ”。
特徴的な桃色の髪と、銀河のようなヘイロー。
彼女は椅子の上で足をぶらぶらさせながら、砂糖をたっぷりと落とした紅茶を、カチャカチャと音を立ててかき混ぜていた。
「またその子の話? ナギちゃんも好きだねぇ。名前は聞いたことあるけど、そんなにすごい子なの?」
ミカは興味なさそうに言いながら、ナギサの手元にある資料を覗き込む。
「『すごい』という形容は、些か不適切かと。あの子は、明らかに異質です」
ナギサは淡々と告げた。
「特筆すべきは身体能力値の偏差と、視覚・反応系の測定結果です。筋力、瞬発力、持久力……全ての項目において、一般的な生徒の平均値を大きく逸脱しています。それに、内包している“神秘”の大きさも。それこそ、正義実現委員会のツルギさんや……ミカさん、貴女にも引けを取らないほどに」
「ふ~ん? 私とタメ張るって? 大きく出たねぇ」
ミカの口元に、好戦的な笑みが浮かぶ。
彼女自身、トリニティ最強クラスの一角と称されるだけの実力者だ。
その自負があるからこそ、ナギサの評価を鵜呑みにはしない。
「これ以上はない逸材です。知れば、誰もが欲しがることでしょう。この力を野放しにしておくのは、あまりにも惜しい」
ナギサはカップを口元に運び、静かに紅茶を啜る。
その微笑に込められているのは、純粋な称賛か、それとも道具としての利用価値を見定めた女王の野心か。
「何より好ましいのは、その人間関係です。中立であるシスターフッドの数名としか交友がなく、学内では完全に孤立している。他派閥との内通を疑う必要がない、無色透明な素材……。私たちにとって、これほど好都合な人材は他にいません」
「ん〜……でも、それってただ性格に難があるだけじゃない? コミュ障ってやつ?」
「いいえ。それはないでしょう」
ナギサは小さく首を振り、先ほどまで自分が見ていた資料の一枚を、ミカの方へ押し出した。
そこには、一人の生徒の経歴と、ある事件についての記録が記されていた。
添付された写真には、儚げな美少女……に見える男の子の、どこか虚ろな表情が写っている。
「サクラコさんからの情報によると、かつてはシスターフッド侍者会において、人並みの交友関係を築いていたようです。ですが、この事件が起きたことで、自らそれらを断ち切るという苦渋の決断を迫られた。……罪悪感と自己嫌悪。それは、交渉において極めて有利な首輪になります」
「……相変わらず、ナギちゃんは怖いよねぇ」
ミカは呆れたように肩をすくめた。
しかし、その視線は資料の上を滑り、写真の男の子の瞳に吸い寄せられていた。
どこか自分に似た、陰のある瞳。
「その子、まだ一年生なんでしょ?」
「ええ。ですが、今のうちに囲っておかねばなりません。面倒な派閥──それこそ“ペテロ分派”*1に取り込まれでもしたら、厄介です」
ナギサの声色はあくまで優雅だったが、その実、口にした言葉は狩人のそれだった。
「それで、その子に何をさせたいの?」
ミカがスコーンをつまみながら問うと、ナギサは言葉を選ぶように少しだけ沈黙を置いた。
バルコニーを吹き抜ける風が、一瞬だけ止まる。
「“
ミカの手が止まる。
スコーンの欠片が、皿の上にぽろりと落ちた。
その名は、ティーパーティーにとって、一種の“禁句”に近いものだった。
「……本気なの?」
「ええ、もちろんです。今のトリニティには、無視できない兆候があまりに多い。条約締結の妨害を目論む裏切り者の存在に、近頃トリニティを出入りしている不審な影……。それに、ペテロ分派への牽制も必要です。表の戦力である正義実現委員会では対処困難なそれらを解決するには、これが最も効率的な一手なのです」
ナギサの瞳が、鋭く光る。
「条約、ねぇ……」
「なのでミカさん、あなたも少しは協力してくださいね」
ミカは、しばしの沈黙の後、ようやくスコーンを口に放り込み、もぐもぐと咀嚼してから飲み込んだ。
そして、ふう、と小さくため息をつく。
「も~、しょうがないなぁ……。じゃあ、書類だけは見ておくね。でも、私は動く気ないから、そのつもりで☆」
「それで構いません。コンタクトは私の方で行います。──既に、布石は打ってありますから」
ナギサは微笑む。
その目は静かに、しかし冷酷に、これから引き入れようとする“鍵”の動向を見据えていた。
写真の中の生徒──白鍵リルは、何も知らずにただ静かにこちらを見つめ返している。
彼の運命は、このティーパーティーのテーブルの上で、紅茶の香りとともに決定づけられようとしていた。