「原案カフェの設定好きすぎるのに供給少なすぎる」という想いから生まれた、C103頒布予定の同人誌の物語、その序章です

トレーナーの性別はお好きな方を思い浮かべてもらって構いません

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夥しい夢が集積し、終着する場所。中央トレセン学園と呼ばれるそこには、全国から選りすぐりのウマ娘たちが一堂に会する。その中の一人である私は、未だスタートラインに立ちすらせず、ひたすらに誰かを待ち侘びていた。

駆ける道は定めた。障害を欺く装いは纏った。飢えを満たせる好敵手は捉えた。

後はただ一つ。

私を認め、私と歩き、私が目指す先を照らしてくれる人。

ただその人を待ち望み、(こいねが)う。

ああ、どうか早く私の元に現れて。

私では届かない果ての先まで、私では飛べない遙かな高みまで。どこまでもどこへでも連れて行ってくれる愛しい誰か。

どうか。どうか早く、私を連れて行って――




序章 月光芒

とっぷりと日が暮れた頃、私は日中とは打って変わって閑散とした練習場に再度訪れていた。

 

トレーニングの見学をしていた時、撮影に使ったスマホをどこかで落としてしまったためだ。

早々落とすようなものでもないが、恐らく解けた靴紐を結ぼうとしゃがんだ拍子にポケットから落ちてしまったのだろう。

落し物として届けられていなかったから、芝か何かに隠されているのかもしれない。だとしてもこんな時間になるまで落としてしまったことすら全く気づかなかった自分の鈍感さに辟易としつつ、私用のスマホから落とした仕事用スマホにコールする。これで場所が分かればいいが、誰かに踏まれていたり落とした時に故障していたりしたらどうしようか……

 

と、少し不安に思ったのも(つか)の間、どこかからか軽快な電子音が聞こえてきた。

 

一安心し、耳を澄まして音のする方へと向かう。

どうやら練習用レーンの近くのようだ。

そうして向かった先には、ポツンと存在を主張し続けるスマホ――と、それを持つ一人のウマ娘がいた。

 

「おや、主人(あるじ)でしょうか?……コレの」

 

綺麗な濡羽色の長髪が特徴的な彼女から、どこか落ち着く声色で話しかけられる。

その髪の間から覗く瞳は月光の如く綺麗な色をしている。

在学中のウマ娘としては平均より少し小柄だが、その容姿に見合わず眼光にはどこか剣呑さを帯びているような気がした。

 

「ああ。その証拠に、ほら」

 

自分が持つスマホの画面を見せつつコールを切った。ほんの少し間をおいてスマホから鳴っていた音が止んだことを確認し、彼女はこちらにスマホを差し出した。

 

「……どうぞ」

 

「ありがとう。君はここで自主練をしてたの? 邪魔しちゃったかな。」

 

少し汗ばみ、早めの呼吸のたび肩を小さく上下させる様子を見れば、すぐそこで運動していた最中に音が鳴り響いたから発生源まで来たのだろうと十分に察せられた。

 

「……黄昏時からは、ここはひどく静かで……だから、よく利用しているんです。音に少し驚きましたが、邪魔と言うほどではありません」

 

確かに、ここは校舎からも宿舎からも離れているからか物音一つしない。こんな時間にわざわざここまできて練習するウマ娘は滅多にいないだろうし、穴場だというのも頷ける。

頷けることなのだが、何故だか……この場所が静かだからこの娘がいるというよりも、この娘がいるから場の方が彼女に合わせ、静寂を提供しているのではないか――そんなたわいも無いことを考えるほど、威圧感とも違う場を制す印象を彼女から受けた。

 

「それに、明後日は勝負の日。私の出場する、選抜レースがあるので……」

 

「えっ、選抜レースに? 君が出走するってこと?」

 

「……この学園に在籍する生徒は、ほぼ全員出る予定か出たことがあるはず……まあ、一人だけ出そうにない方を知ってますが。驚くほどのことでは無いでしょう?」

 

「いや、それはそうだけど……」

 

彼女の風格はデビューなどとっくに終えたウマ娘のそれであり、だというのに担当すら決まっていないというので愕然とする。

まさかこんな逸材が隠れていたなんて……

しかも、生徒にとっては一大イベントのレースがすぐ迫っているというのに、彼女は一抹の不安も緊張もしていない。それどころか――

 

「なら、せっかくだからちょっと見学させてもらえない?」

 

「……私のトレーニングを……ですか?」

 

もちろん。と首肯し、少し目を丸くする彼女を改めて観察した。

一見小柄だが、体操着から覗く引き締まったトモに無駄なく絞られた腕。使い込まれたシューズとブレのない重心を見れば、ここで自主練をよく行っているというのが嘘ではないとわかる。

もしかしたら今日見た中で……いや、これまでに見たことのあるデビュー前のウマ娘の中で一番良いバ体かもしれない。こんな逸材と出会えたにも関わらずすぐ帰る、なんて選択肢はとうに消え失せていた。

 

「……秘密の特訓、というわけではありませんから……あのスマホ以上に騒がしくしないのなら、どうぞお好きに」

 

左右の宙を摘むように腕をあげ、片足を軽く曲げて小さなお辞儀――欧米ではカーツィなどと呼ばれる女性の畏まった挨拶――をどこか芝居がかった様子でこちらに振る舞ったあと、レーンの方へと歩いていく。感謝を告げると、レーンの先へ顔を向けた彼女が目線だけをこちらに向け声を発した。

 

「……ですが、アナタが私を見極めるように……私も、アナタを見極めさせていただきます。どうか、お忘れなきよう……」

 

辺りが静かであることを差し引いても不思議とよく通る声でそう伝えるや否や、彼女は走り出した。

一体どういう意味だと思考を巡らせ――

 

そんなことはどうでもいいと、彼女の走りは私の全てを引き込んだ。

 

その走りは、まるで影を裂くような走りだった。

授業で見せられるような丁寧な足運びに体捌き。その一歩一歩に前へ進もうとする鋭い力が込められている。レーンを囲むように点在する照明による若干の影へと引き込まれるように走り、その影を破り、塗りつぶすように進む。その脚色は衰えることを知らず、見惚れている間に最終コーナーを周ろうとしていた。

一挙手一投足を見逃さんと(つぶさ)に観ていた私は、彼女が少し目を細めたことすらわかった。その直後――

 

その姿が、闇に溶けた。

 

そう錯覚させるほどに低く身を屈め、早く速く疾く駆けて行った。二つ並んだ月のように眼前へと光を返す双眸は、ただただ何かを見つめ続けている。それはゴールの先のようでもあり、すぐ近くにある何かを追うようでもあった。

 

……その瞳に灯る何か。お手本のようなフォーム。

 

その二つが同居していることに、何故か小さな違和感を覚える。

どうしてそう感じるのか、自分自身よく分からないが……一見似ているけれど全く違う部品を無理やり組み合わせ、本来とは違う機能を仕様として見せているような、奇妙な感覚が心に小さな爪痕を残していった。

 

 

 

 

走り切った彼女が速度を落としてこちらに向かってくる。

ふう、と。

彼女は呼吸を整えるため息を吐き、私は圧倒され飲んでいた息を吐いた。

 

「では、私は寮に戻ります……そろそろ、門限なので」

 

「あ、ああ……改めて、見学させてくれてありがとう」

 

「……ふふ、お気になさらず。特別なことなど、何もしていませんから……」

 

そういう彼女は、あんな走りを見せた後だというのにもうほとんど息が整っている。速さやフォームの綺麗さだけでなくスタミナまで既にかなりつけているようだ。

小さな違和感など無視すればどこをとっても一級品である彼女の走りを見て、出会ってからまだ幾許(いくばく)も無いというのに、これまでに見たどのウマ娘よりも彼女に惹かれていた。

 

「君の名前、教えてもらってもいいかな」

 

「……マンハッタンカフェ。私の名前は、マンハッタンカフェです」

 

自意識でどうこうするまでもなく、脳裏に刻まれる。マンハッタンカフェ。自由の国で栄える州の名を冠す彼女。

 

「……君は、もう担当トレーナーは決めているの?」

 

少し緊張しつつそう尋ねる。あれほどの走り、他のトレーナーが放っておくはずがない。

その上でチャンスがあれば……そういった下心をなるべく見せないようにしたつもりだったが、大して意味はなさそうだった。

 

なぜなら、そう聞いてくることなどお見通しだと言わんばかりに微笑んだのだから。

 

「いいえ。まだ、決めていません。声なら何度か、掛けられましたが……」

 

「なら、ぜひ私も立候補したい。いいかな?」

 

「ええ。私にとっても望むところです……ただし、私が答えを出すのは、明後日の選抜レースの後。アナタがある質問の解答を私に用意し、それを聞いてから……」

 

ある質問、というのが走る直前に言っていた見極めだろうか。

何であれ新人トレーナーの自分がこんなウマ娘を担当できるかもしれないなんて、千載一遇のチャンスであることに変わりはない。襟を正し、気を引き締めて続きを促した。

 

「質問か。一体どんな……?」

 

「……とてもとても単純な、ウマ娘なら誰しも考えることです……そう、これは私とアナタの……いえ、仔細は置いておくとして。アナタに問います」

 

彼女は体をこちらに真っ直ぐと向け、口角が少し上がり三日月を描く唇に人差し指を当てる。その人差し指の先、マンハッタンカフェの遥か上には少し欠けた満月――子望月(こもちづき)が鎮座していた。月光に照らされる彼女は下から私の瞳を覗き込むように顎を引き、目を通し頭の奥まで見透かさんばかりにこちらをじっと見つめながら、その問いを口にした。

 

 

「私は何故、走るのでしょう?」

 

 

 

 

 

 

「走る理由……走る理由かあ……」

 

彼女――マンハッタンカフェと出会い、不思議な質問を投げかけられた翌日。

新人トレーナーとして研修や仕事を全うしつつ、その質問についてあれこれと考えていた。しかし結局、これだ! とピンとくる解答は浮かばないまま昼を迎え、今は昨日と同じようにウマ娘の練習風景を見学する時間だ。見学といっても、実際はトレーナー達がスカウトし、担当バを決めるための時間であり、まだスカウトに成功していない同僚たちはあちこち歩き回って積極的にウマ娘たちと交流していた。

昨日までの私なら彼らと同じようにしていただろうが、もはや他のウマ娘たちに興味など湧くはずもない。スカウトしようかなんて視点ではなく、誰か彼女のことを知っていないか、彼女に詳しい人を教えてもらおうかなどと考えながら眺めていると……

 

「どうした、今日一日浮かない顔しちゃってさ。なんか悩み事?」

 

明らかに集中していない自分を見るに見兼ねた同期のトレーナーが声をかけてくれた。

 

「うーん、まあそんなところかな。実は昨日スカウトしたウマ娘がいるんだけど、それ絡みでね……」

 

「おお、ついにお前がスカウトしたい子が見つかったのか。そもそも受けてくれるかわからないってのに誘いもせず、ずっと話すか見てるだけだったお前がなあ。なんて名前の子?」

 

彼女のことを教えてしまったらライバルが増えるか? とも思ったが、心配して声をかけてくれた彼が横槍を入れてくるような性格ではないと知っているため、素直に名前と訳を伝える。

 

「ふーん。マンハッタンカフェ、か。それに妙な質問……もしかして、黒くて長い髪のウマ娘か?」

 

「えっ、何か知ってるの!?」

 

思わぬところから手がかりが舞い込んだので、ずいと身を乗り出して問い(ただ)す。

もしや彼がすでにスカウトを? そう逸る私をどうどう、と軽く宥めた後に彼は話を続けた。

 

「いや、俺が直接会った訳じゃないんだが……お世話になってる先輩から有望そうな担当の居ないウマ娘について聞いたとき、新人じゃスカウトの難度が高いウマ娘にそんな子がいたなって思い出したんだ。」

 

「スカウトが難しい……どうしてマンハッタンカフェがそうなのかも聞いた?」

 

「ああ。確かその子、前回の選抜レースに出走してたみたいでな」

 

「前回っていうと、あの研修やらですごい忙しかったときか」

 

選抜レースは年に計四回行われる。これは単に活躍の場を多く用意するためでもあるが、ウマ娘独自の成長期である「本格化」の個人差が大きすぎることからこのような方式となっている。この「本格化」を終え、レースに耐えうる身体となったウマ娘からデビューに向けて活動を開始するのだが、年単位で差があるため当然終わる時期もバラバラになる。つまりどんな時期に選抜レースが開催されても直後に本格化を終えるウマ娘が出てきてしまうので、そんな子の待ちぼうけの期間をなるべく短くする必要があるからだ。

それはともかく、年四回は選抜レースに出る機会があるため、一回でトレーナーを決めない、決まらないウマ娘はそれなりに存在する。そのままスカウトされず、学生を終えるウマ娘すらいるほどである。

 

「んで、先輩がその子をスカウトした時、お前と同じように質問されたけど答えが気に食わなかったのかにべもなく断られたらしくてな。先輩はかなり優秀なトレーナーって評判なのに、それでもそんなことあるのかってショックで印象に残ってたんだ。」

 

確かに彼女も何度か声をかけられたとは言っていた。が、ベテランのトレーナーからも声をかけられたという事実に、やはり彼女はすごいウマ娘なのだという思いと、そんなトレーナーすらふるいにかけられ失敗するのかという二つの思いが湧き上がる。

いや、今はそんなことよりも何故その先輩はダメだったのかを知って生かす方が大事だと思い直し、同僚に先輩はどんな質問をされてどう答えたのか覚えているかと聞いた。

 

「ええと、確か『先のレースでの走りをどう思うか』って質問に『丁寧な体捌きと冷静な試合運びのいい走りだった』って答えたんだったか。そしたら「それで?」って聞き返されて、困惑してたら見切りを付けられたらしい。これだけでダメって、褒められるのが嫌いなのかな、なんて先輩ぼやいてたっけ」

 

「なるほど……」

 

答えた内容におかしな所はない。しかし、その解答ではダメとなると、見たままを答えるだけではダメだったのか……それとも――

 

「ん、あの子いい走りっぷりだな……スマン、ちょっと気になる子がいるから行っても良いか?」

 

「え? ああ、もちろん。参考になったよ。ありがとう!」

 

「いいってこれくらい。んじゃ、お前もスカウト頑張れよ!」

 

そう言って彼は練習中のウマ娘の元へと駆けて行った。彼のおかげで為人(ひととなり)を少し知ることができたが、一筋縄では行かないということも思い知らされた。もっと彼女の情報を得るためにもマンハッタンカフェ自身との交流は当然として、他に彼女のことを知る人から色々と話を聞くべきだ――そう判断し、辺りを見渡す。すると小休憩がとれるスペースの一角に座っている三人のウマ娘たちを見つけた。ちょうどいいとそのウマ娘たちの元へ聞きに行く。

 

「休憩中に失礼、ちょっと話を聞かせてくれない?」

 

「おお〜トレーナーさんですか〜? 全然OKですよ〜! もしかして、スカウトしてくれたりします〜?」

 

「あはは。ごめんね、そういう訳じゃなくって……マンハッタンカフェって子について聞きたいんだけど、誰か知ってたりしないかな?」

 

「マンハッタンカフェさん〜? あ、あの子のこと〜?」

 

「ああ、あの……私たちおんなじクラスだから知ってますよ。ちょっとだけですけど」

 

「そうだったの!? でもちょっとだけって、あんまり話したことはないのかな?」

 

「はい。だってあの子、こっちから何か聞けば普通に話してくれるけど、全然自分からは話の輪に混ざったりしてこないから。昼休みとかも食事の後は一人でどこかに行ってるみたいだし……」

 

「今みたいな練習中も場所に指定がないと見かけることすらないよね〜。なるべく一人でいたいんじゃないかな〜? そもそもちょっと近寄りがたい感じがするから、みんな自分から関わりには行かないし〜」

 

……一筋縄では行かないとは思っていたが、まさかそこまで人間関係が希薄だったとは。思えば昨日も静かだからという理由であんな時間に練習していると言っていた。他人から見た彼女の評を得るのは厳しいかもしれない。

と、悩んでいたら、まだ一言も話していない三人のうちの一人が意を決したような面持ちで口を開いた。

 

「……あ、でも、そういえば私、昼休みに見かけたことある……ます。普段もそこにいるのかは知らない……ませんけれど……」

 

「ほんと!?」

 

主張控えめにおずおずと言った内容に食いつく。他の二人も自分と同じく驚いている様子で、どうやら本当にクラスメイトにすらどう過ごしているか全然知られていないようだ。人との関わりが至極薄いらしいマンハッタンカフェ、その手掛かりがこんなにすぐ見つかったことに嬉しく思いつつ詳細を尋ねると、その子の口からは意外な名前が出てきた。

 

「……トレーナーさんは、アグネスタキオンってひと、知ってる……ますか?」

 

「え? あー……なんというか、良くも悪くも有名なウマ娘だよね」

 

アグネスタキオンといえば、まだデビューしていないにも関わらず自分のような新人トレーナーでも色々と噂を耳にするウマ娘だ。

曰く『とてつもない力を秘めている』。曰く『目が合ったら怪しい薬の被験体にされる』。曰く『教室を爆破したことがある』……その大半が控えめに言っても危険なものであり、要注意ウマ娘として学園中に知れ渡っている。まさかマンハッタンカフェの調査中にその名が出て来るとは欠片も思っていなかったが、一体どんな関係があるのだろうか。

 

「実は、彼女が実験か何かをする専用の部屋がある……ですけど、その前をたまたま通った時に、カフェさんがあのタキオンさんと中で話しているのがチラッと見えた……ました。なんだか仲が良さそうというか、珍しくカフェさんが笑顔だった……でしたような……」

 

タキオンさんに目をつけられないようにすぐ立ち去ったからよく見えなかった、と申し訳なさそうな彼女は、これ以上ないほど有益な情報をもたらしてくれた自覚がないようだ。

感謝を伝え、他にも知っていることを教えてくれと頼んだり、さらに他のウマ娘に聞きに行ったりしたが、これ以上の情報は出てこなかった。

アグネスタキオン。どうやら、マンハッタンカフェというウマ娘を知る上で非常に重要な人物となりそうだ。そんな確信めいた予感を持って、仕事をこなしたあと彼女たちから教わった(くだん)の教室へと足を運ぶのだった。

 

……マンハッタンカフェの質問に答えるためといえど、もし本当に噂通り非常に危険なウマ娘だったらどうしよう、と少し重い足を。

 

 

 

 

 

 

「それでわざわざ私の下に訪れたというわけか。ふぅン、カフェに興味を持つトレーナーくらいそれなりにいるだろうと予想はついていたが……私にまで話を聞きに来たトレーナーは初めてだよ。しかも新人とはね! いや、新人だからこそ、かな?」

 

事のあらましを聞き終えた目の前のウマ娘――アグネスタキオンは、顎の下に親指と人差し指をはめるように押し当てながら興味深いと言わんばかりの笑みを浮かべた。

それも当然だろうと思いつつ「私が初めて、か。それは良かった」と皮肉を込め返事をした。

――イスに縛り付けられた状態で。

珍妙な状況ではあるが、こうなるまでの経緯は至ってシンプル。教室に来た私を出迎え、部屋に入れてくれたタキオンに勧められるがまま一人掛けの大きな椅子に座ると、彼女はおもむろに赤いボタンのついた機械をとりだした。それを押した瞬間にガシャン、と拘束具が私の手足に嵌められていたのだ。

それだけのシンプルな出来事だが、私自身さっぱり理解できない。噂通り彼女は気軽に近づかない方がいいウマ娘だということだけはよく理解できたが。何故マンハッタンカフェは彼女と仲がいいのか……受け入れ難い現実から目を背けるように虚空を見つめていると、機嫌のいいアグネスタキオンは何らかの液体が入った試験管を取り出した。

 

「いやー、しかし実にいい時に来てくれたものだ。ちょうど被験者のサンプルが欲しい薬が精製できたところでね。それを飲んで簡単な質問に答えてくれたら、私も君の疑問への解答という要求を呑むとしよう。実にフェアなトレードだと思わないかい?」

 

「……分かった。彼女のことを教えてくれるなら、その薬とやらを飲むよ」

 

ここまできたら諦めも付くし覚悟も決まろうというもの。カフェが仲良くしているウマ娘から生死に関わるような薬を飲まされるなんてことは無いだろうし、マンハッタンカフェの担当になるためならこの程度なんてことはない……こともないが、それでも彼女を知ることの方が大事だ。

 

「……へぇ、大抵は取り乱して許しを乞うのだが……よっぽどカフェが気になるらしい。あるいは狂気の片鱗の発露か……いいだろう、その知欲と気概に免じて試すのは一つだけにしてあげるよ」

 

じゃあ本来なら一体どれだけの実験をするつもりだったんだ、そう言いたくなるがそれで心変わりをされても困るため、黙って彼女が差し出す蛍光色の液体を流し込む。

何があっても摂取してはいけないと脳が警鐘を掻き鳴らす見た目のそれを、舌にのせた瞬間――

一生忘れられない、名状し難き玉虫色の味がした。

強引に飲み下し、少し時間を置いてからタキオンの病院でされる診断のような質問に応じる。

ショックで回らない頭をなんとか駆使して答え、ようやく自分の番となった。

 

「……ふむ、では直後の問診はこれくらいにして、と。そろそろ君からの質問に答えるとしよう。なんでも聞いてくれて構わないよ」

 

「よ……ようやくですか……」

 

永遠にも思える数分間を乗り越えた私は、変に敬語を使ってしまうほど気疲れしていた。

こんな目にあってまでしたかった事の本題を思い出しつつ、努めて直前の何もかもを意識から逸らしタキオンに質問する。

 

「ふう……昼休みにここでタキオンとカフェが話してるのを見たって子がいたんだけど、本当?」

 

「Yes。昼休憩中の食後や時間が空いた際はカフェも私もここに来る。私にとってここはカフェ以外誰にも邪魔されず実験できる場所だからね」

 

「へえ、ここではカフェも楽しげにしていたとも言っていたけれど……」

 

「Yes。私に強く関心を抱いているらしく、カフェほど私に積極的に関わろうとする人物もいないよ。親を含めてね」

 

「え? カフェからタキオンに会いに来てるの? てっきりタキオンがカフェを実験に巻き込んでいるのかと……」

 

「No。自分からこの部屋に来るし、割と実験にも協力的だよ。と言っても私が精製した薬品の被験体にはほとんどなってくれないが。一度無理にでも飲ませようと君と同じように椅子に縛り付けてみたら、縄を引きちぎられたこともあったな。全く、それでも私と関わるのをやめないとは、彼女も物好きだね……まあ、私からの彼女への期待を考えれば、どっちもどっちと言ったところか」

 

最後の言葉の意味はよく分からなかったが、なんだかこれまでに聞いた話と随分食い違う証言だ。他人への興味がタキオン一人に集中しているのだろうか?

 

「カフェはタキオン以外の人とはほとんど関わろうとしないみたいだけど、なんでなのか知ってる?」

 

「No。と言っても、本人に確認をとったことがないだけで、予想は付く。おそらく単純に興味がないのさ、有象無象には。私もそこはたいして変わらないからね」

 

……まあ、自分もそうじゃないかという気はしていた。これまでに得た彼女の情報から、なんとなく彼女の関心は自分の走りやレースに集中しているような印象を受けていたからだ。しかし、だとすると未だにわからないのは二つ。一つは何故アグネスタキオンにのみ例外的に関心が向けられるのか。そしてもう一つは、彼女からしてきた質問そのもの――『何故、走るのか』――それこそがマンハッタンカフェという人物の核である気がした。

 

「彼女はもう何度かスカウトされているらしい。でもまだトレーナーを決めていない理由に心当たりは?」

 

「No。私だってカフェのことをなんでも知っている訳じゃない。そういうことは直接聞いたほうが早いんじゃないかな?」

 

「それもそうか……それじゃ、最後に一つ」

 

「おや、もういいのかい? なんでもは知らないと言ったが、実験に協力してくれた時ついでに色々測らせてもらったから私くらいしか知らないこともあるよ。身長や体重、スリーサイズとかね」

 

「そんなプライバシーの塊、彼女の預かり知らないところで聞くのはアウトにも程が有るよ……それに、それこそ知りたくなったら直接聞けばいい。彼女のトレーナーになれたなら、体重管理は重要な仕事の一つだから」

 

そう、そんなことは彼女のトレーナーになった後聞けばいい。そして、そうなるために知っておかなければいけないことをアグネスタキオンに投げかける。

 

「これが一番の本題なんだけれど……

 彼女が何故、このトレセン学園に来てまで走ることにこだわるのか。思い当たることはある?」

 

「……Yes、だ。私は実験ついでに誘いを承諾して何度か一緒に併走したことがあるからね。他のウマ娘も教官もトレーナーも気付きすらしないカフェのそれは、私の探究心に引けを取らないと知っている。もっとも、私が速さを求めるのに対し、カフェは……」

 

そこまで言ってタキオンは口をつぐみ、私のことをジロジロと見定めるように観察し始めた。一体どうしたのかと思っていると、何かを懸念するような視線をこちらに向けながら口を開く。

 

「……ところで君。マンハッタンカフェという一ウマ娘をひどく気に入っているようだが。君の、トレーナーとしての夢は何だい? 何、単純な好奇心からの質問だ。気軽に答えてくれたまえ」

 

なんだか話が見えてこないが、別に恥ずかしいことでも隠したいことでもない。素直に答えると、それを聞いたタキオンは――

 

「ククク……アーッハッハッハ!」

 

何がおかしいのか、腹を抱えて高笑いし出した。

 

「なるほどなるほど、ならば君はあのカフェのトレーナーにピッタリだ! いや、私としても君がそうなってくれると非常に助かるよ! うん。うんうん、応援しているから、是非とも夢を叶えるために彼女のトレーナーになってくれたまえ!」

 

「……言われなくても、そのつもりだよ」

 

いたく私の夢とカフェの相性を気に入ったのか、態度が先ほどまでと全く違うタキオンを怪訝な目で見つめる。私とカフェの相性がピッタリとはどういうことなのだろうか。その急変振りと内容からして、私とカフェを慮った結果相性がいい、というよりタキオンの目的に対し都合がいいようだが……

 

「それで、結局カフェの走る理由について思い当たることって?」

 

「ああ、話を逸らしてしまったね。といっても……それがカフェからの課題なのだろう? カンニングなんてつまらないことに加担してしまってはいけないし……そうだな、ヒントをあげよう。これだけでも君なら答えに辿り着けるさ」

 

正直なところ答えがわかるなら教えて欲しいが、カフェも自分が考えた末の解答を求めているのだろうし、ありがたくタキオンのヒントだけもらうことにした。

 

「さて……君がカフェにどんな印象を抱いているのかは知らないが、もし彼女が他人に主張なんて滅多にしない大人しく静かなウマ娘だと思っているなら、とんでもない大間違いだ。

 彼女は、ともすれば私以上にわがままで自分勝手なウマ娘さ。それこそ、共食いも辞さない一匹狼のように」

 

このヒントを当てにするしないは勝手だが、精々頑張ってスカウトを成功させてくれ。そう言って言葉を締めるアグネスタキオン。今ひとつ要領を得ないヒントだが……

ふと、一つの仮説が思い浮かんだ。

それが正しいのなら、多くの謎に説明がつく。それを確かめるためにも、カフェに直接会って練習の様子を見る必要がある。今の時間なら、昨日出会った練習場でトレーニングをしているだろうか……そう考え、色々と教えてくれたタキオンに礼を述べて部屋を後にしようとした。

 

「ありがとうタキオン……ところで、もう拘束を解いて欲しいのだけど」

 

「あ、そうだったね。忘れていたよ」

 

……やっぱり、お礼は言わなくてもよかったかもしれない。

 

 

 

 

 

 

「……おやおや。また忘れ物、でしょうか?」

 

足音が聞こえたのか、機敏にこちらを向いた頭上の耳につられるように振り向くマンハッタンカフェ。その髪の間から覗く瞳は、以前と同じように仄かな妖しい光を発していた。

 

「そんな頻繁にするわけじゃないよ……また君の練習風景を見学させてほしくって。よく利用してるって言ってたから、今日もいるかなと思ってさ」

 

「ふふ、ここにいなかったら……そもそもトレーニングしていなかったらどうするつもりだったんです?」

 

「その時は私が学園中を探し回ってくたびれるだけだよ。もっとも、明日の選抜レースを控えた君が練習していない可能性なんて、考えてもいなかったけれど」

 

「……それはそれは、期待を裏切ることがなかったようで何より」

 

心なしか昨日よりも雰囲気の柔らかい彼女は、薄く浮かべていた微笑を少し深めた。見つけられたことと見学を断られることがなさそうな対応を受け、心の中でホッと一息つく。

 

「にしても、タキオンさんに目移りでもしましたか? 変なことはされたようですが」

 

「いや、私は君一筋……ってなんでタキオンに会ったこと知ってるの!?」

 

「おや、気づいていないんですね。肌が薄く光ってますよ、黄緑色に」

 

そんな愉快な姿、タキオンさんと会わないとならないでしょう? そう言われて初めて、照明があると言えど辺りは暗くなっているのに自分の姿がクッキリと見えることに気がつく。気味が悪い色のおまけ付きで。

人体が発光するって、一体どんな薬を飲ませたんだ……!? と、驚愕と憤慨と怖気が同時に湧き上がるが、ここで取り乱しても仕方がないため強引に意識を切り替える。

 

「あー、うん。確かにタキオンには会ったけど……その口振りからして、本当にタキオンと仲がいいんだね」

 

「ええ。と言っても、双方が一方的な期待を寄せているだけ。タキオンさんが私にどんな思いを寄せているのか、詳しくはわかりませんが……そのあたりはもう、聞き及んでいるのでは? せっかく会いに行ったのでしょう」

 

「ああ。それらしいことは聞いたけど、本当に深く交流があるのか確証はなかったから……ちなみに、なんでタキオンからじゃなくて私から会いにいったと思ったの?」

 

「ふふふ。自分へ向けられる感情には、少しばかり敏感なもので……当然、アナタからの情念も。ならば、接触の動機は私と考えるのが自然ですから」

 

「……こっちのことは筒抜け、ってことか」

 

昨日から感じていたことではあるが、彼女は相当に人の機微に聡いようだ。タキオンへ目移りしたのかという質問も分かりきった上での彼女なりの冗談だったのだろう。自分の心が(つまび)らかにされているような感覚に羞恥を覚え、誤魔化すため頬を掻いた。

 

「詳細までは流石にわかりませんので、ご安心を。例えば――アナタがもう質問の答えを用意できたのか、とか」

 

刹那の間だけ、彼女の雰囲気が鋭さを帯びる。錯覚かと思うほど一瞬だけだったが、確かに空気が変わった。もう答えがあるのか否かということすらも選定のうちなのかもしれない。どうあれ、彼女にとって昨日投げかけた質問に重大な意味があるのは確かなようだ。

 

「……いや、まだ答えは見つかっていない。そうかもしれない、という候補はあるけれど。それを確かめるためにも、今日ここに来たんだ」

 

「……そうですか。なら、世間話は切り上げて練習に戻るとしましょうか。基礎トレーニングは終えたので、これからはレーンを用いて走るところです。ああ、わざわざ私の許可を得ずとも、見学程度お好きになさってください。なんなら、言いたいことがあれば途中で呼び止めることも許しましょう」

 

「ありがとう、できるだけ邪魔にならないようするよ。けど、本当にいいの? 私が中断させても。わざわざこの時間のこの練習場に来ているんだから、誰にも口を挟まれずに練習したいんじゃ……」

 

「……まあ、仰る通り、今までは誰にも邪魔されず走れることが重要でしたが……

 アナタは、特別です」

 

流し目でそう言い残し、レーンの方へ向かうマンハッタンカフェ。見惚れてしまいそうな美貌と芯を射抜くような言葉の衝撃で心臓が跳ねる。ここまで期待してくれているのにスカウトに失敗したら、当分は……いや、もしかしたら一生他のウマ娘をスカウトする気になれないかもしれない。やはり、彼女のトレーナーとして相応しく成らなくては。そう決意を固め、彼女の走りを見極めることにした。

マンハッタンカフェが構え、走り始めた。その足取りは多少美化されているはずの記憶に劣らず鮮烈なもの。デビュー前とは思えないほど綺麗な姿勢で、清廉なコース取り。見ていると、自然と今日聞いた話がフラッシュバックしてくる。

 


 

「ええと、確か『先のレースでの走りをどう思うか』って質問に『丁寧な体捌きと冷静な試合運びのいい走りだった』って答えたんだったか。」

 


 

「彼女は、ともすれば私以上にわがままで自分勝手なウマ娘さ。それこそ、共食いも辞さない一匹狼のように。」

 


 

相反するベテラントレーナーとアグネスタキオンの評。どちらの方がカフェと親密なのかを考えれば、核心をついている方は分かり切っているが。

他人の意見はどうあれ、今の、昨日と同じマンハッタンカフェの走り方は――昨日と違い、歪に映った。

 

 

結局その後も私から中断することはなく、ただひたすらにじっと見て学んでいた。

何周か走り終え、休憩を取るためか走るのを止めてマンハッタンカフェがこちらへと歩いて来る。かなり体力を消耗しているはずだが、私の前で止まる頃にはすでに静かな呼吸へと落ち着いていた。

 

「……さて、疑惑が確信へと変わりつつあるようで。聞きたいことはなんでしょう?」

 

こちらのことなどお見通しな言葉に苦笑する。彼女に隠し事は困難極まるだろう。そもそも彼女に気づかれたくないことなどないし、作るつもりもないけれど。

とにかく、せっかく彼女の方から問うことを促してくれたので、単刀直入に聞くことにした。

 

「君は、他人の目が一切ない普段もあんな走り方なの?」

 

「あんな走り方……というと」

 

「まるで教科書に乗っていることをコピーしたみたいな姿勢にコース取りのこと。誰も見ていない時も、ああいう走り方の練習をしているのかなって」

 

「……ええ、そうです。“継続は力なり”とは、裏を返せば続けなければ意味が無いということですから」

 

「なるほど……そういえば、前回の選抜レースも出走したって聞いたけど、その時もあの走り方だったってことかな? 生憎前回の選抜レースの頃は研修とかで手一杯で、見学もできてないんだ」

 

「もちろん。練習とはその為にするものでしょう?」

 

「ふむ……そう、か……」

 

彼女本人の確認をとれたことで、自分の解答がより強固になっていく。だとすると、もしかして……

 

「おやおや、考え込んでいますね……質問の解答は、期限ではなく受付の開始が明日の選抜レースの後なのですから、焦らずとも良いのですよ?」

 

「ん? あれ、意外だな」

 

「……何がでしょう?」

 

「私が考えているのはそっちじゃないよ。だってもう、答え自体はわかったから。君の察しの良さも絶対じゃないんだね」

 

「――――……」

 

目をまんまるにして驚くカフェ。私が言ったことが心底予想外だったらしい。いつも飄々としているイメージだったから、年相応の様子を見られたことが少し嬉しかった。

 

「……では、今は一体何を考え込んでいると?」

 

「あの質問をしてきた意図について。いや、そもそもあの質問がなんでこちらの見極め足り得るのか……についてかな。だって、隠すようなことでもないでしょ?」

 

「……本当に、わかっている……のですか?」

 

信じられない、と口ほどに訴える表情を浮かべるカフェ。そこまで意外なことなのだろうか。いや、よく考えればこんなに早く答えに至れたのはカフェを知る人たちから多くの情報を得られたからだ。本当なら昨日の今日でいきなり辿り着けることではないのだろう。運の良さと人脈の大切さを噛み締めつつ、最後の疑問を解消するため、肝となる質問をこちらから投げかける。

 

「まあ、答え合わせは後にとっておくとして。契約もしてないトレーナーには答えづらいかもしれないけど、一つ質問したいんだ」

 

「……私に答えられることであれば、できる限り応えましょう」

 

昨日とは異なり、カフェの方が張り詰めた心持ちで自分への質問に耳を澄ましている。対する私は何を気負うこともなく先ほどまでと同じようにその疑問を口にした。

 

「爪か膝か、脚のどこかが弱かったりする?」

 

そう、尋ねた瞬間。

 

突如、彼女の表情が抜け落ち、辺りに静けさが満ちる。

人が無意識のうちに形作る普段の顔すらもデリートされたかのような能面でこちらを見つめ返しているマンハッタンカフェにギョッとする。

もしかして彼女にとっての地雷を踏む質問だったのだろうか……そう不安に思いながら、じっと彼女の動向を観察して待っていた。すると、少し顔を俯けたかと思うと――

 

「……ふ、うふふ……アハハハハ!」

 

「えっ。ええ、と……?」

 

今度は、肩を振るわせお腹を抱えて笑い出した。目尻にはうっすら涙も浮かんでいる。これまでの彼女の様子からは考えられないような仕草だが、突然笑われるのは本日二度目だったからか既視感もあり、さして驚くでもなく困惑するだけに留まった。やはりタキオンとカフェは似たもの同士だから惹かれあっているのだろうか……なんて頭の片隅で思いつつ、あたふたとかける言葉を探していると、

 

「おわぇっ!?」

 

マンハッタンカフェがぎゅっと抱きついてきた。変な声が出てしまった私を責められる人なんていないだろう。そもそも見ている人もいないだろうけれど。いない……よね? いたなら状況の説明が難しすぎて困ったことになる。

 

「あぁ……やっと見つけた。やっと見つかった……! 私の、私だけのトレーナーさん!」

 

胸あたりに顔を(うず)め、何かを呟くマンハッタンカフェ。感極まっているようだが、そこまで琴線に触れるようなことだったのだろうか。加減はされていると言えどかなり強い力で抱きしめるカフェの肩に恐る恐る手を置き、引き剥がそうとする。ウマ娘の力に対抗なんてできないので、離れてほしい気持ちを伝えるためと言う方が正しいが。

 

「え、ええと……ほら、あんまりくっつくのはよくないんじゃないかな? そ、そろそろ落ち着いた?」

 

「……スゥー……はい、落ち着きました。驚かせてしまいましたね、申し訳ありません」

 

気のせいでなければ、名残惜しそうにゆっくりと離れていく。今までに覚えのない類の焦りと不安からも解放され、いつの間にかかいていた額の冷や汗を拭った。が――

 

「さて、これからどうしましょうか。担当契約の紙は事務に行けば貰えますか?」

 

拭ったそばから汗が吹き出そうなことを言い出した。

 

「いや気が早くない!? まだ約束の質問の返答どころか選抜レースもしてないよ!?」

 

「おやおや。私としては今すぐ契約を結んでもいいのですが……」

 

昨日の質問なんてもはやどうでもいいと言外に匂わせるマンハッタンカフェに、むしろ私の方が約束を違えるのはいかがなものかと訴える。普通は選抜レースの結果を受けてウマ娘側もトレーナー側も吟味するのだ。それが絶対かというと、確かに選抜レースはアピールの場でしかないため、レースと関係のない時期に契約を交わす例も一般的ではある。あるが、選抜レースの直前に契約を結ぶなんて例は聞いたことすらない。

もしそうなった場合、レースは辞退することになるだろうが……

 

「おーっと、それは困るな。せっかくこの私が急遽申し込んで得た選抜レースの出場許可が、まるっきり無駄になってしまうじゃないか」

 

「……おや、おやおや……タキオンさん。こんなところで会うなんて珍しい……」

 

「えっ、タキオン?」

 

私とマンハッタンカフェの会話に割って入ってきたのは、妙ちきりんな身体発光の元凶たるあのアグネスタキオンだった。色々とツッコミどころの多いおかしな状況についていけなくなりそうになる。しかしこんな状況で思考を放棄する訳にも行かず、とりあえずタキオンに一つ一つ疑問をぶつけることで混乱を収めることにした。

 

「タキオンはどうしてここに来たの? こんな時間から自主練?」

 

「おいおい、自分が私の実験のため服薬したことを忘れたのかい? ここに足を運んだ理由は、狙い通りの作用が発現しているか確認するためだよ。ついでに選抜レースのことも伝えるつもりではあったが」

 

「トレーナーさんがここにいると、よく分かりましたね」

 

「ああ、どこにいても観察に行けるようGPS発信機を付けさせてもらったからね。特定は容易だったよ」

 

「嘘、いつの間に!?」

 

充電しなきゃだから返してもらうよ。と言いながら胸ポケットから分厚いカードのようなものを取り出すタキオン。本当にいつの間に仕込まれたのかさっぱりわからない。その身を持って思い知った要注意ウマ娘に今まで居場所を握られていたという事実が突き付けられ、収まりかけていた冷や汗が背筋を伝った。

 

「うんうん、ちゃんと発光しているね。いつからかは覚えているかい?」

 

発光自体タキオンの狙い通りなのか……と、釈然としない気持ちを抑えて腕時計に目をやり時間を確かめる。

 

「覚えてないけど、少なくともカフェと会った時には……ってそんなことより、タキオンも明日の選抜レースに出るの!?」

 

「そんなこととは酷いなァ。君やカフェにとってそちらの情報の方が大事だと理解は示せるが」

 

タキオンのしてきた仕打ちの方がよっぽど酷い。絶対に。

 

「タキオンさんは、選抜レースの参加要請やスカウトに一切応じないことで有名ですが……どうして今頃になって心変わりを起こしたのですか?」

 

「ふむ。当初は私とカフェのレースをこの新人君に見てもらうことで、少しでもカフェのトレーナーになる確率を高めようと画策していたのだが……」

 

その心配は無用となったようだね? そう言って物理的にも心理的にも距離の近くなったカフェと自分を見る。その思惑の全てがわかった訳ではないが、要するにタキオン自らカフェの素を引き出そうとした……のだろうか。なぜそこまでして私をカフェのトレーナーにしようとしているのかは依然謎のままだが、聞いても答えてはくれなさそうだ。

 

「であれば目的を変更するとしよう。明日の選抜レースでは、カフェ。君の本気を試させてもらうよ。」

 

「私の本気……ですか?」

 

「そうとも。この新人トレーナーという理解者を得た今、その仮面は脱ぎ捨ててしまっても構わないだろう? カフェの……いや。カフェとトレーナー君の可能性を、私に見せてくれたまえ!」

 

遥か彼方から見下ろすような視座のタキオン。その差し伸べられた手を一瞥し、マンハッタンカフェは毅然と挑戦を受け入れた。

 

「タキオンさんと競えるなら、喜んで。そちらこそ、私に退屈させないでくださいね?」

 

「当然だとも。超光速と謳われた実力を、君たちに味わわせてあげるよ!」

 

ここにいる全員が未だ日の目を見ていない未熟者。だというのに、その闘志と勝利への渇望は、明日のレースが白熱したものになることを雄弁に語っているのだった。

 

 

 

 

 

 

選抜レース。今まさに開催されようとしているそれは、有能なトレーナーを要するウマ娘と有望なウマ娘を欲するトレーナーのどちらにとっても重大なイベントである。

と言っても学園中の関係者が集まる一大イベントというほどではないのだが……今回はとある事情から、スカウトを終えたトレーナーや重賞レースで入着しているようなウマ娘すらも駆けつけるほどの注目を集めていた。

その事情とは――

 

「おい、今日配られた追加資料見たか!?」

「あのアグネスタキオンが……」

「GⅠウマ娘ばかり輩出してきた一族で最高傑作と謳われた、あの……」

「しかも自分から急に出走登録したって……」

「今回出走しないと退学との噂もあったが……」

 

もはや会場にいるトレーナーたちは、新人もベテランも関係なく一人のウマ娘の話題で持ちきりだった。

アグネスタキオン。私にとっては薬なんだか毒なんだかもはや分からない謎の液体を文字通り縛り付けて飲ませてくる危険なウマ娘という印象の方が強いが、もし本当に危険なだけのウマ娘だったならこうも有名にはなっていないだろう。その実力はかの生徒会長、シンボリルドルフにすら肉薄すると評す者や、デビューすれば三冠は確実と目する者すらいるほどだ。そんな人物像を伝え聞く者は自分を含め多くいるが、実際に彼女がターフで走っている姿を見た者はほとんどいない。噂だけが一人歩きしているのではと思っている者も決して少なくなかった。

その真偽が今、明かされようとしているのだ。神秘のヴェールに包まれた実力を一目見ようと集まった人で、会場は類を見ない盛況ぶりとなっていた。

その渦中、私が最も期待を寄せるのは――

 

「おやおや……誰も彼もタキオンさんの名を挙げてばかりですね、トレーナーさん」

 

「そうだね……ん!?なんでここにいるのカフェ!?」

 

「それはもちろん、トレーナーさんがここにいるからですが」

 

出会って間もない、しかし契約を結ぶことが決まりつつあるウマ娘であり、これから始まる選抜レースに出走予定のマンハッタンカフェが真横にいた。

 

「控えにいなくていいの?」

 

「他人の視線と焦点を理解すれば、少し抜け出すくらい問題足り得ません。それに(みな)、タキオンさんの動向ばかり気にしていますので」

 

それはつまり本来ここに居てはいけないということではないだろうか。心配しつつも、カフェが問題ないというのならそうなのだろうという観念の方が大きかった。腕時計の時間と手元の資料に目をやると、確かにカフェとタキオンの出走レースはまだ先だったので、もう少し会話を続けることにした。

 

「タキオンは大人しくしてるの?」

 

「大人しくはしていましたよ。いえ……タキオンさんが大人しくさせた、という方が適切でしょうか」

 

「……なんとなく想像はついたよ」

 

カフェの言葉を聞き、先ほどどこからか聞こえた爆発音を思い出す。選抜レースを控えているタキオンのことだから被害は出していないだろうが、それにしたって過激すぎやしないだろうか……

これ以上深く考えても仕方ないので、会いに来てくれたカフェのことを尋ねることにした。

 

「コンディションはどう? 昨日はよく眠れた?」

 

「ええ、就寝前と起床後のコーヒーをしっかり飲みましたから。昨日の特訓疲れは、爪先にだって残していません」

 

「寝る前にコーヒー飲んでもよく眠れるの……? まあ、しっかり休めたならいいか。杞憂だろうけど、過度な緊張のせいで実力が発揮できるか、不安だったりする?」

 

「ふふ……ご冗談を。たった学園中の衆目を浴びるだけのこと、どうということはありません」

 

「釈迦に説法だったかな」

 

私もカフェも、不安なんて一片もないと朗らかに笑う。

昨日までスカウトできるかどうかであんなに悩んでいたのが嘘のようだった。昨日とは一変しているという意味ではマンハッタンカフェもそうだ。今のカフェなら――

 

「マンハッタンカフェさーんっ、マンハッタンカフェさんは居ませんかー!?」

 

「おっと、もうそろそろ時間みたい」

 

選抜レース係員が少し焦りを帯びた大きな声で目の前のウマ娘を探していた。どうやらタイムリミットのようだ。

 

「おや……まだ猶予はあるはずですが、呼ばれてしまいましたか」

 

「黙って抜け出してきたんじゃ仕方ないと思うよ……それじゃ、いってらっしゃい」

 

「ええ、行ってきます。そして――

 栄光を手に、アナタの下へ帰ると誓いましょう」

 

 


 

 

ああ――体が軽い。

 

鎖も楔も断ち切ったばかりの獣のように、今すぐにでも走り出したい気分だった。

こんなにも気分が上擦っているのは、そう。昨夜のトレーナーさんとした特訓の時からだ。

宣戦布告を終えたタキオンさんが「早く研究と選抜レースに向けての調整をしなければ」と言い残し、いつもの部屋にさっさと帰って行った後。

私とトレーナーさんは、まだ余っていた時間を有効活用しようと、いわゆる秘密の特訓をすることにした。

 

「ふむ……あのタキオンさんが相手となれば、色々と事情が変わってきます。悠長なことは言っていられません。どうか、トレーナーさんの教えをいただけませんか」

 

「私の指導なんかでよければ、喜んで。まず答えの確認と行こうか」

 

トレーナーさんは、落ち着き払った自然体のままそう言った。これまでに誰も合格に達しなかったテストだというのに、トレーニング前の準備体操の如く気楽に。

 

「……『私はなぜ走るのか』。別に応答は選抜レースの後でも構いませんが」

 

「マンハッタンカフェというウマ娘を指導するなら避けて通れない確認事項だってことは、君が一番よくわかっているんじゃないかな?」

 

その発言が出る時点で合っているかどうかはもはや確認するまでもないが、それでは気が済まないらしい。ならば――

 

「ならば聞かせてください。トレーナーさんが思う、私の動機を」

 

期待と緊張で高鳴る鼓動と辺りの静けさは、まるで答えを促しているようで。

夕焼けと夜闇の境は、何かの区切りを表すようで。

私たちを取り囲む万象が、私とあの人を注視しているような気さえする中、あの人は言の葉を紡いだ。

 

「君は――走るという行為それ自体に価値を見出してはいない。その先にある勝利のために走っている。いや、『他人が欲してやまない価値あるソレ』を自分の実力で自分のものにしたくて、ひたすらそのために走っている。違うかな?」

 

その解答を聞き届け、目を瞑り、一呼吸。

瞼の裏の暗闇。

それを、再び色と光で塗り潰す。

滲む輪郭を定め直し、中心に佇むトレーナーに宣告を。

 

「……Completely(仰る通り)

 

ぱちぱちと。

掌を水平にして重ね合わせ拍手した。小刻みな震えを打ち消すように。

もしかしたらこの人なら、私のレースでの走りを見ればわかってくれるかもしれない。そんな淡い期待を悠々と超えた目の前のトレーナーに、惜しみない賞賛を贈る。

 

「まさか練習の様子を見ただけで、併走やレースで競う私を見る前に答えに行き着いてしまわれるとは……驚くより(ほか)ありません。素晴ラシイ……どうしてこの解答に至ったのか聞いても?」

 

するとトレーナーさんは視線を斜め上にやり、何か思い出すような仕草をする。どうやら何から話すか整理しているようだ。

 

「それじゃあ……まず、色々調査したりカフェ自身から聞いたりしてわかった、前提になる事実の確認をしようか。君は、ほとんどの他人に興味がない。そして選抜レースには既に出ているし、次に向けて黙々と日夜自主練習を行っている」

 

「相違ありません」

 

私が他人に関心がないことは、同級生か教官にでも聞けばすぐにわかることだろう。タキオンさんにまで辿り着いているトレーナーさんが知らないはずがない。選抜レースと練習については先程の質問で裏取りしていたことだ。

 

「これだけ聞いたら走ること自体が楽しくて仕方がない、レースを目一杯走れる場としか捉えていないウマ娘にも思えるけどね。そうじゃないのは練習の様子を見ればすぐ分かったよ。楽しそうとか面白そうなんて微塵も感じないほどひたすら真剣だったし、競う相手もいないのに差しか追い込みを想定した走り方だったしね」

 

「ふむ……なるほど」

 

ウマ娘は走ることに特化しているため、それ自体を目的としている生徒も多い。そういったウマ娘は逃げや先行の前方脚質を好む傾向がある。風を切る感覚や視界に映る景色が流麗で、それを長く感じていたいがために脚をためることが苦手なのだろう。最後に力を振り絞って全員抜き去る走り方が好きなウマ娘もいるが、そういったウマ娘がずっと一人で淡々と自主練を行うとは考えづらかった、とのこと。

 

「そうなると独りで練習し続ける目的がある。それこそがカフェが走る理由ってことだけど……タキオンからヒントを聞いた時、カフェの様子を思い出して仮説が浮かんだんだ。カフェは、ただただ勝利を得るために走っているのかもしれないって」

 

「ほう、ヒントに私の様子ですか。あのタキオンさんが素直に手助けするとは思えませんが、そんなにわかりやすいものだったのでしょうか?」

 

「タキオンからのヒントは、君が『酷く自分勝手でわがまま』だってこと。最初は何のことかと思ったんだけど、誰よりもレースを心待ちにしていたカフェと結びついてね。それでそうかもって」

 

「……私、そんなに選抜レースへの期待を表に出した記憶はないのですが」

 

トレーナーさんとのファーストコンタクト。短い間でタキオンさんにまで辿り着いたと分かった今日以降ならともかく、昨日の時点で期待できるかもと思えるはずもなく。特別な態度で接したり自分を開示した覚えはない。だというのに、この人は――

 

「タキオンがレースに出るって言ってきた今ほどじゃ無いけど、初対面でもワクワクしてたのが少し話しただけで伝わってきたよ? そもそもカフェに興味を持ったのはそれがきっかけだし。あ、カフェはほとんどの他人に興味がないけど、他人からの評価には過敏だったのもそう思った理由の一つだね」

 

どきり、と。芯を射抜いた言葉の衝撃が心臓に伝わり、一際血脈を活発にする。

 

「評価に過敏、とは……なんのことでしょう?」

 

「えっ、そのまんまだけど……人の感情を詳細に知ろうとしたり、勧誘してきたトレーナーにわざわざ自分のことを尋ねたりするのは、その人が自分をどう思っているのか気になるからでしょ?」

 

「……素晴ラシイ」

 

今まで誰にも見破られたことのない自分を、まるで暖簾をくぐるようにスルスルと言い当てていくトレーナーさん。その着眼点と推察に驚嘆の念を禁じ得なかった。

しかし、まだ。

 

「では、教えてください。その仮説が正しいと確信を抱いた根拠を。私のカラの綻びを」

 

まだ、足りない。眼前に佇む希望の具現は「それ以外あり得ない」と言わんばかりの確証を得ている。それはなぜなのか。

 

「ま、思い込みだって言われたらそれまでなんだけど……」

 

トレーナーさんは困ったように、恥ずかしがるように笑いながら事も無げに言った。

 

「目、だよ」

 

「目?」

 

「カフェの、最終直線を想定しているだろう時の目。想像上の仮想敵だろうと勝ちは譲れないって瞳。見つめているだけで火傷しそうなほどの暴力的で獰猛な熱が、勝利への執着が目に現れてた。昨日初めて見た時はそこまでわからなかったけど、今日もう一度見て確信したよ。君は実績のため入着以上なら良しとするような控えめなウマ娘じゃなく――

 一途に一着を目指し走るウマ娘だと」

 

断言するトレーナーさんの瞳の中。

中心に収まっている私はきっと、初めて満天の星を眺める幼子のようだったに違いない。

 

「そこまで分かれば、トレセン学園に入ってまで走ることにこだわっていること。選抜レースだろうとカフェが期待していたことから、自分や他人にとって価値のあるソレを自分の力で手に入れることが目的だって推測できる。私がトレーナーになった理由もほとんど同じだからね」

 

「……ああ……やはりアナタは、素晴ラシイ……」

 

もはや偽る必要もなくなったため、穏やかな仮面を脱ぎ捨て本心からの笑顔を浮かべる。私の勝利へのソレと同等の、目の前の人物への執着が反映された結果。ニィ、と三日月状に裂けた口が自然と言祝いだ。

 

「でも、だとすると疑問も付随してくる。そもそもこの質問がカフェにとって見極めになるのは、カフェが自身の熱情をまるで感じさせない冷静な振る舞いを練習中でも……先輩の言っていたことが正しいなら選抜レースであってもしていたからで、それはなぜなのか。勝ちたいって強い思いを押し殺して丁寧で窮屈そうな走り方をしていたのは、単に勝利のためしているんじゃなく、思うまま走ってはいけない理由があるんじゃないかと考えた」

 

「それで、『脚に問題を抱えているのでは?』という仮説を検証するために、直接私に質問したということですか……その慧眼、見事と言う他ありません。本当に素晴ラシイ……!」

 

これまで私にスカウトを持ちかけたトレーナーは全員、私が身につけた仮の走法を評価するばかりで、その走り方に至った理由どころか私のレースへの想いを察してくれる人すらいなかった。

それをこの人は成し遂げた。

たった一日で。

選抜レースを迎えることなく。実際に他者と走る姿を見ることすらなく。

思い描く理想のトレーナー。それを凌駕するような人が現れるなんて期待すらしていなかったというのに、現実が理想を超えるなんて! この時の私の感動を、喜悦を、どう表現したものか! 実際に高揚しただけ上昇していくのなら、きっと月の裏も見渡せるほどの激動を!

(へそ)の裏から立ち昇ってくるものを、どこかに吐き出したくてたまらなくなった。が、タキオンさんから(もたら)された目標を思い出し、押し留める。

現在の本題は既に解答の採点ではなく、その解答に基づきどうするか――受け取った挑戦状の処置を決めることだった。

 

だから、まず。

誰にも明かしたことのない自身の弱点を、惜しみなく開示した。

 

「私は、爪が非常に脆いんです。全力を出せば、たちまち(ひび)割れてしまいます……ですが、本気であろうと全力を出さなければあのタキオンさんには遠く及びません」

 

ウマ娘の体は非常に強力な力を持つ一方、その力に体が耐えられないのはよくあることだ。その代表例が地面からの反作用を受け止める脚の爪である。爪が弱いウマ娘は大抵負担の少ないダートレースがメインとなるが、現在のレースの主流は速度の出やすい芝のコース。だからこそ私は爪への負担を軽減する走り方を身につけた。しかし、それでは自他共に認める『超光速』には勝てはしないだろう。

 

「なるほど……なら――」

 

 

 

そうして私たちは二人で特訓した。選抜レースのために。今から始まるあのタキオンさんとのレースのために。

トレーナーさんは勝利へ続く道にいくつもの照明を灯してくれた。私一人では届かない場所も、あの人とならずっと先に行く事だってできるだろう――契約もまだだというのに、私もトレーナーさんも確信していた。この人が、この人こそが蒙を啓く人。願い焦がれたあの楽園へと連れて行ってくれる人だと。

レースに出走する動機は、変わらず他人を降して得られる悦楽のためのままだけれど。

 

勝利を目指すのは、そのためだけじゃない。

所詮は付け焼き刃でしかないなんて、誰にも言わせない。

新人よりベテランの指導の方がいいなんて、誰にも思わせない。

そのためにも、私は――

 

「各ウマ娘、ゲートに入りました。今一斉に――」

 

初めて全力で、アナタの為に走りましょう。

 

「スタート!!!」

 

 


 

 

走る。

 

 

『まずは念の為持って来てた、このネイルオイルとトップコートで君の爪のケアをしよう』

 

 

走る。

 

 

『こういうことの練習は欠かさなかったからそれなりに上手だと思うんだけど、どうかな』

 

 

走る。

 

 

『それじゃ、明日のレースの作戦を立てようか。タキオンの脚質は知ってる? 

――先行か差し、か。なら先行で来るだろうね。タキオンにとってカフェ以外のウマ娘は遅すぎるはずだから。それじゃカフェは差しで行こう。なるべくタキオンに悟られない位置どりができるとなお良し』

 

 

現況を把握しつつ、昨日の特訓を振り返りながら走る。

 

 

『カフェの全力はタキオンも知らないんでしょ? なら少しでも油断を誘うとしよう』

 

 

アグネスタキオンは今にも逃げのウマ娘を追い越しそうな位置でゴールを見据えている。そんな彼女の真後ろのウマ娘のさらに真後ろに来るように調整し、バ群に飲まれないよう最前に出られるラインを意識する。

 

 

『あとは、全力を出すことの苦手意識を払拭しよう。先にダートで全力を出したあと、爪の様子を見つつ芝でも走ってみようか』

 

 

最終曲線に入る。少しずつ遠心力に任せるように外へと膨らみつつ、それでも最前列のウマ娘との距離を縮めていくアグネスタキオンに近づいていく。

 

 

『うん、このネイルケアの相性は良いみたい。これなら、明日も最終直線の手前からなら全力で大丈夫。残る問題は、走法のスイッチングだね』

 

 

勝負の仕掛け時が迫る。既にバテ始めている周りのウマ娘に対しては最低限の注意だけに留め、アグネスタキオンの動向と各々の現在位置の把握に神経を集中する。

 

 

『うーん、実際に私が走るわけじゃないからアドバイスは難しいけど……カフェは走るとき常に冷静に自分と周りのことを察知するのが得意だよね? でも、その癖がちょっと邪魔しているみたい』

 

 

 

3。

 

 

 

『カフェが思っている以上に綺麗なフォームは体に染み付いてるから、明日のレース程度じゃ爪が割れることはないと思う。だから――』

 

 

 

2。

 

 

 

『最終直線の手前。タキオンがゴールだけを意識して周りへの注意を外すその瞬間が訪れたら、自分の体も周りの動向も全部頭から追い出す。そして――』

 

 

 

1――

 

 

 

 

『身体の隅まで、純粋な勝利への欲求で満たすんだ』

 

 

 

 

今。

 

 

 

 

今から数秒だけは、作戦も視線も貴賤も忘れ去り。

 

飢えた獣のように、渇きを潤すゴールへと。

 

もはや、横にいる誰かに目をやることもなく。

 

指標は一つ。

 

指令も一つ。

 

ただ、前へ。

 

 

目鼻の先の更に奥へ――

 

 


 

 

(ワアアアアァァァァァァアアアアアア!!!!!)

 

熱狂の中心にいるマンハッタンカフェに、誰よりも早く一目散に駆け寄る。

 

「カフェ!」

 

「……あ……トレーナー、さん……?」

 

ゴールの先で立ち尽くすカフェは、呆けた顔をこちらに向けた。落ち着き払った彼女とは対照的に、興奮冷めやらぬ私は追いつかない語彙で語りかける。

 

「すごい! すごいよ! とんでもない走りだった!」

 

「ええ、と……私……どうなったのでしょうか?」

 

「気づいてないの!?いや、ものすごい接戦だったから仕方ないのかもしれないけど……君は――勝ったんだ! あの、アグネスタキオンに!」

 

「え――」

 

私が指差した先に顔を向けるマンハッタンカフェ。その目線の先には着順を示す電光掲示板があり――一着にマンハッタンカフェ、クビ差の二着にアグネスタキオンの名が輝いていた。そして二着と三着の圧倒的な差が、このレースは二人の独擅場だったことを如実に表している。

 

「ああ、私――勝てたんですね」

 

噛み締めるように、掴んだ結果を繰り返した。まるですぐに飲み下すのは勿体無いからと、じっくり味わうように。

 

「そうとも。この私に二着という順位を押し付け、君は一着に輝いたのさ、カフェ」

 

「タキオンさん……」

 

小休憩を終えたタキオンも合流し、二人でカフェを讃える。敗北したはずのタキオンは悔しさを微塵も感じさせないほど清々しい顔つきだった。

 

「で、どうだい? 今の気分は。そろそろ結果を受容できただろう?」

 

「そうですね……ああ、本当に……これ以上ない、最高の気分です。そうとしか表せません」

 

最終直線で見せた暴力的なまでの威圧感は鳴りを顰め、これまでに見たことがないほど穏やかな雰囲気を纏うカフェ。そんな彼女の手助けが少しでもできたのなら、私も本望だ。

 

「でも、最高なのは今だけだよ」

 

「……? どういうことですか?」

 

「だって、これはまだ選抜レースじゃないか! カフェにはこんなところで満足なんかできなくなる、今の最高よりもっと最高の舞台が沢山あるんだから!」

 

「ククッ、そうだねえ。このトレーナーについて行くなら、尚更だ」

 

そう、マンハッタンカフェの歩みはまだ始まったばかり。その歩みの目指す先――未だに伝えていなかった私の夢を伝え、是非を問う。

 

「カフェ、君と――凱旋門賞の優勝を、あの世界の頂を掴み取りたい。カフェとならできるって確信してる」

 

私の夢。トレーナーになった理由。日本の誰も届いていない最強に、自分の担当バを座すことこそが身の丈に合わない究極の野望。それを託そうと思えるウマ娘に、こんなに早く出会えるなんて――少し前までちっとも思っていなかったけれど。

マンハッタンカフェは、特別だ。彼女となら……いや、彼女とでなければできない。

 

「まだ新人だから、大言壮語だって笑われても仕方がない。ベテランだって一笑に付されてもおかしくない。みんな目指す前に諦めてしまう夢を、栄光を、一緒に叶えたいんだ! ……どうかな?」

 

勢いに任せトレーナーになった理由でもある私の夢を言い放つ。ここに居るタキオンや他の出走者、私に遅れてスカウトのため駆け寄ろうとしているトレーナーを一切見ることなく。ただ一人、マンハッタンカフェを見つめて。

断られたらという心配がなかったと言えば嘘になるが、私の心臓が早鐘を打っているのは不安なんかのためでは無い。

きっと、カフェと出会い迎える未来を、祝福するためだった。

 

「……それが、トレーナーさんの夢……世界の頂……ああ、なんて甘美な響きでしょう」

 

目を細め、恍惚と、そして妖艶に笑うカフェ。その目に灯す光は、出会った頃よりずっと強くなっていた。

蒼く澄み渡る空に、満月が顔を覗かせている。

 

「契約成立、です。アナタの理想(ユメ)、私が現実にして魅せましょう。どうか末永くよろしくお願いします……私の、トレーナーさん?」

 

「こちらこそ! これからよろしく、カフェ!」

 

 

 

 

 

 

名だたる名馬を抑え、『日本総大将』と称された馬がいた。

幾度もの試練を乗り越え、『奇跡の名馬』と愛された馬がいた。

史上初の七冠を成し遂げ、『皇帝』と畏れられた馬がいた。

歴史に深い衝撃を残し、『最強』の座をほしいままにした馬がいた。

そんな近代競馬史に輝かしい成績を残した馬の名を挙げることは難しくない。

しかし、生涯ただの一度も黒星を得ることなく、無病息災のまま天寿を全うした馬はどこにもいない。

故に人は夢想した。もしも、あのレースで負けなければ。もしも、あの時怪我などしなければ。

 

――もしも、この手で導けたなら。

 

多くの想いが交錯した結果。ある世界にて、馬は人の形を成し、『ウマ娘』として新たな脚で駆け出した。

そこでは数多の奇跡が描かれる。史実を元にし、熱戦を再構築したアニメーションにコミックス。それらが人気を博したことで、遂に全く異なる道を歩ませることまでも可能となった。

故障により途絶えた道程の先を行くことも、一度たりとも勝てなかった史実を塗り替え天下無双とすることも、未だに人々が願い焦がれる世界一の大舞台を超えることすらも。

育て方一つでどんなレースだろうと一着に届く、そんな世界。

 

――ならば。

ならばきっと、そんな世界でさえ忘れられ、塗り替えられたウマ娘も。

史実を覆し、大敗を喫したレースであろうと勝てたはず。

これは、そんな想望から生まれた空想を綴ったもの。

もしもを語る世界のもしもの話。

一部から『原案』や『初期案』と呼ばれる、棄却された人物像。それを元にした美しい青鹿毛のウマ娘『マンハッタンカフェ』。

彼女とそのトレーナーが、成したかもしれない世界一――

 

『凱旋門賞』優勝に挑む物語だ。

 

 

 

 

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