重厚なオーク材の扉が、音もなく閉ざされる。
それはまるで、世界と白鍵リルという生徒を隔てる分厚い壁が、再び築かれた音のようだった。
主役のいない応接室に、沈黙だけが降り積もる。
テーブルの上には、まだ中身の残っている冷めきった紅茶。
琥珀色の水面は鏡のように静止し、そこには誰も映っていない。
窓から差し込む午後の光が、部屋の空気を白く染め上げている。
その光の中で、ナギサは深いため息を吐き出し、背もたれに身体を預けた。
完璧に整えられていた仮面が、ほんの少しだけ崩れる。
「これは……失敗でしたね」
その声には、自嘲の色が滲んでいた。
傍らに立つサクラコもまた、扉の方を見つめたまま、痛ましげに眉を寄せている。
「……もう少し、段階を踏むべきだったのかもしれません」
サクラコの声は沈んでいた。
彼女にとってリルは、かつて同じ場所で祈りを捧げた後輩であり、守るべき迷い子だ。
その彼を、よかれと思って引き合わせたこの場が、結果として彼を追い詰め、拒絶させることになってしまった。
その事実は、彼女の良心を深く苛んでいた。
「『赦し』と『肯定』──あの子が最も欲しているであろうこの二つ。それを提示すれば、きっとその心も動くはず。……と、そう思っていたのですが」
ナギサは独りごちるように言葉を紡ぐ。
彼女の計算は間違っていなかったはずだ。
孤立し、過去の罪に囚われている男の子。
ならば、その罪を権力によって清算し、居場所を与えることで懐柔できる。
それは政治的なメソッドとしては正解であり、王道だった。
だが、相手はただの、いたいけな男の子ではなかった。
「少々、見通しが甘かったようですね。……リルさんが抱えている闇は、私の想像よりも遥かに深く、そして暗いものでした」
ナギサの脳裏に、リルの最後の表情が蘇る。
──『ボクがそうすることで、全部が丸く収まるんです』
そう言った彼の瞳には、絶望すら通り越した、虚無に近い諦観が宿っていた。
彼は、赦されることを望んでいなかった。
むしろ、罰を受け続けることこそが、自分の存在意義であると信じ込んでいるかのように。
自分を傷つけることでしか、他者を守れないと思い込んでいるかのように。
「自分を罰するために、自ら孤独を選び続けている……。リルにとって、誰かと関わることは、救いではなく恐怖なのかもしれません」
サクラコの言葉に、ナギサは無言で頷く。
白鍵リル。
儚げな容姿とは裏腹に、その内面は鋼のような強迫観念で塗り固められている。
華奢な肩に背負った十字架は、彼女たちが思っていたよりもずっと重く、彼の肉に食い込んでいたのだ。
「ですが、収穫もありました。今のあの子に必要なものは、安易な慰めや、論理的なメリットの提示ではないということ」
ナギサは冷めた紅茶を一口含み、その苦みに顔をしかめた。
そして、カップをソーサーに戻すと、凛とした瞳でサクラコを見据える。
「諦めるつもりはありません。次は、別のアプローチを試みます」
その声には、既に次なる一手を見据える者の静かな熱があった。
策を練ること、流れを読むこと、それこそがティーパーティーのホストたる彼女の本領。
一度の失敗で退くほど、彼女の背負うものは軽くない。
一方で、サクラコの表情には、未だ影が差したままだ。
彼女はナギサの言葉に即答せず、沈黙をもって問い返した。
その瞳にあるのは、警戒と疑念。
「……そのために、また私に協力しろと?」
「お願いします。現状、あの子とまともに会話が成立し、信頼を得ている存在は、貴女とマリーさんくらいですから」
ナギサの要請に対し、サクラコはしばし目を伏せ、考え込むような様子を見せた。
長い睫毛が頬に影を落とす。
聖職者としての慈愛と、組織の長としての責任感が、彼女の中でせめぎ合っている。
やがて視線を上げると、彼女はゆっくりと、しかし断固たる口調で言葉を紡いだ。
「今回、私がナギサさんの頼みに応じて、リルとの面談の場を設けたのは……全てあの子のためです。孤立を深めるあの子に、少しでもトリニティでの居場所を……そして、人との繋がりを取り戻させてあげたかったから」
サクラコは一歩、ナギサへと歩み寄る。
その威圧感は、彼女が単なるシスターではなく、一大派閥の長であることを思い出させるのに十分だった。
「そのためなら、私は協力を惜しむつもりはありません。しかし──それはあくまで、あの子のため。決して貴女たちティーパーティーのためではないことを、ご理解ください」
張り詰めた空気が、部屋を支配する。
ナギサは表情を変えず、その圧力を正面から受け止めた。
「……ええ、承知しております」
「その言葉だけでは足りません。改めて、約束してください」
サクラコの瞳が、鋭くナギサを射抜く。
「あの子を、政治の道具には決してしないと。あの子に必要なのは、守られる場所であって、矢面ではありません」
それは、警告に近い懇願だった。
リルの持つ異常な戦闘能力と、危うい精神性。
それを政治的に利用しようとすれば、彼がどうなるか──サクラコはそれを誰よりも危惧しているのだ。
ナギサは、そのまなざしから目を逸らさなかった。
ほんの短い間、時間が止まったように二人は視線を交わす。
互いの腹を探り合い、譲れない一線を確かめ合う。
そして──ナギサは微笑んだ。
完璧で、優雅で、そしてどこか底知れない微笑みを。
「ええ、お約束します。リルさんを、政治の『表舞台』へ立たせることは決してしないと」
誠実だが、どこか含みのある表現。
嘘は言っていない。
だが、真実のすべてを語っているわけでもない。
サクラコは、その答えに微かな違和感を覚えたものの、それ以上追及することはしなかった。
今の状況でリルを救える力を持っているのは、トリニティの中枢たるティーパーティーをおいて他にないからだ。
彼女は小さく頷き、リルが座っていたソファ──今は主を失った空席へと視線を流した。
「……あの子が、平穏な青春を取り戻せることを願います」
「ええ。私も、心からそう願っていますよ」
ナギサは立ち上がり、窓辺へと歩み寄る。
アーチ越しに広がる空は高く、どこまでも青い。
だが、その空の下で何が蠢いているのか、それを知る者は少ない。
大聖堂の外では、遠く鐘の音が鳴っていた。
それは、何かの終わりか、それとも始まりか。
「──さて。次はいつ、扉を叩くべきでしょうか」
ナギサが、ガラスに映る自分の顔に向けて静かに呟く。
その瞳は、既に次の盤面を描いていた。
場所は変わって、ティーパーティ―専用サロンのバルコニー。
夕刻の陽射しが、石畳に伸びる少女たちの影を赤く、長く染め上げている。
背後にはサロンの豪奢な外壁、眼下には巨大な庭園──“トリニティ・スクエア”。
風に乗って、花の香りと共に生徒たちの賑やかな声が微かに届く。
そんな特等席で、一人の少女が優雅に……いや、行儀悪く足を組んで座っていた。
聖園ミカ。
パテル分派の首長にして、ティーパーティーの一角。
ピンク色の長い髪と、星屑を散りばめたような瞳を持つ彼女は、テーブルに頬杖をつき、ニヤニヤとした笑みを浮かべていた。
「え~? ナギちゃんフラれちゃったの? うっそ~! あはははっ!」
ミカの笑い声が、バルコニーに響き渡る。
彼女は手を叩いて面白がり、向かいに座る幼馴染の顔を覗き込んだ。
「いや~、あれだけ自信満々だったのにね? 『既に、布石は打ってありますから』とかカッコよく言ってた割に、秒殺じゃん! ダサっ!」
「……ミカさん」
対面に座るナギサが、ティーカップをソーサーに置く。
カチャリ、と硬質な音が鳴った。
その顔には、いつもの瀟洒な笑みが張り付けられてはいるものの、こめかみに青筋が浮いているのを隠しきれていない。
「今回は……こちらの見通しが甘かった。それだけのことです。リルさんの心の傷は、私の想像以上に根深いものでした。日を改め、もう一度あの子と話を──」
「無理無理☆ あの子を相手に、ナギちゃんみたいなタイプは相性最悪だって~!」
ミカはひらひらと手を振り、ナギサの言葉を一蹴する。
「下心丸出しの安い同情とか、上から目線の救済とか、一番嫌われるやつじゃん。敏感な子にはすぐバレるよ? 特にリルくんみたいな、一度壊れちゃった子にはね」
「…………」
ナギサの目元がピクリと痙攣した。
痛いところを突かれたからか、あるいはミカの物言いが癇に障ったか。
彼女は一拍置いて、呼吸を整えるように目を閉じると、努めて平静を保った声で言った。
「……決して安い同情などではありません。たしかにリルさんを
「ていうかさ~。その『どしたん、話聞こか?』みたいなスタンスがそもそもダメなんだよ。そんなんで年下の男の子引っ掛けようなんて厳しいって。危機感持った方がいいよ?」
────ブチッ。
何かが引きちぎれるような音とともに、ナギサの理性の堤防が決壊した。
彼女は無言で立ち上がると、ケーキスタンドから極太のロールケーキをわしづかみにする。
そして、淑女にあるまじき速度でミカに詰め寄った。
「つべこべつべこべとッ!! これ以上減らず口を叩く気なら、その小さなお口にロールケーキをぶち込みますよッ!?」
「……す、すみませんでした」
普段の令嬢スタイルはどこへやら、般若の如く猛り狂うナギサ。
その手にあるロールケーキは、もはや鈍器にしか見えない。
尋常ではない剣幕に、さしものミカも恐れをなしたのか、椅子の上で小さくなって震え上がる。
ナギサはしばらくの間、肩で息をしながらミカを睨みつけていたが、やがて深いため息をつくとロールケーキを皿に戻し、席へと座り直した。
乱れた前髪を指で整え、紅茶を一口。
ようやく落ち着きを取り戻した彼女は、ふと、あることに気が付いたように眉を動かした。
「……ちょっと待ってください。先ほどの口ぶり、もしや先日の資料に目を通したのですか?」
ナギサの視線が、テーブルの端に置かれたファイルへと向けられる。
そこには、白鍵リルに関する調査報告書──彼の経歴、身体データ、そして『事件』の詳細が記されていた。
前回、ミカは興味なさげに流していたはずの資料だ。
「へ? あ、うん。事件の報告書だけね」
ミカはストローでアイスティーをかき混ぜながら、何気ない風を装って答える。
しかし、その瞳の奥には、いつもの悪戯っぽさとは違う、昏い色が沈殿していた。
「面倒だし流し読みだけのつもりだったんだけどね~。なんていうか……読んでるうちに興味が湧いちゃってさ」
ミカの脳裏に、報告書の文字が浮かぶ。
──多数の生徒が重軽傷。
──キャンパス一棟が崩壊。
──圧倒的な破壊の痕跡。
それは、一人の生徒が犯した罪の記録。
守るべき日常を、友人を、自らの手で壊してしまった悲劇の記録。
ミカは無意識のうちに、自分の胸元をぎゅっと握りしめた。
そこにある痛み。
古傷が疼くような感覚。
──私と、同じだ。
彼女の心に去来するのは、かつての記憶。
自分の浅はかな考えと、幼稚な感情が招いた、取り返しのつかない過ち。
その罪悪感は、今も彼女の心を蝕み続けている。
だからこそ、彼女は感じ取ってしまったのだ。
資料の中の男の子──白鍵リルが抱えているであろう、地獄のような苦しみを。
血に塗れた手を見て、自分の存在を呪う夜の冷たさを。
「私から読むように言っておいてなんですが……少々驚きました。ミカさんがそこまで関心を持つとは」
「うん。……だからさ、ナギちゃん」
ミカは顔を上げ、ナギサを真っ直ぐに見つめた。
その表情から、戯れの色が消える。
「次にあの子と話すときは、私に任せてくれない?」
「……どういう風の吹き回しです?」
ナギサが怪訝そうに眉を寄せる。
普段のミカなら、『面倒くさい』と言って放り出すような案件だ。
それを自ら買って出るなど、裏があると勘繰られても仕方がない。
しかし、ミカは静かに首を横に振った。
「──取り返しのつかない失敗をした人の気持ち……私には、ちょっとだけ理解できるから」
ポツリと落とされた言葉。
そこに乗せられた感情の重さに、ナギサは息を呑んだ。
「だから多分、ナギちゃんよりは上手くやれると思うんだ」
ミカは自嘲気味に笑った。
それはまるで、傷を舐め合うような、あるいは共に地獄へ落ちる道連れを探すような、危うい微笑みだった。
ナギサはしばし沈黙し、幼馴染の瞳を見つめ返す。
そこに宿る感情の正体を測りかねながらも、今のミカになら任せても良いかもしれないという直感が働いた。
論理で動く自分には開けなかった扉を、感情で動く彼女なら、こじ開けられるかもしれない。
「……分かりました。折角、ミカさんがやる気を出してくれたのです。そこまで言うのなら、任せましょう」
ナギサは小さく頷いた。
「ただし、軽率な接触は避けるように。あの子は今、非常に不安定です。一歩間違えれば、取り返しのつかない暴発を招きかねません。慎重に扱ってください」
「はーい☆ 分かってるって!」
許可が出た途端、ミカの表情がパッと明るくなる。
先ほどまでのシリアスな空気はどこへやら。
彼女はひょいと立ち上がり、くるりと踊るようにターンを決めた。
「じゃあ、次のお茶会には、私がリルくんを連れてきてあげる! たぶん! いや、きっと!」
「『たぶん』をつけるのはやめなさい」
「え~? だって、失敗しても責任は取りたくないし?」
「ミカさん……」
冗談めかしたミカの言葉に、ナギサは再び深いため息をついた。
本当に大丈夫なのだろうか。
一抹の不安がよぎる。
だが、ミカはもう止まらない。
彼女はバルコニーの手すりに身を乗り出し、夕焼けに染まる学園を見下ろした。
その視線の先には、どこかにいるはずの『共犯者』の姿を探しているようだった。
──風が吹いた。
白いスカートがふわりと舞い、少女たちの思惑を乗せて、物語は次なる局面へと動き出す。
「……はあ」
進路相談の翌日。
教室の窓際の席で、ボクは何度目になるか分からないため息を漏らしていた。
原因は言うまでもなく、昨日のナギサ様との一件だ。
トリニティの頂点、ティーパーティーからの直接勧誘。
そして、蒸し返された忌まわしい過去の記憶。
……ああもう、無理。
思い出すだけで、胃のあたりがきゅっと締め付けられるように痛む。
逃げ出した時の、あの背中の寒さが忘れられない。
ナギサ様は怒っているだろうか。
それとも呆れているだろうか。
どちらにせよ、ボクの学園生活に暗雲が立ち込めていることだけは確かだ。
「リルくん……? 大丈夫ですか?」
隣の席から、遠慮がちな声がかかる。
顔を上げると、マリーが心配そうにこちらを覗き込んでいた。
その翡翠色の瞳には、ボクの体調を案じる色が浮かんでいる。
「だいじょうぶ〜……」
ボクは顔を伏せたまま、ゾンビのような声で答えた。
「とても大丈夫そうには見えないのですけど……。もしかして、昨日の進路相談でなにかあったのですか?」
マリーの問いに、ボクはのそのそと身体を起こし、椅子に深くもたれかかった。
だらしなく背を反らせて、天井のシミを見つめる。
マリーには、話すべきだろうか?
でも、『ティーパーティーに勧誘されて、怖くなって逃げ出してきました』なんて、情けなさすぎて言えるわけがない。
それに、あんな雲の上の存在と関わってしまったことを知られたら、彼女まで巻き込んでしまうかもしれない。
「……ちょっと、色々あってね。人生の岐路っていうか、袋小路に迷い込んだっていうか……」
言葉を濁した、その時だった。
ブツン、というノイズと共に、教室前方の大型モニターが突如として点灯した。
ざわつくクラス。
モニターに映し出されたのは、トリニティの高官がスピーチや記者会見で使用する、厳かな内装の一室。
壁面に刻まれた巨大な三位一体の校章と、ずらりと並ぶ純白の校旗がやたらと仰々しい。
「あっ、今日は昇天日*1でしたね」
マリーが小さく手を打って呟く。
そういえば、そんな日だったか。
主の復活後、四十日目に天に昇られたことを記念する日。
こういったトリニティの祝日には、ティーパーティーのホストが全校生徒に向けてスピーチを行うのが通例だ。
画面の中では、昨日会ったばかりのナギサ様が登壇し、マイクの前に立っていた。
──なんか、気まずい。
ボクは反射的に身を縮こまらせる。
画面越しとはいえ、彼女と目が合ったような気がして心臓に悪い。
ナギサ様はいつもの穏やかで高潔な口調で、スピーチを始めた。
主の恩寵、隣人愛、自己犠牲の美徳──まさにトリニティの模範解答といった感じの、完璧なスピーチ。
その堂々とした姿を見ていると、昨日ボクに見せた動揺や焦燥が嘘のようだ。
やはり、住む世界が違う。
ボクは腕を組み、静かにそれを聞いていたが、内心ではずっとざわついていた。
昨日のことが、やはり引っかかる。
……なぜ、ボクみたいな事故物件に目をつけたのだろう、ナギサ様は。
トリニティを統べるティーパーティーのホストが、同情だけでその手を差し伸べるとは、到底思えない。
何か目的があるはずだ。
……しかし、考えれば考えるほど、泥沼にはまっていく気がする。
そんなモヤモヤを抱えたまま、スピーチが終わる。
モニターが消え、いつもの日常が戻ってくる──誰もがそう思った、その瞬間。
『あ、ナギちゃんちょっと待って! これ、まだ映ってる? マイク入ってる?』
『ちょっとミカさん、一体何を──』
画面の端から、ピンク色の長髪がふわりと揺れて飛び出してきた。
フレームインしてきたのは、これまた見覚えのある顔。
──“聖園ミカ”様。
ナギサ様と同じティーパーティーの一角であり、学園三大派閥の“パテル分派”を統べる有力者。
天真爛漫な笑顔を浮かべた彼女は、演台のナギサ様をずいっと押しのけ、おもむろにマイクを奪い取った。
厳粛な式典放送が、一瞬にしてバラエティ番組のような空気に変わる。
普段の放送とは明らかに異なるこの状況に、クラスメイトたちがざわめき出し、首を傾げる。
『うん、中継はまだ繋がってるね。え~と、テステス。全校生徒のみんな、きこえてる〜?☆』
マイクをポンポンと叩き、カメラに向かってピースサインをするミカ様。
背後でナギサ様が頭を抱えているのが見える。
パテル分派から、何か重要な発表でもあるのだろうか?
それとも、ただのパフォーマンス?
……よく分からないが、どちらにせよボクには関係のないことだ。
雲の上の人たちの気まぐれに付き合っていられるほど暇じゃない。
ボクは再びため息をつき、視線を机の上に戻そうとした。
しかし──続いて紡がれた彼女の言葉に、ボクは我が耳を疑った。
『それじゃあ本題! 一年生の白鍵リルくん! このあと生徒指導室に来てね! よろしく~☆』
「…………はあっ!?」
あまりにも予想外なその一言に、ボクはバネ仕掛けの人形のようにモニターへ向き直った。
今、なんて言った?
ボクの名前を呼んだ?
全校生徒が見ている前で?
液晶の向こうでは、ミカ様が満面の笑みを浮かべ、カメラに向かって手を振っていた。
その視線は、画面越しにボクをロックオンしているようにしか見えない。
シン──と、教室が静まり返る。
数秒の静寂の後。
──ギギギ。
錆びついた機械のように、クラスメイト全員の首が一斉にこちらを向いた。
驚き、好奇心、困惑、そして恐怖。
様々な感情の混じった数十の視線が、一斉にボクを突き刺す。
隣のマリーも、目を丸くしてこちらを見ている。
「り、リルくん……? 今の、放送……」
「…………」
言葉が出ない。
ただ、冷や汗だけが背中を伝う。
これは夢だ。悪夢だ。
そう思いたいけれど、現実は無慈悲に進行していく。
『ミ・カ・さ・ん……! 軽率な接触は避けなさいと、昨日言いましたよねッ!? しかも全校放送を使うなんて、何を考えているのですか!』
『え、そうだっけ? ごっめーん☆ でも、これが一番手っ取り早いじゃん?』
マイクが拾ったナギサ様の怒りを抑えた低い声と、ミカ様の人の神経を逆撫でするような軽い口調が、スピーカーから漏れ聞こえる。
放送事故だ。
トリニティの歴史に残る大放送事故だ。
そしてその中心に、なぜかボクがいる。
……ダメだ、この人たち、本当に何を考えているのかサッパリ分からない。
関わっちゃいけない人種だ。
ナギサ様が政治的な怪物なら、ミカ様は純粋な災害だ。
脳のキャパシティが限界を迎えたボクは、現実逃避をするように、頭を抱えて机に突っ伏した。
どうか、夢なら覚めてほしい。
それかこのまま世界が滅亡してくれれば、楽になれるのに。
『とにかく、ちゃんと来てね! 待ってるから! ……もし無視なんてしたら、私、何しちゃうか分かんないかも☆』
甘い声色に隠された、明確な脅迫。
逃げ場はないと、笑顔で宣告されたようなものだ。
「なんでだあっ!?」
教室の片隅で、ボクは誰に届くとも知れない絶叫を上げた。
しかしその声は、ざわめき始めた教室の喧噪の中に、虚しく消えていった。
静かな日常を望むボクの願いとは裏腹に、運命の歯車は、最悪の形で回り始めたようだ。
ミカに目をつけられた主人公くん。
ここから受難の日々が始まります。