ティーパーティーに銃剣を添えて   作:Agrissa

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04. 茶会で奏でるミゼレーレ

 トリニティ大聖堂の回廊は、いつだって冷厳な静寂に満ちている。

 高くそびえるアーチ状の天井が、二人分の足音を反響させていた。

 カツ、カツ、というサクラコ先輩の規律正しいヒールの音と、ぺた、ぺた、というボクの頼りないコンバットブーツの音。

 その不協和音は、今のボクの心境をそのまま映し出しているようだった。

 

 窓から差し込む午後の光が、床石に長い影を落とす。

 ボクは隣を歩く長身のシスターを見上げ、先ほどから喉元で燻っていた疑問を口にした。

 

 

「あのぉ、サクラコ先輩」

「なんです?」

 

 

 サクラコ先輩は前を向いたまま、表情を変えずに応じる。

 その横顔は彫像のように美しいが、同時に取り付く島もない厳しさを湛えていた。

 

 

「高等部って、健康診断に力入れすぎじゃないですか? 昨日受けてきましたけど、検査項目の数が中等部の倍以上に増えてましたよ」

 

 

 昨日は丸一日、検査漬けだった。

 身長体重測定といった基本的なものは序の口。

 血液検査、神秘検査、心電図に肺活量……果ては眼底検査に脳波測定や筋肉の断面図まで。

 まるでモルモットにでもなった気分だった。

 

 

「あれは単なる健康状態の把握だけではなく、生徒それぞれの肉体的特性や神秘の素質を測ることも目的としていますからね。キヴォトスにおいて、己の力を知ることは義務でもあります。致し方ありません」

「だからって、学園の設備に最新鋭のMRIまで導入するのはやりすぎな気が……」

「そんなことはありませんよ。ゲヘナやミレニアムでも、概ね同等の、あるいはそれ以上の検査が実施されていると聞きます。トリニティの生徒として、後れを取るわけにはいきません」

 

 

 そういうものなのだろうか。

 一台で億単位の予算が吹き飛ぶ精密医療機器が、白い部屋にずらりと並んでいる光景は、圧巻というより異様だった。

 だが、三大学園の一角ともなれば、その程度の設備投資は端金なのかもしれない。

 

 ボクは袖口のフリルを指で弄りながら、さらに口を尖らせる。

 

 

「やりすぎといえば、午後の体力テストもです。あの障害物走、設定おかしくありませんか? 機銃ドローンが監視してる通路を踏破しろって、控えめに言って狂ってますよ。しかも、こっちの武器使用は禁止だなんて」

 

 

 思い出しても中々にいやらしい設定だった。

 遮蔽物の少ない細長い通路。

 その上空を旋回する自律型戦闘ドローン。

 センサーに探知されれば即座にペイント弾の雨が降り注ぐという、悪趣味な障害物走。

 並の生徒なら、スタート地点から一歩も動けずに蜂の巣にされるのがオチだ。

 

 

「ですが、貴方はちゃんとクリアできたのでしょう?」

「まぁ、はい。一応は」

「ちなみに、どうやって?」

 

 

 サクラコ先輩が、歩調を緩めずに視線だけをこちらに向けてくる。

 ボクは昨日の光景を脳裏に再生しながら、事もなげに答えた。

 

 

「どうって……普通にですよ。蛇行しながら弾幕を振り切って、あとは壁を走って、そのまま空中のドローンを蹴り潰しました」

 

 

 ピタリ。

 サクラコ先輩の足が止まった。

 

 

「……はい?」

「え? ですから、カメラとタレットの追従速度にはラグがあったので、その隙を突いて壁面を走行して、横からドローンを回転蹴りで粉砕して──」

「待ちなさい」

 

 

 サクラコ先輩が片手で額を押さえ、深いため息をつく。

 その表情が、じわじわと引きつっていくのが分かった。

 

 

「……正気ですか? あのドローンの監視システム、カメラが感知して発砲するまでのタイムラグは、たったのコンマ05秒しかないはずですが……」

「コンマ05あれば十分じゃないですか? 瞬きするより遅いですよ」

「……」

 

 

 先輩が絶句している。

 ボクは何か変なことでも言っただろうか。

 運動神経に自信がある生徒なら、躱しきれるレベルだと思ったのだけど。

 

 

「そもそも、あのテストの趣旨は、周囲の障害物を利用してドローンの射線を切り、隠れながら踏破するまでのタイムと戦術判断を計測するものです。弾丸の回避や、ましてやドローンの物理破壊までは想定していません」

「あ、障害物走ってそういう……」

 

 そういえば、通路内にダンボール箱やらドラム缶やら、身を隠せそうな物が点々と置かれていた気がする。

 てっきりただのゴミか、進行を妨げるための邪魔なオブジェクトだと思って、足場にして飛び越えてしまった。

 

 

「つまり、何が言いたいかと言うとですね」

 

 

 サクラコ先輩は、信じられないものを見るような目でボクを見下ろした。

 

 

「アレを正面突破して、あまつさえ蹴りひとつで粉砕してクリアしてしまった貴方の身体能力も、大概おかしいということです」

「ぅ……」

 

 

 そう言われてしまうと、返す言葉がない。

 ボクにとっては、隠れてコソコソ進むより、目の前の脅威を排除して進む方が遥かに効率的で、簡単だったのだ。

 思考するよりも先に、身体が最適解を選んで動いてしまう。

 それはもう、本能のようなものだ。

 

 ふと、自分の掌を見つめる。

 雪のように白く、少女のように華奢な手。

 一見すると、とても戦闘向きではない身体に見える。

 しかし、いざ戦闘となると、自分でも驚くほどの出力を発揮し、脳が勝手に戦闘における最適解を導き出してくれる。

 

 特別な訓練なんて受けた覚えは全くないのに。

 

 ──あの事件の時もそうだった。

 こんな自分の身体が、時々自分でも怖くなる。

 

 

「……まあ、いいでしょう。貴方の特異性は、今に始まったことではありませんから」

 

 

 サクラコ先輩は気を取り直したように歩き出す。

 その背中を追いかけながら、ボクはシスターベールを目深に被り直した。

 

 

「さて、到着です」

 

 

 案内されたのは、大聖堂の翼廊にひっそりと備え付けられた一室だった。

 重厚なオーク材の扉には、精緻な彫刻が施されている。

 この部屋は普段、シスターフッドの幹部会議で稀に使用されるほか、VIPの来客時に応接室として使われる場所だ。

 もっとも、大聖堂を訪れる者のほとんどは礼拝か懺悔が目的であり、実際にこの部屋が応接室として使われているのを見たことはないけれど。

 

 果たして、ここで誰が待っているのだろうか。

 そんな疑念を抱きつつ、サクラコ先輩が控えめに扉をノックする。

 

 コン、コン。

 

 乾いた音が静寂に吸い込まれた、次の瞬間。

 

 

『どうぞ』

 

 

 ほとんど間を置かずに、室内から涼やかな返事が返ってきた。

 不思議なことに、その声にはどこか聞き覚えがある。

 耳に心地よく響く、上品で、それでいて絶対的な自信を感じさせるアルト。

 

 

「失礼致します」

「し、失礼しますぅ……って──」

 

 

 サクラコ先輩に続いて部屋へ足を踏み入れたボクは、その光景に息を呑んだ。

 

 午後の日差しが、アーチ型の窓から斜めに差し込んでいる。

 光の粒子が舞うその先に、一人の少女が優雅に座していた。

 

 純白の制服に身を包み、背中には天使のような翼。

 プラチナブロンドの長い髪は光を浴びて黄金に輝き、その所作の一つ一つが、まるで完成された絵画のように洗練されている。

 彼女は陶磁のカップに添えていた指を離し、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。

 

 

「な──」

「お待ちしておりましたよ」

 

 

 絶句するボクの視線の先で、淑女が微笑む。

 その姿は、一輪の百合の如く清らかでありながらも、どこか近寄り難い気高さを纏っている。

 

 ──“桐藤ナギサ”様。

 トリニティ総合学園の最高意思決定機関である生徒会、“ティーパーティー”のホスト。

 そして三大派閥が一つ、“フィリウス分派”のリーダー。

 学内でその名を知らぬ者はいない、雲の上の存在。

 

 どうりで、声に聞き覚えがあったわけだ。

 ナギサ様はその立場上、校内のイベントや式典でスピーチを行うことが多く、その声を耳にする機会も自然と多くなる。

 

 

「ティーパーティーの……桐藤ナギサ、様……!?」

 

 

 まさか……まさか、生徒会長が直々に、一介の生徒の進路相談の相手を務めるとでもいうのか。

 いくらなんでも、大げさすぎやしないだろうか。

 

 ……いや、待てよ。

 そういえば、ボクに会いたがっているなんてことも、サクラコ先輩は言っていた気がする。

 トリニティのトップ直々のご指名とは、一体全体どういうことだ。

 

 心臓が早鐘を打ち始める。場違い感が半端じゃない。

 今すぐ回れ右をして逃げ出したい。

 

 

「な……っ、ななな、なんで」

 

 

 ボクとナギサ様──二人の視線が交錯する。

 マホガニーのテーブルを挟み、無言のまま向かい合うこと、数秒。

 ボクの動揺などどこ吹く風で、ナギサ様は琥珀色の瞳を細めた。

 

 

「ごきげんよう。白鍵リルさん、ですね。立ったままでは落ち着かないでしょう、どうぞお掛けになってください」

 

 

 最初に沈黙を破ったのは、ナギサ様の澄んだ声だった。

 混乱するボクを落ち着かせるような、その口調。

 

 

「ぅえっ!? は、はい……」

 

 

 彼女が纏う高貴なオーラに気圧され、ボクは情けない裏返った声を漏らしてしまった。

 恥ずかしさに頬が熱くなるのを感じながら、恐る恐る対面のソファに腰を下ろす。

 

 サクラコ先輩はそんなやりとりを見守りつつ、無言でボクの斜め後ろに立った。

 まるで、逃げ出さないように監視するかのように。

 

 

「まずは、突然押しかけたことをお詫びいたします。どうしても、貴方とお話ししたいことがありまして」

「い、いえっ! ほほ、本日はお日柄もよく……!」

 

 

 緊張のあまり、脈絡のない定型句が口をついて出る。

 どうして、ナギサ様のような高貴なお方がここに?

 そんな疑問が、脳内をぐるぐると回り続ける。

 パニックで思考回路がショートしそうだ。

 

 

「ふふ、そんなに身構えなくても大丈夫ですよ。紅茶でも楽しみながら、気楽にまいりましょう」

 

 

 そう言って、くすりと柔らかく笑みを浮かべると、ナギサ様は手元のティーポットに手を伸ばした。

 ポットの蓋を開け、銀の茶匙ですくった茶葉を静かに落とす。

 カチャリ、と陶器と金属が触れ合う澄んだ音が、静寂の部屋に響いた。

 瞬く間に、瑞々しくも華やかな香りがふわりと広がる。

 

 

「少々、お待ちくださいね」

 

 

 白磁のケトルに湛えられた湯が、高い位置からポットへと注がれる。

 その手つきはあくまで優雅で、無駄がない。

 茶道のお点前を見ているかのような、洗練された所作。

 そして、アンティーク調の砂時計を静かに反転させると、彼女は再びボクに微笑みかけてきた。

 

 

「ダージリン・ファーストフラッシュです。春摘みならではの、軽やかでフルーティーな香りが特徴で、今日のような少し汗ばむ陽気にぴったりなんです」

「ぇ……す、ストレートフラッシュ? なんか強そうですね」

「強そう? ふふふっ。面白いことを仰るのですね」

 

 

 紅茶の銘柄なんてサッパリなボクは、その響きからトランプゲームの役を連想したものの、どうやらまったく関係ないらしい。

 ……笑われてしまった。

 ナギサ様の笑みは上品だが、ボクの無知を露呈してしまったようで、いたたまれない気持ちになる。

 

 そんなぎこちない会話を挟んでいる内に、砂時計の砂が落ち切った。

 ナギサ様はティーストレーナーを手に取り、澄んだ黄金色の液体を、丁寧にカップへと注ぐ。

 琥珀色の水面が揺れ、湯気が立ち上る。

 

 

「お砂糖やミルクは、お好みですか?」

「えと、じゃあお砂糖を……」

 

 

 苦いのは苦手だ。

 ボクの返答を受けると、ナギサ様は銀のトングで角砂糖を一つ摘まみ、音もなくカップへ落とした。

 

 

「どうぞ、お召し上がりください。お口に合うと良いのですが」

 

 

 目の前に差し出された、一杯の紅茶。

 ソーサーには、ティーパーティーのエンブレムにもなっているティーカップの絵柄があしらわれている。

 立ち上る湯気の向こうから、ナギサ様の観察するような、それでいて柔らかい眼差しがこちらに向けられる。

 

 

「い、いただきますぅ……」

 

 

 震える指先で、そっとカップの取っ手を持ち上げる。

 音を立てないよう細心の注意を払いながら、口元へ運び、一口啜る。

 

 ……正直、緊張のせいで味なんて分からない。

 ただ、温かい液体が喉を通り、胃に落ちていく感覚だけがある。

 しかし、不思議なことに、一口、また一口と飲むほどに、強張っていた肩の力が抜けていくような気がした。

 芳醇な香りが、脳の興奮を鎮めていく。

 

 

「いかがでしょう?」

「えっと……すごくいい匂いがして……なんだか、ホッとするような……そんな感じがします」

 

 

 あまりにも語彙力のない感想だったが、ナギサ様は満足そうに微笑んだ。

 まるで、ボクがそう答えることを最初から分かっていたかのような反応。

 

 

「ふふ、ダージリンにはリラックス効果がありますから。緊張を和らげる助けになれたようで、なによりです」

「ぁ……」

 

 

 きっとこの人は、ボクがガチガチに緊張することを見越して、あえてこの茶葉を選んで用意したのだろう。

 紅茶を淹れるという行為一つで、場の空気を支配し、相手の心を解きほぐす。

 隅々にまで行き届いた配慮と、計算。

 これが、トリニティの頂点に立つ者の余裕というものなのだろうか。

 

 

「さて、それでは本題に入る前に、まずはお互い自己紹介とまいりましょうか。すでにご存じかもしれませんが、私はティーパーティーのホストを務めております、桐藤ナギサです」

「こ、高等部一年の、白鍵リルです。よろしくお願いします……!」

 

 

 優雅に会釈をするナギサ様へ、ボクはぺこぺこと頭を下げ返す。

 シスター服のスカートを握りしめた手に、じっとりと汗が滲む。

 

 

「ええ、こちらこそ。リルさんは、この面談についてどこまで聞いていますか?」

「その……サクラコ先輩からは、進路相談とだけ」

「進路相談、ですか。なるほど……言い得て妙ですね」

「……?」

 

 

 ナギサ様が含みのある笑みを浮かべる。

 どうやら、単純な進路相談で呼び出された、というわけではなさそうだ。

 嫌な予感が、背筋を這い上がる。

 

 

「話は変わりますが、リルさんは、シスターフッドで聖歌を任されることが多いそうですね」

「は、はい。ミサとか式典がある時は、いつもサクラコ先輩からお願いされるので……」

「一昨日のミサで私も拝聴しましたが、すばらしい歌声でしたよ。まるで天使が舞い降りたかのような、清らかな響きでした」

「……恐縮です」

 

 

 褒められているはずなのに、居心地が悪い。

 自分の特技など、この人にとっては取るに足らない世間話の種でしかないように思える。

 

 

「後輩に恵まれましたね、サクラコさん」

「はい。おかげさまで」

 

 

 話を振られたサクラコ先輩は、短く相槌を打っただけで、特に会話に加わる様子はない。

 どうやら、この面談はあくまでナギサ様とボクの時間であり、彼女は立会人に徹するつもりらしい。

 

 紅茶の香りが室内を漂う中、ナギサ様の声が静かに続く。

 いよいよ、核心に触れる気配を漂わせて。

 

 

「しかしながら、リルさんはシスターフッドの正式な部員ではないようですね」

「はい、まぁ」

「それどころか、どこの部活や委員会にも所属していないのだとか」

「そう……ですね、はい」

 

 一昨日、サクラコ先輩とも話した内容だ。

 この話題が出ることは、ある程度覚悟していた。

 しかし、やはり気が進まない。

 何度同じ話をされたところで、ボクの答えは変わらないのだから。

 

「類まれな才能を持ちながらそれは……。少々、惜しいと感じてしまいますね」

「……トリニティでは、部活への参加は任意だったはずですけど」

「ええ、その通りです。ですが、私の立場上、才能の原石をみすみす腐らせておくのは、どうにも忍びなくて」

「…………」

 

 

 ナギサ様がお相手だというのに、つい無愛想な反応になってしまう。

 この話題になると、どうしても感情の抑制が効かなくなる。

 しかし、ナギサ様はさして気にした様子もなく、カップをソーサーに置いた。

 カチャリ、という音が、合図のように響く。

 

 

「何かやりたいことや、挑戦してみたいことは?」

「特に、ありません。ボク、部活とか委員会に興味はないので」

「そうですか。では、ここからが本題です。そんなリルさんに、私から一つ提案が」

 

 

 ナギサ様の瞳が、柔らかな光を宿しながらも、どこか計り知れぬ重みを帯びたその瞬間、部屋の空気が一変した。

 まったりとした午後のティータイムは終わりを告げ、冷徹な政治の時間が始まったことを、ボクは本能的に悟る。

 

 

「私たち──ティーパーティーの一員になってみませんか?」

 

 

 ナギサ様の口から紡がれたその一言は、ボクの想定を遥かに超える衝撃を伴っていた。

 頭の中を直接ハンマーで殴りつけられたかのような感覚に、思考が一瞬停止する。

 言葉の意味を理解するのに、数秒の時間を要した。

 

「…………は、ぇ?」

「トリニティの中枢であるティーパーティーでならば、これまで見えなかった景色も見えてくるでしょう。リルさんの興味を引くものだって、きっと──」

「ちょっ……ちょっと待ってくださいっ!」

 

 

 ようやく脳が再起動したボクは、思わずガタリと立ち上がり、ナギサ様の声を遮った。

 本来なら不敬極まる行為だが、そんなことを気にしていられる余裕など、今のボクにはない。

 

 

「正気なんですか……?」

「ええ、もちろんです」

「ナギサ様ならご存知のはずですよね。ボクがどういった生徒なのか」

「それも、もちろん。歌だけでなく、身体能力や神秘の出力も優秀。勉学の方は、少々苦手なご様子ですが」

「そうじゃありません! ボクの……過去のことです!」

 

 

 叫ぶように告げる。

 ナギサ様の立場であれば、知らないはずはない。

 ボクが過去に引き起こした『あの事件』を。

 その時に生じた被害、傷つけた同級生たちの数、そして──その後のボクが、学区内でどういう扱いになっているのかを。

 

 学園の嫌われ者。歩く災害。

 そんなボクを、学園の顔である生徒会に迎え入れる?

 もし、ボクのすべてを把握したうえで言っているのなら、とても正気の沙汰とは思えない。

 

 

「そうですね、そちらもすべて存じ上げています」

「……ごめんなさい。ちょっと、理解不能です」

 

 

 全身の力が抜け、ボクは再びソファへと半身を沈めた。

 視界がふらつく。

 

 ナギサ様の意図が全く読めない。

 この人は一体、何が目的なのだ。

 ボクのような危険分子を懐に入れて、何をさせようというのか。

 

 

「そろそろ……許されても良いのではありませんか?」

 

 

 ナギサ様の声が、優しく響く。

 

 

「……許される?」

「約三年前、中等部で起きた事件です。貴方はもう、充分すぎる程の罰を受けました。社会的制裁も、精神的な苦痛も」

 

 

 また、その話か。

 誰も彼も、ボクの傷口をこじ開けて、中を覗こうとする。

 

 

「……もう終わった話です。それは」

「リルさん、きっと貴方の本質は善人なんでしょうね」

「そう見えますか? ナギサ様とボクでは、善人の定義が違うのかも」

「そうでなければ、人を傷つけないために、人との関りを捨てるなんて決断はしませんから。貴方が無所属を貫く理由も、そこにあるのでしょう?」

「……っ」

 

 

 ──見抜かれた。

 ボクが頑なに、どこにも所属しようとしない理由を。

 単にやる気がないからでも、人付き合いが苦手だからでもない。

 自分が誰かを傷つけることを、何よりも恐れているからだということを。

 

 ……いや、サクラコ先輩から聞いていたのかもしれない。

 あの人は、ボクがどこにも所属したがらない理由を知っているから。

 

 ボクは、傍らに立つサクラコ先輩へ抗議の視線を向ける。

 しかし、先輩は澄ました表情のまま、さらりとそれを受け流す。

 まるで『貴方のためです』と言わんばかりに。

 

 

「……ボクがそうすることで、全部が丸く収まるんです。ボクが一人でいれば、もう誰も怪我をしない。誰も悲しまない。だから……これで終わりなんです。この話は」

 

 

 言いながら、膝の上に置いた手をぎゅっと握り締める。

 爪が掌に食い込み、微かな痛みが走る。

 その痛みが、ボクを辛うじて正気に保たせていた。

 

 もう、やめてほしい。

 これ以上、この話を蒸し返したくない。

 ボクはただ、静かにひっそりとしていたいだけなのに。

 

 

「世の中には、品行方正に振舞っていても評価されない人間がたくさんいます。リルさん、貴方がその例です」

「…………」

「人間というものは、誰かを叩かなくてはいけなくなった時、叩きたい者ではなく、叩きやすい者を叩きます。なぜなら、それが一番楽だから。あの人なら叩いても平気だ、そんな感情が先走りするんです」

 

 

 ナギサ様は、まるで悲劇を嘆くように目を伏せた。

 

 

「あの事件の責任が、貴方一人に押し付けられたのは、まさにそのような集団心理が働いていたからでしょう」

「それは……」

 

 

 ──過去の記憶が、鮮明に蘇る。

 

 事件が終息したその日のうちに、ボクは当時の中等部を取り仕切っていた政治派閥によって、聴聞会に召喚された。

 広い講堂。無数の視線。

 彼女たちは、事件に纏わる責任の大部分がボクにあることと、罰則が科される事実だけを、ただ淡々と告げてきた。

 

 

『全部、お前のせいだ』

 

 

 言葉にならぬ悪意が、冷たい視線となってボクを刺し貫く。

 反論することさえ許されず、ただ罪を受け入れるしかなかったあの時の絶望感と、湧き上がる恐怖の感情は、ボクの記憶の中に深く刻み込まれている。

 

 

「集団心理というものは恐ろしいですね。人間のもっとも醜い部分が、ありのままに見えてしまいますから」

「……気にしていません。不条理があることを前提に生きれば、大したことありません。それが当たり前として、生活できますから」

 

 

 ボクは声を絞り出した。

 強がりだ。

 けれど、そう思い込まなければ正気を保つことはできなかった。

 

 

「それは……っ、諦めた大人がやることですよ?」

 

 

 ナギサ様の声が、僅かに震えた。

 ハッとして顔を上げると、これまで穏やかだった彼女の表情に、薄く陰が差していた。

 その瞳には、焦燥のような、何か激しい感情が渦巻いているように見えた。

 

 彼女もまた、このトリニティという巨大な組織の頂点で、数えきれないほどの不条理と戦ってきたのだろうか。

 だからこそ、ボクの諦観を許せなかったのかもしれない。

 

 

「サクラコ先輩からも言われました。ボクは悪い意味で達観しすぎだって。でもいいんです。今でも充分、面白おかしく生きてますから」

「リル……」

「……っ」

 

 

 サクラコ先輩とナギサ様が、形容しがたい感情の籠った視線を向けてくる。

 そこにあるのは憐憫か、はたまた失望か。

 はっきりとは分からないが、どちらでも構わない。

 ボクは、彼女たちの期待に応えることはできないのだから。

 

 ボクは、このまま壊れた存在として、誰にも触れられずに埃をかぶっていたいのだ。

 

 

「だから、ごめんなさい。先ほどのお誘いは、無かったことにしてください」

 

 

 言い切ると同時に、ボクは席を立った。

 もう、限界だった。

 これ以上ここにいたら、ボクの仮面が剥がれ落ちて、醜い素顔を晒してしまいそうだった。

 

 

「リルさん、もう少しお話を──」

 

 

 ナギサ様が何かを言いかけ、手を伸ばす。

 しかし、ボクはそれを遮るように深く一礼をした。

 

 

「失礼しますっ」

 

 

 逃げるようにして踵を返し、扉へと向かう。

 背後から呼び止める声が聞こえた気がしたが、振り返らなかった。

 

 重い扉を押し開け、廊下へと飛び出す。

 ひんやりとした金属製のドアノブの感触が、掌に冷たく残った。

 

 ──その冷たさは、ナギサ様が淹れてくれた紅茶の温かさを、残酷なまでに忘れさせるものだった。

 

 ボクは一度だけ振り返り、閉ざされた扉を見つめた。

 そこにはもう、甘い紅茶の香りも、差し伸べられた手のぬくもりもない。

 あるのは、いつもの冷たい現実だけ。

 

 

「……これで、いいんだ」

 

 

 自分に言い聞かせるように呟き、ボクは大聖堂の長い廊下を、逃げるように走り去った。

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