ティーパーティーに銃剣を添えて   作:Agrissa

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05. 二人目の牧者

 重厚なオーク材の扉が、音もなく閉ざされる。

 それはまるで、世界と白鍵リルという生徒を隔てる分厚い壁が、再び築かれた音のようだった。

 

 主役のいない応接室に、沈黙だけが降り積もる。

 テーブルの上には、まだ中身の残っている冷めきった紅茶。

 琥珀色の水面は鏡のように静止し、そこには誰も映っていない。

 

 窓から差し込む午後の光が、部屋の空気を白く染め上げている。

 その光の中で、ナギサは深いため息を吐き出し、背もたれに身体を預けた。

 完璧に整えられていた仮面が、ほんの少しだけ崩れる。

 

 

「これは……失敗でしたね」

 

 

 その声には、自嘲の色が滲んでいた。

 傍らに立つサクラコもまた、扉の方を見つめたまま、痛ましげに眉を寄せている。

 

 

「……もう少し、段階を踏むべきだったのかもしれません」

 

 

 サクラコの声は沈んでいた。

 彼女にとってリルは、かつて同じ場所で祈りを捧げた後輩であり、守るべき迷い子だ。

 その彼を、よかれと思って引き合わせたこの場が、結果として彼を追い詰め、拒絶させることになってしまった。

 その事実は、彼女の良心を深く苛んでいた。

 

 

「『赦し』と『肯定』──あの子が最も欲しているであろうこの二つ。それを提示すれば、きっとその心も動くはず。……と、そう思っていたのですが」

 

 

 ナギサは独りごちるように言葉を紡ぐ。

 彼女の計算は間違っていなかったはずだ。

 孤立し、過去の罪に囚われている男の子。

 ならば、その罪を権力によって清算し、居場所を与えることで懐柔できる。

 それは政治的なメソッドとしては正解であり、王道だった。

 

 だが、相手はただの、いたいけな男の子ではなかった。

 

 

「少々、見通しが甘かったようですね。……リルさんが抱えている闇は、私の想像よりも遥かに深く、そして暗いものでした」

 

 

 ナギサの脳裏に、リルの最後の表情が蘇る。

 ──『ボクがそうすることで、全部が丸く収まるんです』

 そう言った彼の瞳には、絶望すら通り越した、虚無に近い諦観が宿っていた。

 

 彼は、赦されることを望んでいなかった。

 むしろ、罰を受け続けることこそが、自分の存在意義であると信じ込んでいるかのように。

 自分を傷つけることでしか、他者を守れないと思い込んでいるかのように。

 

 

「自分を罰するために、自ら孤独を選び続けている……。リルにとって、誰かと関わることは、救いではなく恐怖なのかもしれません」

 

 

 サクラコの言葉に、ナギサは無言で頷く。

 

 白鍵リル。

 儚げな容姿とは裏腹に、その内面は鋼のような強迫観念で塗り固められている。

 華奢な肩に背負った十字架は、彼女たちが思っていたよりもずっと重く、彼の肉に食い込んでいたのだ。

 

 

「ですが、収穫もありました。今のあの子に必要なものは、安易な慰めや、論理的なメリットの提示ではないということ」

 

 

 ナギサは冷めた紅茶を一口含み、その苦みに顔をしかめた。

 そして、カップをソーサーに戻すと、凛とした瞳でサクラコを見据える。

 

 

「諦めるつもりはありません。次は、別のアプローチを試みます」

 

 

 その声には、既に次なる一手を見据える者の静かな熱があった。

 策を練ること、流れを読むこと、それこそがティーパーティーのホストたる彼女の本領。

 一度の失敗で退くほど、彼女の背負うものは軽くない。

 

 一方で、サクラコの表情には、未だ影が差したままだ。

 彼女はナギサの言葉に即答せず、沈黙をもって問い返した。

 その瞳にあるのは、警戒と疑念。

 

 

「……そのために、また私に協力しろと?」

「お願いします。現状、あの子とまともに会話が成立し、信頼を得ている存在は、貴女とマリーさんくらいですから」

 

 

 ナギサの要請に対し、サクラコはしばし目を伏せ、考え込むような様子を見せた。

 長い睫毛が頬に影を落とす。

 聖職者としての慈愛と、組織の長としての責任感が、彼女の中でせめぎ合っている。

 

 やがて視線を上げると、彼女はゆっくりと、しかし断固たる口調で言葉を紡いだ。

 

 

「今回、私がナギサさんの頼みに応じて、リルとの面談の場を設けたのは……全てあの子のためです。孤立を深めるあの子に、少しでもトリニティでの居場所を……そして、人との繋がりを取り戻させてあげたかったから」

 

 

 サクラコは一歩、ナギサへと歩み寄る。

 その威圧感は、彼女が単なるシスターではなく、一大派閥の長であることを思い出させるのに十分だった。

 

 

「そのためなら、私は協力を惜しむつもりはありません。しかし──それはあくまで、あの子のため。決して貴女たちティーパーティーのためではないことを、ご理解ください」

 

 

 張り詰めた空気が、部屋を支配する。

 ナギサは表情を変えず、その圧力を正面から受け止めた。

 

 

「……ええ、承知しております」

「その言葉だけでは足りません。改めて、約束してください」

 

 

 サクラコの瞳が、鋭くナギサを射抜く。

 

 

「あの子を、政治の道具には決してしないと。あの子に必要なのは、守られる場所であって、矢面ではありません」

 

 

 それは、警告に近い懇願だった。

 リルの持つ異常な戦闘能力と、危うい精神性。

 それを政治的に利用しようとすれば、彼がどうなるか──サクラコはそれを誰よりも危惧しているのだ。

 

 ナギサは、そのまなざしから目を逸らさなかった。

 ほんの短い間、時間が止まったように二人は視線を交わす。

 互いの腹を探り合い、譲れない一線を確かめ合う。

 

 そして──ナギサは微笑んだ。

 完璧で、優雅で、そしてどこか底知れない微笑みを。

 

 

「ええ、お約束します。リルさんを、政治の『表舞台』へ立たせることは決してしないと」

 

 

 誠実だが、どこか含みのある表現。

 嘘は言っていない。

 だが、真実のすべてを語っているわけでもない。

 

 サクラコは、その答えに微かな違和感を覚えたものの、それ以上追及することはしなかった。

 今の状況でリルを救える力を持っているのは、トリニティの中枢たるティーパーティーをおいて他にないからだ。

 

 彼女は小さく頷き、リルが座っていたソファ──今は主を失った空席へと視線を流した。

 

 

「……あの子が、平穏な青春を取り戻せることを願います」

「ええ。私も、心からそう願っていますよ」

 

 

 ナギサは立ち上がり、窓辺へと歩み寄る。

 アーチ越しに広がる空は高く、どこまでも青い。

 だが、その空の下で何が蠢いているのか、それを知る者は少ない。

 

 大聖堂の外では、遠く鐘の音が鳴っていた。

 それは、何かの終わりか、それとも始まりか。

 

 

「──さて。次はいつ、扉を叩くべきでしょうか」

 

 

 ナギサが、ガラスに映る自分の顔に向けて静かに呟く。

 その瞳は、既に次の盤面を描いていた。

 

 

 

 

 

◆   ◇   ◆

 

 

 

 

 

 場所は変わって、ティーパーティ―専用サロンのバルコニー。

 

 夕刻の陽射しが、石畳に伸びる少女たちの影を赤く、長く染め上げている。

 背後にはサロンの豪奢な外壁、眼下には巨大な庭園──“トリニティ・スクエア”。

 風に乗って、花の香りと共に生徒たちの賑やかな声が微かに届く。

 

 そんな特等席で、一人の少女が優雅に……いや、行儀悪く足を組んで座っていた。

 

 聖園ミカ。

 パテル分派の首長にして、ティーパーティーの一角。

 ピンク色の長い髪と、星屑を散りばめたような瞳を持つ彼女は、テーブルに頬杖をつき、ニヤニヤとした笑みを浮かべていた。

 

 

「え~? ナギちゃんフラれちゃったの? うっそ~! あはははっ!」

 

 

 ミカの笑い声が、バルコニーに響き渡る。

 彼女は手を叩いて面白がり、向かいに座る幼馴染の顔を覗き込んだ。

 

 

「いや~、あれだけ自信満々だったのにね? 『既に、布石は打ってありますから』とかカッコよく言ってた割に、秒殺じゃん! ダサっ!」

「……ミカさん」

 

 

 対面に座るナギサが、ティーカップをソーサーに置く。

 カチャリ、と硬質な音が鳴った。

 その顔には、いつもの瀟洒な笑みが張り付けられてはいるものの、こめかみに青筋が浮いているのを隠しきれていない。

 

 

「今回は……こちらの見通しが甘かった。それだけのことです。リルさんの心の傷は、私の想像以上に根深いものでした。日を改め、もう一度あの子と話を──」

「無理無理☆ あの子を相手に、ナギちゃんみたいなタイプは相性最悪だって~!」

 

 

 ミカはひらひらと手を振り、ナギサの言葉を一蹴する。

 

 

「下心丸出しの安い同情とか、上から目線の救済とか、一番嫌われるやつじゃん。敏感な子にはすぐバレるよ? 特にリルくんみたいな、一度壊れちゃった子にはね」

「…………」

 

 

 ナギサの目元がピクリと痙攣した。

 痛いところを突かれたからか、あるいはミカの物言いが癇に障ったか。

 彼女は一拍置いて、呼吸を整えるように目を閉じると、努めて平静を保った声で言った。

 

 

「……決して安い同情などではありません。たしかにリルさんを特別情報執行局(イスカリオテ)の戦力として利用するつもりではありますが、いち先輩として、あの子の現状を憂いても──」

「ていうかさ~。その『どしたん、話聞こか?』みたいなスタンスがそもそもダメなんだよ。そんなんで年下の男の子引っ掛けようなんて厳しいって。危機感持った方がいいよ?」

 

 

 ────ブチッ。

 

 何かが引きちぎれるような音とともに、ナギサの理性の堤防が決壊した。

 彼女は無言で立ち上がると、ケーキスタンドから極太のロールケーキをわしづかみにする。

 そして、淑女にあるまじき速度でミカに詰め寄った。

 

 

「つべこべつべこべとッ!! これ以上減らず口を叩く気なら、その小さなお口にロールケーキをぶち込みますよッ!?」

「……す、すみませんでした」

 

 

 普段の令嬢スタイルはどこへやら、般若の如く猛り狂うナギサ。

 その手にあるロールケーキは、もはや鈍器にしか見えない。

 尋常ではない剣幕に、さしものミカも恐れをなしたのか、椅子の上で小さくなって震え上がる。

 

 ナギサはしばらくの間、肩で息をしながらミカを睨みつけていたが、やがて深いため息をつくとロールケーキを皿に戻し、席へと座り直した。

 乱れた前髪を指で整え、紅茶を一口。

 ようやく落ち着きを取り戻した彼女は、ふと、あることに気が付いたように眉を動かした。

 

 

「……ちょっと待ってください。先ほどの口ぶり、もしや先日の資料に目を通したのですか?」

 

 

 ナギサの視線が、テーブルの端に置かれたファイルへと向けられる。

 そこには、白鍵リルに関する調査報告書──彼の経歴、身体データ、そして『事件』の詳細が記されていた。

 前回、ミカは興味なさげに流していたはずの資料だ。

 

 

「へ? あ、うん。事件の報告書だけね」

 

 

 ミカはストローでアイスティーをかき混ぜながら、何気ない風を装って答える。

 しかし、その瞳の奥には、いつもの悪戯っぽさとは違う、昏い色が沈殿していた。

 

 

「面倒だし流し読みだけのつもりだったんだけどね~。なんていうか……読んでるうちに興味が湧いちゃってさ」

 

 

 ミカの脳裏に、報告書の文字が浮かぶ。

 

 ──多数の生徒が重軽傷。

 ──キャンパス一棟が崩壊。

 ──圧倒的な破壊の痕跡。

 

 それは、一人の生徒が犯した罪の記録。

 守るべき日常を、友人を、自らの手で壊してしまった悲劇の記録。

 

 ミカは無意識のうちに、自分の胸元をぎゅっと握りしめた。

 そこにある痛み。

 古傷が疼くような感覚。

 

 ──私と、同じだ。

 

 彼女の心に去来するのは、かつての記憶。

 自分の浅はかな考えと、幼稚な感情が招いた、取り返しのつかない過ち。

 その罪悪感は、今も彼女の心を蝕み続けている。

 

 だからこそ、彼女は感じ取ってしまったのだ。

 資料の中の男の子──白鍵リルが抱えているであろう、地獄のような苦しみを。

 血に塗れた手を見て、自分の存在を呪う夜の冷たさを。

 

 

「私から読むように言っておいてなんですが……少々驚きました。ミカさんがそこまで関心を持つとは」

「うん。……だからさ、ナギちゃん」

 

 

 ミカは顔を上げ、ナギサを真っ直ぐに見つめた。

 その表情から、戯れの色が消える。

 

 

「次にあの子と話すときは、私に任せてくれない?」

「……どういう風の吹き回しです?」

 

 

 ナギサが怪訝そうに眉を寄せる。

 普段のミカなら、『面倒くさい』と言って放り出すような案件だ。

 それを自ら買って出るなど、裏があると勘繰られても仕方がない。

 

 しかし、ミカは静かに首を横に振った。

 

 

「──取り返しのつかない失敗をした人の気持ち……私には、ちょっとだけ理解できるから」

 

 

 ポツリと落とされた言葉。

 そこに乗せられた感情の重さに、ナギサは息を呑んだ。

 

 

「だから多分、ナギちゃんよりは上手くやれると思うんだ」

 

 

 ミカは自嘲気味に笑った。

 それはまるで、傷を舐め合うような、あるいは共に地獄へ落ちる道連れを探すような、危うい微笑みだった。

 

 ナギサはしばし沈黙し、幼馴染の瞳を見つめ返す。

 そこに宿る感情の正体を測りかねながらも、今のミカになら任せても良いかもしれないという直感が働いた。

 論理で動く自分には開けなかった扉を、感情で動く彼女なら、こじ開けられるかもしれない。

 

 

「……分かりました。折角、ミカさんがやる気を出してくれたのです。そこまで言うのなら、任せましょう」

 

 

 ナギサは小さく頷いた。

 

 

「ただし、軽率な接触は避けるように。あの子は今、非常に不安定です。一歩間違えれば、取り返しのつかない暴発を招きかねません。慎重に扱ってください」

「はーい☆ 分かってるって!」

 

 

 許可が出た途端、ミカの表情がパッと明るくなる。

 先ほどまでのシリアスな空気はどこへやら。

 彼女はひょいと立ち上がり、くるりと踊るようにターンを決めた。

 

 

「じゃあ、次のお茶会には、私がリルくんを連れてきてあげる! たぶん! いや、きっと!」

「『たぶん』をつけるのはやめなさい」

「え~? だって、失敗しても責任は取りたくないし?」

「ミカさん……」

 

 

 冗談めかしたミカの言葉に、ナギサは再び深いため息をついた。

 本当に大丈夫なのだろうか。

 一抹の不安がよぎる。

 

 だが、ミカはもう止まらない。

 彼女はバルコニーの手すりに身を乗り出し、夕焼けに染まる学園を見下ろした。

 その視線の先には、どこかにいるはずの『共犯者』の姿を探しているようだった。

 

 ──風が吹いた。

 白いスカートがふわりと舞い、少女たちの思惑を乗せて、物語は次なる局面へと動き出す。

 

 

 

 

 

◆   ◇   ◆

 

 

 

 

 

「……はあ」

 

 

 進路相談の翌日。

 教室の窓際の席で、ボクは何度目になるか分からないため息を漏らしていた。

 

 原因は言うまでもなく、昨日のナギサ様との一件だ。

 トリニティの頂点、ティーパーティーからの直接勧誘。

 そして、蒸し返された忌まわしい過去の記憶。

 

 ……ああもう、無理。

 

 思い出すだけで、胃のあたりがきゅっと締め付けられるように痛む。

 逃げ出した時の、あの背中の寒さが忘れられない。

 ナギサ様は怒っているだろうか。

 それとも呆れているだろうか。

 どちらにせよ、ボクの学園生活に暗雲が立ち込めていることだけは確かだ。

 

 

「リルくん……? 大丈夫ですか?」

 

 

 隣の席から、遠慮がちな声がかかる。

 顔を上げると、マリーが心配そうにこちらを覗き込んでいた。

 その翡翠色の瞳には、ボクの体調を案じる色が浮かんでいる。

 

 

「だいじょうぶ〜……」

 

 

 ボクは顔を伏せたまま、ゾンビのような声で答えた。

 

 

「とても大丈夫そうには見えないのですけど……。もしかして、昨日の進路相談でなにかあったのですか?」

 

 

 マリーの問いに、ボクはのそのそと身体を起こし、椅子に深くもたれかかった。

 だらしなく背を反らせて、天井のシミを見つめる。

 

 マリーには、話すべきだろうか?

 でも、『ティーパーティーに勧誘されて、怖くなって逃げ出してきました』なんて、情けなさすぎて言えるわけがない。

 それに、あんな雲の上の存在と関わってしまったことを知られたら、彼女まで巻き込んでしまうかもしれない。

 

 

「……ちょっと、色々あってね。人生の岐路っていうか、袋小路に迷い込んだっていうか……」

 

 

 言葉を濁した、その時だった。

 

 ブツン、というノイズと共に、教室前方の大型モニターが突如として点灯した。

 ざわつくクラス。

 モニターに映し出されたのは、トリニティの高官がスピーチや記者会見で使用する、厳かな内装の一室。

 壁面に刻まれた巨大な三位一体の校章と、ずらりと並ぶ純白の校旗がやたらと仰々しい。

 

 

「あっ、今日は昇天日*1でしたね」

 

 

 マリーが小さく手を打って呟く。

 

 そういえば、そんな日だったか。

 主の復活後、四十日目に天に昇られたことを記念する日。

 こういったトリニティの祝日には、ティーパーティーのホストが全校生徒に向けてスピーチを行うのが通例だ。

 

 画面の中では、昨日会ったばかりのナギサ様が登壇し、マイクの前に立っていた。

 

 ──なんか、気まずい。

 

 ボクは反射的に身を縮こまらせる。

 画面越しとはいえ、彼女と目が合ったような気がして心臓に悪い。

 

 ナギサ様はいつもの穏やかで高潔な口調で、スピーチを始めた。

 主の恩寵、隣人愛、自己犠牲の美徳──まさにトリニティの模範解答といった感じの、完璧なスピーチ。

 その堂々とした姿を見ていると、昨日ボクに見せた動揺や焦燥が嘘のようだ。

 やはり、住む世界が違う。

 

 ボクは腕を組み、静かにそれを聞いていたが、内心ではずっとざわついていた。

 昨日のことが、やはり引っかかる。

 

 ……なぜ、ボクみたいな事故物件に目をつけたのだろう、ナギサ様は。

 トリニティを統べるティーパーティーのホストが、同情だけでその手を差し伸べるとは、到底思えない。

 何か目的があるはずだ。

 

 ……しかし、考えれば考えるほど、泥沼にはまっていく気がする。

 

 そんなモヤモヤを抱えたまま、スピーチが終わる。

 モニターが消え、いつもの日常が戻ってくる──誰もがそう思った、その瞬間。

 

 

『あ、ナギちゃんちょっと待って! これ、まだ映ってる? マイク入ってる?』

『ちょっとミカさん、一体何を──』

 

 

 画面の端から、ピンク色の長髪がふわりと揺れて飛び出してきた。

 フレームインしてきたのは、これまた見覚えのある顔。

 

 ──“聖園ミカ”様。

 ナギサ様と同じティーパーティーの一角であり、学園三大派閥の“パテル分派”を統べる有力者。

 

 天真爛漫な笑顔を浮かべた彼女は、演台のナギサ様をずいっと押しのけ、おもむろにマイクを奪い取った。

 厳粛な式典放送が、一瞬にしてバラエティ番組のような空気に変わる。

 普段の放送とは明らかに異なるこの状況に、クラスメイトたちがざわめき出し、首を傾げる。

 

 

『うん、中継はまだ繋がってるね。え~と、テステス。全校生徒のみんな、きこえてる〜?☆』

 

 

 マイクをポンポンと叩き、カメラに向かってピースサインをするミカ様。

 背後でナギサ様が頭を抱えているのが見える。

 

 パテル分派から、何か重要な発表でもあるのだろうか?

 それとも、ただのパフォーマンス?

 ……よく分からないが、どちらにせよボクには関係のないことだ。

 雲の上の人たちの気まぐれに付き合っていられるほど暇じゃない。

 ボクは再びため息をつき、視線を机の上に戻そうとした。

 

 しかし──続いて紡がれた彼女の言葉に、ボクは我が耳を疑った。

 

 

『それじゃあ本題! 一年生の白鍵リルくん! このあと生徒指導室に来てね! よろしく~☆』

「…………はあっ!?」

 

 

 あまりにも予想外なその一言に、ボクはバネ仕掛けの人形のようにモニターへ向き直った。

 

 今、なんて言った?

 ボクの名前を呼んだ?

 全校生徒が見ている前で?

 

 液晶の向こうでは、ミカ様が満面の笑みを浮かべ、カメラに向かって手を振っていた。

 その視線は、画面越しにボクをロックオンしているようにしか見えない。

 

 シン──と、教室が静まり返る。

 数秒の静寂の後。

 

 ──ギギギ。

 

 錆びついた機械のように、クラスメイト全員の首が一斉にこちらを向いた。

 驚き、好奇心、困惑、そして恐怖。

 様々な感情の混じった数十の視線が、一斉にボクを突き刺す。

 

 隣のマリーも、目を丸くしてこちらを見ている。

 

 

「り、リルくん……? 今の、放送……」

「…………」

 

 

 言葉が出ない。

 ただ、冷や汗だけが背中を伝う。

 

 これは夢だ。悪夢だ。

 そう思いたいけれど、現実は無慈悲に進行していく。

 

 

『ミ・カ・さ・ん……! 軽率な接触は避けなさいと、昨日言いましたよねッ!? しかも全校放送を使うなんて、何を考えているのですか!』

『え、そうだっけ? ごっめーん☆ でも、これが一番手っ取り早いじゃん?』

 

 

 マイクが拾ったナギサ様の怒りを抑えた低い声と、ミカ様の人の神経を逆撫でするような軽い口調が、スピーカーから漏れ聞こえる。

 放送事故だ。

 トリニティの歴史に残る大放送事故だ。

 そしてその中心に、なぜかボクがいる。

 

 ……ダメだ、この人たち、本当に何を考えているのかサッパリ分からない。

 関わっちゃいけない人種だ。

 ナギサ様が政治的な怪物なら、ミカ様は純粋な災害だ。

 

 脳のキャパシティが限界を迎えたボクは、現実逃避をするように、頭を抱えて机に突っ伏した。

 どうか、夢なら覚めてほしい。

 それかこのまま世界が滅亡してくれれば、楽になれるのに。

 

 

『とにかく、ちゃんと来てね! 待ってるから! ……もし無視なんてしたら、私、何しちゃうか分かんないかも☆』

 

 

 甘い声色に隠された、明確な脅迫。

 逃げ場はないと、笑顔で宣告されたようなものだ。

 

 

「なんでだあっ!?」

 

 

 教室の片隅で、ボクは誰に届くとも知れない絶叫を上げた。

 しかしその声は、ざわめき始めた教室の喧噪の中に、虚しく消えていった。

 

 静かな日常を望むボクの願いとは裏腹に、運命の歯車は、最悪の形で回り始めたようだ。

*1
イエス・キリストが復活後に昇天したことを記念する、キリスト教の祭日。




ミカに目をつけられた主人公くん。
ここから受難の日々が始まります。
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