校内放送の衝撃から十数分後。
トリニティ総合学園の広大な廊下を、ボクは重たい足取りで歩いていた。
すれ違う生徒たちが、ぎょっとした顔で道を開ける。
遠巻きに囁かれる、『あれが放送の……』『今度は何をやらかしたの?』という好奇と畏怖の混ざった声。
そのすべてが、針のようにボクの肌を刺した。
「……はぁ」
ボクは、この世の終わりのような溜息を吐き出した。
足が鉛のように重い。
一歩進むごとに、胃のあたりがキリキリと痛む。
目的地は、生徒指導室。
本来ならば、教師が生徒を諭すための神聖な場所だ。
だが今日、そこで待っているのは慈愛に満ちた教師ではない。
トリニティの頂点に君臨するティーパーティーの一角にして、予測不能の災害──聖園ミカ様なのだから。
逃げたい。
今すぐに回れ右をして、自宅のベッドに潜り込みたい。
だが、全校放送で指名手配された以上、逃げ場などどこにもない。
やがて、処刑台への階段を登り切ったボクの前に、目的の扉が現れた。
何の変哲もない木製の扉だが、今のボクには地獄の門に見える。
覚悟を決めるのに数秒。
震える手を伸ばし、ノックをする。
「……白鍵リルですぅ」
喉から絞り出したのは、ゾンビの呻き声のような名乗りだった。
「はーい、どうぞ~!☆」
対照的に、中から返ってきたのは春風のように軽やかで、無邪気な声。
その明るさが、逆に怖い。
ボクは観念してドアノブを回し、その身を魔窟へと滑り込ませた。
部屋に入ると、そこは窓からの逆光に満たされていた。
舞う埃さえキラキラと輝く光の中で、一人の少女がソファに優雅に腰掛けている。
桃色の長い髪、星空を瞳に宿したような美貌。
ミカ様は、入室したボクを見るなり、ぱあっと花が咲くような笑顔を向けた。
「うんうん、ちゃーんと来たね。素直なのはいいことだよ、リルくん」
彼女は手元のティーカップを置くと、手招きをした。
あまり飾り気のない窮屈な一室。
シンプルなローテーブルを挟み、彼女と向かい合うように空のソファが置かれている。
……デジャヴだ。
昨日、大聖堂でナギサ様と対面した時と、構図が全く同じだ。
トリニティの権力者たちは、他人をソファに座らせて圧迫面接をするのが趣味なのだろうか。
「とりあえず、座って座って」
ご機嫌な笑顔で席を勧められ、ボクは渋々、対面のソファへと向かった。
シスター服の裾を整え、おずおずと腰を下ろす。
「あのぉ……。一体なんのご用でしょう……?」
「え? 進路相談に決まってるじゃん」
べしゃっ。
ソファのリクライニングが壊れていたらしく、ボクは床の上に転げ落ちた。
それを元に戻しつつ、抗議の声を上げる。
「昨日ナギサ様とやったばかりじゃないですか。ていうか、人を脅して呼びつけておいて、やることが進路相談って……」
「ナギちゃんと私は別だもん。それに、私の相談はもっと……こう、実利的だよ?」
ミカ様は悪戯っぽく微笑むと、テーブルの上に一枚の書類を広げて見せた。
そこには、丸っこい独特な手書き文字で、こう記されていた。
──“ティーパーティー入会誓約書”。
「やっぱりその話ですか……って、何でもう内定してるんですかあ!?」
「だって、一次面接はもう終わってるじゃん。ナギちゃんとのやつ」
「いや、あの……あれでお終いになったはずですけど……?」
「細かいことはいいのいいの。とにかく、あとは最終面接と、この書類の提出だけだよ」
ボクは身を乗り出し、書類の内容を凝視する。
そして、戦慄した。
「……ツッコミどころが多すぎますっ! 何なんですかこの誓約書の内容は!」
第一条:白鍵リルは、ティーパーティー(主に聖園ミカ)の命令に絶対服従すること。
第二条:呼び出しには24時間365日、即座に応じること。
第三条:おやつの買い出し命令は3分以内に完了させること。
「これ、入会届じゃなくて奴隷契約書ですよね!? しかもほとんどミカ様専用の!」
ボクは机ごと突き破りそうな勢いで、書類をつつき回した。
というか、この人はナギサ様から昨日の顛末を何も聞いていないのだろうか。
明確にお断りしたはずなのに、さも入会が決まっているかのように話を進めるとは、気でも狂っているのではないか。
「え~? そんなことないよ? リルくんの才能を、正しく活用してあげようっていう私の親切心だよ?」
「そんな押し売りいりません! クーリングオフします!」
「ふ~ん?」
ミカ様が、すっと目を細めた。
琥珀色の瞳から、ふいに温度が消える。
空気が凍り付くようなプレッシャーに、ボクの身体が本能的に強張った。
「リルくんって、ティーパーティーの私に向かってそんな口の利き方しちゃうんだ?」
ビクッ。
わざわざ、
一般生徒と、学園の支配者。
その絶望的な格差を思い出させられる。
「そうなると……一学期の成績表は、それなりの評価をせざるを得なくなるんだけどなぁ」
ニヤニヤと、嗜虐的な笑みを浮かべるミカ様。
どうやら、今度はボクの成績を盾にとって脅すつもりらしい。
ただでさえ出席日数やテストの点数が怪しいボクにとって、内申点への干渉は致死量に等しい毒だ。
「そ、そんな脅し通用しませんからね! もし、成績とか内申とか、その他諸々の不当な扱いをするつもりなら、即ナギサ様に訴えますので!」
ボクは必死に虚勢を張った。
ホストであるナギサ様には、ミカ様でも簡単には逆らえないはずだ。
その証拠に、機先を制された彼女はニヤニヤ笑いをやめて、考え込むように顎先に手をやった。
勝った。
そう思ったのも束の間。
「ねぇリルくん。ナギちゃんの弱みって知ってる?」
「は……いえ……?」
「じゃあ、連邦生徒会の役員に知り合いはいる?」
「あの……いや……」
「まさかまさか、シャーレの先生とお友達だったりしちゃう?」
「…………いえ」
にっこり。
ミカ様は満面の笑みで、小首をかしげた。
「じゃあ、誰がリルくんの味方をしてくれるのかな~?☆」
詰んだ。
完全なるチェックメイトだ。
権力者を前に、一介の生徒など吹けば飛ぶ紙クズでしかないことを思い知らされた。
この悪魔は、ボクの逃げ道を完全に塞いでから嬲り殺しにする気だ。
こうなってしまったら、もう出来ることは一つしかない。
ボクはゆっくりと立ち上がり、拳を握りしめた。
「…………お」
「お? 入る気になった?」
ミカ様が期待に満ちた目でこちらを見る。
ボクは大きく息を吸い込み、腹の底から声を張り上げた。
「おおお、覚えてろおおおぉぉっ!!」
三十六計逃げるに如かず。
己の敗北を悟ったボクは、生徒指導室の扉を蹴破る勢いで開け放ち、脱兎のごとく逃げ出した。
幸い、追ってくる気配はない。
とりあえず、当面の危機は脱したらしい。
しかし、廊下を全力疾走しながら、ボクは予感していた。
この出会いが、長い受難の始まりにすぎないことを。
あの桃色の悪魔は、飽きるまでボクをオモチャにし続けるつもりだ。
ざわざわ、がやがや。
昼休みの教室は、いつも以上に活気に満ちていた。
原因はもちろん、午前中にあったボクへの公開呼び出し放送だ。
『あの後、どうなったんだろう』
『とうとう退学処分?』
『いや、ミカ様のお気に入りになったって噂も……』
ひそひそと交わされる憶測。
チラチラと向けられる、好奇と憐憫の視線。
針のむしろとは、まさにこのことだ。
「あ~もう、面倒くさい面倒くさい面倒くさい……」
ボクは机に突っ伏したまま、呪詛のようにぼやき続けた。
せっかくの昼食時だというのに、食欲なんて欠片も湧かない。
購買で買ってきたジャムパンの袋を無造作に破り、一口かじる。
甘ったるい苺ジャムの味が、ストレスで荒れた胃に重くのしかかる。
「リルくん」
隣の席から、鈴のような声がかかった。
顔だけを横に向けると、マリーが心配そうにこちらを見ていた。
彼女は制服の膝にハンカチを丁寧に敷き、両手で小さなクリームパンを抱え込むようにして食べていた。
「……うん?」
「本当に、何があったんですか? 昨日の進路相談から、ずっと様子が変です。今朝だって、まるで亡霊みたいでしたし……」
マリーの真っ直ぐな瞳。
そこには一点の曇りもない、友人としての純粋な心配がある。
こんなにも穢れのない瞳を前にして、嘘をつくことなんてボクには出来そうになかった。
ボクは観念して身体を起こし、パンの袋で口元を隠すようにしながら、彼女の方にだけ聞こえるような小声で囁いた。
「信じられないかもだけど……。実は昨日、ナギサ様からティーパーティーへ勧誘されたんだ」
「……ぇ」
マリーが、手にしたクリームパンを落としそうになる。
時が止まったのごとく固まる彼女に、ボクは追い打ちをかけるように告げた。
「で、今日はミカ様。朝の放送、聞いてたでしょ? あれもその一環」
「まさか……あれも勧誘目的だったんですか?」
「そ。しかも、かなり強引なやつ」
マリーの目が、驚きでぱちぱちと瞬いた。
まるで、急に空の色が虹色にでも変わったかのような表情。
しばらく言葉を失っていた彼女は、やがてほう、と感嘆の息を漏らした。
「リルくん、すごいです……! ティーパーティーにお誘いを受けるなんて、とっても名誉なことですよ!」
「ううん、すごくないよ。断ったし」
「えぇっ!?」
マリーの声が裏返る。
教室中の視線が一瞬こちらに集まり、ボクは慌てて人差し指を唇に当てた。
マリーは口元を押さえ、声を潜めて続ける。
「ど、どうしてですか……? リルくんなら、きっと立派に務まると思います。優しくて、責任感もあって……」
「マリーがそんな風に思ってくれるのは、すごく嬉しいよ。でもね……」
ボクは視線を落とし、自嘲気味に笑った。
「他のみんなは違うんだ。みんなにとってボクは、“ノートルダム分校”*1を崩壊させた怪物でしかないから」
耳を澄ませば聞こえてくる。
ボクとティーパーティーの関係性について囁かれる、心ない憶測の数々。
その全てが、ボクという存在の異質さを物語っている。
ボクのような汚れ役が、表舞台に立っていいはずがない。
光の当たる場所に行けば、その影はより濃く、醜く伸びるだけだ。
「だから、ナギサ様とミカ様に、どうやって諦めてもらうか考えないと。特にミカ様。一度断ったのに、あんな手を使ってくるなんて……」
「そう、ですか……。分かりました。それがリルくんの望みなら、私はそれを応援します」
「……ごめんね、期待に応えてあげられなくて」
「いいえ。私は最初から、リルくんの選択を尊重すると決めていましたから」
いつもの、慈愛に満ちた柔らかい微笑み。
その笑顔を見るたびに、ボクの心は救われると同時に、微かな罪悪感に苛まれる。
こんなにも真っ直ぐな彼女に、ボクのような人間が寄りかかっていていいのだろうか。
「それよりも、目的が本当に謎なんだよね。なんでボクみたいな問題児を……」
ボクはジャムパンの残りを口に押し込みながら、思考を巡らせる。
手っ取り早く使い捨てられる兵隊が欲しいのか?
それとも、ボクの悪名を何かに利用したいのか?
もしくは、もっと別の──。
その時だった。
教室のスピーカーから、耳慣れたチャイム音が流れてきた。
『え~、一年生の白鍵リルくん。大至急、生徒指導室まで来るように! なるはやで! おやつ用意して待ってるよ☆』
軽快なチャイム音に続いて、ミカ様の楽しげな声が響く。
またか。
またなのか。
まだ昼休みに入って十数分しか経っていないのに。
「り、リルくん」
「……知らない。ボクは何も聞いてない」
ボクは両手で耳を塞ぎ、机に突っ伏した。
現実逃避だ。
聞こえないフリをしていれば、そのうち諦めるだろう。
そう思っていた。
しかし、数分後。
再びチャイムが鳴り響く。
『一年生の白鍵リルくん白鍵リルくん。奨学金のことについて大事なお話があります。ぜんぜん怖くないので、急いで生徒指導室まで☆』
どんな嘘だ。
ボクは奨学金なんて申請した覚えはないし、そもそもトリニティの学費は免除されている。
嘘をつくにしても、もう少しマシな嘘をついてほしい。
とにかく、ミカ様に関わるとロクなことがないことは今朝のやり取りで骨身に染みて理解した。
だから、もう関わらない。二度と。絶対。
今の呼び出しも当然無視だ。
「リルくん、いいんですか……? かなり何度も呼ばれていますけど」
「いいのいいの。ナギサ様ならまだ話は通じるかもだけど、ミカ様はダメ。あの人は自然災害と同じ。過ぎ去るのを待つのが一番だよ」
片手をひらひらと振りながら、ボクは強がって見せる。
しかし、そうして無視を決め込んだのも束の間。
バンッ!!
教室の扉が、爆発音のような音を立てて開かれた。
クラス中の視線が入り口に集中する。
そこに立っていたのは、肩で息をする桃色の髪の少女──。
「ちょっとおおおおぉぉぉっ!!」
風のように駆け込んできたその少女は、ボクの席まで一目散に突進してきた。
「リルッ! アンタねぇッ!!」
「……はあ」
また、面倒ごとが増えてしまった。
嫌々ながら騒音の発生源へ視線を向けると、そこには予想通り、鬼の形相をしたコハルさんの姿があった。
彼女は両手をおもいきりボクの机に叩き付け、バンッ、と大きな音を鳴らす。
教室中の視線が、また一斉にこちらに突き刺さる。
もう、勘弁してほしい。
これ以上、目立ちたくないのに。
「どんな悪事を働いたら、ミカ様から直々に呼び出しなんて食らうのよ!!」
コハルさんの剣幕に、ボクはのけぞった。
しかし、そんなものこっちが教えてほしい。
前世でどんな大罪を犯せば、あんな悪魔みたいな存在に執着される羽目になるのか。
脳裏に、ボクの成績表を人質に取ってニヤつくミカ様の顔が浮かんでくる。
「知らないよ。強いて言うなら、前にコハルさんから借りた新品の消しゴムを、角を全部使って返したことくらいだよ」
「アンタ、あれまだ許してないからね……!」
地響きのような声を絞り出すコハルさん。
その額にはいくつもの青筋が走っている。
「とにかく、ボクはなにもやってないもん。冤罪だよ、冤罪」
「どうだか! この間のスケバンだって、見て見ぬふりしてたくせに!」
「だってボク、か弱い一般生徒だし?」
苦笑しながら肩を竦めるボクに、コハルさんの眉がぴくりと跳ねた。
「一昨日の体力テストで、トリニティの記録を塗り替えまくってたヤツが、よく言うわよ……!」
「あ、あの、コハルさん。リルくんにも、なにか事情があったのかもしれませんし──」
見かねたマリーが助け舟を出そうとするが、コハルさんは止まらない。
「マリーはリルを甘やかしすぎ! そんなんじゃコイツ、この先アンタの介護なしじゃ生きていけなくなっちゃうわよ!」
「……そ、それはそれで……望むところ、といいますか……」
コハルさんの指摘に、なぜかマリーは頬をほんのり朱に染める。
指先でもじもじと制服の袖口をつまみ、ちらりとこちらを見上げてきた。
ボクにどんな反応を期待しているのか知らないが、この歳で要介護認定は御免被りたい。
「それより、そのスケバンたちは結局どうなったの?」
話が変な方向に行きかけていたので、強引に話題を戻すと、コハルさんは心底悔しそうに唇を噛んだ。
「……逃げられたわよ。あとほんの一歩だったのにっ」
「あら、それはご愁傷さま」
「そういえばアイツら、なんか怪しい薬物を運んでたのよね」
その言葉に、ジャムパンの袋をくしゃくしゃに丸めていた手が思わず止まる。
「怪しい……薬物?」
「うん。逃走のどさくさで、それを一つ落としていったの。今、正実の解析班が調べてるけど、詳細はまだ不明なのよね」
どうも、穏やかではない話だ。
コハルさんの話が確かなら、トリニティの学区内で、堂々と薬物の密輸が行われていたということになる。
外聞や体裁というものを重んじるトリニティにおいて、これは由々しき事態ではなかろうか。
「リルがあのとき動いてくれてたら、あいつらの口から情報を吐かせられたのに……!」
「コハルさん……。仮定の話をしても、虚しいだけだよ?」
「あんたが言うなあっ! 大体あんたはいつも──」
と、怒鳴り散らすコハルさんの声が、突然ざわめきにかき消された。
廊下から響く歓声とどよめき。
今度は何事かと視線を扉へ向けると、そこに立っていたのは──
「来ちゃった☆」
満面の笑顔を浮かべる桃色の悪魔──もとい、ミカ様。
まさか、放送を無視されたからといって、直接乗り込んでくるとは。
彼女と目が合った瞬間、ボクの背中を極寒の滝のような冷や汗が流れた。
「やっほーリルくん! おっかしいな~? 放送で何度も呼び出したのに、どうしてまだこんなところにいるのかな?」
ミカ様は軽やかな足取りで、ボクの席までやってくる。
その笑顔は完璧で、美しい。
けれど、その瞳の奥は笑っていない。
獲物を追い詰めた捕食者の目だ。
「え~、あの~……耳を塞いでいて聞こえなかったんです」
「ふ~ん? そっかそっか。じゃあ仕方ないね!」
ミカ様はあっさりと頷く。
しかし、次の瞬間、彼女は懐から書類を取り出し、ボクの目の前に突き出した。
「それじゃ、今ここでサインしてもらおっかな! あ、拇印でもいいよ! 朱肉がないなら特別に私のリップ貸したげる!」
それは朝に突き付けてきたものと同じ──いや、更に怪しさがバージョンアップしているティーパーティー入会誓約書。
「……あのですね。この妙に禍々しい捺印欄の枠はなんですか? こんなの今朝はありませんでしたよね?」
「あ~、それ? それはね、ユスティナ聖徒会に伝わる呪──」
そこまで言いかけると、ミカ様はハッとして、コツコツと指先でこめかみを叩いた。
そして、満面の笑みで言い直す。
「まぁ、なんでもいいじゃんね☆」
「いいワケあるかあっ!!」
ボクは、教室の窓から逃走した。
コハルって基本フットワークが軽いので、小説だと動かしやすいキャラですよね。